レポートがめっちゃ出たしバイトが上手く行かないしでリアルが色々と忙しく、おまけに執筆の進みも悪いで、いつの間にかこんなに経ってました(半ギレ)。出来るだけ早く、夏休み前には投稿しておくべきかなと思ったので、仕方なく前編・後編で分けてで投稿します(ホモは責任感が強い)。
【1】
「ふむ……」
椅子に縛り付けられている僕の足の指をペンチで挟みながらヤモリは唸った。
「そろそろ次の一本を、打とうかな……」
そう言ってヤモリは注射器を取り出した。中には何やら透明な液体が入っている。Rc細胞抑制剤と言うらしく、喰種の体内に在るRc細胞なる物を抑制することで、通常の方法では傷付かない喰種を、人間と同じように傷付けられるのだという。
注射器が僕の目に突き立てられ、それを注入された。ヤモリが僕の目に注射器の針を刺したのは、硬質な表皮を持つ喰種でも、粘膜であれば普通の針でも通るからだ。
四度目となれば……いや、これよりも激しい苦痛を味わわされた身である僕には、もうそれに悶絶する気力もない。
「じゃ、続きを始めようか……」
僕の足の親指がペンチで挟まれる。
「さてカネキ君、……千引く七は?」
これが再会される時は、いつも決まってこの質問から始まる。
「ねえ、千引く七は?」
ヤモリは飽くまで静かに言った。
「……きゅ、九百九十三」
「よし、よし、そうだねぇ。ならもう一度、……千引く七は?」
「九百九十三……」
「もう一度!」
「九百九十三っ……」
「もっとだ!」
「九百九十三ッ!」
千引く七は、九百九十三。千引く七は九百九十三。千引く七は――。
ヤモリは僕の足の親指をねじりだす。僕は叫んだ。そしてもう片方の足で地団太を踏む。気狂いみたいに僕は上体を跳ねさせていた。
足の指の関節が外れた感覚。それがふくらはぎを上ってくる。不快感が一気に僕の腹へ上ってきた。けどもう吐けない。もう胃袋は空っぽだ。
皮を引き千切られた痛みと共に、僕の足の指の一本が取れた。耐えがたい苦痛が後を引く。でも今の僕にしてみれば、それは大した痛みではない。
僕の反応の何がおもしろかったのか、ヤモリは今までよりも上機嫌に鼻歌を歌いだして、ペンチに挟んだ千切れた僕の足の指を、そばに置いてあったバケツの中に、僕の足の指が大量に入ったバケツの中に放った。
「このバケツを君の指でいっぱいにするんだったら、あと何本の指が必要かな?」
僕が今こうしているのは、万丈さんたちを助けるためだった。
脱走に失敗してアオギリに捕まった僕らに、ヤモリはある取引を持ち掛けた。
奴の下に来るなら、残りの生き残ったメンバーを生かしておいてもいい、と。
当然僕は、仲間の制止を振り切ってそれに飛びついた。それがこの様だ。こうして奴の趣味で――奴が自身の欲望をぶつけるために――拷問をされている。
再びヤモリは僕の前に屈み込み、ペンチでまた僕の足の指を挟む。ねじる。僕は叫ぶ。しかし奴は聞き入れない、むしろ楽しんでいる。
「九百九十三引く七は?」
笑いを堪えているらしい声でヤモリは問う。
「九百八十六ッ!……」
絶叫と共に僕は答えた。指が足から千切れたのはそれと同時だった。
「ほら、続けなよ」
ガチン、ガチンとペンチが鳴る音が聞こえた。
「九百七十九……、九百七十二……」
奴は僕に、拷問の最中はこうして千から七を引き続けるように強要している。最初は意味も解らずそれに従った。今ではその意味が嫌というほど解る。
この『作業』を繰り返しているから、僕は拷問の恐怖から目を背けていられる。でもその代わり、狂気の世界にも逃げ込めない。それを重々解っていながら僕はこの『作業』に縋りつく他無かった。
ヤモリは僕の残りの足を一気にねじ切った。膨大な痛みの洪水が僕に叩き付けられた。足が、無くなってしまった気がした。
ヤモリの笑い声がこの場所に響き渡っている。僕の頭の中にまで響いているのかというくらい大きい声だ。
「九百五十一!……、九百四十四!……、九百三十七!……」
うわ言のように僕は作業を繰り返している。ひたすら。正気を保たんとして、――そうして我が身を護らんとして。それがどんなに僕を苦しめるものだろうと、どんなに無意味なことであろうと、今の僕では長い目で物事を見ることは叶わない。
項垂れながらそれを続けていると、不意に頬を撫でられた。すべすべとした、絹糸のような、温かい女性の手である。心地良さで顔を綻ばせて僕は顔を上げる。
「リゼ……さん……」
目の前で前屈みに僕の顔を覗き込んでいたリゼさんは、
「お久しぶり……カネキ君」
莞爾として微笑した。
「どうしてここに……」
周りを見てごらんなさい、と彼女に言われた。気づいて左右を見渡してみると、そこには何も無かった。延々と白い世界が広がっていて、その真っ只中に、椅子に座った僕と、佇む彼女が存在しているだけだ。
「ここは……」
「夢の世界よ」
「夢の世界、だって……」
思わず聞き返して僕は気づいた。
疲れていない。
先日の脱走、追っ手との交戦、ヤモリからの拷問、それら全てに因る疲労が嘘みたいに消えている。
うふふ、とリゼさんは笑った。
「夢の世界では何でも有りなのよ。当然、あなたが何を考えているのかなんて私にはお見通しだし、あなたがこれからどんな運命を選択するのかも、私は知っている……」
「あなたは……誰なんだ」
「私は私よ、本物ではないけど。私の正体が知れるかどうかはあなた次第……。ここは夢の世界――、つまり、普段は超自我が抑圧していることが具現化する世界、けれどもそれは必ずしもそのままというわけじゃなくて、歪んだ形で現れることもある」
リゼさんは僕の周囲を周りだした。視界の袖に彼女の姿が消える。
「教えてください、僕はこれからどうなるんですか」
「いずれ分かるわ、……いずれね」
彼女は僕の後ろまで来たらしく、彼女の声は後ろから聞こえた。そうして左の方まで彼女は歩き、やがて左側から姿を現した。
だがそれはリゼさんではなかった。
「君は……ルーミアちゃん……」
瞠目して僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女はにっこりと笑った。
「君も、やっぱり本物じゃないんだよね……。じゃあ誰なんだ?」
だから言ってるでしょ、と囁くようにルーミアちゃんは言った。
「ここは夢の世界。私の正体が知りたければ、自分の胸に訊いてみるしかないのよ。ほら――」
