戦姫絶唱シンフォギア ~歪鏡に選ばれた少女~   作:きおう屋

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 なんとか年内に間に合いました。
 あんまり百合百合させられませんでした。無念です。



EPISODE 07 「漏れいずる不協和音」

 大小様々な機械と床を這うケーブルに埋め尽くされた廊下を、雪音クリスは重い足取りで歩んでいた。

 時刻は昼。太陽は真上に位置している。割と寝坊助なクリスではあるが、此処まで寝過ごすと言うのも珍しい。と言うのも、それは、間違いなく昨日のフィーネのお仕置きのせいである。あの後、フィーネから最低限の傷の治療を受けて、傷の痛みからかまともに動くことも出来ずに、クリスは治療室の寝台の上で一夜を明かした。明かしたと言っても、刻まれた傷痕から感じる焼けるような痛みに、まともな睡眠など出来る筈もなく、夜中に何度も眼を覚ました。漸く、落ち着いて瞳を閉じることが出来たのは、明け方になってからだ。なので、こんな時間に目を覚ましてしまったのはクリスのせいではない。絶対に、フィーネのせいだ。

 しかし、クリスの重い足取りは、刻まれた傷跡に端を発するものではない。いや、多少なりとも、影響がないとは言わないが、それが主だった理由でないことは確かだった。

 

 その重い足取りの向かう先には、クリスと蛍の部屋がある。

 

 クリスと蛍は、二人で一つの部屋を私室として使っている。元々クリスがこの屋敷に来る以前から蛍が使っていた部屋に、クリスが転がり込む形になった訳だが、勿論、そんな恥ずかしいことを、クリスから提案する訳もない。

 全ては、あの雪の日に、クリスを屋敷に連れて来ておきながらも、部屋の一つも用意していなかったフィーネの責任だ。他の部屋は、謎の薬品やら機械やらに埋め尽くされていてまともに生活できる環境ではないと蛍に聞かされ、尚且つ、蛍にはそれらを勝手に片付けて良いかどうかの判断がつかないとの事だったので、クリスは初日から蛍と部屋で、同じベッドで寝る羽目になってしまった。結局、フィーネはそれから一週間近く帰ってくることはなく、なし崩し的に、蛍と同室で枕を同じくしてしまった。それが、何故か、今まで、続いている。

 クリスは、何度も言ったのだ。部屋を分けようと。しかし、その度に、蛍は無表情の仮面の下からどこか寂しそうな空気を匂わせ、フィーネに言ってみても、新たに部屋を用意するのが面倒くさいだの、家具一式を新たに運んで来るのが面倒くさいだのと言って、取り合ってくれなかった。察するに、どうも、フィーネは最初から、クリスと蛍を一緒の部屋で生活させようとしている節がある。なんて事を考えるのだろう。まるで、悪魔のような女だ。

 経緯はどうあれ、クリスが今から向かうのは自分の部屋でもあるのだ。何をそんなに緊張する必要がある。そう自分に言い聞かせてみるものの、クリスの足取りは一向に軽くならない。

 クリスの足取りが此処まで渋っているのは、昨日去り際に放ってしまった自分の不用意な一言が原因だ。

 

『後で見舞いに来るからな! 苦しかったら通信機使えよ! 直ぐ飛んでいくからな!』

 

 結局、クリスはあの後、蛍を見舞いに行けていない。その事が、クリスの心に影を落としていた。

 「後で」というのが、一体何時までを指す言葉なのか。解釈は人によるとは思うが、あのニュアンスで「明日、お昼頃に見舞いに来るからな!」と捉える人はいないだろう。少なくとも、その日の内には訪れると大概の人は考える筈だ。

 蛍はあれでいて、約束事にはかなり煩い。それが、両親に裏切られた過去に依るものなのか、根が真面目な彼女の為人に依るものなのかは分からないが、蛍は約束というものを非常に尊ぶ。

 例えそれが、去り際に思わず口を出た衝動的な一言であっても、彼女にとっては一つの大切な約束であることには変わりないだろう。

 それをクリスは破ってしまった。

 きっとあの言葉は、蛍に届いていただろうし、もしかして、もしかするとだが、ベッドの上で碌に身体も動かせず大好きな歌も歌えない状況でクリスがお見舞いに来る事を彼女が心待ちにしていたらと考えると心が痛む。

