体が小さくなり、世界も狭くなり、それでも満たされ日々を過ごしていた兵藤一誠だったが、それでもいくつか不便であると思うことがあるにはあった。彼は今、人間だ。戰場を駆けるワードックではなくなってしまった。おかげで出来ていたことが著しく出来なくなっている。それが小さな幼児となっていることが拍車をかけていた。記憶の中の自分と現状の自分との区別を曖昧にしていると、歩調がズレて、感覚が麻痺し、バランスを保てなくなる。周りからは、子供ゆえの転び癖なのだと勝手に解釈されていたが、とうの本人からしたら、うまく歯車の噛み合わない入れ物に入れられたかのように、あまり気分の良いものではない。思ったように体が動かないというのはいささかストレスでもあった。無論、自らの脚力のみで、ビルの群ゝを跳び廻ることが出来たという事と較べてしまうというのは些か無理があるというものだが。けれどもやはり、出来ていたという記憶は、長けれが長いほどに血肉となって体に馴染み、一度癖となってしまったものを変えるというのは、中々に難しいものである。普段唯歩く事にしても多少神経を張らないといけない。実に面倒だ。
だがどうやら、彼の他にもう一人、動きたいのに動けず、理由は彼とは違うにせよ、その体にたまるストレスのベクトルは同じようだった。それは彼が一人公園で陽の光にあたってほのぼのと時間を過ごそうと思い立った時である。木製のひんやりとした、何処かボロの目立つベンチに座って目を瞑り、頬を撫ぜる風を感じていると、足先に小さく触れる感触がした。当然のようになんだろうかと目を開けてみると、至って典型的な白と黒の五角形で出来たサッカーボールがあった。それを彼は拾い上げると、近くによってきた者に対して視線を移す。可愛らしい少女だ。長いブロンドをツインテールにしている。顔つきは本来快活そうなものだが、何処か我慢するように唇をきゅっとしめて、おずおずと彼の前に立っていた。彼女は小さな声で、ボールを返してくれませんか、そう言った。細い両腕をほんのちょっぴり伸ばして彼に向ける。彼はそのボールを渡すことになんら抵抗もなにもないが、しかし疑問は彼の中にあった。ボールは確かに一人遊びが出来るものだが、彼女はボールで一人遊びをするために公園に来ているのか、ちらりと赤い目を彼女の後ろに移すが、皆、少女の事を気にする事無く、各々が小さなまとまりとなって遊んでいる。彼はボールを、伸ばされた彼女の手の上に返してやった。彼女はお辞儀をすると若干逃げるようにして彼から離れていった。彼はもう一度ベンチに座る。そして今度は目を瞑らずに、公園の隅っこで、壁に一人ボールを蹴り続ける彼女を見ていた。日が暮れて子どもたちが家に帰っていく時間になるまで、彼女はずっと一人で遊んでいた。カサついた枯れ葉がたった一枚だけ空に漂うように弱々しく物悲しいような雰囲気があった。
彼は次の日も公園にいた。昨日よりも早く公園のベンチに座って公園全体を見ていた。彼女がやってくる。またサッカーボールを持って。儚い気色があるというのに、果敢にというのか、公園にとやって来る子どもたちの輪の中、特に男の子のグループのところに行っては一緒に遊ばないかと話しかけているようではあった。けれどもどのグループに行っても彼女は煙たがられた。ある一人の腕白小僧が声高に突っぱねた。お前みたいに女の子なのに俺たちの中に入って来るような男女とはあそばねぇよ、と。彼女はしょんぼりとして、また昨日と同じ壁の前にやってきてはポンポンとボールを蹴っている。他のボールを扱っている子どもと比べていると、壁に蹴っているだけとはいえ、どうやら彼女のほうが一つも二つもボールの扱いが上手いように見て取れた。なるほど、これも原因の一つか、と大尉は呟くように心の中で言った。彼は沈黙を背に背負ってゆっくりと彼女に近づく。それに彼女も気がついた。壁から跳ね返ってくるボールが、彼女に受け止められずに彼の前で止まる。彼はそのボールを持ち上げ、ちらりと彼女の方に視線を送ると、彼女が一人で遊んでいたのを真似するように壁に向かってボールを蹴ってみる。あらぬ方向へ飛んでいってしまった。上手くいくと何故か思っていたゆえに、上手くいかなかったことが不思議なのか、小首をかしげて転がってゆくボールを見つめる。ボールを追って小走りに追いかけてはまた彼女の隣にやってきて壁に打ち込んでみる。少し、軌道が修正された。でも彼女に比べて下手だ。