東方喰種! 現代入りしたルーミア   作:YSHS

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Sleeping RAPE! The senpai who become a beast.




お母さんこわれる

 雨というのは昔から嫌いだった。

 

 いや、雨を好きなんて言う人はあまりいないのではないか。冷たく、煩わしく、そしてベタつく。傘を差して歩くと手がふさがる、そうすると本が読めない。それに、鞄の中に入れていた本が、いつの間にか濡れてよれる事さえもあった。

 

 特にこの時期なんかは、もうすぐ冬なものだから、雨はとても冷たい。

 

 ルーミアちゃんは、雨が好きだと言っていた。僕は大して驚きもせず、そういう人もいるのだな、という感想を抱いた。

 

 「うわっと……」

 

 そんなことを考えていたら転んでしまった。同時に、手に持っていたトレーと、上に乗っていた、コーヒーが少しだけ残っているコーヒーカップを落としてしまった。幸いにしてカップは割れずに済んだが、中身がトレーの上と床にぶちまけられてしまった。

 

 「何やってんだよ、すっトロイな!」

 

 僕のバイトの先輩兼教育係の霧嶋(きりしま)董香(トーカ)ちゃんが、呆れたような叱責を飛ばしてきた。

 

 僕はドジが多い。それでこそ、トーカちゃんが僕のドジに慣れてしまうくらいには。しかしながら、ここ最近ではそれがなりを潜めていた。そのため、僕は久方ぶりの叱責を頂くのであった。

 

 「わはーははは!」

 

 ルーミアちゃんは両手を広げたポーズのまま笑った。目を細め、口角を上げて八重歯を見せる。その様は無垢な少女である。当たり前だが、僕には彼女のそれが新鮮に見えて仕方がない。と、そんなことを毎回感じるのである。

 

 「ルミも笑ってないで布巾持ってきて!」

 

 「はーい」

 

 やがてルーミアちゃんが布巾を持って現れ、彼女はそれを僕に投げて渡した。僕はすぐさま床を拭いた。床に飛んだ液体はさして多い量ではなかったので、一分も経たないうちに終わった。

 

 僕がそれを終えて少しした折、ベルの音と共に店の扉が開いた。そこから姿を見せたのは、僕の親友であるヒデこと――ひでではない――永近(ながちか)英良(ひでよし)であった。

 

 「大将、やってる?」

 

 「屋台じゃないんだぞ、ヒデ」

 

 僕がそう切り返すと、ヒデはくつくつと笑った。

 

 「やあ、ルーミアちゃん、トーカちゃん、今日も可愛らしいねえ」

 

 「こんにちは、英良。あなたも相変わらず、……軟派ね」

 

 「ははは……」

 

 思わぬ切り返しに、ヒデは一瞬どう返したものかと困ったような顔をし、結局苦笑をしたのだった。

 

 「ち、ちょっとルミ! ごめんなさい、えっと……英良さん?」

 

 「いや、いや、気にしないでちょうだいよ。この娘とは、お互いに知らないわけじゃないしさ。ね、ルーミアちゃん」

 

 「そーなのかー」

 

 すっとぼけた調子で、ルーミアちゃんは目を逸らしながらいつもの口癖を言った。

 

 「ちょ、それはないって! 見捨てないでくれえ!」

 

 ヒデはオーバーなリアクションをしてみせた。トーカちゃんがくすぐったそうな笑い声を上げ、俄かにその場には和やかな雰囲気が流れる。

 

 「で、注文は何にするの?」

 

 と、ルーミアちゃん。

 

 「そうだなあ……ウィンナーコーヒーにしようかな」

 

 「ウィンナーコーヒーね。ご一緒にシャウエッセンもいかが?」

 

 「なるほど、これが本当のウィンナーコーヒー……ってお約束かよ!」

 

 「わー!」

 

 ヒデからのツッコミに弾かれるように、子どもの劇のやられ役よろしく彼女は奥へ下がっていった。

 

 彼女が居なくなると、途端に場は静まり返りだした。トーカちゃんは誰かが言葉を出すのを待っている様で、ヒデはというと、ルーミアちゃんが居なくなった事でリズムが崩れたのか言葉を探している様子だった。そして僕は、何か言わなくてはと思いながら思案していたものであったが、結局何も思い浮かばずに閉口を貫き通す事となったのである。

 

 「いやあ……」

 

 と、ヒデが切り出す。僕とトーカちゃんは、いま将に話そうとするであろうヒデを見やった。

 

 「ルーミアちゃんが居ると、いつの間にか主導権が持ってかれちまうよなぁ……」

 

 呆然と僕はヒデを見つめていた。何の反応を示さなかった。けれども僕は、彼の言葉に俄然共感した。

 

 「子どもって、そういう感じですよね」

 

 トーカちゃんが小さく笑いながら言って、まあ私の偏見かもしれませんけど、と結んだ。また少しだけ間を置いて、

 

 「知り合いの子どもで――と言ってもそこまで小さくありませんけど――女の子がいてですね、その娘は随分とおとなしいんです」

 

 「ああ、そういう子いるよね」

 

 と言いながら、ヒデは僕に視線を流した。

 

 「な、何だよ……」

 

 「いや、昔のカネキを思い出してな」

 

 からかうような眼だ。

 

 でも事実だ。何とか言い返したいけれど、気の利いた切り返しをしたいけれど、かなしいかな僕はそうしたユーモアやウィットというのは持ち合わせてはいないのである。

 

