戦姫絶唱シンフォギア ~歪鏡に選ばれた少女~   作:きおう屋

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 明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。

 ちょっとポエム要素強いです。



EPISODE 08 「大切な貴女へ」

 乾いた音が、二度、実験室に響く。遅れてやって来るのは、熱を持った鋭い痛みだ。頬に感じる痛みに思わず、泣きそうになる。痛いのは、嫌いだ。

 蛍は、顰めそうになった顔を何とか無表情に保ち、目の前で憤怒の表情を浮かべるフィーネを見遣る。彼女の妖艶で端正な顔立ちは、面影すらない。そこには、振り抜いた右腕をそのままに、悪鬼の様に顔を歪めた彼女が佇んでいた。

 蛍の隣に立ち、同じ様に頬を打たれたクリスは無事だろうか。様子を伺いたいが、今少しでも余計な行動とれば、間違いなくフィーネの腕が再び振るわれる。もしかしたら、足かもしれない。昨日から、クリスとの間には気まずい空気が流れているというのに、それでも、彼女の心配をしてしまう自分は本当に馬鹿だと思う。

 

「これは、一体どういうことだ?」

「申し訳ありません」

「…………」

「言葉が、理解できないのか? どういうことだと私は聞いている」

 

 謝罪の言葉が口をついて出た。それ以外にフィーネに語る言葉を、蛍は持ち合わせていなかった。クリスは言葉こそ発していないものの、彼女の怒気が肩越しに伝わってくる。どうやら無事ではあるらしい。だけど、その怒気は、拙い。普段のフィーネであれば、クリスの反抗的な態度に歪んだ悦楽を覚えるのだろうが、今の彼女は、4年間共に生活してきた蛍ですら初めて見る程に憤怒の念を滾らせている。その証左に、彼女の口調はF.I.S.の職員たちと会話する際などに使っている酷く硬いものだ。そこには微塵も遊びがない。このままでは、拙い。具体的にフィーネがどういう行動を取るにせよ、何とかしなければならないと頭の中で警報が鳴り響いている。

 

「二人ががりで、この見るも無惨なフォニックゲイン値は何だ? まるで噛み合っていない。聞くに堪えん歌だ。いや、最早、歌に非ず。只の雑音、不協和音だ。貴様ら、それでもシンフォギアの正規適合者か? これなら、あの紛い物共の方がまだマシな歌を歌うぞ。特に蛍、貴様のこの様は何だ?」

「……申し訳、ありません」

「貴様はそれしか口に出来んのか?」

 

 言うや否や、前髪を掴まれ俯きかけた顔を無理矢理に上げさせられる。目の前には、憤怒に染まった白金の双眸がある。その瞳を見て、蛍の身体と心に刻まれた傷が疼き出す。どうしようもないフィーネへの恐怖を思い出してしまう。身体が震え始める。だが、心が恐怖に塗りつぶされぬよう精一杯な蛍には、その震えを止める術はない。

 

「なぁ、蛍。貴様の歌とはこの程度なのか? 貴様があれ程拘り、心の寄る辺にした歌とはこの程度の音色しか響かせることが出来んのか?」

「私の、歌、は……」

「この程度の歌で本当に世界を変えることが出来るとでも思っているのか? 貴様はあの時、言ったな。『歌うことが出来ますか?』と。貴様の執着は、覚悟は、こんな雑音を奏でるために有ったのか? 血反吐を吐いてでも歌わせてやると言ったが、こんな耳障りな歌しか歌えぬのなら――」

「おいッ! やりすぎだッ!」

「クリス、貴様は少し黙っていろ」

 

 フィーネは、空いた手に(バリア)を発生させるとそのまま叩きつける様にしてクリスへと振り抜く。鈍い音と共にクリスの身体が宙を浮き、諸々の機材を吹き飛ばしながら、背中から壁へと叩きつけられた。

 

「クリスッ!?」

 

 悲鳴の様な叫びが、蛍の口から漏れる。幾らクリスがイチイバルのシンフォギア装者だとしても、シンフォギアを身に纏っていないその身は只の15歳の少女のものだ。あんな衝撃を受けて、無事でいられる筈がない。只でさえ、クリスはフィーネのお仕置きによって刻まれた傷がまだ癒えていない。実際に見た訳ではないが、昨日のクリスの様子を見る限りでは、傷が刻まれたのは胸と背中。あんなに背中を強打しては、傷が悪化してしまう。

