友達という友達もできぬまま、ただ日々を過ごしてきた一誠にも、実のところ全く相手にされなかったわけではなかった。ちょうど彼が小学五年生で一年も終わりに近づいた頃、彼を相手にしようとした者が一人だけいた。その頃彼は、授業と給食以外の全ての時間を図書室で費やすことにしていた。文字というものを習得して、それなりに自由に扱えるようになった時期故に、言葉と文章について、幾許かの好奇心が湧いた事をきっかけに、彼は本を読み漁るようになっていった。前世が前世だけにあまり読書をしてこなかったことがより本に没頭する原因になるのかもしれない。もとよりあまり口にして言葉を外に発する機会の乏しい彼は、よくよくのことが無い限り己の内にどんどんと言葉を貯めこんでいくわけであるから、頭の中の思考というのはいろんなことが渦巻いていた。感情豊かな鉄面皮ということだ。彼の一喜一憂の全てを理解するのは今の所、彼の両親以外にはいないだろう。それで困ることは、あるにはあるだろうが、人とのかかわり合いの薄い彼にしたら、そこまで問題があるわけでもないらしい。ただ、彼にとって無問題であっても、彼の両親からしたら、多少の心配の対象であることは、まぁ、言わずもがなである。よって彼は両親から、最低限の会話として、筆談をするようにと言われている。結局の所、現状、彼が会話する機会は彼が自ら動かなければないわけであって、筆談という手段を得てなお、事務的連絡等の会話以外はないのであるが。
学校の三階にある静かな図書室の中で、一人黙々と本を読む。ジャンルは問わず、本を選ぶときに目に止まったものを読む。あるときは小説、ある時は図鑑、ある時は自伝、なんでも読んで、何かを考えていた。そんな純粋に本を読む事を楽しんでいた彼ではあるが、いかんせんクラスで浮く存在であるかれはもちろん、学校全体でも多かれ少なかれ浮いている。完璧に日系の姿からかけ離れている彼は、日本の集団、特に物心つき始める小学校というある意味特殊な環境の中で、自ら動くことをしない彼は馴染むことが出来なかった。そんな彼が図書室の中に入ると、まず一回彼に視線が集まる。そして彼が本を選び終えて、何処か適当な席に座ると、同じテーブルを使っていた生徒達が、五分も経たずにそそくさと席を外していってしまう、その繰り返し。そんな中にいる彼は、それに対し気付かないわけもなく、最初こそ気にせずに本を読んでいたが、終いには一抹の罪悪感を抱くようになっていた。自分がここで読むと他の皆が読めない、自分自身本を読むことが好きなのに、それと同じ人が本を読めない、それはいけない、と考えたわけである。彼が行ったことは、人が殆ど座らない部屋の隅っこの一番窓から遠く、少し埃っぽい所にひとりぽつねんと座ることである。結果、だれも退出する人はいなくなったし、彼も気兼ねなく本を読むことができる。彼の孤立化は進んだが。
図書室の端っこでページを捲る彼を、一人だけ、熱心に見続ける者がいた。それが冒頭に示したものである。それは学校の生徒会長を努め、図書委員も兼ねた一人の少女だった。短く切りそろえられ黒髪に聡明な気色を持つ彼女は、彼が図書室に現れてから、ずっと心の内で難しい表情を浮かべていた。彼は、別段見ている限りでは何か悪いことをやっているわけでもない。 なのにどうして、皆は彼を避けるのだろうか。疑問だった。一ヶ月と経って、彼は図書室の端っこにいってしまって、それに皆は満足したようにしている。何故、何故なのか。彼も彼だ、どうしてこの様な状況を受けれ入れているのだ。少女は実らせたばかりの青い果実のような、若い正義感を心に満たして、その義憤が自らの内から爆発してしまわないように、彼女は彼女が出来る行動を実行することにした。彼がある時席を変えたように、彼女も又、何時も座っていた受付の席から、彼が読む場所に移したのだ。この行動は、多かれ少なかれ、他の生徒に波紋を与えたのは確かだった。
