東方ギャザリング   作:roisin

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『pixiv』で『めくめくろう』様が『東方ギャザリング』の31話を描いて下さいました。こちらのお話の最後に、掲載致しました。
 この場を借りてではありますが、お礼申し上げます。
 大変嬉しく思います。ありがとうございました。



31 一方の大和の国

 

 

 

 

 

 澄んだ声が、冷たく乾いた空へと広がってゆく。

 太陽が地平線から顔を出し、さて、これから登ろうか、という時刻。

 音源は一つではなく、五十、六十と、仕舞いには、百に届くであろう数が聞こえてきた。

 それぞれが、老若男女問わず、同じ内容の言葉を口にする。

 

「「「ににんがしー。にさんがろくー。にしがはちー」」」

 

 木枯らし吹く季節に木霊する、数え歌の一種。

 それは、とある神に仕えている全身を白い衣で着飾った者が発端であったとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 場所は変わり、声の音源からやや離れた、社の一角。

 いつものように幾人もの人々が頭を垂れ、いつもの光景が始まる。

 大広間に集まる凡そ三十程の人々。

 その視線の集まる場所に、二人の神が鎮座していた。

 中央には注連縄を背負った、僅かな笑みを湛えている八坂神奈子。

 その少し横の手前に、胡坐をかき瞑想するように両の目を閉じている洩矢諏訪子が。

 今日は月に一度の集会の日。

 各村から長が集まり、それぞれの近況報告を口にする。

『染物を作りたい』『田畑を活性化させる薬が欲しい』『開墾の技術を譲っていただけないか』云々。

 状況報告というよりも、むしろ、少しでも何かの技術や知識、文化を取り入れんが為の会議だとも言える。

 誰も彼もがこの度文化統合と相成った、洩矢の地の様々なノウハウを欲しての会議―――という名目の、話し合いでもあった。

 そして、その知識や技術の譲渡の有無を決定するのが、最近の彼女達の仕事である。

 

 

 

 

 

「んーっ! やっと終わったぁ!」

 

 小さな体をうんと伸ばし、拳を握り、両の手を空に突き出して伸びをする。

 肩が凝った、と体で表現する諏訪子に、神奈子が呆れた様に話し掛けた。

 

「最近のお前はいつもそれだな。始めの頃の、威厳と風格に満ちた態度は何処へやったのだ?」

 

 脳裏に映るのは、初めて出会った頃の凛とした態度。

 神の名に相応しい厳かな貫禄のある姿はなりを潜め、今ではあの九十九と接している時の状態で、神奈子と接するようになっていた。

 

「ちゃんとケジメはつけてるつもりだよ。私の信仰着実に増えて来てるの、神奈子なら分かるでしょ?」

 

 ならばこれで大丈夫。

 満足げな顔でそれを言い終えて、どうだ、とばかりに神奈子へと向き直る。

 

「確かに……な。態度で信仰の度合いがこうも変わるものなのか……ふむ……。あ、いや、お前はそちらよりも、今は別の信仰が育ってきていたのだったな」

 

 羨ましい限りだ。と、神奈子は羨望の念を含んだ、柔らかな笑みを浮かべる。

 

 ―――九十九がもたらしたものは、知識、技術、文化など、大小挙げてみれば数知れず。

 大概は概要すら曖昧なものが多かったが……それでも、そのどれもが今までのものとは一線を画く考えであった事は、疑うべくも無い。

 間接的だけではなく、直接的にも、一瞬で大地を創造したり、様々な生物を駆使して開墾を行いながら、この国の―――諏訪子の為に尽くしていたのだ。

 今にしてもそうだ。

 外から聞こえてくる、“九九”と呼んでいた数え歌は、恐らく彼の名前が含まれている事から、当人が、独自の理論で構築したのだと神奈子は考えた。

 始めこそ暗記する内容の多さに、大和に住む誰もが呆気に取られたものだが、今ではそれを実践出来る者は、この国でも有数の行政者としてその手腕を振るってくれている。

 九九を活かそうと学び応用させる姿勢が、返って、それらの知識を吸収し反映させられる土台を保持していた人々の選別にもなっていたのは、それらを教えた彼にも、全くの想定外であった。

 一種の登竜門。九十九風に例えるのなら、採用試験と言えるだろう。

 そして、その能力を最大限に生かした演算装置“算盤”なる機器の導入で、恐らく大和の国は、この大陸でも上位の演算処理能力を誇る実力を身につけ始めていた。

 最初の方こそ、慣れぬ―――いや、初めての算盤の製作に悪戦苦闘していた九十九や職人達だったが、何とか完成には漕ぎ着けた。

 今は量産こそ出来ないものの、いずれは大和での特産品としての面も見込める。

 一抱えほどあるこの品は本来もっと小型なものなのだそうで、しかしそこまで小型にしたら使い難いだろう、と、現在の大きさを保って作り続けている。

 

 組織が大きくなればなるほどに重要となってくる、数字。

 それを、今までと比べれば圧倒的とも言える速度で処理出来ているというのだから、内心で笑いが止まらない。

 九九、算盤、そして、財務諸表―――決算書とあやつが呼んでいた、物事の損得を図にして表した方法。

 決算書はまだ私と諏訪子を含む数人しか会得していないが、それでも効果は絶大、と言ってもいいだろう。

 一瞬にして物事の損得が判別出来、しかも、それが分かり易い。

 神である我らにとっては大した事は無いが、人間達にはそれは何より有難く、目に見える形で自分達の成果を確認出来るというのは、万人に遍く伝えなければならない事への、答えの一つになっていた。