 痛みから、地面に蹲るクリスの姿が見える。顔色こそ見えないものの、身体が小刻みに震えて、口からは苦悶に満ちた声が漏れている。本当に、拙い。早く手当をしてあげないと。

 

「貴様は人の心配をしている場合か?」

「あぐッ!?」

 

 フィーネが蛍の髪を掴んでいた手に力を込めて、一切の手加減なく持ち上げる。何時だったか、クリスが顔を真っ赤にしながらも褒めてくれてから、少しだけ自慢になった蛍の黒髪が、ブチブチと嫌な音を立てる。髪の手入れはキチンとしなさいと言ったのはフィーネのくせに、自分からそれに反する様な行動をする彼女に、どうしようもなく苛立ちが募る。

 しかし、余りの痛みから、その苛立ちを押しつぶすフィーネへの恐怖が押し寄せてくる。クリスと生活するようになってから何故か薄れていたフィーネへの恐怖が、蛍の身体を蝕む。蛍の身体と心に刻まれた傷は深い。

 

「蛍、このソロモンの杖が私の計画に必要だと言うことは既に説明したな。私も装者二人のたった一度の歌で、完全聖遺物を起動出来るとは考えていない。だがな、普段の訓練よりも、フォニックゲインの値ががた落ちしているのはどういうことだ? まさか今更怖気付いた訳ではあるまい」

「……申し訳、ありま、せん」

 

 蛍にとって歌を歌うとは、特別なものだ。歌さえ歌うことが出来れば、どんな辛いことも忘れて夢中になることができた。歌が無ければ、蛍はあの研究所での生活を、この屋敷での生活を、耐えることなど出来なかっただろう。

 歌を歌うことは本当に楽しい。歌っている時だけは、蛍は仮面を脱ぎ捨てて、自分を曝け出すことが出来た。自分を偽ることすら忘れて、夢中に慣れた。研究所にいた頃は、歌さえ歌うことが出来れば、他には何も要らないとすら思っていた。

 蛍はフィーネと出逢って、血潮が熱を取り戻した。クリスと出逢って、ポカポカとした温かさを取り戻した。蛍は、随分と、我儘になった。もう、歌だけがあれば良いとは思えない。しかし、蛍にとって歌が特別なものであることに変わりない。歌が好きだという感情は、今も昔も変わらず蛍の胸の内にある。

 

 だからこそ、蛍自身も先程のクリスと二人で歌った歌が酷かったのは自覚していた。

 

 ソロモンの杖の起動実験。フィーネからの指示は、「二人一緒に歌いなさい」といういきなりの無茶振り。そもそも蛍とクリスでは、知っている曲が違いすぎて一体何の曲を歌えば良いのか大いに悩んだ。蛍はJポップだとか民謡だとか一般的な日本の曲しか知らなかったが、逆にクリスは音楽家の娘らしくクラシックだとかオペラだとかどちらかといえば海外の曲にばかり詳しかった。

 そんな二人で昨日から続く気まずい空気にも耐えながら相談して決めた曲は、片翼を失い解散した今は亡きツヴァイウイングのナンバー。蛍もクリスも敵の資料として何度も曲は聴いていたため、歌詞は頭に入っていた。敵の曲を歌うということに、クリスは余り良い顔はしなかったものの、曲自体は嫌いではないらしく、お互いに練習も無しにデュエットで今すぐ歌える曲も他にないと説得した。

 歌い始めて直ぐに違和感に気付いた。蛍は歌うとなれば、研究員達の観察する視線に晒されようが、フィーネの刺すような視線を一身に受けようが、全てを意識の外に追い出して、自分の歌に集中できる。例え裸で歌えと言われようとも気にせず歌えるだけの自信が蛍にはある。だと言うのに、今日は隣から聞こえるクリスの声にばかり意識が割かれる。戦闘訓練を共にこなし、幾度となく聞いた彼女の歌声に気を遣ってしまう。