彼は彼女の行動に対して、訝しげな視線と、珍しい物を見るような視線の二つを向けた。その視線を受け止める彼女は、ムッとした顔をして、自分がここにいることに問題でもあるのかと言った視線で返す。無論彼女の胸の内で渦巻く正義の怒りは彼がわかるはずもないのだが。そんな彼は、経験のない目の前の事象について、彼なりの幾つかの考えをめぐらしてみたが、一向に彼女の意図する考えにはいたらない。行き着いたところは、誰かの罰ゲームで自分の目の前に座らされているのだろうと結論づけて、大変だなと、全くの見当違いなことを考えていた。そういった考えをするのも、一つの一端があるからだが。というのも、彼は以前、何処だったか、男性の知らない女性の怖い所特集などという物を読んだことがあった。目の前に居座る彼女も、あの特集の中にあったようなドロドロとした女性関係の中に居るのだろうと思った。なんだかずっと独りの自分のほうがよっぽど気楽なのかもしれないと思うと、なんとも言えないような気持ちになった。はて、かつていたあの少佐のもとにいた女性達も、あの当時は普通であったが、今この世界にいて暮らしていると、なるほど、あれは結構な異常者になるのか、と思い返す。ドロドロ通り過ごして気持ちいいくらいに破綻していた。そう思い返すからといって、別段嫌悪はないが、平和に浸ると、色んな所で比較対象が出てきて、面白いような驚くような。
特集といえば、そうだ、彼は薄くなっていたもう一つの記憶がハッキリとなったことを感じる。彼が特集を見た場所、それは母親が愛読している雑誌の中ではなかったか、そうか、母親も又、強かな世界の中にいるのか、確かに自分のような子供も何の苦もないような顔で育てるだけはあるな、と妙に達観したような考えになった。
彼女が彼の前に座るようになってから、幾日か過ぎた。何を理由にしろ、彼女が彼の前に座り続けることは変わること無く、彼も又、それを何というわけでもなしに受け入れ、二人一緒になにかしらの本を読み続けるという日々が過ぎる。苦痛ではなかった。嬉しいという気持ちが一日ごとに彼の身体に雫のように柔らかにしみていった。なんだかんだといって、相手が居ることは楽しい、例え相手と一言も話さないとしても。時たまちらりと彼女の方を見て、また本に目を落とす。その繰り返しがなんとも心地が良い。日に日に彼女の顔の強張りが解けていくのも面白いような可愛らしいような。彼女も彼の前に座りた当初より随分と軽い気持ちで彼の前に座れるようになっていた。今までこうまでして男の子と一緒に居続けようなんてこと思ってもいないし、改めて見ると、気恥ずかしいようなことをしている自分に、彼の知らないところで顔を赤らめたこともあったが、今では、ある意味家に居るよりもずっと静かな時間を過ごすことが出来るという、居心地の良さを感じていた。時たま彼が自分の事を確認しているということも、まるで自分がいないと安心しなくなっているなどと思い始めたら、姉心というのか、そういったものが働いて、嬉しいような気さえしてくる。自分を頼ってくれているようなそんな気分に。自然と二人の表情は柔らかくなって、そのテーブルには二人が居ることがあたり前の様に、学校の生徒達は思えてくる。いままで腫れ物の様な彼独りだったのが、二人に変わると何だか様になる。優雅なお嬢様に野性味あふれる下僕というのか、別のニュアンスで、他の生徒達は彼らに近づけなくなっていた。
そんな日々が続いて、一年が過ぎ、新年度に移り変わっていく時期になって、ふと慣れ親しんだ空気を自ら手放すように、彼はある言葉を彼女に投げかけた。こんな長く罰ゲームを続けさせられて、辛くはないのか、と。ぎこちない文字で書かれたメモ帳が、彼女の目の前に出される。初めての彼からのアプローチ、彼女もドキドキしながらその言葉を読む。読んで、理解できず、また読む。簡潔な一行、でも、彼女にとってその言葉は爆弾に等しい言葉であるのは、彼女の表情から察するに難くない。言葉を噛み砕いて、飲み込んで、理解した瞬間に、彼女は、自分の頭の中が真っ白になったような喪失感を感じた。半年にも満たない時間の中で、自分は彼に少なくとも頼られていると思っていた。それが、全てから回っていたというのか。