 文字にして数千を超えるであろう報告は、この書式を利用して作り上げた図で表せば、説明は簡単で、理解も早まるときたものだ。導入当初は、内心で諸手を挙げて歓迎してしまった程だ。

 凄いものだと賞賛してやると、『簿記三級だから』とよく分からない言葉を口にしていたが、理解に苦しむ言動は今に始まったことではないので、気にする必要は無い。

 すぐに効果が現れるものではないが、数年、数十年先では、きっと国一つが動くだけの資源を捻出している事だろう。

 それら効果も相まって、僅か一年程しか経過していないというのに、諏訪子は当然として、私自身にも、諏訪へ侵攻を仕掛けた時に予想していたよりも多くの信仰が蓄積されて来ているのが分かる。

 

 ―――そして、それを手中に収めたいと思うことに、何の疑問の余地があろう。 

 

「なぁ、諏訪子。やはりここは一つ、あの者は私が……」

「嫌」

 

 竹を割ったように、バッサと言葉を否定する。

 口調こそ明るいものの、そこにはしっかりとした拒絶の意思が現れていた。

 

「それに、九十九は私の家臣でも家来でも、ましてや下僕でも無い。ってのは、よく知ってるでしょうに」

「ん、まぁ……そうなんだがな……。お前の口添えでもあれば、変わるかと思ってな」

 

 神奈子は残念とも思えないような声色で、諦めの台詞を口にする。

 

「そういえば、あれからしばらく経つな」

 

 もう気分は変わったと。

 一緒に話題も変えて、神奈子は今ここに居ない者の姿を思い浮かべた。

 

「今頃は、○○○の村で宴を催しているのだろうな」

 

 遠くの地で行われているであろう宴を想像し、その内容に、思いを馳せる。

 羨ましい。

 口には出さないが、諏訪子は、神奈子の言葉の隅からその感情を感じとった。

 しかし、それについては彼女も同意するところであった。

 

「良いよねー。私達なんか、彼処ばった席じゃないと、宴なんて味わえないっていうのにさー」

「全くだ。それが嫌いとは言わんが……。出される品々が、あれではなぁ……」

 

 うんうんと同意するような、唸るような声を上げる、祟神の統括者。

 九十九が用意する至高とも言える料理の数々は、単調な味付けしか存在していなかったこの国において、まさに天にも昇ると比喩出来る品であった。

 必然、それを摂取し続けた事で、舌が肥えてしまった。

 以後のそれ以外の食事は、たいそう味気ないものになっていたのだ。

 先程まで会議をしていた面子がこの光景を見れば、威厳と威信に満ちたあの二人のギャップから、首を傾げ遠い目をするか、自動的に脳内から削除されかねない態度である。

 

「酒肴品だって、あれだけじゃあ、足りないよ」

「あやつめ……。しばらく離れるのを良い事に、手を抜いていたのではないか?」

 

『同感』と、諏訪子は意思を、声にする。

 しかし、この場に九十九が居たのなら、『(真空パックやら保存の効くものを)二ヶ月分は出しておいた筈だ!』と声を荒げて抗議していた事だろう。

 一応多めに見積もって用意はしておいたのだ彼だったが、結果、見事に読み間違えてしまったのだ。

 

 普段、彼女達が酒の席を催す場合、それは、一週間に一度程度のもの。

 だがそれは、疲れる九十九の顔を見たくない為に、頻度を落としていたの“でも”ある。

 故に、その気遣いストッパー兼、良心リミッターの彼―――というより勇丸か―――が、居なくなった場合、僅か数日で枯渇するのは、当然の流れと言えるだろう。

 我慢が効かず、九十九へ酒肴品を強請りに行こうとすると、さて、どうやって判断したのか。

 いつの間にか無言で佇む忠犬の眼光に、背筋を振るわせる日々が、幾日かあったのだ。彼女達には。

 そして、その外付け自制心機能・勇丸が、その役割を果たせない、となれば、結果は日を見るより明らか。

 

 ―――羽目を外した子供のように飲み食いする神々は、それはもう凄い状況だったらしい。

 村中に木霊する笑い声を耳にした者達は、口々にそう答えた。

 良くも悪くも、九十九は所詮、物事の尺度は人間であったのだから、たった1~2年一緒にいようと、神々の本来の自力など、そうそうに分かるはずも無いのだった。

 

「調味料くらいは残ってた筈だけど……」

「あぁ、味噌と醤油、だったか。あれは良いな。こう、魂を惹きつける何かを感じる」

「そうだね。ただ、私としては、餡子をもっと用意しておいて欲しかったんだけどなぁ」

「あれは保存が効かぬであろうに。もって、3~4日くらいか?」

「いやぁ、それがね。風味だけなら、お湯を注いでしばらく待てば味わえる……え~っと……ふりーずどらい……? だったかな……そんな名前のを貰ったことがあるんだ」

 

 そう言って、虚空に指で、漢字をなぞる。

 そこには、軌跡を辿れば達筆な“無印良品”の文字が、確かに浮かんでいた。

 

「何だそれは。乾燥させた餅のようなものか?」

「う~ん。よく分かんない。完全に水気を飛ばした食品……とか何とか。見た目は赤黒っぽい泥だけど、味や風味は餡子のそものだよ。水に溶かした餡子みたい」

「ふむ……。話を聞く限りでは、全く食指が動かん代物だな」

「私も始めはそうだったんだけど、『食わず嫌いは罰が当たりますよ!』って九十九に言われちゃって」

「馬鹿な事を。我らは当てる側であろうに」

「私もそうは言ったんだけど……。まぁ、あいつ、変な拘り持ってるじゃない? 仕方ないんで食べてみたんだけど……ありゃあ、悪くないね」

「ほう。お前が言うのなら、間違いはなさそうだ。今度、私も試してみるとしよう」

 

