戦姫絶唱シンフォギア ~歪鏡に選ばれた少女~   作:きおう屋

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EPISODE 01 「始まりの序曲」

 与えられた部屋のベッドで真っ白なシーツを頭から被り、少女――詞世蛍(ことせ ほたる)は膝を抱えて震えていた。

 赤い瞳からは止めどなく涙が溢れ出た。泣き叫んだ喉は枯れ、掠れるような慟哭が口から溢れる。声にならない悲鳴を上げ続けた。

 そうしなければ、この悲しみに、この絶望に、飲み込まれてしまう。飲み込まれたら最後、きっと自分は戻ってこれない。それを直感で蛍は理解していた。だから、胸の奥から湧き上がるこの感情を吐き出す。涙が、声が枯れても吐き出し続ける。それが今の自分にできるたったひとつのことだと信じて。

 

 どうやら自分は両親に売られたらしい。

 

 少女がそれは理解したのは、体力の続く限り泣き叫び体力が尽きると泥のように眠るということを何度か繰り返した後だった。

 平々凡々な一般家庭に生まれた蛍は、両親に愛されて育ったと少なくとも自分ではそう思っていた。

 毎日温かなご飯を作ってくれた。休日には遊びに連れて行ってくれた。楽しい時は共に笑ってくれた。悲しい時は慰めてくれた。良いことをした時は褒めてくれた。悪いことをした時は叱ってくれた。11年という長い時間を一緒に過ごして、11年分の思い出がある。

 あの幸せだった日々は全て幻だったのだろうか。

 何故両親が自分を売ったのか分からなかった。愛されていたと思っていたのは間違いで、実は疎まれていたのだろうか。

 大好きな歌を歌っていた自分をその大きな手で撫でて褒めてくれた父。優しく抱きしめ陽だまりのような温かさで包んでくれた母。

 記憶にある両親の笑顔を思い浮かべた瞬間、心が最大級の悲鳴を上げた。

 ガチガチと歯を鳴らしながら、バラバラになりそうな震える身体を両手で力の限り抱きしめ、蹲る。声すら出せなかった。張り裂けそうな心臓の鼓動を聴きながら、只々荒い呼吸を繰り返す。

 

 最後に見た大好きだった二人は、その顔に変わらぬ笑みを貼り付けていた。

 

 真実が蛍の小さな身体を食い潰さんと荒れ狂う。それに只管に耐える。口の端から赤い一筋の雫が流れた。どうやら口の中を切ったらしい。仄かな痛みが口の中に広がる。痛いのは嫌いだ。けれど、その痛みが今は狂おしいほどに愛おしかった。痛みを感じることで、なんとか正気を保っていられた。爪を立てて、震える身体に突き刺す。赤い染みが彼女の服の至る所に生まれた。

 もっと、もっと、と。心の傷に比べれば、身体の傷なんて怖くはない。

 

「――ッ! ――ッッ!!」

 

 いつの間にか、白衣を着た大人たちに取り押さえられていた。幼い身体で大人たちの力に敵うわけもなく暴れる手足を抑えこまれ、叩きつけるようにベッドへ組み敷かれた。無理矢理に口を開かされ布のようなものを突っ込まれた。舌を切るとでも思われたのだろうか。

 首筋に何か冷たいものが当たる感覚があった後、チクリとした痛みと共に蛍はブレーカーが落ちるかのように意識を手放した。

 

 

◇◇◇

 

 

 この研究所に連れてこられてから、幾許かの月日が流れた。

 

 時間を置いたことで、色々なことに整理はついた。自身の置かれた現状、親への感情、様々なものに折り合いをつけて、いや、つけた振りをして蛍は漠然と日々を過ごしていた。生きるために、心の底に蓋をして、必死で目を背け続けた。

 その過程で分かったことだが、この研究所はF.I.S.と呼ばれる組織のものであるらしい。なんでも聖遺物と呼ばれるOパーツだかオカルトだかの、胡散臭いことこの上ないものを研究している組織らしく、そんなモノを大の大人が大真面目に研究している狂った場所に売られてしまった自分の不運を嘆いた。

