それは、いつもの日常で   作:T・A・P

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それは、いつもの日常で

いつもの変わらない奉仕部の部室には、机の上に置かれたティーカップと湯のみからうっすらと立ち上る湯気に紅茶の香りと静寂が漂っていた。

 そんな静寂の中、一定間隔で本のページがめくられる音が聞こえてくる。

 比企谷八幡と雪ノ下雪乃は、いつものようにいつもの席の長机を挟んだ端と端で書籍に目を落として、来るかどうか分からない依頼人を待っていた。

数回ページがめくられる音が聞こえたあと、バラバラにめくられていた音がちょうど綺麗に重なって聞こえてきた。どうやら、偶然ページをめくるタイミングが重なったようだ。

「……ふふ」

 少し間が開いた後、静かな部室に雪ノ下の小さな笑い声が響いてきた。その声につられ、八幡も声こそ出していないものの口元が笑っていた。それが合図になったのか、二人はそろってそれぞれの前に置かれている紅茶を口にした。

「ふう……」

 八幡は先に湯のみから口を離し、満足したような表情を浮かべて小さく息を吐いた。その満足そうな八幡の表情を横目で見ながら、雪ノ下は少し嬉しそうな表情を浮かべ数回に分けて紅茶を口に含んだ。

 湯呑みを机の上に置き再び書籍に目を落とした八幡に続いて、雪ノ下もティーカップを机に置き読書に戻ろうとすると、タイミング良く雪ノ下の携帯が鳴りだした。着信音はすぐに鳴りやみ、雪ノ下は携帯を取り出してメールを確認した後、返信してすぐにしまった。

「どうした?」

「由比ヶ浜さんからよ。三浦さんたちと遊びに行くらしいわ」

「ああ、了解」

 顔を上げて雪ノ下に向けていた視線を書籍に戻し、再び文字列を追う作業に移っていた。

 そんな中、雪ノ下は読書に戻らず本を閉じて膝の上に置くと、横目で八幡チラチラと盗み見ながら少しそわそわし始めた。そわそわはじきにもじもじに変わり、何かしら頼みたいのにどうしても口に出せないような、そんなもどかしさを表現しているように見える。

 そんな雪ノ下の様子を八幡は気がついていない、訳は無く、しっかりと気がついている。しかし、気がつかないフリをしてそんな雪ノ下の様子を楽しんでいる。

 膝に置いた本に目を向けた後、すぐに目線だけで八幡を見る。そのあと、すぐに目線をティーカップに向け手を伸ばして一口紅茶を口に含む。口の中が潤ったのを確認し口を開こうとするが、やはりどこか恥ずかしいのか声を出す前に口は閉じられてしまう。

 諦めて読書に戻ろうと本を開くのだが、やはり諦めきれないのかすぐに本を閉じて横目で八幡を盗み見ていた。

 そしてようやく覚悟ができたのか決心がついたのか、完全に本を閉じて脇に置き、八幡の方へ顔を向けた。

「ひ、比企谷君。いつものをお願いできるかしら」

 そう、上から目線での口調であったが、その表情はどうにも表現ができないほどに嬉しそうであった。

 

 

 

 八幡はそんな雪ノ下の態度に苦笑しながら、書籍をしまうのと同時に鞄の中から袋に丁寧にしまってある櫛を取り出した。

 取り出した櫛は半月状の櫛で、京都の老舗で見るような上品で高貴な感じがする櫛だった。その櫛は光沢が無い木製で、深い色合いのシックな感じだからか男性である八幡が手にしていても違和感を抱く事が無く、逆にしっくりくるほど八幡の手になじんでおり似合っていた。

 雪ノ下はそんな八幡の態度に最初はムッとしていたが、鞄から櫛を取り出すのと同じタイミングで機嫌を直して自然な笑みを浮かべていた。

 嬉しくて八幡の方へ身を乗り出していた事に気がついた雪ノ下は、一度コホンと咳をして行儀よく椅子に座り直した。

その際、髪の毛が椅子の背もたれと背中の間で挟まらないように、髪の毛を背もたれの外側にたらしていた。

雪ノ下のその態度を見て、もう一度苦笑して八幡は座っていた椅子から立ち上がり雪ノ下の背後に回った。

「んじゃ、始めるぞ」

「ええ、よろしく頼むわ」

 長く美しい雪ノ下の黒髪を一房手にひらに乗せ、櫛を頭の上の方に差し入れゆっくりと梳かしはじめた。その手つきは優しく、櫛が髪に引っかからないよう気をつけ動かしていたが、雪ノ下の髪は初めから梳かしきっているかのように美しく、一本一本が絹みたいに綺麗だった。

 その感触が本当に心地いいのか、雪ノ下の表情は撫でられている猫のように緩みきっていて、完全に警戒心が失われていた。

 梳かしている八幡の方も髪をまとめている時に現れる雪ノ下のうなじに、少々ドキドキし見ないように見ないように、でも目を引かれながら手を動かしていた。

 