 「お待たせしました、ウィンナーコーヒーです」

 

 そしてうれしいかな、ちょうど注文のコーヒーを届けにきたルーミアちゃんという助け舟に乗ることが出来た。

 

 「ああルーミアちゃん、ちょうど良かった、今話が終わったところなんだ」

 

 「おいおいカネキ、逃げるなって――」

 

 ヒデが言い終わらぬうちにルーミアちゃんが、

 

 「そーなのかー」

 

 と言ってコーヒーをヒデの顔に押し付けた。

 

 「あつっ!あちち! や、やめてくれ、ちょっと!」

 

 カネキ助けてぇ、と、ヒデは押し付けられるカップを片手で押さえながら、もう片方の手で僕に救いを求めた。

 

 「余裕そうじゃないか、まったく……」

 

 子どもの悪戯に付き合うとは、つくづくノリの良い奴だと思う。

 

 「ほら、ルーミアちゃん、そろそろ」

 

 彼女の肩に手を置いて、それを合図に彼女は悪戯を止めた。

 

 「いやあ悪いな、カネキ。お前最高。からかってごめんよ」

 

 「調子のいい奴だなあ……」

 

 ぷっと後ろでトーカちゃんが吹き出すのが聞こえた。

 

 その後のことは、わざわざ詳細に話すことでもないだろう。せいぜい、ヒデがコーヒーを啜りながら僕を冷やかしたりトーカちゃんと話したりするだけであった。それ以外でなら、他愛もない世間話くらい。

 

 そういえば、その世間話をしている中で、喰種に関する話題が上がった。熱しやすく冷めやすいことに定評のあるヒデが、今度はあろうことか喰種に興味を持ったのである。

 

 そぞろな気だ。

 

 「じゃあそろそろ帰るわ」

 

 ヒデはお代だけ置いて立ち上がった。

 

 「ああ、またね、ヒデ」

 

 他に何か言おうかと思ったが、考えている間にヒデは店を出てしまった。

 

 僕は何だか嫌な予感がした。

 

 「カネキ」

 

 トーカちゃんの無機質な声が呼んだ。

 

 「あのヒデって奴のことだけどさ。もし正体がバレたら――あいつ殺すからね」

 

 低く抑揚のない声。僕の胸から首元までに鳥肌と寒気が走った。

 

 「そ、そんな――」

 

 何とか反論を返そうとするも、何の言葉も紡げなかった。先ほどのヒデの、喰種に興味があるというのを聞いたことが尾を引いていたのだ。

 

 「殺したくなきゃ、死ぬ気で隠しなさい」

 

 トーカちゃんは僕に言い聞かすように反駁した。

 

 辺りには重苦しい空気漂った。そんな中で僕は頭の中で彼女の言葉を反芻した。

 

 気をつけよう、と、僕は最終的にそれだけを決意した。

 

 そんな時であった。店の入り口が、またもやベルと共に開いたのである。扉の開け方から慌しさを感知した僕は、吃驚したように首をそちらへ向けた。入ってきたのは女性と女の子だった。

 

 「リョーコさん!」

 

 トーカちゃんは目を見開いて、リョーコと呼ばれた女性に駆け寄った。

 

 「カネキ、タオル!」

 

 「あっ、うん!」

 

 トーカちゃんからの注文で、リョーコさんと女の子がずぶ濡れであることに僕はようやく気付いた。せかせかと僕は店の奥にあるタオルを持ってきた。

 

 トーカちゃんは、僕が持ってきた幾枚かのタオルから二枚程取ると、二人に渡した。二人はそれを受け取ると顔や髪を拭いた。

 

 「ごめんなさいね、迷惑掛けて」

 

 申し訳なさそうにリョーコさんが言った。

 

 「いえ……」

 

 トーカちゃんは気を使ったらしい口吻で応えた。

 

 僕は眺めるようにリョーコさんと女の子を観ていた。気の弱そうな、いや物腰柔らかそうな女性であった。女の子のほうは、眼を伏せて身を縮こまらせている。そうしておもむろに視線を上げて、たまたま僕と眼が合うと、途端にまた怯えたように眼を伏せて、ますますリョーコさんに身を隠すようにくっつくのであった。

 

 よく似ている。母娘であるのが判った。

 

 女の子のほうが、僕に怯えたような様子を見せて、後ろめたい気持ちになった。そのままに視線を少し横にずらすと、視界の端に動くものが見えた。反射的にそちらへ目を向けると、いつの間に居たのか――というか存在を忘れかけていた――ルーミアちゃんが居た。

 

 彼女は女の子のすぐ横に着く。女の子はまだ気付いていない。ルーミアちゃんが女の子の肩に手を乗せると、女の子は即座にその方へ振り向き、ルーミアちゃんの顔があるのを認識して、

 

 「わっ……」

 

 と小さく驚きの声を上げて咄嗟に顔を引き離した。

 

 「ル、ルミちゃん!」

 

 女の子はパッと顔を綻ばせた。

 

 「ひ、久しぶり! えっと……元気だった?」

 

 「うん、元気だよ、雛実ちゃん」

 

 いつものポーズを取ってルーミアちゃんは応えた。

 

 「うん、うん!」

 

