おい作者(ピネ)ェッ!!
【1】
貴未さんが殺害された事件と、その事件が元で西尾先輩が喰種であることが露呈して討伐された。これらの事があってまだ数日。『あんていく』は、何事も無かったかのように、まるで例の事件のことなど自分らには与り知らぬとでも言うように、至って平然として営業をしていた。
教会での一件の後、西尾先輩は『あんていく』に入ることとなった。仲間になったはずなのだ。にも拘らず、皆冷淡なまでに平然としていた。僕が彼の名前を口にしようものなら、ただ黙って僕を強く凝視し続けるのみで、誰もがその話題を避けようとしている。
仕方のないことなのかもしれない。と言うのも、僕も彼らの気持ちを身を以って知ることになったからである。
大学でヒデと一緒にいたとき、CCGの捜査官が、それもよりにもよって僕が以前対峙した捜査官がヒデに、西尾先輩や貴未さんに関することの聞き込みをしたのだ。僕は、顔は努めて平静を保ってはいたけど、心臓が早鐘を打って、息苦しさを感じていた。もしヒデが、以前西尾先輩を僕に紹介したことがあったとでも言おうものなら、どうなっていたかと思うと気が気でない。
こういうわけで、嫌でも僕は『あんていく』の皆の意を汲むことになったのだった。
さて、夕方となった。しかし客足はほとんどない。たまに人間のお客が来る程度である。
「鳩が増えたからね……、こういう時は皆外に出たがらないんだよ」
トーカちゃんは言った。
ルーミアちゃんも、仕事がないということもあって、カウンター席に座りながら、脚をぶらつかせて、草笛を吹いていた。
そういえば、と僕は彼女に訊いてみる。
「ルーミアちゃん、草笛をよく吹くよね」
彼女は草笛を吹くのを止めて、
「前に住んでいた所では、これでも結構な暇潰しになったから。他にも遊び方はあるんだけど、生憎と東京にはそんな気の利いた物がなくって」
「へえ。ルーミアちゃんって、森林の多い所に住んでいたの?」
「大昔の風習が未だに残ってるとこ」
「そんなにか……」
トーカちゃんが驚いたように言った。けれども僕としても同感だった。昔の風習が残っている所なんて、結構な田舎ということになる。つまりここ東京から遠く離れていたり、或いは交通の便がほとんどないということになる。
「じゃあ――」
俄かに興味が出てきて、もっと深く訊いてみようかと思ったのだが、タイミングの悪い事に来客のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
反射で入り口の方へ顔を向けて僕らは挨拶をした。で、その客というのは、何やらガラの悪そうな男と、パーカーのフードを被って顔をガクマスクで隠している男女が数名の、如何にもな集団であった。
「店長は居るか」
ガラの悪い男が、ずかずかと入ってきて言った。
「え? あの、店長ですか……」
「店長はどこかって訊いてんだ!」
ガラの悪い男は、ずいっと顔を近づけてきた。
「いや、あの、店長は……は今ここにはおりませんけども……」
「じゃあどこ行ったんだ、あぁ?」
と、僕の胸倉を掴んで揺すってきたのである。
「ちょっと!」
トーカちゃんが制止しようと割って入ってくる。
「いきなり来てそれはないんじゃないの、コーヒーの一杯でも注文したらどうなのさ」
「コーヒーだぁ?」
低い声で言って、ふむ、とガラの悪い男は考え込んだ。そうして数秒程したのち、じゃコーヒーを一杯、とナチュラルに注文したのであった。
「おう、お前らもどうだ」
と、仲間の人たちにも勧めたが、その人たちは、いえ、と首を横に振って遠慮した。
男を席に座らせ、僕とトーカちゃんはその正面辺りに座った。ちょっとして、男の前にルーミアちゃんがコーヒーを出した。
「俺は万丈数壱、十一区から来た」
一口飲み、万丈という男は切り出した。
「金木研です。……あの、万丈さん、店長は今おりませんので、御用でしたらお伝えしておきますけども……」
すると万丈さんは、
「いや、店長の他にも、お前らにもちょいと訊きたいことがあってよ……」
そう言って、ずいっとこちらへ顔を寄せて、
「リゼさんのことなんだが――」
リゼさんが?……。
俄かに僕の胸が波打つ。
「彼女が、どうかしたのですか?」
僕が言うと、万丈さんは少し息を吐き、そしてまた吸った。
が、
「ん?」
と彼は何かに気づいた様子で、怪訝そうな顔で僕を見た。
「お前!……」
「えっ……」
僕の肩を掴んで彼は、顔を更にこちらへ近づけて、すんすんと鼻を鳴らしたのである。
「てめえ! 何でてめえからリゼさんの匂いがするんだよッ!」
「い、いや! あの、僕と彼女は、別に……」
「何、『彼女』だと……、今彼女っつったかァ!」
「ち、違います! 違います! 彼女と言っても、ガールフレンドというわけじゃなくて!……」
「ガ、ア、ル、フレンドだとぉ? ちくしょう!」
という具合に、ますます激昂した万丈さんは拳を振り上げた。駄目だ、完全に耳を貸してくれない。僕が、殴られる腹を決めて身を強張らせた折、
「いい加減にせい!」
トーカちゃんが、万丈さんの振り上げた腕を掴んで止めたのである。
離せ、と彼は怒鳴り散らし、自身の掴まれた手を振り解こうともがくも、ただ揺れるだけで一向に手は離れなかった。そうこうしている内に、トーカちゃんが万丈さんに一発拳をかますと彼は、まるで平衡感覚でも失ったかのように随分あっさりと昏倒したのであった。
殴った当人であるトーカちゃんはいささか渋い顔をして、
「自分から失神するのか……」
彼女は困惑した。
仕方がないので回復するまで寝かせておこうかと思ったが、トーカちゃんが、
「喰種だし、大丈夫でしょ」
無理矢理万丈さんを起こしたのである。
起きた彼に、僕は水を一杯差し出した。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……、すまねえ。カネキっつったか? お前、良い奴だな」
「いえ、いえ」
「何つうか、好感の持てる男だ。それならリゼさんも、もしかして……」
「あのう、そのことなんですけど……」
僕はおずおずと万丈さんの誤解を解いた。僕の言い分を聞いて、彼は口をあんぐりと開けて、しまったと言うような面相を見せ、すまねえ! といきなり土下座をしだしたのだ。
「思えや、俺はお前がリゼさんの『コレ』かと決め付けていた!」
「いえ、激情に駆られて暴走するのは誰にでもあることだし、ほら、まずは頭を――」
