戦姫絶唱シンフォギア ~歪鏡に選ばれた少女~   作:きおう屋

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EPISODE 15 「この残酷な世界で」

 クリスの目の前で、蛍の命の灯火が輝きを失っていく。蛍の身体に刻まれた無数の剣閃の傷跡から血が流れ出す度に、彼女の暖かな身体は熱を失う。止まれ、止まれと、傷口を必死に抑えるも、全身に渡る傷口全てを抑えるには、クリスの両の手ではとても足りない。

 ぽたぽたと蛍の身体を伝い、地面に滴る真紅の液体が、血溜まりを作っている。クリスの背中に回されていた彼女の両腕がダラリと垂れ下がった。もたれかかる様にしてクリスに倒れ込む蛍を、血塗れになることも厭わず抱き締めた。その表情は虚ろで、蛍の意識が朦朧としている事は明らかだった。

 クリスは彼女の耳元で大声で呼びかける。しかし、返事はない。徐々に落ちるその瞼を見て、悲鳴にも似た声を上げた。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、訳が分からなかった。何故、蛍はクリスの事を庇ったのか。何故、蛍がこんなに血みどろにならなければならないのか。何故、何故、何故。疑問の嵐がクリスの頭の中を掻き回す。

 赤く染まった蛍の姿に、かつて大好きだった人達の姿が重なった。遠い異国の地にて、クリスの目の前で無数の鉛玉を受け、命を落とした父と母。確かあの時も、彼らは今の蛍の様に、真っ赤に染まっていた。

 

 またあたしは失うのか。温もりを、陽だまりを、大好きな人を。嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。もう一度、あの時の気持ちを味わうなんて、あたしにはきっと耐えられない。

 

 何時まで経っても名前を呼んでくれないと拗ねた彼女。クリスとて何度となく呼ぼうと思ったのだ。けれど、その度に恥ずかしさが勝ったり、近くにフィーネが居たりと魔が差した。いや、そうではない。それは、全て言い訳だ。今になって漸く判った。結局の所、クリスは 彼女の名前を呼んで、彼女に近付き過ぎるのが怖かったのだ。

 それはあれだけ慕っている蛍であっても、クリスが心の底から信頼を寄せきれない最大の理由。

 人は、死ぬ。どんなに善人であっても、どんなに悪人であっても、人は死からだけは、決して逃げられない。人には寿命がある。肉体の老衰には、あのフィーネですら抗うことが叶わないのだ。

 だが、寿命で逝けるならば、それはその人にとって天寿を全うしたと言える。自身も、周りの人間も納得のいく人として正しい終わり方だ。

 だが、人の死に方はそれだけではない。人は、唐突に、死ぬ。何の前触れもなく、何者かにその命を奪われる。それは他者であったり、ノイズであったり、自然であったりと理由は様々だが、総じて言うならば、世界に奪われるのだ。

 この世界は理不尽だ。蛍が良く口にしていた言葉を思い出す。それは、真理だ。蛍が思い描く理不尽と、クリスが思い描く理不尽は別の物であったが、それはそれだけ多くの種類の理不尽がこの世に蔓延っているということだ。

 それをクリスはあの地獄で学んだ。この世界は理不尽で、クリスがどんなに信じ、大好きな人であっても簡単にこの手から零れ落ちる。

 失うことは恐ろしい。それが大好きな人であれば尚の事で、両親との唐突な死別を経験したクリスは、もう一度、あの時の喪失感を味わえば、自分は確実に狂うと思った。

 だから、蛍を両親と同じ位置に置くことを、無意識の内に嫌がった。それが名前を呼ぶことへの忌避という形で顕在化した。

 

 蛍だって、いつかきっと、あたしの前から居なくなる。

 

 そんな事を心の片隅で自分がずっと考えていた事に、絶望した。何が守るだ。何が共に歩むだ。それを何より諦めていたのは、それを口にした自分自身ではないか。なんて厚かましくて、浅ましい。こんな自分に、彼女の名前を呼ぶ資格なんて、ない。

 

 蛍の瞼が完全に落ちる。その青白い顔を再び見た。心が騒めき立った。自分が、一瞬でも諦めてしまったことを恥じた。

 

 雪音クリスが世界を変えると決めた切欠は何だった? こういう理不尽を少しでも減らそうとしたからではなかったか。またこの世界に屈するのか?