 会話が成立しただけなのに、ヒナミちゃんと呼ばれた女の子は嬉しそうに、何度も頷いた。続けて彼女は、あのねあのね、と、どもりながら自分のポケットの中から一枚の葉っぱを取り出すと、

 

 「見ててね」

 

 と、葉っぱを唇に押し当てて息を吹いた。出てきた音は風を切る音のみだった。ヒナミちゃんは、あれれと眉をハの字にして首をかしげ、もう一度息を吹いた。しかしやはり、変わった音は出ない。彼女は顔をしかめ、躍起になってその後何度か葉っぱを吹いた。

 

 そして何度目かで、ようやく変わった音が鳴った。

 

 「あっ!」

 

 と彼女は声をあげ、もう一度吹いてみた。今度はしっかりと音が出た。物と物をこすり合わせた音みたいに聞こえる、またオカリナの音にも似ていた。

 

 「ほら、出来たよ!」

 

 得意な顔で言うと、

 

 「そーなのかー」

 

 ルーミアちゃんは例のポーズのまま莞爾として微笑んで言った。

 

 「そーなのだー」

 

 ヒナミちゃんもそれを真似て応答した。

 

 わはー、と二人は同時に声を上げた。よく解らない応酬だ。合言葉のようなものだろうか。

 

 そんな二人のやり取りを見ていて、トーカちゃんとリョーコさんは相好を崩していた。

 

 「ねえ、ルーミアちゃん、……折り入ってお願いがあるのだけれど――」

 

 リョーコさんが遠慮がちに話しかけた。

 

 「お客さんが来るまで……ううん、少しの間だけ、ヒナミの相手をお願い出来るかしら」

 

 「うん、いいよ。私が暇な間でよければ」

 

 快くルーミアちゃんは首を縦に振った。

 

 「行こう、ヒナミちゃん」

 

 「うん!」

 

 そうして二人は、仲良さげに手を繋いで奥へ行った。 

 

 先ほどまでの厳かな雰囲気とは打って変わって、少しだけ空気がやわらいだ。あの二人の子どものおかげかもしれない。

 

 「カネキ、あんたも一旦奥へ引っ込んでて」

 

 「え?」

 

 「だから、引っ込んでてって。私はちょっとリョーコさんと話があるから」

 

 「うん、……でも僕が引っ込む理由は?」

 

 トーカちゃんからつれないことを言われて少々ムッとし、僕はいささかの逡巡もなくそう訊いた。

 

 「ううん……」

 

 彼女は視線を落として刹那の間を置き、

 

 「立ち入った話だから、あんたが聞くと面倒くさいことになる」

 

 平然と答えた。

 

 「……そう」

 

 僕はそれだけを言って、彼女の指示通りに奥へ下がることにした。

 

 ところでさカネキ、とトーカちゃんに引き止められた。

 

 「あの娘らにコーヒーでも運んであげてほしいんだけど、頼める?」

 

 「ああうん、いいよ。……ん? あの娘らってことは、ルーミアちゃんにも?」

 

 彼女はコーヒーを好まないはずだ。そもそも、飲んでいるところを見たことすらない。

 

 「そう。ヒナミの目の前でジュース飲ませるわけにもいかないだろうし」

 

 なるほど、と僕は合点した。おそらくだが、これは彼女本人の要望だろう。

 

 店内のコーヒー豆を使うわけにも行かないので、休憩室の豆を使うために僕は早速そこへ足を向けた。店内から奥への扉に入って、僕は息を一つ吐いた。

 

 「それにしても……」

 

 トーカちゃんが今さっき、立ち入った話だからと言って僕を追い立てたことだが――、きっと嘘だろう。立ち入った話と言うなら、大方あの母娘がここに来たことについて話し合うことだろう。が、僕より古いとはいえトーカちゃんにそんなことを、店長が任せるはずがない。話の内容といったら、せいぜい店長に報告する事柄程度だろう。

 

 彼女が嘘を吐いてまで僕を遠ざけたかったのは、けだし彼女が僕を面倒くさい奴と知り抜いているからかもしれない。近くで話を聞かれ、後で質問されたら面倒だと思った上での行動なのだろう。

 

 僕は嘆息した。失望したからではない、図星だからである。確かに思うところもある。しかしながら、こうして得心している自分がいる。

 

 いつまでも女々しく消沈していても際限ないので、無理矢理気持ちを切り替えて休憩室へ向かった。部屋の前に着くと、中から女の子二人の話し声が聞こえた。片方が何かを説明していて、もう片方がそれに相槌を打ったりリアクションを返しているように思えた。

 

 自身の中のためらいを抑えつけて、さっさと僕は扉をノックした。どうぞ、という声が聞こえたので、ゆっくりと扉を開ける。その際、失礼します、とやけによそよそしいことを僕は言った。

 

 「ああ研じゃない、どうかしたの?」

 

 とルーミアちゃんから問われた。僕は、気の利いた言葉が咄嗟に思い浮かばなくて、数瞬の間黙考した挙句、

 

 「トーカちゃんから、君たちにコーヒーを持っていけって言われてね」

 

 と、結局このように安直に用件を言うのだった。

 

 「それはちょうどよかった。じゃあお願いしようかしら」

 

 部屋に入り、彼女らの横を通って、コーヒーを作るための道具のもとへ行く。その時、見られているような気がした。横を通る際、一瞬だけ二人のほうへ視線を向けた。ルーミアちゃんは、テーブルに広げた何かの雑誌を見ていて、彼女の隣に座っていたヒナミちゃんは、顔こそ僕の方を向いていたけど僕を見てはいなかった。