「いや! こうでもしねえと俺の気が済まねえ!」
相手からの勢いに、僕は何を言ったものかと、ただ黙って僕は万丈さんが床に額を擦りつける様を見ていた。しばらくして彼はゆっくりと頭を上げた。
「それで……リゼさんは今どこに居るんだ?……」
「か、彼女は、ですね……」
それを訊かれて僕は言葉に詰まった。彼女は死んだ、果たしてそれを安易に言っていいものか。
「彼女は、もうここには……」
死んだ、とははっきり言えなかった。
「……そ、そうか」
万丈さんは目に見えて消沈した。
こうして完全に、リゼさんの死亡を万丈さんに教える機会は無くなった。そう実感すると、やっぱり言うべきだったのではという、ちょっとした後悔の念に駆られる。
「すみません、お役に立てなくて」
僕は、役に立てなくて済まないという態度で言った。
「いや、気にすんな、あの人は嵐みたいな人だからよ……。けどな、万が一リゼさんに会えたらだが――、そん時は伝えてほしいことがあるんだ、……逃げてくれってよ」
「どういうことなんですか?」
「……数ヶ月前のことだ」
低く声を落として万丈さんはとつとつと語り始めた。
かいつまんで言うと、ある日突如、十一区に『アオギリの樹』という組織が現れ、瞬く間に区を制圧、次にそこのCCG捜査官を襲撃し始めたらしいのだ。
「今でこそ奴らの下っ端だが、連中がリゼさんを探してるって情報くらいは耳にしたんだ。詳細は分からん、だが碌なことじゃねえってのは予想できる。あんたらも、悪いことは言わねえ、奴らがここに来る前に二十区を離れるこった」
彼が語り終えたその時だった。突如店の窓が外から割られた。そうしてそこから、小柄な少年が入ってきて、万丈さんに目を向けるや否や万丈さんを蹴り飛ばしたのだ。
「まったく、何チンタラやってんだオイ。雑用一つも出来ねえのか? したらてめえらに何の値打ちが残るってんだ、おぉ?」
「アヤト……」
トーカちゃんがその少年の名前と思しきものを呼んだ。アヤトと呼ばれた少年は彼女の方へ振り向き、せせら笑うような面相を見せた。
「おう、トーカ……、久々だな」
やはり、以前依子ちゃんが口にしていた、アヤトというのは彼のことなのだろう。
「どこほっつき歩いてたンだよ」
「なあに、ちょっとした社会勉強だよ、世の中の汚さから目を背けて何も学ぼうとしねえ、馬鹿な姉貴とは違ってな……」
「で、学んでどうすんの、デカイ犬に吼えまくる小っこい犬さながらに他人様に噛み付くってわけ?」
「小っこい犬? 俺がそれなら、差し詰めてめえは、遠吠えする負け犬ってところか」
と、二人が言い争いをしている時、
「もういいかな、アヤト君……」
またもや来訪者が二人程、店の扉から入ってきた。
「入ってもいいよね」
白いスーツを来た白髪の巨漢。
「おじゃましまぁす……」
と、もう一人の、坊主頭のオカマが扉のプレートをCLOSEDにひっくり返して入ってきた。
「……ヤモリか。よくここが分かったな」
アヤト君が煙たそうな面相で巨漢を見た。露骨に舌打ちまでした。しかし巨漢はそれを意に介さず、ニタリと笑いを浮かべ、
「万丈君たちを尾けていたんだ、なかなか優秀な子たちだねぇ……」
ねえ、と、ヤモリと呼ばれた男は万丈さんに目を向けた。
「リ、リゼさんならここには――」
口を開いた万丈さんの顔面を、ヤモリは蹴った。
「そんなことは訊いてないし……、口を開いていいとも言っていない」
それにしても、と言ってヤモリは僕へ視線を流した。
「臭うなぁ……」
ズン、と僕の方へ迫ってくる。
「嫌いな臭いだ、プンプンと漂っていやがるんだもんなぁ……」
迫り来るヤモリに気圧されて僕は後ろへ下がった。そしてそのままカウンターまで追い詰められる。それでもヤモリは僕へ顔を近づけてきた。堪らず僕も上体が後ろへ反れた。
「ねえニコ、こいつでいいかな」
流し目でヤモリは、連れのオカマに言った。
「別にいいんじゃないかしら、さっさと連れてっちゃいましょうよ」
ニヤリとヤモリは笑い、僕へ目を向けなおして、その直後にいきなり横からトーカちゃんの蹴りがヤモリに飛んできた。それをヤモリはブロックし、弾き返した。
「連れてくだと? ふざけんな!」
尻目がちにヤモリは彼女を見やり、それで失笑気味に嘆息をした。次の瞬間、ヤモリの手の甲が彼女の顎を打擲した。いともあっさりと彼女は後ろに倒れた。
「たしか君も、アヤト君と同じで羽赫だったんだよね。でもそれにしては鈍いねぇ」
「トーカちゃん!」
僕は思わず彼女へ駆け寄ろうとした。が、その前に首が、ヤモリの腕によってカウンターへ押さえ付けられた。
「誰が動いていいっつった」
喉仏ごと押さえつけられ、首の骨がずれる感覚がした。嘔吐感がこみ上げ、えずこうとするもそれは許されず、動こうとする喉も押さえつけられ更に苦しい。相手は鼻から激しく唸り声をひり出し、込める力をどんどん強くしていく。
けれども、ある時を境に、不意に力が緩まった。 さりとてまだ押さえ付けられている状態だが、少しだけ楽になってきて、見るとヤモリが別の方を向いているのが分かった。
「何見てんだよ」
ヤモリは、自身が向いている先にいる――ルーミアちゃんに向かってドスを利かせた声で言った。
「別に」
彼女は然有らぬ体で応えた。
「……」
その声が気に障ったのか、ヤモリは僕を放って彼女の方へ歩いていった。
「おい……、やめろよ……」
そう言ってトーカちゃんが、身体起こそうとするも、起き上がれないでいるようだった。僕の方もまた、意識が朦朧としていて自由に動けなかった。そうこうしている内にヤモリは既に彼女の前まで来てしまった。
ルーミアちゃんはカウンターの椅子に座って、カウンターを背もたれ代わりにしながら、目前に居る巨漢を見上げていた。対する巨漢――ヤモリは、憤怒の面相をするわけでもなく、かと言って笑わず、目線だけで彼女をねめつけている。
まずい。このままだと、間違いなく彼女はヤモリの手に掛かる。そう判ってはいるのに、僕の身体は言うことを聞いてくれなかった。
そうしてヤモリの睨みはどんどん強くなっていく。それとは対照的に、相変わらずルーミアちゃんは冷めた眼のまま、眺めるらしい態度でヤモリを見やっていた。
「ふん……」
ヤモリは一瞬だけ彼女から目を離した。
だが。
突如ルーミアちゃんの首を引っ掴んだかと思えば、彼女の小柄な身体を一気に持ち上げたのだ。
それを見て意識が一瞬にして覚醒した。
