休日の喧騒に包まれる街の中心街。駅前に堂々と座するこの街らしい前衛的なデザインをしたモニュメントの前に、小日向未来の姿はあった。いつも以上に気合の入った服装に、いつも以上に凝った化粧。頭の天辺から爪先まで、乙女にとっての戦装束に身を包んだ未来は、端から見れば、「あぁ、これから彼女はデートなんだな」と誰しもが思うであろう気合の入れっぷりである。
しかし、当の本人はそんな周囲からの生暖かい目線は毛ほども気にせず、時折、手に持った可愛らしいポーチから手鏡を取り出し、自身の最終チェックに夢中であった。
今日は、久しぶりに響とのデートなのだ。
ここ最近、響は二課での任務や弦十郎との特訓に多くの時間を割かれ、休日をゆっくりと過ごすなんてこととは無縁であった。未来とて事情を知った今となっては、ノイズとの戦いに響がどれだけ本気で取り組んでいたかも理解している。だが、それでも、朝はいつの間にかベッドを抜け出し、授業を頻繁に休むようになり、門限を平気で破るようになった響に不安を覚えない訳ではないのだ。
響が危険な事をしている。それはとても重要な――それこそ国家規模の――仕事で、誰かの命令でそうしているのではなく、響は自分の意志で戦場に望んでいる。響は人助けという、彼女が彼女らしくある為の、当たり前の事をしているにすぎないのだ。
未来は、その事にあれこれ文句をつけるつもりは無い。そんな響を許すと――受け容れると未来は既に決めたのだから。
故に、この不安は、響に対する不安ではなく、未来自身に対する不安なのだ。
未来には、特別な力なんて何一つない。響や翼の様に、聖遺物を起動させる歌を歌える訳でもなければ、弦十郎の様に武術に精通している訳でもない。得意な事と言えば、中学の時に打ち込んだ陸上ぐらいなもので、少し足が速くて、槍投げが出来るぐらいである。とは言え、それも記録が伸び悩む程度の才能しかなく、足の速さに至っては、最近になって遂に響に抜かれてしまった。
そんな只の女子高生に過ぎない未来は、響に何をしてあげられるのだろうか。戦場で、生命を賭して、歌を歌う親友に、未来は何をしてあげられるのだろうか。未来は、いつまで響の陽だまりであり続けられるのか。
そんな事を最近は良く考える。
悶々と悩んでいた未来だったが、手にした鏡に映る自分のどんよりとした暗い顔を見て、ぶんぶんと大きく頭を振って余計な考えを追い出した。
折角のデートだと言うのに、何を暗い顔をしているのだろうか。こんな顔をしていては楽しめるものも楽しめないし、何より忙しい中、態々時間を作ってくれた響に失礼である。
悩みは一旦脇に置いて、今は、今日という日を楽しむ。そう決意を新たにした未来は、もう一度だけ手鏡を覗き込み、先程までの暗さを吹き飛ばす為にニコリと微笑んでみる。鏡の前でそんな事をしている自分が可笑しくて、自然な笑みが溢れた。
携帯電話を取り出し、時間を確認する。いつの間にか待ち合わせの時間を10分程過ぎている。
辺りを見回してみるも、響の姿は見当たらない。この人混みだ、未来が見落としているという可能性もあるが、恐らくはいつもの寝坊だろう。思えば未来が部屋を出た時には、響はまだ夢の中だった。着飾っている姿を披露するのは、デート中が良かった為に響を起こさなかったのは失敗だったかもしれない。
同じ部屋に住んでいるのだから、一緒に家を出ればいい? 馬鹿を言ってはいけない。
待ち合わせも一つのデートの醍醐味である。大好きな人と今日一日どんな時間を過ごそうかと想像を膨らませて、精一杯おめかしした自分の服装におかしな点はないかとそわそわしながら相手を待つ時間は、とても心がポカポカとしてふわふわとして幸せな時間だ。そんな時間を態々無くすなど以ての外である。
