「正門は‥‥閉まっているな」
彼女の自宅へと辿り着いた俺達は門の前で一端バイクを止めた。俺の身長の二倍はある正門は固く閉ざされており、どうやら感染者が侵入した痕跡は無い。向こう側に見える邸宅も特に窓が割れていると言う事も無く、どうやら外から見る限り無事の様だった。その事には雫も嬉しそうに喜色を浮かべている。だが何故だろう、彼女の顔色は少し蒼褪めている様にも見える。光の加減だろうか、俺はそう自分に言い聞かせた。
「無理に開けて感染者が入ったら
「‥‥うん、そうだね」
バイクを裏手に回しぐるんと敷地を半周する、従業員用の裏門はブッシュに囲まれて半ば秘境の様な印象を受ける。まぁ裏門とはそういうモノだろう、彼女の持っていた合鍵で裏門を開け、ゆっくりと開いた。その間にバイクは敷地外に駐車しフルフェイスのヘルメットを脱ぐ、籠った熱気が外に逃げ自分の吐息が白く虚空へと溶けた。
「けほっ‥‥辰巳、開いたよ」
「あぁ、今行く」
彼女の後に続いて裏門を潜り、そのまま
「っ、何だ、これ」
生臭い匂いと言うか、鉄臭い匂いと言うか、何とも言えない不快な匂いが鼻を突いた。
余り嗅ぎ慣れない匂い、だが何処かで確実に嗅いだことのある匂いだ。裏門の玄関である周囲を見渡す、整然と並べられた靴や綺麗に磨かれた壁、床に何かしら異臭を放つ存在は見られない。この匂いはもっと奥、本邸のエントランスホールの方から来ていた。
「けふっ‥‥これって」
「‥‥血か?」
鉄と籠る様な生臭さ、これほど濃密な血の匂いなど嗅いだことが無い。だがそれが本邸からしてくるとなると‥‥。
自分の中で最悪の想像が膨らみだし、思わず雫を見た。
「けふッ、ごほっ、ごほッ」
だが彼女は両親を心配する余り錯乱する訳でも無く、一人で突っ走る訳でも無く、その場で胸を掴んで足元から崩れ落ちてしまう。
「雫!?」
彼女の傍に屈みこみ、背中に手をやる。重い咳を繰り返す雫に俺は「大丈夫か!?」と声を掛けた。
「げほっ、だ、いじょうぶ、だよ、けほっ、だいじょ、げほっ、げほッ」
「大丈夫に見えるかよ‥‥」
雫の咳は止まらず、錯覚でなければ口の端に血が滲んでいた。どう見ても大丈夫では無い。
どうすれば良いのだろうか。
薬でも飲んで治ると言うのならば病院でも薬局でも今からバイクを飛ばすが、しかし彼女のソレはどう考えても普通の病気では無かった。今の雫は小刻みに震え、元々白い肌が半ば青くなっている。顔色は最悪、恐らくあのクラスメイトに噛まれた時だろう。気丈に振る舞い、俺の顔を見て微笑んで見せるが。
その焦点は虚空を彷徨っていた。
目が見えて無い。
「っ‥‥取り敢えず雫は此処に居てくれ、直ぐ戻るから、感染者が来たら扉から逃げて施錠するんだ、いいな?」
こんな雫を感染者が居るかもしれない場所に連れては行けない、せめて俺だけでも両親の安否を確認しようと立ち上がると、その裾を雫の手が掴んだ。
「けほっ、ま、って、お願い、けほっ、ゲホッ、まって」
迷子の幼子の様に声を上げながら俺を引き留める雫、座り込んだままの状態で俺を見上げる彼女は焦点の合わない瞳を向けて
「わ、たしを‥‥置いて、いかな、いで」
ぎゅっと力強く俺の裾を握り、肩を震わせながら咳を繰り返す雫。彼女を置いて行くつもりは無いが、本人にそう言われてしまうと返す弁が無かった。彼女の安全を考えるのなら此処に置いて行くべきだ。だけれど、彼女の両親がどうなったのか、それを彼女は知るべきなのではないかと言う気持ちもあった。僅かな逡巡、考えている間にも雫は咳を繰り返し、やがて力尽きる様に裾を掴んでいた手がするりと落ちた。
