戦姫絶唱シンフォギア ~歪鏡に選ばれた少女~   作:きおう屋

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EPISODE 17 「差し出された手」

 窓から射し込む麗らかな春の朝日を身に浴びて、蛍はぼんやりと瞼を開いた。「はふっ……」と自分でもよく分からない寝起き特有の謎の言語を口にして起き上がろうとするも、暖かいシーツの魔力が微睡みとなって蛍に襲いかかってくる。

 少しばかり抵抗してみるも、もう少しぐらい良いだろうかと、蛍はあっさりとその魔力に屈し、再び瞼を閉じて、その手で温もりを手繰り寄せる。しかし、本来あるべき柔らかな二つのマシュマロが何時まで経ってもこの手に収まらない。代わりに手にするのは、すべすべとしたシーツの感覚。違う。これじゃない。確かに、シーツの温もりは蛍を以ってしても抗い難い魔力を放ってはいるが、蛍が求めているのはこの温もりではない。

 

「……あれ?」

 

 何時まで経っても手繰り寄せられない事に業を煮やし、渋々ながら瞳を開くと、そこには真っ白いシーツと枕が目に映るだけで、蛍の探し求めた温もりの姿は何処にもない。

 

「……クリス?」

 

 呼びかけてみるも返事はない。むくりと身体を起こし、部屋の中を見渡してみても、必要最低限の家具が置かれた殺風景な部屋があるだけで、彼女の姿は何処にも見当たらない。

 蛍の朝は、クリスの柔らかな身体に包まれながら至福の時を過ごすというのがお決まりだというのにこれは一体どういう事だ。

 朝日の射し込み具合を見るに、時刻は未だ日が昇って間もない。今日の朝食はクリスの当番である筈だが――最近は身体の不自由な蛍に代わりに専らクリスが家事全般を担っている――朝食の準備にしては少しばかり早過ぎる。

 起き上がろうとすると、足にピシリと痺れが走った。つま先から足の付け根まで痺れが広がり、上手く動かす事が出来ない。それは、未だ蛍を蝕むネフシュタンの後遺症だ。フィーネからはあくまでも一過性のものだと診察されてはいるが、その所為で蛍はここ最近の作戦行動からは除外されている。本来であれば、死んでもおかしくはない程の傷を負ったのだ。この程度の後遺症で済んでいるだけ、マシと考えるべきなのかもしれないが。

 思い通りに動かない自分の足を忌々しく思いながら、蛍はベッドの脇に立て掛けてある杖を手に取り立ち上がった。

 

 何はともあれ、クリスを探さなくてはならないだろう。蛍の朝はクリスの顔を見て、漸く始まるのだから。

 

「キッチン、ではないですね。クリスが料理の為にこんな朝早くに目を覚ますとは考えにくいです」

 

 ぼんやりとした頭を叩き起こし、並列思考にてクリスの居場所について、考えを巡らせる。様々な候補地が蛍の頭の中に現れては消え現れては消えていく。食堂、訓練室、トイレ、バスルーム、フィーネの私室。

 考えてみるも答えは出ない。頭で思考を続けながらも、最早見慣れた大小様々なケーブルが張り巡らされた屋敷の廊下を、蛍は杖をついて四苦八苦しながら歩く。自分の身体が万全であれば、歩き慣れたと言えるその廊下も、今の蛍にとっては数々のトラップが仕掛けられた酷道である。

 普段の倍以上の時間をかけて、候補に上がった場所を訪れてみるも、其処にはやはりクリスの姿はない。ここまで探しても居ないという事は、緊急の任務でも入ったのだろうか? と訝しむんでいると、ふとある場所が蛍の脳裏を過ぎり、足は自然とその場所へと向かい歩き出した。

 

 山陰から顔を覗かせた朝日を反射した湖畔。その湖へと伸びる桟橋の先に彼女は居た。

 

 いつだったか、クリスと一緒に見た蛍の大好きな風景。その風景をクリスが独りで眺めている。その事に少しばかりの不満を覚えた。「誘ってくれればいいのに……」とポツリと呟き、蛍は桟橋の先端に座りぼーっと景色を眺めるクリスの背に向けて歩を進める。