僕とトーカちゃんがヤモリに飛び掛ったのは同時だった。しかし僕の手が届く前に、腹を何かに貫かれた。それは赫子。ヤモリの腰から生えた棘の生えた物だ。それが僕の腹を背骨ごと貫いている。下半身が重力に引っ張られる。胴と脚が引き千切られてしまいそうな苦しみが僕を襲う。
苦しみの中でチラッと、未だにルーミアちゃんはヤモリの手で締め上げられているのが見えた。おそらくトーカちゃんも妨害されたのだろう。
痛みに慣れてきて、ようやく周囲の光景が瞭然と見えてくる。締め上げられているルーミアちゃんの向こうで、トーカちゃんが倒れ伏しており、その彼女とヤモリの間にアヤト君が立っていた。
「弱いなトーカ、親父とダブるよ……」
手首をぶらぶらと振ってアヤト君が一言。
トーカちゃんは緩慢な動きでどうにか体を起こす。歯噛みして音が鳴る。次の瞬間、赫子を出してアヤト君に飛び掛かる。それを彼は同じく赫子で防いだ。
「弱いだと……、私たちを護るために死んだんだぞ!……」
怒鳴り立てるトーカちゃんを赫子越しに見て、アヤト君は鼻で笑った。
「そもそも、人肉しか喰えねえ俺たちが、人間と仲良くやっていこうなんて頭湧いてるとしか言いようがねェだろ」
トーカちゃんの赫子が弾き返される。その隙にアヤト君が彼女へ蹴りを入れた。
「止しとけよ、まだ頭ぐらついてンだろ」
寝とけ! というアヤト君の一声と共に、トーカちゃんの頭が踏んづけられて、彼女は完全に気を失ったらしかった。
一部始終を見ていたヤモリはそれを見届けた後、再びルーミアちゃんに目を向けた。顔をしかめ、彼女へ顔を近づけて、
「何だその眼は」
威嚇する低い声で恫喝した。すると、ルーミアちゃんは、自身を掴み上げている腕に自分の手をポンと乗せた。訝しげにヤモリはそれを見ている。
やがてヤモリ、ウッと一声呻き出す。
ギリギリという締め付ける音が、僕のほうにも聞こえてくる。ルーミアちゃんの首からではない、ヤモリの腕からだった。締め付けられているヤモリのほうも、それをやめさせようとするように、彼女を締め上げる手を更に強めている。
「このガキィ……」
犬が唸るみたいに憎々しげな、威嚇の声。
「何だその眼は……」
「ねえヤモリ、もうやめときなさいよ、そんな小さな子ども相手に」
と、連れのオカマがヤモリの肩を叩くと、睨む眼をヤモリはそのオカマに向け、直後に、空いている左手で腹を貫いたのだ。驚愕と、苦しみの呻き声をオカマは上げた。
「うるせェんだよ、このホモ野郎がよォ!……」
その喚きと同時にヤモリの腕が一層力む。それと共にルーミアちゃんの首が、一気にへし折れたのであった。
彼女の頭は、ダラリと横に折れていた。首の骨が繋がっているなら、首は完全に横になるまで倒れたりはしないが、彼女の首はまるで骨が外れたかのように、不自然なまでに倒れていて、ぷらぷらと揺れていた。
ぞわっとした。血の気が引いた。
チッ、とヤモリは舌打ちをした。そして、たった今殺した少女の死骸を、無造作に投げたのだ。その死骸はカウンターの縁に当たってから、その向こうへと落ち、小さく軽い体が床に投げ出されたあっけない音を立てて、それっきりとなった。
「ああッ……」
不意に僕は暴れだした。動かなくなってただの重しと化した下半身なんてお構いなしに、遮二無二腕の力だけでもがいていた。自分の腹を背骨ごと貫く、棘の付いた赫子を掴んで、これを抜こうとしていた。そんな僕を見て、ヤモリはうっすらと嗜虐的な笑みを浮かべる。それで、僕の腹を貫く赫子を、傷口を抉るように動かしてきた。
身体が固まりそうな激しい痛みが僕の全身を襲う。それでも僕はもがくのを止められなかった。何も出来なかったのを否定するために、動かずにいられなかったのだ。
「てめえもウゼェんだよ、さっきっからッ!」
ヤモリはそんな僕を、カウンターや床や、テーブルに叩き付けるのだ。鈍痛が全身を覆ってくる。しかしそれでも僕の身体は動き続けた。そんな僕を止めさせようと、ひたすらヤモリは僕を叩き付けてくる。
互いにもう何もお構いなしだった。万丈さんや、連れのオカマが止めに入っても、ヤモリはまるで見向きもせず、僕もそれ以外には何があるのかすら分からなかった。
しかし、いくら興奮していると言っても、僕は疲弊はしていた。だんだんと力が抜けていく。それでも精一杯もがきはしたが、やっぱり力が落ちていくのが分かる。思考すら単調になっていき、やがては周囲の景色がぼやけてきて――。
そしていつの間にか僕の意識は暗転していた。
気分では未だにヤモリに抵抗していた。
けれどもそれは既に終わっていた。
僕は今夢を見ている……のかもしれない。いや、追憶と言うべきか。
先日、伯母が死んだ。死因は、忘れた。別れの言葉を交わす間もなく、実にあっさりと死んだらしい。
僕の家は母子家庭だった。父は僕が物心付く前に死んだと聞かされていた。だから母は、家計を支えるために、昼はパート――夜は清掃員――空いた時間で家事と内職をしていたのだ。伯母は、そんな母から、金銭に余裕がないと言って金を無心していたのだ。その度に母から聴かされていたのが、
「損をしたっていいのよ……、優しい人はそれだけで幸せなの……。傷付ける人より、傷付けられる人、よ……」
僕はそれに唯々諾々と頷いていた。ただ母への親愛と尊敬のままに。
その結果が過労死だ。
いくら母から優しさというものを諄々教えられていたとしても、僕は、母を死なせた伯母が赦せなかった。
そうして独りになった僕を引き取ったのが、件の伯母なのである。僕は知っている、彼女は僕の母を過労死に追い込んだ事に罪悪感を抱いていて、その贖罪として僕を引き取ったのだ。
嬉しくはあった。だから、迷惑を掛けないようにと良い子になるよう努力し、勉強も頑張った。そしたら彼女は僕の頬をひっぱたいてきたのだ。
当てこすりか、と。
妹も――僕の母――また、狡賢く立ち回っていた、と。
その時僕は、
「そうか……、伯母さんは、母さんと僕が端から嫌いだったのか。だからあんな意地悪を……」
それは邪推に近いが、事実でもあっただろう。
その事があって、僕はますます伯母を、……延いては彼女の家庭までもを憎んだ。
それだけ憎かったのだ。本当に憎かった。喪失感すらも、伯母への憎悪に費やしたと言っても過言ではない。でもそれなのに――、死んでほしいくらい憎いのに――。
身内が死んだというだけで、こんなにも哀しい。
