【1】
宵闇の妖怪ことルーミアが一体いつの時代から存在しているのか、またそのルーツは不明である。
宵闇の起源イコール彼女の起源であるとするとして、なれば何を宵闇の起源とするか。朝昼というのは地球に太陽の光が当たる時間帯のことで、宵というのはそれが当たらない時間帯ということ。そう考えれば、即ち宵闇の正体は宇宙であるのだから、宇宙の始まりこそが彼女の起源となる。そこに行くと、ルーミアはクトゥルフの神々に通ずるものがある。
また、我が国の最高神である
他にもある。西洋の神や精霊であるという説だ。西洋と言えば十字教の唯一神のことを想像するであろうが、西洋の各地ではそれ以外の神や精霊も信仰はされていた。闇を崇拝する者たちがいたこともありえなくはない。して、その異端の神や精霊は、中世暗黒時代にテンプル騎士団によって
かくて、宵闇の妖怪ルーミアの始まりを描写するのは非常に困難であるゆえ、彼女がどうして日本に居るのかということや、いつの間に幻想郷に居住していたのかということの整合性は考えない。ここに語られる彼女の物語の始まりは、十五世紀中期あたりとする。
十五世紀中期。その時代では、将軍家の家督争いを発端として勃発した応仁の乱を皮切りに、世に謂う戦国時代が幕を開けたのはご存知であろう。
宵闇の妖怪はそれを、足利尊氏が将軍となった時期の、彼と対立する後醍醐天皇が吉野へ逃れて天皇家が南北に別れた時代の頃から予見していた。これに興味を持ち、同じくそれを予見していた者どもと――ただの悪ノリ――共謀し、赤松満祐の足利義教暗殺などのいくつかの事件を促すことで時代の移り変わりを速めていた。
応仁の乱が始まり、そしてのちに足利義視が西軍に歩み寄ったりなどがあり、乱に参加していた者たちは自分が何のために戦っているのかが判らなくなっていき、誰も何の得も無いままに乱は終息を迎える。
宵闇の妖怪をはじめとした冷笑家らは、乱の後に残された混沌の中にて時代の流れを観ていた。今まで、実力はあっても権威のない者どもの憤懣をも見抜いていた。たびたびの下克上などの様相を観て、自身の予想がいよいよ確信に近づいていた。
そうして、織田信長なる大名の上洛の報せを聞き、彼女らはますますほくそ笑むのであった。
大なり小なり、人間はいつも争っていた。動機も様々だった。しょうもないことでの喧嘩、思想の対立、覇権争い、などなど。概ねは、人が自らの感情に振り回されて起こっていた事だった。
強者が弱者を狩り、弱者は腐心して強者から身を護る。同格の者と、何かの所有権を賭けて争う。何かを傷つけながら生き延びている。それを責める者は誰もいない、その代わり、自分のモノを傷付けられた被害者が加害者に憎悪を抱いたり報復をすることはある。
この世に正義なんてものは無い。必要も無い。
ただし秩序は要る。それさえあれば、どんなに熾烈な闘争でも天は許してくださる。
これが彼女の思想。彼女自身が見た世界から感じ取った、自然の摂理に従って生きることであった。
彼女の不可思議な来歴の一部の紹介はここまでとして、次に少し昔話をせねばならない。
昔々の話である。
ある所に、ある妖怪が居た。乱暴者で、とても力があり、名はそれなりに知られていた。
「おい小娘」
その妖怪が、ある少女へ居丈高に声を掛けた。
「腹が減った」
妖怪は身の丈十尺(およそ三メートル)以上。頭は常人よりも大きく、そしてその顔よりも長い牙が生えていた。胴体はゴツゴツとした岩肌だった。細い首元に、腹はでっぷりと膨らんでいた。およそ優しい風貌ではなかった。普通の人間であったら、まず身が竦んで動けなくなるであろう恐ろしさを孕んでいた。
「私もお腹すいた……」
声を掛けられた少女は、呆けたように、相手を見ずに暢気にもそう返した。そんな少女の様子を見て、妖怪は哄笑した。
「……お前、俺が怖くないのか? それとも死にたいのか?」
妖怪は声を低くし、顔を少女に近づけて言った。
「何で?」
それでも少女は、どうでもいいと言う風に問い返した。無論相手を見てはいない。それで妖怪はさらに不機嫌になる。
「俺はお前を喰いたいという意味なんだぞ。……それでもその態度でいられるかッ!」
怒声を立てる妖怪を、少女がようやく見た。
そう思いきや、彼女はせせら笑うように息を吐いた。
「私を喰べるって?」
その瞬間、辺りに重苦しい緊張感が漂いだした。今まで吹いてたそよ風が静まり、ジッと何かに覆いつくされるみたいな圧力が掛かり暑苦しい。周囲の畜生が一様に息を殺し、この場から音が消え去る。
妖怪は呼吸も忘れ、脂汗をかき、その場から動くことすらままならなかった。
「それ」
少女の声に反応して、妖怪がビクリと体を跳ねさせる。
再び妖怪が少女を見ると、彼女は妖怪のある所を指差していた。妖怪はその指が示す所を見やる、そこは妖怪の腰である。そこには、一振りの剣が帯びてあった。
「何?」
「こ、これは……」
言われるままに説明しようと妖怪は口を開きかけた。だが、
「これは……南蛮の連中が……」
仔細を話そうとするが、話が纏まらず、即興で喋ろうにも言葉が上手く出てこず、結局、南蛮人から奪ったという情報を推測できる程度のことを喋ったきり、それ以上は何も話さなかった。
ふうん、と少女は剣を見つめながら感嘆の声を上げた。
「ちょっと見せて」
そう言うや否や、悠然とした足取りで少女は妖怪に歩み寄り、相手の腰にある剣に手を伸ばす。少女が近づくに伴って重圧は濃くなる。それでも妖怪は逃げなかった、否、逃げられなかった。
剣を取った少女は、その柄を握り、鞘からゆっくりと抜いた。それを見て少女は、ふむ、と声を出した。
その剣は、柄はシンプルな装飾が施されていて、少女が両手で握ってもまだ余る程に長かった。柄元から伸びる刀身に反りはなく、両方に刃があり、また刀身の中央には文字なのか模様なのか判然としない彫刻が施されていた。磨いた銀の如く、夜空の光を反射していた。
少女は、剣に刻まれた謎の文字をしげしげと見ながら、ぶつぶつと何かよく解らないことを呟いていた。やがて読み終わり、口元に笑みを浮かべた。剣を逆手に持ち、もう片方の手で刀身を掴み、おもむろに彼女は切っ先を自身の胸に当てた。
一瞬の間も置く事なく自らの胸をそのまま刺し貫いた。
