「きょ、京子!京子!」
親戚の人たちが丁度病室を後にした頃、入れ替わりになって久美が駆け入ってきた。仕事帰りに真っ直ぐ来たのかスーツ姿の彼女は息が切れている。
私は未だ流れていた涙をハンカチで拭うと、今はもう白々しい笑顔を浮かべた。彼女はそんな事は御構い無しに私にしがみついてきた。
「・・・ちょっと、久美が泣いたら意味がわからないじゃない」
私は思わず苦笑いを浮かべると彼女を丸椅子へ座るように促した。
「・・・大丈夫なの?京子は」
「・・・うん、もともと海都はこうなる覚悟で抗がん剤治療は受けなかったし。彼が望んだのなら仕方ないよ」
私の夫である宇佐見海都は病院でちゃんと入院して治療を受けていたらあと2年は延命できたそうだ。でも彼は妻である私と、娘である慧と少しでも心配させない方を選んだ。私はまるでただ眠っているかのように幸せそうな顔をしている彼の手を握った。もう人の手とは思えないほど冷たく重くなっていた。
「海都くん・・・。・・・慧ちゃんが泣いていたよ?ちゃんと見守ってないとダメだからね」
私の気持ちを彼女が代わりに言葉にした。そしてしばらく海都の顔を見つめていた久美は不意に窓の外の景色に目を移した。今年は例年に比べ降る雪の量が多く、海都が家で倒れた時も救急車の到着が少し遅れたのだ。
「京子はこれからどうするの?」
彼女は窓の外の夜景を眺めながらそう聞いてきた。
「私も慧を養うために働かないと。ジャーナリストを目指してみるつもり」
私はその職に特に興味があった訳ではなかったが、海都は癌が発症する前から「ジャーナリストは小さい頃からの夢だった」と宣言していて、その夢を私が彼に変わって叶えてあげたかったのだ。
「で、でもそしたら慧ちゃん一人に・・・」
親戚からも同じことを言われたため、彼女がそう反応するのは予想内だ。
「紛争地域での活動ならお給料も良いし・・・いつか安定して生活が送れるようになったら帰ってくるから」
「京子の家は京子自身が決めることだし、私はもうそれ以上言わないけど・・・困ったらいつでも言ってね」
「ん、ありがとう」
ふと、病室にノックの音が響いた。入ってきたのは森野さんだった。
「こ、この度は・・・御愁傷様です・・・」
「いえ、こちらこそ夜分遅くに申し訳有りません。あ、頼途くんのお迎えですか?」
私がそう言うと深々とお辞儀をした彼女は頭を上げ小さく頷いた。
「いきなり家を飛び出すものだから、何事かと・・・」
きっと慧が彼にメールをしたのだろう。
「頼途くんなら廊下にいる筈ですよ」
すると彼女は一瞬悩んだ素振りを見せ、
「あの、先ほど親戚方のお話を小耳に挟んだのですが・・・」
「?」
「も、もし良かったら私が慧ちゃんの御世話をしましょうか・・・そ、その家も隣ですし・・」
あぁ、きっと私が家を開けなければならない事を知ったのだろう。
「でも森野さんのお家も忙しいでしょう」
「いえ、家事ぐらいなら・・うちの息子も喜ぶと思いますし」
「・・・お願いしたら?」
久美は私の顔を伺う。本当は家政婦に頼もうと思っていたのだけれど、知っている人の方が私も安心できるし慧も頼途くんと遊べて嬉しいだろう。私は精一杯の笑顔を見せると小さく頭を下げた。
「それでは・・・お言葉に甘えさせていただきます」
「いえ、慧ちゃんの事は任せてください!」
彼女は顔を輝かせると「それでは」と病室を後にした。
「・・・良かったね。鈴音も時々頼途くんと遊ぶんだけどあそこのお家はやさしーって評判良いの」
「本当・・・周りに優しい人が沢山いて良かった。きっと慧も喜ぶよ」
*
「ねぇママ。マリーもうお家に居たくない。どうして外に出たらいけないの?」
「ダメよ。外は危険すぎるわ」
私がそう言うとドレス姿のマリーはとても残念そうな顔をした。
「いいじゃないか、パトリシア。世の子供はそろそろ小学校に通う時期だぞ」
「小学校!?行きたいっ!」
夫の話が耳に入ったのかマリーは顔を輝かせた。
「ダメよ、ダメ。また新しいゲーム買ってあげるから。ほら、良い子だからもう寝なさい」
マリーは素直に「はーい。パパ、ママ、おやすみなさい」と返事をして熊のぬいぐるみを抱えると自室へと戻っていった。
「はぁ・・・パトリシア、君は過保護すぎるよ」
「ハルオミにはあまり実感がないのかもしれないけど・・・私たちの家系は貴族の家系だったの。今はその血は薄れつつあるけど、当時の傷が癒えているわけではないの。ベルリンの壁、あなたも見たでしょう。私はあれを見るたび怖くなるの」
彼は私の話に時々相槌を打ちながら真摯に最後まで聞くと、赤ワインを一口口に含んだ。
「分かっているよ。君の言う『傷』というのは資本主義国だった時の傷だろう。今はもう民主主義といえど確かに市民からは今も冷たい目で見られる事はあるだろう。でもこのままで良いわけがない。彼女だって貴族の末裔である前に一人の女の子だ、ずっと家で一人遊びなんて可哀想じゃないか」
私だってそれはわかっている。あの子には同じ年頃の子と一緒に勉強して欲しいし遊んで欲しい。でも彼女がいじめられるのだけは嫌だった。なにも悪くない彼女が。
私は窓から見える今はもう破壊されたベルリンの壁を見ながら一粒涙を流した。私たちの祖先が如何に酷いことをしてきたのか。そして今、そのせいでマリーが苦しめられている。
一度出来た傷は、なかなか癒えないのだ。