ムラサとは、とある所に住む妖怪であった。住むというよりも漂うといった方が正しいかもしれない。
ある老人曰く、時化の日に船を出してはならぬ。出せばムラサに出会う。出会えばムラサは柄杓を求め、応じねば船もろとも沈められ、仲間にされる。ムラサは波間に漂い、時折ぼうっと光る。光った中に誰かがいると思えば、それがムラサだ。
曰く、ムラサとは、その海で亡くなった船乗りの亡霊である。
正直な話、村紗がどうして命蓮寺の一員となったのか、本人の中でもあやふやとなっていた。水の底に沈み、深冷の中で、息の詰まる暗さと苦しさから逃れようと藻掻いていた頃には、寂しさは心身に馴染んでしまっていた。気付いたときには、心地よく肌に染み込む潮騒の響きを、他の誰かにも教えてあげようと、通りかかる船々を同じ深みに引き込んでいた。どうしてか分からないが、引き摺り込まなければならないと思い込んでいた。
そんな折りだった。いつも通り船影を確認したムラサは、水底から浮上して、ちょうど頭の側を通りかかった船縁を掴んだ。いつもならここで「柄杓をかやせ」と告げる筈が、瞬間、木板に触れた手を何かが弾き飛ばした。焼けるような痛みに思わず水中に手を沈めると、あろう事か船に触れた掌から白煙が上がっていた。
ムラサが自分の身体に何が起きたか理解した直後に、水面から細長い物体が突き入れられた。物体が刀剣の類いだと認識した時には、剣先がムラサの周りの水を攪拌し始めていた。
水面が揺らされる度に、ムラサが飛沫と共に作り出した光が次々と拡散していき、薄まり、飛び散っていく。
消える、と思った。心地よい光が消えていく。海水の冷たさを思い出し身を震わせ、荒波の激しさに身を縮め、深淵の息苦しさに喉が詰まり、腕をがむしゃらに振り回した。
身を包んでいた光から投げ出された瞬間から、村紗の記憶は曖昧となる。覚えているのは、聖の微笑みと、身を焦がす眩い光。焼かれてしまう、と恐怖した。
だからだろうか。聖の傍らで燦然と輝く凛とした存在が、近頃あれほどまでに疎ましく、苛立たしく思えてしまうのは。
☆
寅丸星が彼女の視線に違和感を覚えた時には、全てが手遅れになっていた。
「私は、あなたが、気に入らないんだ!」
怒声と共に投げられた錨を寅丸は寸での所で躱し、遅れて飛んできた水飛沫の数々を、腕を振るって弾き飛ばした。飛沫に触れた皮膚から白煙が上るが、焼かれたのは薄皮一枚程度。毘沙門天代理に任ぜられる程の妖怪である寅丸にとって、この程度の傷は無きに等しい。
当然、良く見知った相手もそれを分かっている。
村紗の手に持つ柄杓がくるりと回転した。同時に、紙袋を破裂させたような軽い音が辺りに響き渡る。
寅丸が頭上から響く連続した炸裂音に顔を上げると、空に浮いた大量の水玉が、次々と爆発し、土砂降りとなって降り注ぎ始めた。
辺り一帯には名も無き妖怪も住むはずである。己は大丈夫だが、下の彼らは無事では済むまい。寅丸は、空に、身を焦がす雨に向かって一歩踏み込み、気合いの一声と共に宝槍で天を突いた。すると轟音と暴風が巻き起こり、雨は霧散し――その隙を突いて投げられた錨が無防備になっていた寅丸を横から薙いだ。
ぱたた、と断たれた二の腕から血が滴り落ちる。一瞬間遅れて、噴水のように血が噴き出した。赤で覆われる刹那に僅かに垣間見えた白磁器のような骨が、寅丸が俗世を離れた完全な仏ではなく、妖であることを明していた。
「ご主人!」
ナズーリンの口から悲痛な叫びが漏れた。駆け出そうする彼女を、上空の寅丸は一瞥を向けることも無く、片手で制す。
「ナズ、構いません。これは私と彼女の問題です」