 歌っていてあんなに心が踊らないのは初めてだった。どんな辛い状況でも歌さえ歌えば、乗り越えられた筈なのに、蛍は初めて歌ではどうしようもないことが有るのだと知った。力を込めて震わせれば蛍が思うがままの旋律を奏でてくれた喉は、まるで調律されていないピアノの様に外れた音ばかりを発し、これが本当に自分の歌声なのかとすら思った。蛍の歌声に困惑し、引き摺られて調子を崩すクリスの歌声を耳にして、なんとかせねばと思いつつも、彼女に合わせようと発した筈の声はさらに音を外したもので、それを聞いたクリスがさらに調子を崩すという悪循環が生まれていた。

 蛍は怖かったのだ。もし、いつも通りに全てを曝け出して歌った時に、それを今のクリスが受け入れてくれるのかどうかが怖かった。クリスの歌は、彼女に似て素直だ。機嫌が良い時はとんでもなく嬉しそうに歌うし、逆に機嫌の悪い時はそれを包み隠そうともせず如実に彼女の感情が歌声に現れる。そんなクリスが、蛍と一緒に声を合わせて歌ってくれるだろうか。そんな考えを思い浮かべてしまったら、もう普段通りに歌うなんて蛍には出来なかった。

 

 クリスに嫌われたくない。

 

 クリスと蛍は、ケンカをしている、と思う。だが、これが果たしてケンカと呼べるものなのか。蛍は判断に困っていた。本当に些細なことで、一晩も経てばお互いに頭を冷やして、今まで通り普通に接することが出来ると考えていた蛍の予想は現在進行形で裏切られ続けている。

 仲直りとは、どうすればいいのだろうか。今朝ベッドの中で目を覚まして、自分の隣にクリスの姿がないことに愕然としてから、蛍はそのことばかりを考えている。

 蛍は誰かとケンカをした経験がない訳ではない。研究所に連れてこられる以前は、普通の子供らしく小学校に通っていたし、多くはなかったが友人と呼べる同年代の少女たちも居た。あれからまだ数年しか経っていないのに、名前も顔も思い出せはしない彼女たちは本当に友人だったのだろうかと今でこそ思うが、それは彼女たちには何ら責のない話で、全てはそんな可愛らしくないことを考える程に変わってしまった蛍が悪い。

 兎も角、そんな蛍と彼女たちではあるが、基本的には仲良く一緒に遊んだり、会話に花を咲かせたりしていた。しかし、やはりお互い精神的に幼かったということもあり、時にはケンカをすることもあった。その場合、お互いに自分の非を認めて、「ごめんなさい」と口に出して真摯に謝れば、それで仲直りだった。

 けれど、クリスとのケンカは少し違う。初めから蛍もクリスも既に自分の非を認め謝罪の言葉を口にしている。

 だと言うのに、寧ろ、それが原因でケンカが始まってしまった。

 お互いに意地を張り合っていたのは確かだ。「自分が悪い、貴女は悪くない」と互いに言い合った。蛍がどんなに言おうともクリスがその言葉を認めることはなかったし、クリスの言葉に蛍が頷くこともなかった。

 何故クリスがそこまで意固地になっているのか、蛍には分からなかった。蛍は、本当に心の底から、湖に落ちたのは自分の責任だと考えているし、その後、クリスがフィーネにお仕置きを受けたと知った時など、思わずフィーネに抗議した程だ。詞世蛍は、他の誰かが自分の罪を肩代わりすることを許容できない。

 表面的に仲直りをするだけならば、蛍がクリスの言葉に頷き、彼女の非を認めれば良いのかもしれない。一歩引くのは、いつも蛍の役目だったけれど、蛍は何故かそれをしたくなかった――否、出来なかった。クリスと仲直りをするなら微塵の後腐れなく、真っさらな気持ちで彼女とは接したい。

 今更相手の非を認めて「やっぱりあれは貴女が悪い」などと心にも思っていない言葉で相手の謝罪を受け入れる。そんな恥知らずな真似をして、クリスと元の関係に戻れるとは思えなかった。

 

 そんな状態で、クリスと共に歌うなんて土台無理な話だったのだ。

 

