地球を害するウィルス、誰かが人間をそんな風に表現したのを覚えている。まだ世界が正常だった頃に読んだ哲学書か、或は学校の教科書、友達の与太話だったかもしれない。もしそれが真実だったのならば、この世界は「その害となる人間」に、神様とやらが下した罰なのかもしれない。
狂犬病と言う病気がある。
毎年五万人もの死者を世界中で出しているウイルス性の人獣共通感染症だ。感染後、前駆期には風邪に似た症状のほか、咬傷部位に掻痒感、熱感などがみられ、急性期には不安感、恐水症状、恐風症、興奮性、麻痺、精神錯乱などの神経症状が現れる。また、腱反射、瞳孔反射の亢進もみられる様になり、数日後には脳神経や全身の筋肉が麻痺を起こし、昏睡期に至り、呼吸障害によって死亡する。
現在、確立した治療法は無い。
この病気はつい最近まで全く知られる事が無かった。と言うのも、大抵の人は「聞いた事がある」程度の認識であっただろう。かく言う自分も最近まではその中の一人だった。
「狂犬病」と言う言葉を良く耳にする様になったのはほんの数週間前だったと思う、どこぞの病院で珍しい狂犬病に罹った患者が看護師の手に噛み付いたとか何とか、そんなニュースだった。俺はそれを駅前のモニタで見て居たが、「そうなのか」と実に面白くも何ともない感想だけを抱き、特に気にも留めなかった。
その後日、その看護師が複数人の病院関係者に暴行を振るったと報道された。
次にその話題を聞いたのは友人の家で講義の復習をしていた際である、第二外国語に手古摺っている俺に向かって、友人は「少し休憩しよう」と言い
「何でも、最近『狂犬病』がヤバいらしいな」
そう言う友人に向かって俺は「そうなのか」と気のない返事を返した。その後、ふと数日前に見た駅前のモニタが脳裏を過って、「あぁ、そう言えばテレビでそんな事を言っていた」と相槌を打った。俺にとっては日本のどこかの「狂犬病」より、目の前の勉学の方が大事だった。しかし、友人はそうでは無かったらしく、そのまま身を乗り出して口を開く。
「最初は京都の何とか病院だったっけ、そこの患者が看護師に噛み付いたとか何とか、その後、その看護師も狂ったらしい、そこから段々と数が増えて、今じゃ日本で大流行」
ふーん、と。
俺はペンでノートに重要項目を書き留めながら鼻で返事をする、そんな俺に対して友人は「分ってねぇなぁ」と言い放つ。
「治療方法が確立されていない病気だぞ、日本で沢山死ぬ」
「別に、感染しなければ関係無いだろ? というかお前、定期試験大丈夫なのか」
試験よりも日本の行く末が大事。
それは現実逃避なのでは無いだろうか、そう思ったのを覚えている。
結局友人は定期試験をボーダーギリギリの点数で何とか通過した。
それから一週間、特に何の変哲もない多忙な日々を送りそれと同時に社会に出るまでのモラトリアムを面白おかしく過ごす。言ってみればどこまでも平凡で、特に何の変哲も無い凡愚としての日常だったと思う。
それが崩れたのは突然の事だった。
災害と言うのは人間の天敵だ、ある程度予測は出来てもそれを止める手立てを人間は持っていない。街中で高らかに「神の天罰なのだ」と叫ぶ信徒を殴り倒しても、災害は止まらない。このパンデミックは誰もが予期しながらも、どうしようも無い事だった。
『狂犬病の感染爆発』
感染した患者は誰彼構わず暴力を振るい、傷を負った人間は老若男女関係無しに狂った。従来の狂犬病は恐水症、恐風症等が現れるが、この狂犬病は「異常」の一言に尽きた。感染した人間は凶暴性が格段に増し理性と言うものが無くなる、そして最も従来の狂犬病と違う部分は「死体ですら動かす」と言う点だった。心肺停止、脳死状態、そんな状態の死体が起き上がって襲い掛かる恐怖はどれ程か。
狂犬病が流行して最初に行われたのは墓地や慰霊室に眠る死体の焼却だった。
ここまで来て俺は目の前にある勉学よりも、もっと重要な何かが迫っている事に気付いた。人に溢れていた筈の駅は活気を失い、気付けば大学も休講が多くなった。最後まで開いていた筈の講義が教授の都合で休講となった時、俺はやっと外の状態に関心を向けた。見れば、最後まで講義に出席していたのは俺を含めて数人だけだった。