ただでさえ、未来と響は同じ部屋、同じクラスであり、1日の殆どの時間を――最近は少なくなったが――共に過ごす。その時間が決して嫌だとは言わないが、それでも偶にはこうして、響から距離を取って、彼女の事で頭の中を一杯にすることは、未来にとって響が自身にとって如何に大切な存在であるかを再確認する良い機会なのだ。
今日はどこに連れて行ってくれるのだろうか。
未来が響と出掛ける際のエスコート役はいつも響だ。勿論、お互いに話し合って、「彼処に行きたい」「あれを食べたい」などとデートの行き先や目的を決めることは多々あるものの、今日に限っていえば、未来はデートコースの全てを響に一任していた。
今日は飽くまでも、響が未来に隠し事をしていた事へのお詫びデートである。響がそのデートコースを決めるのは当然のことだろう。
別に未来は、響が隠し事をしていた事に対して、怒りを引きずっている訳ではない。二課の職員から諸々の説明を受けた今では、シンフォギアという強大な力に対して響が口を閉ざさざるを得なかった理由にも得心がいっているし、何より、響のこれまでの数多くの無理無茶無謀に付き合ってきた未来はそこまで狭量ではない。
だが、そんな未来でも、限界という物がある。これは、あんまりではないだろうか。
「あ、未来ー! お待たせー!」
「こ、こら、立花、あまり引っ張るな! 服が伸びるだろう!」
「ふふふ、翼さんとっても気合の入った一張羅ですもんね!」
「べ、別に気合など入っていない! ごく普通の普段着だ!」
「またまた~、今日遅れたのは翼さんの所為じゃないですか。着る服が決まらなかったんじゃないんですかー?」
「なっ、ち、ちがっ、そ、それは! 立花が今朝になって急に遊びに行こうなどと誘うから、準備に手間取っただけだ!」
「ほほーう、それはつまり手間取るぐらいには準備に手間暇かけたという事で宜しいですかな?」
「たーちーばーなー!!」
「いひゃい! つばさひゃんもみふもにゃんでわらひのほっぺをまっしゃひにねりゃうんれふか!?」
――ナニコレ。
響の呼び声に反応して其方を振り向けば、未来の視界に映るのは、仲睦まじく隣り合って歩く響と翼の姿。2人共におめかしをして、キラキラと眩しく輝いている。
翼は言わずもがな、アーティストとして活躍し、歌声だけでなく、その容姿からもファンが多い。スレンダーな体型を活かしたすらっとしたハーフパンツのパンツルックを見事に着こなし、顔を隠す為か大きめの帽子を深めに被っている。
響は、彼女らしいピンクのワンピースを身に纏い、動く度にふわりと揺れるスカートの裾が非常に愛らしい。普段の快活な響も可愛らしいと未来は思うが、今日の服装は可愛らしさを前面に押し出しており、少なからず、響がおしゃれに気を使い、彼女なりに気合の入った衣装である事を窺わせる。
これが、未来とのデートの為に響が頑張った姿であれば、どれだけ胸が温かくなっただろうか。
「……いたた、もう翼さん、少しは手加減してくださいよ。って未来、どうかした?」
「………………別に」
「あ、あれ? 何か機嫌悪い? もしかして待ち合わせに遅れたこと怒ってる?」
「……なぁ、立花。今日私が来る事を小日向は知っていたのか?」
「いえ、サプライズの方が、未来も喜んでくれるかなーっと」
「……すまん、小日向」
「……いえ、翼さんは一切悪くありません。私も翼さんとこうしてお出掛けできるのはとっても嬉しいです。只――」
――どこかのお馬鹿さんの余りの鈍感さに、どうしたものかと。
「私は馬に蹴られるのはごめん被るぞ」と言った翼に対して、「大丈夫です。まず馬に蹴られるべきは、別の人です」と未来は返す。当の本人である響は頭の上に大量のクエッションマークを浮かべ、こてんと首を傾げている。
