マミはインキュベーターの声をもう聞く事が出来ない。
それは果たして幸か不幸か――その事に気が付くまでは疎遠になりつつあったというのに、気が付いてからは少しばかり接点が増えた。というよりは、彼がよく彼女の家を訪ねて来るようになった。
それこそ、マミが自分をベテランだと思っていた
マミはインキュベーターが来れば紙とペンを渡す。すると彼は機械的な文字で彼女に言葉を書いて渡す。
読んだ彼女は声を返す。彼は表情を変えずに再度ペンを走らせる。
そんなやり取りが普通になっていた。
そしてその内容と言えば、やはり訪ねて来たインキュベーターが基準だった。マミは主に魔法少女勧誘に纏わる愚痴に近いものを読まされ、しかし彼の語る話に現代社会で自らが味わってきた苦汁を被せ、多少なり役に立つものから、全く役に立たないものまで、アドバイスとして返すのだ。
それが一人と一匹の普通だった。
どちらも疑問に思わなかった。
何故、人間よりも遥かに高等生物であるインキュベーターが、巴マミという人間からアドバイスを貰っていたのか。
考える事も無かった。
――しかしある時。
その日は土曜。夕暮れも近かった。
仕事帰りの疲れから、つい休日に回してしまっていた買い物を終え、マミは家に帰宅した。玄関の扉を閉めて、誰も居ない筈なのに、「ただいま」と声を出す。
『マミ、おかえり』
しかしそんな声が響いた。
唐突だったその声に、マミ自身も『返って来る筈の無い返事』だと思っていたのだろう。「うひゃあっ」と女性らしからぬ驚き方をして、買ってきたばかりの袋を投げてしまう。袋はぐしゃりと音を立てて、パンプスが並ぶ玄関に落っこちた。不吉な音だった。きっと折角買った卵は見るも無残になっているに違いない。
「だ、誰……!?」
しかし状況は卵一パックを嘆く程のものではない。マミはそう思ったのか、唯一落とさなかったハンドバッグの中に手を入れつつ、『誰も居ない筈のリビング』へ続く廊下を見据える。
すると――。
『誰って……酷いじゃないか。ボクの
玄関から続く廊下の先。リビングと隔てている筈の開き戸を、何の障害も無かったかのようにすり抜けてくる白い獣。短毛の白猫のような、しかし明らかに猫ではない円形の頭部。耳の下に伸びる長い触腕と、背中に刻まれた赤い文様。明らかにこの地球上の動物図鑑には載っていない生き物――インキュベーターだった。
マミは思わず「……へ?」と言って、目と口を丸くさせたまま暫し呆然とした。その後一度、二度、と瞬きをしてから、至って普通の猫と変わらない大きさのインキュベーターをジッと見詰める。その姿は既に扉をすり抜け終えており、優雅に佇む猫のように、四足を揃えて、尻尾でとぐろを巻き、彼女を見上げて来ていた。
「……きゅう、べえ?」
そしてやがてぽつりと零す。
零しながらも思案を深みに潜らせているのか、マミはバッグに入れた手を引き抜いて、自らの耳元を覆うようにして頭を押さえていた。まるで『どうして?』という疑問が尽きないようだとは、感情が無いと豪語するインキュベーターからしても手に取るように分かったろう。
だからだろうか――マミが疑問を投げかけるより早く、インキュベーターは残念だと言わんばかりに項垂れて、首を横に振った。
『順応力の低いマミにも分かるように、一言で説明してあげよう。ボクはキミが知っている個体ではない。……情報の共有によって、ボクはキミをこれ以上無く知っているけどね』
そしてそんな風に言った。
尤も、その声は本来、アラサーのマミが聞けない筈なのだろうけども……。
マミは目と口を閉じた。
頭痛でもするかのように眉間に皺を寄せ、彼女は何度か頷くと、再度唇を開く。
「ちょっと待って。意味が分からないから、質問したい事を纏めるわ」
『賢明だね』
早口に捲くし立てるような形で吐き出した言葉に、インキュベーターは抑揚の無い声を返してきた。マミは無駄だと知りつつも、彼に礼を一言述べて、思案を更に深く潜らせる。
もう卵が割れている事なんて、忘れてしまっていた。
それから少しして、マミはインキュベーターの事を一先ず後回しにしたいと言った。先ずは着替え、そして買ってきたものを冷蔵庫に、最後に寒いからこたつに入らせてくれ。そう告げる。
インキュベーターは訳も無いといった様子で頷いた。むしろそうした方が良いと言って、袋が破け、その中からどろっとした透明の汁がパンプスに垂れ落ちている様を前足で指した。
マミは悲鳴を上げた。何でもっと早く言わないのかと彼を責め立てた。
インキュベーターは何の抑揚も無く言った。
『聞かれなかったからさ』と――。
「――で、貴方何なの?」
ぴちぴちのジャージ姿でこたつに下半身を入れ、両手を腿の下で温めながらマミは問う。視線の先には、こたつの天板のど真ん中で、先程と同じように優雅な体勢で佇むインキュベーター。
彼は人間ならば溜め息でも吐いているんじゃないかという様子で項垂れ、首を横に振る。当然のように『やれやれ』と零した。
『考えた末の質問がソレかい? もっと具体的に聞くべきじゃないのかい?』
するとマミは不服を顕にするように、唇を尖らせる。
「聞いたところで訳の分かる比喩をしてくれるとは思わないもの。だから私の知ってるきゅうべえと、貴方との違い。そして私を訪ねて来た目的を聞くべきだと思ったのよ」
そしてそう言った。
するとインキュベーターは項垂れた顔を上げ、マミを赤の丸い双眸でジッと見詰める。
