本物のぼっち   作:orphan

16 / 18
第16話

「ぷはあ」

 

 と俺同様に息を止めていたのか雪ノ下さんが勢い良く息を吸い込みながら俺から離れる。俺もそれに続く形で呼吸を再開。どうにか事なきを得る。キス中に息が出来なくなり死亡とか伝説を残さずに済んで本当に良かった。

 

 そう荒い息と共に胸を撫で下ろしていると、その手に雪ノ下さんの手が重ねられた。俺の指よりも細いそれが、それぞれの指に絡みついていく。そのえも言われぬ感触ときたら、俺はそれが麻薬だと言われても納得しそうな心地になった。

 

「触れてるだけなのに結構気持ちいいんだね」

 

「心臓が止まりそうになるのでこういうの勘弁してもらっても良いですかね」

 

「えー、私のファーストキスを奪った感想がそれ?」

 

 拗ねたように言ってみせる雪ノ下さんだが突っ込みどころが有り過ぎる。てかファーストキスだったのかよ。全く恥じらいとか躊躇とか見えなかったし、おまけに今だって照れた様子すらないじゃねえか。こんなのがファーストキスなんて絶対詐欺だ。

 

 雪ノ下さんはそのまま俺の上からどけばいいものを、上体を起こしはしたものの俺の体を跨いで腰を下ろした。こ、これじゃベッドから這い出して逃げることも出来ん。更なる暴虐の嵐が吹き荒れる予感に俺のこめかみをを冷や汗が伝う。

 

 不幸が起こるときには連続して起こるものである。特に不注意で起こるタイプは正にそう。自己成就的予言とも言えるこの手の予感はなんだかんだ外れた事がないのに、そんな事を思ったりもした。これ以上の失態とは何が有るだろうか。

 

「大体今のはなんですか? こんな事して俺が貴方のいいなりになるとでも思ってるんですか?」

 

「んーん。こんな事しなくても君は私のお願いを断ったりしないと思ってるよ。それに今のはご褒美」

 

「何に対するご褒美ですか。キスなんて恐れ多くてあまり受け取りたい類のものじゃないですが」

 

「そりゃ勿論雪乃ちゃんを裏切る事に対しての」

 

 言いにくそうな事をはっきりと仰る雪ノ下さん。そういうのはもっとオブラートに包んで欲しいと思っても、この人の悪意ならそのオブラートにも大穴を開けそうだと1人納得する。

 

 それにしたって雪ノ下を裏切るとは穏やかじゃない。人を虐めるのが嫌いとは言わないが、相手くらい自分で選びたいものである。だもんでそういうお願いは誰のどんなお願いであろうとお引き受け出来かねますが。

 

「心配しなくても雪乃ちゃんを虐めてなんてお願いしないよ。でも、ここまで私が白状してるのに私のお願いを聞いてたら、それって立派な雪乃ちゃんに対する裏切りだと思わない?」

 

「俺に関与しようがなかった虐めが、俺が関与できる虐めになるって話でしょう? それに俺があいつの庇い立てをする義理もありませんし」

 

 何より、この人の雪ノ下へのスタンスを改めさせるなら雪ノ下をどうこうするよりはこの人へアプローチした方が手っ取り早そうだ。雪ノ下の暴力沙汰など耳にした事はないが、昨日雪ノ下さんに関してデリカシー皆無の話を振っただけであの反応。間違いなく雪ノ下から雪ノ下さんへの意識も尋常なものではないだろう。

 

 トラウマの治療に付き合ってやる義理など、それだけは間違いなく無いのだ。

 

「って、いつの間にか俺がお願いを聞く前提に」

 

「だって君、断れないでしょ?」

 

 そう言うや否や、雪ノ下さんの顔が、晴天の空のような晴れ晴れとしたそれが曇る。伏し目になり、唇が耐え難い物を耐えているとでも言いたげに真一文字に引き結ばれる。偶然にも太陽に雲がかかって俄に日が陰る。誤解しようのない落ち込んでいる表情を作ってみせたのだ。

 

 それが作りものである事なんて百も承知だし、きっと雪ノ下さんが俺がそう思うことだって知っていると俺は知っている。

 

 それでも反射的に俺の手は動いてしまう。雪ノ下さんに手を差し伸べようと。

 

