「おっと、懐かしいお客さんだ」
マッグカップを白い清潔そうなナプキンで磨いていたおじいさんはカウンターの席に座るように促した。
「頼途くんじゃないか」
「お久しぶりです。ここは相変わらずですね」
俺は店内を見回しながらそう答えた。お昼時を少し過ぎたためか客は俺しか居なかった。
「ははは。向かいのカフェにお客さんを取られてしまってね」
そうは言うものの、このヴェルトラオムの唯一の店主であり店員の大山おおやま俊彦としひこは悲しそうな顔は見せなかった。彼は昔からそれでいいのだと言った具合にひっそりと営業していた。
「今日は買い物でもしていたのかい?」
俊彦さんは珈琲を淹れながら俺の隣の席に置かれた買い物袋を見ながらそう言った。
「はい。ケイの誕生日プレゼントです」
今日は7月22日で彼女の誕生日でもある。俺は駅前で彼女へのプレゼントを選び、先ほどケーキを注文し、今はそれが出来るのを待っているというわけだ。俺がそう付け足すと俊彦さんは懐かしそうに目を細めた。
「なるほどね。あの子の誕生日か・・・」
あれ?彼は彼女に会ったことがあっただろうか。俺の知る限りではないように思えるが。
「春辺りだったかな。彼女はマリーお嬢ちゃんとここに来たのだよ」
彼は出来上がったばかりの珈琲を俺の前に静かに置くと、窓の外の様子を伺った。
「気づけばすっかり雪は溶けていた。私はあまり外に出ないから外の情報を知るには新聞とラジオ、それからそこの窓ぐらいしか情報を得れる場所がなくてね」
俺は珈琲を少し口に流して呆れ顔を作った。俊彦さんの珈琲は少しだけ苦い。いや、マイルドと表現したほうがいいのだろうか。それを口に入れるとコクと香りが波紋のように広がり、それでいて喉を通るとすっかり味が消えるのだ。
「それでよく生きていけますね」
でも確かに彼にインターネットなどは似合わなそうだ。
「だからこそ私は今を楽しく生きているのだよ」
「楽しく?」
「無駄なものは何一ついらない。知りたいことだけ知れれば、それは幸せだろう?」
「はぁ・・?」
俺は俊彦さんの言っていることが今ひとつ分からず曖昧に頷いた。
「そう言えば、ケイお嬢ちゃんが言っていた『後輩くん』って君のことかね?」
「え、あいつなんか俺の話でもしていたんですか?」
俺は思わず珈琲カップを置いた。
「君は彼女たちとはどんな関係なんだい?」
俊彦さんは少しだけ目を開けた。シワのある優しそうな顔立ちだが、彼の目は若い頃から変わりがないのか鋭く俺を捉えているようで、俺は少し気後れした。
どんな関係?そんなの・・・
「あいつらの生活を手助けしてる、家政夫・・・みたいな感じでしょうか」
「じゃあ仮に彼女たちに新しい家政婦が配属されたら君はどうなるんだい?」
「そ、それは・・・」
俺が言葉を詰まらせると、俊彦さんは一瞬にして元の優しい顔へと戻った。そしてLPレコードを走らせると滑らかな伴奏のパラードを流したのだった。
「・・・少しおじさんの長話に付き合ってくれないかね」
「は、はぁ。いいですけど・・・」
それは・・・とても権力のある家庭に生まれた一人の少年のお話だ。彼は自分の権力を自覚していた。いや、違うね。自覚せざるを得なかったんだ。何処に行くにも専属の使用人がついていて、世間から情の籠った目で見られることはなかった。学校では虐められるし、家では辛い英才教育が待っている。でもそんな中彼は唯一の生きがいを見つけた。ある日彼の学校には少女が転校してきたんだ。その少女は取り立てて美人という訳でも無かったがなぜか少年は幼心に一目惚れをしてしまった。
やがて少年は少女とよく遊ぶようになった。といっても彼は習い事があったし、使用人に監視されているから二人だけで居られる時間なんて大して無かったが、彼はそのほんの僅かな時間を大層喜んだ。少女の笑顔を見るたび、生きててよかった。なんて思ってしまって。少女も気づけば少年を気にし始めていた。
でもそんな幸せも長くは続かなかった。
四六時中彼女の事を思っていた彼は勉強に全くもって集中出来なくなり、彼の成績は瞬く間に落ちていった。それで親に気付かれてしまったんだ。彼女の存在を。
権力のあるその両親は、彼女の家庭に介入しようとした。しかし少年はなんとかそれを止めた。「もう絶対遊ばないからそれだけはしないで!」と。でも問題はそれだけじゃ無かった。
学校には彼女の悪い噂が流れ始めたんだ。「権力を利用している」「金につられた」「実は整形をしている」「援助交際をしていた」などと、根拠のない噂が広がったんだ。
そのうち少女は学校に来れなくなってしまっていた。嫌われ者の自分と一緒にいたせいでこんな事になってしまったと少年は少女を見捨てず、毎日家に行っては土下座して謝ったさ。
だけどまだだった。
まだ不幸は終わっていなかった。
彼女の家に行く様子が使用人にばれて少年の親に伝わった。そして権力にものを言わせて、彼女の家は引越ししなくちゃならなくなるまで追い込んだんだ。
結局、それ以来二人が会う事は無かった。
「・・・・胸糞悪い話ですね」
気づけばBGMのように流れていた心地よい音色は止まっていた。珈琲もすっかり冷えてしまって、酷く苦かった。あの暖かさはどこへ行ってしまったのだろうか。
「近づくならそれ相応の代価を支払わなければいけない。傷つけないなんて無理だ。どう頑張っても人間は生きてても、死んでしまっても誰かを傷つけてしまう。ただそれがどうでもいい人間だったら傷つけた事に気付かないだけなんだ」
「君にはその覚悟があるのかい?」
俺は何も言う事が出来なかった。
すなわちそれが、俺の答えだった。