 

「今日は随分と早起きなんですね」

 

 声を掛けながら、クリスの隣に腰を下ろす。すると、クリスは今気付いたと言わんばかりに少し驚いた顔をして、蛍の顔を見る。クリスがこんなに近くに接近するまで、誰かの気配に気付かないというのも珍しい。

 

「ん……あぁ。ちょっと目が覚めちまってな。お前こそあんまり無理すると、体に障るぞ」

「クリスは心配のし過ぎです。ずっとベッドの上じゃあ身体が鈍ってしまいます。只でさえ1週間以上訓練をサボってるんです。これ以上は怠慢です」

「その身体じゃ仕方ねえだろ」

「痺れが残っているのは、下半身ぐらいです。イオノクラフトを使えば、射撃訓練ぐらいなら問題ありませんよ」

「……頼むから大人しくしてくれ。隣でそんな訓練されたら、あたしが集中出来ねえ。大体、フィーネからも大人しくしてろって言われてるんだろ? だったら、今は傷を治す事を優先させろって」

「クリスが頑張っているのに、私一人が楽するわけにはいきません。それに、フィーネの計画の始動が近いです。その時に万全を期せないのでは、今まで何の為に訓練をしてきたのか分からないじゃないですか」

 

 立花響によるデュランダルの起動。あの驚愕の出来事により、フィーネの計画はさらなる加速を果たした。本来であればデュランダルの覚醒は、奪取後に蛍とクリスの2人の歌により励起させる予定だった。ネフシュタンの鎧とソロモンの杖の起動データから、ある程度の時間が掛かることも視野に入れての計画であったが、先日のデュランダル奪取任務の際、響がたった一度の歌でデュランダルを起動せしめた所為で、その計画は脆くも崩れ去った。

 あの後のフィーネは、本当に機嫌が良かった。あれ程機嫌の良いフィーネは、長年共に暮らしてきた蛍でさえも初めて見る程で、デュランダルの奪取に失敗したクリスへのお仕置きも忘れて高笑いしていたと言えば、その異常性は推して知るべしである。

 現在、デュランダルは二課最奥区画アビスに再び収納されている。クリスによる襲撃、及び想定外の覚醒により、移送計画が一時凍結された為だ。これにより、蛍達によるデュランダルの奪取計画もまた一時的に棚上げされる事になった。

 フィーネ曰く、デュランダルが覚醒を果たしているのであれば、現段階で無理に奪う必要はないとの事だ。フィーネがデュランダルの強奪を目論んだのは、蛍とクリスによる覚醒も含めての話であり、それが既に成されているのならば、デュランダルが必要となるのはカディンギル完成後だ。カディンギルが完成してしまえば、フィーネは最早櫻井了子として振る舞う必要はなく、フィーネの協力を得た蛍とクリスならば多少強引な手段によりアビスからデュランダルを盗む程度やってやれない事はない。

 カディンギルの完成度は既に90%を越えている、らしい。カディンギルがどの様なものであるのか、どの様な異端技術が用いられているのか、どの様な場所に建設されているのか。未だフィーネから詳しい情報は与えられていないものの、それがどういったものであるかに蛍はさして興味を持っていなかった。例え詳しく説明されても、異端技術の専門家ではない蛍にはちっとも理解出来ないだろうし、する必要もないだろう。重要なのは、カディンギルが月を――バラルの呪詛を破壊し得る兵器であるというその一点のみ。

 

「立花響によるデュランダルの起動には驚きましたが、此方としては、ある意味僥倖でしたね。あれのお陰で、スケジュールが大分前倒しになったと、フィーネも喜んでいました」

「……そう、だな」

「……まだ彼女に負けた事を気にしているんですか?」

「…………」

「試合に負けて勝負に勝ったというやつですよ。確かにあの時の戦闘はクリスの敗北かもしれません。けれど、それがデュランダルの覚醒に繋がったと思えば、此方にとってはむしろプラスです。だからこそ、フィーネもクリスにお仕置きをしなかったのだと思いますよ?」