ところで、伯母には一人息子――即ち僕の従兄がいるのだが。僕と彼は取り立てて仲が良いわけではない。伯母が僕を嫌っていて、僕が伯母を憎んでいるにより、微妙な間柄ではある。が、かと言って本当に仲が悪いわけでもない。
で、伯母の葬式にて、久方ぶりに彼と再会したのである。話し掛けてきたのは向こうのほうだった。無表情で彼はとつとつと、挨拶から始まり、ちょっとした四方山話を挟んで、亡くなった伯母のことについて語りだしたのであった。
僕が伯母の家庭から離れて以降、彼女は、居なくなった僕のことを案じていたのだと言う。僕や、僕の母に対しての行いを、償いたかったのだと。伯母の良人――つまり僕の伯父も、自身の妻の感情を宥めずにいたことを後悔していたらしい。
もっとしっかりしていさえすれば、こんなすれ違いが起こることはなかった、と彼は語った。
――すまなかった。
一言だけの謝罪。しかし彼の慙愧が一杯々々詰め込まれていた。
本当に、世の中何が良くて、何が悪いのか判ったものではない。伯母が死ぬことに因って、ああして腹を割って話し合うことが出来て、ようやく和解するが出来た。人間万事塞翁が馬とはよく言ったものだ。
僕の追憶――夢はここまでだ。
気が付いたら僕は、暗く狭い何かに詰め込まれていた。寝袋らしき物であるのが判る。壁にもたれ掛かるように僕は放置されていた。
不意に目の前の暗闇が裂け、光が見えた。どうやら僕はこの袋から解放されるらしい。
そこに居たのはアヤト君だった。
彼は出し抜けに、立て、という指示を出してきて、僕が立ち上がると次は、ついて来い、と言うや否や僕に背を向けて歩き出した。とりあえず僕はそれに従った。
「ねえ、アヤト君……だったよね」
アヤト君は立ち止った。振り向いて、僕の胸倉を掴んで、
「口には気を付けろよ、クンじゃねえサンだ、サンを付けろデコ助野郎。それと、これからはお前は余計な口を出すな、人形みたいにじっとしてろ、いいな」
突き飛ばすように僕の胸倉を離し、再び彼は僕に背を向けて歩き出した。
それにしても不気味な場所だ。どこかの廃墟か。以前はどのような所だったのか分からない。こういったことを考えている内に、アヤト君の仲間と思しき人たちが居る部屋まで来たのであった。異様な集団だった。めいめい奇妙なデザインの仮面を被り、同じようなマントを被っている。万丈さんたちも居た。
その中でも特に異様だったのが、部屋の奥で、壁に背中を預け膝を抱えて座り込んでいる、素肌を包帯で覆い隠し、マントを被った人――少女?――。それと、その両脇に佇む二人。片方の男は、白髪に真っ白な肌、白いコートを首元まで隠すように着ており、口元を覆うタイプの赤い仮面を着けていた。そしてもう片方は、大きな口の描かれた仮面を被っていて、直立不動のままピクリとも動かない不気味な男だった。
「タタラさん、こいつです」
アヤト君は僕を、その佇んでいる二人の白いほうの前に突き出して言った。
「ほう」
白い男は反応した。どうやらこの男がタタラというらしい。
「こいつが、リゼ持ちか……」
タタラはおもむろに僕の肩に手を置いた。
次の瞬間。タタラは僕の腹を貫いてきたのだ。
「ふむ……、これは……。なるほどな、確かにリゼのだ」
僕の腹から、貫いた腕を引き抜き、
「だが弱いな……、戦力になりそうなものかと、思ったんだがなあ」
僕は絶叫も発せず、腹を抱えて蹲るように倒れた。彼はそんな僕に一瞥もくれず、淡々と述べている。
「こいつは、アヤト、お前にやる。俺からすれば、使い道のない奴だ。煮るなり焼くなり、好きにするといい。あいつらと同じ扱いで、十分だろう……」
と、万丈さんたちを見やって言った。
その後僕は無造作に、万丈さんらと一緒の部屋に監禁されたのだった。そこには、万丈さんに同行して『あんていく』に来ていた面々の他にも居た。小学生くらいの男の子とその母親の親子まで居る。
ここに監禁されてから、僕は万丈さんと目を合わせられなかった。嘘を吐いたのだから。それが半ば僕のせいでもあると思うと、どうにも申し訳ない気持ちが募ってきて……。
「なあ、カネキ」
突然万丈さんが口を切った。
「は、はい……、何ですか?……」
「お前……、リゼさんのこと……」
案の定の言問いだった。
「……はい、知っていました」
「そうか……」
「すみません……、嘘を吐いて……」
いや違えんだ、と万丈さんは微笑んだ。
「そりゃあよ、リゼさんが死んじまったのは悲しいけどよ、でも俺はカネキに何か悪いことを思っているわけじゃあねえんだ。ただ、お前が俺のことを考えて、敢えてリゼさんのことを黙っていたのが嬉しいんだ」
「でも……」
「いいから気にすんなって」
それよりよ……、と彼は急に神妙な顔つきになり、
「お前、一緒にここを脱走しねえか?」
「脱走!」
思わず僕は大声で聞き返して、万丈さんがシィッ! と人差し指を口元に当てた。
「店でちらって見えたんだけどよ、お前、隻眼……なんだよな?」
万丈さんのその言葉に、えっと周りが声を上げた。
「それ本当なんですか、万丈さん!」
仲間の内の一人が言った。
「見間違いじゃなけりゃな。で、どうなんだ、カネキ」
僕に視線が集まる。少し逡巡して僕は、
「ええ、僕は元人間の……半喰種なんです。あの人たちが言っていたリゼ持ちというのは、彼女の臓器が――もしかしたら彼女の赫包が――僕に移植されたことなんです」
「なるほどな、そりゃあ心強いぜ。何たってあの人は相当だったからな。……まあいい。それで、この話はどうする?」
「僕で役に立てるのなら、喜んで引き受けさせてもらいますけど」
「よっしゃ!」
万丈さんは膝を叩いた。
「そうと決まれや、早速作戦会議ってもんだ。ほれ、お前ら真ん中に寄れ」
その万丈さんの指示で、彼の取り巻きをはじめ、皆が僕と万丈さんのもとへ寄り集まってきたのである。それで円形に並び、頭を中央に寄らせたのだった。
「察しの通り、奴らは相当の手練れだ、雑兵一つとっても赫子の扱い方ってもんを解ってやがる。その中でも幹部連中は輪を掛けてやばい。で、その幹部連中が、まずアオギリのリーダー、通称隻眼の王。その側近ノロとタタラの他に、十三区で幅を利かせてたっていうヤモリ――店でカネキを嬲った奴だ。それと方々の区で暴れまわってたところを拾われた霧島アヤトに、どこかの区で喰種組織のリーダーをやっていた瓶兄弟だ」
霧島アヤト……。やはり彼はトーカちゃんの弟なのか。