 本当、あれは何者なのだろう。

 神奈子は、胸に抱えていた疑問が、どんどん膨れ上がっていくのを実感していた。

 知性の神だとしても、何処か違和感が残り、言霊の神だとしても、やはり違和感が残る。

 どんな結論に辿り着こうと、決して疑問が解消する事は無いのだ。

 あの頃から些かも進展しない問いかけは、今日も今日として、一歩も前進せぬままに、また一歩、後退してしまうのであった。

 疑問に答えてくれるものは誰もおらず、募るばかりの想いに、湿気を含んだ吐息が漏れた。

 

 

 

 

 

「さ、て……」

 

 言葉短く、諏訪子は話を中断させた。

 

「気分転換には無かったかな?」

「ああ。国が大きくなれば、利益は勿論、不利益も増えるのは覚悟していたが……」

「うん、今までの奴らとは違うね。あれは……人間には、太刀打ち出来ない」

「そうだな。あれは―――鬼だ」

 

 二人の眼光が鋭くなる。

 見つめる先。社の壁のさらに奥。遥か彼方のその向こう。

 そこに、二神が見つめるものが居た。

 

「数は……三、かな」

「遠すぎて私も不明瞭だが、それで間違いは無いだろう。もう少し時間を掛ければ鮮明に分かるが……今は時間が惜しいな。力の程は―――準大妖怪ほどが一、中級の妖怪が一、……微塵の脅威も感じないものが一、か。ふん、この国に乗り込んでくるとは、豪気な―――いや、無謀な奴め」

「へぇ、そんなに詳しく分かるんだ。便利だねぇ、神奈子の能力」

「一長一短だ。私からしてみれば、お前の方が脅威を感じるがな」

「何言ってんのさ。一度は私を貫いた癖に」

 

 胸元をトントンと指差し、ニタリと不適な笑みを作る。

 それに呼応して、神奈子が薄く、口元を歪めた。

 

「お前の本質の一端は“怨”。それを前面に出さずに終えた勝負に、何の意味を見いだせと?」

「ん~、確かに、負けた後が私の本領発揮なんだけど……。今更、だよ」

「そうだな。今更、だな」

 

 もう、全て終わってしまった事だ。

『そうそう』と、気軽に諏訪子が返事をする。

 そうして、今までの朗らかな空気が全て四散していき、変わりに、神気が周囲へ埋まってゆく。

 

 

「―――それでは参ろうか。天の軍神よ」

「然り。大地に秘められし怨恨の力。存分に振るわれよ、祟り神の統括者」

 

 ――― 一体、誰が止められようか。

 この時代、この島国の人口が十万とも二十万とも言われる、この時に。

 実に十分の一、あるいはそれ以上を抱えている国の信仰の力。

 それを束ねる、天と地の神々を。

 霞のように空気に溶ける八坂神奈子と、崩れるように、床―――大地へと同化する洩矢諏訪子。

 一陣の風が、社の中を吹き抜ける。

 既にそこには、人っ子一人、存在するものでは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 影が三つ。

 大、中、小のそれらは、それぞれ進行方向準に、先頭から、小、大、中の順番で、獣道に近い山林を踏破してた。

 

「なぁ、勇丸よ。本当にこっちの道で良いのか?」

 

 そう答える大の影―――鬼の一角は、黙々と前を歩き続ける小の影―――白い猟犬、勇丸へと質問を投げ掛ける。

 しかし、それに答えなければならない相手は、チラとこちらを見ただけで、再び黙々と歩みを再開した。

 

「良いらしいな」

「そうなんかねぇ。おいらはもっと、愛想良く接したいんだが……ところで太郎よ」

「ん?」

「こう言っちゃなんだが、お前さん。疲れてないのか?」

 

 唐突な台詞だが、一角の疑問は最もだ。

 陸路の走破に最適な四肢を持つ勇丸は当然として、二足の一角は、鬼である為、殆ど疲れ知らず。

 しかし本来、二足は超距離の移動には、どちらかといえば不向きな方で、それをただの人間である彼に尋ねるのは、至極当然の流れであった。

 最も―――それを尋ねるのが、かなり遅かったという突っ込み箇所が、あるのだが。

 どうなんだ、と疑問を投げ掛ける一角に、中の影の者―――浦島太郎は答えた。

 

「あぁ。正直、いつぶっ倒れてもおかしくない」

「何!?」

 

 驚愕を露にする一角に、太郎はケロっとした顔で、返答をした。

 それはそうだ。

 方や無尽蔵とも言える体力を持つ、八咫鳥さえ落とした猟犬。

 方や理不尽の権化、妖怪のまとめ役である鬼。

 それに今の今まで付いてきた事の方が、賞賛に値する。

 

「ば、馬鹿野郎! だったら始めっから言えってんだ! 俺や勇丸だって、人間一人担ぐ事くらい訳無いってのは、分かってるだろ!?」

 

 一角は、慌てて太郎を地面へと座らせる。

 初めから座るつもりでも居たかのように、すとんと地面へと座り込んだ太郎は、反論する素振りすら見せない。

 表情は先程と変わらずに疲れは感じさせないが、あれは違う。と、一角は思う。

 

(ありゃあ、疲れで表情が固まっちまってるんだな……)

 