『ふむ……。成る程。確かにあの個体が抱いたキミへの印象通り、ずぼらに見えて中々聡明だ』
「余計なお世話よ」
褒めているのか貶しているのか分からない言葉に、尚もマミは不服そうに返した。しかしそこはインキュベーター。彼の言う『以前の個体』とやらでも気にしなかっただろうが、同じように彼も気にした様子は無い。
尻尾を解き、ゆっくりとマミの元へと近寄って来る。
『失礼。少々触るよ』
そう言って、二本の触腕をマミの胸元へ。
「へ?」と零してその触腕の向かう先を見詰めたマミは――その二本の腕が自らの胸を鷲掴みにしようとしていると察したのか、ハッとして物凄い形相を浮かべ、右手で素早くその二本を鷲掴んで捕らえた。
『痛っ……』
思わぬ反撃だと思ったのか、インキュベーターは驚いたようにも聞こえる声を挙げて、触腕を引っ張られてつんのめる。そしてそのままの体勢でマミを見上げ直した。
すると彼女は、背後に鬼でも背負っているんじゃないかと言わんばかりに影を落とした笑みを浮かべている。唇が今正に開かれた瞬間だった。
「どういうつもり? いきなりセクハラ?」
『断じて違うよ。ボクは
その言葉を聞いて、マミは活目する。
掴んだ触腕を解放し、左手で胸を庇いながら、右手を差し出して待ったをかけた。
「ちょっと待って、前の貴方って
そしてそう問い掛けた。
その表情といえば、「やっぱり」なんて口にしつつも、予想外と言わんばかりに驚いた様子だった。
それもその筈。
インキュベーターは人間よりも遥かに高等生物だと主張する。そしてその理由にこそ『無駄な感情が無い』事を挙げるだろう。彼らにあるのは徹底的な利害観念と、全ての固体で統一された意思を基にした種族繁栄の事だけだ。大層なお題目を挙げても、マミからすればきっとその二つだと言い切られる事だろう。
その彼らの一個体に感情? つまりそれは意思を統合させている彼らにとって、種族の破綻を生む因子ではないのだろうか。
マミがそこまでの思案をしたかは兎も角、次に彼女が唇を開いた瞬間に出た言葉は――
「ちょっと待って。前の個体のキュゥべえはどうなったの!?」
だった。
インキュベーターは項垂れ、首を横に振る。
先立って吐き出された言葉は、やはり『やれやれ』だった。
『飛躍しすぎだよマミ。とりあえずそれは後で説明するから、強いてはキミの胸を揉ませてくれないか』
そして大変に変態な事をさも当然なように言った。
案の定、インキューベーターは予想していなかったろうが、マミは「はあ?」と零して呆然とする。その様子と言えば、成人男性ならば警察を呼ばねばならない台詞を前にしているというだけあって、『こいつ頭大丈夫か?』とでも言いたそうだった。
そんなマミの様子を見たインキュベーターは、一つ嘆息を挟むような素振りをする。――嘆息は『ごほん』という如何にも態とらしい抑揚の無い声で述べられた。
『以前の個体がキミの胸――彼曰く
「無いわよ。絶対」
マミは言い切った。
そして先程は片手だったマミパイのガードを、右手も足して両手でやってみせた。どうやら相応の危機を感じたらしい。
『どうして言い切れるんだい? 万物の切欠は些細なところにあるものだよ?』
「胸に挟まれて感情が芽生えるとか、高等生物が聞いて呆れるわよ? 良いの? 下等だと思っている生物に呆れられても」
『キミに呆れられようと構わないさ。第一ボクはキミの胸に全く興味無いからね。単なる調査だよ』
「へー、そう。そうなのー。それは良かったわね」
『それはそれとしてボクにマミパイを揉ませてよ』
「断固拒否するわ」
食い下がるインキュベーターに、マミは溜め息と共に話題を変える事を選択したらしい。「それはそうと」と頭打って彼に人差し指を突きつけた姿は、如何に彼女がインキュベーターという種族の扱いに慣れているかを思わせるテンポの良さだった。
「具体的な質問をさせて貰う事にするわ。何で私に貴方の声が聞こえるかを
分かり易くという部分をこれ以上無いくらいに強調して、マミは尚も伸びてくるインキュベーターの触腕を叩き落とす。すると彼は器用にも、触腕を操りながら答えた。
『そうだね。仕組みは言っても分からないだろうから理由と結果を説明させて貰うよ。キミとの交渉を円滑に行う為に、調整してきたと言えるね』
「……交渉?」
『今言ったじゃないか。ボクにマミパイを揉ませてくれって』
「だから断るって言ってるじゃない」
インキュベーターの触腕がシュッと風を切る音と共に伸びる。長らく魔女対峙で鍛えられた能力を駆使しているのか、それをマミの手が打ち漏らす事は無い。
『何故だい? 減るもんじゃないだろう?』
――シュッ。
「デリカシーという言葉を勉強してきなさい!」
――パシンッ。
『訳が分からないよ』
――シュッ。
「それはこっちの台詞よ!」
――パシンッ。
触腕と手の対決は暫く続いた。
やがていよいよ面倒臭くなったマミが魔法少女――少女ではないが――の姿に変身し、持ち前のリボンによってインキュベーターを簀巻きにしたところで、一人と一匹の戦いは決着する。
――後編に続く。
短編だけど続いていいのか?
……わかんね。でもそのまま書くと一万字いくし……まあいっか(おい
因みに製作時間一時間なので、あとで推敲するかもしれません。気晴らしで書いたので、後編はまた気が向いた時に。てか三人称神様視点書いたの久々です。多分変だろうなー……。