 八幡の持っている櫛は普通の櫛ではなく、つげ櫛と呼ばれる櫛である。

 つげ櫛とは、元から静電気を防止し切れ毛や枝毛になりにくく、髪の毛を整える際に髪の汚れやほこりを取る効果がある。

それに加え、つげ櫛に椿油を充分に染み込ませることにより、髪を梳かせば梳かすほど椿油が髪の毛先まで行きとどき、艶のある綺麗な髪になる。

当然のように櫛の手入れは必要で、つげ櫛の汚れを取り椿油を染み込ませなければならないが、こんな雪ノ下が見る事ができるのだから些細な労力だろう。

 

 

 

 事の始まりは、雪ノ下の誕生日だ。

 早い段階から小町に教えられた、もといい強制的に雪ノ下の誕生日に渡すプレゼントを考えていた時だ。

 ふと一冊の漫画を読んでいると、どこぞのキューティクルで毛フェチな探偵がつげ櫛のことを熱心に語っていた。一旦その漫画を脇に置き、暇つぶし機能付き目覚まし時計を手に取り、つげ櫛の事を検索し始めた。

 少しの間検索結果に目を通したあと、自分の財布の中身を確認して翌日の予定はきまったようだった。

 

「小町、ちょっと出てくるわ」

「いってらっしゃ~い。お兄ちゃん、ちゃんとしたプレゼント買わなきゃダメだよ」

「分かってるっつーの」

 八幡は寒い中、昨日のうちに調べておいた千葉県にあるつげ櫛専門店に向けて歩き始めた。

 運よく家からそこまで離れていない場所に、ひっそりとつげ櫛専門店が店を構えていた。その古めかしい店構えから少し気後れしそうになるが、意を決して店内に入るとそこには店一面に櫛と言う櫛が所狭しに並べられていた。

 八幡は店内の光景に圧倒されていたが、そこで帰ろうという思考は浮かんでこなかった。受けた圧倒感は来客を拒むモノではなく、専門店としてのプライドのようなモノだったようだ。

 そんな八幡に気がついたのか、店の奥から作務衣の上に半纏を着た一目で職人と分かる髭を生やした初老の男性が出てきた。

「どのような櫛をお求めかね」

「えっと、あの……つげ櫛って、ありますか?」

 つげ櫛専門店なのだからあるのは当然だ、店主はつげ櫛の種類や形状を聞いたのだが、少々ではないほどにテンパった八幡はそんな事を口に出してしまった。

 口に出してから、職人気質そうな店主がそんな当たり前な事を言ってしまった事で追い出されないかとおずおずと店主の方に目線を向けると、顎に手を添えて少し考えている様子を見せていた。

「ふむ、君は見るからに高校生くらいだろう。では、こちらで少々みつくろってみるとしよう」

 そう言って、店主は八幡に優しく笑いかけた。

「あ、ありがとうございます!」

 

 一通り店主の説明を受けながら、所狭しと並べられている店内のつげ櫛を見て回っていた。普段であればこのような状況は苦手な八幡なのであるが、店主の気質と年代的には祖父くらい離れている事が要因なのか息苦しいと感じてはいなかった。

気になった櫛を店主に聞きながら、自身の財布と相談して一つの櫛を手に取った。

「ほう、それを選ぶか。なるほど、なるほど」

 そんな八幡の様子を見て腕を組み、何かに納得して首を縦に振っていた。

「えっと、駄目でしたか?」

 不安そうな表情を浮かべ店主の方を向くと、感心した顔の店主が笑いかける。

「いやいや、その逆だ。その櫛は私の傑作の一つでね、やはり君は良い目を持っているようだね」

 お爺ちゃんが孫にするように、店主は八幡の頭に手を置いた。

 その後、いくつかあるつげ櫛用の椿油を選んでもらい購入した。

「え、値引きしてもらって良いんですか?」

「なに、私は君を気にいったからこそだ。それと、何かあれば私の店をひいきしてもらいたい」

その際、店主に気にいられ少々値引きしてもらい、帰りの電車賃がギリギリ作れたのは余談である。

 

 

 

 雪ノ下の誕生日は一月三日、しっかり冬休みであり三が日中であることから、休み明けに部室で雪ノ下の誕生会を行うことになった。

 その時には由比ヶ浜と一緒に選んだPC用のメガネをプレゼントし、後で店主に教えてもらった方法で椿油を染み込ませたつげ櫛と椿油のセットをしようとしていた。

 しかし、PC用のメガネは渡す事ができたが、三浦の依頼を受ける事となりどうにも渡す事ができず、鞄の隅をひっそりと占領する事となった。

 ようやく依頼が片付く頃になったのは、本来の誕生日からかなり過ぎていた。そこまで日が開いてしまうとさすがに渡しにくくなり、八幡も本当にどうしようか迷っていたがとりあえずその日の奉仕部の活動のために部室に行くと、いつものように雪ノ下がいつもの席に座っていた。

「うっす」

「遅かったわね」

「飲み物を買ってたんだよ」

「そう」

 そう、雪ノ下は読書に戻った。八幡も鞄を置きいつもの席に座り書籍を取り出そうと鞄を開けるとつげ櫛が目に入った。鞄を開けたままの恰好で動きを止め、どうしようか迷っていると目ざとく雪ノ下はそんな八幡の様子に気がついた。

「比企谷君、何か忘れ物でもしたのかしら?