 巫山戯るな。雪音クリスはやられっぱなしの女ではない。

 震える唇を開き、ゆっくりと喉を震わせた。

 

「蛍」

 

 呟く程の小さな声。あれ程、忌避してきたその言葉は、存外するりとクリスの喉を通り抜け、空気を震わせた。

 

「蛍……蛍! 蛍ッ! 蛍ッ!! 蛍ッ!!!」

 

 一度、口にしたらもう止まらない。彼女の名前を紡ぐ度に、その声は段々と大きくなり、やがて、先程までの忌避感はどこかへ薄れていった。

 クリスが蛍の名前を呼ぶ事に忌避感を持っていたのと同時に、彼女の名前を呼びたいという感情もまたクリスの中には確かにあったのだ。

 理不尽に、世界に、こんな所で屈して良いのか。蛍はこんな所で終わる女なのか。否、断じて否。詞世蛍はそんなに簡単に世界に咀嚼される程、弱くもなければ、諦めてもいない。何故なら、彼女は足掻いていた。一度は手折られた筈の心に薪をくべ、この理不尽な世界に牙を突き立てんと、立ち上がり前を向いた。傷つきながらも、前に進もうともがく彼女の姿をクリスは、この2年間ずっと側で見続けてきた。

 だから――。

 

「こんな所で終わって良い筈がねえだろうがッ!」

 

 

◇◇◇

 

 

 ノイズの避難警報が発令され人の気配が無くなった夜の街を1台の黒塗りのセダンが猛スピードで駆け抜ける。その車のハンドルを握るのは、特異災害対策機動部二課司令、風鳴弦十郎だ。助手席に同僚であり、長い付き合いの友人でもある櫻井了子を乗せて、弦十郎は険しい面持ちでアクセルを踏む。

 

「弦十郎君もっと急いで!」

「無茶を言うな! これでも精一杯飛ばしている!」

 

 何時も己のペースを崩さない飄々とした了子の焦りを含んだ声に、自身もまた焦りの声を返す。彼女とは、10年来の付き合いであるが、これ程までに動揺する了子を見たのは初めてかもしれない。

 しかし、それも致し方無い事だろう。斯く言う弦十郎もまた、これ迄の人生の中で一二を争う程、混乱の只中にあった。

 謎のシンフォギア、そして2年前に失われたネフシュタンの鎧を身に纏った少女達の強襲。

 二課本部施設にて、モニター越しにその衝撃に打ちのめされた弦十郎は、何とか我に帰ると居ても立っても居られずに、指揮権を自身の右腕である緒川慎次に譲渡し、いつの間にか助手席に乗り込んでいた了子と共に現場に急行した。

 

 弦十郎には、特異災害対策機動部二課こそが、世界で最も異端技術に対して進んだ研究を行っているという自負があった。だが、その自負は今日を限りに捨て去らなければならないらしい。

 

 FG式回天特機装束。別名、シンフォギア・システム。了子により提唱された櫻井理論に基づき、認定特異災害ノイズに対抗する為に開発された異端技術の結晶。適合者と呼ばれる少女の歌を鍵として起動するそれは、日本政府の最重要機密であり、その製造方法、装者、各種データなどは厳重な情報封鎖の下に置かれ管理されている。

 だからこそ、本来であれば、二課が知らぬシンフォギアなど存在する筈がないのだ。響が纏うガングニールもイレギュラーではあったが、あれは奏が纏ったガングニールの欠片が響の胸に宿った結果であり、その出自はハッキリしていた。だが、翼と相対するあの少女が身に纏ったシンフォギアは違う。濃紺の鎧から放たれるエネルギーの波形パターンは、二課のライブラリーに登録されたどの聖遺物の物とも一致しない未知の物だ。

 加えて、あのネフシュタンの鎧だ。2年前、Project:Nによって覚醒を果たした完全聖遺物であるあれは、その後の暴走、そしてノイズ襲撃により行方不明となった筈だった。二課調査部と研究班による懸命な捜索が行われたものの発見には至らず、暴走による自壊か、若しくはノイズの攻撃を受けて破壊されたものだと思われてきた。今日までは。

