ときめきのアンサンブル ~ Story of Nico 作:Kohya S.
にこは一昨年の神田明神でのことを、最後に山名に会ったときのことを思い出した。
面と向かっていうのが恥ずかしくて目をそらす。
「その……あのときは悪かったわね」
「あ……僕、気にしてないです」
そう聞いてにこはすこしほっとした。山名に目を戻す。
「それより、あれから会えなくなっちゃって……。ときどき、神田明神に行ってたんですけど」と山名。
「……しばらく休んでたのよ」
「しばらく、ということは、再開するんですね!」
言葉尻をとらえられて窮するにこ。彼の目が面白そうに輝いていた。以前と同じ輝き。
「と、トレーニングだけよ」
「でも……今日はどうしてここで?」
「たまたまよ、たまたま!」
神田明神は
音ノ木坂学院では先日、二年生の
μ'sの最初のライブは「らぶニコ♥エンジェルズ」のライブと同じように悲しいものだった。にこには、彼女たちがものになるとは、廃校が阻止できるとはとても思えなかったが――それでも彼女たちのパフォーマンスと、なによりその前向きな心に、刺激を受けたのだった。
にこがトレーニングを再開したのもそれが理由だった。
「僕……まだ、ニコちゃんのファンですから」
山名はそういって笑った。
「そう……ありがと」
にこも笑みを浮かべた。彼の言葉は嬉しかったが――素直に喜んでいいのか、にこにはわからなかった。
「それじゃ、ね」
ばつが悪くなったにこは山名に手を振ってから、自宅のほうへ走り出した。
・
それから数日後。よく晴れて寒い日だった。にこはその日もトレーニングに出ていた。音ノ木坂学院のジャージにウインドブレーカーを羽織っている。
自宅から公園までは十分ほど。ゆっくりと走ってちょうど体が温まる距離だ。
公園ですこしストレッチをしてから、公園を出て駿河台のほうに坂を上っていく。犬の散歩をしている人や同じくジョギングをしている人とすれ違った。
すこし走って細い道へと曲がる。すると前方に階段が見えた。
この階段の名前も男坂というらしいが神田明神の男坂よりもすこしだけ長い。にこは一気に駆け上がった。
ここ数日、ようやく体が動くようになってきて、にこは嬉しくなった。
階段を登り切ると広い通りに出た。左折してしばらく走ると左手に今度は下り階段があらわれた。
にこは階段を下りていく。こちらは女坂というらしいが階段は男坂と同じくらい急だ。ただ途中で曲がり角があり、そこに踊り場がある。
ちょうど踊り場にさしかかったとき、ジャージ姿の若い男性が階段を上ってきた。にこはすこしよけてすれ違おうとして、その男が山名であることに気付いた。
そのまま行こうとしたのだが――彼のほうもにこに気が付いた。
「あ、おはようございます、ニコちゃん」
「おはよう」
にこは仕方なく足を止めた。
「がんばってるんですね」と彼は笑った。
「まあね。……それじゃ」
彼はなにか話したいようすだったが、にこは無視して再び階段を下り始めた。
女坂を下りてから左折して公園のほうに戻っていく。
途中、男坂へ向かう道への分岐点を通ると、そちらから山名が走ってきた。ちょうど並走するような形になる。
「どうも」と彼。
「またあんたね」
にこはそのまま走り続けた。彼は、にこのすぐ後ろをついてくる。にこは無言でペースを上げた。しかし彼は難なく追ってきているようだった。
なんか悔しいわね……。
すぐに元の公園についた。にこはいったん立ち止まる。山名も、にこのとなりで足を止めた。
「お疲れさまです、ニコちゃん」と彼。
にこは仕方なく会話に応じることにした。
「あんたも、トレーニングかなにか?」
「はい、体力を付けておこうかなって」
「ふーん、よくこのへんに来るの?」
「そうですね、うちが近いので」
なるほどね。
「とりあえず、それ、やめてくれる」
にこはぶっきらぼうにいった。
「え、それってなんですか」
「『ニコちゃん』よ。私はもう、アイドルじゃないんだから……」
「そう、ですか」
彼は悲しそうな顔をした。にこはすこし罪悪感を覚えた。
「じゃあ、ニコさんで……」
「なんであんたに名前で呼ばれなきゃいけないのよ。矢澤でいいわよ」
「矢澤先輩、でいいですか」
「そうね」
「……矢澤先輩、改めて、よろしくお願いします」
彼の顔に笑顔が戻ってきた。
「はいはい」
にこはすこし投げやりに答えた。
「じゃ、またね、山名」
「はい、矢澤先輩」
山名は手を振った。にこは公園から出て自宅に向かった。
にこは山名に会うのが嫌というわけではなかったが、いつか必ずアイドル活動について話さなくてはならないだろうと思うと、気が重かった。
ほかのトレーニング場所、見つけたほうがいいかもしれないわね。ここ、周回できて気に入ってたんだけど……。
・
翌日。ほかの場所に心当たりもなく、にこは再び同じ公園を訪れた。