 

 部屋には沈黙が流れた。

 

 「研も聴く?」

 

 コーヒーの用意をしていると、出し抜けにルーミアちゃんがそれを破った。

 

 「何を?」

 

 これ、と言ってルーミアちゃんは雑誌を見せた。彼女が見ていた雑誌は宇宙についてのことだった。

 

 「多元宇宙?」

 

 というページが僕に見せられた。

 

 「私かて深く理解しているわけじゃないけど、雛実ちゃんに訊かれたから、私が理解している部分だけを解説していたところなの。で、今解説していたのは、三角形の内角の和が百八十度であることなんだけど」

 

 と言って彼女はヒナミちゃんを見やった。

 

 喰種は、喰種対策法なる法律によって人権が認められておらず、大抵の喰種は戸籍を持っておらず、まともな教育が受けられずに読み書きすら出来ない者もいるらしい。ヒナミちゃんもその一人であるなら、三角形の内角の和の解説が必要なのはむべなるかなというものだ。

 

 「それで、その三角形の内角の和と多元宇宙とどう関係があるの?」

 

 「詳しい証明は省くけど、三角形の内角の和が百八十度というのは絶対的だよね。でも例外があって、球面とかゆがんだ空間に貼り付けるとそれを証明できなくなるの。尤もこれは多元宇宙に直接的には関係はないけど」

 

 「じゃあ、どんな感じに関わるの?」

 

 そう訊くと、まあそんなにせかせかすることはないわと言い、

 

 「ある学者が、宇宙に漂う放射線を測ったんだけど――」

 

 「ホウシャセンって何?」

 

 とヒナミちゃんが訊いてきた。

 

 「素粒子っていう、目には絶対見えないとても小さな粒が、高いエネルギーを持って空間を飛び回っていて、それが放射線。宇宙にはそれが多量にあるんだ」

 

 僕がそう簡単に説明すると彼女は、ふうん、とひとまず理解したような様子を見せた。ルーミアちゃんが、続けるよ、と一言断ってからまた喋りだした。

 

 「その放射線のムラを測定して点を作り、その出来た点と点を結んで出来た図形に三角形を描いてみたところ、ほぼ百八十度だったらしいわ。つまり平坦だったってわけ」

 

 「ちょっと待って、今、ほぼ百八十度って言ってたよね? だとすれば、必ずしもそれで宇宙が平坦だって言えないんじゃないかな」

 

 「そう、まさにそこなの。例えばこの地球、球体ではあるけど、そこら辺の地面に適当に大きな三角形を描いたところで内角の和は百八十度を超えたりはしないでしょう。それと同じで、宇宙は私たちの想像を絶する広大さであるってことなの。それに、とある研究では、宇宙の膨張――宇宙が膨張しているのは知っているよね――の際、量子ゆらぎっていう現象が起きるから、必ずしも均一になるわけではないらしいの」

 

 「ということは、その三角形を貼り付けた空間は所詮宇宙の一部分でしかなくて、宇宙はもっと歪んでいるってことかな」

 

 僕が言うと彼女は、そうね、と同意した。

 

 「そういうことから、宇宙の外にはさらに広大な何かが在って、そこにはこの宇宙とはまた別の様々な宇宙が在るって説を後押しすることになったってわけ。そしてそれがどんな感じのものであるかも諸説あるらしいの。インフレーション理論とかだと、まず母宇宙があって次に子宇宙が出来、それからさらに孫宇宙という具合に、泡みたいに宇宙がいくつも在るんだとか」

 

 「なるほど、それは夢がある話だね」

 

 「でしょ」

 

 「ううん……ちょっと難しいかな」

 

 ヒナミちゃんは渋い顔をして言った。

 

 「難しく考えなくてもいいと思うよ」

 

 僕はフォローをしてみる。

 

 「感覚的には解っているだろうし、そこから噛み砕いて解釈をすれば、きっとさ」

 

 「う、うん」

 

 彼女は僕の目を凝視しながら、はっきりくっきりと声を出してくれた。そんな彼女に僕は微笑で返した。

 

 ふと視線を逸らすと、ある物が眼に入った。

 

 「あれ、それって高槻泉のやつ?」

 

 え、と彼女は、僕が示した本に顔を向け、うん、と頷いた。

 

 「高槻泉を読むなんてね、凄いや。あ、それは短編集か、なら比較的簡単かも……。ねえ、君はその中で何の話が好き?」

 

 僕が柄にもなく滔々と喋り、少し戸惑いながらも彼女は、

 

 「えっと……コヨトキ、アメ、かな」

 

 「コヨトキアメ……ああ、『小夜時雨(さよしぐれ)』だね。『黒山羊の卵』の先駆けになったやつだ」

 

 僕は勝手に独り言を言っていた。はたとそんな自分に気付いて、眼だけを動かしてこっそりヒナミちゃんを見やると、彼女は僕をぼんやりと見つめたのち、

 

 「あ、あの!」

 

 と彼女は短編集を開いて、

 

 「これは何て読むんですか?」

 

 と尋ねられて、彼女が指した単語を見る。それは――。

 

 「紫陽花(あじさい)、だよ」

 

 「アジサイ? お花の?」

 

 「そう」

 