 フィーネにお仕置きを受けて、まともに身体を動かすことが出来なかったため仕方ないと言えば仕方ないのだが、それを言い訳にしては、湖に落ちたのは自分自身の所為だと考えている自虐的な彼女の事だ。クリスがフィーネからお仕置きを受けたことすら自分の所為だと思いかねない。そんな事を彼女に思わせる訳には行かない。

 つまり、女々しい言い訳などせずにクリスが大人しく蛍のお叱りを受け入れるしかないのだ。

 

 気付けば、目の前には目的地のドアがある。

 

 意を決して、ドアを数度叩く。自分の部屋でもあるのに、ノックは必要だろうかとも思ったが、一応病人がいる手前、最低限のマナーは必要だろう。

 

「クリス?」

「は、入るぞ」

 

 蛍の返事を受け、ドアを開けて中に入れば、昨日と変わらず彼女はベッドの上に横たわっていた。しかし、その顔色は随分と良くなっているし、濁音だらけだった声も、まだ少し掠れてはいるものの普段の彼女の声に戻ってきている。

 フィーネの言った通り、一晩でかなり回復したようだ。その事に、少しほっとする。顔には相変わらずの無表情が貼り付けられているが、今はそれが蛍が回復した何よりの証左だと思えば、とても嬉しい。

 クリスは起き上がろうとする彼女を手で制し、ベッドの端に腰を下ろした。

 

「調子はどうだ? 辛くないか?」

「悪くないです。熱も下がりましたし、鼻詰まりも治りました。まだ、少し咳は出ますけど、身体の異常はそれぐらいです」

「そ、そうか。良かった……」

 

 「ご心配をお掛けしました」と蛍はぺこりと首を下げる。蛍には何の責任もないというのに態々頭を下げる彼女の律儀さに、クリスは何とも言えない収まりの悪さを感じる。

 蛍が風邪に苦しんだのは、純粋にクリスの体調を心配してくれた彼女の優しさに、恩を仇で返す真似をしたクリスが悪いのだから、どうか謝らないで欲しい。

 謝らなければいけないのは、クリスの方だ。蛍の体調が回復していた事にかまけて忘れていた、この部屋に来て先ずはしなければならない事を思い出した。

 

「あ、あのよ、昨日は――」

「クリスこそ傷の具合は平気ですか?」

 

 クリスが意を決して開いた口は、蛍の先制攻撃を受け、言葉を続けることが出来なかった。被せる様にして放たれた蛍の言葉に瞠目し、思わず、傷跡を隠すように両手を動かしてしまう。しまったと思っても時既に遅く、クリスのその様子を赤い両目でしっかりと捉えていた蛍は「やっぱりそうですか」と苦々しさを含んだ声を漏らす。

 何故、クリスが傷を負った事を蛍が知っているのだろうか。クリスが身体を動かすことが出来なかったように、蛍も又、昨日はベッドの上から立ち上がることすら出来なかった筈だ。情報の得ようがない。

 ぐるぐると回る思考の中で必死に考えを巡らせるクリスだったが、その答えを蛍はあっさりと口にする。

 

「心配性のクリスが、一度も様子を見に来ないなんておかしいと思ったんです」

「そ、それだけか? それだけの理由で?」

「思考の出発点は、そこからです。クリスが何の理由もなく約束を破らないことぐらい知っています。それから、来ないのではなく、来れないのではと思い、その原因を考えていました。確信したのは、今さっきです。カマをかけたら、クリスがものの見事に引っかかってくれたので」

「う、うぐぐ……」

 

 蛍の思惑にまんまと乗せられてしまったクリスは、口から良く分からない音を漏らしながら、自分の顔が赤く染まることを止められない。

 この赤面症は、本当にどうにかならないものか。何とかしようと思って何とか出来るものではない事はクリスとて承知しているが、幾ら何でも自分の顔は朱に染まり易すぎる。

 無表情の下でくすくすと笑う「クリスは分かりやすいですね」という蛍の言葉に、ぶわっと耳まで赤が広がる。

 

