本物のぼっち   作:orphan

13 / 18
第13話

「いててててて」

 

 パッと目の前が明るくなって、電源が入るように意識が戻ってくる。それと同時にガンガンズンズンジンジンと頭痛が。いや、さっきは悪く無いとか言ったけど今なら言える。最悪です。

 

「大丈夫なの!?」

 

 目の前に由比ヶ浜の顔が迫ってくる。寝起きに見るにしては幸福度の高い光景である。だが残念な事にこれは寝起きではない。アスファルトを転がって由比ヶ浜の接近を躱すと、膝と手を地面について起き上がる。眩暈はしないのでもう大丈夫だろう。

 

 何故か試合が中断していて、皆さんお集まりのようである。沈鬱とした雰囲気をエンジョイしてる所悪いが、俺が知らない間に何が有ったのだろうか。

 

「戸塚戸塚、これは一体何事でおじゃる?」

 

「大変! 比企谷君やっぱりおかしいみたい」

 

 頼れるものは同性である。取り敢えず声を掛けてみたのだが、言ってくれるじゃねえか戸塚君。まさかの毒舌キャラらしい。

 

「待て待て、冗談だ冗談」

 

 どうやら戸塚には悪巫山戯が通じないらしい。俺も不自然に高かったテンションを元に戻した。体にはまだ力が入りきらないが、どうにか上体を起こすと少し離れた所に雪ノ下と平塚先生、そして雪ノ下さんの3人が立っているのが見えた。まだ起きない方が良いんじゃないかな? とか、頭は大丈夫? とか聞いてくる2人を押し返して立ち上がり、3人の方に近づいていく。そちらでも俺の無事は確認されたが適当に頷いていおく。そんな事よりも。

 

「あの、これは一体」

 

「あんな事が有って試合をしている訳にも行くまい。試合は中断。雪ノ下には少し説教をだな」

 

「そーそー、私もびっくりしちゃった。いきなり由比ヶ浜ちゃんがおっきい声で比企谷君の事呼び始めたと思ったら倒れてるじゃない?」

 

 長閑な休日のコートが一変、俄に騒然としたらしい。悲鳴にも聞こえる由比ヶ浜の声と、失神する俺。そしてそれをただ見つめる雪ノ下。試合は即座に中断されて、先生と雪ノ下さんで雪ノ下の事情聴取が始まった。由比ヶ浜の証言を皮切りに雪ノ下が凶状を自白した事で、俺の覚醒を待って俺は病院に移送が決定。しかし多くを語らない雪ノ下に、こちらは一先ず俺との隔離の意味合いで離れた所に居たらしい。

 

 とはいえ、今こうして俺が近寄っても雪ノ下は平静を保っているし、これ以上凶行を重ねる様子もない。一旦俺を病院に連れて行こうという話になっていた所だとか。

 

「それでは比企谷、荷物をまとめ給え。私が病院に連れて行く。校門前に車をつけるから、そこまでは歩いていけるか?」

 

 有無を言わさない平塚先生の指示。そこまで強くないものの吐き気も感じるし、頭のふらつきも出てきた。格闘技の経験もない俺には脳震盪の危険性も殆ど理解できていないが、きっとそれほど楽観視して良いものでもないのだろう。だが、それでも俺はその指示に従わない。折角こんな絶好のチャンスが来たというのにみすみす逃すものかと思えば、これもまあどうにか我慢の効く範囲だ。

 

 俺は歩き出そうとする先生の前に立ちはだかって言う。

 

「待ってください、先生。あれを雪ノ下のせいだと断じられてしまうと俺としては困ります」

 

「雪ノ下を庇うつもりか?」

 

「いいえ、そうじゃない。あれは、半ば俺がけしかけてやらせたと言ってるんです」

 

「君はあんな状況で自分を失神させてくれるように雪ノ下に頼んだとでも言うのかね」

 

 まるでナンセンスな話だと平塚先生はまるで取り合う姿勢を見せない。確かに意味不明だ。人目のあるテニスコートで練習試合をしている脇で、同じ部活の少女に自分を殴って気絶させろと頼む奴が居たら真性の変態である。もしくは神聖な変態である。しかし、接近禁止命令が出たら多分13万キロメートルとか出るに違いない、想像するだに恐ろしい変態像はさておき事実である。雪ノ下のような乱暴者にあんな風にいかにもトラウマを抱えている部分に無遠慮に踏み込めば、揶揄すればあの程度の事を想像できない方がおかしいのだ。