「分かってる。分かってるけど、悔しいんだよ」

 

 顔を顰めながらクリスは言葉を漏らす。クリスのそんな表情を見たくはなくて、蛍は更に言葉を重ねていく。

 

「聞けば、立花響は風鳴弦十郎から徹底したネフシュタン対策を教え込まれたそうじゃないですか。風鳴弦十郎は、あのフィーネが直接戦闘を避けろと言う程の人物。そんな彼にピンポイントに対策されては、例えクリスでも手こずるのは仕方のないことですよ」

「でも、ほんの少し前まで碌に戦えもしなかったあいつに……あたしはッ!」

「だとしても、です」

 

 ギリッと握り込んだクリスの拳を、蛍は優しく包み解いていく。爪が食い込んだ痛々しい赤い痕を覆うように、自分の掌を、クリスのそれに重ね合わせ指を絡める。

 

「彼女の実力を見誤っていたのは私も同じです。あれはどうしようもない規格外ですよ。誰にだって予想出来なかった理不尽の塊です」

 

 聖遺物との融合然り、戦闘力の急激な成長然り、デュランダルの起動然り。立花響は蛍の、クリスの、そして何よりフィーネの予想すら悉く覆したイレギュラーだ。

 けれど――。

 

「2人ならきっと大丈夫です」

 

 ぎゅっとクリスの手を握る。指と指の間に自分の指を滑り込ませる。撫でるように指を絡ませる度に、頬を少し赤らめてピクンと震えるクリスが愛らしくて堪らない。やはりクリスはこうでなくては。落ち込んでいる姿なんて、彼女には似合わない。どこまでも真っ直ぐで、自分の感情を隠したくても隠せない程純粋で、直ぐ顔を赤く染めてしまう恥ずかしがり屋なクリスが蛍は大好きなのだ。

 

「こんな後遺症あっという間に治して、直ぐに戦線復帰します。そうしたら、立花響なんて私達2人のコンビネーションでイチコロです」

「……そうだな。あんな付け焼き刃の鍍金装者、あたしとお前なら余裕だな」

「ですよ。私達の歌は、決して彼女に負けたりなんかしません。デュランダルの起動がなんですか。こっちだってソロモンの杖を起動した実績があります。あんなインチキ染みた子に、負けてなんてやるものですか」

「だな。あんな頭の中ぽやぽやした様な奴に、お前と2人で負ける訳ないもんな」

 

 顔を少しばかり赤らめながらニコリと笑うクリスの姿につられて、蛍の顔にも笑みが浮かぶ。もうクリスの前では、蛍の無表情の鎧は殆ど機能していない。基本的には蛍はいつでも無表情の鎧を着込んでいるが、クリスの前では努めてそれを維持しようとは思わなかった。笑いたければ笑うし、泣きたければ泣く。どうしてだか、クリスを相手にするとそれが出来てしまう。もう誰にも見せるものかと決めた小さな自分が、自然と顔を覗かせる。いつの間にか、それ程までにクリスとの距離は縮まっている。

 

 それがとても心地よくて、暖かくて――苦しい。

 

 これだけ近くにいるクリスにも、最後の砦を崩せずにいる自分が歯痒くて、もどかしい。曝け出したい。気づいて欲しい。自分の全てを暴いて欲しい。

 けれど、それを拒否しているのもまた蛍自身なのだ。心の何処かで、クリスを信じていない自分がいる。そんな自分を消し去りたくて堪らない。しかし、その度、あの笑顔がチラつくのだ。自分を捨てた両親の笑顔が。脳裏にこびりついて剥がれない彼らの笑顔が、蛍の願いを押し殺す。

 だが、それももう直ぐ終わる。カディンギルにて月を穿ち、統一言語を取り戻す事によって、人と人が誤解なく分かり合える世界を作り出す。そうすれば、蛍はもうあの笑顔に怯えなくて済む。クリスを心の底から信じられる。

 

「ふふっ、それにしてもこんなにしおらしいクリスは久し振りですね」

「は、はぁ!?」

 