馬鹿みたいに嬉しくなって、おねえちゃんぶって、でもそれら全てが、全てが間違ってて、。本当は何時も心配されてて、可哀想に思われてて。彼女は言いようもない悔しさと悲しさに襲われて、ぽかんとしている彼に一言浴びせてやりたい衝動に駆られるも、図書室の中で出来るわけもなく、一刻も早くこの場からいなくなってしまいたい気持ちに駆られて、両目をうるませなかがら、足早に、自分が持っていた本もそのままおいて、図書室の外に出て行ってしまった。彼も彼女問売ることに心地よさを感じていたのは同じであったはずなのに、互いに語らず黙するだけの関係が、あだとなって、意思疎通のままならぬままに、彼女はいってしまった。
彼は表情にも少し出るほどオロオロとしていた。彼が当初持っていた疑問を、打ち解けたと思ったからこそ彼女に出したが、彼女は彼が何故かを理解する事もできない内に出て行ってしまった。そして、子供どうしとはいえ、彼はこれで、女の子を泣かせたのは三度目だ。女の子を泣かせるような男にはなるなと、よく父親に言われていた。でも泣かせたのはこれで三度目だ。イリナの時はまだ理由はわかった、だが今回を含め二回も理由もわからず女の子に泣かれてしまっている。自分は女の子を泣かせる性質でも持っているのかと、彼らしくもなく、子供らしいといったらなんだが、困っていた。だが彼も行ってしまった彼女をそのままにするような男ではない。うろたえながらも、まず自分の読んでいた本を棚に戻して、彼女の本を図書委員の一人に渡して、自分も図書室を出る。けれどもどこへ行けばいい。図書室から出たところで彼女が其処で待っていてくれるはずもない。走って何処かへ行ってしまったのだろう。教室に戻ったのだろうか、しかし彼は彼女の教室などしらない。彼女がどこにいるか知らないかと、教員たちに聞こうとしても、彼は彼女の特徴しか知らない。それに彼女が女子トイレにこもってしまったならそれこそ手に負えない。だが立ち止まっているわけにもいかない。彼は、闇雲にでも探しだすことにした。とりあえず、自分の学年の所に、彼女がいた記憶はない、なら、上の学年かもしれない。彼は六年生のクラスを一つ一つ見て回った。どこにもいない。ならとりあえず目ぼしい場所を、手当たり次第に行くしかない。彼は走って探しまわった。階段を降りたり上がったり、色んな所を覗いてみたり、見つからなかったが。
彼は次は何処へ探しに行こうかと頭の中を巡らした。体育準備室、違う、図工室、違う、美術室、違う。思い当たりそうな所に行ってもいない、そろそろ授業の時間も近づいてる。さて、どうしたものかと廊下を歩いていると、ふと、後ろから声がかけられる。可愛らしいコロコロとした声。後ろを振り向くと、そこには同い年か少し上に見える、長髪を両サイドに纏めた女の子が、薄ら笑いを浮かべて、彼のことを見ていた。目の前の女の子は、小さく綻ぶように口を開いて、貴方の探している娘は、南館の屋上手前の踊り場にいることを伝えられた。彼女はいったい誰なのだろうか、なんでも知っているようなしたり顔を空気にさらして、見ぬくような鋭い視線で彼の眼の奥を見つめてくる。彼は例え其のような歪な少女が前にいるとしても、今なお泣きそうな顔をしているかもしれない、あの彼女のことを思えば、そっちを優先せねばと身体をうごかそうとした。一歩、彼の身体が少女を追い抜こうと動く。横をすり抜け、少女の髪が静かに揺らいで、彼の動きが止まる。しっかりと握られた袖口の手、振り払えそうもない力で、縫い付けられている。彼女が、ニッコリと笑みを深める。袖口を握る手はいつの間に彼の手首を強く握りしめていた。ぴりぴりとする空気、やけに鼓動が大きく聞こえる。少女は柔らかく、女の子を泣かせちゃだめだよ、という。そこから感じるのは純粋な怒り。あゝ、そうか、この少女は彼女の身内か、彼は気圧されることもなく考える。それは悪いことをした、泣かせてしまった、いや泣く一歩手前であってないてないかもしれないが。
