いつだったか、私が一人で落ち込んでいた時彼に連れてこられたセリオンタワーの足元、港にある古ぼけたベンチに私は腰をかけていた。日本海は相変わらず他人事のように静かに白波を立たせながら満月を移している。仮に落ちると、どこまで引き込まれてしまいそうな・・・まるで大きなブラックホールのようだ。
私の心もそれと同じようだった。薄暗く、冷たく、酷く静かで冷酷という言葉が似合いそうなその海のように満月になる光こそないものの、私の心は情というものが消えていた。昔の私に戻ったみたいで不幸にも居心地が良かった。
乾いた潮風は濡れた私の頬に弱く突きつけ、まるで私に同情しているようだ。
そして闇が覆う天を見上げると空には気まぐれな間隔で彗星が流れていた。
まるであの日のようだ。
「宇宙そらが泣いてるみたいだね」
私は後ろで黙って息を荒げている彼にそう言った。
走ってきたのだろうか。何を今更。
「ケイ・・・俺・・・」
ねぇ、後輩くん
「流れ星にお願い事をすると叶うって言うけれど・・・じゃあ流れ星の願いは誰が叶えてくれるのかな」
「・・・ケイ」
彼は残念そうな顔をした。もう見なくてもわかる。今までずっと見ていたから。その彼は私の隣に腰をかけた。
「・・・来ないでよ」
どうしてそんな事を言ってしまったのか分からない。しかし彼はそんな事聞こえなかったかのように顔を上げると黙って星を見ていた。
「これは約束じゃない。僕の願いだ。・・・って覚えているか?」
覚えている。いつか彼が言ったセリフだ。
「知らない、そんなの」
彼は少しだけ悲しげに微笑むと「そうか」と言っただけだった。
『いつか君が私を思い出したら、どうか悲しまないでくれ。私は君の悲しんでいる顔を見ると悲しくなってしまう。つまり、私はこの身が溶けて消えてしまっても君の事を見守り続けるという事だ。元々この体では君に触れる事もままならないし、今までと何も変わりはしない。ただ姿が見えなくなるだけだ』
みると彼は目頭に涙を溜めながら思い出すように暗唱していた。
『覚悟とは、脆く儚いものだ。まるで私のように。今こそ覚悟はあるが、いつかそれにヒビが出来てしまうかもしれない。悲しいときは泣いても構わない、悔しいときは怒っても構わない、でも、時々でいいから幸せそうに笑ってくれ。そして私の覚悟を厚く手当てしてほしい』
知っていた。私は彼が言う氷帝アイス・エンペラーという本がどんなものか興味を持ち古本屋で見つけて読んだ記憶があるのだ。
「これは約束じゃない。私の願いだ」
彼がいつか言ったセリフの本当の意味が明かされた。
「・・・パクリ」
「う、うっせ」
彼は言葉を短く切ると、徐に立ち上がった。
そして彼は深々と頭を下げた。「ケイ、悪かった」と付け足して。
「俺はお前と離れたくなかった!・・・小学校も中学校も高校でも、気づけば俺はお前を目で追っていた」
「こ、後輩くん・・・」
「でも」
でも、そんな自分が大嫌いだった。お前を追う度、俺は近づいていくようで怖かった。近づいても傷つけそうで怖くて・・・離れたくもなくて・・・。
「だからケイ、俺は・・・後輩くんは・・・お前が思っているほど、良い奴じゃない。最低で最悪で・・・」
彼は涙を零しながら自分を責めるように拳を握った。彼の泣いている姿を見たのはいつ以来だろうか。・・・そうだ、私のお父さんが亡くなった、あの日以来だ。
「・・・ううん。後輩くん、私言ったでしょう?ごめんねって」
彼は悪くない。彼はいつだって一生懸命だった。今の現状を、私たちが幸せに暮らせる方法を第一優先に考えているのは痛いほど分かっていた。私はそれに甘えていたのだ。
親がいなくて恵まれていないのは同じなくせに私は偽りの自分を守る事で精一杯だった。後輩くんとなら私は本当の宇佐見ケイでいられる気がした。
だから「汚れた関係でも」と最低な事を言って何としてでも彼と一緒にいようとした。そんな関係じゃ意味ないのに、私はどこかで本当に欲しかったものを見失っていたのかもしれない。
・・・・だから・・・だから!