 

「そういう訳じゃ有りませんが、ああなってもおかしくないようなことを俺は雪ノ下に聞きました」

 

 何だったらもう一回聞き直したい位素の疑問だ。今度は雪ノ下さんもいるし距離を十分に取っているのでさっきのようにはならないと思うし。

 

「どちらにしろ手を出した段階で雪ノ下も悪い。その辺は病院の行き道で聞いてやるから行くぞ」

 

 動こうとしない俺の手を引こうとする平塚先生。その迷いのない素早い動きに今の俺は対処できない。あっさりと手を掴まれてしまう。それでも、例え成人女性相手でも俺もいい加減大人の仲間入りを果たそうと言う高校生男子、体重はむしろ俺の方が上だ。俺が動こうとしない限りは、先生も全力を振り絞らなければならないだろう。だからまだ話を進める余地がある。

 

「ゆ、うおおおっっと」

 

 そう思っていたのだが、案外重症だったのか手を引く先生に全く抵抗を示せないばかりか、千鳥足で2,3歩進んだかと思ったらバランスを崩して尻餅を着いてしまった。目の前は一瞬極彩色に彩られるし、俺が思っているのよりヤバイのかも。そうは思うが、やはり今この場におけるキャストを越える場面などいつ出会えるか分からない。石にかじりついてでもこの場に残る必要がある。

 

 転倒した俺の右手を握る平塚先生の掌に力が篭もる。この人には後できちんと謝っておこう。休日出勤の挙句に生徒がこんな事になってしまっては心配を掛けるだけではなく、責任問題に発展してしまうかもしれないから。だが、良型とは言えないまでも都合の良い展開を引き出せそうなので、今はもう少しこのままで居てもらおう。

 

 そんな、聞かれたら多分雪ノ下以上に無事では済まされなさそうな事を考えていた俺の左手に誰かの指が触れた。

 

「大丈夫、比企谷君? ほら、雪乃ちゃん? 比企谷君はああ言ってたけど謝っておいた方が良いんじゃない?」

 

 顔を上げるのも辛い俺の確認の手間を省くように、その指の持ち主が俺のすぐそばでそういった。雪ノ下さんだったみたいだ。その雪ノ下さんが雪ノ下に優しく言い含めるような調子でこんな事を言っている。ああ、これこそ顔を上げなくても分かる。この人今最高に喜んでるって。雪ノ下さんはこうなった以上雪ノ下の事をかなり手酷く嬲るだろう。俺は知らない、何故雪ノ下がこうなってしまったのかを知っている雪ノ下さんならそれこそ弱点を骨までしゃぶり尽くす筈だ。

 

 俺の見えない所でやりとりは続く。

 

「陽乃、お前は」

 

「静ちゃんは少し黙っててー。ちょっと位雪乃ちゃん懲らしめておかないといけないからさ。ねー、雪乃ちゃん。そういえば雪乃ちゃんは事故の事比企谷君に謝れた? まさかそんな訳ないよね。雪乃ちゃんの事だもん自分が悪くない位考えててもおかしくないよね」

 

 ジェノサイドモードに入った雪ノ下さん相手には平塚先生も分が悪いらしい。それにしたって平塚先生が口を噤んだのは元々暴力を振るった雪ノ下に対しての叱責という事も有るのだろうが、それ以上に邪魔をしたら何をしてくるか分からない雪ノ下さんの恐ろしさのせいだろう。しかし平塚先生黙らせるって本当怖いもの知らずだな雪ノ下さん。もうこの人が地元ギャングの元締めとかやってても驚ける気がしない。

 

 だが、話の内容自体はとっくの昔に決着が着いているとしか思えないものだ。今更この事について雪ノ下を責める事など誰が出来るだろうか。何せ被害者本人である俺が雪ノ下に気にするなと言っているのだ。

 

「比企谷君は考えた事無いかもしれないけどさ、由比ヶ浜ちゃんなんか犬のお散歩してるような早い時間に、なんでうちの車があそこを通ったと思う?」

 