響は周りの空気が読めない訳ではない。自身への好意に鈍い訳でもない。だと言うのに、どうしてこう肝心な所では鈍感になるのだろうか。響の昔からの悪癖の一つではあるが、治せと言って治るような物ではない事を、未来は今の今まで忘れてしまっていた。
「はぁ、もういいです。響は、昔からそういう子でした。それを忘れて、2人きりで、と言いくるめなかった私にも油断があったんだと思います」
「……小日向も苦労しているんだな」
「小学生の頃からの付き合いです。もう慣れました」
「何かあれば言ってくれ。詫びになるかは分からないが、出来る限り力を貸そう」
「あ、あのー、お二人共、一体何の話を……」
「はぁ、これですよ。翼さん、どう思います?」
「うむ、よく分かった」
「???」
「……こんな子ほっといて行きましょう翼さん」
「……そうだな。立花は少し反省が必要だろう」
「ちょ、ちょっと待ってよー! 2人共、置いてかないでー!」
◇◇◇
不穏な空気に包まれながら始まった翼達3人の休日だったが、それでも始まってしまえば最初の気まずい雰囲気は何処かへ吹き飛び、楽しい1日を過ごす事が出来た。
駅に隣接するショッピングモールでは、時には冷やかし、時には財布の紐を緩めて、色々な店を巡った。次に向かった映画館では、今話題の恋愛ものの映画を見て、3人共瞳を潤ませた。
他にも、美味しいと有名なソフトクリームを食べたり、服屋で相談しながら服をお互いに選びあったり、ゲームセンターでは響が奇声を発したり、カラオケでは翼の意外な演歌好きが発覚したりと充実した1日を過ごす事が出来た。途中、翼の正体が露呈しかけて、ファンから逃げるなんて一幕もあったものの、それを含めても楽しいひと時だった。
そんな楽しい時間を過ごした3人は、街を一望できる高台にある公園を目指して、長い階段を登っていた。
肩で息をする翼の視線の先には、響と未来の2人の背中が見える。何故幼い頃から鍛錬を重ねてきた翼よりも、あの2人は元気があるのだろうか。翼ですら疲労困憊だというのに、響と未来は仲睦まじくお喋りをする余裕すら感じられる。
「はぁ……はぁ……2人共、どうしてそんなに元気なんだ……」
「翼さんがへばり過ぎなんですよ!」
「こら響、そんな言い方しないの。翼さん、今日は慣れないことばかりだったから……」
幼少時から風鳴の人間として相応しくなる為の教育を受け、
奏とだってこんな事はした事がない。
奏は基本的には両親の仇であるノイズを討つ為の訓練に当てていたし、翼同様にツヴァイウイングとしての芸能活動に忙しかった。
偶の休日には、翼は政府から特別に許可を貰った免許証を手にバイクに跨っていたが、奏はその休日でさえも訓練に当てていた。何度かツーリングに誘ってみた事があるものの、奏がその誘いに応えたのは片手で数える程しかない。その鬼気迫る訓練に弦十郎も頭悩ませていた。
それでも、奏が翼とは違い固いだけの槍にならなかったのは、きっと、戦いの向こう側にあるものに、奏が気付いていたからだ。受け継がれる想いと生命。奏の槍は何時だって、敵を屠る為ではなく、誰かを守る為に振るわれていた。翼などよりもよっぽど彼女の方が防人らしかった。
翼はもう奏よりも年上になってしまったというのに、彼女の背中はまだ遠い。けれど、最近になって、漸く彼女と同じ目線に立って物事を考える事が出来るようになった気がするのだ。
固いだけの剣ではなく、絶刀の名に恥じない剣として撃槍の隣に立つ事が出来る。
奏を失ってから凍っていた時間が漸く動き始めた気がした。
「ありがとう2人共」