瞠目する妖怪を尻目にもせず、少女はその体勢を少しの間続けたのち、剣を引き抜いた。剣が彼女の体から抜かれると、その刀身は先ほどとは明らかに違う物となっていた。
剣は夜空に向かって掲げられる。
刃は鮮やかに赤く、月の光を受けて妖しい輝きを放っていた。刀身は、凝り固まった血と同じくらい黒く、また刀身に彫られていた謎の文字は、これまた刃と同様に赤く発光していた。
少女が、掲げていた剣を軽く振り下ろすと、鈍く重厚な風切り音が鳴った。彼女の表情には嬉々とした情が瀰漫していた。胸には、傷口はおろか衣服の破れさえ、もう無かった。
「ああ……」
ここに来てようやく、妖怪は悔恨のため息を吐いた。自分が睨んだ相手が、まさかこれほどまでの存在であるとは、愚かにも哀れにも知らなかったらしい。
そう、彼女は知る者ぞ知る宵闇の妖怪その者なのであった。
だが後悔先に立たず、既に目の前の少女の風貌をした妖怪は無慈悲な眼で、哀れな妖怪を凝視していた。宵闇の妖怪は、手に持った重そうな剣を、その体格では想像も出来ない力で軽々と振りかぶっていた。哀れな妖怪はここでやっと身体が動くようになり、背を向けようとしたものの、時既に遅く、宵闇の妖怪が剣を横に薙ぐことでその胴体を吹き飛ばされた。後には肩から上と腰から下の部分のみが残った。
試し斬りを終えた宵闇の妖怪は、手首だけで剣を軽く振り回し、鼻歌を歌う調子で満足そうに笑った。
彼女は目の前に小さな『闇』を出現させ、そこに剣を突き入れた。剣はその闇に吸い込まれるように消えていった。その後、次に彼女は、自身が殺した妖怪の死体の処理を始める。地面に直径三尺ちょっとの『闇』を出現させて、そこへ妖怪の残骸二つを放り入れる。残骸二つはその闇の中すぐさま飲み込まれていった。
その後、この妖怪を行方を知る者はいない。なぜならこの『闇』は、あらゆる物を暗闇の中へ隠してしまうからである。
彼女の闇の中では光が存在できない。而して、可視光線のみならず不可視光線も通さない。現代技術を以ってしても、彼女の『闇』の中に入ったモノを探しだすことは不可能である。
こうして、またもや哀れな妖怪が一体この世から完全に存在を抹消された。それを為して宵闇の妖怪は一言、
「お腹すいた……」
【2】
今日、トーカちゃんが怪我をして帰ってきた。傷口周辺の衣服を染める血が痛々しかった。
店長は殊更には何も言わなかった、その代わり、彼女をたしなめるらしい口吻で、変な手掛かりを残してはいないかと訊いた。トーカちゃんは無言で否定していた。
その場から立ち去った彼女に、僕が救急箱を持っていこうとすると、
「放っておきなさい」
と店長は言った。
「でも……」
「自分の不始末は自分で片付ける、これが『この界隈』での暗黙の了解。白鳩に手を出すというのはそういう事だよ、カネキ君」
毅然として店長はそう結んだ。ちゃんと筋の通った理屈であった。でも僕は……。
「僕は……そこまで冷静でいられません」
僕は敢えて反発した。
「もしも僕が何か不始末をしたら、その時は躊躇せずに僕を切り捨ててください」
それだけを言い捨てて僕はトーカちゃんの後を追った。わざわざ店の方には行かないだろうと踏んで、とりあえず裏の方へ向かった。その途中で、ルーミアちゃんが居た。
「董香を探してるの?」
「うん、そうなんだ。トーカちゃんは裏へ?」
「多分そうだと思う。……あれは捜査官にやられたね」
ルーミアちゃんは淡々と言った。
「でも、董香のやったことは、あながち間違ったことでもないって思う。二十区から捜査官を退けさせる事は叶わなくても、とりあえず、あの時現場に居合わせた捜査官を全員消せば、雛実ちゃんの顔を知っている奴は居なくなるわけだし。似顔絵は作られているだろうけど、やっぱり最後は顔を直に見た人が判断しなきゃならないし」
「う、うん……」
淡々と恐ろしいことを言っている彼女に、僕は少しだけおののいた。
「トーカちゃんの居所を教えてくれてありがとうね」
どういたしまして、と彼女は僕の肩を叩いて横を過ぎて行った。
ところで、彼女にそこまでの身長はあっただろうか。
「まあいいか」
僕は裏へ向かった。トーカちゃんは建物の壁に、缶コーヒー片手に寄り掛かっていた。彼女に近づくと、気配に気付いたのか彼女はこちらを振り向いた。
「んだよ……」
忌々しそうに彼女は言う。
「手当てをしなきゃ」
「別に要らねえし。どっか行けよ」
「でもさ――」
「うだうだ鬱陶しいンだよ、人間のくせにさ!……」
振り向きざまに彼女は僕に、まだ中身が少し残っている缶を投げつけてきた。
「僕だって半分は喰種だよ……」
僕は嘆息して途方に暮れた。このまま放っておくわけにもいくまい。かと言って、意気地になっている女の子に対し、どのように接すれば良いのか。女の子どころかヒデ以外での人間関係すらも疎い僕には分からない話だった。
「どうしてこうなっちゃったんだろうなぁ……」
思わずこぼすと、
「あ?」
「い、いや……」
ドスの利いた声で振り向いてくるトーカちゃんに僕はたじろいだ。
「な、なんかさ、あの人たちは善人なはずなのに、世の中にはもっと悪どい輩が跋扈しているというのに、どうして喰種ってだけでって思ってさ……」
ふん、と彼女が鼻を鳴らした。
「決まってんじゃん、喰種だからでしょ。白鳩の管轄は喰種であって、人間の極悪は警察の管轄なんだし。どっちも、そこに個人の善悪なんて関係ない」
すると彼女は苦々しげに、自らを嗤笑するみたいに鼻で笑った。
「そんなの分かってるっつうの、でもそんなんで割り切れっか。私みたいな器用な悪党がおめおめ生き残って、あの母娘みたいな不器用な善人が殺されるなんてさ……」
そう言って彼女は頭をわしわしと掻く。僕は彼女に何を言えば良いのか分からなかった。
「ヒナミを二十四区になんて、あんな糞の掃き溜めになんて行かせはしない」
――ちくしょうめ。
彼女は弱音を吐いた。
解っているのだ。自分のやっている事が無駄であると。それでも割り切れなくて、あんな行動を起こした。でもその動機を語るとなると、ヒナミちゃんを救うなんて矛盾したものが出てくる。
つくづく救われない。
「あの、僕も手伝えないかな」
「はあ?」