「うんうん、やっぱり君は『優しい』ね」

 

 動かしたのは雪ノ下さんに握られていない方の手だった筈だが、そう言った雪ノ下さんによっていつの間にか捉えられている。マウントポジションで両手を塞がれている格好になったのだ。

 

 最早どんな抵抗も無駄と悟る。いや、そう悟らされたのか。またの名を諦念という。

 

 俺は腕の力を抜いてやけになったこういった。

 

「分かりました。俺の気が乗る範囲で雪ノ下さんのお手伝い、させて貰いますよ」

 

「そう嫌そうな顔をしないでって。代わりにお姉さんが比企谷君の悩みも解決してあげるから」

 

 正に頭痛の種が何をと思わないでもなかったが、雪ノ下さんの言葉には茶化すような調子がない。

 

 天井を見上げる格好の俺の視界に雪ノ下さんが乗り出してきて、真っ直ぐに俺を見下ろしながら言った。

 

「それじゃ、ご褒美の前払いを」

 

 今度も近づいてくる唇を見逃すほど俺は間抜けではなかった。このような状況でも実はまだ反抗の手段は残されている。彼我のウェイトの差、これを利用するのだ。

 

 俺の腹部に乗っている雪ノ下さんの顔が俺に接近するということは、当然重心は前へ移動する。膝の辺りに軽く力を入れてみると、よし雪ノ下さんの体が持ち上がった。それを確認すると俺は間髪をいれずに更なる力を脚に込めた。

 

「おっ?」

 

 驚きの声を上げる雪ノ下さんを他所に、そのまま腹筋や背筋、首にある僧帽筋に力を入れて全力で反り返る。一般にブリッジと呼ばれる運動を行おうというのだ。ここまでの感覚からも言って雪ノ下さんの体は問題なく持ち上がるだろう。そうしたら前傾気味に倒れる雪ノ下さんの体をベッドから転げ落ちないよう補助しながら自分は股の間から抜け出せばいい。或いは雰囲気さえぶち壊しに出来れば相手も諦めるに違いない。驚き硬直した女性相手ならその程度の事は出来るとも自負している。

 

 勝利を確信した俺は、驚いた表情の雪ノ下さんを見上げながら心の中で勝利宣言をする。

 

 そう簡単に何度も唇を許すほど童貞を甘く見るなと。

 

「よっと」

 

 そう雪ノ下さんが言うと同時にふっと腹の上から重みがなくなった。膝で立つことによって姿勢を制御しようというのだろう。だが、如何に雪ノ下さんの脚が長かろうとも俺の体をまたいだ上で何十センチも余裕が有る訳じゃあるまい。更に。

 

「うおおおっ!?」

 

 と高さを出そうと踏ん張った瞬間。何かが俺の脚に絡みついて曲がっていた脚を強制的に伸ばした。いや、これは脚を払われたのだ。

 

 衝撃とともにベッドに着地する俺の体と混乱する俺。そのどちらにもこの段階で言えた事は、上には上がいるという事だ。

 

「いやー、小癪だねえ比企谷君。それに愚かだよ。この程度で私の事をどうにか出来るつもりだなんてさ」

 

 先程とは真逆に勝利を確信した雪ノ下さんが微笑んだ。嗜虐的な輝きを宿した瞳と下弦の月を思わせる唇に悪寒が走った。

 

 駄目だこのままでは人間としての尊厳まで奪われる。そう予感した俺は、そう判断して本当に本当の最後の手段に出た。この際地獄に落ちるのが数刻遅れるだけでも構わない。

 

「だれ」

 

 叫ぼうとした矢先口を塞がれた。お陰で途中からくぐもった音が雪ノ下さんの指の間から漏れるだけで、人を呼ぶことが出来ない。くそっ、昼間とはいえ声さえ廊下まで届けば通行人位居るだろうに。それに普通ここまでやったら離れる位はするだろうに、どうしてこの人はここまで頑ななんだ。

 

「しっ、静かに。じゃないとそれはもう人に言えないようなあんな事やこんな事をしちゃうけど」

 

 冗談めかしちゃいるが、嘘ではない。避けようとしていた筈の雪ノ下さんの顔が口吻も出来る距離まで近づいてそう告げた。

 