「すみません。少し意地悪をしました」

「あ?」

「本当は、午前中に様子を見に来たフィーネが凄くご機嫌だったので、その様子を見た時には答えを確信していました」

「……は? は?」

「クリスにカマをかけたのはですね。酷くビクビクしながら部屋に入ってきた貴女が、とても可愛らしかったので、つい、出来心で」

「『つい、出来心で』じゃねえよッ! んなことで人のことを弄ぶなッ!」

 

 蛍は優しさこそ失っていないものの、フィーネから良からぬ影響を受けているのではないだろうか。クリスはそんなことを思わずにはいられない。

 頭をガシガシと掻いて、少し頭を冷やす。顔を真っ赤にしている場合ではない。一度ははぐらかされたもののクリスには、蛍に言わなければならない言葉がある。

 

「悪かったな。昨日、突きとばしちまって。後、約束も破っちまった」

「……本当に、クリスが責任を感じることなんてないんですよ? 私が湖に落ちたのは自業自得ですから」

「けどッ! あたしがあの時、恥ずかしさを我慢出来てさえいりゃ……」

「クリスが恥ずかしがると予想はしていました。それでも行動を起こしたのは私です。だから、例え突き落としたのがクリスの手なのだとしても、その責は本来私が負わねばならぬもの。それを貴女に押し付けてしまい申し訳なく思っています」

 

 まるで、此方に言い聞かせるように、優しい声色で蛍が言う。だが、その声色に反して、心の内では、自分の所為でクリスがお仕置きを受けてしまったと自分を責め続けている。不器用な無表情の下に隠れた小さな少女が、自分で自分のことを苛んでいる。それが、クリスには分かってしまう。

 そんな顔をさせなくなかった。だから、黙っていようとしたのに、いつの間にか、聡明な彼女は自力で答えを見つけ、勝手に納得してしまった。

 それは彼女の悪い癖だ。

 

「お前は悪くねえ」

「クリスは悪くありません」

「あたしが悪い」

「私が悪いんです」

「分からず屋」

「頑固者」

「…………」

「…………」

 

 これ以上の会話は平行線だと分かったのか、クリスと蛍はお互いに口を閉ざす。何とも言えない気まずさが、場を満たす。

 蛍と出逢って以降、クリスと蛍の間にあった空気は、温かく柔らかなものだった。その空気を、クリスは心地良いと感じていたし、また守りたいと願っていた。だというのに、そんな温かな空気が脆くも失われようとしている。

 クリスは、自虐的な蛍がその身に全ての咎を背負い込もうとすることを看過できない。そんなことを続けていたら、何れ彼女は自分の優しさに食い殺される。そうはさせないと、小さな彼女を守ってみせると、あの日あの時にクリスは誓った。だから、よりにもよって、雪音クリスの罪を、詞世蛍に背負わせる訳にはいかないのだ。

 譲れぬ想いがある。相手を思い遣ってのことだと言うのに、どうしてこんなにすれ違ってしまうのだろう。

 クリスの紫の瞳と、蛍の赤い瞳がぶつかり合う。まるで、先に逸らした方が負けだと言わんばかりに、互いに意地を張っていた。

 

 詰まる所、どうやらこれは、クリスと蛍の初めてのケンカであるらしい。

 

 

◇◇◇

 

 

 フィーネは、東京スカイタワー、その特別展望室でゆっくりと待ち合わせの相手を待っていた。

 この場所をどういう意図で相手が指定してきたかはわからないが、この上から地上を眺める景色は悪くない。常から他人を見下した態度を取る彼女は、物理的にも眼下に群がる人の群れが豆粒の様にしか見えないことに気を良くしていた。この矮小で愚かな人々がいずれ自分の元に帰順すると考えると、唇が釣り上がることを止められない。