 蛍はレセプターチルドレンと呼ばれる存在であるようだ。研究員たちの説明によれば、遥か昔、人類がまだ統一言語を用い神々と交信していた時代に存在した巫女フィーネの魂の容れ物なのだとか。今代のフィーネが死亡した際、次代の転生先へとするために集められた子供たちの一人が蛍なのだそうだ。

 勿論、蛍はそんな与太話を信じるつもりは毛頭なく、内心では一蹴していた。こいつらは只のマッドサイエンティストの集まりであり、揃いも揃って可笑しな宗教にでも嵌っているのだろうというのが、蛍の彼らに対する認識だった。

 

 そんな蛍の日々は、実験に次ぐ実験であった。

 

 体中のありとあらゆる場所を調べられた。よく分からない薬を何度も飲まされた。

 裸にひん剥かれることも多々あった。薬の副作用で高熱を出して何日も寝込むこともあった。

 未来に対する希望はなく、苦しい実験の日々に歯を食いしばりながら耐えていた。漠然と、彼らの玩具にされこのまま生きていくのだろうと理解した。そして、用済みになったら捨てられるのだ。あの両親たちがしたように。

 

 この世界は理不尽だ。

 

 人が人に優しくない世界。みんながみんな自分勝手で、他人の気持ちを知ろうともしない。だから、笑顔で心にもない嘘を吐き、騙し、裏切る。騙される側の事情など知ったことではないと一顧だにせず、挙句の果てに、「騙される方が悪いのだ」などと厚顔無恥な台詞を声高々に宣うのだ。

 気持ちが悪い。吐き気がする。けれど、これがどうしようもない現実で、なんの力もない蛍の小さな身体では抗うことなど出来はしない。世界に飲み込まれて、咀嚼されるのを待つばかり。

 そして、そんな世界に未練はないと、ばっさり自殺する勇気もない自分のことが、蛍は世界と同じぐらい嫌いだった。

 

 ある日、いつも通りに実験を終えた蛍は、自身を取り囲む研究員たちの様子がおかしいことに気が付いた。白衣に身を包んだ大人たちの会話が頭上を飛びかっている。その声には、どれも熱に浮かれたような歓喜の色を含んでいた。「この適合系数ならば……」「では候補となる聖遺物の選考を……」だとか。話の内容の半分も理解はできないが、何やら自分にはレセプターチルドレン以外にも何らかの特別な適性があるらしい。 生まれてこの方、蛍は自身にそんなものを感じたことはないが、如何にもマッドで普段は淡々と手元のデータと睨めっこしている研究員たちが、どこか興奮した様子で議論をしているのを見て、納得して、ため息をもらした。

 子供を金で買い集めて実験動物として扱うような奴らの研究だ。きっと碌でもないものに違いない。

 これからどんな研究に付き合わされるのであろうか。痛いのは嫌だなと頭の隅で思いながら、研究員たちの呪文のような会話が終わるのを、蛍は淡々と待ち続けた。

 

「痛いのは嫌いですか?」

「えっ……」

 

 無意識のうちに声に出てしまっていたのだろうか。漏れ出た心の声に答えが返ったきた。

 声が聞こえた方向に首を傾けると、そこには車椅子に座り右目に眼帯をした女性が居た。初めて見る人だ。ここまで特徴的な人は一度見れば忘れないと思う。ここの研究員だろうか? しかし、他の研究員とはどこか雰囲気が違う。表情は硬く愛想の一つも見れないのは一緒だが、その瞳にはこちらを思い遣っているようにも見える。

 何を馬鹿なことを、と一瞬でも考えてしまった愚かな思考を破棄する。こんな場所にいる大人が、実験サンプルでしかない自分に優しくするようなまともな人間である筈がないではないか。