 思春期の男子高校生の期待に答えてエロい事をしてくれるなら万々歳だが、この人の事だからマジで人に言えないようなことをされそうだ。俺のような口の軽い人間がこの歳で墓まで持っていく秘密を抱えるというのもしんどい。

 

 とうとう心の底から白旗を揚げた俺は、目配せと頷きで雪ノ下さんの要求に従う事を伝えた。

 

 それを信じたかは分からないが雪ノ下さんも俺に微笑を浮かべて答えた。あっさりと手製の口枷は外されたが二度目はないと思った方がいい。叫び声の代わりに冗談を1つ。

 

「とても女性から男に対する脅迫とは思えない文句ですね。普通こういうのって男女逆なんじゃ」

 

「あら? 比企谷君がお姉さんにこういう事してくれるっていうんなら大人しく組み伏せられるけど」

 

「その前に姉さんは警察に出頭すべきよ。知っているかしら? 日本の法律では女性には強姦罪は適用されないけれど、強制わいせつ罪は適用されるのよ」

 

 気が付くと、病室の入り口に雪ノ下が立っていた。学校の制服を来てスクールバッグも肩に掛けている。その割にまだ放課後でもなさそうなこの時間にここにいることには疑問を覚えるが、今はそんな事はどうでもいいだろう。俺の救いを求める心の声が神に聞き届けられたのだから。

 

「雪乃ちゃん。遅かったね。もう来ないかと思ってたのに」

 

「あのー、俺の腹の上で話を続けようとする止めて貰っていいですか?」

 

 そのまま、何事も無かったかのように会話を続けようとする雪ノ下さんに突っ込む。もう、ここ数十分の間に雪ノ下さんの人間像がぼろぼろである。てか雪ノ下もこの状態の姉を見て驚くとかなんかないのかよ。

 

「そんな訳ないでしょう。見た瞬間軽く気を失ったわ」

 

「疑問に答えてくれてありがとう雪ノ下。でも俺の心の中を読むのは止めて欲しい」

 

「貴方の心の中なんて例え読心術を身につけていたって見ようと思わないわ。それに貴方程度の考えなんて顔を見れば大体分かるわ」

 

 恐ろしい洞察力だ。それなら大変結構な事だが、雪ノ下さんだけでなく俺まで汚物を見るような目で見られているのは何故だ。

 

「だらしなく伸びた鼻の下を見れば分かるわ。全く、これだから童貞は」

 

 やれやれと首を振る雪ノ下だが、それはもう男が背負った原罪のようなものだ。それを咎立するのはむしろ人として狭量とさえ言えるだろう。それを表すかのように雪ノ下の懐が浅いというか小さいのも納得出来る。これだから貧乳は。

 

「比企谷君? 私今から帰ってもいいのだけど」

 

 全く同じ仕草を返した俺にミラーリング効果とやらで好感を抱く筈の雪ノ下が刃物のように鋭い視線を向けてそう脅してきた。いやだなあ、冗談じゃないですか。

 

「ぶーぶー、お姉ちゃんを置いてけぼりにして2人で仲良くするなんてズルいぞー」

 

 雪ノ下さんが口を尖らせてブーイングをするが、全世界にこれが『直前まで妹を妹の友人を抱き込んで虐めようとしていた姉が白々しい台詞を吐く瞬間』として発表したい。

 

 が、雪ノ下が来たことで漸く雪ノ下さんも気が変わったのかスルスルとベッドから降りて元居た椅子の上へと戻っていった。

 

 俺はというと乱れた掛け布団を払いのけ、ベッドの下からスリッパを見つけ出すとそれを履いて丁度雪ノ下を間に挟むようにして雪ノ下さんと距離を取った。ぶっちゃけ雪ノ下を盾にした。

 

 雪ノ下は眉間を揉みながら溜息を1つ吐いた。

 

「比企谷君、貴方には女性を盾にするという事に倫理的抵抗を感じたりしないのかしら?」

 

 気のせいか雪ノ下のこめかみには青筋が浮いている。なんだ? 何故俺が怒られる。

 

「俺はフェミニストなんだ。だから俺より腕っ節の立つお前を女性だからという理由で理不尽にその実力を発揮する機会を奪いたくないんだ」

 

「そうね、私もたった今比企谷君に私の実力を……」

 