と彼女が言うと、周囲の様相がいつの間にか、本当に忽然と、まるで最初からそうであったかのように変わっていた。今まで真っ白ばかりで何もない空間に、椅子やテーブル、戸棚などの家具、カーペット、フローリングが現れたのだ。そして僕はこの場所を知っている。ここは僕が幼い時分に、母と一緒に住んでいた部屋だ。
あ……、と僕は声を漏らした。思わず椅子から立ち上がろうとした。その時、僕は椅子に鎖で縛り付けられていることを思い出した。しかしその時には既に僕は立ち上がっていた。
「ほら、夢だから……」
リゼさんが横に居て、僕の肩に手を置いた。
「それで――あそこで内職をしているのが、あなたのお母さんかしら?」
リゼさんが示した先には、ローテーブルの前に座って、造花の内職をしている、僕の母の後ろ姿があった。
「……母さん」
「そう……あの人がね……。それじゃあ――」
彼女がそう言って振り向くと、その先には玄関があった。ちょうど扉が開いて誰かが入ってくるところだった。
それは僕だった。まだ幼い――小学生くらいの時のだ。
ただいま、と当時の僕は声を張った。
「可愛いわね」
テーブルの椅子に腰かけて、頬杖を突きながらリゼさんは言った。
「ところで、あれは何をしているの?」
彼女が指したのは、当時の僕が、内職をしている母さんに、これ何て読むの? と訊いているところだった。
「僕は当時やっぱり小学生だから、分からない漢字が多かった。それで、僕の母さんは、それらの漢字に振り仮名を振ってくれたんだ……」
子どもだったから仕方がなかったとは言え、日がな一日働き詰めの母に、あれは酷だったかもしれない。
「もう少し、気を遣えれば良かったのに……」
母への負い目と、感謝と、尊敬の気持ちが綯交ぜになった複雑な気持ちが胸から横隔膜までを漂う。
「あら? 今度はお母さん、お仕事かしら。それであなたは独りでお留守番……」
リゼさんの言葉で、僕は彼女の視線を追うまでもなく、玄関の方を見やっていた。
ちらりと母の後ろ姿が、閉まりゆく玄関の扉から見えた。
「寂しくなかった?」
その口吻は問うようなものではなく、どちらかというと僕に語らせようとするものだった。
「強がってはいたけど、やっぱり寂しくはあったかな……。でも――」
ある部屋への扉を見やって僕は語る。
「父さんの書斎にある本で、それを紛らわせたんだ」
当時の僕はその部屋へ入っていった。僕もその後を追って部屋に入り、扉の近くで、部屋の中にある机で独り一心不乱に本を読む当時の僕の背中を見つめた。
時々、迷ったように唸っては、独り得心したり、諦めの嘆息をして先へ読み進めていっている。
「凄い量の本ね」
リゼさんが居なくなり、先ほどまで彼女が居たところには、代わりにルーミアちゃんが立っていた。
「ああ、全部父さんのだよ」
僕はもう、特に気にせず語ることにした。
「僕が物心つく前には、もう鬼籍に入っていたんだ」
「謂うなればこれらの本は、あなたの父親の形見というわけね」
「そうなるね……」
形見であることは、僕としても納得だ。あの本を読んでいる時に、もしも僕にも父さんがいたらと夢想をしていたのは事実だ。僕の頭の中に、知識で、時には理想を混ぜて、父親像を造り上げていた。
そう言えば、とルーミアちゃんは口を切る。
「幼い子供は、母親から離れる際に、寂しさを紛らわすために母親の代わりとしてヌイグルミやタオルに愛着を持って、それを肌身離さず持つようになるというのがあってね」
「ああ、ウィニコットの『移行対象』っていうやつだね」
「もしかして形見というのは、それに近いものなのかも――」
「そうなのかな……」
解るような、解らないような。
「大人でも、そういう子どもと同じような行動をする場合って、あるのかな」
「デカルトは自分の娘が幼くして命を落としたものだから、のちに一体のフランス人形を購入してそれにフランシーヌという名前を付け溺愛した。それだけじゃないわ。詩人の高村光太郎も、妻を失った際には、妻が生前大切にしていた人形を常に懐へ入れて持ち歩いていたのだとか」
有名な話だ。
「人間は、堪えがたい事態に直面すると、ともすれば自分が幼かった頃に心が『退行』する。大切な人を亡くすという堪えがたい事態に直面した人は、或いは、その『移行対象』の時期まで『退行』するものなのかもしれない――」
それはちょっと恣意的な解釈なのではないかと思った。
「形見を持つ人にだって色々いるんじゃないかな?」
「でしょうね。人はめいめい様々な動機で、死者が遺した物を保有していて、それら全てをひっくるめて形見と言うんだから。例えば、幼い時の研が、亡き父親の書斎で本を読むのだって、父親が居ないことの空虚さを埋めるための『摂取』とも取れるのだから……」
彼女の語りはそこで終わった。すると、突如彼女の周囲から闇が現れ、彼女を包んでしまったかと思うと、それは部屋全体へ広がっていったのである。何もかもが飲み込まれ、須臾にして僕を残して何も無くなってしまった。
だが闇はすぐに晴れた。明かりがパッと点くみたいに、同じ場所が姿を現したのだ。僕はと言うと、最初居た所に戻されていた。
ここに僕は居ないようだった。けど母は居た。
玄関に立って、開いた扉の向こうに居る誰かに、茶色い封筒に入った何かを渡している彼女の姿があった。
彼女の姉――僕の伯母だ。
金に余裕が無いからと言って、ああしてうちに金を無心しに来る。それに因ってうちの家計は更に切迫したのだ。それを補填するために母はますます仕事を増やしたのだ。
伯母の背中を見送ると、部屋に戻って母は、ついさっきまでやっていた内職の作業に戻っていった。
作業はそこまで捗っていないらしかった。彼女は内職で扱っている物を手に取って、作業を再開しようとするも、疲れたように溜息を吐いて、そのままローテーブルに突っ伏し、眠りに落ちてしまった。
僕は押し入れから薄めの毛布を取り出して、彼女の肩に、そっと掛けた。
「随分と静かに眠っているわね……」
今度はリゼさんが、僕の後ろに立っているようだ。
「まるで死んでいるみたい……、本当に生きているのかしら?」
その言葉で僕が血の気が引き、
「そんな馬鹿な……」
母の首筋に指を当てた。何だか肌がぬるいような気がした。
脈は――無かった。
「え……」
僕がそれを認識すると、ぬるいという程度だった母の肌が、一瞬にして冷たくなった。
「そんなっ!」