 雪ノ下さんは俺に言っているのだろうか。余計なことにリソースを割いていられる程余裕が有るわけでもないが仕方なしに、この糞重い頭を少し使って考えてみる。

 

 事故に遭った時間。それは確か入学式が開始する1時間以上前だったかと思う。入学式当日の俺は何を考えていたのか、恐らくはまだ新入生など1人も来ていないだろう時間に初登校をしようとして事故に遭ったのだ。あまりにも間抜け過ぎて、以降まだ俺は異常に早い時間の登校はしていない。事故現場が高校から徒歩10分程度の事を考えると、由比ヶ浜の家がどの辺りかもまあ見当はつく。あの辺りなら確かにあの後家に帰って準備をしても十分に間に合おうという時間でも有る。逆に言えば彼処に住む由比ヶ浜だからこそそんな真似が出来るとも言える。

 

 なるほど、確かに奇妙だ。俺が突然の気まぐれによって彼処を通りがかり、また由比ヶ浜はまだ登校の準備すらしていないあの時間に車に乗っていた雪ノ下。余程急ぎの用事でも無かったら入学式まで1時間足らずという時間で、別件であそこを通ることはないだろう。学校の近所に用事でも有るなら別だが。

 

 もう一つ、容易に想像出来、かつ納得の行く仮説が立てられる。つまりあの時雪ノ下は俺と同様何の意味も無く早出したという可能性だ。聞けば世の中には高校デビューを期待する人種も多く居るというし、そうでなくともあの日の朝には無闇矢鱈と元気を煽るような何かが有った。雪ノ下もそうした人間の1人で有ったとして、何の不思議が有るだろう。

 

 だがそれでも雪ノ下にはまだ後ろめたさの根拠たる罪が無い。何の意味もなく行動する事を責められるというなら、真冬の早朝から校門の前で3時間もうつ伏せで寝続けて警官を呼ばれたことの有る俺の方が余程それに相応しい。

 

 しかし、雪ノ下さんの告発は堪え切れない笑いを漏らしながらも続いた。

 

「雪乃ちゃんってば運が悪いっていうかさ。高校の入学式に浮かれすぎて早起きして、運転手を叩き起こして早出したら事故に遭っちゃうなんて聞いた時はちょっと笑っちゃった」

 

 心底それが可笑しいと言いたげに、というより腹を抱えて笑い転げるんじゃないかと思う程強く笑い出す雪ノ下さん。

 

 ええ、俺もそう思いますよ。それが真実なら俺が思っている以上に雪ノ下は馬鹿だったという事にもなるし。こんなにも気分が悪くなかったら雪ノ下を指差して嘲笑している所である。

 

 とはいえ、未だ吐き気冷めやらない俺にそんな事が出来るはずもなく、その代わりに由比ヶ浜がおずおずとではあるものの割って入る。

 

「でも、それって別にゆきのんが悪いって訳じゃ」

 

「その通り。なんだけど、雪乃ちゃん自身はどうもそう思えていない。っていうか、そう思えなくなってきてるのよね」

 

 ねえ? と問い質すように言いながら俯く雪ノ下の顔を覗き込もうする雪ノ下さん。なんというか、妹の気持ちが手に取るように分かるなんて素晴らしい姉妹愛としか言いようが無い。そういうのは他所でやってくれよ。

 

 戸塚は初対面の人間含む修羅場にすっかり飲まれているようだし、平塚先生は雪ノ下さんにきつくマークされてるしで、マグロ状態の雪ノ下を守れる唯一の人間。こいつは初め周囲にただ流されるだけの奴かと思っていたのだが、意外や意外今のように誰かが槍玉に挙がっていると率先してそれを防ごうとする優しい奴なのだった。ただ。

 

 あの事故の当事者の1人でも有る由比ヶ浜もやはり完全に罪悪感を払拭出来ている訳ではないようで、話がそれに触れた途端居た堪れない表情を浮かべて閉口してしまった。きっかけになってしまった1人として彼女も雪ノ下に罪がないとは言えないという事なのかもしれない。

 