 雪ノ下の言葉が尻切れトンボになる。原因は不明だが、視界の端で雪ノ下さんが楽しそうに笑っている。雪ノ下さんが楽しそうなのが妙に癪に障った。

 

 私の実力をどうしたいのか。台詞の続きを待ってみても雪ノ下は所在なさ気に視線を動かしたり、俺の目を見ては怯えるようにして目を逸らした。

 

 いつだかの由比ヶ浜とそっくりである。鬱陶しいこと甚だしい。 

 

「雪乃ちゃんは比企谷君に謝りに来たんじゃないの?」

 

 横合いからちょっかいを掛ける雪ノ下さん。正直その気持ちは痛いほどよく分かる。俺だって昨日の今日でなかったら謝れコールで場を凍らせてる所だからな。

 

 しかしなんだ。人目の有る所で謝罪というのもやり難かろう。

 

「あー、なんだったら俺は席を外すか?」

 

 小粋なジョークのつもりだったのに姉妹揃って射殺さんばかりに睨まれた。

 

 本当に面倒くさい奴らだ。

 

 立ち尽くす雪ノ下を前にして脳内でカウントダウンを始める。何故ってそりゃこれからする事には心の準備が必要だからだ。

 

 息を吸って吐く間にゆっくりとカウントを進め、5つで動く。よし、よし、よし。やるぞ。

 

 バクンバクンとうるさい心臓の合間にワンツースリーフォー、5つ数えて雪ノ下の腕に狙いを定めて一直線に。

 

「比企谷君?」

 

 狙いは惜しくも逸れたが、それでも長袖のシャツの袖を掴んだ。俺って本当にヘタレと自重しながらも決して離さず、そのまま病室の外に釣れ出す。もうね、この段階で腕を振り払われやしないかと心臓ドッキドキです。明日は筋肉痛ですよ。

 

「行くぞ。取り敢えず逃げるんだ」

 

 雪ノ下さんが居たんじゃ雪ノ下との会話はままならない、そして格好の餌食を前にした雪ノ下さんはテコでも動かないだろう。ならば戦略的撤退しかない。

 

「急げ、追いかけられたら病院内で鬼ごっこだ。お説教が追加されたら堪らん」

 

 雪ノ下の反応を確認する事までは出来なかったが、手を引いてみても抵抗は感じなかった。それを了解のサインと受け取って俺は雪ノ下の袖を掴まえながら病室を後にした。

 

 雪ノ下さんが立ち上がったかどうかは分からない。あの人なら音1つなく椅子から立ち上がるくらい訳無いからだ。

 

 とはいえ、幸いな事にあの人ヒール履いてたからな。追いかけて走るにしろかなり苦労はするはずだ。おまけに今度病院内で俺と騒ぎを起こしたら親からも大目玉を食らうだろう。

 

 2分ほど掛けて何度も通路を曲がり、人通りがそれなりにある所で、人目が切れた瞬間を狙ってさりげなくリネン室に侵入。追跡者の気配を探ったが、足音は通り過ぎるだけでこの部屋の前で止まったりはしなかった。

 

 ラブコメ漫画よろしくいつまでも袖を掴んでいるような愚を犯す程俺は愚かじゃない。速やかに雪ノ下の長袖から手を離して逃避行の無事を喜んだ。

 

「最悪病院から出て行くしか無いと思ったけど、思いの外でかい病院で助かったぜ」

 

「昨日父が顔の効く病院に移したのよ。万が一にも騒ぎにならないようにって」

 

 罪悪感なんて物が目視可能ならば、今の雪ノ下の顔に付着してるのがそれだろう。はっきりとそう分かる顔をして相変わらず俯いている雪ノ下。口を聞いたからには完全復活してくれたものと期待したが、流石にそこまで単純でもないらしい。由比ヶ浜ならきっともう直前の事など忘れてあっけらかんと笑っているだろうに。

 

「ほう、流石地方議員。病院に顔が効くとか一般人のスケールじゃねえな」

 

「そうね。だから前の時だって」

 

 雪ノ下の口角が右側だけ持ち上がり皮肉な笑顔を形作る。気のせいか室内の湿度が増してくる辺り、こいつのその場の空気を作る能力はとんでもないレヴェルだ。

 