彼は開いている方の手でポケットからメモ用紙を取り出す。少女はそれを見て、一応は掴んだ手をはなしてくれた。握られた手首はじんじんと熱を帯びている。彼はそのメモ用紙に、文字を書き入れる。言葉の載った切れ端を彼女に預ける。少女は少しだけ目を見開いて彼のことを見た。彼は小さくお辞儀をして、一言、いってきます、と言って駆けていった。少女はそれを見送りながら、いってらっしゃい、と呟いて、手の中の紙切れを、スカートのポケットの中にくしゃりと握りこんで入れた。彼は何物なのかしらね、なんて、そんなことを少女は呟くと、そこには何もいなかったかのように、誰も居ない空間が残されるのみだった。
教えられた場所に行くと、案の定、そこには彼女がいた。膝を駆けこむようにして、座ってる。泣いている時のすすり声は聞こえない。暗い雰囲気を方に背負って、埃が漂う踊り場のなかで自らを抑えこむように座っているのだ。彼は、唯、彼女の直ぐ横に座った。彼は自らが口下手だということを心得ている。上手くしゃべれない。だから、せめて、彼女の横にいよう。今までのように、せめて泣きつく相手が出来るようにと。
彼女は静かに顔を上げた。やるせない気持ちに満たされたその表情に薄っすらと涙を滲ませる視線で彼を見つめる。彼女は一言、何なんですか、そう漏らした。一度、口から漏れだした言葉はどんどんと、止めどなく流れていく。私が、どれだけ貴方が独りになることに怒っていたのかと、だからこそ貴方の前に座って、貴方を独りにしないように、それで、最初は硬かった雰囲気も柔らかくなったから、自分は受け入れられたんだと思って喜んで、それから、そして、色々な短い言葉が音として発せられる。怒っていて悲しんでいる声色が、強く辺に響いているように感じる。彼は、偏に、彼女の言葉を嬉しく受け入れた。暖かかった。彼はこんなにも、自分が思われていたとは思わなかった。彼女の気持ちを、罰ゲームで可哀想、などと考えていた自分を反省した。同時に、彼は、彼女も又、自分と同じく言葉に拙い者なのだと思った。それが何よりも、可愛らしく思えた。彼女は自分に言葉を投げた。だから、彼も心の中にある、暖かな感情を、言葉に変えて、投げてあげよう、そう思った。
最初はびっくりした。自分の周りには誰もいなくて、それが普通だと思ってた。不思議だった。直ぐ目の前に誰かがいるのは久しぶりだったから。罰ゲームか何かで、無理矢理自分の目の前にいさせられているんだろうと思った。初めて君が僕を見た時、君は何だか怒ったようだったから。でも、ずっと時間が過ぎて行くと、君が目の前に居ることが、普通になってた。そしたら、とても、安心、したんだ。直ぐ近くに、僕と同じく本を読んで楽しんでいる音がする。僕がページをめくればそれが君に聞こえる。君もページをめくって、其の音を僕が聞く。たまに笑って、たまにため息を漏らす。それが当たり前が凄く楽しく感じて、図書室に行く時間がずっとずっと楽しみになってた。だからこそ、不安になった。君に罰ゲームじゃないかって聞いた。誰も寄り付かないような僕から離れがほうが良いよって、言いたかったのかもしれない。罰ゲームじゃなくて、僕と本が読みたいからって、言って欲しかったのかもしれない。でもそれが君を泣かせちゃって、怒らせちゃった。反省してます。
彼は一つ、ペコリと頭を下げた。彼女は、少しだけ目を見開いて彼を見つめると、憑き物が落ちたようにすっきりとした顔をして、小さく咲う。彼は、顔をあげて彼女を見た。彼の顔も、小さく咲っていた。彼女は、似た者同士ですね、と言った。彼もうなずいて、うん、と言った。
私、支取蒼那、今更だけどね。
僕は、兵藤一誠、今だから、かな。
貴方って、喋れたのね。
うん、苦手だけど。
教室、戻ろっか。先生が心配してるかも。
そうだね、戻ろう。先生に怒られるかもしれないけど。
じゃあ、また明日、図書室でね。
また明日、図書室で。
二人は階段を降りて、教室に向かう。次の日も、其の次の日も、晴れ晴れとした気持ちで彼らは図書室で本を読んだ。たまに、お喋りもした。彼女は小学校を卒業して、中学校に進学した。彼も其の一年後に進学した。彼女とは別の中学校に。
いかがでしたでしょうか、楽しんでいただけたら、幸いでございます