 俺の中に雪ノ下さんが喜色満面で雪ノ下の頭を押さえつけようとしているイメージが浮かぶ。頭を押さえつけられる雪ノ下はいつもなら平気そうな顔をしてその手の下をくぐり抜けていくか無表情に耐えようとするのだが、今日に限っては苦悶の表情を浮かべてその手の中に収まっている。俺を殴ったという罪悪感からだろうか。それともそれを見られていたという諦観か。はたまた由比ヶ浜に何かを言われたのか。何にしても本当に馬鹿な奴である。

 

 いつだったか部室での問答を思い出してみても、雪ノ下は逃げるという事に強烈な忌避感を抱いていた。それの出自すら俺には明らかではないが、現在それが原因で今この場でこんな窮地に陥っているというのに、それでも逃げるという選択肢に手をかけることすらしようとしない。頑固だ。頑迷で愚直だ。俺や戸塚の前でテニスの腕を披露した時に放っていた輝きを見れば分かる程綺麗な奴なのに、泥に汚れ、悪意に穢され、誹謗に侵されようとも身を守る術など知らぬ赤子のように立ち尽くしている。

 

 ああ、ああ、ああ。ああ、こんな最高のおもちゃを独り占めするなんて意地が悪いんじゃないですかね。雪ノ下さん。

 

 俺は漸く重たい頭を持ち上げながら、1つ息を吸った。それに合わせるように、お昼時海に近いこの高校を訪れる風が俺の体を冷やした。相変わらず頭の中身がペットボトルの中の液体を振った時みたいにばしゃばしゃと波立つのを感じるが、これなら人の顔を見て話をする程度出来るだろう。

 

 全く高校に入ってから、いや2年に進級してからというもの面倒臭い事ばかりが起こっている。訳の分からない部活には入れられ、そこには去年の事故の関係者ばかりが集まったかと思えば、そいつらはそいつらで俺の目の前でこれみよがしに困った顔をしてみせる。うんざりだ。これじゃあ何のために友人も作らず今までやってきたのか分からない。俺にはそんな事にかかずらっている暇は無いというのに。少しでも早く手に入れたい物が有るというのに。

 

正直言ってこれ以上あの一件に振り回されるのも面倒だ。今日のように後から後から罪を告白されてその都度許すなんて真似は御免こうむるからな。流石にこれ以上あの事故を負い目に感じている奴等いないだろうし、早速今日にでも事態の収束を図ってしまおう。

 

「なんだ、雪ノ下。そんな事気にしてたのか。だったらまあ話は早い。1つ頼みごとを聞いてくれれば、もうこれ以上何が有っても、あの件に関してお前が気にする必要ないって、そう俺が認めてやる。実際がどうだかなんて事関係ない、お前が悪かろうが、そうでなかろうが、気にしなくて良いってな」

 

 雪ノ下とて罪悪感を感じない鬼畜という訳ではない。それは雪ノ下さんの発言から理解できる。その他にもこいつがその実その辺の女と対して変わらないパーソナリティの持ち主であることもこの短い付き合いで何となく分かりつつある。こいつの場合、それがちょっとまともではないくらい捻くれていて、おまけに攻撃性が高く、更にそれを十二分な被害に消化させるだけの能力を有しているというだけの話なのだ。更に今は天敵と対峙している最中でかつ先程の狼藉を教師に目撃されている。

 

 今までこいつがどんな風に生きてきたかなんて事は俺には知りようもないが、出会った当初の述懐を思い出せば雪ノ下が清く正しく生きてきた事が予測される。そう友達がおらず、肉親である姉にも頼れなかったこいつにとって自分の身を守るすべは正しさと能力の高さしかない。こいつ自身の主観混じりの記憶に何処まで信用が置けるかは謎だが、正しい人間ほど生きにくいとまで抜かし、周囲の人間に迎合することも許容できなかった潔癖さを鑑みるに特に雪ノ下は正しさ、誠実さというものに執着が有るはずだ。

 

 だからこそ、こいつは今ひたすらに俺のサンドバッグにならざるをえないという訳だ。例えどれだけ承服しがたい命令であっても今のこいつはそれを飲まざるをえない。何故なら正しくない事をしてしまった自分を正当化してしまったら、雪ノ下が雪ノ下自身を否定してしまうからだ。

 