 ここの研究員は事務的な用件以外で蛍に話しかけてくることはないし、蛍も彼らと雑談がしたいなどと思ったことはない。

 だから、まさか話しかけられるとは露程にも思っていなかった。思わず素で声を返してしまった。ぽかんと口を開けて、間抜けな表情を晒していることを自覚して蛍はたじたじになった。

 

「あの、えっと……」

「安心なさい。先程少しデータを見ましたが、あのフォニックゲインであればあなたは正当な適合者でしょう。LiNKERを打つ必要もなく聖遺物との適合が可能なはずです。私たちにとっても適合者は貴重です。使い潰されるという心配はありませんし、むしろ待遇がよくなるかもしれません」

「は、はぁ……あの……つまり……」

「実験の頻度は増すでしょうが、どれも痛みを伴うものではありません。セレナ以来の正規適合者です。こちらとしても慎重にならざるをえません」

 

 そう言った女性は僅かにではあるが口の両端を上げてこちらを見た。どうやら微笑んでいるらしい。分かりづらい上に、無理矢理に作ったような笑みであったため、正直ちょっと怖かった。

 けれど、それが彼女の不器用な優しさの顕れのようで、何だが、とても温かくて。

 

 浮上しかけた感情を、理性で押し殺した。

 

 騙されるな。この世界はそんなに優しくない。自己暗示のように何度も何度も心の中で呟き反芻する。

 優しい言葉を疑え、笑顔を信じるな、甘い態度を警戒しろ。

 感情を殺し、蓋をする。

 もうあんな思いは、したくないから、誰も信じるものかと決めたのだ。

 車椅子の女性の微笑みに見ない振りをして、当たり障りのない会話をして別れた。部屋に戻ると、ベッドに突っ伏して声を殺して泣いた。

 後から知ったことだが、あの車椅子の女性は中々に有名な人だそうで、気狂い揃いの研究員たちをして「教授」と呼ばれる聖遺物研究の第一人者らしい。此処とは別のF.I.S.の研究所に勤めていると聞いて、蛍はそっと胸を撫で下ろした。あんな微笑みを会うたびにされては堪らない。

 

 車椅子の女性の言うように、蛍の待遇は目に見えて良くなった。

 

 まず、部屋を移された。あのベッドだけがぽつんと置かれた殺風景な部屋から、そこそこ立派な部屋へと。ベッド自体も質のいいものに変わっていたし、本棚や机もあった。食べ物も美味しいものを食べさせてもらえるようになった。

 実験の内容も少し変わった。今までは薬を飲まされたり、筒状の機械の中で半日ほどベッドの上に寝かされたりなど、特に何かをしろと言われたことはなくじっとしていることが多かった。

 しかし、あの車椅子の女性に出会って以降、歌えと言われることが増えた。歌えというのはどういうことだと初めは困惑したが、本当にただ歌うだけだった。日に何度か研究員たちに聖遺物と呼ばれるモノの前まで連れていかれて歌った。研究員たちの此方を観察する視線の中で歌うことには、少しの慣れが必要だったけれども、既に何度も裸を見られた連中の前だと割り切ると存外楽しいものだった。

 そこで初めて蛍は自分が歌が好きだったことを思い出した。喉を震わせ、旋律に乗せ、詞を歌い上げる。言葉にしてみれば、こんなに単純なことが、今はとても愛おしい。

 歌っている間は辛い現実を忘れられた。両親に笑顔で捨てられた過去も、実験動物のような今の生活も、全てを忘れて夢中になった。

 実験を終え、部屋へと戻された後も歌った。記憶にあるだけのありとあらゆる歌を歌った。どうせこの部屋もカメラか何かで監視されているのだろうが、そんなことはお構いなしだった。この何の自由もない生活で許されたたった一つの自分が自分らしくいられること。誰かに強制される訳ではなく自分自身の意志で何かをするというのは、こんなにも気分がいいものだったのか。