 「それじゃあ、こっちは?」

 

 彼女はやや浮き立った様子で次の単語を指した。

 

 「これは、薄い氷と書いてハクヒョウ。でも他にも、ウスライって読み方があるんだ。こっちのほうが、響きとしては良いと思う……思わない?」

 

 「ううむ……、私としては、この前と後の淡々とした雰囲気とかリズムを考えると、ハクヒョウのほうがピッタリな気がする」

 

 「あっ、確かにそうかも……。凄い感性だね」

 

 すると彼女は、えへへとくすぐったそうに笑った。可愛らしいものであった。人見知りこそすれど、人懐っこい子であるらしい。

 

 なら、と僕は、

 

 「ねえヒナミちゃん、君がよければだけど、これから暇があれば君に単語を教えてもいいかな?」 

 

 意を決して提案してみた。

 

 「いいの?」

 

 その提案に彼女は、口元に僅かながら嬉しさを見せて聞き返した。それに対して僕は、うん、とだけ言って微笑み掛けた。

 

 こうして僕とヒナミちゃんは誼を持つ事となった。それからの数日間、僕は暇さえあれば彼女に単語を教えていた。高槻泉の本を中心として、小説の中にある難しめの語を教えた。僕が彼女に新たな語を教えるたびに、彼女は、自分のメモ帳にそれを記録していた。物覚えも良く、勉強熱心な印象を受けた。

 

 そんな日々が続く、いつまでも。そんな風に思っていた。

 

 ある日の事だった。リョーコさんがおろおろと、席に座り物憂げな表情をしながら悩んでいるようだった。

 

 「どうかしましたか?」

 

 僕が声を掛けると、

 

 「ええ、ちょっと。ヒナミが、お父さんに会いたいとぐずりだして」

 

 そんなすぐに教えてくれるあたり、彼女も相当参っているのが感ぜられた。

 

 ヒナミちゃんは休憩室に立て篭もっているらしい。僕がその部屋の前に行くと、中からすすり泣く彼女の声が聞こえた。そんな彼女に憐憫の情がはたと湧き、沈鬱な気になった。

 

 あの母娘は、ここ数日間ずっと『あんていく』に軟禁されている状態だった。最初のほうは気が付かなかったけど、日に日に二人の表情が不安に苛まれているものとなっていけば、さすがに気付いた。

 

 僕は一層、ヒナミちゃんに単語を教えるのに力を入れていた。できるだけ彼女が楽しめて、自身の境遇を忘れられるように。でもついに限界が来てしまったのか。

 

 「あの、詳しく聞かせてもらえますか?」

 

 事情を聴きだすのが目的ではなかった。ただ、リョーコさんの心情を吐露してもらえれば、彼女も少しは楽になるだろうと思ってのことだった。

 

 少しばかり彼女は渋ったが、軽い説得をしたら、とつとつと話してくれた。

 

 曰く、彼女の夫、笛口アサキさんは昔、何やら怪しげなことをしていたのだという。しかしヒナミちゃんが生まれてからはそこから離れていたが、最近になって昔関わっていた危ない人が訪れてきて、現在に至るとのこと。

 

 「ヒナミが、お父さんが夢に出てきたと言って――今思えばそれが切欠だったのかも――それから彼の話になったんです。そうしてあの娘が、いつお父さんに会えるかと訊いてきて、しばらくは会えないと言ったら、ああなってしまって……」

 

 「嫌なことは極力考えないようにするけど、自分が欲しいものというのはなかなか頭から離れないものですよね。すると、今まで我慢していたものが一気に爆発したのかも」

 

 「ええ、きっとそうなんでしょうね……。因果応報と言うのか、昔やらかした事が今になって帰ってくるなんて。でも、昔はそんな事をしていても、彼は優しい人なんです。ヒナミにも私にも優しくしてくれて……」

 

 寂しげに微笑んだ。

 

 「あなたも――アサキさんに会いたいですか?」

 

 「え?」

 

 「ヒナミちゃんが寂しいのなら、あなたもやっぱり同じ気持ちなんじゃないかって思って」

 

 僕の指摘に、彼女は唇を震わして、ええ、と喉に声を篭らせながら答えた。

 

 「……ありがとうございます、愚痴ったら少しだけ楽になりました」

 

 「いえ、いえ」

 

 さて、と彼女は立ち上がった。

 

 「私もいい大人で、母親でもあるのだから、しっかりしないと。あの娘がああなったのも、私の気分が伝染ってしまったからに違いありません」

 

 「大丈夫ですか?」

 

 「ええ! ヒナミもまだ子どもなんだから、母親である私が不安を取り除いてあげないと。私が甘えてたら、ヒナミが甘えられませんもの」

 

 悲壮な表情だった。黙って頷き僕に背を向け、彼女は店の奥に消えていった。僕は心配になり、見に行こうかと思った。けど余計なお世話かと躊躇した。が、結局行くことにした。

 

 店の奥の廊下の、角を曲がってしばらく行くと休憩室がある。僕は角の陰に身を隠して向こうの様子を窺った。

 

 「ヒナミ、そろそろ出てきなさい」

 

 「いや!」

 

 案の定、話しかけるリョーコさんに、意気地になっているヒナミちゃんの構図。

 

 「どうしてお父さんに会えないの? 会いたいよ、何で駄目なの!」

 

 「いい加減にしなさい!」

 