思わず立ち上がって顔を上げた。そしたらそこはもう僕の住んでいた所ではなくなっていた。
真っ白な壁に、真っ白なカーテンの、病室。
視線を下に戻すと、これまた白いベッドに、すっかり色が抜けきって青白い肌の僕の母が、白い毛布を掛けられて横たえられていた。
枕元辺りに、もう何も返事をしてくれない母に、縋りついてすすり泣く当時の僕の姿があった。
力が抜け、首筋や肩に鳥肌が立つのが分かる。呼吸が浅くなって、息苦しいはずなのに、その苦しさの実感が湧かない。
「あーあ」
リゼさんではない別の、高い声が僕の耳元で囁かれた。
「死んじゃったわね……」
僕の首がガクンと落ちた。吃驚して次に頭を上げた時には、もう夢の景観は消えて、元の部屋に、ヤモリから拷問を受けていた部屋に戻ってきていた。
「気が付いたかい?」
横でヤモリが、両手で拷問用のペンチを弄りながら言った。
息を荒げて僕は自分の状況を見る。両手は後ろに鎖で縛られ、両足首は椅子の足に鎖で繋がれ、胴は椅子と共に鎖で巻き付けられている。
何も変わっていない。あるとすれば、夢を見る前には片足の指だけが千切れていたのに、今はもう片方の足の指も全て無くなり、断面ではうぞうぞとした物が蠢き、じっくりと指を再生している。
「何だか、まるで何も憶えていないように見えるねぇ。僕が君の指をねじ切っている間にも、君はしっかりと千から七を引き続けながら、絶叫をしていたのに」
まあいい、とヤモリは、近くにあるトレーにペンチを置き、その隣に置いてあった虫かごから何か、黒くて細長いものを取り出して、
「こいつを見てくれ、どう思う?」
僕の顔に近づけたのである。
ムカデだ。それも飛び切り大きなもの。
ヤモリの指に摘ままれて、不快な鳴き声を上げて身を捩って逃れようとしてい、その度にてらてらと黒い甲が光を反射している。
「トビズオオムカデって言うんだ、国内最大級のムカデさ……。で、こいつをね、君の耳に入れてみようかなって、思うんだ」
ヤモリは目をひん剥いて笑う。込み上げてくる笑い声を抑えようとヤモリは唇を引き結んで鼻の穴を膨らます。しかしそれは、イビキのような音と共に漏れ出てきている。
「い、嫌だ……」
僕は首を、強く横に振った。いや振ったというより、打ち震えると言ったところかもしれない。
「やめて……、お願いします!……。……やだ! やだッ、やだッ、やだッ!」
だがヤモリはその僕の哀願に一切耳を傾けることなく、僕の頭を腕で抱え込み押さえつけ、僕の耳を上に向けさせると、そこからムカデを押し込んできた。耳の中に圧迫感が来る。蠢くムカデの脚が耳の壁を引っ掻く。ずるずるとムカデの身が入っていき、鼓膜辺りまで到達する。しかしまだ、全部が入りきってはいない。更に奥まで押し込まれ、鼓膜が突っ張り激痛が走る。
僕は金切り声を上げて一層暴れる。
耳が破裂したのかという衝撃と痛みが来る。あとはじりじりと僕の耳が、僕の頭が、ムカデに占領されるだけだった。
ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、々、々、々、々、々、……。
頭の中でムカデがほくそ笑んでいる。その高笑いを僕に聴かせようとしている。嫌悪感が内から湧き上がり、肌の表面へ出て、全体を駆け巡る。
僕は笑い出した。苦痛を誤魔化そうと、とにかく声を張った。それでも足りないから、笑い出した。頭の中の雑音を消そうと哄笑した。
雑音の怒涛の中でも、あいつの声は、ヤモリが笑う声は聞こえていた。
次第に痛みに慣れてきて、声を出す気力も衰えてきた僕は、今は大声を出すのをやめて歯を食いしばり、痛みをやり過ごしている。
ヤモリには、特に何も感じていないように思える。
「もう……殺して……。殺して、ください……」
この苦痛から逃れたい気持ちのままに、無意味な懇願を続ける。今の僕にとってあいつはそんな偶像的な存在なのかもしれない。
「いや、まだまだ……」
二つの――いや二人の人間をヤモリは引きずってきて、僕の前にそれらを投げ出した。その二人は呻き声を上げてから、おもむろに顔を上げて、僕と目が合った。
片方は女性、もう片方は男の子。それも見たことのある二人だった。
「ねえ、君、名前を教えてくれるかな?」
と、男の子のほうの髪の毛を掴んで、ヤモリは顔を近づけて言った。
男の子は首を引っ込めて自身の顔をヤモリから遠ざけて、目を逸らし、震えていた。
ゴッという鈍い音がした。男の子の顔面をヤモリが地面に叩き付けたのだ。しかし彼の顔は、打ち付けた所が赤くなっているだけで、鼻からも鼻血は出ていなかった。おそらくヤモリも手加減をしたのだろう。それもわざと。
母親が悲痛な声を上げる。
「君の名前を、教えてくれるかな?」
優しげな声で微笑みながら、ヤモリはもう一度言った。
「コ、コウト……」
泣きそうな面持ちで男の子はそう答えた。
「そっか、コウト君かぁ……、じゃあそこの女の人は君のお母さんだね? だそうだよ、カネキ君」
意味深にヤモリは僕を見て、一層笑みを深めた。
「ここでカネキ君に、一つ質問があるんだ……」
いきなりヤモリは、その親子の首を、それぞれ片腕で締め上げて、それから僕の前に突き出して見せつけてきたのである。
「これからこの二人の親子の内、母親か子どものどちらか、それか両方を殺そうかと思うんだ。そこで、この二人の内どちらを殺すかを、君に決めてもらいたいというわけなんだけど……」
ほんの少しの間、僕はその残忍な選択を押し付けられた実感が湧かなかった。しかしすぐに現実に引き戻され、まざまざとそれを見せられる。
「ねえ、どっちを殺す?」
ニヤニヤ、ニヤニヤ。
「君が選んでくれなきゃ、……僕が二人とも殺しちゃうけど」
ひたすらヤモリはニヤニヤ笑い続ける。
こいつはきっと、最低でもこの親子の内どちらか一方を殺す。それは分かっている。でも僕にはどちらかを選択するなどというものは考えなかった。
「やめろよ」
「あ?」
「やめろよ!……。選べるわけがないだろッ。殺すんなら……僕を殺せばいいじゃないかッ!」
顔を突き出した僕は言った。どれだけ無駄なことだと分かってはいても、こうして懇願して、いずれ相手は赦してくれるのではないかという期待が、どこかにあった。
いや、或いは、その期待はただの現実逃避なのではないか。
