【1】
「はい、これ持っていって」
「うん」
ルーミアちゃんから、彼女が作った軽食を受け取った。ハムと半熟玉子とレタスの他ソースを掛けたシンプルなサンドイッチと、イチゴやキウイなどを挟んだサンドイッチである。人間のお客の注文だ。
ちらりとルーミアちゃんを見やる。彼女はハムを一枚ほどつまみ食いしてから、また作業に戻った。
端のほうからちびちびと、咥えながら食べていて、美味しそうだった。物凄く食べたくなってきた。
喰種になってから、一度だけハムを口にしたことがある。とても不味かった。あの激烈な味を未だに憶えているのに、僕は懲りずに、人間だった頃に食べたハムの味を恋しがっている。でも今はどうだ。僕が食べられるハムと言ったら、どこぞのキチガイ盲人が叩き売りしている
不条理極まりない。
喰種は生き延びるために人を喰う。ルーミアちゃんもまた、並ならぬ事情を以って人を喰っている。けれでも彼女は普通の食べ物の味も楽しめる。その差がどんなに大きなことか、失った今ではしみじみ解る。もう、親友と一緒に美味しい物について語り合うことも、母を思い出すためのパンケーキの味を感じることも叶わぬ。あの味の記憶は次第に薄らいでゆき、人肉の美味とそれ以外の不味によって塗り替えられるのか。
「研、どうかしたの?」
「どうもしないよ、ありがとう」
ルーミアちゃんの声で現実に引き戻された。僕はいつの間にか彼女をじろじろと凝視していたようだ、と、ようやく実感した。そんな僕に対して、怪訝な表情を見せるでもなく、ひたすら不思議そうな眼で僕を見ていた。そんな彼女に、僕の中に芽生えたコンプレックスを知る由なんてありはしない。
羨ましい限りだ。それすらも僕は羨ましい。いや、妬ましい。パルパル。
テレビやドラマで、味覚を失った人が苦悩する様を見て、脚を失う事に比べて軽いように思っていた自分が浅慮に思えた。何か一つでも無くなるだけで、これだけの無力感を味わうことになるなんて。
「カネキ君、大丈夫かい? ひどく調子が悪そうだけど」
両手に持ったサンドイッチを、それを注文したお客の所に運び終えた後の事であった。心配そうにそう声を掛けてきたのは、この『あんていく』の従業員の古間円児という男性だ。
「いえ、大丈夫です」
「だって、今にも倒れてしまいそうだよ」
「いえ本当なんです、大丈夫です……」
「気分が悪いんだったら、少しの間休憩すべきだよ?」
「本当に、大丈夫ですって……」
一寸語調が強くなってしまった。
「そ、そう? それなら良いんだけど、……気分が悪くなったら僕がカバーするから、気兼ねなく言ってね」
古間さんは遠慮した風に、無理に僕に構おうとはしなかった。良かったのかもしれない。あれ以上踏み込まれたら、思わず怒鳴ってしまいそうな気分だった。否、たとえ僕の感情が苛立ちに膨れていたとしても、場所を考慮できないほど冷静を欠いてはいない。が、彼に辛く当たってしまっていただろうというのは想像できた。
「カネキ君」
横から店長の声が聞こえた。それは気遣うようなものでありながら、どこか僕をたしなめるようにも感ぜられる低い声であった。
「君は少し、具合が悪く、疲れているようだね。恰も良くもうすぐ君のシフトは終わりなことだし、後は彼に任せて上がりなさい。ついでに、コーヒーを飲むと良い、それで倦怠感も多少はマシになる。ねえ、円児君、カネキ君にコーヒーを淹れてあげてくれるかい」
「かしこまり!」
古間さんはそう弾んだ調子で言った後、僕へ視線を移し、ウィンクをした。先ほどの事などなかったとでも言うかのようだった。
僕は店の奥へすごすごと引き下がり、更衣室で店の制服を脱いだ。その後休憩室に入り、その辺のソファに腰掛けた。