 視線を上げた今、雪ノ下がどんな風に立っているのかが見えた。姉と教師が俺に寄り添い、友人である由比ヶ浜は先ほどの凶状も有ってか少し遠巻きに佇んでいる。いや、もしかしたら雪ノ下さんに睨まれることを恐れているのかもしれない。こいつ自身もあの事故に負い目を感じている1人なのだから。この場合唯の依頼者である戸塚に雪ノ下に味方しろというのも無茶だろう。孤立無援、四面楚歌。今まで何度となく雪ノ下が味わってきただろうシチュエーションだ。その度敗北し、傷つき、逃げることも出来ずに耐え続け、屈折し、それが今の雪ノ下雪乃という人間を構築したのか。なるほど、こんな面白人間に育つのも無理からぬ事である。俺ならこんな状況2秒で逃げ出す自身が有る。

 

 尊敬とも親愛ともつかない感情が俺に笑顔を浮かべさせる。それを雪ノ下が垂れ下がった前髪というベール越しに見つめるのが分かった。雪ノ下の表情が動く。果たしてそれが意味する物が失望なのか諦観なのかは俺にも分からない。

 

 だが、どうあれ俺の行動には一変の差し障りもない。もう決めてしまった事に、雪ノ下がどんな気持ちを味わうかは関係ない。俺自身が考え俺自身が決定を下したのだ。

 

 笑い出す膝を手で握りしめ、どうにかこうにか立ち上がる。まだ酔っ払った経験など殆どないが、飲酒の齎す酩酊感がこんな物だとしたら俺は生涯酒を飲まないだろうと思うような、酷い気分。救いは青々とした空が頭上に広がっている位のものである。

 

 徐に差し出された手を握る。溺れる者は藁をも掴むというが今の俺は正しくそれで、馬鹿みたいな話地上で溺れている俺にとっては窮地に差した一条の光だった、それは雪ノ下さんの手だった。

 

 この人の事だから、俺が素直に従うとは思っていないだろう。だが、同時に俺のような一般人Hが何か出来るとも思っていない筈だ。だから、握り締めたその手がどんな目的や感情の下差し出された物なのか。俺の顔を見つめる瞳は俺の動向を観察するためだけの物なのか俺には判断できない。理解できるのはこんな状況なのに、こんな性格なのに雪ノ下さんの手は柔らかくてきめが細かく最高の感触だという事だけだった。

 

 世の中ってのが間違ってる事だけは同意するよ。雪ノ下。

 

「お前と雪ノ下さんでやって見せてくれよ、テニスを。戸塚の参考にもなるだろうし、良いだろ?」

 

「比企谷、お前そんな事よりも病院へ」

 

 雪ノ下さんが立っている方とは反対側の方に手が置かれる。安定しない俺の体を支える柔らかく力強い感触と心配する声。間違いない、平塚先生だ。やっぱり先生は良い先生である。そんな先生には申し訳ないが、今はその心配を無下にせざるを得ない。俺抜きで2人にゲームをやって貰っても良いが、それじゃあ俺の望む方向へと事態を導くことが出来ない。まあ殆ど直感だけで行動しているので、それが上手く行く公算など全く立ったためしがないのだが。

 

「もうちょっとだけ待って下さい、先生。これが終わったら絶対に行きますから。大丈夫ですって、本当はそこまで酷くないんですよ、これ」

 

 腕を引こうとする先生に抗って、大丈夫なことを装おうと笑顔を笑ってみせる。多分普段の不細工さに輪をかけて見れたもんじゃないと思うが、気持ち悪くなって手を話してくれるのでも別に俺は構わない。すると目論見が上手くいったのか先生は観念するように溜め息を吐いて、俺の腕を離した。

 

「やると決めたなら最後までやり通せよ。何事も中途半端が一番悪い」

 

 何処かの漫画かアニメで聞いたような台詞だが、俺にはお似合いの台詞だ。その通り。何でも中途半端が一番悪い。つまり中途半端な俺は最悪って事だ。

 

「そう、分かったわ。……貴方がそれを望むというならそれに従うわ」

 

 雪ノ下が俺の提案を承諾した。その言葉にどんな裏が込められているのかは雪ノ下を見れば一目瞭然。声も目も立ち振舞も俺を拒絶し、攻撃する。目出度く雪ノ下の敵認定を受けたという事だ。

 

 

 

「雪ノ下さん。お疲れの所悪いんですが」

 