 心の中から染み出す苦い感情を誤魔化す為に、蛍はクリスに揶揄いの言葉を投げかける。いつものやり取り。蛍がからかい、クリスが顔を赤くする。お決まりになったその温かいやり取りが心地良くて、心の底から湧き出した弱い自分に見て見ぬ振りをする。瞳に映るのは彼女の愛らしい姿だけ。今はそれだけでいい。この弱い自分と向き合うのは、もう少しばかり時間が必要だから。

 

「この点だけは立花響に感謝してもいいかもしれません。普段の勝気なクリスも愛らしいですが、しおらしいクリスもこれはこれで……」

「やめろ! お前絶対フィーネに毒されてるぞ! そのニタァって笑い方ほんとやめろ!」

 

 最近の鉄板ネタであるフィーネの真似は今日もクリスに好評だった。必死になってフィーネの真似をやめる様に言ってくるクリスの反応がいじらしい。最近、クリスには「お前の背中に蝙蝠の羽が見える」と言われるが、蛍としてはフィーネの様な大魔王になるつもりは更々ない。偶々フィーネをちょっとばかり参考にしてみたら、思いの外クリスの反応が良かったから続けているだけである。蛍は、フィーネの様な相手に傷を刻む事に喜びを見出す程の苛烈な加虐心は持ち合わせていない。只、クリスに対して少しばかりの悪戯心を持っているだけである。

 

 真っ赤になったクリスの顔は、誰が見ても抜群に可愛らしいのだから仕方がない。仕方がないったら仕方がないのである。

 

 

◇◇◇

 

 

 その日、立花響はご機嫌だった。学生寮へと帰るその足取りは軽く、今にもスキップをしてしまいそうな程だ。親友である小日向未来の誘いを断ってしまった事は心苦しかったものの、埋め合わせはキチンとするつもりであるし、それを差し引いたとしても今の響はここ1ヶ月で最も自分が浮かれている自覚があった。

 

「ふっふっふっ、翼さんに褒められたー!」

 

 翼のマネージャーである緒川慎次から彼女のお見舞いを任された時は、戦場に赴くかの如き心境だったと言うのに、我ながら実に単純だと思うが、憧れの人である翼に褒められた響にとって、そんな感情は全て遠き過去の事である。

 『私が抜けた穴を貴女が良く埋めているという事もね』。翼の言葉を思い出す度に、頬がにやける。あの翼に少なからず認められた。それが今は何よりも嬉しかった。『奏さんの代わりになります!』と今思えば無神経にも程がある言葉を投げかけ、自分の無知さ故にその身を危険に晒させてしまった翼の穴を埋めようと今日まで頑張ってきた。それがあの一言で報われた気がした。決して見返りを求めての行動ではなかったが、それでも誰かに褒められるというのは嬉しいもので、それが翼ともなればその嬉しさも一入だ。

 翼に初めて立花響を見てもらえた気がしたのだ。自分らしく強くなりたいと願い、その為に弦十郎から教えを請い、自分自身の戦い方を模索した。未だ戦う意思や覚悟と言われてもイマイチピンとこないが、それでも誰かを守りたいという自分の根っこを見つめ直すことが出来た。只漠然と、手に入れてしまったシンフォギアという大きな力に振り回されるのではなく、力の意味とそれを振るう理由を再確認した。それを翼が認めてくれたのだと思った。

 加えて、部屋の片付けが出来ないという翼の意外な一面を知り、彼女の事をより身近に感じる事ができる様になった。今までは、学校でも二課でも、凛としていてどこか超然とした雰囲気を纏っていた翼の事を、雲の上の存在だと思っていた。何の取り柄もない自分とは違う、特別で選ばれた人間だと心の何処かで勝手に決めつけていた。だが、それは間違いだった。彼女だって人間なのだ。彼女は決して完璧超人という訳ではなく、自分よりも二つばかり年上の、弱点の一つや二つは持っている、恥ずかしい時には顔を赤らめて俯いてしまう可愛らしい人だった。翼が初めて響の事を見てくれた様に、響もまた今日初めて色眼鏡を外して、風鳴翼という一人の少女と向き合った気がした。