こうして幾分か冷静になってみると、僕の具合が古間さんに感取られたのは、何も僕がそれを隠すのに失敗したからではないのだと実感された。赤ん坊が自身の気持ちを訴える手段として癇癪を起こすのと同様に、僕は自身の感情を、無意識の内に周囲へ示そうとしていたのだ。古間さんからの気遣いを拒絶こそしたけど、本当は構ってほしかった――なんて矛盾した動機があった。
部屋の扉が開いた。入ってきたのはルーミアちゃんだった。コーヒーを乗せたトレイを持って、僕の前にカップを置いた。
「やっぱり気分が悪かったのね」
いつも通りの表情と声調でルーミアちゃんは口を切った。
「まあ……そういう日もあるんだ。やたらとアンニュイで、何事も悪いように受け取っちゃう」
「そーなのかー」
ルーミアちゃんは両手を横に大きく広げて言った。空っぽの相槌だ。僕の言ったことを理解した上での返しではない。
馬鹿馬鹿しくなった。
日によって気分が変わり、特に理由もなく嫌な気持ちになるのは誰にでもある。そこに年齢は関係ないだろう。だけれども、大きくなって、歳を取って、色々なことが解ってきて考える世界が広がってくると、嫌なことをあれこれ憂慮するようになる。酷い時は、自分に関係のないことまであげつらって煩悶する。殊に僕のような、大人でも子どもでもない、そして社会を知らず吹っ切れられずに燻ぶっている若輩なんかは、まさにこのように自身の憂悶を他者に聴かせて、浅ましく同意を求めようとする。
こんな小さな女の子に、僕は何てものを求めているのか。
「そーなのかー」
また言った。
「ごめんね、これは勝手な言い訳だったよ。……ところで店長に伝えてきてくれるかな、もうちょっとだけここに居たいって」
僕は――何を遠慮しているのか――おずおずとルーミアちゃんに頼んだ。
「うん、いいよ」
彼女はそれだけ言って、小さく手を振りながら部屋を後にした。扉が閉まる音を最後に、この部屋からは音は消え失せ、代わりに耳鳴りが僕の頭の中に流れだした。
当初僕は、古間さんが上がるまで待っていようかと思っていたのだが、彼がいつ上がるか分からないのだから意味がないとして却下した。
ならどうしようか。何がしたくて僕はこうして鎮座しているのだろうか。
次第に落ち着かなくなり、コーヒーを飲み干した後には、部屋の中を特に理由もなく歩き回ったりしながら、次回古間さんと相対する時には何て声を掛けようかと思案していた。
自分からやっておいて何だが、こうして誰も居ない部屋で何もせずにいるのは苦痛だった。普段であれば一分の時間も惜しんで帰途につくものだけれど、今回の場合は、こう、戒律を破ってしまった僧が罪悪感から座禅を組むが如き心持ちで、ここにしばらく留まることを決めてしまったのである。
とは言え、それは一時的な情緒のもとに下された決断でしかないのだから、僕の気はこの一時間の内に変容してしまった。それにつれ、それまでの自分の心情のあまりの痛々しさに恥ずかしくなり、すぐさま僕は帰ろうと思い至ってそそくさと扉の方へ足を向けたのだが、僕が歩きだそうとした直後、部屋の扉が開いた。
「やあ、カネキ君」
扉から顔を覗かせたのは古間さんだった。
「こ、古間さん。えっと……仕事のほうは?」
「今日はもう上がりさ、トーカちゃんもカヤちゃんも来たしね、あとは二人に任せても大丈夫さ。これから帰るんだよ。そのついでに――ルーミアちゃんから君が元気ないと聞いたものだから――ここに寄ったんだ」
「ああ……」
温和な声でそう言われて僕は、古間さんは僕に気を使ってくれているのだと悟った。と、同時に、自分の過ちのことが思い起こされて、それに混じって、何とも言えない申し訳なさがこみ上げてきた。
「あの時はすみませんでした。気分がちょっとすぐれなくて……いや、体調のほうは問題ないんですけど、今日はどうも情緒が不安定で……」