「いいよ。私が雪乃ちゃんにお灸を据えてあげる」

 

 片一方の参加が決まった所でもう片方に声を掛けると、こちらも承諾を得られた。彼女と俺の企みには相違が有ったが、今は言うまい。時に芝居をする上でスタッフが役者に嘘を伝えるように、俺もまた彼女の勘違いを正さない。というか雪ノ下さんなら気付いていてなお気付いていない演技をしていても不思議ではない。

 

「では、私は審判を。悪いが戸塚と由比ヶ浜はこいつを見てやってくれ。どんな些細な事でも様子がおかしくなったら伝えてくれ。その時は病院に引きずってでも連れていくからな」

 

 平塚先生が戸塚と由比ヶ浜を呼び寄せて俺を預ける。細かい配慮まで行き届いていて感謝です先生。実際、立ってるのも相当に辛いので。

 

 体調の心配をしてくれる2人に適当に返事をしながら、コートの脇に戻ると俺は地面に倒れこんだ。座っているよりこっちの方がずっと楽なのだ。野外なので勿論埃や砂は有るがハードコートなので心理的な抵抗も少ない。そのまま90度回転した世界で俺はコートに立った雪ノ下と雪ノ下さんの2人を見た。

 

「ヒッキー、ゆきのんに何したの?」

 

「怒らせるよう事を言ったんだ。雪ノ下は悪くない。だからお前はあいつの味方をして良い」

 

 横たわる俺を心配そうにしながらも事情を聞こうとする由比ヶ浜。説明が手間だし雪ノ下のプライバシーもあったので、重要な事だけを伝えると由比ヶ浜は不満も露わに「そうじゃないってば」と憤ったが今はそんな彼女の相手をしている余裕は無い。由比ヶ浜の相手はまあまあと由比ヶ浜を諌める戸塚に任せてコートに意識を移す。

 

 コートの中は春の陽気とは対称的に息も凍るほど冷め切っていた。片方は死刑執行を待つ身で、もう片方がギロチンを振り下ろす死刑執行人なのだからそれも当然か。

 

 雪ノ下はある程度俺の意図を読んでいるだろう。雪ノ下が雪ノ下さんとゲームをしてコテンパンにされるという展開を俺が望んでいることを。正確に言えばそれは少し的外れで、俺は雪ノ下と雪ノ下さんのゲームの結果に関して確信など微塵も持っていない。先日の部室でのやりとりや姉妹の関係から、何となく推察している程度。なので実際ゲームが始まってしまえば意外とあっさり雪ノ下が勝ってしまうという目が有ることを俺は否定しない。だが、もしもそうならなかった場合に俺はしてみたい事が有るだけなのだ。

 

 加害者たる雪ノ下が被害者たる俺の目の前で雪ノ下さんに蹂躙される。それも誰の目にも明らかな彼我の戦力差を抱えたこの組み合わせなら万に一つも勝ち目がないと雪ノ下が思っているのなら、彼女はこのゲーム自ら負けを選ぶだろうか? それこそが俺の目的、贖罪に繋がると信じて彼女はこの暴力に身を任せるだろうか? きっとそれは否だ。雪ノ下は高潔で馬鹿だが、同時に負けず嫌いでも有る。加えて雪ノ下さんと真っ向勝負をせざるを得ないこの状況で、彼女がただ諦めるとは思いたくない。戦うことを選ぶと言った、変わり続けると言った彼女ならばたとえ惨めにねじ伏せられる事が分かっていても抵抗を諦めたりはしないと信じたい。

 

 そして3者の思惑が交錯したままゲームは始まった。

 

 

 ゲームの内容については割愛させて貰おう。それは予定調和とも言えるスムーズさで雪ノ下が雪ノ下さんに追い詰められた事も理由の1つだし、2人のテニスの腕が俺の幼稚な表現力でカバーできる範囲を易易と逸脱していたというのも有る。が、それ以上に気持ち悪くってそれどころではなかった。俺がボーッとしている間に雪ノ下は1ゲーム取られ、2ゲーム取られ、とうとう3ゲーム目までをストレートで落とし、雪ノ下の敗色濃厚な状況に由比ヶ浜と戸塚が沈黙。テニスコートで笑っている人間は雪ノ下さん1人になっていた。

 