また小首をかしげる。唐突にやってきた彼に対して、彼女は終始ぽかんとした顔をして彼を眺めていた。だが漸くにして、彼が不器用ながらに一緒に遊ぼうとしているのだと気づくと、顔に、燦爛と輝く笑顔を灯して、首をかしげながらにしてボールを蹴り続ける彼に歩み寄った。彼女はお手本を見せてあげるといって、彼からボールを受け取ると、蹴ってみせる。彼は彼女が行う体の動きを隅から隅まで観察していた。遠くからだとわかりにくかったことも、近くで見ればいかに体がどう動いているのかよく分かる。彼は指先でトントンと彼女の肩をたたいた。彼女は彼の様子から酷く無口なのだと読み取って、彼なりのコミュニケーションに自分なりの解釈を加えながら応えていった。もう一度、彼がボールを蹴る。中心を捉え、無駄なく力を加えてボールは最初に蹴った時よりもまっすぐに、それでいてとても早く、壁に届いた。彼はすっと、上手くいかなかったモヤつきがおりた。表情も行動も起こさず静かに喜ぶ彼に対して、彼女は自分のように大きく喜んでいた。この一件が、彼と彼女の遊びの関係が始まりだった。彼女は、今まで遊べなかった分、溜まっていた遊びへの欲求が弾けた。鉄砲のように走り回る追いかけっこを望んだり、誰よりも高い木に登ろうとしたり、自分を正義の味方にみたててヒーローごっこをやったり、ありとあらゆる行動的な遊びを彼に求め、彼も又それに答えた。動かせば動かすほどに、より動きやすくなっていく体が彼には面白かった。彼は生まれて初めて息切れというものを経験した。大量の汗をかいた。前の世界ではありえなかった。自分の体はこの人の体より強すぎた。だからこそ、出来ないことが出来るという喜びを彼は発見することが出来た。面白かった。唯ゝ面白かった。そして彼女は、例え一人から二人に変わっただけでも、共に遊ぶ事が出来るという感動が、毎日身体を満たしていた。毎日、彼と遊ぶことが幼いながらに生きがいのような物になっていた。彼と彼女はお互いに、お互いの為に、喜びを貪っていた。
幾日も過ぎた。それは一日から一ヶ月、そして一年に変わっていった。一年よりも更に時は進んで、彼と彼女は初めて出会った時よりも体つきが一つ大きくなった。遊ぶ幅がぐっと増えた。前よりもずっと体力もついた。けれども、ある日、彼女はいつもの快活な笑顔を、陰りの付いた悲しみの表情に変えて、初めて彼と彼女が出会ったあの日のベンチに座って、彼を待っていた。彼はあいも変わらず音をたてずに彼女の横に座った。二人とも黙っていた。彼と彼女が遊ぶようになってからも、周りの子供達の印象は変わらなかった。男女が変な奴と遊ぶようになった。いっそう不気味になった。その言葉を放つことによって満たされでもするのか、彼女が一人であった時よりも下等の言葉で彼らのことを罵った。しかしそんなことは二人とっては全く気にならなかった。彼女は表情を笑顔のまま変えず、彼は彼女の目をしっかりと見つめて、思いつく遊びのままに世界を繰り広げていった。そんな彼女が今、悲しそうな表情をしている。何故だろうか、彼は不思議でならなかった。沈黙は動かず固まっている二人の傍に暇そうに足をぶらつかせていた。彼女の悲しみは、雨の様に彼の肩をしとしとと濡らしていた。だとしても彼らは動かなかった。それを見ていられないかのように、ゆっくりと太陽は姿を隠し始めた。灼熱の残火を消して、冷ややかな暗闇が辺を包みだし、公園の中の人間が彼らを残して誰もいなくなった時。彼女の華奢な指先が、彼の袖口をキュッと掴んだ。彼は少女の顔を覗き込む。両目に、大粒の涙を溜めて、涙の代わりに言葉を零す。明日、日本を立つ、と。その言葉を皮切りに、女の子は彼の腕にしがみついて彼と別れることを拒む言葉とともに悲しみを流した。彼はそれを、受け止めた。この娘の悲しみを旅立ちに変えるために。そして彼の袖がぐっしょりと濡れた頃、彼は腕にしがみつく手よりも一回り大きな手で、やわらかなブロンドの頭を撫でた。潤んだ瞳が彼の目を捉え、同時に、脈うつ心臓が確かに、ひときわ大きく跳ねた。
ひょうどう、いっせい。また、あおう、いりな。また。
生まれて初めて、言葉が紡がれた。その初めてを、彼は目の前の楽しき日々をともに過ごした彼女に与えた。そして、彼は、優しく、優しく、小さく、僅かに、微笑んだ。
彼女、紫藤イリナは次の日、日本を立った、穏やかな笑顔で。
楽しんでいただけたのであれば幸いです