 響に相対する少女が身に纏う鎧から発せられるエネルギーの波形パターンは、二課のライブラリーに残るネフシュタンの物と完全に一致している。それは、少女の身に纏うそれが紛れもなくネフシュタンだという証左に他ならない。

 これらの事象が、ここ一ヶ月に渡るリディアン周辺地域へのノイズの異常発生、数万回にも及ぶ本部施設への再三のハッキング、米国政府による安保を盾にしたサクリストD――デュランダルの引き渡し要求などと関連がないと考えるのは、楽観が過ぎるというものだろう。

 だが、何かが引っかかる。謎の少女2人による襲撃は別にして、その他の事象にはどれも裏を読めば、遠からず米国に辿り着く。派手に動くのが彼の国のお家芸ではあるが、こうも簡単に尻尾を踏ませるものだろうか。

 弦十郎の勘が、安易に全ての事柄を米国に結びつけて考えるのは、危険だと訴えている。どこを見てもチラつく米国の影に何らかの作為を感じるのだ。この一件、もっと深い闇の底で、何かが蠢いている。確証はない。だからこそ、弦十郎はこの考えを部下に伝えず、自分の心の内だけに留めていた。

 

「一体何が起こっている……」

「それを今から確かめに行くんでしょ! ほらもっとスピード出して!」

「これ以上は無理だ!」

「何言ってるの! この子のポテンシャルはこんなもんじゃないわ! ちょっと、弦十郎君、そこ退きなさい。私が運転するから」

「や、やめるんだ了子君! 運転中だぞ! おい、聞いているのか了子君!」

「えい! この! 弦十郎君も私のドラテクは知っているでしょう。私が運転した方が手っ取り早いわ!」

「君の運転は乱暴過ぎる!」

 

 了子との激しいハンドル争いの末、何とか無事に――途中何度も命の危険を感じた――目的地に辿り着いた。

 

 其処は既に戦場ではなかった。

 

 目にしたのは、血だらけの黒髪の少女を抱きながら慟哭するネフシュタンの鎧を身に纏った少女と、絶唱を口にし地に倒れ伏した翼に涙ながらに呼びかける響の姿だった。

 夜の闇にネフシュタンの鎧を纏った少女と響の悲痛な叫びが木霊する。子供達が地獄の中で、苦しみの声を上げていた。

 拳に力が篭る。砕かんばかりに握り締めた拳から、赤い血が流れ出た。

 こんな世界に少女たちを連れ込んでしまった己を出来ることなら殴り飛ばしてやりたい。替われるものなら、替わってやりたい。

 弦十郎が己を磨き、地位を築き上げたのは、決してこんな光景を見たかったからではない。

 ネフシュタンの鎧を纏った少女が弦十郎達に気付いたのか、ピクリと肩を震わせて此方を見た。

 

 助けて。

 

 少女の顔がそう言っていた。

 大切な子なのだろう。少女にとって、腕に抱いた黒髪の少女は、とても大切な存在だと言うことは一目で分かった。だからこそ、何としても助けたいのだということも。

 医療班への連絡を了子に任せ、源十郎は再び目を伏せた白藤色の髪をした少女へと歩を進めた。

 ニ課司令として役割を果たす為に、大人としての責任を果たす為に、そして何より友の為に涙する少女を救う為に。

 

「……俺は特異災害対策機動部ニ課司令、風鳴弦十郎だ」

「…………」

「投降してくれないだろうか。悪い様にはしないと約束する。君も、君の大切な人も」

「…………」

 

 少女からの答えは返ってこない。瞳は以前、黒髪の少女へと向けられている。

 

「その出血量では、急がないと手遅れになる。ニ課の医療設備であれば、救える筈だ。だから――」

 

 敵に手を差し伸べることを、了子であれば「甘い」と断ずるかもしれない。だが、甘いと言われようとも、これが風鳴弦十郎だ。これが、風鳴弦十郎の生き方だ。

 大人は、子供の手本となるべき存在だ。彼ら、彼女らよりも歳を重ねているからこそ、常にその先に立ち、背中を見せて道を示してやらねばならない。時には叱り、時には褒めて、時には共に笑い、時には共に泣き、時には振り返りそっと手を差し伸ばしてやる。それが年長者として、少しばかり長く生きている先駆者としての義務だろう。

 

「俺は、子供に手を差し伸べてやれない様な、格好の悪い大人にだけはなりたくない」

 