 7ゲームマッチの試合なら後1ゲーム落としたら敗北決定。しかも雪ノ下という人間はスタミナがからきし無いらしく途中からすっかり動きに精彩を欠いている。試合運びは虐殺と言っても過言ではない程の一方的。それでも雪ノ下は諦めていない。ふらふらの体に気力を充溢させてラケットを構えていた。

 

 恐らくは最終ゲームになるだろう第4ゲームを前にしてコートチェンジが審判に告げられる。ネットを挟んでコートの反対に立つ姉妹はそれぞれコートの反対側を通って移動する。それぞれが位置について先生がゲーム再開を告げる直前。

 

「戸塚、悪いけど付き合ってくれ。俺1人じゃどうやっても役に立てそうにないけど、お前と一緒なら」

 

「うん。練習に毎日付き合ってくれた比企谷君と雪ノ下さんの為だもん。僕も頑張るよ」

 

 唐突なお願いだったが戸塚は快く頷いてくれた。

 

 俺は少しマシになった体を奮い立たせ戸塚を伴ってコートにずかずかと入った。

 

「どういうつもり? まだ試合は終わってないわよ? それともそんな事も分からないのかしら」

 

「誰も試合をしてくれなんて頼んでないぞ。俺はテニスをしてくれとしか言ってないんだからな」

 

「はあ?」

 

 刺々しい雪ノ下との対応もそこそこに俺はコートの反対側に居る雪ノ下さんに声を掛ける。

 

「雪ノ下さん。俺達も混ぜて下さいよ。昼前には解散のつもりなんですけど、俺もウォーミングアップだけじゃ不完全燃焼なんで」

 

「ふーん。比企谷君はそういう事する子なんだ」

 

 雪ノ下さんの視線が、俺のしようとしている行為が雪ノ下さんの意志に反するがそれで良いのかと問いかけてくる。俺は今できる精一杯で頷いて返事を返す。

 

「ええ、俺が楽しくないのに俺以外の人間が笑ってるなんてとてもじゃないけど許せない質なんですよね」

 

 最早値踏みの価値無しと評価されたのか雪ノ下さんの声色が変わる。実際俺の心づもりがきちんと伝わったというサインでも有る。後はこのゲームを雪ノ下さんにも飲ませなければならない訳だが。

 

「そっか。そういう事なら良いよ。でもそっちが3人でこっちが1人だけなんて不公平じゃない?」

 

「ええ、だからこっちには由比ヶ浜にも入ってもらいます」

 

「話し聞いてたのかな? 比企谷君」

 

「雪ノ下さんこそよく考えてみてくださいよ。俺はこの通り立ってるのもやっと。雪ノ下はスタミナ切れで実質戸塚と貴方の1対1みたいなものなんですから、さっきの試合の結果を考慮してもまだ足りない位です」

 

 雪ノ下さんがこの状況で逃げるわけがない。信頼と言い換えても良いくらいの気持ちで俺はそう考えていた。

 

 これでこの人がゲームを承諾しなければ俺と戸塚が雪ノ下の味方をしたという事実だけが残ってしまう。それではこの人の最初の狙いである雪ノ下を孤立させることが出来ない。この人が去った後、裏切りに遭ったと思っている雪ノ下と俺の雰囲気は最悪なものになるだろうが、それでもそれだけは疑いようのない結果として残る。加えて、その雪ノ下さんが下りれば内実はどうあれ雪ノ下は雪ノ下さんに敗北を喫しないまま今日を終えてしまう。それでは雪ノ下さんのイニシアティブが揺らいでしまうのだ。圧倒的なまでに強く、他人を惹きつける事で雪ノ下を隅に追いやってきたのに、今日に限って言えば自分だけが隅に追いやられる。

 

 それだけは出来ない筈だ。きっと、多分、恐らく。

 

 結局大した自信もない博打だったが、雪ノ下さんは「つまんないの」と一言漏らした後俺の提案に乗ってくれた。

 

 最初から俺が何かするつもりでいることを予見していた先生に試合の続行をお願いしつつ、由比ヶ浜をコート内に呼び寄せ4人で作戦会議をした。

 

「なになに? 一体どういう事なのこれ? ヒッキーはゆきのんと喧嘩してたんじゃないの?」

 