 大変に気分がいい。見下すという行為の何と甘美なことか。

 昨日、クリスにお仕置きをした時の事を思い出す。両眼に涙を溜めながら、此方を睨む彼女は非常にそそられた。全てを抱え隠そうとする蛍とは違い、普段から勝気なクリスは、フィーネに他者を屈服させる快感を強く与えてくれる。表情が素直に顔に出るのも良い。ある意味では、蛍以上にお仕置きをして愉しめる相手ではあるが、それは蛍の魅力がクリスに劣っているという意味ではない。蛍は蛍で、本当は痛みが苦手で有るにも関わらず、必死にそれを隠そうと耐え忍ぶ姿が、フィーネの背筋を震わせる。

 本当に、二人とも、可愛らしくて堪らない。

 

 最も、それらのことを抜きにしても、今日のフィーネは大層機嫌が良い。

 

 何故ならば、今日この場で、フィーネの計画に必要なパズルの1ピースが漸くこの手に収まるからだ。頑なな米国政府とF.I.S.上層部を長年の交渉で何とか説き伏せ、起動実験という名目で漸く国外への持ち出しを許可された完全聖遺物。フィーネの計画に、必ず必要かと言われればそうではないが、これがあるのとないのでは、計画遂行の難易度に雲泥の差があり、もし起動させることができれば、目指すべき頂への道がぐっと楽になる。そんな一品が、我が手に落ちることに、フィーネは胸の高鳴りを抑えることが出来ない。

 

「申し訳ありません。少し遅れましたか」

「……気にしてはいない。そちらもその身体での移動は難儀だろうからな」

「ご配慮痛み入ります」

 

 待ち人来る。自動ドアが開く音と共に、車椅子に乗った女性が一人の少女を伴って姿を見せる。待ちに待ったその姿を視界に収めて、フィーネは思わず目を細めた。

 車椅子に乗った女性、此方は、まぁ、問題はない。元々彼女が来るとは連絡を受けていたし、頭の悪いアンクルサムの相手をするくらいならば、F.I.S.の中でも多少は理知的な彼女が引き渡しの場に現れるというのであれば、フィーネにも文句はない。

 だが、その後ろに立ち、この場まで彼女の車椅子を押してきたのであろうピンク髮の少女――と言うには少し年齢が行き過ぎているかもしれないが――は何だ。知らぬ相手ではない。女神ザババの二振りとは違い、データでしかその姿を見たことはないが、少女の首から下げたペンダントが彼女が本物だと語っている。本来であれば、研究所内すら自由に出歩けない筈の彼女が、何故この場に居る。

 

「ナスターシャ、貴様、装者を施設の外――況してや、二課のお膝元であるこんな場所に連れ出すなど、何を考えている」

「F.I.S.の存在は未だ日本政府には知られてはいないのでは? なれば、それ程神経質になる必要もないと愚考しますが」

「それは些か浅慮に過ぎる。貴様らしくもないな、ナスターシャ。籠の鳥に空を飛ばせてやりたいとでも思ったか」

 

 ギロリと不服さを隠さぬ目で、ナスターシャの背後でオロオロと狼狽える少女に睨み付ける。少女はピクリと身体を震わせたものの、何とかその震えを押さえ込み、ナスターシャの隣に並ぶ様にして前に出ると、怯えた顔をひた隠しにしてフィーネに頭を垂れた。

 

「御目通り叶って嬉しく思います、巫女フィーネ。ガングニールのシンフォギア装者を務めていますマリア・カデンツァヴナ・イヴと申します」

「もう一振りの撃槍、いや烈槍か。データには目を通している。適合係数こそ、正規の装者には及ばぬもの、その戦闘力には目を見張るものがあるな」

「勿体無いお言葉です」

「天羽奏といい、貴様といい、ガングニールの装者はそういう星の下にあるのかもしれんな」

 

 天羽奏とマリア・カデンツァヴナ・イヴは共に正規の適合者ではなく、LiNKERによってその身を無理矢理に聖遺物と適合させた鍍金の装者だ。にも関わらず、その戦闘力は、風鳴翼や詞世蛍、雪音クリスといった正規の装者たちに決して引けを取るものではないというのだから畏れ入る。

 もしくは、ガングニールの好みがそう言った少女に限るのか。馬鹿な考えだと、思考を放棄する。高々、聖遺物の欠片から作られたシンフォギアにそんな人間の意志の様なものなど、存在する訳がない。

 