「雫っ」
うつ伏せに倒れそうになる雫を寸での所で抱きとめる。彼女の体は異様に熱く、うわごとの様に「お願い‥」と雫は口にしていた。
「‥‥‥分かったよ」
絞り出す様な声、それは俺にとって苦渋の決断であった。脱力した彼女に肩を貸して起き上がらせる、幸いまだ歩く力は残っていた様子で
「何があっても、俺は雫の味方だからな‥‥っ」
「‥‥うん‥‥ゲホっ、ゲホッ‥‥うん」
それは両親が最悪の状態であった時を見据えて言ったのか、
エントランスホールは裏門の玄関からすぐ近くにある。廊下を歩きエントランスホールへと続く両開きの扉の前に立った俺は、ゆっくりと息を吸い込んだ。濃い血の匂いは此処からしてくる、そして両親は恐らく此処に居るだろうと半ば確信があった。
「雫、開けるぞ」
俺はそう断ってドアノブに手を掛けた、彼女からの声は無く、項垂れる様な状態のまま雫は小さく首を縦に振った。そしてガチャリと扉が開かれる。
― そうして見えた光景は
嫌な予感と言うのはここぞと言う時に良く当たる、雫の時だってそうだ、助かって欲しいと思う人ほど助かってくれない。それは彼女の両親にも当て嵌まった。
「‥‥くそっ」
エントランスホールは吹き抜けになっており、その綺麗に磨かれていた大理石の床には倒れ伏した四人の姿があった。そしてその内の二人に俺は見覚えがある。
雫のご両親だ。
恐らく死体だろう、二人の体は腕が欠けていたり足が捥がれていたりしていたが頭部は無事だった為両親である確認が出来た。獣に食い千切られた様な断面を晒すその二人の下には大量の血が流れており、着用していたスーツは既に多量の血を吸って赤黒く変色してしまっている。残りの二人は原型すら留めていない、腹の臓物が撒き散らされ下にあった腸が千切れている。脳髄と思われる物体は床にこびり付いているのに頭は何処にも見当たらなかった、死体は白い骨も露出し外傷が多い。これほど酷い惨状は、初めて見た。
その光景に足が
「ッ!?」
まさか生きているのか、一瞬そんな考えが脳裏を過るが冷静な部分が「そんな筈が無い」と叫ぶ。結果はその通りであり、体を小刻みに震わせて顔面を床に擦り付けるようにして起き上がろうとする二人の姿は、どうみても正気のソレでは無かった。白濁した瞳にガクガクと不規則に揺れる頭、口から洩れるうめき声は感染者のソレ。そうでなくとも、あんな重傷で生きている筈が無かった。
俺は唇を強く噛みながら雫の肩をぎゅっと抱く。
「雫、逃げよう、此処はもう」
そう言った瞬間、誰かが俺の胸を突き飛ばした。
「えっ」
いや、誰かなんて分かり切っている。俺の隣に居た人間、雫だ。
雫は俺を突き飛ばし、突然の事に反応出来なかった俺はエントランスの扉の向こう側へと転がった。そして、起き上がる前に扉は大きく音を立てて閉まってしまう。
「雫、雫ッ!?」
縋る様に扉に飛びついた俺は、しかし既に施錠されている事を知る。ガンガンと扉を叩くが頑丈な両開きの扉はビクともしなかった。
「雫ッ、何で、どうしてッ!?」
雫は未だエントランスホールに居る、彼女はまともに歩くことすら出来ないのだ、このままでは。
「早く、早く開けてくれッ! でないとッ!」
「辰巳‥‥」
扉の向こう側から俺の声色とは全く違う、酷く穏やかな声が聞こえてきた。それは彼女の声であり、恐らく扉に寄り添う様にして座っているのだろう、声はハッキリと聞こえた。
「バイバイ」
ヤンデレフラグ! やっとここまで来たッ!
はよヤンデレ、ヤンデレはよ!