公園には――山名が来ていた。ストレッチをしている。公園に入らずにそのまま坂に向かおうしたにこだが。
「あ、矢澤先輩!」
と声をかけられてしまった。公園へ入るにこ。
「おはよう」と答える。
「今日も早いですね」
「あんたもね」
にこは仕方なしにストレッチを始めた。
「あの、矢澤先輩……」と彼が話しかけてくる。
「なによ」
「その……」
にこの強い口調に彼は驚き、不安そうな顔でいったん目をそらした。しかし再びにこを見て小声でいう。
「アイドル、続けないんですか」
「アイドルね……」
やっぱり聞かれたわね。にこはそう思いため息をついた。そして近くのベンチに座った。彼もとなりに座る。
にこが怒っているわけではないことに気付いたのか、彼はすこし落ちついたようすでいった。
「……
意外な言葉が彼の口から出たことに、にこは驚いた。A-RISEは秋葉原の駅前にあるUTX高校のスクールアイドルグループだった。
「あんた、A-RISE、知ってるの?」
「はい、ニコちゃん……矢澤先輩のライブを見てから、スクールアイドルに興味が出て……」
「へえ、そうなのね」
にこが山名に目をやると、彼は遠くに視線を向けていて、その顔にはあこがれに近いものが浮かんでいるように見えた。
「今年の三人は……去年のメンバーより、ずっといきいきしてる気がします」
「そうね、同感だわ」
にこも遠くを見た。
私が目指していたもの……いまはずっと遠くに行っちゃったけど……。
「……それで今年は、スクールアイドルが盛り上がると思うんですよ」
山名の声に、にこは我に返った。
「はあ? そんなにうまくいくかしら?」
山名をにらみつける。彼は気にせず続けた。
「きっとそうですよ。それに……音ノ木坂学院にもアイドルグループ、できたじゃないですか」
「……よく知ってるわね」
「はい、動画とか、見てますから」
「ふーん」
「だから……矢澤先輩もμ'sに入って、アイドル活動、再開しないのかなって」
彼はまっすぐな瞳でにこを見つめた。その言葉は、にこの心にちくりと刺さった。
「……再開したからって、うまくいくわけないわよ」
にこは視線を落として小声で答えた。
「そんなことないですよ」
強い語気で山名がいった。びくっとして彼のほうを向くにこ。
「あ、ごめんなさい。……でも、おととしのライブ……あれが、僕の中に残ってるんです」
彼は真剣な表情だった。しばらく間をおいてから続ける。
「だから……考えてみてほしくて」
「山名……」
彼はそれ以上はいわなかった。
にこもなにもいえずベンチから立ち上がった。彼も立ち上がる。
「トレーニング、よかったら付き合いますよ」
「はあ?」
「だいたい、この時間でいいんですよね」
「……勝手にすれば」
彼はそれを聞いて微笑んだ。毎日、来る気かしら……とにこは思った。ただ……すこしだけ嬉しいのも事実だった。
にこは公園を出た。山名もついてくる。ふたりで坂のほうへと走っていく。会話ができるくらいのペースだ。
「矢澤先輩、意外に言葉遣い、悪いんですね」
「余計なお世話よ」
「でも、なんか……親しみを感じます」
「どういう意味よ、それ」
「可愛い感じがします」
「……ったく、上級生をからかうんじゃないわよ」
にこは顔が熱くなるのを感じた。これは照れてるんじゃなくて走ってるせいなんだから、とにこは自分にいい聞かせた。
にこはいつの間にか、ほかのトレーニング場所のことをすっかり忘れていた。
・
その日の夜。今日は母の帰宅は遅いようだった。弟妹を風呂に入れて寝かしつけ、にこはようやく一息ついた。
自室のピンク色のクッションに座り込む。周りには同じくピンク色の大量のぬいぐるみ。
にこは今朝のことを、山名のいったことを思い出した。にこの心に、もう一度アイドルとして試してみたい、その気持ちがないといったら嘘になる。
でも、いまさら再開したからって、どうなるっていうのよ……。
そして、μ's――。
先日の講堂でのμ'sのファーストライブがくっきりと脳裏に浮かんだ。
高坂穂乃果、
また、神田明神でトレーニングしていた姿を思う。最初はどこまで本気なのかと思っていたが――そのようすからは真剣さが伝わってきた。
彼女たちに、にこは一昨年の自分を重ねてしまうのだった。
にこは抱え込んだぬいぐるみに顔をうずめた。風呂上がりで束ねていない黒髪が大きく広がった。
μ'sに入れてもらう――もちろんにこはそれも考えた。彼女たちはきっと歓迎してくれるだろう。しかし彼女たちとは学年も違うし、にこには廃校への思いもそれほどない。
そしてなにより、自分の夢を他人に押し付けてしまうようで――もし彼女たちが本気でなかったなら、にこの思いはまた空回りしてしまう――にこはそれがたまらなく嫌だった。
私、どうすればいいのかしら……。にこは自問したが、答えは出そうにないのだった。
・
翌日。にこは母と弟妹が起きだす前にトレーニングに出た。