 疲れを表す表情すら浮けべられない程の疲労なのだと判断し、背負っていた水用の瓢箪から、彼に水を飲ませた。

 二メートルを超える男が、胸ほどもの身長の無い者に施しを与えるのは不思議な光景であったが、この場にいる誰もが、それに問いかける事はない。

 

 太郎の体力回復を図るべく、近場の木陰で休憩をする一同。

 人、犬、鬼と、第三者から見れば、どう表現したら良いものか悩む構成ではあったが、とうの彼らは至って暢気に、空を流れる雲と、風に揺れる木々の葉を眺めていた。

 

「あれから、何日経ったかな」

 

 しばらくして、ある程度の疲れが抜けたのか、太郎は誰に語りかけるでもなく、ぼそりと呟いた。

 

「あ~、今日で丁度、八日だ」

 

 一角がそれに答え、『そうか』太郎がと反応し、それっきり、互いにまた、無言に戻る。

 そう、八日。

 

 ―――それは、九十九が勇丸を置いて、消え去ってしまってから、の期間でもある。

 

 あれから、村中が騒然となった。

 消えてしまった九十九を探すべく、鬼と村人達が周囲を探そうとした。

 それを止めたのは、彼の一番の従者でもある、勇丸だった。

 一声吼えた後、動かず、無言を貫く猟犬に、誰もが近くにいた者達と顔を見合わせ、疑問を抱える事態になったのだ。

『何故、勇丸が捜索に動かないのか』

 この一点に尽きる疑問に。

 

 結果、それら疑問を置き去りにし、彼が元の場所―――大和の国へと戻ろうとしているのを察した者達が、代表を決め、事情を説明する為、同行する事と相成った訳である。

 鬼と人とのリーダー二人の同行という事態に、残る者達は不安の声を上げるものも居たが、代表とはそういうものだ、と、一角と太郎の両名は、口を揃えて言った。

 そうして旅を始めていく内に、この両名は、互いに、知人以上の間柄へと進展していたのは、余談である。

 

 

 

 

 

 そして、ここからが本題―――

 

『止まれ、そこの者共よ』

 

 厳かな声が、粛々と。

 大気を振るわせる神託が、辺りの獣や鳥のみならず、草木の一本に至るまで浸透し、世界はしんと静まり返る。

 一瞬の静寂は、しかし、我先にとその場から逃げ出す生物達によって打ち砕かれた。

 木枯らし吹き付ける森林を歩んでいた、二頭の鹿の親子が。

 これから来る季節への備えを万全にすべく働いていた狐達が。

 塒(ねぐら)を補強していた駒鳥の夫婦が。

 誰も彼もが、直感にも似た危機感を感じ、一目散に方々へと散っていった。

 

「―――穏やかじゃねぇな。太郎……」

「……すまねぇ、世話になる」

 

 震える足に活を入れ、何とか立ち上がった太郎は、一角の背後へと身を寄せる。

 ―――正確には、立ち上がった太郎を、一角が自身の背後へと誘導した、という流れではある。

 

「ほう、道中の昼食用にでも捕まえていたのかと思えば、何とも、摩訶不思議な光景よな」

 

 彼らの頭上。

 太陽を背にして、見えぬ神輿に胡坐で座るかの如く浮遊している、軍神が。

 

「―――だが、それ以上の進行は許さん。早々に立ち去るのなら良し。さもなくば……」

 

 彼らの正面。

 黒い水が、地面から柱となり湧き上がる。

 それは人の形を成したかと思えば、途端に色づき、一人の少女―――土着神の頂点に鎮座する者が現れ、神奈子の話の続きを、神気の篭った言霊と共に送った。

 

「―――その命。百度輪廻の輪を潜り抜けようとも、我が怨恨は尽きぬものと「わん!」知……れ……?」

 

 誰もが存在を忘れていた……否。視界に入らなかった者が、己を主張するように吼える。

 吼えた者には申し訳ないのだが、しょうがないのだ。

 他の同種と比較すれば巨体だとはいえ、横の大きさはさておき、縦の長さが不足している。

 特に、草木の生い茂る今この場においては、尚の事。

 

「いさ……まる……?」

「うん? どうした、諏訪……こ……」

 

 一陣の風。

 呆気に取られる、軍神と祟り神。

 訝しげに眉を寄せる、鬼と人間。

 飄々とした顔で佇む、純白の獣。

 さてこの場合、どう流れを作り出したら良いものか。

 この時の止まった空間が動き出すには、今しばらくの猶予が必要であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「勇丸……」

 

 足元へ擦り寄ってくる存在に、私は手を伸ばし、優しく頭を撫でる。

 普段ならばこのような行為には及ばない者なので、自然と、自分がどれだけ動揺しているのかが分かってしまう。

 頭上には、満天の月。

 社の縁側から覗く夜空は、いつもと変わらず、光り輝いていた。

 幾年経っても変わる事の無い光源に、安心するのと同時、その、ずっと居続けてくれると思っていた存在が消え去ってしまった事実が、些か以上に胸を締め付ける。

 

 ―――太郎と一角、そして勇丸から、九十九に何があったのかを聞いた。

 

 行く町を間違えてしまった事。

 そこで鬼と戦い、打ち負かした事。

 ―――そして、太郎を庇い、消え去ってしまったという事。

 