自然と翼の口から感謝の言葉が漏れた。本当に楽しい1日を過ごさせてもらった。だからこそ、心の底から溢れ出た言葉だった。
「今日は初めてだらけの1日だったけど、本当に楽しかった。貴女達に沢山の初めてを貰って、今日1日で私の世界が広がった気がする。私は知らないことばかりだな」
「そんな事ないですよ」
響は翼の手を掴むと勢い良く階段を駆け登り始めた。「ちょ、ちょっと!? 立花!?」という翼の制止の声を聞きもせず、翼の手を引く響は、公園のフェンスの前で漸く足を止め、口を開いた。
「見てください。此処から見える景色全部が翼さんが守った世界です。此処から見える景色だけじゃありません。翼さんは、今までもっと沢山の場所で、もっと沢山の人を助けてきました。昨日に翼さんが戦ってくれたから、今日に皆が暮らせている世界です。翼さんが気付いていないだけで、翼さんの世界は、翼さんが思っているよりも、ずっとずっと広くて大きいんです。だから、知らないだなんて言わないでください」
響の言葉に翼は視線を上げ、夕暮れに染まる街並みを初めてその瞳に映した。綺麗だった。橙の光を反射して、人も、建物も、木々も、海も、全部がキラキラと輝いて、日が落ちるその寸前の仄かな哀愁と儚さを宿している。
待ち合わせをした駅前。不覚にも目が潤んだ映画館。評判通りの味に舌鼓をうったソフトクリームの屋台。少しだけ恥ずかしいワンピース姿を晒した服屋。響が散財した街中のゲームセンター。思い切り演歌を歌う事が出来たカラオケ。今日訪れた場所が、全部この景色の中にあって、そこには沢山の人がいて、響や未来、そして翼もその中にいて。
この景色が、翼の守った世界。翼が残した戦いの証。翼にとっての戦いの先にあるもの。
「……奏もこんな気持ちだったのかな」と思わずポツリと呟いた言葉は、誰に聞かれるでもなく、吹き抜けた優しい潮風に攫われて溶けて消えた。
柄にもなくセンチメンタルな気分になった翼の意識を現実に引き戻したのは、バッグから鳴り響く飾り気のないコール音とバイブレーション。このコール音は普段翼がプライベートで使用している携帯電話の物ではない。その証拠に、翼のバックからだけではなく、響のバックからも同じ音が響いている。
「ちょっと響、いきなり走らないでよ。びっくりするじゃない……って何か鳴ってる?」
「翼さん、これって……」
翼は響の言葉に頷き、2人してバックから無骨な通信機を取り出し耳に当てた。同時に聞こえてくるのは、オペレーター――友里あおいの焦りを含んだ声。
『翼さん、響ちゃん! 休日にごめんなさい、実は今しがたレーダーがイチイバルのエネルギー波形を感知。トレースしようとしたら、直ぐに反応が途絶えたの!』
「イチイバル……ってことは、クリスちゃん!?」
「発信源はどこですか?」
『それが……翼さんと響ちゃんの現在位置から2時の方角、直ぐ近くなの。直ぐに二課の職員たちを急行させるけど、2人には先行して周辺の調査をお願いしたいの』
「了解しました。直ぐに現場に向かいます」
翼は通信機に送られてきた座標を素早く確認すると、響に一度目配せをしてお互いに頷きあい、周囲に自分たちの人影がないことを確認してから聖詠を口にした。
「
「
白銀の繭が二人を包み込み、超常の力が顕現する。
「響……翼さん……」
「すまない、小日向。休日はこれまでのようだ」
「ごめんね、未来。埋め合わせは今度必ずするから」
「ううん、気にしないで。じゃあ、私は直ぐに避難するから」