 あまりにも歌いすぎるので、研究員から部屋で歌うことを禁止されてしまった。実験中に枯らした声で歌われては困るのだろう。流石に浮かれすぎたと反省した。だから、部屋では鼻歌を歌うことにした。

 無機質な生活に僅かな色が生まれた。

 

 72の言葉を持つ支配者の杖の前で歌った。

 天より落ちたる巨人の蛹の前で歌った。

 何物をも貫き通す無双の槍の前で歌った。

 狩猟の神が引いた魔弓の前で歌った。

 肉体を切り刻む紅き塵鋸の前で歌った。

 魂を切り刻む碧の獄鎌の前で歌った。

 

 多くの聖遺物の前で歌ったが、どうやら研究員たちのお気に召す結果は得られなかったようだ。日に日に研究員たちの機嫌が悪くなっているのが、言葉にはされずともその態度からひしひしと感じられた。こういう時は自分の扱いが向上したなと改めて実感する。以前であれば、罵詈雑言を山のように浴びせられ、暴力も振るわれていたことだろう。適合者という存在が、彼らにとって如何に重要なものであるかを思い知る。

 蛍自身には、いまいちピンとこない事実ではあった。聖遺物――世界各地の神話や伝承に登場する、超常の性能を秘めた武具の数々。現在では製造不可能な異端技術(ブラックアート)の結晶。それらを基底状態から呼び覚ます歌を歌える人物を、適合者と彼らは呼ぶらしい。世界中を見渡しても両の手ほどにしか存在が確認されていない貴重な人間。その内の一人が、蛍だと言うのだ。

 やはりオカルトめいている。だが、蛍は自分の考えが少しずつ変わりつつあるのを感じていた。決して研究員達の言葉を鵜呑みにした訳ではなかったが、聖遺物と呼ばれるあれ等がただの骨董品ではないことは幼い蛍にも理解できた。

 その最もたる理由は、実験中に感じるおかしな感覚だった。感覚的なもので、自分でも薄っすらと感じる程度のことであるから、初めは気のせいだと片付けていたが、歌う度にそんな感覚を覚えるようでは、さすがの蛍でもその異常性に気付く。

 聖遺物を前にして歌うと何かに繋がりかける感覚があるのだ。

 聖遺物が自分の歌を聴いている。そう思った。

 繋がったその先に何があるのかは分からない。いつもあと少しというところで、結局届いた試しはないからだ。歌う度に、繋がりかけるその感覚がもどかしく思えるようになった。ほんの少し指先を伸ばせば届く程度なのだ。その距離がいつまで経っても埋まらない。いくら声を張り上げても、思いを旋律に乗せても響かない。蛍は単純に悔しかった。お前の歌などその程度だと言われてるような気がして腹が立った。

 

 だから、その聖遺物を前にした時、予感があった。今日こそは、繋がる。何の根拠もなく、只の確信がそこにはあった。

 

 日本から送られてきたというその聖遺物は、鏡に由来するものであるらしい。

 魔を祓う鏡――神獣鏡(シェンショウジン)

 最近になって発掘されたばかりだというそれは、他の幾つかの聖遺物同様に加工され、見た目は只の赤い水晶柱のようであった。しかし、蛍には光を反射して艶やかに輝くその姿が、今までに見たどの聖遺物よりも眩しく見えた。

 どくんと一際大きく心臓が高鳴った。張り裂けそうになるほど胸が熱い。目の前の輝きから目が離せない。

 熱に浮かされるように、神獣鏡(シェンショウジン)が収められた台座にへと一歩また一歩と歩を進める。後ろから研究員達の静止の声が聴こえてきたが聞き流した。蛍には、もう、目の前にある赤い輝きしか見えていなかった。

 呼ばれている。この聖遺物が私の事を呼んでいる。

 早く早くと急かしてくる。蛍の歌を聴かせてくれとせがんでいる。

 震える指先で、ソレに触れる。冷たく硬い感触が、指先から全身を駆け抜けた。壊れ物を扱うように優しく握りしめると、蛍の体温を奪いじんわりと熱を帯びていく。まるで、初めから自分のものであったかのような、得も言われぬ一体感があった。