「どうした? 私を前にして、それ程考え込んだのだ。言い訳の一つでも思いついたか?」

「……いいえ。今回の結果は、私の自業自得です。だから、どうか、お仕置きなら私に。クリスは……悪くありません」

「お前はまたッ!」

「お願いします。フィーネ。どうか」

 

 クリスの咎める言葉を無視して、蛍はフィーネに懇願する。フィーネは蛍とクリスのやり取りを見て、更に不機嫌さを増す。底知れず天井知らずに高まるフィーネの怒りが、蛍の肌をピリピリと刺激した。

 「そういうことか」と大きな舌打ちと共に、蛍はフィーネに髪を掴まれたまま投げ飛ばされる。また嫌な音が聞こえる。はらはらと宙を舞う自分の髪に意識を割かれた為か、碌に受身を取ることも出来ず、背中から床に叩きつけられた。肺の空気が全て吐き出される程の衝撃が蛍の小さな身体に襲いかかる。酸素を求めて空気を食もうとするも、口からは空気が漏れるばかりで、まともな呼吸をすることが出来ない。

 

「装者の精神が安定するならばと思い捨て置いてきたが、まさか裏目にでるとはな」

「かはっ……ぁ……」

「何処もかしこも甘すぎて反吐が出る。……痛みこそが、人と人を繋ぐ唯一の絆だとあれ程教えてやったというのにッ!」

 

 語気を荒げたフィーネが、未だ強打した背中から伝わる痛みから回復していない蛍の横腹を、力任せに蹴り上げる。フィーネの履いた赤いヒールが蛍の横腹に突き刺さり、蛍は耐えることも出来ずに床を二転三転した。

 今度は空気だけではなく、胃に収まったものまで、吐き出した。吐き出してはダメだと思いつつも、込み上げてくる酸っぱいものを我慢できずに、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、捻じ切れそうな臓腑の痛みに頭の中が真っ白になる。

 

「明日、もう一度起動実験を行う。その時また今日のような無様を晒してみろ。その温かさ二度と取り戻せないと思え」

 

 薄れる意識の中で、フィーネのそんな台詞が、聞こえた気がした。

 

 

◇◇◇

 

 

 目を覚ますとそこは見知った天井だった。蛍とクリスの私室。昨日、一昨日と散々横になったベッドにまたも蛍は寝かされているらしい。喉がひりひりと痛み、口の中は酸っぱさに満たされていて気持ちが悪い。ぶち撒けた胃の中身がかかったのか、髪からは吐瀉物独特の嫌な臭いが漂ってくる。身体を起こそうと四肢に力を込めると、背中と横腹から酷い鈍痛が伝わり、顔を顰めた。

 窓から射す陽の光を見る限りでは、お昼を少し過ぎたぐらいだろうか。ソロモンの杖の起動実験が行われたのは、午前中であったため3、4時間程意識を失ってしまったのかもしれない。

 蛍は背中と横腹から伝わる痛みに見ないふりをして、目が覚めたばかりで霞がかった思考で、何故自分はこの部屋にいるのだろうかと考える。蛍の記憶が確かであれば、蛍は実験室でフィーネからのお叱りに耐え切れず、少女にあるまじきゲロを床にぶち撒けて意識を失った筈である。普段のお仕置きであれば、フィーネが自分で刻んだ傷を恍惚の表情で眺めながら治療するまでがワンセットなのだが、今日のあの様子では、恐らくこの部屋まで意識のない蛍を運ぶなんて甘さは見せないだろう。だとすれば、蛍を運んでくれたのはクリスなのだろうが、部屋を見渡しても彼女の姿は見えない。

 あんな無様な歌声を晒した蛍とはもう顔も合わせたくないということなのだろうか。蛍を部屋に運んでくれたのはクリスの最後の温情だったのだろうか。あり得ないとは思いつつも、なんだか酷く疲れていて、蛍の思考は悪い方へ悪い方へとぐるぐると転がり落ちていく。

 横たわったベッドの上で、ふと視線を隣向ければ、クリスの枕が目に入る。隣にクリスの姿はない。今朝もそうだった。もう二日もその枕は使われることなく、ポツンと蛍の枕の隣に置かれている。昨日だって、風邪が治りかけの蛍に遠慮して別の場所で寝ると言われたが、それが蛍とクリスとの間にある気まずい空気に端を発したものであることは言葉にされずとも伝わってきた。