いやらしい笑いを浮かべながら、ヤモリは僕の顔を見ている。元々細かった目は、最早閉じているというくらい細められ、口角も、これ以上やると裂けるのではないかというくらい、引き伸ばされている。そうして僕の懇願する様を、情けなくなっていく相好を見て楽しんでいるのだ。
突然ヤモリは、自分の脇に抱えた親子の内、コウト君のほうの顔を床に叩き付けだしたのである。コウト君の顔はしばらくヤモリによって床に押し付けられていた。引き上げられたコウト君の顔は、まさに恐ろしさと驚愕を混ぜた表情となっていた。自分の鼻から垂れる尋常じゃない量の鼻血にも気が付かないようだった。
「ああ、ああ……」
せせら笑う嫌らしい顔でヤモリが僕を見た。
「その情けない恰好、恥ずかしくないの?」
それを言った瞬間ヤモリは、またコウト君を地面に叩き付けだした。今度は一度なんかじゃない。短い間隔で、何度も何度も打ち付けたのである。
「ほらッ! 君がッ! 選ばないからッ! こうなるッ!」
コウト君の顔を床に打ち付けつつ、ヤモリは僕を喝破した。それからコウト君の頭を、今までよりも一層高く持ち上げると、
「自分の無責任な善人ヅラに――酔ってんじゃねえぞッ!」
コウト君の頭の骨から怪しい音がした。
当然それを母親も聞いていて、猿のように甲高い声で、やめてッ、殺さないでッ、私が代わりになりますッ、というようなことを、延々と叫んでいる。
「お願いしますッ!」
と、母親が縋るような眼で、僕を見た。
「私はどうなっても構いません! お願いしますッ、犠牲にしてください!」
その時僕は、こっちを見る彼女の眼に何かを――物狂いの言葉とはまた違った、意志を見た。
俄かに辺りが、静かになった。ヤモリがコウト君を責める音が無くなったのだと僕が認識したのは、少ししてからだった。僕はヤモリを見る。奴は、今までの引きつった顔を引っ込ませて、無表情で僕を見据えてきている。
コウト君の呻き声と、彼の母のや僕の荒い息が響く。
「で、カネキ君はどうするの?」
無言の空気を破ったのはヤモリだった。
「どっちを選ぶの?」
これ見よがしにヤモリは、もう気息奄々となったコウト君の頭を掴む手に力を入れた。
「ねえ、ねえ、ねえ」
ゆらゆらと、コウト君の頭を上下に揺らしてから、ヤモリはじっと僕を見ていた。そのまま、しばらく何も動かずに、ゆっくりと時間が流れた。
僕はヤモリからの視線が耐えられず、奴から目を逸らして、視線を泳がしだす。視線がヤモリの足元へ落ちて、それはそのまま床を流れる。そうしていると、コウト君の母親と目が合った。顔に汗をびっしょりとかいて、まとまっていた髪から垂れた毛が額に張り付いていた。
「ああ、ああ……」
不意にヤモリが口を切った。
「もういいよ」
そう結んで、背中から、不気味な色の赫子を生やした。それからコウト君を地面に投げ出し、赫子を上に伸ばしてから、先端を下に、ぐったりとうつ伏せに倒れているコウト君の背中に向けた。
「待ってくれッ!」
思わず僕は叫んだ。
「ん?」
と、しらじらしくヤモリは反応を示した。
「待って……、待って、ください……」
決断をしたわけではなかった。それは浅挙だ。でも僕は止めざるを得なかった。
「……何かなぁ? 今僕は忙しいんだけど。主に、この二人を始末するのにね……。それとも何か、どちらを殺すか決めたのかい? 今なら、その決断力に免じて、受けてあげるけど……」
と言ってヤモリは僕へ顔を近づける。
もうどうしようもない気がした。ここまで来たら、もう……。
だから僕は……。
「母親のほうを……」
「ん? 母親を――どうするんだい」
わざとらしくヤモリは、そんなすっとぼけた振りをした。
「母親のほうを、殺してください……」
尻すぼみになりながも僕が言い切ると、ニヤリとヤモリが笑った。
「ははははは! コウト君、今の聞いたかい。カネキ君はねえ、僕に、君の母親を殺せと頼んできたんだ!」
いち言いち言を強調してヤモリは、コウト君の耳元で、大声で言うや否や、すぐ隣に居る母親の首根っこを引っ掴んで後方に投げ、轟音のような音と共に、あの禍々しい茨のような赫子を出し、仰向けに倒れた彼女をそれで、哄笑上げながら滅多刺しにしだしたのだ。
肌が泡立つのを感じた。実に楽しそうにヤモリは、僕とコウト君の目の前で喜々として処刑を実行している。ただ単にその行為を楽しんでいるんじゃない、この状況を楽しんでいるのが看取される。
奴が陰になって見えないが、おそらく胴体だけじゃない、脚や、腕や、首や頭にも赫子の先端を突き刺しているだろう。奴の赫子が彼女の身体を突くたびに、それだけでおびただしい量の血が四方八方に飛び散るのだ。
やがてヤモリは、興奮と若干の疲労で息を切らしながら、次第に赫子を動かす速さが衰えていかせ、最後にオマケとばかりに激しい一突きをお見舞いしてから、大きく息を吐いた。
あいつはこれを、僕が根負けしてどちらか一方を選ぶことを狙っていただと、今になってようやく気付いた。踊らされていたのだ、僕は。だからこそ、死ぬような暴行を二人にしては寸止めということを、ヤモリは行っていたのだ。
「ううううううう……」
僕の足もとからコウト君の悲痛な呻き声が聞こえてきた。それはすすり泣いているのか、怨嗟の声を発しているのか、はたまた叫ぼうとしても気力がないからなのか、判然としない。
それに僕が気を取られている間に、僕の後ろに回っていたヤモリの手が僕の両肩にそっと置かれ、
「全部、お前が悪い」
罪人を責める審判のようにこわごわとした口吻で、ヤモリは耳元で囁いてきた。
これまでの苦痛と、たった今繰り広げられた惨劇を目の当たりにした僕の精神は、するするとその言葉を馬鹿正直に受け取る。後は打ちひしがれて、そのあまりやり切れなさにうなだれるだけだった。
「ああ、僕の頭の中でムカデが笑っている……」
ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、々、々、々、々、……。
我が物顔で僕の頭の中にて笑うムカデがありありと脳裏に浮かんでくる。
「わはーはははははは!」
不意に、少女らしい高い笑い声が響いて、思わず首をもたげると、ルーミアちゃんが僕の目の前で笑っていたのが分かった。彼女はいつものように両腕を左右に広げ、片足のつま先でクルクルと回っていた。
「おお、厄い厄い。ま、そういうものよ、研、世の中っていうのは。わはーはははは!」
そう言って彼女はまたひとしきり笑うと、出し抜けに次のように語った。