「自己紹介はそのぐらいで結構。装者を安易に外に出したことについて、色々と言いたいことはあるが、それは今は置いておくとしよう。本題に入るぞ。例の物は?」

「此方に」

 

 ナスターシャが、抱える様に膝に置いていたアタッシュケースを、フィーネに向けて差し出す。厳重な電子ロックを解除し、ケースを開ければ、其処には、一振りの棒らしき物が収められている。持ち手の前には盾のようなパーツが取り付けられ、先端は刃のように鋭い。一見すれば、特殊な槍か何かに見えないことないこの物体の正体が、「杖」であることをフィーネは知っている。

 未だ基底状態とはいえ、発する気配に含まれた神秘性は、フィーネに勝るとも劣らない。流石はこの世に現存する貴重な完全聖遺物の一つとでも言うべきか。

 

「『ソロモンの杖』、確かに受け取った」

 

 完全聖遺物「ソロモンの杖」。旧約聖書に記されし古代イスラエルの王の名を冠したその杖の機能は、バビロニアの宝物庫の扉を開き、ノイズを任意に発生させること。それだけならば、フィーネにも可能ではあるが、ソロモンの杖の機能は、フィーネの能力の更にその上をいく。ゴエティアに記された72柱の悪魔を操ったとされるこの杖は、72種類のコマンドを組み合わせることによって、本来、人間を襲うことに終始した単調な行動パターンを取るノイズを意のままに操ることを可能とする。

 バビロニアの宝物庫に収められしノイズの総数は無尽蔵とも言われ、正確な数はフィーネですら観測することが馬鹿馬鹿しくなる程に膨大である。この杖を持つということは、現代において認定特異災害と評されるノイズの軍勢の支配者になるということで、それは、この杖一振りで世界を相手取ることすら可能になるということに他ならない。

 ソロモンの杖は、フィーネの計画の障害を廃すると共に、月崩壊後の人類統治を盤石なものとするだろう。来るべき未来に思いを馳せて、フィーネは唇を釣り上げた。

 

「新たに装者を一人得たと聞きましたが、詞世蛍と合わせてもその数は二人。完全聖遺物の起動に必要なフォニックゲインを得ることが本当に可能なのですか?」

「そちらが鍍金の装者三人がかりで数年掛かっても起動できなかったとはいえ、此方もそうだという保証はないだろう? 何より此方には、ネフシュタンの鎧を起動させた時の正確なデータが残っている」

「そのデータさえ渡していただければ、此方で如何様にも対処するのですが」

「交渉のカードを切るタイミングは私が決める。焦ることはない。遠からず、そちらにもデータを回すことになる」

「……分かりました。とは言え、上層部は今回の国外への持ち出しを快く思っていません。あまり時間的な猶予はないと思って頂きたい」

「随分と性急なことだ」

「貴重な完全状態の聖遺物を、一時とはいえ手放すのです。気が気ではないのでしょう」

 

 「そんなものか」とナスターシャの言葉に適当な返事を返し、もう用は済んだとばかりにそそくさとその場を後にしようとしたフィーネであったが、ドアへと向かっていたその足をピタリと止めた。

 

 そういえば、米国政府に依頼していたもう一つの事案はどうなっているのだろうか?

 

「ナスターシャ、例の物の進捗はどうなっている? 2機目の打ち上げ以降、此方にこれと言った報告が上がっていないのだが?」

「現在、3機目のロールアウト待ちです。完成次第、打ち上げ準備に入ります。詳細はこのメモリーチップに」

 

 ナスターシャに視線で促されたマリアから、指先程の小さなメモリーチップを手渡される。事前にフィーネから質問が来ることを予想していたのだろう、ナスターシャの準備の良さに、フィーネは満足感を覚える。やはり、交渉事や報告は有能な人間と行うに限る。異端技術(ブラックアート)の深淵すら知らぬ猿共を相手にしてきた時とはまるで違う、ナスターシャの打てば響く受け答えに、フィーネは笑みを深めた。

 故に、続くナスターシャの言葉にフィーネは眉を顰めることとなる。

 