謝らなければと思った。そんな考えが先走って、出した謝罪の言葉に続いて、頭に浮かんでいたことがのべつ幕なしに、混ぜこぜになりながら出ていった。出てくる言葉は弁解ばかりで、ひどく情けなかった。それに伴って、古間さんへの、また店長やルーミアちゃんへの、延いては『あんていく』そのものへの罪悪感が強くなっていった。
「そっか」
ほっとさせられるような声音で古間さんは相槌を打って、
「そういう日もあるよね。そんな日は本当に辛いよ。今までの自分の考えが、全て楽観的なもので、自分はこれから絶望の毎日を送るのかなって、不安な気持ちになるよね?」
「え……はあ……」
僕は、何と返答したら良いものかと迷い、結局気の利いたことは何も言えず素っ頓狂な返事をした。これでは肯定なのか相槌なのか判りやしない。
「すると、周囲に気を配る余裕が無くなっているものだから、身の周りのものが無価値に思えてきて、省みようと思わなくなっちゃうよね。こんな奴に好かれなくったって、嫌われたってどうでもいい。自暴自棄になっている今の自分に、そういった価値観があるのだと、自分に言い訳をしてしまって」
彼はゆったりと、時間を掛けて語った。
その言葉を、じっくりと噛み締めていると、はたと目が熱くなった気がしたかと思うと、涙が――溢れるとまでは行かなくても――目の中に溜まるのを感じた。
その涙と共に湧き上がる情熱に駆られて、
「そう、なんです……」
やっとの思いで僕は、小さい声ながらもその言葉を搾り出した。それに続けて、
「でも、やった後に自省の念に苛まれるんです。居ても立ってもいられず、こうして意味不明な行動に出て、そして――」
なかなか適当な言葉が浮かばなかった。そう考えながらも、古間さんが気になって仕方がなかった。でも、ばつが悪くて顔は見られなかった。気長に待ってくれているのが、僕にとっては、待たせてしまっているという負い目でしかなかった。
「――謝りたかったんです……」
ようやく出たのが、そんな安直なものだった。それしか無かった。
「古間さん、折角心配してくれたのに、にべもなくあんな態度を取ってしまって、本当にすみませんでした!」
深々と僕は頭を下げた。はっきりと、必要なことを解りやすく。実にしっくりと来た、端からこうすれば良かったのだ。
「大丈夫だよ、君の反省の気持ちを受け取ることが出来たんだし」
とは言えその証は必要かも知れないね、と古間さんは紡ぎ、
「そうだ、カネキ君、僕にコーヒーを淹れてくれないかい?」
虚心坦懐にそう結んだ。
「えっ? でも、僕はまだ接客しか出来ないし、お客に出せるようなコーヒーも淹れられないですし、その……」
「なあに、そんなに気にする必要はないさ」
古間さんはいつも通りのキザっぽい口調に戻って、
「仕事先の先輩たる僕が、後輩の君の腕前を知らないわけにはいかないからねぇ」
だけれど、声質のせいか、単に喋り方が変わったようにしか思えない。少なくとも、さっきまでの優しそうな彼を目の当たりにしていた僕にはそうとしか思えなかった。
思わず吹き出してしまいそうだ。
「それじゃあ、やってみます」
僕は準備に取り掛かった。豆、ミルやドリッパーなどの、コーヒーを淹れるための道具は部屋の中に揃っていた。従業員が休憩がてらにコーヒーを飲むために置かれている物である。
フィルターをセットしたドリッパーをサーバーの上に置き、そこに十から十二グラム程度の中細挽きにしたコーヒーの粉を入れて、揺らすなどしてならす。そこに、まず二十cc程のお湯を注ぎ粉を蒸らし、ある程度時間を置いて、それから、『の』の字を描くように四十cc程を注ぐ。次に水面が少し下がったら、また四十ccを注ぐ。三回繰り返すと、最初の二十ccも合わせてちょうど百四十ccのコーヒーが出来上がる。
言うは易く行うは難し。素人と玄人の間の一体どこに違いがあるのやら、未だに、お客に出せるようなものは出来上がらない。