「ヒナミちゃんを助けるのに。えっと、僕は人殺しは出来ないから、でも人は殺せなくても手伝えることはあるかもって」
チッと舌打ちを彼女がした。
「お前に何が出来るってんだよ、足手まといだ」
「お願いだ、手伝わせてよ。このまま君独りに任せて自分は何もしないなんて、やり切れないんだ」
「ああ、はいはい。解ったよ、好きにしろ」
渋々と彼女は言った。
「ありがとう」
僕が言うと、その代わり、と僕の肩を押してきて、
「お前がヘマした時には、迷わず切り捨てる、いいな」
「最初からそのつもりだよ」
僕は自分の覚悟を前面に出して返した。
ここまで来たら、いっそ彼女の道連れになってやろうじゃないか。
そうして最後には自分の決断が誤りであると悟り、後悔する。そんなのは承知の上だ。いざその時が来て、自分がどう思うかという想像力は、今の僕には無い。
さて、こうして利害の一致で僕とトーカちゃんは組む事となったわけだが、――結論から言うと、はかばかしい成果は得られなかった。
何をしたかと言うと、まず僕たちは数日間程度、トーカちゃん曰く作戦に必要な場所を探すための地理の調査を行い、その後CCGの二十区支部局へ偽の情報を流しに行ったのである。二人して高校生に――トーカちゃんが通っているのとは別の学校の生徒に――変装してだ。それで受付まで行ったは良かった。しかし、喰種であることがバレたのか、はたまた単にヒナミちゃんの情報がそんなに欲しかったのか、リョーコさんを殺害した捜査官によって奥へ引きずり込まれてしまいそうになったのである。
その道中には、Rcゲートという喰種が通ると反応する物が設置されており、僕は件の捜査官に引っ張られてそこを通ってしまったのだが、どういうわけか反応しなかったのである。理論は判らないが、どうやら僕のような半喰種には反応しないらしい。
こんなわけで、虚偽の情報提供による捜査撹乱は、失敗とまでは行かないものの危険な領域へと踏み込む事となった。
変装していたし、それに喰種であるとは完全には思われていないが、もし喰種として例の捜査官に遭遇しようものなら、その瞬間僕はさらに危険な境地に立たされるかもしれない。
――気を付けなくては。
「あんたさあ、もっと落ち着けなかったの?」
「えっ……」
『あんていく』への道すがら、唐突にトーカちゃんから文句を言われた。
「あんなうそうそ視線を泳がせてさ、ゲートをちらちら見てたら怪しまれるに決まってんだろうが! 何が、最初からそのつもりだよ、だ!」
「ご、ごめん」
あの時に僕が言ったことを一言一句正確に言われてしまい、僕は赤面した。偉そうに啖呵を切っておいて、あんな間抜けな失態を犯してしまうとは。
こうして、店に着くまでにさんざんなじられた。ほうほうの体で店に入る。
「研に董香。ちょっと、どこ行ってたの」
出迎えの代わりに、不満顔のルーミアちゃんが問い詰めてきた。
「ちょっとね」
この誤魔化しはいくら何でも白々しかったかもしれない。
「ところで、ヒナミちゃんは居るよね?」
「雛実ちゃん? あの娘なら多分居るんじゃない? それがどうしたの」
「いやあ――」
咄嗟に言葉が思いつかず、少しだけ間を稼ぐ。
「えっと……あんな事があってまだ間もないし、心配で……。自暴自棄になって飛び出したりはしてないかなって……」
いまいち煮え切らない答え方だ。ルーミアちゃんも、ふうん、と訝しげに僕の顔を覗き込んできた。そうなると、途端に意味もなく後ろめたいような気がしてきて落ち着かなくなる。
「それもそうよね。さっきだって、時々あの捜査官に対しての恨みが垣間見えてたもん」
「そ、そうなの……」
それはちょっと想像付かない。
「ううん、恨みと言っても、どちらかといえば無意識な感じだったかなあ。お母さんを恋しがって慨嘆するんだけど、お母さんが死んだ原因があの捜査官って認知っぽかったから」
「だから心配なんだ」
もしも、その恨みを僕が聞いていたとしたら。母を失う悲しみと怒りを同じく知る僕には、きっと……。
僕がそんなことを考えていた折、
「ルーミア!」
突如トーカちゃんが血相を変えて飛び出してきた。
「ヒナミはどこッ!」
「ど、どうしたのさ、トーカちゃん。ヒナミちゃんがどうしたって……」
「居ないんだよ、ヒナミが!」
「えッ、そんな……」
何て事だ。まさか僕の言ったことが、あろうことか現実のものとなるなんて。
「ル、ルーミアちゃん! ヒ、ヒナミちゃんは本当にさっきまで居たの?」
「うん、確かに居たよ。最後に見たのは、研たちが帰ってくるより前だったかな」
「それはどれくらい前?」
「ううむ……、大体二十分前?」
「もう二十分近くも経つのか……、急がなきゃ。ねえトーカちゃん……あっ、もう居ない!」
既にトーカちゃんは外に出ていて居なかった。慌てて僕も、彼女の後を追って外へ飛び出す。と、その直前に僕は、先日出来上がって受け取った僕のマスクの存在が喚起され、まずは更衣室のロッカーからそれを取り出してからヒナミちゃんの捜索に出た。
心当たりは無く、やみくもに探す他無い。思いつきに浮かんだ場所に足を運ぶだけであった。しかりやはり見つからない。
懐の中に入れてあるマスクを衣服の上から触り確かめる。このまま見つかるのが遅れ、彼女が捜査官に見つかった暁には……。
「ん? 携帯が……」
ふと僕の携帯が震えているのに気づいた。見ればトーカちゃんからの着信であった。
「もしもし、トーカちゃん?」
「ああ、カネキ! ヒナミが見つかった」
「本当! どこで?」
「重原小学校付近の水路。ほら、CCGに流した偽の情報の……」
「よし解った。なら、お互いに店に向かって、途中で合流しよう」
「……ああ、解った」
トーカちゃんからの返答を受け、通話を切って早足に僕は帰途に着いた。さしあたり僕の危惧は杞憂に終わり、ほっとしたような……。逸る心持で帰路を急ぐ。
しかし、急げば急ぐほど、何かを見落としているみたいな不穏な想念が立ち篭め、段々と足の速さが落ちてきて。そうして不意に僕の頭に、とある疑問が降って湧いた。
ヒナミちゃんはどうしてあそこに居るのだろう。
