昨日の遅れを取り戻すかのようにお日様が地を照らし続け、昨夜敷き詰められた白銀の絨毯が少しづつ溶けていく正午、私とマリーちゃんは市内の商店街に足を運んでいた。気温こそ冷たいものの午前に比べ北風の勢力が弱くなっているようにも思える。そのこともあってかマリーちゃんはきつく巻いていたざっくりとした網目の淡い桃色のマフラーを少し緩めた。
「ったく、面倒臭い天気ね」
彼女はそういうけど、時々凍えるほど寒かったり、ポカポカする陽気が差し込んだりするこの気候はマリーちゃんの性格によく似ていると失礼ながら思ってしまった。
「あ、そこのカフェテリアでお昼ご飯食べよっか」
私が横断歩道の先に見える小さな喫茶店を指差すと1組のカップルが店を出てきたところだった。この喫茶店は秋田プリンスホテルの1階と合併していて、結構歴史のある店なのだけどいかんせんあまり人気がない。その理由、というか言わば原因はその真正面にあった。
「カフェに行くのなら、ここのスタバでいいんじゃないの?」
高校生とか家族連れの客は皆こちらへと流されてしまうのだ。私は「いいの、こっちの方が」とだけ言うと丁度青い光を点灯した横断歩道を渡った。ふと信号待ちをしている黒いワゴン車に乗った30代ほどの男性の視線がマリーちゃんを追っていた。彼女はもともと可愛いしやっぱり目立つのかもしれない。私はそれに少し気分を沈めると彼女の手を引っ張って無理やり喫茶店の中へと入った。
「?いきなりどうしたのよ」
「そこに座ろうよ」
私たちはカウンターの真ん中へと腰掛けるとメニュー表を広げた。店の中には私たちしか客がいなく、そんなことは関係ないといったように落ち着いたベージュのシャツを着飾ったおじいさんがマグカップをキュッキュと拭いていた。マグカップに書かれている黒猫がこちらを見ると小馬鹿に笑ったような気がした。
「おやおや、お嬢さん二人とは珍しいお客さんだ」
おじいさんは私とマリーちゃんを交互に見るとにこりと微笑んだ。だけど言葉に反してさほど驚いた様子はなかった。
「サンドウィッチとホットミルクティー」
特にメニューを見ずにマリーちゃんは淡々と注文した。
「あ、じゃあ私はサンドウィッチとミルクコーヒーでお願いします」
するとおじいさんは先ほどまで拭いていたマグカップを食器棚に戻すと冷蔵庫からレタスやらの食材を取り出し慣れた手つきでサンドウィッチを作り始めた。今まで気づかなかったけれどよく耳をすませば店内にはジャズが流れていた。私はそのジャンルの曲はあまり聞かないけど思わず体をスイングさせてしまいそうな、なめらかなリズムのパラードだ。窓の近くには暖炉が設備されていて時々鳴る火の弾け飛ぶようなぱちっという音が何故だか安心感を煽っている。
「・・・私の家の近くにもこんな感じの喫茶店があったのよ。少し懐かしいわ」
マリーちゃんは買い物袋を隣の席へ置くと頬杖を付き、足をぶらぶらと遊ばせた。
「家の近くってドイツの?」
マリーちゃんはジャズに耳を傾けながら頷いた。すると気づけばすでに私たちの前にはサンドウィッチとそれぞれミルクコーヒーとミルクティーが出されていた。
「昔パパと一緒にいったの。当時外出はあまり許されてなかったけど、その日は特別だって。そしてこうしてサンドウィッチを食べたの」
そう言って彼女はそれを頬張った。そしてしばらく咀嚼した彼女はふと微笑んだ。
「ほら、味まで一緒だわ」
「・・・・ヴェルトラオムかね」
使用済みの包丁を優しく洗っているおじいさんがそう言った。マリーちゃんが「おじさん、知っているの?」と驚いた表情を見せた。すると淡白な女性の歌声がひっそりと聞こえてきた。ジャズのパラードがサビの部分に入ったようだ。
「ヴェルトラオム?」
「ドイツ語で宇宙って意味よ」
私が首をかしげるとマリーちゃんが補足した。彼女に限らずドイツ語なら後輩くんに聞いても多分彼は答えられるだろう。おじいさんはお皿洗いを中断すると純白のナプキンで手を拭いた。
「やはりそうだったか・・・。むかしお嬢ちゃんたちを見かけたような気がしたからね」
彼は遠い過去を思い出すかのように眼を細めると壁に立てかけてあるアンティークな古時計を見つめた。
「私がまだ若かった時、ドイツで修行をしていたんだ。といってもほんの10何年か前さね」
「あの、でも私はドイツに行った事がないので・・・」
私がそう言うとマリーちゃんはミルクティーを一口飲んでほうっと大きく息を吐いた。