「その幹部連中の外出周期で出来る穴を突く。まずアヤトは、タタラと一緒に組織の会合のために、月曜日を基点として六日ごとに外出する。ヤモリは四日ごとに町へ。瓶兄弟は基本的に外出はしない。つまり――」
四と六の最小公倍数の日、即ち十二日ごとに、このアジトの戦力は少しばかり手薄になるというわけか。
「前回の十二日目から、今日は何日目ですか?」
「七日だ、次の十二日目まではあと五日ってところだな」
「五日かぁ……」
それまで何もされないと良いのだが。
結局、この心許ない作戦に、革新的なアイデアが出ることなく、その日はお開きとなった。
次の日。僕たちは、アオギリの構成員たちが狩ってきた人間の肉を裁く作業を宛てがわれた。ひどく嫌な気持ちになる作業だ。僕が小学生の時分、豚の屠殺ビデオを見たことがある、当然気分が悪くなった、ましてや人間の肉なんて……。
「うえっ……、こりゃあ……」
誰かがえずいたのが聞こえて、何となしに僕は目だけでそこを見やった。
「こりゃぜってえヤモリさんが殺ったやつだろ……、きったねえ……」
そう言って、自身が処理していたそれを摘み上げた。瞬間、息をするのを忘れるくらい僕は絶句していた。
よもや人間なのかも疑わしい凄惨な赤と肌色の塊。いくつかの塊が繋がっていて、それらを繋げているのは、赤い筋のような何か。ところどころから突き出ている、潰し砕かれた骨が……。
息が荒らぐくらい深い呼吸をして、ようやく僕は目の前の作業に目を向けた。が、それも人の死体なのだ。思わず僕は目を閉じた。
これはただの肉だ。ただの肉だ。分解してしまえば、いずれただの肉とそう変わらない形になるはずだ。
「カネキ」
声が掛かって、はっと我に返った。声の方を見れば、隣で作業をしていた万丈さんが居た。引き続き彼は唇をぼそぼそと動かす。
「少し寄越せ」
彼は自分の作業台を人差し指で指した。
「でも……」
「俺はこう見えて作業が速いんだ、それに今なら監視も見てねえ、きっとバレやしねえ」
刹那だけ僕はためらい、しかし結局はこの惨たらしい作業に耐え切れず、少しだけ、本当に少しだけ渡したのであった。
その瞬間、
「オイッ、そこのお前ェ!」
監視の怒号が飛んできたのだ。見れば恐ろしい形相でこっちの方の誰かを睨み付けて、足音を大きく鳴らしながら歩いてきている。
けれどもその監視は僕らのほうを無視して、
「このガキッ! 泥棒が!」
見咎められたのは、小さな男の子だったのだ。監視がその子の手首を掴み上げると、その手に肉が握られているのが分かった。その子を監視は地面に引き倒し、つま先で腹を突いた。
「ま、待ってください!」
万丈さんがそれに止めに入った。
「こいつぁ俺の指示です! コウトだったら、このチビだったら上手く盗めるかと思ったもんで!」
万丈さんは、コウトと呼んだ男の子と監視の間に入って、素早く頭を下げた。監視はそれを冷めたように見つめてから、
「頭を上げろ」
と言い、万丈さんがそれに従い、ゆっくりと頭を上げる。彼の目が監視を上目で見えるくらいまで頭を上げたとき、いきなり監視は彼を殴り飛ばしたのである。
「今日はこれくらにしといてやる、……次は承知しねえぞ」
低い声で監視は言いながら去っていった。
こうして、僕の過酷な奴隷生活の一日が終わったのだ。
その日の部屋。僕らに与えられた食料は、何とただの骨の欠片だった。凝固した血や髄の破片がこびり付いたそれが数個程、手のひらに転がる。
「ちっ、俺たちは犬以下かよ」
誰かがそうぼやいた。
まさに僕らは使い捨ての、ティッシュみたいに、乱暴に扱われた挙句には無造作に捨てられる程度の物なのだろう。
「ふぅ……」
さっきの男の子――コウト君がため息を吐いた。
そうだ、この子は未成熟だ、僕らが倒れるよりも前に力尽きてしまうかもわからない。
あのさ――、と僕が声を掛ける直前、
「コウト、俺の分を少し喰っとけ」
「えっ……」
コウト君は、一瞬嬉しそうな顔をした後、すぐ思い止まったらしく俯き、
「……ううん、大丈夫だと……思うよ」
いいから喰え、と万丈さんはコウト君の手を取って、骨の破片を握らせた。
「俺くらい図体がでけえと、少しくらい喰わんでもへっちゃらなんだよ!」
そう言って彼は笑ってみせた。……と思いきや、すぐさま、ぐぅ……と腹が鳴る音が部屋に木霊したのである。
「締まらねぇ……」
誰かが、笑いながら言った。
「あはは……。万丈さん」
少し笑ってから僕は彼の名前を呼んで、僕の分の骨を差し出した。
「僕の分を少しどうぞ、僕はまだここに来て日が浅いんで」
「うっ……、わ、悪いな……」
僕が差し出した骨を見て彼は揺らぎ、自身もやっぱり辛かったからなのか、その逡巡は須臾にして途切れ、申し訳なさそうな、照れ臭そうな面相で彼はその骨を取った。
僕は、いや僕らは、こうしてお互いに励まし合って、どうにか五日を越えようとしていたのである。先述の慰め合いにしても、もしかしたら僕らは、ああしてほっこりドラマを演じることで日常を再現しようとして傷を舐め合っていただけに過ぎないのかもしれない。
いや、駄目だ。この過酷な生活の中で、すっかり僕の心は荒んでしまっている。今は何日目だ? ……五日目か。
今日の分の作業を終えた後、僕らはここを脱走する。
疲れた状態での脱走だ。だけれども僕は、一刻も早くこの時間が過ぎ去っていき、それに至ることを切に願っている。
さて、いよいよ脱走の時が来た。
今までの生活で疲弊した身体でも、希望に縋ることで気力が溢れてきて、それが疲れを少しだけ忘れさせてくれる。
「あともう少しなんだ」
建物の外に出ること自体は簡単だった。そもそも僕たちは労働力であって、捕虜や重要人物というわけではないから、監視などといったものはつかない。巡回する者も、内部から逃げ出す者を見るというよりも、侵入者を迎え撃つというようなものであった。
建物の裏口から出て、すぐ目の前の森へ入り、僕たちは建物から出来るだけ速く離れることにした。遠ざかる建物を見て、張り詰めていた僕の胸は次第にほぐれていった。安心していたのかもしれない。
それが悪かった。
僕たちの前方に、いつの間にか巡回が現れていた。建物から離れることに夢中で、僕たちはそれに気づくのが一瞬遅れてしまったのだ。その一瞬が命取りで、僕らが相手を仕留めるより前に、そいつは大声を上げていた。仕留めてその声が途切れても、この静かな夜の森にその声は響き渡っていた。
僕は慌てて背後の建物を見た。