「報告書は読ませて頂きましたが、本当にあのような事が可能なのですか?」

「今更、何を言っているのだ。異端技術(ブラックアート)という超常の技を研究する我等が、常識などという詰まらぬ鎖に縛られてどうする」

 

 現代の科学では成し得ない奇跡を可能にするからこその異端技術(ブラックアート)。それらを前にして、只人の常識などという詰まらぬ考えで疑問を挟むなど愚の骨頂。異端技術(ブラックアート)の深淵は深く、それを理解できるのはフィーネのようなほんの一握りの天才のみ。凡人は、只、黙ってそのお零れに満足していればいいのだ。

 ナスターシャは確かに優秀だ。5年前にF.I.S.で行われた、機械装置を介しての完全聖遺物「ネフィリム」の起動実験。歌を介さずの完全聖遺物の起動など成功する筈もない実験に、F.I.S.の職員の中で彼女だけは最後まで反対していたと聞いている。

 だが、それはあくまで只人の中ではという話だ。高々、十数年しか生きていない只人が、数千年を生きてきたフィーネに並び立てる筈もない。

 とは言え、ナスターシャは理知的な人物だ。そんなことフィーネに言われる筈もなく、彼女は理解していると思っていたのだが。

 

「ですが、あれ程の事象を引き起こすのです。如何な神獣鏡(シェンショウジン)と言えど、装者へのバックファイアが甚大な筈。絶唱発動時とほぼ同等のエネルギー量を必要とするなど、例え完成したとしてもまともな運用が出来るとは思えません」

「成る程。貴様が引っかかっていたのはその部分か」

 

 自己紹介以後口を開かず、最低限の働きだけをして隠れるように壁の花を決め込むマリアをチラリと見遣る。どうやらナスターシャは、随分と、装者という存在にご執心のようだ。

 

「情に絆されたか。それは人としては正しいのかもしれぬが、科学者としては失格だな」

「……では、やはり、彼女に絶唱を歌わせるつもりなのですか?」

「どんな道具だろうと、使わねばそれは置物と変わらぬ。そして、目の前に未知の技術があるのなら、それが如何に人の道を踏み外したものだとしても、試さずにはいられないのが科学者という人種だ。技術とは、そういった狂人たちが、今日まで歩んできた血に塗れた道の果てにあるものだ。甘さに溺れて、そんな初歩的なことすら忘れてしまったか?」

 

 膝の上で震える程に握り締められたナスターシャの両の拳が視界に映る。きっと、ナスターシャとてその程度のことフィーネに講釈されるまでもなく、理解しているのだ。彼女の中で、人としての自分と、科学者としての自分が鬩ぎ合っていることが手に取るように伝わってくる。随分と、おぼこいことだ。

 ナスターシャは、以前から「異端技術は人類を救う」という科学者としては夢見がちな信条を掲げていたが、此処まで甘い人間だっただろうか。

 少し考えて、その原因に思い当たる。5年前のネフィリムの起動実験。あの実験の際に、アガートラームの装者が絶唱を用い、その命と引き換えに暴走したネフィリムを基底状態へと押し戻した筈だ。確か名は――。

 

「その人としての心は、セレナ・カデンツァヴナ・イヴに端を発したものか?」

「「――ッ!」」

 

 その言葉に何故か、ナスターシャのみならずマリアまでもが反応を示す。そう言えば、セレナはマリアの血の繋がった妹だったか。

 セレナ・カデンツァヴナ・イヴ。マリア・カデンツァヴナ・イヴの実の妹にして、聖遺物「アガートラーム」の正規適合者だった少女。5年前、彼女は機械装置を介しての無理繰りな強制起動により暴走したアルビノ・ネフィリムを、「エネルギーベクトルの操作」という他に類を見ない稀有な絶唱特性を活かし、その命を対価とすることで基底状態にまでリセットすることに成功した。

 ナスターシャの両足と右目はその際の怪我に依るものだと聞いている。

 

「度し難いな。命を救われ、人としての感情を取り戻したとでも言うのか」

「――セレナはッ! 貴方みたいに、私たちのことを実験サンプルとしてしか見ていない大人たちを助ける為に、その命を散らせたッ! そんな言い方――」

「マリア、お止めなさい」

「けどッ! マムッ!」

「マリア」

 

