「はぁっ・・・はぁっ・・・くそっ!」
運動不足で縺れる足に苛つきながら必死に走り、ようやくすいせい屋の看板が見えてきた。辺りは既に暗く、コンビニの光が町並みを安っぽく照らしていた。
「おばあちゃん!」
俺がすいせい屋の玄関の引き戸を思い切り開けると、中で新聞を読んでいたおばあちゃんがキョトンとした目でこちらを向いた。
「あらぁ・・・ヨリちゃん。よく来たねぇ」
そう言いながら微笑むと彼女は新聞を閉じて俺を招き入れた。でも俺はそんな場合じゃなかった。
「おばあちゃん!ケイがここに来なかったか!?」
するとおばあちゃんは「はて?来ていないねぇ」と首をかしげた。だとしたら何処だ。何処にいるんだ。俺がそのまま店を出ようとすると、
「まぁまぁ、あがってお行きよ」
彼女は急須から温かいお茶を入れた。
「おばあちゃん・・・」
「何事も焦っちゃいけないよ?」
「はいどうぞ」と湯呑みをレジカウンターへ置くと、俺を丸椅子に座るように促した。俺は仕方なくそこに腰掛けた。お茶は猫舌の俺には少々熱すぎたが、俺はそれを一気に飲み干した。すると幾分心に落ち着きが戻ったようだった。
「おばあちゃん、ケイが出て行っちゃったんだ。何処か心当たりはないか?」
「・・・それはヨリちゃんが一番分かっているはずだよ」
彼女はそう言って何処からともなくメガネを取り出した。
「これに見覚えはあるかい?」
それは今年の冬、ケイがおばあちゃんのために買った黒縁のメガネだった。俺が頷くと彼女はそれをこちらに渡した。
「かけてみなさんな」
そう言われるがまま俺はそのメガネを覗いた。すると視界がグラグラと歪んで見えた。なんだこれ、度が強すぎて逆に何も見えないじゃないか。
「ヨリちゃんは、目が良すぎるんだ。そのせいで、見なくていいものばかり見てしまって、見たいものは見れてないんじゃないかね」
「見たいもの・・・?」
「そのメガネをかけて、たった一つ見えるものがあるでしょう?」
そうか。俊彦さんの言っていた「無駄なものは何一ついらない。知りたいことだけ知れれば、それは幸せだろう?」とはきっとこういう意味なのだ。
「・・・見えたよ。おばあちゃん」
「・・・そこにケイちゃんはいる筈だよ」
俺は、そのメガネをおばあちゃんに返すと、彼女はそれをかけていつか見たあの暖かい笑顔を作った。
「おばあちゃん、ありがとう」
「行っておやり。きっと、待っているよ」
俺はすいせい屋を飛び出して、また走り出した。
なぜ俺が氷帝アイスエンペラーの本を読んだのか。大好きだったスズネに勧められたから?それは違った。その本の主人公に憧れていたからだ。氷の使い手であるアイスエンペラーは触れた相手を傷つけてしまう、愛を知ったら溶けて消えてしまう。
それでも、それでも彼は大切な人に近づいた。それは覚悟があったからなのだ。相手を傷つけてまで、自分の身が消えてしまおうと、愛しあえる覚悟があったから。そして幼い時の俺はその覚悟に憧れていた。
「俺とケイは友達にはなれない」
そんな筈がない!俺はきっと怖かったのだ。友達として近づいて壊してしまう事が、他人として離れすぎて忘れられてしまう事が。
「後輩くん。私もマリーちゃんも料理できなくてさ、家事もあまり上手くないから、後輩くんがいなくなると困っちゃうんだ。だから、だからその、『お手伝いさん』として一緒に過ごしてくれないかな・・・」
だから俺は彼女に無理やり『友達じゃなくても一緒に居ていい』口実を作らせた。
「こ、後輩くん!」
「は?」
「ほ、ほら、中学生っぽいでしょこの呼び方!私のほうがちょっとだけ誕生日早いし・・」
そしてそれは俺ではない『後輩くん』という誰かの所為にした。彼女が落ち込んでいた時も、一人隠れて泣いていた事も全部分かってくせに、それは後輩くんという俺じゃない誰かの仕業にして逃げていた。俺には大切な人を傷つける覚悟がなかったから。
「・・・人間そう簡単には変わらないんだ。根本的なところは何にも変わらない。ただ、価値観はすぐに変わるから、俺はケイを変えるんじゃなくて、周りの人間を変えた。俺とケイの価値観を入れ替えた」
そんなのは嘘だ。実際俺はケイ自身を変えてしまったのだ。『私の所為で後輩くんはーー』と責任を勝手に負わせてケイが逃げないように羽交い締めにしていただけだ。
最低だ。後輩くんは最低な人間なのだ。
でも、でもそんなの・・・。
全部俺じゃないか。
「くそっケイ!ケイーッ!」
やがて港が見えてきた。