「待て待て、もうその件に関しちゃ決着が着いただろうが。俺が蒸し返すなら兎も角、お前がそんな事口にしてどうする」

 

 虐めてオーラを発する生物ユキノシタを前にして、俺は脊髄の辺りで何かがウズウズと蠢くのを感じながらもユキノシタを慰める。あ、但しこれ俺基準だから。相手がどう受け止めるかとか全くワカンネ。

 

 大体こいつボッチの癖に孤高の存在として学校中にその名が知られていた割に本当に豆腐メンタルというか紙装甲というか。紙しか纏ってない女子高生とかなにそれ最高だな。

 

「で、お前何しに来たの? まだ学校終わって無くね?」

 

 受付前を通った時に確認しておいたが時刻は昼過ぎ、学校の昼休みも半ばを過ぎた辺りだった。学校を抜け出してお見舞いに来るなんて、いつの間に雪ノ下にフラグを立てたのか心配になる行動である。

 

「それは……」

 

 また黙りかよ。こういう時人はどんな風に言われても追い込みを掛けられているようにしか感じない。俺がそうなんだから全人類的にきっとそう。葉山の様なリア充オブリア充ならばここで笑顔の1つでも浮かべて緊張を解すのかもしれない。俺に出来ることなんか薄気味悪いニヤけ顔を作る位だ。いやん、もっと湿っぽい空気になりそう。

 

 はっぱが必要だ。誤解するなよ。ヤバイ葉っぱの事じゃない。発破だ。この場の雰囲気全てをぶち壊しにするもの。そう俺だ。

 

「お前は俺に一体何を期待してるんだろうな?」

 

「え?」

 

「俺みたいな根暗で引っ込み思案で事なかれ主義のザ・モブ相手にこんな所で2人きりで押し黙るとか、時間の無駄にしかなりませんよって言ってんの。モブってのは顔も名前も分からねえ、何の役にも立たないからモブってんだ。もうあれだ壁相手に話しかけた方がなんぼかマシってもんだ」

 

 やまびことか返ってくるかもしれないからな。でも俺じゃそれすら期待できない。もうね、相槌とか打つ前に相手の悪い点指摘しちゃうからね。おかげで女子とか敵ばっかよ。

 

 キツイ言い方になったが、姉もいない現状で多少はこいつの負けん気も復活したのか今度はきちんとリアクションが返ってくる。

 

「貴方が一般人だなんてぞっとしない世界ね。3日で世界が滅びる所が目に浮かぶわ」

 

 今すぐ核戦争が始まったって3日間は人類が存続しそうな事を考えると俺って核以上の影響力って事か。とても高評価貰ってんだな俺。

 

 それに会話が成立すればオールオッケー。しかし、毎度この調子だと俺の貧困なボキャブラリーが直ぐに枯渇しそう。てか既にしてる。

 

「まあ、お前がよくやってるのも分かるけどな。何回か話して思ったけどよくあの人と姉妹やってるな」

 

 あれの相手してたら仏陀じゃなくても悟り開きそうだ。そこいくとまだ生きてる雪ノ下とか仏陀以上。

 

「姉さんの事をそんな風にいう人初めて見たわ。大抵の人は褒めそやしてばかりいたのに」

 

「そりゃあのえげつねえとこ見てない人ばっかって事だろ。それとも何? あれを見てそんな事言うやついんの?」

 

 ブレインウォッシャーかよ。俺の目より先にこの世界の秩序の乱れを心配してしまう程。それとも何世の中筋金入りのドMばっかかよ。

 

「確かにそうね。姉さんが初対面から一貫して外面を使わない相手なんて初めて見たわ。貴方もしかして人じゃないのかしら?」

 

「もしかしたら神様かもしれない」

 

「少なくとも正気じゃないことだけは確かなようね」

 

 いつもと同じような会話の応酬が始まる。こうなって漸く一安心。やっぱり美少女と密室で2人きりとか精神衛生上よろしくないからね。だからさっきから心がチクチクするのは雪ノ下に対する殺意とかじゃない。

 

「俺が新世界の神になったら」

 

「日本では災いしか為さない神は調伏されるものなのよ」

 

 便所の神様とか多分そういう系統よね。虐げられた結果便所に押し込まれるとか何そのいじめられっ子。日本神道の時代からそれとかマジ現代のいじめっこも随分トラディショナルないじめやってんのな。温故知新て奴か。

