ときめきのアンサンブル ~ Story of Nico 作:Kohya S.
思えば、私の止まっていた時間が動き出したのは、あのときだったのかもしれないわね。
「ふーっ」
四月ももう半ばだが早朝はまだまだ寒い。にこの吐く息は白かった。しかしその寒さもランニングで火照った体には心地よかった。
駿河台下の交差点にほど近い街中の公園。それほど広くはないが木々は多く、水場もある。朝もまだ早いためか公園に人影は少なかった。
にこはこの四月に三年生に進級した。そしてつい先日から、思い立って早朝のトレーニングを再開していた。
もう一周してから帰ろうかしら……。そう思ってベンチから立ち上がる。
「ニコちゃん!」
背中からかけられた突然の声ににこは驚き、振り向いた。
「あんた……」
そこに立っていたのは短髪で、上下スポーツブランドのジャージ姿の少年だった。
「お久しぶりです」
そういって少年は笑った。
「……
にこは少年の名前を思い出した。たしか……山名
私のふたつ下だから今年から高校生ね……。そして私のほぼ唯一の……ファンだった男の子。
にこは山名と出会ったときのことを思い出した。
・
最初の出会いは一昨年の七月のオープンキャンパスだった。
「よろしくお願いしまーす」
「三時から講堂でライブしまーす」
制服姿のにこたちの声が講堂前に響いた。講堂での説明会が終わり、そこから出てくる中学生やその父兄たち。音ノ木坂学院、アイドル研究部のメンバー五人は宣伝のチラシを配っていた。
「よろしくお願いしまーす」
精一杯の笑顔でにこはチラシを手渡す。
「ねえ、ニコちゃん、そろそろいいんじゃない」
にこの背中に向かってメンバーのひとりがそう声をかけた。
「ダメよ、もうひと押ししなきゃ」
にこは振り向いて答える。
「私、先に部室に戻ってるわね」
「どうぞ」
ここで頑張らなくてどうするのよ、とにこは思った。
にこはひとり、中学生たちがいなくなるまでチラシを配り続けた。
その数時間後、講堂ではにこたちのスクールアイドルグループのライブが始まろうとしていた。
五人のメンバーはステージ衣装に身を包みスタンバイした。彼女たちの最初のライブだ。にこの体を心地よい緊張感が包む。
やがて緞帳が上がっていく。
客の中学生たちの姿はまばらで――二、三十人というところだろうか――にこは不本意だったが、それでも気を取りなおす。
最初の曲のイントロが流れ始めた。ある有名なアイドルグループのヒットソングだ。にこたちは視線を交わして歌い始めた。
『♪~♫~』
なんとか無事に一曲目を歌い終え、にこはステージの中央で客席に呼びかけた。
「みんな、今日は『らぶニコ♥エンジェルズ』のライブに来てくれてありがとうー♪」
精一杯の笑顔を振りまく。ほかのメンバー四人も笑顔で手を振った。
「メンバーは、私、矢澤にこと……」とメンバーを紹介する。
「……です。最後まで楽しんでいってね♥ では次の曲、行きます!」
二曲目、三曲目と、にこたちは精一杯、歌い、踊った。
途中で声が出なくなったり、歌詞を間違えたり、ぶつかりそうになったりするメンバーもいたが――それでも力を尽くした。
「ありがとうございました!」
メンバーたちが声を揃えて客席に挨拶した。まばらな拍手が上がった。
ライブ後のステージ脇の控室。にこたちはステージ衣装から制服に着替える。最初のライブを終わらせたものの、にこの表情はさえなかった。
「アンコールの曲、無駄になっちゃったね」
「うん、そうだね」
メンバーが小声で話しているのがにこに聞こえた。にこの顔が一段と曇った。
「じゃ、反省会、やるわよ」
着替え終えたにこはメンバーに声をかけた。
「えー、ほかの部活のイベント、見に行きたいな」
「そっちのほうが楽しそうだもんね」
にこは言葉に詰まった。
「あ……。そうね、ごめん。じゃ、また明日……」
メンバーたちが出ていったあと、にこは控室に鍵をかけた。