 此方を射殺さんばかりに睨みつけるマリアの視線を、フィーネはそよ風のように受け流す。

 実験サンプルを実験サンプルとして扱って何が悪いというのか。そんな人としての情を今更、フィーネに求めるなど、頭がお目出度いにも程がある。

 詞世蛍という少女のことを確かにフィーネは個人的に気に入っている。だが、何処までいこうとも彼女が、フィーネにとって駒であることには変わりなく、その価値がフィーネの創造主への恋慕を上回ることは決してない。

 詞世蛍にしても、セレナ・カデンツァヴナ・イヴにしても適合者という点で見れば、替えの効かぬ存在という訳ではない。失ったのならまた、補充すれば良いだけの話だ。幸いにして、人と言う資源は、この地上に70億と満ちているのだ。時間と手間さえ掛ければ、見つからぬ訳がない。

 替えの効かぬアガートラームにしても、破損状態を見る限りでは、コンバーター部分を新調し、フィーネが手ずから修理すれば復元は可能だろう。そもそも、アガートラームのシンフォギアなどフィーネにとっては毛程の価値もないものだ。彼女の計画に銀の左腕は必要ない。だからこそ、未だにアガートラームはその輝きを失ったままな訳だが。

 

「マム、か。家族ごっこは他所でやって欲しいものだな」

「貴様ッ!!」

「マリア、それはいけませんッ!」

 

 ガングニールを手にし今にも聖詠を口にしかねない勢いで吠えるマリアに、フィーネは眉を顰める。こんな場で、そんなものを取り出そうとするマリアの浅慮が腹立たしい。この娘は、フィーネがこの場を「二課のお膝元」と評したこと聞いていなかっただろうか。

 東京のど真ん中、おまけにこの東京スカイタワーは、日本政府の非公式組織が活動時に使用する映像や交信といった電波情報を統括制御する役割が備えられた隠れた軍事拠点だ。

 こんな場所で派手な騒ぎを起こしでもすれば、数分足らずで政府の特殊部隊に包囲され、その身柄を確保されるだろうし、ガングニール装着時のアウフヴァッヘン波形を感知した二課から装者が派遣される可能性すらある。

 もし、ガングニールの力でこの場を切り抜けたとしても、ガングニールを身に纏っている限り二課のレーダーに捕捉され続けるし、かと言って、ガングニールを身に纏わなければ、只の少女に過ぎないその身で、足の不自由なナスターシャを連れて、調査部の追跡を躱すことは不可能だ。日本国内から脱出するどころか、東京都から脱することすら叶わぬだろう。未だ櫻井了子の正体に気付かぬ調査部とはいえ、そこまで無能ではない。

 

 つまり、この場で、ガングニールを身に纏った時点で、マリアは詰みなのだ。

 

「貴様のその行動は己の身だけでなく、母と慕うナスターシャの身まで危険に晒すことになると何故気付けない? そんなことすら解らぬのか、マリア・カデンツァヴナ・イヴ」

「クソッ! クソッ! クソッ!」

「フィーネ、どうかその辺りで、言葉の矛を収めては頂けませんか? 至らぬ我が身の未熟が、貴女の気に障ったというのであれば謝罪します」

「必要ない。これ以上、孺子の相手をする程暇ではないのでな」

 

 そう言い残し、ソロモンの杖が収められたアタッシュケースを手にしてフィーネはその場を立ち去る。閉まった扉の向こうから聞こえるマリアの慟哭が、フィーネには、耳障りな雑音(ノイズ)にしか聞こえなかった。ソロモンの杖を手中に収め、折角気を良くしていたというのに、頭から冷水を浴びせられた気分だ。「まるで興が冷める」と吐き捨てるように呟いた言葉は、誰に届くこともなく、不機嫌さを隠そうともしない荒々しいフィーネの靴音にかき消された。




 そろそろ話を進めようと、伏線を撒きました。
 フィーネは何だかんだ言っていますが、今のところフロンティアの封印を解くまで蛍を切り捨てるつもりはありません。騙すのはフィーネの専売特許ですから。

 初登場にも関わらず、マリアさんには悪いことをしました。

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