「小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。日く、人情とは人間の
語り終えて、彼女は静かに僕を見下ろした。
「坪内逍遥の小説神髄――だよね、それ」
そう僕が切り出すと、ご名答、と彼女は応えた。
小説神髄とは、坪内逍遥という作家が、明治期に発表した評論だ。小説を書く際、登場人物の内面を、心理学者のような立場で考えて描き、次に世の中の様子や風俗を描く。所謂写実主義のようなものである。
ルーミアちゃんは再び口を開いた。
「曲亭の八犬伝に出てくるみたいな完全無欠のヒーローの話なんて、今時流行らないわよね。だから今の時代、創作に登場する主人公は大抵の場合、人間臭いものになっているし、とは言え、あまりにも人間に近過ぎると、今度は読者から感情移入されなくなる。人のことを慮ろうとするも、まずそれを為すだけの器が足りず、言動がしょっちゅう変わって、最終的には自分勝手なことに帰結してしまう。ともすると、いじましい奴だって嫌われたりもする。だから作家たちは、人間臭いながらも、その人物の中に英雄的なものを組み込もうとするわけ――」
僕の前をぶらぶら歩きながら彼女は語った。それである区切りのところで彼女は再び僕の方へ目を向け、そしてニヤニヤと笑いだしたのである。
「研、あなたはまさに、坪内逍遥が神髄の中で語った人物像に、近いんじゃないかしら」
責めるらしいものではなかった。馬鹿にしているという具合だ。が、一概にそう言うのも、何だか釈然としない。どちらかというと、遮二無二自分の生き方を貫き通そうとして足掻き、空回る姿を嘲笑っているというのが一番近いのかもしれない。
僕が何かを言うおうか迷うっている間に、彼女は後をかぶせた。
「それで、その小説神髄に足りないものを見出した二葉亭四迷が、のちに坪内逍遥を訪ねて自分の考えを語って、逍遥の後押しで発表したのが『小説総論』なんだけど――」
と、そこで彼女は一つ咳払いをしてから、また次のように語りだしたのである。
「凡そ形(フォーム)あれば茲に意(アイデア)あり。意は形に依つて
中略、と挟む。
「小説に勧懲、模写の二あれど云々の故に模写こそ小説の真面目なれ、さるを今の作者の無智文盲とて、古人の出放題に誤られ、痔疾の療治をするやうに矢鱈無性に勧懲々々といふは何事ぞと、近頃二三の学者先生
二葉亭四迷は、小説に於いては『形』と『意』があるとして、特に『意』を重んじていた。たとえ『形』があれど、『意』が伴っていなければ薄っぺらいものとなってしまうということである。また、清廉な英雄主人公が、悪辣な輩を懲らしめる勧善懲悪、善悪の二神教(ゾロアスター)ばかりであることを批判していた。
「例えば、世の中の作家の中には、何かの影響を受けたり、或いはオマージュと称して別作品のワンシーンや言い回しをパクったりする人も居る。とは言え、パクるというのはある意味で悪いことではないわ。それどころか、人に迷惑を掛けない範囲で推奨されている。文豪ですら古典文学からパクっているのだから、一概にパクりがいけないとも言えない。問題なのは、パクっておいて上手く換骨奪胎を為せないことよ。とあるシーンに感動して自身の作品に同じようなシーンを描いたはいいけれど、そのシーンにたどり着くために必要な描写の積み重ねを怠って、結果的に駄作にしてしまう者が居る……」
と、出し抜けに捕鯨問題を槍玉に挙げるようにそう言ったのち、まあそんなことはどうでもいいか、と彼女は心底どうでもよさそうに嗤った。
「私が最も言いたいのは、英雄が信念を持って活動して勝利を収める時代は、もう百年以上も前に終わったということよ、――そう、創作の中ですら」
前に話したかしら、と彼女は前置きしてから、
「世の正義が悪を懲らしめることは往々にしてあるけれど、本当の巨悪はもっと深い闇の中に存在していて、これは正義には裁かれない。いつだって巨悪を抹殺するのは正義ではなく別の巨悪、――それも覇権争いなんていう益体もない事のさなかで」
ああ、これは前にも彼女から聞いたことがある。いつだったかは憶えていないけど、確かに彼女は言っていた。
「本当に、難儀よね」
リゼさんが忽然と現れ、言う。目は僕ではない別の方を向いている。その視線を追うと、
「ヒデ!」
自分の顔から強張りが抜けていくのが分かる。あれはまさしくヒデの後ろ姿だった。僕の声に反応してヒデはこちらを向いて、――忌々しそうな眼で僕を見た。
「あ……、え……」
俄かに僕の唇はわななき、言葉を紡ぎだせなくなった。
「何で黙ってたんだよ」
恨みがましい低い声で言う。
「カネキ、お前は腰抜けだ。いつもいつも、悲嘆するばかりで、ちっとも積極的に行動を起こさない。いつも誰かに引っ付いて動いてばかりだ。ああ、……お前がもっとまとも、なら……」
歯切れ悪い語尾。その時、突如としてヒデの首が、怪しい音を立てて折れた。
「ヒデッ!……」
僕が名前を呼ぶのと同時に、彼に手を掛けている者が姿を現した。――その正体はヤモリだった。ヤモリはそのままヒデを持ち上げた。人の頭なんぞ簡単に掴めてしまう両手でヒデの首を締めあげ、それからグニグニと、ヒデの首を粘土のように揉んで、ギチギチと砕いていった。
「やめろぉ!」
叫ぶ僕なんて意に介さず、ヤモリは邪悪な笑みを浮かべながら、ヒデの首を弄び続けていた。
ヒデと目が合った。瞳孔が開き、生気の無い眼を揺曳させながらも、しっかりと僕へ視線を向けて、ぼそぼそと口を動かしていた。声は発しておらず、何を言っているのかは聞こえないが、僕にはそれが呪詛であるらしいことが分かっていた。
「やめてくれ……、そんな眼で見ないでくれ……」
思わずそんな弱音を吐くと、ヒデはますます恨みがましい面相となり、口の動きもまるでお経を読んでいるのかというくらいせわしなく動き続けていくのである。
項垂れて目を閉じ、目の前の光景から目を逸らす。なのに、僕の頭の中では、目の前の光景がはっきりと見えていて、無駄だった。直接見るのも、間接で見るのも変わりはなかったが、それでも僕は、目を逸らし続けるを禁じ得なかった。
しばらくして雰囲気が違うことに気づいた。ヒデの怨嗟の囁き声と、肉と骨が混ざり合うような生理的に嫌な音は消え去り、また肌が粟立つ不穏な空気が静まっていた。おずおずと僕は首をもたげて、ゆっくりと目を開けた。そこにあったのは、『あんていく』の店内の光景であった。