 本当に居なくなってしまった―――この世から―――のなら、勇丸がこうして、私と会っているというのはおかしい。

 つまり、この忠犬が認知出来ない、遥か彼方へと移動した、と考えるのが妥当だろう。

 あれから、私はすぐに自分の能力を限界まで使い、彼の行方を追った。

 陸続きであるところは全て確かめて、海で隔たった先からは、神奈子が調べてくれた。

 私の能力の使用によって、領地を侵略されたと勘違いした幾人かの神々と剣呑な関係になりかけたが、そこは神奈子が顔の広さを活かして、治めてくれた。

 だが、居ない。

 調べられるところは全て探り、後はこの大陸の外―――さらなる大陸である、中つ国や、その先にある、西洋の神々が支配する国々にも、手を伸ばそうかと思ったものだ。

 けれど、それを行ってしまえば、ここは戦火に巻き込まれる事になる。

 同じ大陸内でも、少し探りを入れただけで険悪な状況になったのだ。

 これが全く見ず知らずの相手ならば、こちらは命を賭しても飽き足らず、配下の下々達をも振り回してしまうだろう。

 

「ここに居たか」

 

 考え込んでいる内に、行事を終えた神奈子が、手に何か、月の光で輝いているものを握りながら、こちらに歩んで来た。

 

「それは……」

「なに、いざという時の為に、幾つか残しておいたのだがな。こういう時に開けるものだろう?」

 

 何かと思い凝視してみれば、彼女の手には、九十九が出したであろう、取って置きと思われる、酒瓶が見て取れた。

 

「酷いよ、神奈子。いつも『酒はお前が出せ』とか言ってる癖に。良いもの持ってるんじゃない」

「何を言う。お前は九十九からいつも出して貰っているだろう。一応、私はお前ほど九十九と親しい訳ではないからな。そう頻繁に酒は頼めん」

「……え~」

「『いつも宴会で頼んでいるだろう』という顔だな。あれは、お前が一緒に居るからだ。個人的な頼み事は、一度も無い」

「ありゃ、一度も?」

「そうだ」

 

 意外だ。

 何度も彼と接する機会があったというのに、まさかあの神奈子が、全く彼に強請っていない、というのは。

 

「この酒だって、あいつが自分から『今日は気分が良いから、高めの出すぜ』などと言って、私に押し付けてそのまま寝てしまったものだ。……あいつは何だかんだといって、我や大和の下々には、一定の壁を築いているからな。……諏訪の者達や、お前が羨ましい」

 

 何となく、それを裏付ける理由は思いあたる節がある。

 些細な事だ。

 酒を注ぐ順番であったり、一番に話し掛ける相手であったり、笑顔が多くなる席であったり。

 上手く隠しながら振舞ってはいるが、細かく見てみれば、それは如実に現れていた。

 

「ふむ……はやり諏訪の者達やお前、九十九を“ふるぼっこ”にしたのが不味かったか」

「おぉ、神奈子も九十九語、使うようになったんだね」

「気分だ。あいつの前で言い、きょとんとさせて驚かせるのは楽しいが、頻繁ではいかん。年に一度程度、と思いながら、酒の肴にしているよ」

 

 私の左隣に腰を落とし、胡坐を組む。

 それを見て、勇丸が席を外した。

 その事に、私も神奈子も何も思うところは無い。

 あいつはいつだって、こちらの雰囲気や場の流れを呼んで、いつの間にか最も適しているであろう行動を起こしている。

 本当、あいつは犬なのではなく、どこぞの神の依り代なのではないかと疑ってしまうほどであった。

 

「あの二人はどうした」

「一角と、太郎、だっけ」

 

 あぁ、と頷く神奈子が、こちらに寄越した杯に、酒を注ぐ。

 それを受け取り、唇を湿らせる感覚で、一口飲んだ。―――うん、美味しい。

 

「太郎は限界だったみたいで、社の一室で熟睡中。神気が多く集まる場所に寝かせておいたから、きっと明日の朝はピンピンしているよ」

「では、鬼の方は」

「それは―――」

 

 ミシリ、と。かなりの重量が、木製の床を鳴かせる。

 

「―――呼んだか?」

 

 ビリビリと、重低音を響かせながら、たった今話題に上がった者がぬるりと現れた。

 

「呼んじゃあいないけど、お前が今、どうしてるのかと思ってね」

 

 身長二メートルを超える巨漢。

 額から伸びた白銀にも似た輝きを持つ角が、月下に爛々と照らし出されていた。

 その手には、酒の肴である、木の実や穀物、海や川の幸が抱えられており、その後ろには、勇丸が控えていた。

 行動の早い事だ。彼が立ち去ってから、僅かの間しか経っていないというのに。

 

「こいつに頼まれて、酒の肴を持って来てみれば……。何だな、この国の主神達との会合に出くわすとは思わなかった」

 

 どかりと持ち物を床に置き、私の右に、神奈子と同様、胡坐をかいて、座り込む。

 左から、神奈子、私、勇丸に、一角と。

 神が二人、妖怪が一人、賢狼―――いや、犬だったか―――が一匹。

 一同に集まった顔ぶれに、変なものだという感想が沸き起こり、軽く笑いを誘う。

 大概のものならば、一緒にいるだけで尻込みする面子だと思うのだが、それを全く気にする風もなく、一角は、こちらの酒を強請る様に、自前の杯を掲げて来た。

 そして、それに反応した神奈子が、小さな、けれど良く透った声で、鬼に向かって話しかけた。

 

「図々しい奴だ―――まぁ、お前には慣れたものか。西の末鬼、ピンガーラ」

「……今の俺は、ただの“一角”だ。―――お前、何処でその名を知った」

 

 並みの者なら意識が途絶えてしまう眼力を、鬼が向けてきた。

 だが、生憎と、ここにはその程度で怯む存在など居ない。

 