 今日一日で、今まで離れていた翼との距離がぐっと縮まった気がして、何だがとても心がぽかぽかと暖かい。

 

「るんたったーるんたったー」

 

 くるくると回転などしてみたり。友人に見られれば悶死物であるが、人通りが少ない道である事も相まって、今のご機嫌な響は周囲の視線を然程気にせず、気の向くままに手足を動かす。

 

 そんな時、ぶるぶるとポケットの中の携帯電話が震えた。

 

 「う、うぇ!?」と実際に誰かに見られた訳でもないのに動揺が口から飛び出し、あたふたとしながらポケットから携帯電話を取り出す。ディスプレイに表示されるのは、特異災害対策二課の文字。まさか二課の誰かに見られていたのではと首をぶんぶんと左右に振り辺りを見回すも誰かの影を見つける事できな――。

 

「随分とご機嫌じゃねぇか? え?」

 

 ネフシュタンの鎧を身に纏った少女が道路脇の林から飛び出し、響の目の前に着地した。

 少女の急な登場に動揺と先程までの自分の奇行を見られていた羞恥で、首から上が急速に熱を持ち始めるのを感じる。

 

「あな、あな、貴女、な、な、なん――」

「あ? 何でってお前、そりゃ目的は一つだろうが。こちとら、テメエを連れてこいってどやされてるんだ。ここらで決着をつけようじゃねぇか」

「み、み、み、みみみみみ」

「み?」

「………………うわーん!! 見られたー!! もうお嫁にいけないー!!」

「はぁ!? ちょ、おま、敵の前で何トチ狂ってやがる!?」

「うわああああああああ!! 恥ずかしいいいいいい!! なんで私はあんな事をおおおおおお!!」

「聞けよ!! お前何なんだよ!! 少しは緊張感持てよ!! だー! くそ! 調子狂う!」

 

 「もう知るか!!」という少女のやけくそ気味な声と共に、ネフシュタンの鎧に備え付けられた鞭が振るわれる。響が生身な事を考慮してか以前に比べると随分と威力は抑えられている。その一撃を遮二無二飛び込んで回避する。携帯電話が手から零れ落ちたが、流石に拾う余裕はない。

 

「うわわっ、あ、危ないでしょ!!」

「ちっ、お前ホント避けるのだけは上手いな」

「なっ! だけって何さ! この間、私の鉄山靠見事に食らった癖に!」

「はっ、あんなへなちょこタックル痛くも痒くもなかったってぇの!」

「ぐぐぐ……でも、一発は一発だもんね! これでも日々成長してるんだから!」

 

 「いくよ、ガングニール!」と声を上げ、胸に手を当てれば、とくんという音と共に鼓動が高鳴った。胸の内から歌が溢れ出る。湧き上がる詞を歌い上げた。

 

Balwisyall Nescell gungnir tron(喪失へのカウントダウン)

 

 銀の繭が響を包み込み、奇跡を宿した機械仕掛けの鎧が響の全身を覆っていく。身に纏うのは、ガングニールのシンフォギア。かつて、北欧神話の主神オーディンが振るったとされる撃槍。

 橙色の鎧を身に纏い、響は眼前の少女と対峙する。

 

『響くん無事か!!』

「師匠! 大丈夫です!」

 

 ヘッドフォンパーツから聞こえる弦十郎の声に応える。

 市街地が近い。ガングニールとネフシュタンの鎧がぶつかり合えば、関係のない人々を巻き込む危険性がある。思い出すのは、黄金の光。自分が振り下ろしたデュランダルにより破壊が撒き散らされたあの光景。聖遺物とは、あれだけの力を秘めているのだ。無闇やたらと振りかざしていい力ではない。

 まずはここから離れないと。そう結論付けた響は、足に力を込めて先程少女が現れた道路脇の林へと足を向ける。

 「一丁前に挑発してるつもりか!」と追いかけてくるネフシュタンの鎧を身に纏った少女を肩越しに見て、響は木々の隙間を駆け抜けた。

 

「響……?」

 

 その光景を影から見つめていた親友の姿に気が付かずに。

 