 

 さて、ここからが問題だ。雪ノ下がまともになったのは良いが話をさせるにはどうしたら良いか。

 

 リネン室ってのは大概ちょっと薄暗い。ご多分に漏れずこの部屋もそうなのだが、そこに居る雪ノ下は思いの外違和感が無い。このリネン室特有の物置感というか、うらぶれた感じが奉仕部っぽく感じられるからだろう。そんな所でしか生育できない植物を外に連れ出す方法なんて俺は知らない。

 

 雪ノ下が組んだ腕は己を抱きしめる抱擁か、それとも外界を拒絶する鎧か。

 

 他人との距離感が上手く取れないこいつと、何もかもお構いなしの俺とじゃ相性が悪すぎる。そんな事初めて会った時から一目瞭然だったのに、こうも居心地が良かったから長く一処に留まりすぎたのかもしれない。

 

「悪かったな」

 

「……何のことかしら?」

 

 俺は雪ノ下さんみたいに雪ノ下に思うところなどない。こいつが強くなれば良いとか、弱くなったら嫌だとかそんな事はどうでもいい。こいつの喜怒哀楽も性格も知っちゃこっちゃない。

 

 結局の所俺には友達を作る資格すら無かったのだ。誰一人他人を気に掛けない俺になどそもそも友達を作ろうとすら思えない俺になど。

 

 だからこれは俺からの精一杯の恩返しである。こんな俺にすら友達を作ると約束をした馬鹿な女への。

 

「昨日の事だ。お前を怒らせるような事を言ったろ。誓って言うが態と怒らせるような事を言った訳じゃないぞ。あれは素だ」

 

 雪ノ下の肩が震える。

 

 やはり雪ノ下さんの言った通りなのか。当たり前といえば当たり前だが、俺相手なら不要だとも思う。そもそも人に頭を下げられるような存在じゃないからな俺は。

 

 そんな俺の事は置いておいて中々話を切り出せなかった雪ノ下としては驚きと共に気不味さを覚えたことだろう。客観的に見て罪の大小は明らかだ。それに世間様でも言われている事だ、どんな事が有っても手を出したら負けだと。

 

「べ、弁明になっていないわよ比企谷君。普通ならそういう時態とやったと言う所じゃないかしら?」

 

 動揺が簡単に現れる。これじゃあ駄目だ。

 

「お前に好かれようとは思ってないからな。それとその後お前にテニスをやらせたのは単なる思いつきだ。何か考えが有っての事じゃないぞ」

 

 本当はこれは嘘だ。余りにも的確に雪ノ下の急所を抉ったあの一言こそ完全に天然だったが、ああされた時には既に思いついていたのだ。そして我慢の限界だった。

 

「待ってちょうだい。貴方何を言っているの?」

 

 こんな薄暗い部屋でも明かりを点けなくても分かるほど顔を青褪めさせた雪ノ下が顔を上げる。いつもの自信と冷気を湛えた瞳からは想像も出来ないほど頼りなく揺れる瞳には、もうなけなしの怒りが一滴しか残っていない。

 

 それでもお前は戦わなきゃいけない。俺はもう諦めるが、お前はきっと諦めてはいないから。

 

 あの時ああ言った時から俺はお前がその言葉を実現するのを心の何処かで期待しているから。

 

「何って、別にお前に昨日の事を謝っただけだ。あれは俺が悪かった。もうこれで良いだろ。戻るぞ」

 

 そう言ってドアに手をかける。俺の病室が何号室だったかも、そこまでの道筋も覚えてないが受付に聞きゃ分かるだろ。楽観は得意だ。時々失敗もするが上手くいくこともある。

 

 だが、ドアに掛けた手はドアを開くことは無かった。雪ノ下の手がそれを妨げたからだ。俺の直ぐ側に居た雪ノ下が俺の来ていた服の袖を摘んでいる。

 

「姉さんと何を話したの?」

 

「お前には関係ねえよ。言いたかった事はそれだけか?」

 

「……いいえ、違うわ」

 