その風景には既視感があった。当たり前のものであるはずなのに、どこか特別な空気を感じた。
そのまま視線を流し続けていると、カウンター席に誰かが座っているのを、ようやく見つけた。僕はぎょっとした。確かに、考えてみれば最初からそこに座っていたような気がした。なのに僕はそれが見えなかった。
そうこうしてぼやっとしている内に、彼女の隣に、また人影が一人増えた。いや、僕が認識出来るようになったと言うべきか。それはヒナミちゃんだった。
二人はカウンターを背にそこの椅子に腰掛け、ただ僕へ無感情の視線を向けるのみだった。またその様にも既視感があった。
これらの次に、今度はカウンターの裏から何かが現れた。ゆっくりと、何かに持ち上げられるように、その姿は次第に明瞭になってくる。日本人にはない金色の髪の毛、赤い瞳、象牙色の肌、小柄な体躯。
ルーミアちゃんだ。
彼女の身体を持ち上げていたのは、またしてもヤモリだった。どこまでも追ってくる。ヤモリは、ルーミアちゃんの首を後ろから片手で掴んで、ぐりぐりと動かす。そうすると彼女の首は傀儡のように不自然な動きを為す。
当のルーミアちゃんは、目を大きく開いたまま、瞳を上のほうにやり、口が力なく開いていてそこからだらしなく舌が垂れていた。それはどこか笑っているようにも見えた。そして何故か両手でこちらにピースをしていた。
気味悪そうな顔でヤモリはそれを見た後、まるでゴキブリでも扱うかのようにルーミアちゃんをこちらの方へ放り投げてきた。彼女の体はヤモリの手を離れると、それまでの動きが嘘であったかのように、途端に活気が戻った具合に、空中で体勢を立て直し、軽い音を立てて僕の隣に着地をした。
「ほら、しっかり見て、見て」
ルーミアちゃんに気を取られていると、彼女は僕の顔を再びヤモリとトーカちゃんらの方へ向けさせた。
僕が目を戻すと、いつの間にかヤモリが、カウンターを越えてトーカちゃんとヒナミちゃんの前に佇んでいたのに気づいた。ヤモリは、僕が再び注目するのを待っていたとばかりに動き出し、二人の首を引っ掴んで持ち上げると、一気に二人同時に首をへし折ったのだ。
「あ……、ああ……、そんな……」
絶句のあまり叫ぶことも出来なかった。ヤモリはそのまま二人の身体をなぶり始めた。それでも僕は何も出来なかった。
叫ぶことすら。
もう疲れた。嘆くのにはもう飽きた。たまには激情のままに暴れたい。
やがて、ヤモリが二人をなぶる音は、さながら消えゆく山彦のように聞こえなくなった。周囲の風景も消えて、また真っ白な空間が十方に広がっていた。
僕の両肩に、優しく、温かい手が置かれる。
「ね、解ったでしょ。これがあなたの――母親の
リゼさんは僕の耳元で、諭すように囁いた。
それは何よりも心地良くて、――解放的で、――納得の行く、――しっくりと来る言葉だった。
いつの間にか、僕の頭の中で渦巻いていた何かが、すっかりと沈静していた。抑うつによく似た倦怠感が、頭から四肢までに浸透してくる。その代わり僕の頭はクリアだった。僕の思考を混沌へ陥れる有象無象の悪魔の囁きはことごとく沈黙していた。その精神的な静寂の中に、彼女の言葉はよく響いたのだ。
「神や仏が居なさって、悪を罰してくださる」
それを言って少しの間僕は口を閉じる。僕の言ったことに口を出す者は居ない。
僕は続ける。
「母さんが、以前言っていたことだ。……思えばあれは、母さんにしては、ちょっと過激だったかもしれない。穏当なことを言っておきながら、どこか憎悪が入り混じったような……」
いや、違う。
不意に思い出した。
「母さんは確かに優しかった、でもいつもそうだったわけじゃない、機嫌が悪い時だって勿論あったし、それに何よりも――」
ようやく思い出した。それと同時に僕の『歴史』が……、『幻想』が……、生きることの意味のよすがとなっていたものが凍りついて、粉々に砕けた。
「母さんは、時たまに僕に、理不尽な打ち打擲を加えていたんだ。激しい音を立てながら扉を開けて帰ってきた時……、僕がぐずりだした時……、僕が書斎で本を読んでいるといきなり入ってきて……。何かと理由を付けては僕を床に引き倒して、組み敷いて、単調な打擲をしてきたんだ、……それはもう発作だった」
何でだろう、告発をしているはずなのに、懺悔をしている気分だ。口から吐き出す時は辛いけど、出した後になると余裕が出てくる。
「太母――グレートマザー、と言うのかもしれない。母親は、子どもがどんなでも受け入れてくれる優しい存在だけど、でもそれと同時に、子どもの何もかもを操り、支配しようとする独善的な存在でもある、――つまり二面性を持った存在なんだ。僕はその悪い側面から目を逸らして、善い面ばかりを見ていた」
そうだ、完璧な人なんて居やしないんだ。僕が憎んでいた叔母だって、畢竟、自分の業苦に苛まれる、ただの人でしかなかった。僕はそれを知って、彼女への考えを幾分か改めたのだ。
それと同様に、敬愛する僕の母も、所詮はシングルマザーでの子育てに限界を感じていた一人の女でしかなかった。
全知全能の神なんかじゃなかった。
神託は絶対に正しい。故に、如何なる疑念を持とうとも、それに従うべきだ。
それがまやかしだったら? 神が居ないとなれば、何が正しいのだろうか。本当の意味で自分を肯定出来るのは。
――自分自身だ。
「あなたの正体は――僕自身だ」
リゼさんの目を見据えて、僕は高らかに言った。彼女は嬉しそうに笑った。
「さっきルーミアちゃんが言ってた通り、僕は人間臭い人間なのかもしれない。自分の大切なものを害されたら、当然激怒する。その相手を、殺っつけてやりたいって思うんだ。でも母さんの教えを守って、僕は優しい人間を演じていた、そうすることに依って、集団から無害な存在として扱われたい、承認欲求が働いていたんだ」
忸怩としたものを感じる。けれども、それへの慨嘆や憤怒はあまりなかった。
「心の中にあった暴力性を、僕はリゼさんへ押し付けていたに過ぎなかった、でも実際には僕の中に彼女は居なくて……」
僕が狂暴になったのは、リゼさんが僕の中に入ったからではない。僕の腰辺りにある、赫子という武器が、僕の暴力性を顕著にさせたのだ。
僕はそれらをとつとつと語り続けていた、リゼさんがもうここには居ないのにも拘わらず。代わりにルーミアちゃんが居た。
僕が黙ると、彼女は口を開いた。