 不意に、頭の中に歌が浮かんできた。歌と呼ぶには短い、まるで詞のような旋律。発音も、音階も、其処に込められた言葉の意味も。その全てを蛍は瞬時に理解した。何故ならそれは、蛍の内に眠る願いの発露であったから。

 この歌は、自分だけの歌。たとえ他者が真似て口に出そうとも何の意味も持たない歌。蛍だけにしか口にする事の出来ない、蛍だけにしか意味のない、蛍だけの想いの結晶。

 握りしめた神獣鏡(シェンショウジン)を、胸の前に掲げ、胸の奥から生まれたばかりのその聖詠を、蛍は高らかに謳い上げた。

 

 

◇◇◇

 

 

 その日、研究室を訪れた女性は、蛍が今まで見てきた中で最も美しい人だった。

 これがフィーネ。先史文明期から魂の転生――リインカーネイションを繰り返し、現代まで存在し続けてきた永遠の刹那を生きる巫女。存在自体が異端技術(ブラックアート)とも言える生きた神秘。そして、蛍がこの研究所に連れてこられたそもそもの原因。

 不思議と彼女を前にしても、怒りは沸いてこなかった。たとえ原因が彼女にあったとしても、大金を積まれて蛍を手放すことを最終的に決めたのは、他ならぬ父と母であったと蛍も理解しているからだ。そこにフィーネは関係なく、ただ純粋に娘と金を天秤に掛けて、両親がどちらへ重きを置いたのかという個人の価値観における問題なのだ。彼らは金を取って、そしてその結果、自分は此処にいる。

 

「あなたが詞世蛍ね」

 

 彼女の言葉に、沈みかけた思考の渦から浮上し、はっと顔をあげた。

 目が合った。白金の双眸が見定めるように蛍を射抜いていた。その神秘的な輝きに魅せられ、フィーネに心の底まで覗かれるような気がした。蓋をして、自分でも必死に見ない振りをし続けている最奥まで、彼女には見透かされているような気がして、つい目を逸らした。

 いつの間にか握っていた手のひらが汗で濡れて気持ちが悪い。返事をしようとした喉は、蛍の意思に反して何の言葉も発することが出来ずにいた。

 何てことはないと思っていたが、どうやら自分は、この女性を前にして緊張をしているらしい。

 相手は数千年以上の時を過ごしてきた正真正銘の化け物だ。大人達から話を聞いた際には、突拍子がなさすぎて、聖遺物や適合者などの事実を受け入れてきた蛍でも、やはりこいつらは研究者などではなくてカルトな宗教の信徒なのではと彼らの正気を疑ったものだが、フィーネを目の前にしてそんな考えは吹き飛んでいた。

 彼女は本物だと、直感が告げていた。

 高々十数年しか生きていない蛍でも感じ取れるほど、フィーネという存在は圧倒的で神秘的だった。余人とは何もかもが違う。自分たちとは異なる理に生きる存在。

 

「お会いできて、光栄です、巫女フィーネ。私は詞世蛍、といいます」

 

 事前に考えていた拙い挨拶と共に床に膝を突き、彼女の前にかしずいた。自分でも杜撰な挨拶だと思うが、こんなに格式ばった挨拶をしたのは生まれて初めてで、どこかぎこちなくなってしまうのは致し方なかった。ここで蛍がすべきことは、自身が目の前の存在よりも劣っていることを理解していると示し、従順な態度を取ることだ。そうすれば少なくとも、彼女の機嫌を損なうことはないはず。

 一瞬の静寂。自分の心臓の音だけが煩いほどに響いていた。

 気分はまるで判決を言い渡される罪人のようで、頭を垂れて、只々、彼女の言葉を待った。

 

「賢しいな」

 