 まるで力の篭っていない雪ノ下の手は、その気になれば簡単に振り払えるものだったが俺はその手を振り払わなかった。背中を向けた先の雪ノ下とその朧気な繋がりだけが俺を繋いでいる。それは申し訳ないことに彼女からの歩み寄りが有っての物だったが、贅沢は言ってられない。何せ俺だからな。

 

 室内に大袈裟な呼吸音が響く。深呼吸でもしてるのだろう。即断即決など強者にしか出来ない行為だ。俺や雪ノ下の様な弱者には怯えながら一歩ずつ確かめながら歩いて行く道しかない。だから俺は雪ノ下を笑わない。こいつは歩いていける人間だから。

 

「……ごめんなさい」

 

 その一言言うのにどんだけ迷ったんだか。もしかしたらこいつは人生で一度も謝った事が無いんじゃないかと思ってしまうほど、苦々しげに呟かれたそれは、しかしどう取り繕った所で唯の謝罪だった。

 

「貴方の言った通り、私は姉さんに友達を奪われ続けてきた。私より綺麗で、私よりずっと快活で、私より頭が良くて、私より優しくて、私よりなんだって上手く出来た姉さん」

 

 所々つっかえながらも、もう雪ノ下は口を噤まない。決壊したダムの様に溜まったそれを受け止めるのは蟻の一穴を開けた俺の責任だろう。ヘドロの中に鬱積した口触りの悪い何かを、それでも吐き出し続ける雪ノ下の話をただ黙って聞き続ける。

 

「姉さんが居れば、どんな場面でも姉さんが主役だった。姉さんが居れば、もう私は要らなかった。勉強も、ドッジボールもサッカーも、縄跳びやバスケットボールでも何をしていても姉さんに奪われた。私なりに努力して上達を図ったけど、それでも姉さんには敵わなくて。姉さんがいない所ならって頑張ったけれど今度は私自身がやり方を間違えた」

 

 集団にはトップが必要だが、それは1人で十分だ。雪ノ下さんが常にトップで居続けたなら、彼女がどんな人だって惹きつけるならば、彼女はその数だけ敵対する集団のトップを吸収していった筈だ。それが屈従なのか恭順なのかは別として。それを手本に出来るほど雪ノ下が器用だっただろうか。答えは多分ノーだ。そしてこいつ自身のやり方にしろ、今のこいつを見てる限り上手い方法じゃなかったのだろう。

 

 だから。

 

「孤立したわ」

 

 雪ノ下に掴まれた袖が小刻みに揺れている。雪ノ下の声も。

 

「姉さんから友人を取り戻そうと躍起になればなるほど私は失敗した。そして私は私の友人だった人とも衝突した。姉さんに盗られたのが悔しくて、姉さんを慕うあの人達が憎くて仕方なかったから。別に誰彼構わず好かれたかった訳じゃない。私が可愛いからって近づいてきた人達なんかどうでも良かった。私は私の友達が欲しかったから」

 

 これは傷だ。雪ノ下の心の傷。触れただけで開いて出血するようなまだ癒えていない傷。見ているだけで、思い出すだけで身を切られるような痛みを思い出す傷。それに今雪ノ下自身が触れている。

 

 痛くない訳が無い。望んだわけでもなく、赤の他人のこの俺が無思慮に踏みつけて出血させた。今だってその傷を塞ぎ切れず、雪ノ下の心は血を流し続けている。

 

「姉さんは凄い人よ。母さんだって父さんだって姉さんには期待してる。……でも、私がいくら姉さんに近づこうとしても姉さんは私を受け入れてくれなかった」

 

 そしてここがこの姉妹の行き違いだ。雪ノ下は雪ノ下さんを羨んで後を追い、雪ノ下さんは雪ノ下を妬んで突き放した。どうしようもなくすれ違っていて、どうしようもなくお互いに一方通行だ。

 

「こうやって私がひとりぼっちになって、姉さんは殆どちょっかいを掛けてこなくなったわ。でも、でも……。奉仕部に貴方が来て、由比ヶ浜さんが来て、いつの間にかまた姉さんが。姉さんがまたテニスをやるって言ったの。小学校の頃、私の友達の前で言ったみたいに。だから怖くなった。あんな風に私や由比ヶ浜さんに接しておきながら、また姐さんは私から由比ヶ浜さんや、……貴方を奪っていくんじゃないかって」

 