「あなたは幼い頃から、とても優しい教育を受けてきた。それはあなたに、アレクセイ・カラマーゾフに通じるような優しい信念を造らせた。でも大きくなってみれば、自分の行いを自省しては苦しむドミートリィ・カラマーゾフでしかなかった」
諧謔的な口吻だった。
「君は――何者なんだ」
「私?」
ルーミアちゃんは、それを待っていたとばかりに、口角を引き延ばして笑み、
「私はあなたの闇よ」
こうして、カネキは自分自身を客観的に見るようになった。
『怪物との戦いを避けよ、さもなくば自分もまた怪物となる。お前が深淵を見つめる時、深淵もまたお前を見つめているのだ』 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ 善悪の彼岸 一四六節
【2】
遠くのほうで銃声が聞こえる。それと爆発音。
ヤモリはそれに耳をそばだててから、カネキに視線を戻した。
「どうやら、ここにCCGが攻めてきているらしい、誰かが情報を漏らしたのかな」
カネキの髪の毛は、度重なる苦痛の果てに、すっかりと色が抜けて白くなっていた。椅子に縛り付けられたまま、項垂れて、廃人のように身じろぎ一つしなかった。
だがカネキの心は壊れていない。むしろ平静であった。
雨の日に屋内でけたたましい雨音でも聞く気分でカネキはヤモリの言うことに耳を傾ける。
「僕たち『アオギリの樹』は、当然ながらCCGを殲滅する気でいる。だがその前に、人間に与する集まりである『あんていく』もまた、アオギリの殲滅対象なんだ……」
ヤモリは手に持っていた自らのマスクを懐に仕舞い、口角をいやらしく吊り上げて嗤った。
「カネキィ、奪われろよォ……。最後に全部、喰わせろォ!」
言いながらヤモリはカネキへ顔を近づけていく、すると、カネキがいきなり顔を上げてヤモリの顔へ唾を吐きかけた。
「喰ってみろよ」
カネキは嗤笑して言った。
「……」
その距離のままヤモリは、吐きかけられた唾を手の甲で拭って、じっと無表情を張り付けていた。しかし口はわずかにもごもごと動いており、その内では歯ぎしりがされているだろうことが知れた。しばしの膠着が続いて、ヤモリも怒りが爆発するのを堪えられるくらいには落ち着いた頃。唐突にヤモリは哄笑しだした。
「やっぱり君は最高だなあ!……」
そう言うや否やヤモリは赫子を二本出した。先端をカネキに向けてその頭上から力任せに振り下ろす。だがカネキは当たる直前に、自らを束縛していた鎖を千切って避けた。ヤモリの赫子は椅子と地面のみを抉る。その粉塵の煙が辺りを覆い隠した。それに紛れてカネキは素早くヤモリの背後に回る。手に残った錠と鎖を相手の首に巻き付ける。ついでに自身の両足をヤモリの背中に当て思いっきり引っ張った。
「ほら、どうした、喰ってみろよ」
カネキはヤモリの顔に噛み付いた。突如襲ってきた激痛にヤモリは一層暴れる。その衝撃で、ヤモリに巻き付いていた鎖は千切れた。カネキはヤモリの背中を蹴って後ろに飛び、離れたところに着地した。
「ぐうッ、クソッ!……、クソッ!……」
カネキに喰い付かれた箇所の肉が見事に喰い千切られていたのだ。怒りのあまりヤモリは獣のような悔しげな声を上げた。
「てめえ、俺を……喰いやがったなァ!……」
息を荒げて言うヤモリを意に介さずカネキは、
「不味いな」
口元に付いたヤモリの血を拭って言う。
「雑味が肉の味を完全に打ち消してるな」
ヤモリが赫子を放った。カネキはそれを掻い潜りながらヤモリへ瞬く間に接近し、飛び蹴りを浴びせた。
それを読んでいたヤモリはカネキの蹴り脚を掴む。その脚が折れても離さないとばかりに強く掴まれたカネキの脚から、骨の折れる乾いた音が出る。
一方カネキは、折れても構わないと言うかのようだった。眉一つ動かさないでいる。反対の脚を振り上げ、ヤモリの脳天へ見舞わせた。不安定な体勢から放たれたそれにはあまり威力はない。が、ヤモリは地に伏すこととなった。
地面に着地してカネキは、折れた脚をさっさと修復する。治りきった直後、顔を上げようとしたヤモリの顔を蹴り飛ばす。ヤモリの身体は隅のほうまで飛んでいく。壁に激突し、激しい粉塵を巻き上げた。
しばしカネキは、向こうで巻き上がった粉塵の煙を眺めていた。その中で、煙が不自然に動くのを見た。薄れていく煙の中に人影を見出した。ヤモリが立ち上がったのを察す。
「殺すッ!」
ヤモリの咆哮が響く。
「殺すッ! 殺すッ! 喰う……、ぐっちゃぐちゃになるまで……喰い殺すゥ!」
その背中から這い出た赫子は、それまでの警告色めいたものとは違う。充血しているみたいに赤かった。頭部を覆い、右腕に纏わり付き、ヤモリの身体を侵食していく。右腕に侵食したほうは、太く、長く、凶悪な形を成していく。そうして強大な触手を形成した。
それをヤモリは地面に叩き付けた。脚に力を溜め、カネキを睨む。力任せに地面を蹴り、まっすぐカネキへ突進していった。相手目掛けてヤモリは赫子を突き出す。先端が開き、その赫子はカネキに伸びていった。
一瞬カネキは、それへ突っ込むフェイントを掛けてから後ろへ飛ぶ。ヤモリの赫子はそこの地面を抉った。ヤモリはその地面を赫子で掴んだまま腕を引した。するとその反動で凄まじい勢いで前進。赫子を振り上げ、凄まじい攻撃をカネキへ叩き付ける。
それをカネキは避け、隙が出来たのを見て、ヤモリの懐へ素早く突撃した。ダッシュの勢いを乗せたボディブロウを浴びせる。
手応えはあった。しかし様子がおかしい。全く怯んでいない。
ヤモリがほくそ笑むのを見た。カネキは急遽後ろへ退避しようとしたが、追い掛けてきた赫子によって胴を捕捉される。地面に二、三度叩き付けられた後、投げ飛ばされた。カネキの身体は壁に激突し、そこにクレータが出来上がった。
確かに手応えはあった。だがそれでダメージを与えられないらしかった。ヤモリは今、どうやら怒りのあまり痛覚が鈍化しているみたいだ。殴った際に少し硬いようにも感じた。おそらく皮膚の下にも繊維状の赫子が入り込んでいるのだろう。
少しして、壁にめり込んでいたカネキは地面に降り立った。
「さすがに赫子なしじゃ、分が悪いか」
そして四本の紅い赫子を展開した。
カネキはヤモリを見据える。奴は、まだ殴り足りないとばかりに身体を震えさせている。
互いに赫子を向ける。
両者、折り曲げた人差し指を親指で押し、パキリと鳴らした。
それを合図とばかりに、同時に飛び出した。