相も変わらず、例の建物には月の光と影のみが映えている。僕は少しの間だけ、その様子を眺めていた。動く様子はこれといって見当たらない。
僕の鼓動が少しずつ安堵していく。
「……」
瞬間、建物の上のほうの窓から何かが飛び出した。
「来たぞッ、走れェ!」
万丈さんが叫んだ。
その声に反応して僕は背を向けて走り出す。
全力では走らない。僕が前に出ると仲間を置いていきそう。だから僕は後ろを走っている。逃げる。逃げる。逃げる。とにかく走った。
相当走った。そんな気がする。追っ手を振り切れたのか判らない。追跡の足音はしない。気配を感じない。もしかして逃げられたのか。走り名が僕は後ろを見た。
ほとんど見えない暗闇の中。ちらちらと何かが見える。次第にそれははっきりしてくる。そして姿を現すのは追跡者。
「き、来た!……」
僕は喉からの掠れ声を出した。
ひたすら走る。時折後ろを、不安のままに見る。相手との距離は判然としない。
「あっ!……」
前で誰かが転んだ。僕はその刹那の間に、止まるか止まらないか逡巡する。その内にその人を追い越していた。
「お母さん!……」
コウト君が叫んだ。彼の母親が転んだようだ。
彼の母親は手を前に突き出し、這いずり気味に起き上がろうとする。しかしその間に追っ手は彼女に肉薄している。奴は赫子を出す。そして彼女へそれを振るった。
そこへ万丈さんが飛び出した。相手の赫子をその身で受け止め、コウト君の母親に当たらなかった。
「行けぇ!」
彼はコウト君の母親をさっさと起き上がらせる。彼女の背中を押して走らせた。
「カネキ! こいつは俺が相手にする、お前はあいつらを頼む!」
「でも万丈さんが!」
「早く行けぇ!」
もう一人の追っ手がやって来たのが直感的に判り、僕は万丈さんの声に弾かれるようにその場を走り去った。
仲間はどこだ。僕がもたついている間に遠くに離れてしまったのか。少し心細くはあるが、それで良いのかもしれない。
そんなことを思っていたら、どこか別の場所から叫び声が聞こえた。僕は嫌な予感がしてその方へ向きを変えた。それで案の定仲間が、もう一人の追っ手と思しき者に襲撃されていたのである。
倒された仲間の内の一人に、追っ手は赫子を出して飛び掛かる。それを見て僕は駆ける。あらん限りの力で。その時僕の腰に例の違和感が来た。僕はそれをあまり気にせず拳を振りかぶる。そしてその追っ手の脇腹にぶつけた。
どうやら相手の赫子は、僕が無意識に出した赫子が弾いたらしい。相手はそのまま数メートルは吹っ飛んだ。
「大丈夫ですか!」
「あ、ああ、大丈夫だ。ありがとう、カネキさん!」
僕は彼らに背を向けて、追っ手に向き直った。
「ここは僕に任せて、先に行ってください」
「でもそれだとカネキさんが……。そんな真似は出来ない!」
「いいから行くんだッ!」
後ろを向いたまま僕は恫喝するように叫んだ。その声を聞いてか、少しして後ろで何人かが、再び走り出すの音が聞こえた。
「必ず助けに来ます!」
後ろからそれが聞こえてきて、彼らの気配は消えた。
僕は再び追っ手を睨んだ。相手はじっとこちらを見ている。隙を窺うというより、むしろわざわざ待っていたかのように、構えもせず、ただ静かにたたずんでいるらしかった。
完全になめられている。
少しだけ不快になった。
相手へ僕は肉薄する。そうしながら僕は赫子を突き出す。相手は自身の赫子――おそらく尾赫――で、やって来る攻撃を往なしながらかわした。僕は三本の赫子を動かす。それも捌かれた。
動く相手の動きを、僕は読む。その軌道上へ先回りした。ボディブロウを一発。相手は両腕でブロック。続いてアッパーも。相手は顎を上げて余裕で避けた。
僕は赫子を繰り出そうとしたが、その前に相手が自身の赫子を使って、僕の三本ともを弾いてしまった。そうして無防備になった僕の胸部へ相手はストレートを叩きこんでくる。僕はそれを両腕でブロックしようとする。しかし上手く衝撃を殺しきれずよろける。間髪入れずやって来たフックをどうにかよける。反対側からもフックが飛んでくる。僕はそれを腕で防ぎつつ後ろへ飛び退いた。
僕が地面を着いた直後、相手は赫子を飛ばしてきた。僕は一瞬反応が遅れた。しかしどうにか、態勢を立て直したらしい僕の赫子が防いでくれた。
「ふん……」
相手はそう一声出すと、何故か後ろに下がり始めたのだった。如何にも落ち着き払った様子で、僕を見据えたままゆっくりと。その後ある所で、相手は足を止めた。それと同時にその背後から、こちらへ向かってくる人影が見えた。その人影は何かを引きずっている。それはどうやら人のようだった。
「あッ、万丈さん!」
何と引きずられている人は万丈さんだったのだ。また、それを引きずっているのは、さっき僕らを真っ先に追いかけてきて、万丈さんが引き付けていた追っ手の一人だ。
その最初の追っ手は、自分が引きずっていた万丈さんを投げ出した。
「まだ生きているぞ」
その追っ手ははっきりとそう言った。
「俺たちを退けて保護すれば、助かるかもなぁ……」
わざとらしく、もう一人のほうが言った。
僕は身構えた。
すると、今まで僕と戦っていたほうの追っ手が、後からやって来たもう一人のほうに近づき、少し顔を近づけた。僕には聞こえないが、様子からして何かを話しているみたいだった。
話し掛けられていたほうは、話が終わると軽く頷いて相方の肩をポンと叩き、二人はお互いに離れた。彼らは僕の左右斜向かいまで来たところで止まった。
一体何をしようというのか。
僕がその疑問を考える間もなく、二人は僕に向かって飛び掛かってきた。二人同時に赫子を飛ばしてきて、僕は同じく赫子でそれらを防いだ。が、片方はフェイントだったらしく、僕の赫子を受けると見せかけて僕の背後に回ったのであった。
それに一瞬気を取られ、前に残っていたほうが僕に再び攻撃を繰り出し、それを防ぐことで僕の背中の防御が手薄となる。そこへ背後のほうが、赫子で攻撃をしたのである。それは僕の赫子の根っこ、即ち赫包への攻撃であり、僕は三本の赫子の内一本を失ったのであった。
僕はすぐに横方向へ逃げた。だがそれも読まれていた。先回りされて蹴りをお見舞いされ、吹き飛ばされた先に居たもう片方の者によって、また一つ赫包を潰された。
残りは一本。
僕は我武者羅に暴れ、どうにかそこから離脱しようとした。
だが甘かった。
残る一本の赫子を片方が押さえつけ、その隙にもう片方がまたもや僕の背中を赫子で突いたのである。僕はそれに押され、その押された先にあった木にぶつかり、磔にされたのであった。