一時たりとも村紗から視線を外さず、寅丸は努めて平静な口調で言葉を紡いだ。しかし、痛みから口は引き結ばれ、頬を汗が伝っている。
村紗は容赦なく次弾を放る。豪腕から放たれる錨には水が纏わり付いており、ただ躱しても遅れて撒き散らされる水滴に身を焼かれるだろう。今、これ以上傷を増やすわけにはいかない。
寅丸は無事な方の手で宝槍を一回転させしかと握りしめると、返す刃で錨を上空に撥ね飛ばした。
鈍い金属音が辺りに響き渡る。先程の水滴が転じた土砂降りと同じく、寅丸の頭上で錨は四散し、付随した水は霧散した。
村紗が全霊を込めて作り上げ、全力で投じた錨が、片手で弾かれ、塵と消える。純粋な力の差が、歴然となって現れた結果であった。
村紗が歯を食い縛った。びきり、と口の中で音がする。奥歯に罅でも入ったのだろう。
寅丸と相対する村紗は、まさに鬼のような形相をしていた。
舟幽霊とは決して非力な妖怪ではない。生半可な力では傷もつかない筈の身体に深傷を負わせ、恐らく急所を貫けば寅丸を殺せる程の力を有しているのだ。
船乗りが一番に恐れる妖が、寅丸の目の前に、悪鬼となって立っていた。
「村紗」
何ら感情を込めることなく、ただただ寅丸がその名を呼ぶと、びくりと村紗は身を震わせた。
その様子に微笑を浮かべた寅丸は、宝槍から手を離した。
「なにを……」
「ご主人!?」
戸惑う村紗と、二転、三転した宝槍を地上で受け取ったナズーリンが、共に声を上げた。
二人の言葉に応えることなく、寅丸は次に、頭に被った冠を外した。肩にかかった羽衣が空気に溶けるように消え、同時に犬歯が僅かに伸びる。冠はその手によって粉々に砕かれた。
「ナズーリン、ついでにこれも受け取ってください」
寅丸の片手に顕現した宝塔が、するりと零れて地に落ちる。下から「なにをするんだっ」というナズーリンの声が聞こえた。
「村紗」
身軽になったと言わんばかりにぐるりぐるりと肩を何度か回した後、寅丸はまた名を呼んだ。今度は少しばかり、激情が見え隠れしていた。
「喧嘩を、しましょう」
言うが早いか、寅丸の身体は既に弾丸となって村紗に飛んでいた。
全く踏切が見えなかった。既に寅丸の腕は掲げられている。反射で村紗は自身の全周囲に水を発生させた。
寅丸は躊躇わなかった。飛沫が頬を掠め煙が上がろうが構うことなく、真っ直ぐに腕を振り下ろした。
鋭い爪が水を切り裂き、眼光はその先にいた村紗を捉える。一瞬の隙に錨を作っていた彼女は、寅丸の横腹目がけて思い切り腰を捻って振り抜いた。
捉えたと思った。しかし、錨が過ぎ去る頃には寅丸の姿は掻き消え、驚愕で目を見開いていた村紗の顎を、下から金色の頭が突き上げた。
弾き飛ばされた村紗はすぐさま空中で体勢を立て直し、次に備えた。じわりと口内に貯まった血を唾と共にぺっと吐き出し、
「やってくれるわね……やる気になったと受け取って良いのかしら?」
片方の口端を釣り上げる村紗に、
「最初からやる気でしたよ。私はね」
寅丸は不敵な笑みを返した。拳を合わせて指を鳴らし、
「私が気に入らないのでしょう? 結構。ならば、分かり合えるまで殴り合うのもまた一興」
「毘沙門天代理様がそんなこと言っていいのかしら」
「今の私は一介の虎妖怪。ただの寅丸星ですから」
喋っている間にも寅丸の頬の傷はなくなり、あろう事か骨まで達していた腕の傷もほぼ塞がりかけていた。驚異の再生速度だ。その光景を盗み見ながら、とんでもないものを怒らせてしまったな、と村紗は薄らぼんやりと頭の片隅で考えていた。
普段の穏和な性格と振る舞いから時々失念してしまうが、寅丸星は、毘沙門天代理である以前に、一人の大妖怪だ。