ひとたび疑問が起こると、途端に悪いことばかりが、あたかも正しいことであるかのように湧き上がってくる。或いは、僕らが提供した情報に従って例の場所に調査へ赴いた捜査官らが、その中で邪知に富んだ者が――僕をゲートに引きずり込んだあの捜査官とか――あの場所へ何某かの仕掛けを施していたのだとしたら。
「解りました、重原小学校の水路ですね」
折りしもそんな時に、聞き覚えのあるワードが耳に入ってきた。足を止めて僕は声のしてきた方へ眼を向けた。
「あッ……」
その人を見た瞬間、僕の予感が的中したと、何も強い証拠があるわけでもないのに、強く確信した。
あの時の、リョーコさんを殺したほうとは別の、もう片方の箱持ち捜査官であった。
その捜査官が携帯を切り、歩き出した。それを見て何を慌てたのか僕は、何の考えもなしに、懐からマスクを取り出して着用し、僕は捜査官の前に飛び出した。
突然、マスクを被ったよく解らない輩が立ちふさがってきたものだからか、捜査官は、特に強く身構えるわけでもないけれど、手に持ったアタッシュケースをしっかりと握り締めつつ僕の出方を窺っていた。
相手が先に来るわけでもなく、かといって闘い方が分からない僕は、どう出たものかと逡巡していた。次第に息苦しくなって、僕はマスクの口元にあるジッパーを開けた。篭っていた吐息が開放されたようなすがすがしく空気が入ってくるのを感じる。
その時になってようやく僕は、自分がマスクをしているのを思い出した。
そうだ、今はこんな所でまごついている余裕は無い! トーカちゃんだって言っていたじゃないか、捜査官といっても所詮は人間、力任せにぶつかってやれば実に呆気なく吹っ飛ぶのだ。
それなら僕がやらなければならないことは、がむしゃらに闘ってやること以外に無い。
僕は無鉄砲に捜査官へ突っ込み、思いっきり拳を振りぬいた。相手はそれをあっさりとかわし、僕の右横に回りこむ形となっていた。間髪入れずに僕は左拳を相手の胸に入れてやった。しかしそれが効いた様子を相手は見せなかった。
ふん、と呆れたように鼻を鳴らした捜査官は、僕の左手を掴むや否や、外側にひねることで僕の身体を裏返し、その後自身の側へ引っ張り僕の重心を傾けさせた上で脚を引っ掛け、呆気なく僕の身体は地面に引き倒された。
「稀にお前のような奴は見掛ける。こんな具合にねじ伏せて、暴行罪や公務執行妨害の現行犯として警察に引き渡している。だが今回は事情が違う、私は急いでいるんだ」
淡々と告げると、捜査官はさっさとその場を離れていった。僕は少し身体を起こして見る。急ぎ足でありながら悠然と歩く様を見て、途端に自分に下された屈辱が自身の中で誇張されてゆき、飛び上がらんばかりに立ち上がってまた僕はあいつの背中に向かって、足にあらん限りの力を篭めて、足が速度に追い付かずもつれながらも、とにかく走った。
十中八九、足音は向こう側からはばれている。それが良いか悪いかも考えずに、
「ぶん殴ってやる」
という気持ちの下で、またもや捜査官に殴りかかった。
しかし例によって、飛び掛りながら右ストレートを繰り出したところ、拳をいなす要領での回転で回避され、さらにその回転に乗せた肘が、いつの間にか僕のわき腹にめり込み、堪らず僕は勢いを止めた。
それでも僕はどうにか耐え切り、反撃した。当然それもかわされる。捜査官は後ろに飛び退き、しげしげと、僕の様子を窺うように佇んた。怪訝な面持ちで、手に持ったアタッシュケースを握りなおしたかと思うと、親指で持ち手の部分にある何かを押した。
ケースの部分が開いて落ち、持ち手を掴んでいたはずの手には何故か金属の棒らしき物を掴まれていた。長い金属の棒の端に、赤く発光するドス黒い円柱状の塊があって、そこから生える血管のような物が棒部分に巻き付いていた。
あれがクインケか。
俄然僕の身体に緊張と興奮の気が流れ、熱を帯びてくる。心臓から送り出される血液さながらに、首へ、顔へ、そして左目へそれが集まるのを感じた。ジクジクとした、痛みとも圧迫感ともつかないこそばゆさが左目周辺を苛む。
「体格と手ごたえが釣り合わないと思って探りを入れたものの……、やはり喰種だったか」
なるほど、と合点が行った調子で、
「貴様、ラビットの仲間だな」
僕は何も答えず、相手の次の言葉を待った。
「このままお前を問答無用で駆逐しよう、――そうは思いはしたが、一つ訊きたいことがある。お前がラビットの仲間だとしたら、……中島さんを殺したのはお前か?」
捜査官の顔つきが険しいものとなった。
「中島さん?」
「ラビットが殺したほうとは別の捜査官だ。どうだ、お前が殺したのか? それとも別の奴か? ……どうなんだッ!」
険しくも落ち着き払った態度を崩さなかった捜査官が、突如として豹変したように怒声を上げた。
「どのような状態で中村さんの遺体が見つかったのか、お前は知っているか? 首から上だけだったんだぞッ! それもただの生首じゃない、顔の皮を丸ごと剥がされていて、歯が全部引っこ抜かれていた。それがCCGの支部局の中に堂々と置かれていたんだッ! 唯一身元を証明する物といえば、一緒に置かれていた捜査官手帳のみ……」
「酷い……」
今の状況すらわすれて、思わず僕はそんなことを呟いた。
「何が酷いだ、お前の仲間がやったことだろうがッ」
「ち、違う! そんなこと僕はやっていない、それに僕はまだ人を殺してなんかない! みんなだってそうだ、そんな残酷な事を仕出かすなんて……」
「ああそうだろうな、あれはラビットの手口じゃない。そもそも二十区にあんな見せしめじみたマネをする奴はいなかった、人間の仕業という線もあるくらいだ……」
捜査官は視線を下げ、憤怒と悲哀が綯い交ぜにした面相を見せた。まあいい、と、再び精悍な顔つきへと戻った。
「中村さんの殺害に関与しているにしろ、いないにしろ、……私が貴様を駆逐することには変わらん」
そう言って相手はクインケを構えた。
僕がそれを見て身構えるまでのわずかな間を突かれ、捜査官は人間とは思えない速さでこちらへ突進してくた。僕がそれに反応し、両腕を胴の前で固めた。しかし相手は、スピードに乗せて棍棒で突きを放ち、防御ごと僕を跳ね飛ばした。
何とか立ってはいられたものの、両腕がビクビクと痙攣し、鈍い痛みがすみずみまで響いて、重くて上がらなくなっていた。その無防備な状態でも容赦なく捜査官は狙い、僕は相手の棍棒を胴体にまともに喰らい、吹き飛ばされた。