これにしても、ドリッパーにあるコーヒーの粉の上にある灰汁の具合がいつも通りであることから、きっといつもの雑味の残ったものであるに違いない。
かと言って、出さないわけにもいかず、僕はそれを出した。
「どうぞ」
その際、自分の手が震えているような気がした。
彼は一口、二口と飲んでいき、ふうむ、と声を出して、
「コーヒーの淹れ方には定評がある僕にはまだまだ及ばないなぁ。けれど、この味は満更素人が出すようなものではない。カネキ君、君の腕は確実に上がっているようだね」
人差し指と親指を広げて顎に手を持っていき、評論家よろしくの調子で彼は喋った。
「良かった」
僕はほっと胸をなでおろした。
まだまだとは言われてはいるが、確実に進歩しているという評価は、僕を安心させるには十分だった。
「カネキ君、君も随分練習してたしね。トーカちゃんの指導以外でも、わざわざ自前でコーヒードリッパーとかを買って、練習してるんでしょ?」
「うっ……」
出し抜けに図星を突かれ、顔が熱くなった。きっと僕は赤面している。
「ヒデから聞いたんですか……」
ヒデというのは、僕の小学生の時からの親友だ。引っ込み思案でクラスに溶け込めない僕を気遣ってくれたのが最初で、それからは中学高校、同じ大学に受かって現在に至る。
「人の口には戸が立てられないってね」
言われてみればそうかもしれない。練習台としてヒデに僕のコーヒーを飲ませているのだから、僕がバイトしている事の繋がりで『あんていく』の面々と世間話をして、それが話題に持ち上がるのは自明の理のはずだ。
「あははは。ま、そんなに気を落とすことはないよ。コーヒーを気に入って、それにこだわりだすのは当然のことさ。特に喰種なんかは、一部例外を除いて食事という娯楽が無いものだから、その代替としてコーヒーにこだわりを持つのさ」
「あっ……」
僕は喰種という単語に反応した。けれど、先ほどまでの時とは違って、沈鬱な気にはならなかった。それどころか、あの時の僕はどうしてこんな些細なことをうじうじと悩んでいたのか。否、理屈では理解していても、気持ちの上ではそうではないのだ。さしずめ、気落ちした人の気持ちを理解しきれないのと同じだろう。
古間さんは続ける。
「特に君の場合、元々人間だったわけで、甚だしい環境の変化で戸惑っていることなのだから、君がああなったのは、にべなるかなというものなのさ。何か大事なモノを喪失すると、当座でそれを受け入れることは出来ない。が、いつまでも現実を見ていないわけにもいかないから、悲嘆を以って受け入れようとするんだ」
「ええ、まさにその通りですね」
その大事なモノというのは肉親も当て嵌まるだろう。大切なモノを失うのはこれで二度目なのだから嫌でも解る。
「古間さんにも、そういった時期があったんですか?」
「あったよ。『20区の魔猿』なんて呼ばれたりしてね、捜査官狩りってことをしていたのさ」
「そ、捜査官狩りですか?……」
捜査官狩りとは、読んで字の如く、捜査官を抹殺することである。それがどういう意味を示すのか。
喰種は捕食を動機として人間を襲う。しかしながら、復讐や見せしめ、はたまた白人によるアボリジニ狩りさながらにスポーツ感覚で行われるものである。いずれにしろ不穏当な話であるのは否めない。特に復讐というのは、自らのやっていることが正当なものであると信じて疑わないのだから、本来の憎悪の対象が曖昧であるゆえに無意味な人殺しを続ける。
「そう、捜査官狩りさ」
今目の前に居るこの人が、僕が礼を失しても大人な対応でケアをしてくれたこの人がそんな恐ろしいことをやっていたなんて、どうして信じられるだろうか。