 刺すような彼女の言葉に顔から火が出るかと思った。子供の浅ましい考えだと見透かされた。身体の内で荒れ狂う羞恥心から顔を上げそうになるのを、理性で必死に抑えつける。瞼を閉じて、唇を噛み締める。呼吸が苦しい。酸素を求めて空中を食むも、息苦しさは一向に消えてはくれない。

 

「だが、愚図ではない。考える脳は持っている」

 

 全く感情の乗っていない声で褒められてもちっとも嬉しくない。むしろ、視線の重圧が増した。冷や汗が頬を伝う。

 逃げ出したかった。彼女の前から一分一秒でも早く立ち去りたかった。部屋に帰って、思い切り歌を歌って全てを忘れたい。

 カツン、カツンとフィーネの履いたヒールの音が静寂に包まれた実験室の中に響いた。そして蛍の気のせいでなければ、その音は段々と大きくなっている。それは、つまり、音源が近付いているということで。

 頭を垂れた蛍の視界の端に何かが映る。それが何かを確かめるまでもなく、冷たい指が顎に添えられ、強引に顔を上げさせられた。

 息が掛かるほどの距離に、フィーネの顔があった。同じ人類とは思えないほど端正な顔立ち。息を飲むほどに美しい腰まで伸びたプラチナブロンド。そして蛍の目をじっと見つめる白金の瞳。魔性の女とは、彼女のような人を指すのだろう。浮世離れした美しさに、一瞬、全てを忘れて見入った。

 そんな蛍の様子を見つめていたフィーネは唇をにやりと釣り上げると、蛍の顎に添えていた指をそのまま輪郭に沿って頬へと這わせた。そして確かめるように幾度も頬を撫でる。彼女の指先が頬を這う度に、ぞわりと背筋が震えた。

 喉はカラカラに乾いていて、声の一つも上げることができない。視線を外そうにも、目の前の彼女の瞳が、獲物を見つけた捕食者のようにギラついた輝きを放ち、言外に目を逸らすことは許さないと告げていた。

 フィーネは、満足したのか頬から手を離し、「可愛らしいな」とこの場にふさわしくない言葉を呟くと、背後で固唾を呑んで二人の様子を見ていた研究員へと視線を投げかけた。

 

「気に入った。この娘は、私が貰い受けよう」

「お、お待ち下さいッ! その実験サンプルは此方としても貴重な正規適合者ですッ! 上層部に相談もせず、そのような勝手をされては……」

「くどい。私は貰うといった」

「今暫くッ! 今暫くッ! お時間を頂きたいのですッ! この実験サンプルの歌が生み出すフォニックゲインは極めて膨大ですッ! 時間をかければ、必ずやソロモンの杖やネフィリムなどの完全聖遺物すら起動させることが可能でしょう。ですから、どうかッ!」

「貴様、トニーと言ったか? そもそも神獣鏡(シェンショウジン)のシンフォギアに適合する装者が見つかれば、私が引き取る手筈になっていたはずだ。その対価として日本政府の犬共に露呈するリスクを犯してまで、F.I.S.にはガングニールの欠片を与えた。契約を反故にしようとしているのはそちらだぞ?」

 

 これは決定だと有無を言わさぬフィーネに、なおも食って掛かる研究員――名前はトニーというらしい――の往生際の悪さに、フィーネが眉を顰める。すると、あれほど弁舌だったトニーの顔がみるみると青褪めていき、ガチガチと歯を震わせて地面にへたり込んだ。見れば、ガラス越しに此方を見ていた他の研究員たちも表情を曇らせている。蛍には彼女の後ろ姿しか見えないが、フィーネが相当に恐ろしい顔をしていることは想像に難くなかった。あのマッド達を震え上がらせる顔とは一体どのようなものなのか。興味があったが、きっと自分が見たら気絶では済まないだろうと自制する。好奇心は猫をも殺すのだ。