 

◇◇◇

 

 

 風を切り裂き迫り来る鞭を、立ち並ぶ木々を天然の障害物として利用し、響は避け続ける。足を止めて、しっかりと少女の動きを注視すれば、鞭を掴む事は出来るかもしれないが、市街地が近いこの場所で本格的な戦闘は避けたい。故に此処は逃げの一手である。

 

「くっそ! ちょこまかと!」

 

 背後からは少女の苛立つ声が聞こえる。響が逃げに徹している上に、周りに立ち並ぶ木々が邪魔で思う様に鞭が振るえていない。少女の振るうネフシュタンの鞭は確かに驚異的な性能を誇っているが、鞭という武器の特性上どうしても一度振り被るという動作が必要となり、その動作中の鞭には大した攻撃力を持たせる事は出来ない。鞭がその最大の威力を発揮するのは、腕を振り下ろした後の引き戻す時である。その引き戻した際のしなりこそが、鞭の先端に音の壁を突破する程の速度を齎すのだ。全て弦十郎の受け売りではあるが、その知識は確かに今の響に確たる恩恵を齎している。源十郎との特訓を日々重ねる響は、鞭を受ける側として確かな成長を遂げていた。

 

 そろそろ良いだろうか。市街地から充分に離れたと確信を持てる場所まで、少女との鬼ごっこを繰り広げた響は、額から流れる汗をそのままに、先程まで全力で駆けていた足を止めて、背後へと振り返った。そんな響の様子を目にした少女は、訝しみながらも攻撃の手を止めて、鞭を振るえる距離を保ちつつ響と対峙した。

 

「鬼ごっこはもうお終いか?」

「ここまで来れば、もう市街地に被害は出ないから」

「あたしを相手取って周りを気にする余裕があるたぁ、随分と成長したじゃねぇか。ちょっと前までは、碌に戦えもしなかったど素人の癖によ」

「無関係な人達を巻き込みたくないから必死なんだよ! 私は守る為に戦うって決めたんだ!」

「……テメエのその砂糖菓子みたいに甘っちょれぇ考えには反吐が出そうになるが、その誰かを守るって考えだけは分からなくもねぇ」

「えっ……」

 

 少女の口から漏れる言葉に、響は思わず耳を疑った。まさかあの少女が――出会えば問答無用で遅いかかって来る――響の言葉を一部分ながらも肯定してくれるとは思わなかったのだ。以前の様に「良い子ちゃんぶりが気に食わねぇ!」と脇目も振らずに襲いかかってくると身構えた響にとって、少女の言葉はまさに寝耳に水であった。

 だが良く良く思い出してみれば、今日に限って少女は出会い頭からいきなり襲いかかって来るのではなく、多少なりとも響と会話を交わそうという気配があった。その違いが何を意味しているのかは分からない。だが、少なくとも、少女の中で響に対する評価が少なからず変化した事は、先の言葉からも窺えた。

 

 誰かを守る。その気持ちが分かると少女は言った。

 

 思い浮かべるのは、あの流星群が降った夜に翼と対峙したもう一人の襲撃者。謎のシンフォギアを身に纏った黒髪の少女――蛍が、響と翼の二人を前にしながらも、目の前の少女と親しげに会話をしていたのは記憶に新しい。あれ以来、蛍が戦場に現れた事はない。翼の絶唱により負った傷の数々は、医学の知識に乏しい響の目を以ってしても重症と呼べるものであり、翼が未だ入院を強いられている様に、彼女もまたあの時の傷が癒えていないのかもしれない。

 

「それって蛍ちゃんの事?」

 

 響の言葉に少女がピクリと反応する。その反応が答えだった。いや、あの夜の光景を思い出してから、答えは既に出ていた。傷だらけの蛍を抱えて叫ぶ彼女の慟哭は、あの時呆然とするしかなかった響の耳にもしっかりと焼き付いていた。蛍、蛍と何度も彼女の名前を必死に呼ぶその姿を見て、少女が蛍と呼ばれたあの子の事を大切に思っていることは、突き刺さる程に伝わってきた。