私はふらふらと立ち上がると彼に背を向けた。もう彼の顔を見る事も見られる事も出来ない。私はきっとずっと、一生こんな性格なのだ。昔彼が言っていた『人間そう簡単には変わらない』、その言葉の重みがやっと分かった気がした。私は何もかも知るのが遅すぎたらしい。
私がそう言うと彼は大きく息を吸った。
「だ、だったら変えてやる。俺がもう一度変えてやるから・・・・だから、お願いだから、行かないでくれ・・・頼む」
酷く弱い声だった。「藁にも縋る」という言葉のようには行かず、藁にすら縋れなかったような、空虚な声だ。でも、もう彼の方を振り向けない。
ねぇ、後輩くん。
「私もう分かんないのっ!これ以上後輩くんには迷惑はかけられないよっ!・・でも離れたくない、離れたくないの・・・。本物の私はどっちなの!?本当の私はどうしたいの!?」
・・・・ケイ。
「・・・後輩くん?・・・・だれだよそれは」
・・・・俺は
「後輩くん?」
「俺は・・・俺は森野ヨリトだっ!!」
次の瞬間、彼は闇の中に消えた。それと同時に吹き上がる水しぶき。
彼は海の中へと落ちた。
「ヨリト!?ねぇヨリト!!」
しかし返事がない。
どうしよう、と思う暇もなく私が次に瞬きした時には既に暗い水の中にいた。
「んんんーっ!!(ヨリトーッ!!)」
必死に辺りを見回しても、まるで輝く星一つない宇宙のように得体の知れない闇が目の前を遮った。水の刺すような冷たさが肌に纏わり付き、どんどん深く、深く沈んでいく。
「ん・・・」
私は静かに目を閉じた。このまま私が深く吸い込まれていって消えてしまったら、この罪悪感は、この想いは溶けてくれるだろうか。粘土のように重い水がもう休めと言っているように私の体を包んだ。
ふと、片手に火傷してしまうほど暖かいぬくもりを感じた。
彼の手だ。あの時、闇の中で独り体育座りして泣いていた時、私を引っ張ってくれた時のように、彼の手は私の手を確かに掴み、光へと向かった。
「ぷはっ!ケイ!おいケイ!大丈夫か!?」
彼は私の肩を揺らした。
「よ・・・ヨリト・・・本当にごめんなさい。ごめんなさい」
罪悪感は消えなかった。凪いだ感情が荒波のように押し寄せ、ちっぽけな防波堤を押しのけ、口からどんどん溢れ出てしまう。そして、想いも消えなかった。
「私、ヨリトと離れたくないよお・・ずっと・・ずっと一緒にいたい・・」
彼の名前を最後に呼んだのはいつだろうか。
そんな私に彼は何も言わずに、ぎゅっと両腕で覆いかぶさるように抱えた。
夜の日本海で私たちは力なく浮かびながらずっと抱きしめ合い続けた。
「ケイ、どれが本物だろうが、どれが偽物だろうが、俺はどっちだって構わないんだ。お前はこうして、ずっと俺のそばに居てくれたじゃないか。サンキューな」
「ヨ・・リトっ!ヨリトぉっ!私・・・ヨリトに・・・」
「・・・怖がらなくて大丈夫だ。いつか俺たちで本物を探しに行こう」
これは願いじゃない。
約束だ。
あの時消えたはずの儚い彗星は、再び光を灯し、懐かしい笑顔を輝かせながらこう言うのだった。
「・・・うん!約束だよ、ヨリト」