大学から帰宅する途中目に映る店は全て閉まっていて、嘗て見た事が無い程に殺風景な街になっていた。通行人も少なく、数分歩いて一人出会うかどうかと言う程度、駅前に行けばそれなりに人は居るだろうと思っていたが、駅にも数人の会社員らしき人がちらほら見えるだけだった。
駅を通って帰宅、八階建てのそれなりに値の張るマンション。親元を離れる時に心配性の父が自分に買い与えた分不相応な自宅。カードキーを扉に差し込んだ時、時計は十二時を回っていた。
腹が減ったな、玄関で靴を脱ぎながらそう思った。そのままリビングに直行し、教材の入ったバッグをソファに放るとキッチンの棚を物色する。常時、カップ麺等は買い溜めする性格が功を成し数週間程度なら何とか凌げるだけの食料はあった。それに父がもしもの時にと用意した非常食等が押し入れに入っている、あの時は心配性の父が何となく煩わしかったが、いざこういう事態に陥るとその存在が有り難かった。
「まぁ、何とかなるだろう」
独り言を呟いてカップ麺を一つ取り出す。湯沸かし器に水を入れ、コンセントを挿した後は湧くのを待つだけ。カップ麺の包装を破きながら湯を沸くのを待っていると、ポケットに入れたままだった携帯が震える。
誰だろうと手に取る、その画面を見た時、俺は少しだけ驚いた。
画面に表示される名前。
『箕田雫(みだしずく)』
別に何て事は無い、俺の幼馴染だった。
時計を見て十二時を少し過ぎた程度である事を確認する、この時間はまだ授業中の筈だった。雫は今年で高校三年生になる、俺とは一つ違いであり今年受験生、成績も優秀で今年は俺の大学を受験すると息巻いていたのを覚えている。嫉妬深くて独占欲が強い、その上生真面目な性分で昔から融通の利かない奴だった、しかしそれ故に何となく嫌な予感がした。俺は記憶の中から雫の高校は休校になっていない事を思い出す。進学校故のプライドか、若しくは他に何らかの理由があるのかは知らないが。
授業時間に電話を
そう思い、通話ボタンを押す。
「俺だ、どうした」
努めて冷静に声を発する、最初電話の向こうからは何の音も発せられず怪訝に思った。しかし、二秒、三秒、四秒と経過して、か細い声で確かに聞こえた。
「‥‥
「‥‥‥雫?」
― 助けて
その声を聴いた瞬間、背筋に氷柱を突っ込まれた様な、身の毛もよだつ悪寒が走った。何か、何か途轍もなく嫌な予感がする。いや、それは予感と言うよりも半ば確信に近かった。
「雫、何があった?」
「学校に、感染した人が‥‥友達も噛まれて、先生も‥‥辰巳、助け」
電話口に向かって叫ぼうとした瞬間、ブツリと通話が切れる。後に響くのは規則的に鳴る電子音、何かあったのだ。俺は携帯を乱暴にポケットに突っ込み、リビングを飛び出した。
雫の学校に狂犬病の感染者が侵入した、そして続々と感染者が増えている。雫から聞いた情報を頭で整理しながら俺は玄関にあるクローゼットから必要なモノを取り出した。フルフェイスヘルメットに、中学校時代に愛用した金属バット、それから厚手のコートにグローブ、靴は脛まで覆うコンバットブーツ。趣味で購入していたお遊び用ブーツだが、構うものか。それらを手早く着用してバッドを片手に自宅を飛び出す。エレベーターを使って地下に下りると、愛用のバイクの元に駆けた。
カワサキ・ニンジャZX-10R
大学に入学してからコツコツと貯金して購入したバイク、それほどバイクに詳しくない俺ではあるがコイツに一目惚れして買ってしまった。その巨躯に跨ると、キーを挿して一息にエンジンを入れる。強烈な振動が尻の下から感じられ、姿勢を低くしたままアクセルを回した。片手でハンドルを握り、もう片手でバッドを握る。危険極まりないが、片手運転など雫の危機ならば造作も無い。バイクは勢い良く発進し瞬く間にマンションの駐車場を後にした。
ヤンデレは結構先ですね‥‥良いヤンデレは熟されるもの‥‥ッ!
はい、すみません。(´・ω・`)