しばらくそうされた後、背中に突き刺されていた赫子が一気に抜かれ、僕は仰向けに地面へ落ちた。
二人が近づいてきて、仰向けになった僕を覗き込んで、次のように言った。
「赫子に依存したやり方だな、動きを見れば瞭然だ。だが一つ教えといてやる。赫子の性能だけで戦うには限界がある。その上に胡坐をかいて上手く行くほど、この世界は甘くはない」
さて、と片方が口を切った。
「こいつら、どうする。もう用済みだし、始末しておくか」
「いや、生かしておこう、残りの脱走者を誘き寄せるにはお誂え向きだろうからな」
いやその必要はないよ、という声がその時響いた。
「……ヤモリ」
追っ手の片方が低い声で呟いた。僕は追っ手二人が声を出した方を見た。そこには本当にヤモリが居たのだ。
「残りの人なら――」
ほら、とヤモリは、片手に持っていた黒い塊二つを地面に投げた。重い物が地面に落ちる鈍い音を立ててそれらはこちらへ転がってきた。
それは首だった。
僕らと一緒に脱走した人二人が、生首となって転がっていたのだ。
瞠目して僕はヤモリの方へ再び目を向けた。ヤモリの背後には、さっき僕が逃がしたはずの人たちが、青ざめて身震いしながら立っていたのだ。
脱走は――完全に――失敗したのだ。
僕はヤモリを凝視した。彼は微笑んでいた。店で見たあの恐ろしい形相ではない、穏やかな笑みだった。
自らの顔を凝視している僕にヤモリは気づいた。そして口角を更に伸ばし、一層笑みを深めたのである。
【2】
『亜門鋼太郎の手記』
つい最近、篠原幸紀さんに久しぶりに会った。彼は、俺がCCGのアカデミーにいたころの教官で、俺の恩師でもある。今では特等捜査官として活躍している。
その篠原さんから、とある人物を紹介された。名前は鈴屋什造という。元は、ビッグ・マダムという喰種のもとで、文字どおり飼われていた身であったらしい。それゆえかその人格は破綻している。初対面のとき、俺の目の前で、人間を平然と半殺しにしてみせたのは記憶に新しい。
しかしこれも、人間をペットとして飼おうなんてことを考える、狂った人格の喰種のせいでもあるのだろう。そう思うと、この鈴屋の言動は――たしかに許せないことだが――どこかうら哀しく感じられる。
その憤りを篠原さんに話したところ、彼が言ったのはなんと苦言だった。
――喰種はたしかに抹殺するべきだろうが、それと同時に彼らが人間であることも考えなければならない。
と、そう言っていた。
だが、奴らを人間として見たところで、何になるというのか。奴らは生まれた時点で殺人者だ。そいつらが人間であるからといって、同情するべきことなのか?
そう返したところ、次のように返された。
――最初に喰種を殺したときの感覚をよく覚えている。罪悪感に満たされていた。でもどこかに達成感があった。次第に罪悪感は薄れていき、それとは反比例して達成感はどんどん膨らんでいった。でもその達成感でさえ、だんだんと慣れてきて、今では喰種を殺したときに感じるすべての感覚が希薄になってしまっている。
ならどうして喰種捜査官を続けているのかと切り返すと、彼は、
――仕事だからな。
なのだと。
【3】
伊吹萃香は、自分が仕掛けた罠を虎視眈々と見つめていた。そこに獲物が掛かるのを待っているのである。
彼女がこんなことをしているのは、今日訪ねてくる知り合いと食べる鍋に入れる肉のためであった。
しかし一向に掛からない。どうしてか、罠の近くに動物は来るのだが、引っ掛からないのだ。今朝方から始めて、かれこれ三刻程経つが、掛からない。いつもだったら力づくで捕らえるところを、気まぐれで罠で捕らえようとしたのが間違いだったのかもしれない。
「まったく頭の良い畜生どもだ」
そう独りごちた、その時だった。
「わあ!」
という声と共に、罠が動く音がしたのだ。おっ、と首を上げて立ち上がり、一瞬で罠の所へ行った。そこで彼女は、如何なる動物も掛からなかった自身の罠に掛かっている者を見て、
「ぶわっはっはっは!」
腹を抱えて笑い出した。
掛かっていたのは、今日彼女のもとを訪ねるはずの者、萃香の知り合いである宵闇の妖怪だったのだ。
「あったま悪ぅ! 頭悪すぎだろ! 猪も引っ掛からなかったのに! うはははは!」
「笑ってないで早く助けてよ」
憮然として宵闇の妖怪は言った。
その後、宵闇の妖怪は萃香に引き上げられ、二人は酒盛りの準備を始めた。肉のほうは、結局萃香が力づくで猪を捕らえたのであった。
「初めからそうすれば良かったのに」
「えへへ……」
煮えてきた鍋を二人で囲い、両者は互いの盃に酒を注ぎ、乾杯をして呷った。
「ところで、何か土産話はないのかい?」
「ん?」
「どうせまた、幻想郷の外に出て、上方なり江戸なり行っていたんだろう?」
「まあね」
「じゃ、何か適当に、話でも聴かせておくれよ」
別に大した話はないわ、と宵闇の妖怪は一言断り、
「芝居町があやうく無くなりそうだったことくらいかしら」
「へえ、そんな事があったんかい」
「老中水野忠邦が、庶民は贅沢をしてはいけないって御触れを出したんだけど、役者が贅沢をしてそれが庶民に移ってしまう思って、危うく中村座と村山座と守田座の三座まで取り潰されるところだったんだけど、北町奉行がそれに反対してくれたおかげで、浅草に移転するだけにとどまったみたいよ」
「水野の野郎も馬鹿な真似しやがるねぇ。あいつ、いつか痛い目みるだろうさ」
けっ、と萃香は盃の酒を大口開けて飲んだ。
「結構すぐ来るかもしれないわよ、それ」
「ほう、そりゃどういうことだい」
「現南町奉行――鳥居耀蔵。おそらくあの男に裏切られることでしょうね。というか、私の気の合う仲間がね、その仕込みをしたらしいのよ」
「相変わらずお前らは、くだらないことをやってるんだなぁ」
げらげらと萃香は笑った。
「まあ縦しんば鳥居が上に行ったところで、彼奴を恨む者なんてごまんといるでしょうし、もって数年といったところかしら」
「そう言やあ、鳥居って二年前にも殺されそうになってたよな。切っ掛けはたしか、鳥居が南町奉行所のお目付け役花井虎一を使って行った、蘭学者弾圧の一件だったかな。花井はその後、麹町の路上で何者かに喉を一突きされて殺されたんだったか。で、次に狙われた鳥居だな。父親の命日に寺へ来たところを近くの塔から鉄砲で狙われたが、偶然それが当たらず九死に一生を得たってわけだ」