 普段蛍が目を覚まして初めに目にするのは味気のない自室の天井などではなく、何時だってぽやぽやと幸せそうにシーツの温かさに身を任せたクリスの寝顔だった。と言うのも、自分では全く自覚がないのだが、どうにも寝ている間に無意識で蛍はクリスに抱きつく癖があるらしく、目が醒めるといつもクリスに抱きついているのだ。本当に意識してのことではないので、蛍にはどうしようもないことではあるのだが、申し訳ないとは思いつつも、クリスの温かさに包まれながら迎える朝は蛍にとって至福の時であったため、蛍は密かに眠っている間の自分を良くやったと褒めていた。

 クリスは最初の頃こそ「そんなおかしな寝相があってたまるかッ!」と顔を赤らめていたものの、何度言おうとも毎朝目を覚ませば自分の胸にすっぽりと顔を埋めて寝息を立てる蛍を見て諦めたらしい。

 

 クリスとのそんな温かな時間が失われてしまうと考えたら、無性に泣きたくなってきた。

 

 この部屋にいるのが蛍独りきりだということもあり、仮面を被っていなかったのがいけなかったのかもしれない。気が付いた時は、瞳からぽろぽろと、涙が溢れていた。我慢しようとも思わなかった。どうせこの部屋には自分しかいないのだ。何を我慢する必要があるだろうか。

 

「嫌だ……嫌だよ……クリス……」

 

 蛍はフィーネと出逢って、血潮が熱を取り戻した。クリスと出逢って、ぽかぽかとした温かさを取り戻した。蛍は、随分と、我儘になった。そして、蛍は弱くなった。

 もうこの手が温かなものを掴むことはないと、研究所での生活で確かに諦めた筈なのに、蛍は再び温かさを知ってしまった。その温かさに身を委ねてしまった。

 そしてまた、その温かさを失おうとしている。クリスが自分の隣から居なくなる。抱きしめてくれた彼女の肌の温もりが、触れ合った彼女の肩から感じる温もりが、眠っている蛍を包んでくれたあの温もりが、失われる。

 

「クリス……寒いよ……」

 

 シーツは確かに被っている筈なのに、寒くて寒くて堪らない。身体が震えて、止まらない。ガチガチと歯が鳴り、身体が芯から冷えていく。思わずクリスの枕を手繰り寄せ顔を埋めるようにして泣いた。手放したくない、失いたくないと力を込めるも、枕から香るクリスの残り香と、冷たさを同時に感じ取って、また涙が溢れた。

 今までであれば、こういう時には歌を歌っていた。歌さえ歌えれば、蛍は全てを忘れて夢中になれたから。けれど、先の実験で歌ではどうしようもないことがあると、蛍は知ってしまった。きっと、今歌っても、あの時の二の舞で酷い歌になる。ちっとも楽しくならない。そんな確信が蛍にはある。

 

 抱きしめて欲しい。隣に座って欲しい。包み込んで欲しい。

 他人の温かさを知ってしまった私の我儘な願い事。思い出してしまった私の弱さ。

 凍える寒さに身を震わせて、貴女の残滓に縋り付く。

 身に纏った鎧すら脱ぎ捨てて、小さな私は泣き喚く。

 空虚で空っぽなこの心で何を歌えばいいのだろうか。何を成せばいいのだろうか。何を伝えればいいのだろうか。

 温かな雪の音が聞こえない。

 嗚呼、どうか、どうか――

 

「……私を、独りにしないで」

 

 

◇◇◇

 

 

 蚊の泣くようで声で漏らした蛍の言葉に、応えるかのように扉が開く音が聞こえた。その音に反応してピクリと蛍の身体が一際大きく跳ねる。入ってきた人物がクリスなのか、はたまたフィーネなのか、シーツを頭から被りクリスの枕に顔を埋めた蛍には分からなかったが、どちらにしても今の蛍の姿を見られる訳にはいかない。今の蛍には、身を守る鎧はない。無表情も固い口調も脱ぎ捨てた決して誰にも見せないと決めたありのままの自分だ。こんな姿を、他人に晒す訳にはいかない。