 それならばと、蛍は当の本人をそっちのけで交わされた会話の内容について思いを巡らせた。フィーネに頬を撫でられた衝撃のあまり聞き流してしまった部分も多い。ゆっくりと二人の会話を思い出し、そして愕然とした。

 

 どうやら自分はフィーネに連れて行かれるらしい。

 

 実の両親には笑顔で売られて、研究員たちには渋がられるというのはなんという皮肉だろう。

 研究所での待遇が良くなり、生活にもようやく慣れ始めたばかりだというのに、また別の場所に連れて行かれる。それがよりにもよってあのフィーネの側にである。

 先程の射抜くような視線と、頬を撫でられた感触を思い出す。あれは、捕食者だ。蛍という新たな獲物を前にして舌なめずりをする、根っからのサディストだ。そんな奴に連れて行かれたら、自分は一体どのような目に合わされるのだろうか。想像するだけで、恐怖と不安で押し潰されそうになる。痛いのは、嫌いだ。

 この世界は、理不尽だ。いつの間にか口癖になりつつある言葉を、心の中で小さく呟く。

 自分の意志の及ばぬ場所で、自分の人生が他人の勝手な都合で決められていく。抗うこともできず、憤るには、もう疲れた。襲いかかる理不尽に対し諦観を是とし、只管に耐えることで生きていく。そう決めた。

 無意識の内に首から吊り下げた基底状態の神獣鏡(シェンショウジン)を握りしめていた。手のひらの中にある冷たい感触を確かめ、心を落ち着かせるために深呼吸をする。

 私には歌があるからきっと大丈夫。歌さえ歌うことができれば、どんなに苦しいことにだって耐えられる。

 多くのことは望まない。ただ歌だけがあればいい。

 小さな自分の中にあるたった一つのちっぽけな望み。

 

「私は……」

 

 誰も蛍がこの場で発言するとは思っていなかったのだろう。必要最低限の会話と歌う時以外には決して口を開こうとしない蛍が、この殺伐とした空気の中で言葉を発したことに、誰も彼もが驚きに目を見開いている。そんな中で、一番驚いているのは蛍自身だった。

 ごちゃごちゃと頭の中で考えていたのがいけなかったのだろうか。気付けば口を開いていた。この場にいる全員の視線を一斉に受けて、思わずたじろぐ。自分の馬鹿さ加減に嫌気が差して泣きそうになるが、一度、放ってしまった言葉は取り消せない。

 神獣鏡(シェンショウジン)を握った手に力がこもる。それは、蛍にとっての証だった。理不尽なこの世界に、唯一、自分の歌が認められた証。手に入れたのは、つい先日だが、既に手放し難いと思ってしまっている蛍の想いの結晶。

 失うことに慣れてしまった自分が、今更何をと思う。ただそれでも、譲れないものがある。理不尽な世界に、弱くて小さな自分が声を上げる。何も変わらないかもしれない。けれど、未来(むこうがわ)にたった一つの我侭言うぐらい許してくれても良いではないか。

 

「私は、歌うことができますか?」

 

 視線は真っ直ぐにフィーネを見つめて、蚊の鳴くような声ではあったが、はっきりと、蛍は己の願いを口にした。

 視線の先にいるフィーネは、蛍の言葉を聞くと、何かが彼女の琴線に触れたのか肩を震わせて、人目も気にせず笑い始めた。おかしくて堪らないと、狂ったように笑うフィーネに誰も口を開くことが出来ない。

 一頻り笑って満足すると、フィーネは愉悦に顔を歪ませながら、唖然とした蛍の腕を掴み乱暴に立ち上がらせると、歪んだ唇を開き、こう言った。

 

「血反吐を吐いても、歌わせてやる」

 

 これが、蛍とフィーネとの出逢い。

 そして、詞世蛍という少女の、物語の始まり。

 




 始まりはトニーから。グレイザー氏とは別人です。ワイルドアームズのネタもちょくちょく入れていきたいと思います。

 誤字脱字は見つけ次第、修正します。

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