 痺れを切らしたリョーコさんが、怒鳴りがちに言った。中から聞こえてきていたヒナミちゃんの訴えがピタリと止んだ。それを受けてリョーコさんは、やってしまったとばかりに辛そうな表情をした。

 

 「……ごめんね、ヒナミ。お母さん、言い過ぎたわ」

 

 先ほどまでの凛とした声音から一転して、いつもの優しげなそれで再び語り掛けた。

 

 「偉そうに言っていたけれど、実を言うとね、……お母さんも寂しかったの。でもそんなこと言ってられないって我慢していて、それをヒナミにも押し付けちゃって。本当にごめんね。本音はお母さんも――あの人に、お父さんに会いたいんだ……」

 

 涙ぐんだ声で諄々と。それでも彼女は泣き出すまいと、顔を一寸上に向けて深く息を吸って吐いた。しばしの静寂ののち、ドアノブがゆっくりと動き、扉は軋む音を立てながらゆっくりと開いた。開いていく扉の隙間から、顔色を伺うような、ヒナミちゃんのうるうると揺れる(まなこ)が覗いた。

 

 小さく開いた扉の隙間をすり抜けるように彼女が出てきた。

 

 「あの……」

 

 ヒナミちゃんが切り出した。でも少しの間ためらってから、

 

 「ごめんなさい、お母さん……わがまま言って」

 

 涙声で謝った。

 

 リョーコさんは、ううん、と首を横に振った。

 

 「お母さんもね、ヒナミと全く同じ気持ちだったから、あなたのこと言えないの」

 

 そう言って彼女はヒナミちゃんを抱きしめた。お互いにそれ以上何かを言うでもなく、ひたすら。すれ違っていた気持ちが、リョーコさんの告白によって交和したのだ。一旦は出来た溝が埋められ、あの母娘の仲はいとど深まったように思えた。

 

 僕はその場を後にした。店内に、仕事に戻った。

 

 結構な時間を置いて、二人は店内に入ってきた。リョーコさんの目は、あんまり涙を流していなかったからかそのままであったが、ヒナミちゃんは相当泣いていたため未だに赤い。

 

 「仲直り出来たんですね」

 

 白々しくも僕は言問う。

 

 「ええ、おかげさまで」

 

 爽然とリョーコさんが言った。

 

 二人は、先刻までリョーコさんが座っていた席に着き、わきあいあいと話しだした。

 

 「ずっとヒナミに寂しい思いをさせてきたのだから、お母さん、ヒナミにお詫びに何か買ってあげたいんだけど、何がいいかな」

 

 「え、いいの?」

 

 ええ、とリョーコさんは微笑んだ。まさに母子の会話。

 

 羨ましいかぎりだ。

 

 しばらくして僕に待機時間が与えられたので、休憩室でヒナミちゃんに単語を教えていた。教えていたのは、彼女が持っている高槻泉の短編集に出てくる語だ。もうすぐコンプリート出来そうなのである。

 

 「で、次は何を教えてほしい?」

 

 ううんと、と彼女は、残り少ないページを捲って語を探した。数分後になって、最後のページを捲ると、

 

 「無い! 全部憶えたよ!」

 

 「本当に? おめでとう!」

 

 僕は拍手を贈った。えへん、と得意げに彼女は胸を張った。

 

 と、ちょうどその時、リョーコさんが部屋に入ってきた。

 

 「あら、ヒナミ、単語を教えてもらっていたのね」

 

 「うん! ほら!」

 

 とヒナミちゃんは母親に単語をメモした手帳を見せた。

 

 「全部憶えたんだよ!」

 

 まあ! とリョーコさんは嬉しそうに驚嘆した。

 

 「やったわね、ヒナミ。カネキさん、ありがとうございます」

 

 「いえ、大したことは。……それでは、僕はこれで」

 

 「うん、またね!」

 

 ヒナミちゃんは僕に小さく手を振った。それに手を振り返しつつ、僕は部屋を出ようとした、その時、掴もうとしたドアノブが動き、扉は開かれた。扉の向こうにいたのはルーミアちゃんだった。

 

 「ああ、ルーミアちゃんも待機?」

 

 「ううん、もう終わり。雛実ちゃんは――これからお出掛けね?」

 

 知っていたような口振りだった。聴いていたのだろうか。

 

 「うん、だから支度しなきゃ! お母さんがね、私にプレゼントを買ってくれるんだ!」

 

 「そうなの、良かったね。じゃあ――バイバイ」

 

 うふふ、とヒナミちゃんが可笑しそうに笑った。

 

 「すぐには行かないよ。それに、バイバイはおかしいんじゃないかな、それだとお別れの挨拶みたい」

 

 ルーミアちゃんは目を細めて、その可愛らしい見た目とはかけ離れたような、たおやかな微笑みを浮かべて二、三度小さく頷いた。

 

 僕は部屋を出た。

 

 扉を閉めて数呼吸置き、会話が始まった。カネキお兄ちゃんが、とヒナミちゃんの声が聞こえた。どうやら僕が話題に上がったらしい。僕はそのまま何となく聞き耳を立てる。

 

 「カネキお兄ちゃんのおかげでね、この本の単語が全部憶えられたんだよ」

 

 「凄いね。大体どれくらい?」

 

 「えっとね……四十語くらい!」

 

 「そんなに? 良かったね」

 