しかし、もう止まれない。この理不尽な怒りの矛先は、寅丸星へと向いてしまった。止めたくても、身体がそれを拒む。妖怪としての性が、彼女を水底へ引き摺り込めと囁くのだ。
「虎退治には、龍を呼ばなくては。そうでしょう?」
熱で浮いたような村紗の囁きに、寅丸が怪訝そうな顔をした。
「私は舟幽霊。水さえ在れば、こんなことだって出来るの」
動物の勘だろう。そうとしか言いようがなかった。悪寒を感じた寅丸は、三歩だけ跳びしさった。
直後、先程寅丸の身体があった場所を、凄まじい熱量を持った塊が通り過ぎていた。下から吹きだしたそれは、空中でぐるりと蜷局を巻き、守るように村紗の上空を這い回る。
地上を見れば、パックリと地が割れ、運悪く側にいたらしいナズーリンの目を丸くさせていた。
「なるほど。間欠泉ですか」
肯定の言葉の代わりに、村紗の手が振り下ろされていた。一拍遅れて、大きな熱湯が顎門を開け、寅丸に襲いかかった。
大量の物体が空を高速で駆ける衝撃が、あたかも咆哮のように両者の耳朶を打つ。
身を屈めた寅丸は、直後大きく跳ね、水流を躱す。跳んだ方向は斜め前方。前へ前へと、そのまま水を操りながら後退する村紗を凄まじい速度で猛追し、その爪が彼女を捉えようとする寸前で、大きく横にそれた。
正確には、寅丸が寸前で大きく横に跳ねた。
二つ目の間欠泉が真下から寅丸を襲った。躱していなければ全身が熱湯に飲まれていた事だろう。
二本目の水柱を視認した寅丸の目が大きく見開かれ、そして、眉間に皺が寄り、目が眇められ、牙が剥き出しとなった。
豪、と吠える。
「無茶は止めなさい!」
初めてかもしれない。いや、共に過ごした数百年間で間違いなく初めての事だ。
村紗は、寅丸星に、真っ正面から叱られていた。
「そこまで力を使っては、あなたの身体も無事では――」
言葉の途中で、寅丸が最初に躱した一つ目の水柱が彼女に追いつき、猛々しく狂いもだえながら襲いかかった。
激情で判断が鈍った。背後の気配に気付くのが、数瞬遅れた。辛うじて直撃は逃れたものの、水龍は寅丸の左足に噛み付き、その熱でもって皮膚を、肉を爛れさせた。
骨まで焼かれる痛みに、口から絶叫が漏れそうになる。しかし、寅丸の口から出たのは、その程度の熱を軽く上回る、熱く、身を焦がす怒りの炎だった。
「水蜜ッ! 止めろと言っているのが、分からないのか!!」
「止められるものなら、止めてるわよ!」
村紗水蜜は泣いていた。両目から留処なく溢れる涙が、何故出てくるのか、自分でも分からなかった。最早訳が分からないのだ。そもそも何故己がこのような凶行に及んだのか、ここまで己を突き動かした感情は何か。全てがあやふやで、しかし、目の前にいる存在が許せない。それだけは明確で、確固として、胸の内で燃えている。それだけを燃料として、今、己の身体は動いている。
ついに三本目の水柱が、村紗の側に突き上がった。
目の前が霞み、目眩が起き、手が震えているのが自覚出来た。それでも両目は金色の虎妖怪を捉え、離さない。ぼやける視界の中で、何故か彼女の表情だけはよく見えた。
激昂する寅丸の背後には、毘沙門天が立っているかのようだ。そう思った時、村紗の口から微かに笑いが漏れた。今、ようやく、何故毘沙門天が寅丸星を代理として選んだのか分かった気がした。
他人のためにここまで怒り、戦える者は、いない。ただ、その例外が、目の前にいる。それはきっと、寅丸と、毘沙門天だけが持つ天性のものだ。
そこまで思ってくれている者に対し、村紗の手が止まることはなかった。三匹の水龍は現れた無数の錨を鱗のように纏い、身をくねらせて鈍い金属音を鳴らした。
龍達は、三匹の中心にいる小さな妖怪に対し牙を研ぐ。尻尾を揺らし、機を窺う。