 しかし、差し伸ばした手は、乱暴に振り抜かれた少女の手によって拒まれた。

 

「大人? 大人だって? 余計なこと以外はいつも何もしてくれない大人が偉そうにッ!」

 

 少女の心からの叫びに弦十郎はピタリと動きを止めて、額に深い皺を刻んだ。

 少女はそんな弦十郎の様子に忌々しいとばかりに眉を顰め、憤怒の形相で弦十郎を睨みつけると、黒髪の少女を抱いて後ろへと跳躍し弦十郎から距離を取った。

 

「痛いと言っても聞いてくれなかった。止めてと言っても聞いてくれなかった。あたしの話しなんかこれっぽっちも聞いてくれなかったッ! そんな大人があたしと蛍を救うだと!? 舐め腐るのも大概にしろッッ!!」

 

 少女の手には、いつの間にか、銀色に光る槍の様な物が握られている。それは先程まで、「蛍」と呼ばれた黒髪の少女が腰に身に付けていたものだ。

 

「あたしが蛍を助けてやるんだッ! 誰にも邪魔はさせねぇッ!」

 

 少女の咆哮と共に、彼女が手にした槍状の物体から緑色の光が放たれる。思わず、身構える弦十郎だったが、その光線は弦十郎を狙った物ではなかった。

 少女と弦十郎とを別つかの様に放たれた緑色の閃光。その先から、不協和音が漏れ出した。

 

「ノイズ、だとぉ!?」

 

 緑色の閃光から、人類の天敵が現れる。耳障りな不協和音を響かせながら現れるのは、認定特異災害ノイズ。人を炭にする為だけにこの世に現れる厄災が、少女の手によって次々と生み出されている。

 予兆はあったのだ。ニ課本部施設直上、私立リディアン女学院高等科を中心とした地域へのピンポイントな出現。加えて、先のこの公園まで響を誘導するかの様な不自然な動き。どちらも、通常のノイズではありえない不可解な行動だ。

 翼は、何者かの意思がニ課に向けられている証左だと言っていたが、その誰かというのが目の前の少女だと言うのか。

 

「てめぇらはこいつらの相手でもしてな!」

 

 そう言葉を残し、少女は蛍を連れて夜の闇へと溶けて消えた。

 同時に、少女によって生み出されたノイズが一斉に動き出し、弦十郎達を炭にせんと殺到する。

 

「オオおおおおおおおおおおッ!!」

 

 追いかけたい気持ちはある。しかし、今、弦十郎の後ろには翼達がいる。彼女達を守る事もまた、弦十郎が為さねばならないことだった。

 全身に気を充実させて、その拳を地面に叩きつける。打ち込んだ気により、地面を隆起させノイズの突進を受け止める。

 

「響君!!」

「は、はい!」

「翼のことは了子君に任せるんだ! 君は目の前のノイズを! 俺では時間稼ぎしか出来ん!」

「わ、分かりました!」

 

 風鳴弦十郎ではノイズに勝てない。歯痒いながらも、それは認めなければいけない事実だった。

 シンフォギアによるバリアコーティングが働いているとはいえ、それはノイズの炭素転換能力があくまで一時的に減退しているだけであり、周辺の物体を利用した時間稼ぎ程度ならば出来るものの、それは対ノイズ戦において決定打たり得ない。この拳を叩きつけられるなら話は別なのだが、人の身である弦十郎にとってノイズに触れることは炭になる事を意味する。

 弦十郎の脇を抜け、ノイズへと突進する響を見て、弦十郎は己の無力さを噛み締めていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 296……297……298……299……300!

 

 心の中で数えていた数字がフィーネに言われていた数字を示したとき、町外れを全速力で駆けていたクリスはその足を止めた。姿を隠す為に路地裏へと身を潜めると、両手に抱えた蛍をゆっくりと地面に下ろす。蛍の顔色は、先にも増して蒼白く、彼女の容体が以前として予断の許さない状況であることを告げている。シンフォギアは既に解除され、蛍が身に纏っているのはいつものゴスロリ服だが、その所々が蛍の血を吸い赤黒く変色している。

 視界が滲む。けれど、堪えた。今は、そんな事をしている場合ではない。

 