 「うん! お兄ちゃんには感謝しなきゃ。えへへ……お兄ちゃんって本当優しいよね」

 

 「そーなのかー」

 

 「そーなのだー」

 

 「……最初に比べて仲良くなったみたいね、随分と。ところで雛実ちゃんは、研のことは好き?」

 

 「えっ? ……え、えへへ……」

 

 ヒナミちゃんの照れくさそうな声が聞こえて、次にリョーコさんのくすぐったそうな笑い声が、扉を越えて聞こえてきた。

 

 僕はこれ以上は無粋かと思い――いや、面映いような気がして、そそくさとその場を離れた。

 

 待機から離れて仕事に戻った。すぐに仕事は終わった。僕は更衣室で着替えて帰り支度をした。一旦休憩室に寄ってコーヒーを飲もうかと、部屋に入った。中ではルーミアちゃんがくつろいでいた。あの母娘は居ない。

 

 「ヒナミちゃんたちは行ったみたいだね」

 

 「ついさっきね。雛実ちゃん、本を買うみたい。もっと語を憶えて、お父さんを驚かそうって意気込んでた」

 

 「元気そうで何よりだよ。あの時はどうなるかと思ったけど」

 

 「雛実ちゃんがぐずりだした事?」

 

 「そう、そう」

 

 ふうん、と独り合点が行ったように彼女はそんな声を出した。

 

 「あのくらいの年齢の子は、やっぱり感情が不安定だから、当然かも」

 

 と、唐突に彼女は語りだした。

 

 「人間は前頭葉、即ち理性が最も進化した動物だけど、逆に言えば理性は一番新しい機能なわけだからその発言力も弱い、故に感情には抗えない。捜査官が動いている外をウロチョロするのは危険だと分かってても、それでも軟禁状態はあの娘には堪えるはず、そうだと思わない?」

 

 「え……うん……」

 

 何でもないというような顔で、出し抜けにそんな理路整然としたことを語られて僕は当惑した。

 

 「そうしてストレス解消のために出掛けて、もし捜査官に感付かれたら。あの母親だったら、きっと雛実ちゃんを、自身を犠牲にしてでも助けるでしょうね」

 

 ねえ研、とルーミアちゃんから囁くように問いかけられた。

 

 「いやしくも研が、あの二人が捜査官に襲われている現場に居合わせたら――あなたは二人を助けられるかしら?」

 

 「と、当然だよ! 目の前で知り合いが死にそうになっているのに、助けない手は無いよ!」

 

 僕はムキになっていた。

 

 「研ならそう言うと思ってた」

 

 ルーミアちゃんは嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 

 「ねえ、研、あなたは喰種対策法についてどう思う?」

 

 「……これまた突然だね」

 

 戸惑いながらも、僕の頭の中ではそれについてのことが思い浮かんだ。

 

 喰種対策法。それは読んで字の如く、人を喰らう亜人たる喰種に対処するためにしかれた法律ある。喰種にはあらゆる人的権利が無い。だから喰種には殺人罪が適用されない。憲法違反のように思われるが、何と違憲ではないのである。

 

 喰種の歴史は古く、それだけに社会の喰種への意識は深い。その最たるものが憲法である。日本国憲法が起草された時にも、当然の如く喰種には人権が保障されないと言及されていたのであるとか。

 

 僕はそれをそのまま、噛み砕かずに話した。彼女は特に大きな反応を示さなかった。

 

 「それは仕方のないことよね。誰だって、自分を殺すかもしれない人種が近くに居るなんて状況に耐えられるわけがないんだから」

 

 「まあ、そうだけど……」

 

 反論できない理屈だった。確かに、喰種の存在を許すことは、つまるところ殺人を見逃すという事になる。そんな事になれば、人間の殺人罪への倫理的意識にも影響を及ぼすことになる。たとえ道徳心に矛盾することでも、喰種対策法は必要なものであると思った。

 

 でも、とルーミアちゃんが、

 

 「世の中にはもっと極悪で、生かしておいてはいけない人間もいる。なのに法律はそんな人間にも人権を適用して、善良な喰種を絶対に擁護はしないなんて、変な話」

 

 冷笑気味に結んだ。

 

 「……さて、と」

 

 僕はいたたまれなくなって、

 

 「そろそろ帰らなきゃ」

 

 そう言って話を切った。

 

 僕が、行こうかと彼女に顔を向けると、

 

 「ううん、私はもう少しここに居る」

 

 彼女は首を横に振った。いつもだったら一瞬の迷いもなくついてくるはずなのに。僕は怪訝に思った。

 

 「今日はちょっと気が向かないから」

 

 「そう。そんなこともあるのか」

 

 内心では釈然としないが、だからといって、今深く追求するのは駄目なような気がし、諦めることにした。

 

 僕は黙って部屋を出た。

 

 「そういえばコーヒー飲むの忘れてたな。……ま、いいか」

 

 外では時雨が、運の悪い事に強めに降っていた。おまけにもうすぐ冬なのだから寒い。

 

 「コーヒー飲んでおけばよかったな」

 

 ぼやきつつ、傘を広げて歩き出す。

 

 当然だが、道は傘を差している群集で溢れていて、体は離れているのに傘の端っこはくっついている。非常に歩きづらかった。道路側のほうがすいている気がしたので、そちらを歩いていた。

 

 家までの道すがら、僕はそぞろに嫌な予感がした。さっきのルーミアちゃんの不吉な言葉のせいだ。

 