 敵対している相手だと分かっているのに、それでも少女とは争いたくないと思ってしまう。相手はノイズではない。目の前の少女は、誰かの事を守りたいと、誰かを思い遣る事が出来る同じ人間なのだ。戦うという事に固執し、その術や意味ばかりを考えていただけでは気付けなかった事に、今になって漸く気付く事が出来た。

 

 彼女も人で、私も人。だったら、まずは拳を握るのではなく、言葉を紡ぐべきだったのだ。相対するのではなく、分かり合う為の努力をするべきだったのだ。私達はノイズではない。言葉を紡ぐ事ができる人間なのだから。

 

 故に響は、全身を覆っていた緊張を解きほぐし、息を大きく吸って、言葉を紡いだ。

 

「私は立花響15歳! 誕生日は9月の13日で、血液型はO型! 身長はこの間の測定では157cm、体重はもう少し仲良くなったら教えてあげる! 趣味は人助けで、好きなものはご飯アンドご飯! あと、彼氏居ない歴は年齢と同じ!」

「な、なに? 何を言っていやがる?」

「私のプロフィールだよ! 私は貴女の事をもっと知りたい! でも、人に名前を聞くときは、先ず自分からって言うし、貴女の事を知るだけじゃなくて、貴女に私の事も知ってもらいたい! だから、自己紹介! これが、私――立花響だよ!」

 

 訳が分からないと困惑する少女に向かって、響は更に言葉を続ける。彼女の事を知る為に、彼女に自分を知ってもらう為に。

 分かり合えたと言うにはまだ交わした言葉は少なく、互いの事を理解しているとはとても言えないが、すれ違っていた翼とだって、相手を知る事でお互いに見つめ直す事ができた。自分で勝手にかけていたフィルターを外して、翼という個人を見る事ができた。そしてそれは、多分、翼も同じ。あの病室でお互いがお互いを感じ合えた。そう思う。

 

 だから――。

 

「話し合おうよ! 私達は、戦っちゃいけないんだ! ノイズと違って私達は人間なんだよ! 言葉を紡げる! 話し合える! そうして交わした言葉は、きっと誰か(貴女)に届くから!」

 

 ――私は、貴女と、分かり合いたい!

 

 肩で息をしながら、伝えたい事は言ったと響は目の前の少女を見遣る。戦場で何を馬鹿なことをと思われるからもしれない。それでもと口にしたのは響の心の底からの思い。

 立花響にとっての戦いは、決して誰かを傷付ける為のものではない。何時だって響は、誰か守りたいと思いこの拳を握ってきた。その気持ちが分かると、少女は言った。そんな彼女の事を知りたいと思う。誰かを思い遣る気持ちを持った彼女が、そうまでして戦いの先に何を求めるのか。それはどうしても響達と敵対しなければ成し遂げられないものなのか。もしも、手を拳として交わすのではなく、手と手を繋ぎ絆を紡ぐ事が出来るのならば、響はその道を歩みたいから。

 

「……雪音クリスだ」

 

 唖然と響の言葉を聞いていた少女が躊躇いがちに口を開いた。小さな声だった。遅れてその口から発せられたのが、少女の名前だという事に気付く。

 

「クリスちゃん?」

「ちゃん付けはやめろ」

「や、やったー! クリスちゃんが名前教えてくれたー! ひゃっほう!」

「この馬鹿! 見てるこっちが恥ずかしいからやめろ!」

「うふふー、そっかー、クリスちゃんって言うのかー。クリスちゃん、クリスちゃん、クリスちゃん。よし、覚えたよ。私、あんまり頭は良くないけど、クリスちゃんの名前はしっかりと覚えたから!」

「そういうのをやめろって言ってんだよ!」

 

 雪音クリス。それが少女の名前。顔を覆うバイザー越しにもクリスの顔が朱に染まっていることが分かる。いつも険しい表情しか見せてくれなかったクリスが、初めて見せてくれた彼女らしい一面に頬が緩む。

 実は恥ずかしがり屋なのかもしれない。普段の乱暴な口調と勝気な態度とのギャップに驚くと共に、クリスの事を知る事が出来たという事が嬉しくてたまらない。

 