全く、あなたはいつも物忘れをしているわね、物忘れ谷君。

 一つ一つしっかりと確認すれば、忘れ物をすることは無いことさえ忘れてしまったのかしら。本当にどうしようもなく……」

 雪ノ下が嬉々として八幡を罵倒していると、タイミング良く、いや、タイミング悪く雪ノ下の携帯が鳴り始めた。

 罵倒を中断されて少し不満げに携帯を確認すると、短い返信用のメールを書いてすぐに携帯をしまった。

「どうした?」

「由比ヶ浜さんからよ。今日は三浦さんたちと遊びに行くらしいわ」

「そうか」

「そうよ」

 どうやら中断されたことで罵倒する気が削がれたのか、読書に戻るべく閉じていた本を開いた。

 八幡は由比ヶ浜が来ないことで少し背中を押されたのか、鞄の中からつげ櫛が入った袋を取り出した。

「なぁ、雪ノ下」

「何かしら」

 雪ノ下は顔を上げ、八幡の方へ顔を向ける。

「結構遅れたが、誕生日、おめでとう」

 唐突に付きだされた袋に戸惑い受け取るかどうか迷っていたが、結局受け取り袋の中から丁寧にしまわれているつげ櫛を取り出した。

「これは、櫛、かしら」

「ああ、つげ櫛って言ってな、その、なんだ、髪に良い櫛みたいだからお前にピッタリかと思ったんだが」

「そう……」

 櫛に目を向ける雪ノ下の口元は少し笑っていたが、八幡はそっぽを向いていたので気がつく事ができなかった。

「……比企谷君、これで私の髪を梳かしてくれるかしら」

「……は? おい、ちょっとまて」

「いいえ、待たないわ。そもそも、あなたのプレゼントでしょ? それに、櫛は使ってみて初めて分かる物よ。だから、プレゼントしたあなたが使って見せてくれるかしら」

「いやいや、そうじゃねぇよ。俺がお前の髪を触っていいのかって言ってんだよ」

 人間、頭や髪を触られる事はかなり抵抗がある。

「私が良いと言っているのだから、さっさとやってもらえるかしら」

「ったく、分かったよ」

 八幡は立ち上がり雪ノ下から櫛を受け取って雪ノ下の後ろに回り、雪ノ下は背もたれの外に髪を下ろした。

「んじゃ、やるぞ」

 そう言って、八幡は恐る恐る一房掴み櫛を差し入れてスッと櫛を滑らせた。同時に雪ノ下はビクッと瞬間的ではあるが体に力を入れ、八幡はそれを感じて櫛を止めた。

「だ、大丈夫よ続けなさい」

「なんで上から目線なんだよ」

 そう文句を言うものの、八幡はさっき以上に優しく髪を梳き始めた。

 一梳きするたびに、雪ノ下の表情が溶けてきていた。そのまま静かに八幡は髪を梳き、雪ノ下は髪を梳かれていた。

 一通り梳き終り八幡は櫛を渡そうと雪ノ下の正面に回ると、危機感も警戒心も無くなった雪ノ下の顔がそこにあった。その顔に八幡が見とれていると、ようやく我に返った雪ノ下は表情を戻し誤魔化すためにコホンと咳をついた。

「比企谷君、これはあなたが持っていてくれるかしら」

「いや、お前にプレゼントしたんだが」

「だからよ。私はあなたに持っていてほしいの」

 そう言って、雪ノ下は自分の髪を触りながら、

「あなたに、髪を梳いてほしいのよ」

 少し、顔を赤らめながらそんな事を口にした。

「お、おう」

 八幡も少々顔を赤くして答えた。

 

 

 由比ヶ浜が来ない日はこうして、八幡は雪ノ下の髪を梳いている。

「雪ノ下、終わったぞ」

「…………スゥ」

「ったく」

 毎回、気持ちいいのか最後には雪ノ下が眠って部活は終わる事になる。そして、毎回八幡は自分の椅子を横につけて寝ている雪ノ下が倒れないように支えている。

「おやすみ、雪ノ下」

 そう、優しい声を寝ている雪ノ下にかけるのもいつもの日常。

 二人の関係はこの先変わることがあるだろう、だがこの光景だけは変わることなくそこに在り続けていくだろうと思いながら、

 

 

「……結婚したい」

 これもまた日常

 


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