いつもの公園へ向かう。山名、来てるかしら……にこはそう思った。
「おはようございます、矢澤先輩」
公園につくと先に来ていた山名に声をかけられた。
「おはよう」
にこは短く答えた。
ふたりはそれぞれストレッチをする。
「先に行くわね」
「あ、待ってください」
にこが行こうとすると山名が呼び止めた。
「なによ」
「あの……矢澤先輩、なんのためにトレーニング、してるんですか」
「なんのためって、あんた……その……」
にこは言葉に詰まった。
「あ、ごめんなさい。そういう意味じゃなくて」
彼は頭を振った。
「体力を付けたいのはわかるんですけど……。持久力を付けたいのか、それとも瞬発力なのかなって」
「はあ? それがなにか関係あるの?」
「はい、トレーニングのメニューも変わってくるんです」
「なんか難しいわね……」
にこは考え込む。
「そうね、どっちかというと、持久力かしらね。長いライブでも平気なように……」
それを聞いて彼はにこっと笑った。失言だったわね、とにこは思った。彼はそれには触れずに続けた。
「持久力なら、階段の上り下りは、スピードを落とさないと」
「えー、なによそれ……」
「持久力には、有酸素運動を長時間続けるのがいいんです。駆け足で階段昇降すると強度が強すぎるので、無酸素運動になっちゃいます」
そういえば、なんとなく聞いたことがあるわね。
「私のいままでのトレーニングは無駄だった、ってわけ?」
にこはすこしふてくされる。彼はなだめるようにいった。
「いえ、筋力を付けるには階段もいいので……。AT値を意識して運動しないとダメなんです」
「なんか難しくなってきたわね……」
「まあ、部活の受け売りなんですけど」彼は頭をかいた。「……ちょっとメニュー、考えてみましょうか」
にこと山名はベンチに座った。
「矢澤先輩、最低心拍数、いくつくらいです?」
「そんなの知らないわよ。そもそも最低……なんとかってなによ……」
「えーとですね……」
しばらくにこと彼は話し合った。
ようやくトレーニングのメニューが決まる。
「……インターバルは週に二日にしましょう。それで、土日のどちらかはLSDをやってください」
「長距離をゆっくり、ね。最低一時間、だっけ」
「そうですね」
「ちょっと待ってよ」
にこはウエストバッグからスマートフォンを取り出して入力していく。
「……こんな感じかしら?」
のぞき込んでくる山名を制して、にこはスマートフォンの画面を彼に突き出した。彼がじっと読んでいく。
「……はい、いいと思います。でも……LDSじゃなくてLSDです。Long Slow Distanceなので……」
「う、うるさいわね。ったく、いちいち難しいのよ……」
にこは恥ずかしさを気取られないように急いで修正した。
しかし、こいつ妙に詳しいわね……。気になったにこは聞いてみる。
「あんた、なんでそんなに詳しいの?」
「中学校で陸上部だったんです」
「ふーん……」
今の陸上部は進んでるのね……。ん?
「中学校で、っていったけど、今は違うの?」
彼は目をそらしてすこし照れたようにいう。
「えっと、吹奏楽部に入りました」
「なんでよ?」
「さすがにスクールアイドルは、無理ですけど、音楽関係、試してみようかなって」
「はあ? それなら軽音とかのほうがいいんじゃない?」
「入部希望者が多すぎて、未経験者はダメだって……」
彼はにこのほうを向いて苦笑いした。
「あー、そうね……」
音ノ木坂でも似たような感じかもね……。でもこいつ、スクールアイドルで吹奏楽部って、よっぽど好きなのね……。さすがに私のせいだとは思わないけど。
「まあ、がんばってね」
にこはそれ以上理由は聞かなかった。
立ち上がってトレーニングを再開しようとして……まだ礼をいっていないことを思い出した。
「……その、ありがと、いろいろ考えてくれて」
「いえ、役に立ったなら、僕も嬉しいです」
彼の笑顔はいつも通り明るかった。
ふたりはトレーニングメニューのこなすために公園から出て、走り始めた。
・
「どこまで本気なのかしら、この子たち……」
音ノ木坂学院、アイドル研究部の部室。放課後、にこはμ'sのサイトをチェックしていた。
カーテンがすべて閉じられた室内は暗かった。ディスプレイだけが輝いて、にこの顔を照らしている。
にこはアイドル研究部の最後の部員で――必然的に部長だった。
μ'sにはその後、
サイトには六人が揃って笑っている写真が載せられていた。
その笑顔はにこにはひどくまぶしかった。
もし本気でないなら……アイドルをそんな甘いものだと考えるなんて、許せないわ。にこは最初そう思った。しかし、しばらくして本当の自分の気持ちに気付く。
……いえ、違うわね。もう、誰かに、私のような挫折を味わってほしくないんだわ……。
「やめるなら今のうちよ」
にこはサイトのコメント欄に辛辣な文章とともに「(((┗─y(`A´ )y-~ケッ!!」と書き込んだ。