 かと言って、今の状態から直ぐに鎧を着込める筈もなく、蛍には涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった自分の顔をクリスの枕に更に押し付けることしか出来ない。幸いにして、蛍の姿はシーツに隠れて見えない筈。寒さに震える身体を、他人に小さな自分を見られることへの恐怖で何とか抑え込み、息を殺して寝たふりをする。そんな自分が酷く惨めで、また溢れそうになった涙を必死に堪えた。

 

「……まだ寝てるか」

 

 シーツ越しに聞こえるのは、ずっと聴きたかった彼女の声。戻ってきてくれた。たったそれだけのことで、蛍の身体を震わせていた寒さが和らぐ。胸の内が、ぽかぽかとした温かさを取り戻す。ケンカ中であることなんて既に何処へとやら吹き飛んでしまって、身体と心が彼女の温もりをもっと感じたいと求め始める。我が事ながらなんて、現金な身体と心なのだろうか。

 お見舞いの際にそうしてくれたように、ギシギシと音を立てながらベッドの端に腰を下ろした彼女は、「なんであたしの枕抱きしめてんだ?」と最もな疑問を口にする。

 

「やっぱりこいつ寝てる時に何かを抱きしめる癖でもあんのか……?」

「…………」

「待てよ。だったら、身代わりに人形でも用意すりゃ、もしかして毎朝のあの小っ恥ずかしい抱きつきを何とか出来んじゃねえか?」

「…………」

 

 「今度試してみるか」という彼女の言葉に、蛍は「今度」があると舞い上がると同時に、まるで眠っている時の蛍が見境もない抱きつき魔のような彼女の物言いに異を唱えたくなるのをぐっと堪える。余り無意識の蛍を舐めないでもらいたい。例え無意識下だろうと蛍が抱きつくのは、きっと彼女だけだ。

 そんなことを考えていた蛍の頭にぽんと柔らかな衝撃と共にシーツ越しに彼女の手が置かれる。そのまま、ゆっくりと、優しく撫でられた。蛍を起こさないよう慎重に慎重にという彼女の心の声が聞こえてくる。彼女の優しさが、凍えた蛍の心を温めてくれた。

 

「お前はさ、一人で何でもかんでも抱えすぎなんだよ。全部が全部自分の所為だと思い込んで、そんなに自分を追い詰めなくたっていいじゃねえか。お前はその優しさを、他人じゃなくて、少しは自分に向けてやれよ」

 

 また彼女は蛍が優しいなんてよく分からないことを言う。何度も口にしている通り蛍は優しくなんてない。只の我儘で弱い少女だ。蛍の中で、それは既に結論の出た問題で、そこには疑問を挟む余地など微塵もありはしない。

 寧ろ、優しいという言葉は、蛍ではなく、目の前で蛍の頭を撫でてくれている彼女にこそ相応しい。今の彼女からはそんな空気は全く感じないが、一応蛍と彼女はケンカ中で、加えてあんな無様を晒したのにも関わらず、変わらず接してくれる彼女こそ優しいと蛍は思う。

 さすがに、これは聞き逃せないと、いつの間にか泣き止んだ自分の顔に無表情を着込んで、蛍は顔を上げようとして、続く彼女の言葉にその動きを止めることになる。

 

「でも、そんなことを言っても、どうせお前は聞きやしねえんだろうな。お前は筋金入りの分からず屋だから。それが今回の一件でよーく分かった。だからさーー」

 

 一呼吸おいて、彼女は宣誓する。

 

「あたしが側で見ててやる。お前の隣に立って、お前が無茶しそうになったら止めてやる。その度に昨日みたいなケンカをするかもしれねえ。けど、多分、きっと、それで良いんだと思う。言いたいことも言えず我慢して、余所余所しい関係にはなりたくないから」

 

 普段の彼女であれば、顔を真っ赤にして絶対に言わないような台詞に驚く。そして遅れて彼女の言葉の意味を理解し、ぽかぽかとした温かさで胸が一杯になる。けれど、今日のこれは何か違う。温かさが臨界を越えて、温かいと言うよりも熱い。焦がれるように、胸の中で、何かが生まれる。