「私がヴェルトラオムに行った時、パパの他にもう一人女性がいたわ」
「え?」
「ケイのお母さんよ」
「わ、私のお母さんがどうしてそこに?」
しかし彼女は首を横に振った。
「当時はサンドウィッチに夢中でそんなことは全然気にしなかったわ」
するとおじいさんはハスキーボイスではっはっはと声を上げた。
「きっとその運命からは抗いようがないんだね。お嬢ちゃんたちは出会うべくして出会った。そういうことさね」
「『マスター』も、ね」
マリーちゃんはそう言って少し口端を上げて見せた。
「・・・やめておくれ。今はもうこんな古ぼけた店で静かにコーヒー沸かしてる普通のおじいさんだ。それにしても、向かいにできた新しい喫茶店じゃなくて、こんなところに来るなんてお嬢ちゃんたちは面白いね」
それを聞いたマリーちゃんは私の方を向いた。彼女がこの店にしようと言ったのよと言っているみたいだ。
「お嬢ちゃんは、お嬢ちゃんのお母さんにそっくりだ」
「私が・・ですか?」
「あぁ。あの人はジャーナリストなんだよね。私がドイツで店を開いていた時もわざわざ私の店を記事に載せたのだよ。他に真っ当なネタなんていくらでもあったのに、彼女は真っ直ぐな眼をしていた。他のものに流されない、自分の世界をちゃんと持ってる真っ直ぐな眼だ」
それを聞いた私はなんだか心が洗われていくような気がした。それと同時になぜか今の自分が否定されている気持ちに苛まれたのだった。
自分の世界・・・・。
「マスター・・・今の私、間違っているのかな」
私は思わずそんな事を呟いてしまった。言ってからしまったと後悔し、おじいさんの耳に届いていないように願ったがどうやらしっかりと聞き取ったおじいさんは窓の景色に目をやった。ふと見ると小学生くらいの子供たちがはしゃぎながら歩道を歩いているところだった。5人ほどのグループだけどその中の1人だけ孤立していて楽しそうに駄弁っている4人の後を俯きながら歩いていた。
「・・・ケイちゃん・・・といったかね」
「・・はい」
「君は不思議な子だ。本当の自分を偽りの自分で隠している」
「っ・・・おかしいな。他の人にばれちゃった事・・・ないんだけどな」
私は「ははは」と歯を見せたが、それは鏡を見なくてもわかるぐらい笑えていなかったと思う。作り笑顔だけはちゃんと練習したのに。
「・・・って君は思っているのだろう。でもそれは違うよ」
「え?」
そう言うとマスターは私たちが食べ終えた小皿を片付け始めた。
「君は君だ。君が本当の自分だと思っているものも君だが、それと同じように偽りだと思っている君も・・・君の一部なんだよ。否定してはいけない。偽りをたまには慰めておやり。偽りなんてないのだから」
その言葉についに私の化けの皮が剥がれてしまった。
「そ、そんな・・・そんな訳ないっ!!」
「ちょっとケイ!!」
マリーちゃんが私の腕を掴んで静止させようとするが私自身止まらないと諦めていた。こんな事、1人以外ではなった事ないのに。
溢れ出した涙も止まる事を知らずに黒塗り漆器のカウンターへとぽたぽたと落ちていった。私はただただ自分の腿を叩いた。叩くことで少しは自分を痛めつけたかったのだ。
「私は後輩くんのそばにいたかった!私は後輩くんに見合う女の子だって周りに思い知らせたかった!だから私は無理をしてまで根暗で陰湿で、気持ちの悪い本性を隠した!それでやっと・・・やっと後輩くんのそばにいられると思ったのに・・・・思ったのにぃっ!!」
私は後輩くんから『友達』を奪ってしまった。後輩くんから『居場所』を奪ってしまった。
「認めたくないっ!こんな最低なのが私なんて!」
「後輩くんを不幸にしたのは私じゃなくて、ニセモノのーーーー」
「君だよ。全部君だ」
マスターは臆することなく柔らかい言葉でそう紡いだ。その言葉は優しくて温かい筈なのに、まるで冷酷で無機質な隕石のように私の心に衝突すると大きな衝撃を与えたのだった。
「嘘だっ!」
「ちょっとケイ!いい加減に・・っ!」
私は庇うように胸を押さえると腕を掴んでいるマリーちゃんの手を振りほどいて喫茶店を飛び出した。
赤色に光る信号を無視して道路を横切ると私は近くの公衆トイレに駆け込んだ。
「最低だ最低だ最低だ最低だ最低だ最低だ・・・・」
壁に掛けられた鏡に映る自分は、瞳孔が開き、得体の知れない何かに怯えきっていた。
「違う・・・最低なのは私じゃない・・・私じゃないよ」
静かにそう繰り返して深呼吸をする。
「最低なのは・・・ニセモノだ」