初めてのライブ……失敗とは思いたくないけど、成功とはほど遠いわね……。
ひとりでとぼとぼと通路を歩き講堂を出る。外の日差しがまぶしくて思わず目を細めた。
「ニコちゃん!」
脇から突然かけられた声に、にこは飛び上がりそうになった。そちらを見るとひとりの男子生徒が立っていた。詰襟の学生服で背丈はにこより低いくらい。中学生だろう。髪はいわゆるスポーツ刈りだ。
「びっくりさせるわね、なによ」
落ち込んでいた気持ちそのままに、ぶっきらぼうに答えるにこ。
「さっきのライブ、可愛かったです!」
「あ、ありがとうニコ♥」
スマイルを思い出して彼に笑いかけた。
そういえば場違いな学生服が客席にいたわね……。っていうか、どうして男子生徒が音ノ木坂にいるのよ。
「きみ、中学生なの?」にこはあくまでも笑顔で聞いた。
「はい、音ノ木坂中学です」
「でも、音ノ木坂学院、女子高なんですけどー♪」
「今日は、面白そうなので、姉貴についてきました」
あ、そういうことね……。たしかにいちおう誰でも入れるけど……まあ、怪しい人は除いて、だけど……入学希望者以外が来るなんて珍しいわね。
「あの、次のライブ、いつですか?」
彼は目を輝かせていた。
「あ、えっと、次は九月の学園祭かな」
「僕、必ず来ます」
「よろしくニコ♥」
その素直な賞賛の言葉に、にこは嬉しくなった。
「あ、こんなところにいた。智也、次、行くわよ」
校舎のほうから来たセーラー服の少女が彼に声をかけた。
「ちょっと待って、姉貴……」
彼はそう答えてからにこに右手を差し出した。
「握手、お願いしていいですか」
「もちろんよ」
にこは彼の右手をしっかりと握った。
「次のライブ、楽しみにしてます」
彼はそういって手を振り、姉のあとを追っていった。
ライブ、やってよかったわね……。にこは右手に残る温かさを感じながら、そう思った。
・
にこが次に山名に会ったのは夏休みだった。
夏休みに入ってから、にこは毎朝トレーニングをしていた。アイドルには基礎体力が重要――しかしアイドル研究部の部員はそこまで熱心ではないので、トレーニングをしているのは、にこひとりだった。
その日もにこはいつものようにTシャツとショートパンツを着て自宅を出た。しばらくゆっくりと走ると神田明神につく。
ここの男坂を、にこはトレーニングに使っていた。
いつものように男坂を上り下りする。
その日、何回目になるだろうか、にこは男坂の階段を駆け上がった。階段の上で肩で息をする。
ようやく落ちついてきて顔を上げたとき、にこは階段の下から誰かが走ってくるのに気付いた。
音ノ木坂中学のジャージを来た男子生徒。あの色は二年生だ。
最後まで登り終えて、さきほどのにこと同じように荒い呼吸をする。
どこかで見たような、とにこが考えていると、その生徒もにこに気付いたようだった。彼の顔がぱっと明るくなった。乱れた息のまま彼がいう。
「……もしかして……ニコちゃんですか?」
それを聞いてにこは思い出した。オープンキャンパスのときに握手をした彼だった。
「そうニコ。おはようございます♪」
笑みを浮かべて答えた。
「やっぱり……。僕、会えて嬉しいです」
「ありがとう」
しばらくして、ようやく彼も息が収まってきたようだ。
「朝からトレーニングですか」
「はい、アイドルには、地道な努力が欠かせないんです♪」
「すごいですね」
目を輝かせる彼。その純粋な尊敬がにこにはすこし、こそばゆかった。
「それで、君は?」
「僕、陸上部で、ときどき走ってるんですけど……今日はたまたま、こっちに来てみたんです」
「そうなんだ。お互い頑張ろうね」
にこは笑いかけた。
「はい、頑張ります」
彼も笑ってそう答えた。
それからというもの、週に一度ほど、にこは彼と神田明神で顔をあわせた。ほとんどは挨拶をするだけだったが、ときどき短い会話をすることもあり、彼が山名智也ということをにこは知った。