「何、神奈子、こいつの事、知ってるの?」

「お前はもっと、神有月の出雲に顔を出せというに。……はぁ……まぁいい。数年前か。西の大陸の神々から連絡があってな。ある息子がそちらに向かっているかもしれない。見つけたら、戻るように……連れ戻すように動いてくれ、とな」

「それがこいつだって?」

 

 一角は、好きにしてくれ、と言わんばかりに、夜空を見上げて、こちらに壁を作り、隣に居た勇丸の頭を撫でる。

 だが、それはあまりお気に召さなかったらしく、とうの勇丸に軽く睨まれ、『あぁ、すまん』とその手を引っ込めた。

 少し不貞腐れた鬼の表情に、真新しさを発見しながら、私は神奈子の言葉に耳を傾けた。

 

「何でも『耐性ができる』、あるいは『二度と通用しない』という能力持ちだぞうでな。一度受けた攻撃は通らず、一度対処した攻撃は、二度と防げんそうだ」

「げ、なんだいそれ」

「その能力故に、立場の逆転を恐れた神々達が、半ば幽閉に近い形で閉じ込めていたそうなのだが……」

 

 神奈子が、ちらと一角に目を向ける。

 目線を向けられた、その鬼は、首を竦め、『そうだ』と肯定する仕草をしてみせた。

 

「力が発揮されるまでには、少し時間が掛かるんだけどな」

 

 そう言って、少し遠くに目線を送りながら、この鬼は、自らの経緯を話し出した。

 

「幽閉もそうなんだが、おっかぁが、二度と釈迦にさらわれるってのはごめんだ、って具合でな。生まれてこの方。幾年も、監禁生活よ。相当、おいらを失うのを恐れたんだろうな。……我ながら、可愛がられて育ったもんだから、能力の方が殆ど育たなくてよ」

「おっかぁ?」

 

 それに、釈迦? あの、天上天下、唯我独尊とか言いながら生まれらっていう?

 そんな事を考えながら、その『おっかぁ』とやらの事を訊ねてみると、

 

「あぁ……こっちじゃ、鬼子母神って名で通ってるんだったか」

「―――そりゃまた、九十九は面倒な相手を打ち負かしたもんだねぇ」

 

 最悪、鬼子母神が乗り込んできたかもしれない事態であった事に、私は背筋を凍らせた。

 齧った程度の話を真に受けるのなら、恐らくそいつには、私も神奈子も、負けはしないだろうが、太刀打ち出来るものではない。

 呆れ顔で呟く私に、一角はその時の光景を思い出したのか、口元を吊り上げて楽しそうに語り出した。

 

「ありゃあ凄い光景だった。確か、西洋の神に仕える僕……天使、っつったか。そいつらが唐突にわんさか出てきてよ。こっちの攻撃は通らねぇわ、気孔弾みたいなもんは撃ってるわで、てんやわんやってやつよ」

 

 体全体が振動するほどの大声で、隣の妖怪が笑い出す。

 五月蝿いったら、ありゃしない。

 けれどそんな迷惑も、外の下々には届かない。

 伊達に九十九との宴会を楽しむ為の、私と神奈子合作である、防音結界は整えていないのだ。

 しかし、天使と来たか。

 純白の鳥の羽を生やした者達だと聞いた事があるが、悪魔なり天使なり、それら対極の者を呼び出し使役しているあいつは、一体何の能力ならば、それを可能にするというのだろうか。

 神力とも、魔法とも、呪術とも、どれとも部類出来て、けれど、そのいずれも関連性が見出せない。

 神奈子ではないが、これでは私もゆくゆくは、あいつに事の真偽を問い質してみたくなるというものだ。

 

「本当、外界ってのは面白いな。いい加減、神界にも飽きたんで―――ごほんっ―――今まではおっかあの顔を立てるつもりで従って来たんだがな。数百年は長過ぎだろ。と、思った訳だ。それに、そろそろ親離れしねぇとな。……嘘は言ってねぇぞ」

 

 気にする位なら、言い直さなけりゃ良いのに。

 

「……で、こんな東の彼方の地まで来た、と?」

「ここには、おいらの種族が結構居るって聞いてな。いっちょ、それの頭になってみようかと思ってよ」

「……まぁ、こっちを害さない分には良いけどね」

「どうだろな。約束はできねぇ」

 

 全く、鬼って奴は。

 

「……はぁ。正直なのは良いけどさ。せめて口に出さない、って選択肢は無いのかい?」

「口に出さない。なんて、言ってないだけの嘘と変わらんだろ」

 

 なるほど、そういう考え方もあるな。と歓心していると、一角が、今の言葉に続きを足してきた。

 

「―――と、ついこの前の宴の席で、九十九に言われたんだがな。それを言われるまでは、おいらも、その選択肢ってやつを選んでたクチだ」

 

 面白いものが聞けた、と、神奈子の瞳に愉悦の色が混じる。

 

「いつの間にか、一丁前の口を効く様になったではないか。これなら、戻ってくる分には地方の領主か、千人隊長の地位でも与えられるかもしれんな」

「あぁ、そりゃ無理だ」

「―――ほう? それはまた、何故だ、と訊ねても?」

「だってなぁ……」

 

 楽しげな軍神の言葉に、一角は顔を顰めながら答えた。

 

「あいつその後に『ただし俺は例外な!』とか言って、すっげぇ自慢顔しながら思いっきり逃げの一手打ってたからな」

「えぇー……」

 

 カッコ悪過ぎだよ九十九……。

 溜め息と共に、私の中では、九十九に対する何かが幾つか零れていったような気がする。

 