胴の骨が砕けたかというくらいの鈍い痛みが僕を地べたに押さえつけた。その回復を待つために僕は、その間じゅう悶絶してた。そうこうしている内に捜査官は近くまで寄ってきて、僕が回復しきる前に棍棒の先端で僕の顔を押さえつけた。
「どうした、何故赫子を出さない」
――なめてるのか。
僕の顔面に棍棒を押し付け、そのままグリグリとにじる。無駄だと分かりつつも、両手で棍棒を押し退けようとする。しかし、向こうからの力が一層強くなるばかりでどうにもならない。
「お前らはどうして、平気で人を殺しながら、のうのうと生きていられる。同じ人間と自称するなら、何故人を殺してまで生きようとする。悪人になってでも生き延びたいか。善人のまま死のうとは思わないのか」
わざわざ棍棒に入れる力を緩めて、僕にしっかりと聴かせるよう、一言一句、ゆっくりとはっきりと語る。
「貴様らに、喰種に家族を殺された遺族の気持ちが解るか、親を失った子の気持ちが解るか。いつも当たり前にしてくれていたことが、もう受けられないと知った子どもの気持ちが!……」
自身の吐き出した言葉を噛み締め、それにつれて徐々にまた感情が昂っていく。
「この世界は間違っている!……。歪めているのは――貴様らだッ」
捜査官がそう結ぶと、僕の頭に受ける圧迫感が一気に増していく。頭蓋骨が軋む。頭の形が変わっていくのが判る。
――いや違う。
相手の言い分への反発と、鈍痛による興奮に因るものなのか、痛みは僕の行動を阻まなかった。
親を失った子どもの気持ちが解るか。答えは肯定だ。なぜなら僕の母親は、僕の伯母に殺されたのだから。それに僕だけじゃない。ヒナミちゃんも、人を殺した経験も無いのに、母親が人殺しの喰種として抹殺された。あの娘の気持ちはどうなる。
それに、正しいことのために自殺が出来るほど、人間は生に無頓着じゃない!
憤怒の如く頑固な僕の思念が、僕の相手への反論が全く正しいことであるとさえ信じさせる。
やっぱり駄目だ。この捜査官をここで逃がしてはいけない。たとえ殺してしまうかもしれなくても、僕には止める義務がある!
僕の、内から湧き上がった暴力的な想念に呼応するかのように、腰の辺りが熱くなる。肌に内側から刃物を押し当てられている不安な感覚がした次の瞬間、僕の腰から強大な何かが溢れてきた。
その一部が地面を擦りつつ捜査官の脚を掬わんと薙ぎ払われる。いち早く気づいた捜査官は、咄嗟に後ろに飛び退いた。そのおかげで僕は解放され、痛みを堪えて素早く立ち上がる。
「鱗赫……」
僕の腰から生えたこれを見据えながら捜査官が呟いた。
鱗赫と呼ばれた、鮮やかな赤い表面に蛇模様の鱗があしらわれたこの赫子の数は三本。ゆらゆらと、さながら水に浮かぶ髪の毛みたいに揺れるこれは、僕が意識するとしっかりとそこに僕の意思が流れているのが判った。
僕はキッと相手を見据える。
捜査官が突進してくるのが見えた。一瞬遅れて僕はそれを防ごうとしたが、僕の腕が前面に来るより遥か前に、赫子が相手のクインケを阻んだ。相手は一寸顔をしかめたが、阻まれた事にはさほど驚いた様子はなかった。
そのまま赫子とクインケの力が拮抗し、押し合いが続く。しかし、人間と喰種の力の差というものが、やがて人間側を劣勢へと追い込む。それを見越してか、捜査官は僕をクインケで突き飛ばしつつ後ろへ飛び退いた。だがすぐにまた僕との距離を詰め、今度は僕の赫子を弾く。赫子を押し退けて無防備な状態にするのを狙っているのか。
僕がそれを認識している間に、相手はさっさと僕の赫子を三本とも退けてしまった。僕は身構えた。けれど相手は僕の胴体を狙わず、退けた赫子の内の一本に棍棒の先端を落とし、地面に擦り付けながら自身の方へ引っ張った。腰と赫子の繋がりが断ち切れた鋭い痛みが僕の身に走る。
捜査官は、バランスを崩した僕の隙を逃さず、赫子が一本なくなった事による空きを狙って棍棒を突き出す。
やられる、と僕は思い身構えた。
その時、まだ生きている残りの二本の赫子が、僕を引っ張るように動くことで僕の身体が反転した。同時に、相手から突き出されたクインケに真っ向からぶつかっていき、接触するや否や相手のクインケを横に弾き逸らした。
クインケを逸らした赫子はそのまま真っ直ぐ伸びていった。僕は見えなかったものの、小さく生々しい手応えが伝わってきた。
不意に恐ろしくなって、捜査官へ身体を向けた。赫子は相手の腹の端に浅く刺さっていた程度だったのか、激しい出血は見当たらなかった。
相手が怯んでいる隙を突いて、僕は赫子をクインケに叩きつけ、これを破壊した。
捜査官は、唐突に手に持った重みがなくなり、体勢が悪かった事も相まって、よろよろと背中から倒れた。その際、衝撃で傷口がさらに広がって、傷口付近の衣服にますます血が掛かった。捜査官は苦悶の呻き声を上げた。
僕はそれに近づく。相手は気づき、僕から離れながら立ち上がって、片手で傷口を押さえ、もう片方の手で壊れたクインケの柄を握り締めていた。精悍な顔つきで僕をねめつけ、武器を破壊されてもなお闘志を醸し出していた。
その悲壮な有様を見ていると、今の僕の立場からすれば、殺すのが可哀想になってくるのである。そんな折、僕の脳裏に悪魔が囁いた。
――殺してやらなきゃ。
僕は即座にそれを却下した。けれども僕の頭の中では、この捜査官にトドメを刺す場面がありありと浮かんでいた。僕が命を奪い、相手は沈黙する。もう僕が何をしても、誰が何をしても彼は何の反応も示す事は無い。
ぞっとした。
それでも悪魔は囁き続ける。こいつはリョーコさんのみならずヒナミちゃんにまで手を掛けようとしている。それに思想が合わない、決して相容れない。ここで殺さなければ危険だ。
このように囁かれ続けたところで、それが僕の人殺しへの戦慄を上回る事は無かった。
「逃げてください……」
呻くように僕は言った。
「何だと……」
「殺したくないんです」
心の奥から殺意が滲み出てくるのを感じる。僕の理性がそれをせき止めている。決壊する心配はないけれど、殺意を押さえつけている感覚が怖かった。
「貴様、どこまでも私をコケにするつもりかッ……」
「違うんです!……」