左足を引き摺る寅丸は、最早痛みを知覚していなかった。いや、周りにいる巨大な三本の水柱ですら、例え防御を固めていたとしても、彼女の脳内はその存在を無視していた。
見据えているのは村紗水蜜ただ一人。
先に動いたのは寅丸であった。
右足一本で空を蹴り、ただ真っ直ぐ、弾丸のように、彼女に飛び掛かった。
即座に二本の龍が盾となるように村紗の前を塞ぐ。寅丸の後ろからはもう一本の龍がうねりながら迫っており、勢いを殺された寅丸を一瞬で飲み込み体内で蹂躙した。
筈だった。
「は?」
間抜けた声が村紗から漏れた。
衝突音は確かにした。しかし、目の前に縦長の金色の瞳はあった。
答えは単純明快で、寅丸は一切勢いを殺すことなく錨で覆われた二本の龍の胴を食い破り、後ろから迫る龍よりも早く村紗に到達したのだ。
ご主人は毘沙門天の加護がなくても大丈夫さ、と何時ぞやナズーリンが宴会の席で言っていたのを思い出した。
振りかぶっていた寅丸の手が振り下ろされる。衝撃と共に村紗の視界は暗転した。
言葉のあやでも何でもなかったのか、と。やはりとんでもないものを怒らせてしまったな、と。千々に乱れていく意識を手放し、村紗水蜜は気絶した。
★
目を開けると、身体には布団が掛けられていた。薄暗い部屋と、古びた天井が目に入る。鼻孔を擽る墨の匂いに、すんすんと鼻を動かしてみた。
「起きましたか」
自分のではない声がする。身体を起こして首を巡らすと、
「貴方、名前は?」
見知った顔がそこにはあった。村紗水蜜、と応えようとしたが、口から出たのは別の言葉だった。
「分からないの。昔はあったけど、忘れてしまいましたわ」
妙に品のある言葉遣いに、違和感を持つ。誰でもない自分の声なのに、全くの別人のようだ。言葉遣いが問題なのではなく、それほどまでに生気がなかった。
「そう。私は聖白蓮というの。宜しくね」
目の前にいる僧侶の恰好をした女性は、聖白蓮と言うらしい。聖は続けて口を開き、
「ここら辺りでは、貴方のような幽霊のことをムラサと呼ぶらしいわ」
「ムラサ?」
「そうそう。書き文字までは分からないけど」
そう言って彼女は軽く首を傾げ、頬に指を添えた。飽きるほど見た、聖白蓮が考え事をするときの癖だった。
僅かな沈黙の間、することのないムラサの目は辺りを泳いだ。すると、聖の後ろに鎮座する、金色の髪を持ち、絢爛な衣装を身に纏った姿を見つけた。一目で人ではないと分かり、一見でその徳の高さを思い知らされる。それでいて暗闇でぼんやりと光る金の瞳からは、何故か安心する暖かさと懐の深さが感じられた。
見られていることに気付いたのだろう。にこり、と彼女は微笑んだ。
冗談みたいだが、本当に切っ掛けはそれだけだった。気付けば己はわんわんと泣いていた。どれほど泣き続けていたのか、正確な事は分からない。いつの間にか聖に抱きしめられており、その温かみにまた泣いた。
ひとしきり泣きに泣いた後、涸れた声で礼を述べ、ムラサは聖から身体を離した。
「名前を付けましょう」
涙も鼻水もちり紙に纏め、屑籠へ入れたとき、聖はそう言った。
唐突であったし、殆ど脈絡もなかった。
ただ、今も変わらずだが、不思議と彼女の言葉には、自然と相手を頷かせる優しさが在った。
「もう考えてあるの。こういう字はどうかしら?」
目の前に突き出された半紙には、己には勿体ないほど見事な字で『村紗』と書かれていた。
「むらさ?」
「そうそう」
何とはなしに読みあげてみると、何故か聖は両手を合わせて喜んだ。
「ねえ、星。やっぱりこの字は正解だったと思うわ。響きもこの子にぴったりじゃない」
「悪くないですよ。名は体を表します。彼女が自身を見失わないためにも、ムラサでなければならないでしょうから」