寂しげに微笑む未来に少しばかりの申し訳無さを覚える。一瞬、未来を連れて行くべき悩んだが、状況が不透明であり、この先に待ち受けているのがクリスであるならば、そこは戦場になる可能性が高い。イチイバルを身に纏った彼女の実力は翼に追随する程であり、翼とて一対一であれば、確実に勝利を収めることは敵わないだろう。加えて、謎のシンフォギアを身に纏う蛍と呼ばれる少女とネフシュタンの鎧を身に纏ったフィーネ。あの2人のどちらかがクリスと共に居るのならば、苦戦は免れないだろう。特にフィーネの事が気がかりだ。彼女の実力は定かではないが、《
休日を楽しんでいた意識から、戦場で戦う防人の意識へと切り替えて、翼は響を伴い、座標に示された地点へと急ぐ。
故に、翼は、思っても見なかったのだ。
「つ、翼さん! あれ!」
「あれは!?」
戦場だと思い飛び込んだその場所に、血に塗れた裸の少女――クリスが横たわっているなどと。
◇◇◇
クリスが目を覚まして、初めに目にしたのは真っ白な天井だった。微かに鼻腔を擽るのは薬品の匂い。屋敷のメディカルルームに似ているが、純白のカーテンから覗く景色は木々が生い茂った森林ではなく、小高い丘から見下ろす近代的な街並みとその先に広がる青い海。少なくとも、クリスが知る場所ではない。
「あたし、生きてる……のか……」
「少なくとも此処が天国でも地獄でもない事は確かだな」
「ッ!? てめえは――っ痛!?」
「無理をするな。絶唱の負荷がまだ治りきっていない。随分と無茶をしたらしいな。医者が頭を抱えていたぞ」
呟いた言葉に返事が返ってきた。窓とは反対側、声が聞こえてきた方を振り向けば、そこには熊のようにがっしりとした体格の偉丈夫が居た。ライオンの鬣のように逆立った赤い髪に、同色の顎髭、ワインレッドのワイシャツ。何処に視線を向けても赤、赤、赤。だが、その派手な外見は決して嫌みたらしくはなく、この男の気勢をものの見事に表している。
この派手な人物をクリスは知っている。フィーネをして人外だと言わしめる特異災害対策機動部二課司令――風鳴弦十郎がそこに居た。
「ハッ、てめえが居るってことは、此処は差し詰め二課お抱えの病院の一室って所か」
「その通りだ。怪我については安心してくれていい。一時は危険な状態にあったが、峠は越えたそうだ」
「……敵に情けをかけて、何が目的だ」
「やれやれ、三日も目を覚まさなかったとはいえ、起きるなりにこれとは。とんだじゃじゃ馬だな」
「あ゛? 喧嘩売ってんのか? ……待て、三日? 三日だと? あたしはそんなに眠りこけていたのか?」
三日。それだけの時間が過ぎて、何故自分は生きているのだろうか。此処は二課のお膝元で、それだけの時間があれば、櫻井了子に扮したフィーネが死に体のクリスに止めを刺すには十分過ぎる時間だろう。
蛍がダイレクトフィードバックシステムに呑まれかけたあの時、クリスはあの場所から逃げ出した。
蛍を連れて行きたい気持ちはあった。だが、あの場でこれ以上クリスに何が出来ただろうか。ダイレクトフィードバックシステムに意識を乗ったられた蛍と身体を高速で回復させつつあったフィーネ。あの2人を相手取って、絶唱を歌い満身創痍だったクリスに一体何が。
諦めた訳ではない。怖くて逃げ出した訳でもない。クリスは、彼処で終わる事だけは出来なかった。あの場所で果てる事だけは、あってはならなかった。だって、それは、蛍を救う機会を永遠に失う事を意味している。それだけは、駄目だ。だから、クリスは自分の情けなさと、惨めさと、怒りを全て胸の内に理性で押し留めて、朦朧とする意識の中、只管に足を動かし続けた。追撃に放たれたノイズを何体か倒した気がするが、それも全て曖昧な記憶の彼方だ。
「了子君には、連絡していない」
「……なに?」
「君を発見してからの3日間。徹底した情報封鎖を行った。君が保護された事を知っているのは、極々限られた人間だけだ」