そう僕が感情混じりに言葉をひり出すと、腰の赫子がそれに反応してわなないた。突如赫子が暴れだし、僕の前方に居る捜査官を攻撃せんと突き出された。だが、そのことごとくが外れた。
まるでそれは、本気で攻撃しようと思ったものの、すんでのところで躊躇して最終的にわざと外したようなものに思えた。
「お願いです……」
僕は出来るだけそっと言った。何が何でも自分は人殺しをしないと固く決意している。その決意の感情が高じて、自然と顔に力が入り、意味もなく呼吸が荒くなる。果ては感極まって、悲しくもないのに涙が溢れてきた。
呆然と捜査官が僕を見ている。
「僕を人殺しにしないでください……」
相手が逃げ出すのを待ちきれなくて、僕はのろのろとその場から逃げ出した。後ろの捜査官が何をしているのかを考える余裕がなく、とにかくその場から離れることだけを考えて歩いた。
しばらく歩いて、ついに耐え切れずに足を止めた。近くにある手すりに掴まらなければ立っていられないほど、気力が衰えていた。
ポツリと僕の首筋に、冷たい何かが数的降ってきた。吃驚して僕は上を向くと、また数的程が顔に掛かった。
雨だ。
二、三滴掛かる程度だったそれは、しばらくすると数が増え、雫の大きさが増していき、一分も掛からずに本格的になり、僕の服をずぶ濡れにしていった。
「どうして殺さなかったのかしら……」
自分でも訳の解らない口調で独り言を呟いた。
「敵討ち以前に、あれはヒナミちゃんを狙う追っ手なのに。あれさえ消えてしまえば、あの娘の顔を知る捜査官は一人だけになるのに、私情でそれを見逃したなんて、一体どういう了見なの……」
ああ、リゼさんだ。僕をこの世界に引きずり込んだ諸悪の根源。今度は僕を暴力の世界へいざなおうとしているのか。
赫子を通して僕の内側へ入り込み僕の精神と一体化して、責め立てて、僕の心を壊して洗脳しようとしている。
頭を掻きむしった。これがリゼさんの仕業であろうとなかろうと、僕の、あの捜査官を殺さなかった後悔による煩悶は変わらない。
当て所の無い複雑な気持ちのままにひたすら掻きむしった。掻きむしるたびにどんどん気分が悪くなってくる。
後ろに気配を感じた。
「誰ぇ……」
振り返ると、誰かが居た。小さな女の子が、そこに佇んでいた。
唐突に、今までの嫌な気持ちがその娘へ向いていくのが判った。
「ちょうどよかった。今ね、私、お腹すいているの……。ねえ、お嬢ちゃん」
僕の中の彼女が、調和していく。次いで僕の中の感情の矛先が、目下の女の子へ『転移』していくのが見える。
理性もなく僕は女の子へ襲い掛かった。もうこれが正しいのだと思い込んでいた。この凶暴さを仕舞うためには必要な犠牲なんだと。
背中の二本の赫子を振り回しながら彼女へ向かい、二本とも突き出す。が、それは何かに防がれた。突然彼女の前に、黒い――否、赤黒い物が現れたのだ。
それは彼女の背中から生えていた。煙のようでありながら、翼としての体裁を持つ何かが。彼女を護るように、僕の赫子を遮っていた。
僕はさらに赫子を押し込んだ。けれども向こうもこちらに負けない力で押し返してくる。
ある瞬間、向こうが一際大きい力で押してきた。彼女の前面で閉じていた翼が開き、その衝撃波で、赫子ごとを仰け反らせた。そしてその無防備な僕の胴体に、彼女が振りかぶった拳をぶち込んだ。衝撃が、腹だけでなく隅々まで襲ってきて、あえなく僕は吹き飛ばされた。
地面に仰向けに転がった僕を、内臓が締め付けられる痛みと呼吸が上手く出来ないことによる苦しみが襲った。自身の現在の状況すら考えている余裕もなく、僕はひたすら苦痛にのた打ち回っていた。
そこに容赦なく女の子が乗り掛かってきた。彼女は、苦痛に荒ぶる赫子を自身の翼で二本とも押さえつけた。次いで彼女の両手が僕の首に掛かった。物凄い力で締められて、呼吸が一切できず、顔も熱く、せき止められた血液で頭が膨らんだ感覚がした。
赫子がより一層暴れる。それでも彼女の翼は、赫子の先端近くを押さえて逃がさなかった。どうすることも出来ず、やがて僕は、抵抗する気力すらも衰えていった。だんだんと意識が沈んでいく。死にたくない、そうは思いつつも僕は、生きることを諦めていった。
そこで解放された。
少女が僕の上から退いた。僕は思いっきり息を吸った。あまりに慌てていたものだから、雨ごと吸い込んだことでむせてしまい、咳き込む。彼女から受けた打撃によるダメージからは既に回復していたから、呼吸は正常に行えた。冷たく新鮮な空気が体内に満ち、熱くなっていた身体が冷えていく。心地良い、安心感を得た。
「落ち着いた?」
まだそばに居た彼女に声を掛けられた。
「うん……」
思わず返事をして、そこへ目を向けると、
「ル、ルーミアちゃん! ……どうしてここへ」
「だって、雛実ちゃんがどっか行っちゃったんでしょ、放っておくわけにはいかないじゃない」
「だからって、危ないじゃないか」
「大丈夫だって」
ほら、と彼女がどこかを指差した。僕は示された方を見る。するとそこには、
「ヨモさん!」
コートを羽織った男の人が居た。彼の名前は四方蓮示と言い、彼も『あんていく』の一員であるが、店での業務を行っているわけではなく、普段は自殺スポットなどを回って自殺者の死体を集めている。
「……ルーミアから連絡を受けたんだ、……研が捜査官と交戦している、とな」
言いながら、懐を探って取り出した物を僕に差し出した。紙に包まれたそれを受け取る。グニグニした気味の悪い感触がした。これは……。
「……喰え。空腹で感情が高ぶりやすくなっている、それに――」
ヨモさんが僕を、僕の背中から生えた物を指差した。力なくへたって垂れる三本の赫子、うち一本は捜査官との闘いで千切れてしまっていた。
「――赫子の再生が出来ていない。それに空腹の時に赫子を出すと、なかなか引っ込まない事がある」
――だから喰え。
ヨモさんは、冷然としながらもどこか哀愁を漂わせて僕に告げた。それを受けて僕は、ちょっとの間紙包みを見つめて、観念して包みを開けた。スーパーで売っている豚肉牛肉とあまり変わらない色の肉が見えた。これが人肉だとは、とてもじゃないが思えない。というより思いたくない。
僕はそれ以上考えることはやめて、今は食欲のままに肉をかじることにした。
それにしてもさ、とルーミアちゃんが切り出す。