「そこで芳村さんに拾われたんだけど、当時の僕は、俺みたいなクズに優しくする酔狂な奴なんていねぇ、この世の中にはそんな冷徹な奴しかいねえ、きっとこのジジイも腹に一物抱えてるに違ェねえってね。この想念は、今にしてみれば、僕も若かったんだなあって。世界の全てを知った気になっていたのさ」
彼は自嘲気味に語った。
「人にはいろいろ過去があるんですね」
月並みな感想だった。あまりにも感じることがあったので、それしか思い浮かばなかったのだ。
「過去ありて今ありってね」
しかし、その時が過ぎてようやく感想が形になる事がある。
何でもないような他人の半生を覗いてみると、意外に興味深いと感ぜられる。平々凡々な他人の人生なんてつまらないなんてことはなく、他者の半生とは、五木寛之の『青春の門』のように巧みに情景を描写すればそれだけで面白い物語に化けるものだ。
尤もこんな感想、人との会話が苦手な僕には到底言えることではないが。
「じゃあ、ルーミアちゃんには、どんな過去があるんでしょうね」
何を思ったのか僕は、ルーミアちゃんのことを訊いた。
「いやあ……」
古間さんは戸惑っている様子だった。
「言うのははばかられるけど、彼女はちょっと難しいよねぇ……」
僕は思わず頷いていた。
「芳村さんが言うには、たまたま人を襲っているところに出くわして、親もいないみたいだから、捜査官に捕まる前に保護したらしいんだけど、それ以上詳しい素性は分からないんだ。良い子ではあるよ。仕事は手伝ってくれるし、何よりも素直だ。でも、あの微笑を見ていると気がそぞろになってくる。微笑んでいるように見えて、もしかしたらあれが彼女の無表情なんじゃないかって思うと、彼女の心中には何か闇があるんじゃないかって邪推してしまうんだ。普段は普通の、天真爛漫な女の子らしい振る舞いをしているけど、時折、大人顔負けの見識を垣間見せる事があるのがそれを倍化させてしまうんだよね……」
彼は、言葉尻を、いつものような軽い感じにして誤魔化そうとしていたようだが、内容が内容なだけに、そして僕がそれに共感してしまった事でそうはならなかった。
けれど僕は、彼の述懐には概ね同感したものの、彼が感じるものとはまた別のものを、ルーミアちゃんに抱いていた。
「僕は、コンプレックスを感じるんです」
「コンプレックス?……」
出し抜けにそんなことを言われて、彼は訳が解らないとばかりに僕の言葉を宛然と返した。
「劣等感のことではないんです。彼女と一緒に居ると――その、申し訳なくなると言うか……」
「申し訳ないって? 負い目でもあるのかい?」
「いえ、いえ。言葉の綾です。でも、それぐらいしか表現できなくて」
古間さんは、僕の言葉にますます当惑するばかりだった。解るようで解らない、そんな風だった。
かくいう僕も、自分の気持ちを感覚的には解っていても、理屈で説明できないでいた。
【2】
人里にある寺子屋。それは朝八ツ(季節にもよるが大体午前八時あたり。ここでは、幻想郷には定時法が伝わらなかったため不定時法が採用されているという設定)から始まり、昼八ツ(午後二時)に終わる。早苗が霊夢を連れて上白沢慧音に話を聞くために人里へ赴いたのは九ツ半(午後一時)を回った頃だった。皆昼食を食べ終えて授業を始めている頃だったので、二人はその辺の蕎麦屋で昼食がてらに時間を潰した。それでも足りなかったので、茶屋に入って団子を一皿、茶を数杯程飲んでさらに時間を潰したのである。
子供たちが家に帰る時刻になって、皆寺子屋から出てきた。そんな彼らに入れ替わりで二人は寺子屋の中に入った。
「おや、霊夢に早苗。どうした」
口元を綻ばせて二人へ顔を向けた女性。この人こそが、里の守護者こと上白沢慧音である。一見して理知的な佳人であるが、その半分は人間でもう半分は
「訊きたいことがあるんです」
早苗は愛想良く切り出した。彼女は一旦愛想笑いを――多少は笑みを残して――崩して、
「宵闇の妖怪についてなのですが」