一瞬にして距離が縮まる。それよりも早く、ヤモリは赫子を突き出し、カネキのほうも、四本の赫子を一つにまとめて繰り出す。二つの巨大な赫子がぶつかり合う。
だが、カネキのほうは正面からまともにぶつかることはしなかった。相手の赫子を逸らす程度にとどめたのだ。
ヤモリの赫子は伸びきっていた。そこを狙っていたのだ。伸び切って強度が下がった赫子にカネキは自身の赫子をぶつけ、それを千切り飛ばした。
今まであった質量を失ったヤモリはその場でバランスを崩した。その隙を突いてカネキはヤモリの下顎を殴った。そしてヤモリの身体を踏み台に高く飛び上がり、腕に赫子を巻き付けて振りかぶる。落下の衝撃に乗せてヤモリの首筋を殴り、昏倒させた。
頸椎に損傷を与えたことに因り、ヤモリはその間は動きを封じられる。が、喰種の再生力を以ってすれば、それも一時的なものとなるだろう。
うつ伏せに倒れているヤモリの背骨を、カネキは全体的に、執拗に殴った。いくら、皮膚の下に赫子があって頑丈になっていようとも、赫子の力を纏った打撃は効く。
徹底的に無力化したのを確認し、カネキは一息吐いた。そこで、自身の耳の中にある不快感を思い出した。その中へカネキは指を突っ込んだ。拡張される痛みを我慢して更に指を深く入れると、何やらもぞもぞ動くものに触れた。それを、耳の壁に押し付けるようにして引っ張り出す。その際、激痛が、耳を中心として頭に広がった。
出し切ると、頭の中が空っぽになったような気がした。異物が入っていた不快感は消えたが、その代わり、壁の脆い洞窟が支えを失って崩壊するような喪失感を味わうこととなった。
耳から出てきたのはムカデだった。ヤモリがカネキの耳に無理矢理入れたあのムカデだ。
力なくグネグネと動くそれを眺めながら、カネキは自身の赫子をヤモリの四肢へ突き刺した。
ヤモリは激痛に叫ぶ。
「今度はこっちのが訊く番だ」
持っていたムカデを放り捨て、カネキは言った。対してヤモリはすすり泣いていた。恐怖と悲しみが入り混じったもの。カネキは、ヤモリを踏み付けている足の裏に、ヤモリが縮みこもうとしているのを感じた。
「千引く七は?」
構わずカネキは続けた。
「九百……九十三……」
「更に引くと?」
「九百……八十六……」
「更に引くと?」
「九百……七十九……」
カネキはそこで訊くのをやめた。それでもヤモリは、強迫観念に駆られたように、七を引き続けていた。
「僕を拷問している時、たしかあなたは、共食いをすると強くなれるとか言っていたな」
ヤモリの腰の辺りを、探るように撫でる。最も脈動の強い所に当たり、そこが赫子の出所――赫包のある所であると判断した。
「僕を喰おうとしたんだから、僕がそっちを喰ったところで、文句は言えないよね……」
言ってカネキは、ヤモリの赫包にかぶり付いた。赫子の素となる物が口の中に入ってくる。カネキが感じたものは、ただの雑味であった。
肉のほうとは比べ物にならないくらい不味かった。あれは肉に雑味が染み付いているという程度の分、まだマシであった。だがこちらは、その雑味の塊なのだから、それはもう暴力的なものだ。
不味いと承知でカネキは、そのまま喰い続けた。その不快な味に何度か戻しそうになったが、腹に力を入れ、吐瀉を我慢する際の痛みに耐えながら、ひたすら腹の中に押し込んでいった。
どうにか喰い終わってカネキは、地面に倒れこんだ。喰うだけで気力を相当使ったのだ。今カネキの胃の辺りは、どくどくと脈打っていて、彼はそれを感じていた。
「この世界は間違っている……」
唐突にカネキは呟いた。
「あなたもまた、この間違った世界に歪まされたんだ。それは同情に値するけど、僕には関係ないし、それどころか敵なんだから、あなたがどうなろうと僕の知ったこっちゃない……」
そう結んでカネキは立ち上がった。
その時だった。
「なら、この世界は最初っから歪んでいるということになるわよね。それってむしろ正常なんじゃないかしら」
突如掛けられた声にカネキは振り向いて、それから瞠目した。
「ルーミアちゃん……」
そこに居たのはまさしくルーミアだった。以前ヤモリに折られたはずの首は、嘘のように元に戻っていた。それこそ、あの光景がただの白昼夢だったと思えるくらいに。
また血にまみれてもいた。彼女はいつもの服に、赤い、フード付きのマントを羽織っていた。赤いそれは血を吸っていて、今は血が乾いて黒ずんでいる。彼女の顔や手足などの露出している部分は、真っ赤に染まっている。それでいて彼女は、何事も無かったような振る舞いを呈していた。その自然さにはある種の恐怖があった。
ルーミアは、虫の息のヤモリのそばまで行き、屈んでそれを覗き込んだ。
「弱者にとっては狂った世界だけれど、それが辛いというなら、いっそ楽しんでしまえばいい、そう思わない?」
カネキのほうに顔を向け、艶然と笑った。
「どうしてここに」
「研が心配だったからよ。あのあと、皆が帰ってきてね、それで『あんていく』総出で研を助けに行こうってなったの。本当は私も雛実ちゃんもお留守番のはずだったんだけど、雛実ちゃんが聞かなくって、私も研が心配だったから、ついて来たってわけ」
立ち上がってルーミアは、自身のポケットを探り、ある物を取り出してカネキへ差し出した。
「はい、あなたのマスクよ。CCGも来ているみたいだし、顔は隠しておかないとね」
大丈夫よ、とルーミアはたおやかな声音で紡ぐ。
「たとえあなたがどこまで行こうとも、私は常にあなたと一緒に居る。……決して逃がさないから」
結んで、彼女は歩き出す。
「ルーミアちゃん」
カネキは思わず、呼び止めるように名前を呼んだ。立ち止まってルーミアは半身だけこちらに向いた。
「僕は確かに、アレクセイみたいな善人を演じていて、内面はドミートリィと同じだったのかもしれない。すると、そんな僕を言い表すなら、イヴァン・カラマーゾフがピッタリなんじゃないかなって思うんだ」
藪から棒にこのようなことを言うなんて、カネキ自身も、まさか自分が狂ったのではないのかと思った。現に目の前のルーミアも、眉をひそめて怪訝そうな眼になっていた。
「アレクセイ? ドミートリィ? カラマーゾフ? 言ってる意味がよく解らないんだけど」
ルーミアは、カネキの出した人名の意味すら理解出来ないでいるようだった。
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