「よく知ってるわね」
「私だってたまには江戸へ行くさ」
それにしても、と、伸びをしながら萃香は後を被せる。
「盛者必衰ってやつだね。世の盛衰ってのも、春の夜の夢みたいなもんで、一たび風が吹けばいとも容易く飛んで行っちまう。そのうち、将軍家も滅んじゃうのかねぇ……」
「すぐに来るでしょうね」
「ほう、そう思うのかい。して、どんな風に?」
「海の向こうから、異国の船が日本を開国しにやって来るとか。おそらくその国の目的は、自分の国を大きくするため。ということは、歴史はそんなに深くはないと思う」
「自分んとこのもんを取り尽くしちまったもんで、奪いに来たってこともあり得るんじゃないかね」
へへへ、と萃香は冗談を言ったみたいに笑った。
そこへ宵闇の妖怪が、ところで、と声を掛けた。
「私が預けていた物、持ってきてくれたかしら」
「ああ、それならここに……」
と、萃香は自分の近くに置いておいた、布で包んだ板状の物を宵闇の妖怪へ渡した。宵闇の妖怪がその布を外すと、それは彼女の大剣であった。
これは、以前、萃香の友人が宵闇の妖怪の剣に興味を持ったらしいということがあり、そこで萃香は、宵闇の妖怪に頼んでその剣を借りて、件の友人にしばらく調べさせたのである。
「それで、その友達とやらは、どんなことを言っていたの?」
「私は頭使うことが苦手だから、あんまし詳らかなことは言えんけど、かいつまんでなら教えられる。まずその剣の用途は、儀式用だそうだ」
「へえ、儀式用……」
と宵闇の妖怪は自らの剣をまじまじと見た。
「それにしては飾り気が足らないような気もするけど」
「まあそんなことは置いといて。そんで、それは大陸の、遥か西の地で造られたんだ。表面には血が付いていた痕があって、どうやら生贄を殺したりしてたらしい。腹に刻まれている文字は、その土地で使われていた文字の一種で、元々は石や木に刻み付けて妖術とかをやるためのものだったんだが、ある奴らがその文字を使っていた集団と分かれて、のちにその文字を独自に発展させたのだと。あいつもこの文字を解読したみたいでさ、ところで訊くが、これには何て書いてあるんだ?」
「そうねぇ……なんか、自分たちが崇拝している存在を自分たちが如何に敬っているかの証拠を示しますって内容だったかしら」
「そう、そう、あいつもそう言ってたな。お前がこの文字を読めたのも、きっと同一視のおかげだろうな。閻魔さんがお地蔵さんと同じだって言われたり、支那で一番偉い神さんが、日本に来ればそれなりに偉いって程度になるのと同じやつさ」
しかしながら、と萃香は続ける。
「妖怪だとか神様っていうのは、本当にいい加減なもんだね。似た奴だって理由だけで、他人様のもんを勝手に使えるんだからな」
「所詮は人間が創ったものだからでしょうね」
「と言うと?」
「自らの始まり、不思議な物事、人情とか。そういった実体(形而下)に名前や形を与え、その集団の意識の内に浮かぶことで神や妖怪は――幻(形而上)は出来上がる。そしてその集団をはじめ、それを知ったり信じたりする者は、それらが見えるようになる。そういうことよ」
「何だよ、それじゃあこの世の不思議なことやその力ってのは、人間の妄想で出来てるってことか? じゃあ、それらを実際にこの世に存在させる源は何さ?」
「そもそも、今私たちが見ているこの世は、実際はどういう形をしているのかしらね」
「意味が解らんなぁ……、何が言いたいんだ」
萃香は目を回した。
「確かにこの世というものは存在しているのかもしれない、でもその風景を私たちは、ありのまま見ているかどうかは判らないでしょう。今私たちが見ている青い空だって、ただ私たちが青く見えているだけで、実際は違う物なのかもしれない。同じく地面も、もしかしたら」
つまりは、と苦々しげに萃香は口を開く。
「この世に事実は無く、在るのは解釈のみってわけかい」
「そういうことね」
宵闇の妖怪は頷いた。
「さればこそ人間は、自身の周囲の実体(形而下)を、そこから創り出した幻(形而上)と結び付け、あたかもそれらが存在しているように感じているのよ」
「なるほどね、何となくだけど解った気がするよ、……気がするだけだけど。即ち、この世を最も歪めているのは、他でもない人間自身だったってことかい、しかもそれで損をするのは人間だけと来たもんだ」
さあて、と言って萃香が立ち上がって、鍋を見た。それは話の途中でも無意識の内に食べていたからか、いつの間にか空っぽになっている。萃香はそれをどかすと、その辺の木の枝を放り投げて火を強め、その後宵闇の妖怪の隣に腰を下ろして、また酒を飲み始めた。
「とすると、元々は人間だった私らが、ある日突然鬼になったってのも、その人間の妄想だからかい? 私らが死んだ後もこうして鬼として存在し続けているのも?」
「それもあるのだろうけど、一番はやっぱり――」
ニヤニヤと宵闇の妖怪は萃香の顔を覗き込み、
「あなたたち自身が勝手に気に病んでいるのが原因なんじゃないかしら」
萃香の頬を指でツンツンとつついた。
横目で萃香は、そうしている宵闇の妖怪を眺め、しばらく無表情でいた。そうして次第にその頬がぴくぴくと持ち上がり、
「くっくっく……」
不気味な、喉から出したような笑い声を立て始めた。少しの間笑ったのち、ふうと一息吐いて肩を落とした。そして一呼吸の間を置いてから、
「私はさ、お前の強さだとか、付き合いの良さだとかはなかなか好きだよ。でもな……」
と、萃香は無造作な笑みを浮かべながら宵闇の妖怪に顔を寄せて、相手の肩に手を置いた。
「お前のその意地の悪いところや狡いところがマジで嫌いでさぁ……」
肩に置いた手に力と重さを掛けて、ぎりぎりと宵闇の妖怪の肩は下がっていく。宵闇の妖怪はそんな相手を、とぼけた笑みを顔に浮かべて見ていた。
「もしもお前が幻想郷の敵になってお尋ね者になった暁には……、そん時はお前もお陀仏だぜ」
そう結んで萃香はゆっくりと、相手の肩を押さえ付けていた手をどけた。宵闇の妖怪は、今しがたまで押さえ付けられていたほうの肩を回し出した。
「私はな――」
おもむろに萃香は、独り言を話すみたいな具合に語り出した。
「私たち鬼はな、他人様から恨みを買って、お天道さんの届かない陰の道を歩く渡世、謂わば天下の嫌われもんだ。だからこそ筋ってもんがあるのさ。――悪人は悪人らしく、善人面はしねェってこった」
嘘設定はロマン、はっきりわかんだね。