「ふむ……」
慧音は微笑を解いた。
「ああ、そう来るとは予想していたよ」
再び、今度は少し困ったような微笑を浮かべた。
まあ座りなさい、と二人は慧音に促されて、先に霊夢が座って続き早苗が座った。
「やっぱり――『食べた』のですね?」
食べた、というのは『歴史』のことだ。この上白沢慧音には、歴史を食べる程度の能力というものがある。
「さる方からの頼みでね」
「そのさる方というのは、八雲紫のことですか?」
慧音は、きょとんとした顔をした。
「いや、違うが。頼んだのは彼女ではない」
「ち、違うんですか?」
「そうだ。彼女に関する『歴史』を食べてほしいと言ったのは――先代博麗の巫女だよ」
「えっ……」
それを聞いて面食らった早苗は、すぐさま、隣に居る霊夢の方を向いた。
「……知ってましたね」
早苗は、胡散臭そうと言うような眼で霊夢で見た。
「まあ、裏づけはなかったし。それは、これから慧音の話を聞いてみれば判るんじゃない?」
そう言って霊夢は慧音へ視線を向けた。ああそうだな、と慧音は話し出そうとした。
と、その時だった。
「おおい、霊夢ぅ!」
やけに大きな音を立てて引き戸が開き、やかましい声が響いた。
「……萃香か」
萃香と呼ばれた、両側頭部から角を生やした少女は、片手に持った瓢箪を傾けながらどやどやと霊夢たちのほうへ歩いてきた。
一見幼い少女に見えるこの者は、こう見えても鬼の四天王の一人であり、大の大人どころかこの幻想郷の大抵の者たちが敵わない戦闘力を有しているのである。今彼女が持っている瓢箪の中身にしても、中身はほとんど純粋なアルコールと言っても過言ではない強烈な酒が入っており、それをがぶ飲みしてもこうしてへべれけで済んでいるところを見ればただ者ではないと判るだろう。
無論、斯様な実力者を、これまた人あらざる者たる上白沢慧音が推量できないはずもなく、彼女は、いつでも動けるように居住まいを、気取られないようにほんの少しだけ崩していた。
「おっと、そんなにいきり立つなよ……」
萃香が口角を上げながら言うと、慧音はビクリと肩を竦ませた。
「何の用だね?」
「お前をかどわかしに来たのさ……」
――なあに冗談さ! と言って萃香はからからと笑った。
「わはははは! でもさ、お前みたいな良い女をさらってやりたいってなァ本音だよ。私の素性を推し量った上でそんな居丈高な振る舞いを敢えてするとは、なかなか気骨のある女だとは思わないかい、なあ霊夢?」
呆れた様子で霊夢は、女の私に訊くかしら、と嘆息しながら呟いた。
「で、用件のほうだけどさ。暇潰しに人里散歩してたらな、霊夢と早苗が一緒に居たなんて話を聞いたもんでさ、それが『カラス』の奴の耳に入ったみたいで、博麗の巫女と守矢の巫女が組んで異変か! なんてデカイ声で独り言を言うもんだから、皆それを真に受けてがやがやしてたわけなんだ。それで霊夢、実際どうなんだ。異変を起こすってんなら、私は力を貸すよ。でもその代わりドカンと盛り上げて――」
「そんなわけないでしょ」
霊夢は拳を萃香の鼻面へ叩き込んだ。生身の、何の特別な力もまとっていない人間の拳を受けたところで鬼には大したダメージにはならないらしく、いてっと萃香は呻いて後ろにすっ転んだ。
「何でい。そいじゃあ一体何なんだ?」
「早苗がね、宵闇の妖怪について調べたいって言うもんで。その道連れとして引っ張られて来たのよ」
ほほう宵闇の妖怪か、と萃香は興味深そうな様子を見せた。
「懐かしいなぁ……。久しく会ってないけど、元気してるかな」
「知ってるんですか?」
萃香の発言に早苗が食いついた。
「知ってるも何も、何度か勝負したからな。いやあ、強かったなぁ。また闘いたいもんだね。今はどうしてるんだい」
「どうって、力を失って弱小妖怪になったわ」
