男は目が覚めた。漠とした感覚は、やがて明瞭なものへと移り変わる。
ついと首をもたげると、痛みが全身を駆けずり回って、何とも奇怪な重みに違和感を覚える。
「痛みが酷い」
意識ばかりが嫌に快暢なため、止むことのない苦痛は層一層と激しくなる。
ぼやける目をひらくと咫尺を弁ぜぬ闇が映るのみだった。目が翳んでいるわけではなく、黒暗々は紛れもなく本物だと分かる。
―どうしたものか。家に帰って熟睡したら白昼夢ならぬ黒夜夢を見ている、何てことはないよな。だからと言って明晰夢もありえない。
―とりあえず、ここがどこかを調べてみるか。
自らの冷静さに嫌気が差しながら、一策を講じるために相変わらず鈍重な体を動かそうとして、頭の上が不自然にうごめくのを感じた。
―ん?んん?んんん?
眼球を上に向けると何らかが垣間見え、それが指だと分かるのに時間はかからなかった。次は下に向けると、およそ膨らみと言えるものがなく、平らかな皮膚があるばかりだった。
体の変化をうろたえる素振りすら見せず、身に起こった事柄をたよりに曖昧模糊とした記憶をたどりながら慮る。
ふと思い当たる節があったのか、何かを察した面持ちで外面的には見取れない口から一言だけもらす。
「成る程、ペルニダ・パルンカジャスか」
男が昨夜読んでいた漫画、BLEACHの70巻にそう名乗り出たものがいたのを思い出した。
ペルニダ・パルンカジャス
滅却師の王であるユーハバッハに隷する見えざる帝国。その中でも銓衡を通り抜け、選ばれた者だけが星十字騎士団と呼ばれる精鋭部隊へと移される。星十字騎士団は各々がアルファベットを冠しており、ペルニダはCの字に位していた。彼のもつ力は強制執行と名付けられ、神経を介して有機物・無機物を問わず折り畳み、人体に通わせると仕舞いには血溜まりだけが残る。約めて言おうと、残虐極まる力に違いなかった。
男は心中をおしはかる癖がついてたせいで、このような渦中に居ながらも、己を客観的に捉えようとしていた。現に自らを相して、冷静沈着な快楽主義者と判じていた。
―問題は何で俺がペルニダに化けてこんなところに迷い込んだのかだが、これに関しては輪廻転生なりで結論付けるとしよう。腑に落ちないが致し方ないな。
―続いて体に異常がないかを確認したいが…こればかりは自分の体でないため、俺がもつ知識と照らし合わせるほかないだろう。
再び、男は思考の海に飲み込まれていく。
ペルニダ・パルンカジャスの正体は霊王の左腕だ。右腕が静止を司るのに反して、左腕は前進を司るものだった。事実、彼は作中でも神経を介して敵の能力に関する情報を吸いあげ、解析・反映することにより、理論上は無限に進化することができる。高性能な学習装置とも取れるこの力こそが、彼の真骨頂である。
自らの知識と肉体に齟齬がないかを確認すべく、形振り構わずに体全体を動かそうと試みた。じたばたと土埃を舞わせながら暴れると、全身が揺れるのに呼応して地も波打つ。
しばらくすると、中指の先から細い神経がほとばしった。それをきっかけに男が動きを止めると、糸は中指にしなだれかかる。
「これを五指から出して、操りきるのを目標とするか。何がいるかも分からないからな。動かないのが得策だろう」
呟いたのち、親指・人差し指・薬指・小指と順々に糸を出そうと体をひねりはじめた。
*
黒一色にそめられた洞窟を、氤氳とした夜気がつつみこむ。中にひそむものにとっては知る由もないが、地上では太陽が沈んでいた。
「こんなところか」
時々刻々と辺りが変わりゆく中、男は五指の神経を、物の見事に操れるまでに及ばせていた。額ではなく手のひらに汗をたらす。めまじろぎ旁々一呼吸を入れると、転瞬の間に乗じてか否か、男が中心になるかたちで、目を光らせる不気味なものが取り囲んでいた。
「―――これはまた、随分と醜い生き物だな」
それがゴブリンだと男が分かるはずもないが、傴僂になって手をつきだす、その動きだけで害を及ぼすものだと解した。
「今の俺と干戈を交えたいのか?不心得も度が過ぎるな。丁度良い。俺も技癢を嘆いていたところだ。菽麦を弁ぜぬほど愚昧な諸君に、このペルニダ・パルンカジャスが蒙を啓いてやろう」
どことなく悟り澄ました顔付きで、ないはずの口を綻ばせて淀みない弁舌をふるう。その挑発に応えるようにゴブリンの群れも猛りたつ。互いを鼓舞することにより意気相投じると、今にも襲いかからんとする雰囲気をかもしだす。耳をつんざく雄叫びが重なりあって鬨の声となり、戦いの幕を切って落とそうとしていた。
束の間の出来事だった。
音もなく一縷の縒り糸が壁から顔をのぞかせ、群れの外側にたたずむゴブリンの盆の窪に入りこむ。身に危機が迫っているにも関わらずゴブリンは呆然としており、瞬時に四分五裂した糸がゴブリンの体内をめぐりめぐって全身にゆきわたる。
「ギッ―」
言葉を紡ぐことすら許されない圧倒的な力を前にして、なす術もなく十把一絡げに数えられる腥羶に成り果てた。ほかのゴブリンですら何が起きたのかも解せず、驚きを隠しきれないでいた。
ただ中心にたたずむペルニダだけが、二つの瞳孔をぐるりと回しながら歪ませていた。
「ゆるん」
左腕は指をもたげて、静かに爪の先から神経を仄めかす。
「ゆるるるるるるるるるるんっ」
奇妙な叫びを上げながら、ペルニダは五指から伸びた神経をゴブリンの群れへと向かわせる。関節を曲げることにより鞭のごとくしなやかに振るわせ、ゴブリンへとの間は狭まる一方だ。
元よりひよわなゴブリンは小柄な体を酷使することで、文字通りの魔の手から逃げようとする。が、そのうちの数体は、瞬く間に紅血へと姿を変えていた。幸運にも神経をかいくぐったものは死に物狂いで駛走して、顧みることなく輩の血溜まりに片足を入れる。
しかし動かない。ゴブリンが足元を瞠視すると、あろうことか、不完全なまま生まれ落ちたゴブリンが血塗られた足首をにぎりしめていた。
「読んだ際に思っていた。壁を手形につくりだせるなら、生き物をあやつることも可能なのかと。数は限られるだろうが、見込みは外れていなかったらしい」
悠然と口をたたくペルニダとは相反して、顔の崩れたゴブリンを介して神経が繋がれたものは駸々乎として折り畳まれていく。
「それにしても驚いた…。ゴブリンと呼ばれるモンスターの時は少なかったが、この地にはおびただしいほどの情報が埋まっている。オラリオ、冒険者、モンスター、精霊、そして神。ある程度の記憶は流れてくるものだと思っていたが、媒介が媒介だっただけに、無機物なりの心の襞を透かし見た気がするな…ふふ、ふはは、ははははははははははっ!」
何が面白かったのか、ペルニダは臥し転びながら大仰に笑う。
一頻り笑い転げたのち、不慣れながらも体勢をととのえてゴブリンの成れの果てを見やる。
「さて…次の目標は姿を変える力、とでも掲げておくか」
彼の前にあるものは、やはり十把一絡げに数えられる腥羶にほかならなかった。