「別に和解した訳じゃないから安心しろ」

 

「安心できないし! ちゃんと説明してよ」

 

「はいはい、後でちゃんと説明してやるから今は話を聞け。いいか、俺と由比ヶ浜が前衛、雪ノ下と戸塚が後衛だ。由比ヶ浜は俺と反対サイドのベースラインに思いっきりよって外側のコースを潰せ。動かなくて良いからボールが来たら何でも良いから打ち返せ。俺も正直立ってるだけで一杯一杯だから、由比ヶ浜より役に立たんだろう。だから雪ノ下と戸塚で後ろに来たボールをどうにかしろ」

 

「突然しゃしゃり出てきたと思ったら今度は上から命令? そんなものに私が従う理由が有るのかしら? それにその杜撰な作戦。そんなもので姉さんに勝てるわけないでしょう」

 

 雪ノ下が冷ややかな視線でこちらを睨む。少しは平素の自分を取り戻したらしい。ここ数日萎縮しきったまま見せなかったいつもの迫力の有る目だ。まるきり敵に向けるようなそれは、出会った時向けられた無関心なそれよりも尚冷たい。今なら普段のそれが精々液体窒素位のもんだったとよく分かるものだ。

 

 いやこいつを虐めてた連中もよくもやったものだと感心してしまう位の凄然たる様だよ。俺なら間違ってもこんな奴標的にはしないね。

 

「別に従わなくても構わないぞ。俺と由比ヶ浜と戸塚のポジションが決まってりゃお前の担当なんて自然と決まってくる訳だし。てかお前はそんなぜいぜい息を切らしてんのにまだ1人でやるつもりかよ」

 

 雪ノ下は忙しなく肩を上下させて呼吸を整えることもままならない。今まで知らなかった事だが、こいつの弱点は体力らしい。それが問題にならない程度には色々と上手なんで表面化こそしなかったものの、そんな雪ノ下をして格上の雪ノ下さんとのゲームでは、頭に血が昇ってしまったせいで1点を落としてスタミナを温存する事さえしなかった為にパフォーマンスがガタ落ちしている。今のこいつじゃコートの左右にボールを振られるだけですぐにボールに追いつけなくなるだろう。

 

 それでも額に汗を浮かべて前髪を張り付かせながら、いつも通りを装うために虚勢を貼り続ける雪ノ下には尊敬の念さえ抱けそうだ。

 

 雪ノ下は腕を組み、見下ろしている筈の俺が逆に見下されているような錯覚を覚える態度で言った。

 

「これは……演技よ。姉さんを油断させるための。大体貴方一体何を考えているの? 私を怒らせたり、私と姉さんにゲームをさせたり。貴方は姉さんと」

 

 キッと俺を睨みつけ責め立てるように質問をする雪ノ下を遮る。

 

「何も考えてねえよ。俺達4人でやったって勝てるもんとも思ってない。俺は単に自分とこの部長があんまりにも情けない負け方しそうなもんだからお茶を濁そうとしてるだけだ。年末年始の特番とか見ないの?」

 

 超豪華ゲストを呼んでおっさんが滅茶苦茶するあの番組。終盤になるとなんちゃらチャレンジだのと子供まで出てきてそれはそれは素晴らしいお茶の濁し方をして終わるのだが、最初から無茶の有るマッチメイクなだけに最初から誰もガチな試合を期待してないのでなんだかんだ笑って見ていられるのだ。あんな風に最後笑っていられるかは別として、悲惨な現状を茶化す事くらいは俺にだって出来るだろう。さっき言った通り、俺以外の誰かが笑って終わるくらいだったら俺含め全員が沈痛な表情を浮かべていて欲しいのだ。

 

「貴方、……貴方は……」

 

「おーい、いつまでそうしてるつもりだ。試合を続けろ」

 

 再度雪ノ下の言葉が遮られる。今度は平塚先生だ。しかし審判からそう催促されては逆らうわけには行かない。俺達4人はコート内に散った。




本当だったらこの話で第1部を終わらせるつもりだったのですが、予想以上に間隔が開いたりした結果こんな結果に。どうにか来月末までに次を公開したいと思います。

それにしても忙しくてまともに執筆出来なかったのですが、世のSS書きさんとか兼業作家さんは本当に凄いですね。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。