夏だ。そう告げるかのように地から這い出たセミたちが煩い音色を日本中に響かせ、陽炎が揺らめく季節になった訳で、俺は授業に全くもって集中できずただ窓の外に目を向けていた。限界まで開けた窓から教室に入ってくるのは熱風ばかりで、風鈴でもつけたらある程度はましになりそうだ。そういえば今年の1月「今年の冬は長くなりそうだな」と嘆いた俺に対し、マリーが「その分だけ夏は暑くなるわよ」と言ったのを思い出したが本当にその通りだ。といっても未だ7月に入ったばかりで8月はこれより酷くなると予想される。
黒板の前ではワイシャツ姿の数学教師が背中を汗で濡らしながらいつも通り授業を進めていた。数学の授業では基本先生が幾つかの問題を出題し、手を挙げた生徒が黒板の前に出て解くといった流れだが
「それでは、この問題解ける人ー」
「はい!」
といった感じでケイ以外の生徒が手を挙げることはなかった。いつも通り数学の教師が「・・・じゃあ、宇佐見」と呆れ顔で指名して彼女は鼻歌を歌いながら問題を解くのだった。実際クラスの生徒は彼女に助けられている部分もあるが唯一ただ一人だけそれに納得していない生徒がいた。
「くっ・・こんな問題範囲に含まれてないのに・・・」
俺の隣の席の男子生徒が悔しげに机を叩いた。彼は学力学年成績7位にしてこのクラスの学級委員長である藤田マコトだ。確かに彼の言う通り先生はケイの学力に合わせた問題を出していて、俺たちがやっている範囲とはまるで違う。それが彼の学級委員長である自尊心が許さないのだろう。少なからず俺は彼に同情したのだった。
やがて問題を解き終えた彼女は先生から「合格だ」と言い渡されて満足そうに自分の席に戻るのだった。
昼になると薄くだが白色の雲が空を覆い、陽に当たらない分午前中より割と過ごしやすくなった。グラウンドでは既に昼飯を食べ終えた生徒たちが喧しい程に騒いでいた。その中にはケイの姿もあった。結局「生徒会長選挙には出ない」と言った彼女は男子数人とサッカーをしていた。そういえば一週間後の夏休み、そしてそれが終わった次の日、この学校では球技大会という所謂運動会的なものがあるのだが、彼女は女子サッカー、女子ソフトボール、女子卓球、女子テニスなどほとんどの球技にエントリーされている。ケイは小学校時代何をするにもノロマでよく一人後ろを歩いていたくせに今はその影すら感じさせない。でも彼女は例えるなら宝石の原石だったのだ。エジソンの幼少期の様に彼女には才能があったのだろう。運動、学力、人間性、今はどれにおいても豊かである。
「いや、学力はもともとあったなあいつ」
すると不意に扉の開く音がした。
「よう、マリー」
彼女は呆れ顔になりながらため息をついた。
「なんであなたこんな所にいるのよ」
俺は屋上にいたのだ。雪が溶け屋上に登れる様になったという理由もあるが、一番は人気が全くないからである。それにここは風通しがよく時折涼しい風が通り抜ける。
「もしかして探していたのか?」
彼女は頷くと俺の隣に腰掛けた。ふと弱い夏風が彼女の金色の髪とスカートを揺らした。ここの女子生徒の殆どはスカートを折って短くしているが彼女は逆だった。制服のスカートを継ぎ足しし、足首辺りまで長くしているのだ。彼女曰く「短くするのは下品だわ」とのことらしいが当然そんなことをするのは彼女以外に誰もいなくかなり浮いているが、もともと容姿からして目立っているし、どこか西洋風なドレスを連想させて似合っていた。先生も「別に短くしているわけではないから」とそれを認めていた。
「あなたっていつもここでご飯食べているの?」
クラスの違う彼女は休み時間に会うということはあまりないためお互い何をしているのかあまりよく知らない。
「まぁ、晴れた日はな」
マリーは俺の視線の先、見事PKを制して喜んでいるケイに目をやった。男子とガッツポーズを交わす彼女だが、彼女はそれ以上のことはしなかった。例えばハグしたり、間接キスなど男子からそれを要求してもケイが頷くことはない。人一倍異性との交流もあるが、人一倍距離感に敏感な彼女はちゃんと『してもいい』ラインを見極めているのだ。小学校の時だったか、俺がやんちゃだった時に珍しくスカートを履いていた彼女に「秘儀・スカートめくり!」などと馬鹿げたことを言ってそれを実行したら、彼女は恥ずかしさから顔を真っ赤にし部屋に閉じこもって涙を流していた。それ以来なのか、彼女は普段ジーンズやショートパンツにオーバーニーソックスなど肌が隠れるものを着ている。制服ではどうしようもなく彼女はスパッツを履いていた。つまり彼女に下ネタはタブーなのだと俺はその時深く反省した。
「来週から夏休みね」
「あぁ、そうだな。そういえばお前、帰るんだったな」
彼女は毎年夏休みにドイツに一時帰国することを条件に留学しているから、夏休み俺はケイと実質二人でいることになる。
「・・・大丈夫かしら」
「何か不安でもあるのか」
彼女は背凭れに寄り掛かると空を見上げた。
「不安があるというか・・・不安なことが起こりそうで不安というか」
「・・・複雑だな」
彼女は考えるように眉間にしわを寄せた。そして大きく息を吐くと立ち上がってフェンスに手をかけたのだった。グラウンドからケイの笑い声が聞こえる。
「ーーーヨリト」
「んー」
「私は・・・ケイを助けてほしいと思っているわ」
「・・・助けるって何をだ」
分かってはいるが『もう一人の俺』は分かろうとせずそんなことを言った。しかし彼女はそれに答えようとせず話を続けた。
「・・・でも私の中のもう一人の私は・・・それを望んでいない」
彼女は「最低よね」と自傷的に笑って見せた。
「今から言うことは本心じゃないから受け流して構わないわ」
本心じゃなかったらなんなのだろうか。
「変わることってそんなに大事?確かに今のままは嫌だけど、でも変わる方が私にとっては嫌なの。確かにそれで一人の人間は救われると思うわ。それでいいの。それでいいのだけど・・・」
一人の人間とは誰だろうか。彼女は自分に言い聞かせるように手を胸に当て苦しそうに「それでいいのよ」と言葉を繰り返した。
「あーあ・・・・最低だわ」
「マリー?」
すると昼休憩の終了を告げるチャイムがなり、彼女は深呼吸をして、俺の方へ振り返った。桃色の瞳からは強い決意のようなものを感じた。
「・・・ケイのことよろしく頼んだわよ」
セミの呻き声が、彼女の消え入るような声をかき消した。まるで彼女と会うのが今日で最後のように感じてしまった高校二年生の夏の日のこと。
悩みに悩んだ挙句、彼女は彼女の中の『自分』を殺すことを選んだ。