ですが、と星と呼ばれた彼女は、ここで初めて動いた。
「元のままでは足りません。彼女は歩まねばならない」
聖が両手で挟む半紙を取り上げると、後ろに備えてあった文机に向かい、さらさらと何かを書き込んだ。
「すいみつ?」
「いいえ、みなみつ」
「みなみつ……」
またもや突き出された半紙に踊る字を読むと、寅丸は微笑みながら頷いた。
「ええ。水蜜。貴方はこれから村紗水蜜です」
ムラサが応える前に、鼻と鼻が触れるほどの距離に現れた聖の顔に気圧された。
「村紗水蜜。貴方にお話があります」
真剣な顔で、勝手に付けられた名を呼ばれる。しかし、悪い気はしなかった。じんわりと真綿で包まれるような、今まで不定形だった自身に初めて枠が出来、形が生まれた気がした。
いつの間にか手をしかと握られ、身を引こうにも引けない状況の中、間近で見る聖の瞳は、確かな芯を持った鋼の輝きを有していた。
「うちの寺に来ませんか?」
突拍子のない提案だった。
「理由を説明するわね。第一、貴方が人として生きる術はもう残されていない。第二、妖としてまたここで人々を襲うなら、残念ながら私たちは見過ごすわけにはいかない。第三、この村には、貴方に怨みを持つ者が大勢いる。もうここにはいられないでしょうねぇ」
以上を考えた上で、と聖は一呼吸置いて、
「私たちと共に来ませんか、村紗」
聖の言葉には嘘があった。漁師はムラサを恐れはすれど、恨んでなどいなかったのだ。後からそのことを聞いたとき、怒りの前に、聖は存外欲に塗れているな、と親近感を覚えた。
生前の己の姿を知る者が、まだ村にはいたらしい。今となっては彼の者に会うことも敵わず、といった所だが、正直な所、村紗にとってはどうでもよかった。
先程、名を与えられ、最早、村紗水蜜として歩まねばならなくなった以上、過去に囚われることは無意味であった。名は呪であり、受け入れ縛られてしまった村紗に、選択肢は残っていなかった。
無垢な表情、言葉からは想像できないほど、聖は計算高い人である。しかし、命蓮寺の面々はそんな聖も好きだった。計算の元がその人を想う故であることは、重々承知していたからだ。
ただ、その時の村紗は、聖の言葉を真っ正直に信じて、行き場のない己を受け入れてくれる存在に感謝した。
村紗が黙って頷くと、笑顔を弾けさせた聖が抱きしめてくれた。それとは別に頭を撫でられ、顔を上げると、縦長の瞳が柔和に微笑んでいた。また目頭の奥が熱くなったが、今度は堪え、結局村紗は一晩中、大人しく抱きしめられ、撫でられ続けていた。
☆
ああ、そうか。村紗は得心がいった。何故寅丸を許せなかったのか、ようやくすとんと己の中で答えが出せた。
目を開け、身を起こすと、額から濡れ布が滑り落ちた。
絶対にいるはずだ、と首を回すと、やはりというか、寅丸が布団のすぐ側で、胡座をかきながら舟を漕いでいた。
村紗が勝手に襲いかかったのに、自責の念に駆られてずっと看病していたのに違いない。
「私ね。なんで怒りにまかせて御本尊様に当たったか、ようやく分かったの」
こくりこくりと動いていた寅丸の頭が止まった。
「なんて馬鹿なんだろうね。簡単です。たった一つのことが許せなかったんですよ」
俯き、自嘲気味に呟く村紗の目から、ぽたりと零れるものがあった。
星、星、と聖は気軽に彼女の名前を呼ぶ。それが羨ましかったのだ。
「私はただ、御本尊様に、名前を呼んで欲しかった」
名を呼びたかった、とは言えなかった。大それた願いだというのは知っていた。せめてもの我が儘として、名を呼んでもらいたかった。
村紗という性は妖怪としての己を表す。そして名が、己を個人たらしめている。
「水蜜」