「急がねえと……」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、5分後にフィーネが二課のレーダー端末に介入し、一時的にその機能を麻痺させるので、その間に蛍を連れて二課の作戦領域から離脱し、屋敷まで撤退すること。フィーネが二課のレーダー端末に介入している内に、蛍の()()を終え、二課のレーダーの探査領域外へと脱出しなければならない。

 これから行うことに対して、クリスは未だに迷いがある。本当にこれしかないのか。もっと他にやりようがあるのではないか。考えを巡らせてみたものの、クリスにはフィーネが示した治療方法以外を思いつくことが出来なかった。

 ギリッと歯の根を噛み締める。今はフィーネに従おう。蛍の命を救う為に。

 クリスは身に纏っていたネフシュタンの鎧を脱ぐ。白銀の鎧が、光の粒となって弾ける。クリスが念じると周囲を漂っていた光の粒が、クリスの掌の上に集まり、一つの球となった。

 掌の上に作られた光の球を見て、クリスは眉間に皺を寄せる。それでもそれを断ち切る様に、意を決して、その光の球を蛍の胸に押し付けた。

 光の球が紐解け、再び粒子となって、蛍の体に纏わりつく。粒子が一段とその輝きを強くすると、次の瞬間には蛍の身を包む漆黒の鎧となった。カラーリングこそ変わっているものの、それは紛れもなくネフシュタンの鎧だ。

 世界に現存する数少ない完全聖遺物であるネフシュタンの鎧。その特性は、無限の再生能力である。多少の損壊どころか、完全に粉砕された状態からでも復元するその常軌を逸した再生能力は、完全聖遺物の名に相応しい驚異的な能力だ。

 

 しかし、その能力は、身に纏った者すら喰い潰す。

 

「あああああああああぁあぁぁあぁあ!!!!」

「ッ!! 蛍!!」

 

 意識を失っていた蛍が突然に目を開き、その小さな唇から絶叫を漏らす。その悲鳴を聴き、痙攣する蛍の身体を手繰り寄せ、抱き締めた。何の意味も無いかもしれない。けれど、抱き締めずにはいられなかった。

 蛍は、狂乱の声を上げ続ける。その瞳には、クリスの姿は映っていない。今の彼女は、只管に身の内から湧き出る痛みに支配されていた。

 痛みに耐える様に、クリスの背に蛍の腕が回され、万力の如き力で締め付けられる。クリスは「大丈夫、大丈夫だ」と、蛍の耳元で、彼女に、そして自分にも言い聞かせる様に言葉を紡ぎ、それに耐える。

 突き立てられた爪が、クリスの背を抉る。疾る激痛に顔を歪めるも、それでもクリスは蛍を抱きとめた両腕を決して解こうとはしなかった。

 ぐじゅぐじゅと、生理的嫌悪を齎す音が聞こえる。鎧が蛍の身を蝕む音が聞こえる。その音をこれ以上耳にしたくなくて、クリスは喉を震わせた。

 

Killiter Ichaival tron(銃爪にかけた指で夢をなぞる)

 

 口にするのは、聖詠。紡がれた詞に反応して、クリスから下げた赤い水晶柱が白銀の輝きを放つ。その輝きは繭となり、クリスを包み込んだ。

 身に纏うのは、真紅の鎧。イチイバルのシンフォギア。かつて、狩猟の神ウルが引いたとされる魔弓の力を身に纏ったクリスは、湧き上がる力をそのままに、未だ半狂乱で暴れる蛍を抱き締めたまま夜の闇にその身を投げ出す。

 近くのビルの屋上に着地したクリスは、辺りを見回し二課の追っ手がいない事を確かめると、蛍の背をぎゅっと抱き締め、歌を歌い上げる、

 両耳に備え付けられたヘッドフォンパーツから流れる旋律に乗せ、胸の内から湧き上がる詞を、感情の侭に響かせる。

 

《MEGA DETH FUGA》

 

 背中から大型のミサイルを生成し、夜空に放つ。その後を追う様にして、クリスは地面を蹴り、ミサイルの上に着地。二人乗りをするのは初めてで、少しだけバランスを崩すも直ぐに立て直し、じゃじゃ馬を乗りこなす。