「はははは! そうかそうか! 鬼に打ち勝ったというから、何かしら、一皮向けたのかと思えば!」

 

 堪らなく面白い。

 そう、大声で笑いを木霊させる神奈子に、少しだけではあるけれど、勇丸が尻尾と耳を垂れさせている。

 神奈子、少しは気にしてあげようよ。勇丸が可愛そう。

 九十九は……ま、別にいいか。

 

「―――しかし、何はともあれ、あいつは己の信条を守ったのか」

「……ん、まぁ、そういう事になるのかね」

「おいら達はボコボコにされたけどな」

 

 互いに、星空へと視線を向けた。

 本当、変な奴だ。

 私に妖怪だと啖呵を切り、神奈子に立ち向かい、、鬼と渡りをつけて、そして、それら気概を微塵も感じさせる事が無い。

 意識してそう見せているのだとすれば、天下一品の役者か大道芸人にでもなれるだろうが、多分、九十九は本当に、ただそんな威厳と気品に満ちた行動が出来ないだけだ。

 また、溜め息。けれど胸の奥から込み上げて来る温もりに、自然と笑みが零れる。

 

 ホント、なんでこんな奴を――――

 

 

 

 

 

 ―――突如、夜空が白く、瞬いた。

 

 

 

 

 

 

 星達の輝きとは全く違う。

 夜に太陽でも昇った様な光に、私達の誰もが息を呑み、その光源―――月へと視線を向けた。

 国の者達も気づいたようで、少しずつ、けれどそれは大きな波紋となって、人々に動揺と伝播させていっている。

 

「諏訪子」

「ああ」

 

 最大の警戒を以って、上空の月に意識を集中する。

 一瞬だけ見えた、光の柱。

 月からまっすぐこちらの大地へと伸びていたそれは、段々とその光を弱めながら、ついには夢か幻のように輪郭を失いながら、元の静かな夜へと溶けていった。

 かなりの距離であったというのに、否応なく、私達には分かる。

 肌を焼くような力の本流とでも呼ぶべき何かが、一瞬だけではあるが、私達を通り過ぎていった。

 この分ではこの地にいる者だけに留まらず、大陸に居る者は勿論、その外の国々ですら気づいた事だろう。

 

「おいおい……何だよありゃあ……」

 

 神奈子は既に、この場には居ない。

 この騒動を治めるべく、逸早く広場へと向かっていった。

 

「知らぬ。我はいつ事が起きてもいいよう、神気を巡らせる。妖怪たる汝には心地悪かろう。早めにこの地を去る事を奨めよう」

 

 自然、口調が過去のものへと。初期の頃に民達に望まれたものへと変調ていく。

 

「おいおい、おいらは鬼だが、住んでた場所は神界だそ。とっくに耐性は出来てらぁ。……というか、お前の気配はこっちが本当か。神気が数十倍も膨れ上がってるじゃねぇか」

「戯け。口調の変化如きで、我らを計るでない。どちらも本当の我の姿だ」

「あぁそうかい。あれか、平常“もーど”と戦闘“もーど”ってやつかい」

「……九十九か」

「あぁ、だが、“もーど”って言葉は、西洋の神々が統べていた土地での言葉の一つだ。それをあいつが広めたのか、元から使っていたのを使っているだけのかは、知らねぇがな」

「……ほんに、あやつは何者か分からぬ存在よな」

「全くだ。―――さて、一宿一飯、って訳じゃあねぇが、お前は九十九の“良い人”で、ここはあいつのお気に入りの場所だって言うじゃねぇか。友達の好だ。一つ、おいらも角を貸すぜ」

 

 一瞬、万人の声を余すことなく聞き入れている事の出来る、我が耳を疑った。

 

「九十九の……“良い人”、だと?」

「あぁ。九十九がな、お前に接吻されたのを、心底嬉しそうに、涙流しなら語ってたもんだから、てっきりそういうもんなのかと……。ん? 涙を流したのは違う理由だったか……?」

 

 むんむんと唸りながら、首を傾げる大男を尻目に、我は、異様な熱に浮かされる羽目になる。

 そうか……。九十九が、我の事を……。

 

「ははは―――うむ、やはりこの感覚は、心地良い」

 

 誰に聞かせるでもなく、自然に口から、思いが零れる。

 季節の一巡など、神たる我からすれば、刹那にも似た時間であるというのに、今はその刹那の中の刹那ですら、一日晩秋の思いに似て。

 我は―――私は、彼を好ましく思っている。

 その事実に、酷く心を掻き乱されながら、それがとても素晴らしいものだと確信出来た。

 

 

 

 

 

「民達は抑えて来た。また何か起きぬ限り、これ以上動揺する事は無いだろう。―――お前達、何をやっているのだ?」

 

 事を終えた神奈子が一角と勇丸、そして諏訪子の居る社へと戻ってみれば、低い唸り声を上げながら考え込む鬼と、目を大きく見開いて、何かに対して満足気な笑みを浮かべている諏訪子と。

 それらの出来事を全く意に返さず、一人で月を睨み―――否、見据えるように、観察し続けている、勇丸であった。

 

「なに。幸福を噛み締めていたところだ」

「こんな状況でか?」

「こんな状況で、さ」

 

 諏訪子は、既に神気を国中に展開し、いつ何が起きても良い様に準備は終えている様子だったが、若干何かに呆けている表情なのは、一体何があったというのか。

 疑問に思う神奈子であったが、それを訊ねるよりも早く、逆に諏訪子に疑問を投げ掛けられた。

 

「それで、そちらの方では何か判明したか?」

「全く。何も」

 