びくりと身体が震えた。もう堪えられない。堰を切ったように涙が零れ、嬉しさから口が歪に歪む。
「申し訳ありません。本当に、申し訳ないことを……」
力を持つ者が名を呼ぶとはどういうことか、寅丸星は知っている。だからこそ呼ばなかったことは村紗も知っていた。
名は呪であり、鎖であり、繋がりである。名を呼ばれることが村紗を縛りつけ、動けなくさせる。
しかし、その締め付けが、たまらなく暖かく、心地良い。
「水蜜。良いのです」
謝罪の言葉が止まらなくなった村紗の手を、寅丸の両手が優しく包んだ。
「申し訳ないのはこちらの方です。貴方の気持ちに気付いてあげられなかった。毘沙門天失格です」
滅多なことはいうもんじゃない、と何処からか声が聞こえた。心配性の彼女のことだ。寅丸と村紗を二人きりにすることは出来なかったのだろう。多分、あの障子の向こうにでもいるに違いない。
「いいえ、私は毘沙門天失格です。御本尊と呼ばれる資格もありません」
寅丸が何を言わんとしているか、流石の村紗もぼんやりと分かった。
「水蜜。これからは私の名を呼んでください。様もいりません」
「そんな……」
「出来ませんか?」
にこりと笑った寅丸に、ずるい、と村紗は思った。欲求に正直に生きては駄目だ、と聖は何度も言っているではないか。……馬鹿げた願いから、毘沙門天代理に喧嘩を売った己が何を言うのだとも思うが、しかし、
「では命じられれば、貴方は私の名を呼んでくれますか?」
ならば命じますよ、と続けて寅丸は紡いだ。言葉の端から漂う威圧感に、もう逃げ道はないのだと知る。
自分から入り込んだ袋小路の先で、待っていてくれた者がいる。拒絶されるかもしれない、と心の底で思っていた自分を、鼻の先で笑い飛ばしたい気分だった。誰よりも村紗自身が、この方がこの程度で揺らぐような人ではないと知っていたではないか。
「星」
「はい」
あっさり口から転がりだした呼び声に、これまたあっさりと返事を返された。
しばらく沈黙が下り、どちらともなくころころと笑い出した。
障子にもたれていたナズーリンは、少しだけ口元に笑みを浮かべた後、立ち上がって部屋を後にする。
部屋から出たところで、自分に負けず劣らずひねくれ者の羽根を見つけてしまった。
「なんだ、お前もご主人に名を呼ばれたかったのか?」
「……誰が御本尊様に」
「ははーん。じゃあ、村紗の方か」
図星を突かれたのか、闇に紛れて姿が掻き消えた。そういえば地獄にいる頃から仲が良いと聞いた。彼女が持つ感情は恐らく、嫉妬だろうか。
寂しがり屋ばっかりだ。
ナズーリンは命蓮寺の門前を潜り、星を覆い隠す曇り空を見上げた。
聖も村紗も雲居も封獣も幽谷も、果ては寅丸に至って、もしかしたら二ッ岩も。
寂しがり屋ばかりが寄り集まった寺で、さらに寂しがり屋を呼び込んでいる。どれだけ高尚な理想を掲げたって、現実はそんなものだ。
掘っ立て小屋に戻ってきたナズーリンが大きく伸びをしたところで、窓の桟の隙間から、一枚の紙が滑り込んだ。
紙自身が意思を持っているように、ひらひらとナズーリンの目の前に落ち、独りでに開いていく。
白紙の紙に、見慣れた手癖の文字が浮かび上がった。
「貴、方、も」
たった三文字だが、ご主人の言わんとしていることを察し、顔を真っ赤にして尻尾を立て、ナズーリンはぷるぷると震えた。くしゃりと紙を丸めて屑籠に放り込み、意地っ張りな賢将は、今日も強がって一人で眠る。
下手したら己よりも己のことを理解している存在がいることに、恥ずかしいやら腹立たしいやらで、その夜眠りに就くまで、ナズーリンの頬が白に戻ることはなかった。
スランプから抜け出すためにこれ書いてたら百合書きたい欲が高まってきました。