 本来であれば、2基生成する筈のミサイルを単独に絞り、エネルギーをその1基に集中することで、航行距離と巡航速度を飛躍的に上昇させた。このミサイルであれば、フィーネの屋敷まで一息で到着することができるだろう。多少目立つかもしれないが、今のクリスに手段を選ぶ余裕はなく、隠蔽などの後始末はフィーネに全て丸投げするつもりだった。

 ふと空を見上げれば、幾つもの光の筋が流れては消え、流れては消えていく。美しい光景だった。蛍がそれに気付いた様子はない。彼女は、その身を苛む痛みに悶え苦しんでいる。

 また、彼女との約束を守れなかった。

 

 夜空に一筋の白い軌跡を描きながら、星の群れにその身を隠した。瞳から溢れた光の欠片が、誰に知られることもなく、流れては消えていった。

 

 

◇◇◇

 

 

 屋敷に辿り着くと、クリスは時間が惜しいとばかりに、ロビーへと続く扉を蹴破った。大小様々なケーブルが蔓延る廊下を慣れた足つきで足早に駆けていく。目指す場所は、食堂だ。

 

「もう直ぐだ。もう直ぐ着くから」

「…………」

 

 蛍からの返事はない。蛍は瞳を閉じて、再び意識を失っている。しかし、その顔色は土色をした死へと向かう者のそれではない。額に大粒の汗を浮かべ、荒い呼吸を繰り返す。泥臭くも生きる者特有の熱を持った蛍の表情を見て、クリスは少しだけ安堵の息を漏らした。

 だが、それも一瞬のことだ。これから行うことを考えると、心に葛藤の渦が巻き起こる。直様、クリスは顔を引き締めると、食堂へと続くドアを開き、目的の物を探した。

 それは直ぐに見つかった。扉を開けて正面に位置する窓側、食堂の中には似つかわしくない物々しい装置が、壁に沿う形で鎮座している。台形の土台と、その上に角ばった円形の鉄塊を無理矢理に取り付けた様なその装置は、3m近い巨大さを誇り、シャンデリアからの光を反射して鈍い輝きを放っている。

 重々しい足取りでその装置の前まで歩を進めたクリスは、蛍を床に寝かせると、イチイバルのシンフォギアを解除する。続けて、右手を蛍の胸の前に翳し意識を集中する。すると、蛍が身に纏っていた黒いネフシュタンの鎧が光の粒子へと姿を変え、再びクリスの掌の中に球を成して収まった。クリスは、その光の球を憎々しげに睨みつけ、右手に力を込めて握り潰した。光の球が弾け、霧散していく。

 その様子を最後まで見ることなく、クリスは蛍へと視線を戻す。ゴスロリ衣装に戻った蛍を目にして、クリスは一度、目を伏せる。顔を上げたクリスの瞳は、決意を秘めた眼差しへと変化していた。

 震える手で、荒い呼吸を繰り返す蛍の服に手をかける。蛍の血を吸い、所々が赤黒く変化した彼女の洋服を、四苦八苦しながら脱がせていく。衣服の下に隠された彼女の白い肌が露わになる度にピクリと腕が震えたが、それに気付かない振りをしてクリスは作業を進める。

 そう、これは作業である。普段であれば、忌々しい赤面症が発症して余りある状況ではあるが、今のクリスはこれを医療行為だと考えている。その清廉な行為の前には、同年代の少女を脱がせることへの羞恥心などという邪な感情が入る隙間など全くない。ないったらない。

 

「傷は……塞がってるか」

 

 蛍の露わになった肢体には、翼の絶唱により負った傷はどこにも見当たらない。その代りに、傷があったであろう箇所にはジグソーパズルの様な痛々しい模様が――ネフシュタンの鎧による身体への侵食の跡が浮かび上がっている。

 ネフシュタンの鎧による再生は驚異的だ。しかし、それは纏った者を喰い潰す諸刃の剣でもあった。

 傷口から入り込んだ鎧の欠片が蛍の身体もろとも取り込んで再生をしている。鎧を脱いだ後も、その欠片は体内に残り続け、蛍の身体を蝕み未だ増殖を繰り返している。

 事前にフィーネからネフシュタンの鎧の運用にあたって、肉体を乗っ取られる危険は示唆されていたのだ。ネフシュタンの再生能力を過信し、下手に傷を負えばその肉体を食い破られると。