夏休みも終わりに近付いたある日の朝、にこは山名と出会った。
軽く挨拶を交わしたあと、にこは彼にいった。
「再来週の土曜日、音ノ木坂は学園祭ニコ♪ お友達とぜひ来てね」
「僕、必ず行きます」
「よろしくね」
彼が差し出す右手をにこは握り返した。
・
九月に入り音ノ木坂学院は新学期を迎えた。新学期早々におこなわれる学院の一大イベントが学園祭だ。
にこたちアイドル研究部のメンバーも、学園祭でのライブに向けて夏休みから準備を進めてきていた。
残念ながらオリジナルの曲や振り付けは用意できなかったが、カバー曲の練習を繰り返した。
そしていよいよ学園祭当日。幸い講堂を会場として、おさえることができた。
講堂の控室で制服からステージ衣装に着替える。
「いい、これが私たちの最大の見せ場よ。気合い入れて行くわよ」
にこはメンバーに向かって胸を張った。にこ以外のメンバーはふたり。前回のライブのあとでほかのふたりは部を辞めていた。
「うん」「がんばろっ」
にこほどの気合いは入っていないが――ふたりもそう答えた。
今回は緞帳はすでに上がりステージ上にマイクが並んでいる。開演と同時に舞台の袖から出ていく演出だ。
にこが袖から客席を見ると――客の数は決して多いとはいえなかった。前回のライブより少ないかもしれない。にこは唇をかんだ。
でも……ここで負けるわけにはいかないのよ。
開園のブザーが鳴り終わるのと同時にメンバー三人でステージ上に走り出た。
にこがマイクを握る。
「みなさんこんにちは! 音ノ木坂学院アイドルグループ『らぶニコ♥エンジェルズ』です」
まばらな拍手が上がる。
「それでは、まずは一曲、聞いてください♥」
最初の曲を歌い終えてメンバー紹介。すこしだけ観客が増えてきたようで、にこは嬉しくなる。
そのあと二曲歌ってから簡単なMCを挟んで、最後の曲へ。
『♪~♫~』
最初のライブのときよりもクオリティは上がっているとにこは思う。単純なミスはほとんどなくなった。ただ、それで十分なのかという思いもぬぐいきれなかった。
「ありがとうございました!」
なんとか歌い終え、メンバー三人で声をあわせて頭を下げた。ぱらぱらと鳴る拍手のなかで緞帳が下がっていく。
緞帳が下がりきってからしばらく待ったが――今回もアンコールはなかった。
着替えを終えてほかのメンバーは早々に控室から去っていった。
にこは控室に用意されている鏡を見つめた。高校生としては小柄でスレンダーな体、黒髪を二か所のピンク色のリボンで留め、それぞれお下げにした少女が映っていた。やや赤みがかった瞳が見つめ返している。その瞳は、すこし潤んでいるような気がした。
にこは先ほどのライブを思い出して――小さくため息をついた。
「あの、次、いいですか」
控室の扉が開いて生徒が顔を出した。次に講堂を使うのだろう。
「はい、どうぞ」
にこは荷物をまとめてその生徒と入れ替わりに控室から出た。
講堂を出たところで、にこは人影に気付いた。詰襟の制服姿のその男子はもうおなじみで――。
「あんた、来てたのね」
「あ、ニコちゃん、待ってました」
山名の顔はいつものように嬉しそうで――にこは逆に心が痛んだ。
「……あんた、どうしてアンコールしないのよ……」
「え、アンコールって……?」
山名は首をかしげている。なにも知らないようだった。
「はあ、仕方ないわね……」
にこはまたため息をついた。そして、自分が普段通りの話し方をしていることに気付いて急に寂しくなった。
私ったら、どれだけショック、受けてるのよ……。
気を取りなおして山名に笑いかけるにこ。
「今日のライブ、楽しんでもらえたニコ?」
「はい、今日も素敵でした!」
「うふふ、ありがとう!」
「あの、サイン、お願いしていいですか」
そういって山名は色紙とペンを取り出した。
「……も、もちろんニコ」