「研はさ、あの捜査官と対峙してどうだった?」
「どうって……」
一旦僕は肉を食べるのを止めた。
「あの捜査官の言っていたことが人類を代表する言葉だとして、どう思ったの?」
「……何とも言えないよ。親を失った子どもの気持ちが解るかって言われて、まず先に、ヒナミちゃんはどうなるんだって怒りが来たんだ。だけどこうして冷静になってみると、向こうの言い分を無視してはいけないって思うんだ。すると、自分のやっている事が間違っているような気がしてきて……」
そんなに真に受けることはないでしょ、と彼女は当たり前のように言った。
「人間は、他人が誰かを殺した時には、その人を、人を殺すような性格なんだって決めつけたがる。けど、いざ自分が殺人を犯したとなると、動機があった仕方がなかったって弁解する。
それにあの捜査官がああ言ったのは、前々から思っていたからじゃなくて、多分だけど、少し前に喰種に親を殺されてCCGに保護される子供を見たからだと思う。何かに対して評価を下す際、日常の中の、例えば広告だとか何気ない会話や風景から得た情報が評価を左右したりする場合があるの。だから、あの捜査官は少し前に喰種の被害にあった子供たちを見たから、あんなことを言ったんじゃない?」
とにかくさ、と一呼吸置いて、
「あの捜査官はただ喰種が気にくわなくて、その正当な理由を考えた結果があの言い分だったってこと。人間にしろ喰種にしろ、どっちもどっちって、はっきり判るのね」
と結んだ。さて、と彼女は切り替えた。
「早く董香たちの所へ行かなきゃ」
あッと僕は声を上げた。そうだ、こんな所で油を売っている場合じゃなかった。
僕は残りの肉をさっさと口に詰め込んで、二人に手招きをしながら走りだした。
走りながら僕は後ろを窺う。二人がついて来ているのが確認できた。そのまま走り続ける。向かう場所は、たしか重原小学校の水路。先ほどの捜査官が通話しているのを鑑みれば、トーカちゃんたちが、あの捜査官の上司に襲撃されているのが推して測れた。
とにかく僕は急ぎ、重原小学校付近の水路へ辿り着いた。水路にはトーカちゃんたちは居なかった。
「どうしてだ……」
焦燥に駆られながら探していると、どこからか人の叫び声が聞こえた。その方向を見やると、水路の向こう側にトンネルが見えた。水路に下りて、その中に入る。薄暗い中、人影が見えた。二人立って……いやもう一人、壁に背を預けて座り込んでいる者が居た。
「トーカちゃん、ヒナミちゃん」
僕が声を掛けると、立っていた二人がこちらを向いた。
「カネキ……」
トーカちゃんは、腹に、何かで貫かれたらしい大きな傷を負っていた。
次に僕はヒナミちゃんを見やる。彼女には何ら外傷が見られない。が、背中からは、血のついたクリーム色の赫子と思しき物が生えていた。
「ヒナミちゃん、それって……」
彼女は、話し掛けてもまるで反応せず放心していた。壁に寄りながら腰を下ろしている人を見ると、案の定、リョーコさんを殺したあの捜査官であった。右手と左足が欠損して、致命傷こそ見当たらないが、深手を負って身動きが取れないでいるらしかった。
「もしかして雛実ちゃん、やっちゃった?」
後ろでルーミアちゃんがヒナミちゃんに問い、彼女はは黙って頷き、その後小さく嗚咽を漏らした。
「くくく……、お仲間が来たか」
捜査官は不敵に笑った。
「悔しいなぁ……、こうして負傷していなければ、この場で皆殺しにしてやりたいところだったんだが」
特に……貴様だッ、と彼は、口から血を飛ばしながらヒナミちゃんを、これまた邪悪な笑みでねめつけた。
「745番、貴様はどうしてそうも足掻き続けるんだね、ドブネズミさながらに。お父さんとお母さんがが恋しくないのか? しかも世の人たちは、貴様らが生きているだけでも、それは迷惑だというのに。断言してやろう……、生に縋ったところで貴様らが人間と住めるなんて事は無い」
てめえッ、とトーカちゃんが、同じく傷口が開くのも無視して捜査官に掴みかかった。
「いい加減にしろッ、ヒナミの両親を殺したのはてめえじゃねえかよ! 父親も、そして母親を目の前で殺しやがって。それに飽き足らず、ヒナミをこんなにまで追い詰めやがってッ。それでも人間か! 生きたいって思うのは許されねえのかよ。人並みの暮らしがしたいって、願うだけでも悪いのかよ。この正義の味方気取りがッ」
息巻いて彼女は拳を振り上げた。
「……止せ」
だがヨモさんがそれを掴み、彼女は捜査官から引き離された。その様を見て、捜査官は愉快そうに哄笑した。
「ははははは! 私が正義の味方だって? 馬鹿も休み休み言いたまえ」
「何だと!」
「確かに私は、貴様らがこの世に必要ない百害あって一利なしの存在として駆除しているつもりだ。しかしだな、それと同時に、貴様らに強い憎悪を抱いていて、それを糧にして活動している。言うなれば、感情に振り回されているのだよ、私は。なあ、そうだろう745番、……いや、笛口雛実。お前も、私が憎くて憎くて仕様がないのだろう!」
ヒナミちゃんがビクリと身体を震わせた。
「私がどうして、鼻の利くお前が辿り着けるように母親の首をここに置いたなんていう、見え透いた罠を仕掛けたのか気づかないか? 私には分かるぞ。自分の大切な人を失ったりして悲しい時には、何かを憎むことが一番楽なのだからなあ……。そしてお前は敢えて私の罠に掛かり、憎しみのままに私を殺そうと画策した。……だが結局それは出来なかった、いざ私を前にしてみると、相手を攻撃しようと意気込みまではしても、攻撃するには至らない。縦しんば攻撃を繰り出しても、無意識がわざと外させる、或いは攻撃を弱めてしまうのが関の山よ。くくく、恥じる事は無い、私も新米の時分には同じだった。むしろ私はそれを計算に入れていたくらいだ。尤も最後の最後に見事外したがね」
俄かに僕は戦慄した。トーカちゃんが息を呑む音が聞こえた。
はじめ僕は、この捜査官は狂っているものだと思っていた。だが違った。
「ち、違う。ヒナミは……」
ヒナミちゃんが、捜査官の推理を否定しようとした。
「復讐しても悲しさは消えないと?」
先回りして捜査官が言った。