 彼女の論だけならまだ良かった。しかし、僕にはそれを補強するものがあった。

 

 つい最近、店長のすすめで、喰種のためのマスクを作ることとなった。トーカちゃんから聞くには、近頃CCG捜査官が、それも取り分け強い捜査官がここ二十区に配置されたのだそうだ。ヒデから聞くところに拠ると、二十区は他の区よりも比較的安全だったらしいのだが、やれ『ラビット』やら『大喰い』やら『美食家』やらの強力な喰種のおかげで、それなりに強力な捜査官が配置されているとのことらしい。

 

 それがさらに強化されているのか。それが不安の種なのかも分からない

 

 ふとある時、視界の端に動くものが見えたので、反射的にそちらへ眼が行った。それで僕は驚いた。リョーコさんと一緒に買い物へ行ったはずの、

 

 「ヒナミちゃん?……」

 

 が、僕が居るほうとは反対側の歩道を傘も差さずに走っていたのだ。

 

 「ヒナミちゃん!」

 

 僕は大きな声で呼び掛けた。

 

 「カネキお兄ちゃん!」

 

 彼女は僕に気付いた。僕は、恰も良く車が少なくなっている隙に歩道の柵を越えて道路を無理矢理横断して彼女のもとへ辿り着いた。

 

 「助けて!」

 

 僕が何事かと尋ねるより前に、彼女はそう言って僕の手を掴んだ。

 

 「お母さんが!」

 

 それを聞いて、僕の心拍が急に上がった。案内してと僕が言うや否や、彼女は僕を引っ張って走り出した。

 

 ああ、嫌な予感が的中してしまったのか。でももしかしたら別の事なのかもしれない、と希望的観測めいたことが頭を過ぎった。とにかく僕の頭の中には、――早く着け、早く着け。いや着くな、もっと遅れろ――、と相反した想念が同時に浮かんでいた。

 

 ある所で路地裏に入った。どこに着くものかと思いながらついていく。すると音が聞こえた。日常ではありえない、何かがぶつかり合う音。

 

 僕はヒナミちゃんを引き止めて、その音の源がある直前の角の陰に身を隠しながら様子を窺った。男二人の背中が見えた。一方は若く丈夫そうな大柄な男、もう一方は白髪が肩近くまで伸びた男。その次に肩からクリーム色の翼のような何かを生やしたリョーコさんが地面にへたりこんでいるのが見えた。さらに奥に、銃を持った男が二人も居る。

 

 「やれやれ」

 

 白髪の男が言った。

 

 「折角Aレートは下らない赫子だというのに、肝心の本体のセンスがその程度では、せいぜいBレートがいいところだろう。まあいい、その赫子は私が有効に活用してやろうじゃないか……」

 

 男は持っていたアタッシュケースらしき物を開き、中からそれを引っ張り出した。象牙色の、背骨みたいな鋸状のそれ。

 

 それを見たリョーコさんが小さく金切り声を上げた。僕のもとに居るヒナミちゃんもそれを見て飛び出そうとした。それを僕が、体と口元を押さえつけた。

 

 そうしながら僕は思案した。否、思案する振りを、自分に向けてしていた。マスクがない、顔を見られてしまう。戦い方を知らない。僕が出ていっても無意味だ。

 

 「さて……せめてもの情けとして、辞世の句を聞かせてもらおうじゃないか」

 

 白髪の男の顔は見えない。だが彼がどんな表情でいるのかがありありと頭に浮かんだ。

 

 どうしようもなかった。

 

 男は武器を構えたままリョーコさんを凝視していた。顔を伏せていた彼女が顔を上げる。綺麗な笑顔だった。おもむろに口を開く。そして――。

 

 首が飛んだ。

 

 「残念――時間切れだ」

 

 いやらしく言った。

 

 リョーコさんの首の断面からは数メートルも血が、さながら噴水のように飛び上がった。心臓の鼓動そのままに、吹き上がる血は勢いに緩急があった。やがて血を出し切るに伴ってそれは顕著になり、勢いが止まると、ぶくぶくと断面からわずかに血が飛び上がったのち、途絶えた。

 

 彼女の首が飛んだ瞬間、咄嗟に僕は、抱えていたヒナミちゃんの目を覆った。その直後に彼女は絶叫した。この娘の息が止まってしまうのではないかという危惧もせずに、遮二無二彼女の口を押さえた。

 

 どうしようもなかった。

 

 助けられなかった。僕が弱かったから。強ければ助けられた。マスクがあれば、違う、フードを被るなり傘で顔を隠すなりしてあの二人に奇襲をして、リョーコさんを逃がせたのではないか。そんな案が次から次に出てきても、既に栓なきこと。

 

 そうでなくても、他にもあったのではないか。もしも、今日さえやりすごしていれば。ヒナミちゃんが、母親に買ってもらう物を決めておらず、出掛けるのを保留にしていれば。ならば、ヒナミちゃんが、本を買うのを決めることとなったのは誰のせいだ。

 

 僕だ。

 

 僕が余計なことをしたから。

 

 脳裏をリョーコさんの最後の顔が過ぎった。

 

 やめてくれ、そんな優しい眼で僕を見ないでくれ。




ぬわああああ疲れたもおおおおおおん! きつかったっすね執筆。やめたくなりますよぉ、もう執筆……。
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