弦十郎から放たれた言葉が、驚きと共にクリスの疑問を氷解させていく。弦十郎の言を信じるならば、未だクリスが生命を繋いでいることも納得がいく。だが、何故? 納得すると同時に、新たな疑問が湧き上がる。何故、二課の重要な地位にいる了子にだけ知らせないのか。それでは、まるで――。
「お前……知っていたのか……」
「…………疑念は以前からあった。只、俺が信じたくなかったんだ。君達が、俺たち二課の情報に明るいこと、君の身に纏うイチイバルとネフシュタン、そして蛍という子の謎のシンフォギア。疑わしい事は、挙げればキリがない」
「…………」
「確信はなかった。確たる証拠は何一つなかったし、米国の存在も無視出来るものではなかった。だから、この考えは部下にすら教えていない。俺がこの考えを口にしたのは、君が初めてだ。……そして、君の反応が、何よりの証拠になった」
「話してはくれないだろうか」、そう言って此方を真っ直ぐに見つめる弦十郎。その真摯な眼差しは、敵であったクリスの事を微塵も疑ってはいない。どうして、そんな目をクリスに向けられるのか。クリス達と弦十郎達との関係は、そんな簡単に清算できる程、温い因縁ではなかった筈だ。クリスは、今まで多くの二課職員の生命を灰にしてきたし、翼を重症に追い込んだ事もあった。逆に、此方も蛍がネフシュタンを使わなければならない程の傷を負った事もあった。生命のやり取りを――殺し殺されの関係だったのだ。
「……あたしが口を割ったとして、あんたはそれを信じるってのか」
「信じよう」
弦十郎の間を置かずはっきりとした答えにクリスは絶句した。弦十郎の飾らない言葉、茶色の双眸から伸びた視線が、余りにも、真っ直ぐで。
「なんで……」
「大人が子供の言うことを信じてやれなくてどうする」
「……あたしが大人が嫌いだって知ってて、それを言うのかよ」
「応とも。子供に胸を張れないようでは、大人なんざ務まらん」
「……ハッ、あまっちょれえ」
「よく言われる」
ポンと急に頭に手のひらが置かれた。そのまま乱暴に、頭を撫でられる。それがなんだか無性に懐かしくて、温かくて、振り解けない。この包み込むかのような温かみを、クリスは、確かに昔、感じたことがある。顔を崩して、朗らかに笑う弦十郎の姿に、何故か姿形は似ても似つかないのに、父の姿を幻視した。父はこんな熊のような大男ではなかったし、頭を撫でる手つきだって、もっと優しく繊細だった。けれど、こんなにも、心地良いと感じるのは何故なのだろうか。
この世界は残酷で、理不尽だ。人は誰かと手を取り合うのではなく、誰かと争う事を運命付けられている。強者が弱者を虐げ、信じた人には裏切られて、善人ばかりが馬鹿を見る。世界は変わらず、昔からそうあり続けている。
けれど――こんなにも温かいものだって、この世界には確かに在るのだ。
今、此処にある温かさを、嘘だとは思いたくない。あの時聴いた二人の歌が、何時まで経っても耳から離れない。蛍と紡いだ絆は、決して、紛い物などではない。
あったかくて、眩しいものは、何時だって、クリスの側にあったのだ。それを受け容れることを拒んでいたのは、信じる事に怯えていたクリス自身。
目を背けるのは、もう止めよう。
疑う事に慣れるのは、もう止めよう。
自分の弱さを世界の所為にするのは、もう止めよう。
この胸に宿すのは冷たい疑心ではなく、温かさを信じる一握りの勇気であるべきだ。
希望を持て、理想を掲げろ、夢を哮れ。
「あの、さ――」
一握りの勇気をもって、雪音クリスは、最初の一歩を踏み出した。
多分、最後の日常回です。此処から先はノンストップ。
プロットでは、残り6話ぐらいの予定。但し、EPISODE 17~21がプロットの段階では2話だった事を考えると、倍以上に膨れ上がる可能性が無きにしも非ずです。