「それはな、自身の成し遂げたいことが出来なかった時、自分の決意は何だったのかと悶々とした気分になって、自分が何故踏み止まったかに尤もらしい言い訳を付けようとする働きだ……。まあ当然、お前は母親が死んだ事の悲しみを思い出していたのだろうな。そんなもので、自分の認めたくない『影』を糊塗しようとしたのだ」
「違う……違うよぉ……」
彼女はむせび泣きながら、呻くようにしきりに言っていた。
感受性の強い彼女は素直に、不倶戴天の憎しみを抱いているはずの相手からの言葉を聴いて、こうして受け入れ切れずに煩悶してしまっていた。まんまと彼女は捜査官の術中に嵌っていた。
「一つ良いことを教えてやろう。人殺しをはじめとした悪行を行う者に、温かで幸福な人生はやって来ない。そしてお前は、いつか必ず、それが憎悪ゆえか愛情ゆえかは判らないが、人を殺すだろう」
やっぱりこの捜査官は狂ってなんかなかった。彼は正常だ。ただそう見えただけで。
「ゲスが!……」
トーカちゃんが悔しそうに、呻くように言った。拳を握り締め、震わせていて、それを見ている捜査官は実に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ふうん……」
その中で、一人だけ違う雰囲気の者が居た。それはルーミアちゃんだった。
「真戸呉緒、昭和五十×年、一月二十四日生か……」
おもむろに彼女は、手に持った黒い何か――多分財布――から免許証と思しき物を取り出して、そんなことを読み上げた。
「いつの間に!」
捜査官は慌てた様子で自身の懐を探った。ルーミアちゃんは、落ちてたよ、とあっけらかんとした態度で答えた。
「か、返せ!……」
捜査官は、手袋をはめている左手を伸ばした。その手袋を摘んでルーミアちゃんは引っ張り、するりと手袋は脱げた。そしてその左手にあったのは……。
「ああっ……」
「ふむ、ふむ、結婚指輪……。年齢的にありえるかなとは思ったけど、やっぱり既婚者か。もしかして子供も…いるのかな?」
「ふん、どうだろうな」
捜査官は憮然と言った。それに対して何かを見出したようにルーミアちゃんは口角を上げ、
「私の知り合いにさ、あなたの被害にあったっていう人がいてね」
唐突に語りだした。
「ああ、普段は、そこに居る金木研って人と一緒なんだけど、いつも一緒ってわけじゃないのね。それで、たまに研から離れている時があるんだけど、その人とはその時に知り合ったの。手品師らしくて、色々な手品を見せてもらったんだ。あんな仕掛けをどこに隠していたんだって、本当にびっくりしちゃって」
と、何やら関係のない話が続くものだから、
「何が言いたい」
と捜査官が業を煮やした。
「ん? ああ、そうだった、あなたの被害にあったことについてだったっけ。それで、友達を殺されたらしくてさ、ひどく恨んでいたのよ。あの人だけじゃなくて、他にもあなたの被害にあったって人がいるらしくてね。それで興味を持って、知っていそうな捜査官から聞いてみようかと思ったの。でも支部局に行くわけにもいかないから、こっちからその人の家に出向いたってわけ。向こうは、大した情報を渡していないと勘違いしていたようだけど――」
と可笑しそうに笑い、
「あの情報でも結構まずいものだって知らないなんて。本当、とんでもない、抜け作よね……」
明らかな挑発をした。
捜査官に近づいて、目の前で屈みこんだ。
「本当に、色々な人に恨みを買っているようね。それで――」
と捜査官の免許証を突きつけた。
「その人たちに、あなたの名前と、奥さんの忘れ形見の存在を教えたら、どうなるのかしらね」
彼女はどんな表情をしているのだろう。後ろ側に居る僕らには見えない。
彼女の顔をただ一人見ていた捜査官は、ゆっくりと目を見開き、続いて視線を泳がせる。今まで静かだった呼吸が次第に荒くなっていき、
「やめてくれ……」
ついには弱々しく懇願した。
「やめてくれ……、あの子にもしもの事があるなんて、死んでも死にきれん!……」
それまでの鬼畜の様相が嘘のように、一転していじらしい、一人の父親となった。
彼が伸ばす手を避けて、後ろに若干下がりながら彼女は立ち上がった。
「自分の因業が自分自身にのみ降り掛かるとは限らない。人はいとも容易く鬼になれるけど、……鬼は人にはなれないのよ。……さて、とどめを刺さなきゃね。私たちの正体を知られてしまった事だし」
淡々と結び、ルーミアちゃんはそこから離れた。
それに立ち代ってヨモさんが捜査官の前に立つ。
「やめてくれ……、やめてくれ……、死にたくない……」
捜査官はうわ言のように懇願を続けている。その前に立ち、ヨモさんは赫子を出した。
「ヨモさん?……」
いつまでもそのままで何も起こらなかったもので、僕は尋ねた。
「研……」
暗く沈んだ声で彼が僕の名前を呼んだ。
「雛実たちを、向こうに連れて行ってくれ……」
「……」
その瞬間、僕は悟ってしまった。
「……早く」
「はい……。三人とも、行こう」
「え……、うん……」
僕が声を掛けると、まずヒナミちゃんが反応した。が、トーカちゃんは、捜査官の方を見て放心していた。
「……トーカちゃん」
直接声を掛けて、彼女はハッと我に返って僕を見た。
「……行こう」
一寸戸惑ったように、僕と捜査官を交互に見やってから、彼女は俯きながら歩き出した。
歩きだす二人の後に続き、僕もその場を後にした。勿論、ルーミアちゃんは僕について来ていた。
「鬼は人にはなれない」
後ろでルーミアちゃんが呟き、僕は振り返った。
「これ、私の知り合いが、さっき言ったのとは別のもっと前からの知り合いがね、言ってたんだ」
いけしゃあしゃあと彼女は語る。それに対して僕は、湧き上がる感情があまりにも複雑すぎて、結局何も返答をせずに、再び前を向いて歩き出すのであった。
なお、後日僕は、件の中村という捜査官の殺人事件について調べてみたが、奇怪なことに、結局それらしいニュースは見当たらなかった。
今更だけど、キャラの書き分けを考慮すると、ルーミアの喋り方は難しいと思った(小並感)。
テストがあるため、次回の投稿は今までで一番遅れるかと思います。単位のためなんです。許してください! 何でもしますから!
【追記】
中島さんの名前が中村さんになってました、完全に私のミスです。すみません! 許してください、何でもしますから!