 だからこそ、その対応措置も用意されていた。クリスの目の前にある装置がそれだった。電流を浴びせることにより、体内で増殖を続ける鎧の欠片を一時的に休眠状態とし、その隙に除去するのだ。

 当然、生身の身体にそれ相応の電流を流すのだ。処置には、激痛を伴う。痛みを絆と考える実にフィーネらしい反吐の出るような装置だった。

 

 今からクリスは、蛍にその痛みを味合わせなければならない。

 

 本来は、フィーネが手ずから処置をし、痛みに苦しむクリスや蛍のことを眺め悦に浸る為の装置なのだろう。真性のサディストである彼女が使えば、それはそれは愉快な装置――クリスは微塵も理解したいとは思わないが――だったに違いない。

 だが、生憎とクリスはフィーネのような歪んだ性癖など持ち合わせておらず、誰かが痛みを感じる様に興奮など覚えない。加えて、その対象が守りたいと願った少女であるならば尚更だ。

 蛍はもう充分に傷付いたではないか。両親から捨てられ、科学者たちのモルモットにされ、挙句の果てにフィーネの被虐の対象とされた。世界は、まだ彼女に傷を負えと言うのか。それも、クリス自身の手で、彼女に新たな傷を、痛みを与えろと。

 狂っている。平和な世界に身を置きのうのうと暮らす人々が大勢いる中で、何故世界はクリスや蛍にはそんな仕打ちをするのだ。

 そんな理不尽を許せる筈がない。

 

「くそッ! くそッ! なんで、なんでこんな……」

「くり、す……私なら、だいじょぶ……だから……」

「蛍!?」

 

 いつの間にか目を覚ました蛍が、弱々しい声を漏らし、此方を見上げていた。苦痛に顔を歪めながら、起き上がろうとする彼女を、クリスは必死に制した。

 

「馬鹿! 無理すんな!」

「私の、傷を治すために……ネフシュタンの鎧を、使ったの……ですよね。大丈夫、です。痛みには、慣れています、から」

「馬鹿蛍! そういう問題じゃねえだろ!」

 

 聡明な彼女は、自身の置かれた状況を正しく把握していた。その上で、「痛みには慣れている」と口にしたのだ。その言葉が強がりである事は明白だった。

 身体と心に多くの傷を負ってきた彼女は、確かに痛みに慣れているのかもしれない。けれど、それは裏を返せば、それだけ痛みを受ける恐怖を知っているという事に他ならない。

 だからこそ、誰よりも痛みの恐怖を知っている彼女は、今も尚、その身に鎧を身に纏っているのだから。

 しかし、怒りを露わにするクリスに対し、蛍はふるふると首を横に振る。そして、ポツリと呟いた。

 

「…………私、うれしいんです」

 

 嬉しい? この状況の何が嬉しいと言うのだ。その身は鎧の欠片に侵され、これから待つのは電流による地獄の苦しみだというのに。

 どうして、彼女は笑みを浮かべるのだ。

 

「名前、やっと、呼んでくれたから」

 

 嗚呼、今、それを口にするのか。ちくしょう。そんな幸せそうな顔をされたら、もう何も言えないじゃないか。

 

「だから、へっちゃら、です」

「……馬鹿蛍」

「へへっ……知ってます」

 

 両腕を広げて待つ蛍を抱き上げる。首に回された手が、ぎゅっとクリスの服を掴んだ。「心配しなくても落としゃしねぇよ」と言えば、「……うん」と彼女は短く返した。

 クリスは、装置へと続くタラップを登り、両腕を拘束する為に備え付けられた枷に蛍の腕を嵌めた。支えていた手を離せば、蛍はだらりと装置に吊るされる形となり、それはまるで磔の様だった。

 制御パネルの前に立ち、磔にされた蛍を見遣れば、不安が顔に出ていたのか、蛍が「大丈夫だから」と微笑む。その笑顔に胸が締め付けられた。

 震える手で、レバーに手を掛ける。

 意を決してレバーを倒せば、蛍が絶叫を上げた。これを何度も繰り返す。

 電流を止める度に、蛍はクリスに向けて微笑んできた。滲む視界の中で、何故かその笑顔だけが、眩しく輝いて見えた。

 




 少し詰め込み過ぎたかなと思ったり思わなかったり。
 構成に悩んだ回でした。

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