 彼女の言葉が耳に届く度に、胸の中に生まれた何かがどんどん大きくなって、無性に彼女に触れたくて、堪らなくなる。どくんどくんと煩い程に、鼓動が高鳴る。恐らく、今、蛍の顔は耳まで真っ赤だ。顔を真っ赤にして恥ずかしがるのは、いつも彼女であった筈なのに、これではいつもと立場が逆転してしまっている。

 こんな顔を彼女に見られたくないと思いつつも、身動ぎ一つ出来ない今の蛍には、シーツをもっと深く被り直すことすら出来ず、どうか彼女に気付かれませんようにと祈るばかりだ。

 彼女に気付かれずもっと彼女の言葉を聞いていたいという感情と、今すぐにでも彼女を抱きしめたいという相反する感情が蛍の頭の中で鬩ぎ合っている。

 

「あたしはお前みたいに頭が良い訳じゃねえから、仲直りの方法なんてあたしにはわっかんねえよ。一晩頭を冷やして考えてみたけど、結局答えは出なかった。あたしにも、お前にも譲れないものがある。けど、それはお互いを思い遣ったあったかいもんで、どっちが悪くて、どっちが間違ってるなんて問題じゃないんだ。きっと、どっちも良くて、どっちも正しい。あたしたちが、ケンカしたのは、それを相手に押し付けちまったからだ」

 

 思い遣りの押し付け合い。蛍は彼女が大切で、彼女は蛍が大切で。だから、起きてしまったすれ違い。

 なんて馬鹿みたいなことでケンカをしてたんだろうと笑いが込み上げてくる。気付いてしまえば、それはとても温かく微笑ましい。こんなことで、蛍と彼女の関係がどうこうなる筈もないのに、先程の自分はどうかしていた。

 仲直りの方法なんて、蛍にだって分からない。彼女は、蛍のことを頭が良いと言うけれど、蛍だって馬鹿だ。大馬鹿だ。けれど、蛍が彼女を想うことを忘れなければ、きっと、大丈夫。何度ケンカしても、その度に、気付いて想い出せるから。

 

 私は、こんなにも貴方のことが大切だって。

 

 柔らかな音色が耳に届く。彼女が歌を歌っている。心地の良い彼女の歌声が、あの曲を奏でている。

 泣いた蛍を慰める為に歌ってくれた曲。彼女が蛍の為を想って作った曲。完成しているのか、未完成なのか蛍には分からない曲。

 せがんでも決して歌ってくれなかったあの曲を今彼女が歌っている。また、蛍の為に歌ってくれている。

 

 これが、私にとっての雪の音。綺麗で、可愛くて、優しくて、あったかい大切な音。

 

 ずっと歌って欲しかったのだ。彼女がこの曲を歌ってくれることを心待ちにしていたのだ。そんなことをされたら我慢なんてできる筈がない。だから、彼女の名前を呼ぼう。沢山のありがとうと、沢山のごめんなさいを込めて。

 

「クリスッ!」

 

 蛍は頭に被っていたシーツをガバッと振り払い、涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、おまけに耳まで真っ赤な冗談みたいな顔も何のその、目をパチクリと開いて白黒させているクリスの手を引き、抱き寄せて、そのまま二人揃ってベッドに倒れ込む。

 「お、おま、起きてッ!?」と耳元で叫ぶ彼女の声すら心地よくて、ぎゅとその腰に手を回して、何時もの様にその胸に顔を埋める。2日ぶりの彼女の体温は、やっぱりあったかくて、気持ちがいい。

 多分、クリスは独り言を聞かれていた恥ずかしさと、不意打ちで抱きしめられた恥ずかしさで、顔を真っ赤にして混乱の只中にあるのだろう。それぐらい見えなくたって蛍には分かる。でも、今日ばかりはどうか、蛍の好きにさせて欲しい。もう少しだけ、この温かさに包まれていたいのだ。

 「やっぱり私は我儘だ」と小さく呟いて、蛍はクリスの傷に響かぬよう絶妙な力加減で、腕の中の温もりを抱きしめ続けた。




 ガチGLにするつもりはないです。

 次回からアニメ1期突入します。

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