にこは色紙を受け取ってサインをする。あれだけ練習したのに、いざサインをしようとすると手が震えた。そして。
「きみ、やまなくんって、漢字どう書くの?」
「えっと、戦国武将の山名で……」
「はあ?」思わず地が出そうになっていいなおす。「……あ、えっと、具体的には、どんなのかな?」
「野山の山に、名前の名です」
「はい。それで、ともやは……」
名前の漢字も聞いてにこは「山名智也くんへ」と書き添えた。
「ありがとうございます! 大事にします!」
山名は両手で色紙を胸の前に抱え、にこに深く礼をした。
「将来、きっと価値が出るわよ!」
「期待してます!」
そういって山名はもう一度礼をして走っていった。
その背中を見送ってから、にこは部室に向かって歩き出した。
今日のライブもいまいちだったけど、サインを頼まれたとき……あの嬉しさを知ることができただけでも、よかったのかしら……にこはそう思った。
その学園祭から一週間ほどあと。
放課後の部室の前で、にこはふたりのメンバーから退部届を受け取ったのだった。
「あの、悪いんだけど……学園祭のライブで、もうこれ以上は無理かなって」
「ごめんね、矢澤さん」
ふたりは済まなそうにそういった。
「いいのよ、仕方ないわ」にこは退部届を受け取って笑った。「……いままでありがとう」
「矢澤さん、頑張ってね」
「応援してるから」
ふたりはそそくさと去っていった。
にこは部室に入った。後ろ手で扉を閉めた。
ふたりに悪気はないのはわかっていた。むしろよくここまで付き合ってくれたと思う。
ただ……アイドルにかける思いが違いすぎただけ……なのよね……。
カーテンが閉められた薄暗い部室でにこはテーブルに手をついた。
嬉しいときにしか泣かない、そう決めたはずなのに――テーブルに涙がこぼれていくのを、にこは止められなかった。
・
スクールアイドルグループが活動休止になったあと、にこはそれでも早朝のトレーニングを続けていた。ただどうしても身は入らず、惰性で続けているといっても過言ではなかった。
その朝も、数回、男坂を上り下りすると息が上がってきた。にこはだんだんペースを落とし最後はゆっくりと歩くように上り終えた。
男坂の先の神田明神の境内。中学のジャージ姿の山名が、左手のほうから走ってくるのが見えた。気付かれずに去るのはもう無理な距離だった。
彼はにこに向かってまっすぐに走ってきた。
「おはようございます、ニコちゃん」
相変わらずの明るい声。
「おはよう」
にこは気のない返事で答えた。
「この前のライブ、よかったです。次も、頑張ってください!」
その言葉はにこの心に深く刺さった。にこは目を落として小声でいった。
「……次は、ないわ」
「えっ……」
「次はない、っていったのよ」
「それってどういう……」
にこは顔を上げて、きっと彼をにらみつけた。
「『らぶニコ♥エンジェルズ』は解散したのよ!」
思いのほか大きな声が出てしまう。
彼は目を見張っていた。それを見てにこは後悔に襲われた。しかし――もう取り返すことはできない。
ふたりともしばらく無言だった。
ようやく彼がなにか言いかけたが、にこはさえぎった。
「私はもう、アイドルじゃないわ……。さよなら」
にこは身をひるがえして男坂へ走った。
「ニコちゃん!」
呼びかける声が聞こえたがにこは振り返らなかった。
にこはその日でトレーニングをやめた。
・
あれから一年半。
山名は背が伸びて――にこよりも十センチは高くなっていた。いかにも子供っぽかった顔もかなりすっきりとして、まだ童顔ではあるものの誠実さを感じさせた。髪型がショートカットに変わったのもその印象を強くしていた。
なんか悔しいわね……にこはそう思った。
「トレーニング、再開したんですね」
「ふん、余計なお世話よ」
山名は、にこの言葉にも笑顔を崩さなかった。それがひどく大人びて見えて――にこはすこしどきっとしたのだった。