 神奈子が、成果を完結に述べた。

 少し眉をひそめる諏訪子であったが、彼女が分からないと言ったのだ。

 これ以上、何を聞いても、進展は無いだろうと、諏訪子は判断する。

 

「……そうか……一角、お前も唸ってないで、何か考えを述べてみよ」

「……ん? ……そうしたいのは山々なんだが、おいらもそこな軍神様と一緒さ。月で何かあった、位しか思いつく事はないな」

 

 言われ、先程と何一つ変わらず浮かんでいる天体に、彼ら三人は再び目線を向けた。

 数刻前と色褪せる事無く輝き続けている夜の太陽が、つい今し方の出来事を、まるで何かに化かされた印象を感じさせた。

 

「狐や狸の仕業……な訳はねぇか」

 

 鬼の呟きに、軍神が答える。

 

「幾人もの人間のみならず、我ら神や、大妖怪に部類されるお前を欺く力があるのなら、既に力関係は逆転している筈だ」

「その逆転の発端が、今の光景でったやもしれぬな」

 

 神奈子の言葉に、諏訪子が自分の考えを付け足した。

 しばらく考え込む皆だったが、やはり結論は出ないまま。

 お手上げだ、と言わんばかりに諏訪子の態度が崩れ、つい先程までの、親しみやすい空気を纏い直した。

 

「あ~、さっぱり分からないね。一角も神奈子もお手上げじゃあ、この国で分かりそうなのは誰も居ないじゃないか」

「困ったな……。そうだ。あまり遠くへ呼び掛けるのは出来ないが、他所の国の者達にも尋ねてみよう。この光景を見たのは我々だけでは無い筈だ」

「分かったら、おいらにも教えてくれ。そこから何か手繰れるかもしれねぇ」

 

 うむ、と頷く神奈子が、それを行おうと神気を纏う。

 自分もやるか。と、それに習って力を集中させる諏訪子に。

 

 

 

 ―――今まで沈黙を保っていた勇丸が、遠く、遥か遠くの、あの月にまで届きそうな遠吠えを発した。

 

 

 

 冷え切った夜空に響くその声は、何かを懐かしむような、誰かに呼びかけるような、そんな音色であった。

 神奈子も、諏訪子も、一角も。

 誰もが彼を、心の何処かで『この件では力にならないだろう』と割り切っていただけに、その彼の行動には、思わず息を呑むものがあった。

 

「勇丸、どうした」

 

 気高く吼える者の横に腰を落とし、一角は訊ねた。

 この鬼に犬である勇丸の言葉は分からないが、けれどそれが分かるものが、この場においては二人も居る。

 

「……居るって」

「あん?」

 

 か細く声にした土着神の言葉に、一角が懐疑の声を上げる。

 

「九十九が、あそこに居るって」

 

 そして、唯でさえ大きなその目を、はちきれんばかりに見開いた。

 

「あそこって……あの月に、か?」

「うん」

「だってお前……あそこは……」

 

 そこで、この鬼は、ふと疑問に思った。

 一体、あの月という空に浮かぶものは、何なのだろう、と。

 自分がこの世に生を受けて以来、ずっと変わらず、あそこに存在していたもの。

 そこにあり続けているものだったから、例え疑問に思ったとしても、大して追求する気など起きなかった。

 そんな場所に、あいつは居る。

 信じがたい事だが、誰よりもあいつを分かっているであろう、忠犬が、そう言うのだ。それは真実なのだろう。

 

「……思考が及ばぬな……一角、諏訪子、あそこには―――月とは一体、どのような場所であったか」

 

 それは、空に光り輝く星々に『あれは何?』と問い掛けているようなものだ。

 誰もがそれに疑問を持たず、仮に持ったとしても、本当にそれを調べるような物好きは、この場にいる誰もがそんな人物など知らない、と答えられる。

 この大陸―――島国では、兎とも。他の大陸では、棍棒を持つ人間とも、両の爪を振り上げる蟹が住んでいるとも言われているその優しく光り魔的に輝く存在は、誰もが幻想と信仰と様々な思いや考えを巡らせながら―――けれど誰もが、それを真剣に調べようとはしなかった。

 故に、分からない。

 文献などある筈もなく、それを調べる術も無い。

 当然……それを知っている者など、それこそ、あそこに住まう者達だけだろう。

 何かの生き物が居れば、の話ではあるが。

 

「そういえば……」

 

 神奈子はふと思い出した。

 

「過去の出雲の集会の折、愛宕の者や他の幾人かが、魂を天へと向かわせた事があった、と言っていた」

 

 その言葉に、諏訪子が反応する。

 

「天?」

「うむ。綿月の神々に呼ばれた、と言っていたが……」

「綿月……の神々? そんな同属居たけ?」

 

 一瞬眉間に皺を寄せ、神奈子は目を伏せる。

 

「……まぁお前は生まれてきたのは民達が営みを持つようになってからだったから、知らぬのも当然か」

「何だ、結構有名なのか?」

 

 そんな奴居かた、と一角が唸る。

 

「釈迦様やインドラ様辺りならばお詳しいだろう。かつて彼らと共にこの地に住まわれていたそうだが、かなり昔の話だそうだ。私も見た事は無い。時折我らをいずこへと呼び出している、とは聞くが―――」

 

 そう言って、神奈子は顔を上げて月を見据える。

 

「九十九……」

 

 黄金色の髪を持つ、小さき者の思いが零れる。

 泣くように木霊する純白の獣の声に重なって、その呟きは、煌びやかに瞬く星空へと消えていった。

 

 

【挿絵表示】

 

 


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