「マジか! スペルカードルールが流行ってからとんと話を聞かないと思ったら、まさかそんなことになっていたとはねぇ」
そう言えばあの時言っていたのもスペカを予見していたからなのか、と萃香は呟いた。しかし、その音は口の中に篭もっていたので霊夢らには聞かれなかった。
なるほどルーミアを知っているのか、と慧音。
「とすれば、ちょうど良い。私が宵闇の妖怪の『歴史』を探るより、実際に相見えた者から聞いたほうが良いかもしれない。萃香殿と言ったかな、是非ともお願い出来まいか」
慧音は会釈程度に、一寸うやうやしい口調で頼み込んだ。
萃香は、止してくれやい、と渋い顔をした。
「わざわざそんなへりくだらなくたって、ひとこと言ってくれればいくらでも話してやるからさ」
それにさ、と萃香は続ける。
「あんな面白い奴との思い出なんて、話したくてずっとうずうずしてたんだ」
「そうか、恩に着る」
「だから止しておくんなよって。……そうだ、きょうだい相手なら畏まる必要なんてないだろ。どうだい、あんた、私ときょうだいにならないかい」
「え? いや、えっと……」
慧音は少々困ったような顔で頬を掻き、逡巡していた。
今まで普通に滔々と喋っていたものだから失念していたであろうが、この萃香は現在酔っ払っているのである。いや、むしろ酔っ払っているからこそ、ああも饒舌になっていたとも言える。今だって慧音にきょうだいとなることを持ちかけたのだって、人としての正義を以って萃香に反抗しようとした彼女を本当に気に入ったというのもあるだろうが、酔っ払い特有の気前の良さというのもあるはずである。
そんなこんなで尻込みしている慧音の様相を気にせず萃香は、
「ありゃりゃ、そういえば人間にやっても大丈夫な酒がないな」
ううむ、と萃香は唸った。
と、このように、いつの間にか勝手に話を進めていたのである。
「今から用意してもいいんだろうけど……そうすると話のテンポが悪くなるよな。すまないね、きょうだいの契りは後にして、ひとまずルーミアの奴の話を始めようか」
「そうしてくれ……」
疲れたと言う顔で慧音はぽつりと返した。
じゃあ何から話そうか、少しの間萃香は考え込み、
「まずあいつの性格だけどな――」
萃香は人差し指を立てながら低い声でそう言う。慧音と霊夢はそのままの姿勢で、早苗は顔をずいっと、前屈みになって次の言葉を待った。そうしてしばらくの沈黙を挟んだのち、
「――嫌な奴だった!」
憮然として、しかしそこはかとなく快活な様子で言った。
霊夢と、萃香の言動に慣れてきた慧音は少しだけ脱力した。それだけで済んだ。だが早苗は、力んでいたところに肩透かしを食らったものだから、前のめりに体勢が崩れた。
「もう本当さ、偏屈だったよ。普段はあまり喋らないくせに、珍しく長々と喋ったかと思いきや、人を喰ったみたいな屁理屈こねて人を煙に巻く、そんなんだったさ。いや、人を喰ったって言っても物理的にじゃなくてな……、まあそんなことは置いといて。とにかく斜に構えててな、いけ好かなかったんだよ。アツモノにビビってナマスなんか吹いちゃってさ」
最早酔っ払いの管巻きである。霊夢は聞こえよがしにそう言ったが、萃香は話すことに夢中で気付いていない。
「でもさ、私はあいつのこと好きだったよ。何たって、喧嘩を売れば買ってくれるし、何だかんだ言って付き合い良いし。それに先見の明もあった。妖怪の賢者として『上』の輪の中に入るかどうかの打診を受けていたくらいだからなぁ」
「そんなにですか……」
呆然として早苗はそう言った。
さて――と
「余興はこれくらいにしといて、宵闇の妖怪の物語について語ろうじゃないか」
萃香は口を切った。
「とは言え、私の知らぬところもあるだろうから、そこは、きょうだい、お前に補完を頼むよ」
そう前置きをして、萃香は語り始めた。
IBK姉貴はレズでホモ、はっきりわかんだね。