 その幸せのままに何度も彼女の名前を呼ぶ響だったが、次のクリスの言葉に冷水を浴びせられた様な気がした。

 

「何か勘違いしてそうだから、言っておくけどな。人間は分かり合えねぇよ」

 

 淡々と語るクリスの言葉が、響の熱を冷ます。此方を真っ直ぐと見つめるクリスの瞳が、それが彼女の本音である事を伝えていた。

 

「な、何で? だって、名前教えてくれたのに」

「名前を教えた程度でのぼせ上がるな。名前は、これからの事に必要だと思ったから教えただけだ」

「これからの事? どういう事?」

「お前、あたしと一緒に来い」

 

 にべもなく発せられたのは、勧誘の言葉。クリスが響の事を連れ去ろうとしているのは知っていたが、まさか此処に来て直接誘いの言葉を受けるとは思わなかった。今までは無理矢理に連れ去ろうとしていたのに、今になって響の意思を問うてくるクリスの意図が分からない。予想外の出来事に、響の頭は混乱でグルグルと回る。

 そんな響の様子に気付いたのか、クリスは更なる言葉を重ねていく。

 

「お前はこの世界が理不尽だと思った事はないか?」

 

 クリスの言葉に、ドクンと心臓が跳ねた。心の底にしまいこんだ黒くて醜い感情が顔を覗かせる。

 デュランダルを握った時に思い出した光景が、再び響の意識に映り込む。生き残った事がそんなにいけない事なのか。あの地獄を経験していない赤の他人が、何故響を――響の家族を悪し様に罵るのか。どうして父は、全てに背を向け、響達を置いていってしまったのか。

 ジクリと、黒い感情が、響の心に広がっていく。気付きたくない。認めたくない。けれど、その泥の様にドロリとした黒い感情は、響の心の中に根を張り存在していた。

 

「強者が弱者を虐げる。信じる人に裏切られる。善人ばかりが損をして、それを陰から笑う悪人がいる。この世界は、そんな理不尽に溢れている。人を、人だと思わない様な、畜生ばかりが我が物顔でそこら中にうようよと闊歩してやがる」

「そ、そんなこと……」

「違うって言い切れるか。断言出来るか? 出来ないだろう? 今のお前の顔を見りゃ分かる。お前だってこっち側の人間だ。世界から、理不尽を押し付けられた側の人間だ」

 

 言い返せなかった。響は多少なりとも、クリスの言葉に「そうだ」と感じ入る部分がある事を自覚してしまった。自覚してしまえば、後は堕ちるだけ。この世界への不満が、響の心を満たしていく。

 

「歴史を紐解いてみろ。何時かの時代も、何処かの場所も、争いに満ち満ちていやがる。ずっとずっと昔から、人類は誰かと手を取り合うんじゃなくて、誰かと争うことばかりしてやがる。飽きもせずに、何度も何度も何度も。何でだと思う? 分かり合いたいと、信じ合いたいと願っている奴だっていた筈なのに。何時だって人間は、最後にその手を振り払う」

 

 顔を顰め、世界への怒りを露わに、クリスの言葉は紡がれていく。

 

「人間は分かり合えねぇ。それはどうしようもない事だ。だって、世界がそういう風に作られちまってるんだからな」

「世界が、作られてる……?」

「だから、あたしは――あたし達は、足掻くんだ。人類に科せられた呪いを解く為に。そしていつかあいつと笑い合うんだ」

「それがクリスちゃんのやりたい事?」

「そうだ。あたしは世界を変える。人と人が手を繋ぎ合える世界を作り出す」

 

 クリスが、その手を差し出す。

 

「お前が誰かと本気で分かり合いと思うんなら、あたしと一緒に来い」

 




 クリス「もし あたしの みかたになれば せかいの はんぶんを おまえに やろう」
 違う。そうじゃない。

 本当は今回で原作7話Aパートまで終わらせる予定だったのですが、思ったよりも文量が多くなったので分割しました。予定は所詮予定だと言うことです。


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