 何だか全身が痒くなるような話を聞いてしまった。素直に光栄だと思っておくつもりだが、やっぱりこういうのはどうにもな。

 

「貴方に言われた時、昔の事が頭を過ぎったの。それで頭が真っ白になって、貴方が姉さんに盗られた気がした。そしたら」

 

「カッとなってぶん殴ったか。なんだ単に腹立ち紛れに殴られたのかと思ったら随分上等な理由で殴られてたんだな俺」

 

「ごめんなさい」

 

 二度目のそれは一度目に比べてはっきりとした響きだった。ふっと空気が揺らいで、振り返ると雪ノ下が頭を下げていた。腰まで長い髪の毛が重力に負けて雪ノ下の頭から垂れ下がっている。謝罪の姿勢まで綺麗だってんだから本当にこいつらと来たら。俺はその長い黒髪が万が一にも床に触れやしないかと場違いな心配をしながら頭を下げる。

 

「許すよ。それに俺もごめん。無神経だった」

 

 女性に頭を下げられるという前代未聞の珍事件にうっかり土下座しそうになったのは俺だけの秘密だ。

 

「さっきお前に好かれようと思ってないつったけどな、俺はお前の事割りと好きだ」

 

「え? あ、あの比企谷君?」

 

 リノリウムの白い床に視線を落としながら告白する。

 

「世界を変えるなんて言ったお前があんな奉仕部の教室にしか居場所が無かったり、雪ノ下さん相手とはいえ手も脚も出さないままやられるの見てるとそうじゃねえだろって言いたくなったんだ。世界を変えるなんて土台無理な話だ。こてんぱんにやり返される事だって有るに決まってる。だけどそう言ったお前が、不覚にもちょっと凄えなと思わされたお前が戦いもしないまま終わるのは勝手な話だけど嫌だった」

 

 らしくもない話だ。

 

「期待してたって言うのかね。俺にゃどう頑張っても自分を変えることも世界を変えることも出来ねえ。でも、お前なら出来ると俺は思った。世界だか自分だかどっちかなんて関係ない。お前なら精一杯やって何か変えちまうと思ったんだ」

 

 男の癖に女々しくて、その上情けない話である。他人に自分の願望をおっ被せた挙句に、それが叶わないとなると八つ当たりなんて。

 

「だからあれは八つ当たりだ。お前には俺を怒る権利がある」

 

 俺を詰って、罵って、張り倒す権利も有る。

 

 ところが雪ノ下は控えめに。

 

「もう、分かったから頭を上げてちょうだい」

 

 と言った。あれか、顔を上げた所をビンタだろうか。

 

 おずおずと頭を上げると、雪ノ下も俺と同じように頭を上げてこちらを見ていた。

 

「比企谷君」

 

「は、はひっ」

 

 いかん、声が震えた。情けない声を上げた事を恥じる異常に歯を食いしばるべきだろうか。

 

「ありがとう。私の事許してくれて。だから私も貴方の事許すわ」

 

 パッと目の前で光が弾けたのかと思ったら雪ノ下が微笑んでいた。月光の下で咲いた花を連想させる儚さを帯びたその笑顔は、奇しくもこの部屋の中でなら絶対に見逃しようもなく輝きを放った。

 

 それからその花弁に紅が差した。

 

「それと、その。比企谷君、ああ言ってくれたという事は、その……」

 

 さっきまでの嫌な沈黙ではなく、色々とその内心を放出させている不思議な沈黙の中で雪ノ下がくねくねと不思議なダンスを踊った。

 

「別に、その嫌という訳じゃないのよ。けれど、その私達まだ知り合って日も浅いし、私は別に貴方の事そういう風に思っていた訳でもなくて」

 

 うん? なんだ? 何か致命的な誤解を招いてしまったような。そんな悪寒がするぞ。それも比喩や冗談じゃなく文字通り致命的な誤解を。だって、後ろにある扉からカリカリ、カリカリって音がするし。なにこれ!?

 

 

 

 数秒後、扉が勢い良く開け放たれて雪ノ下さんが現れた後、聞くも涙語るも涙の修羅場が演じられた事は今はもう思い出したくもない過去だ。

 

 それらについて語る事が有るとしても、それはきっと今じゃない。

 

 俺が今言いたいことは1つだけ。他人と関わるなら他人に関心を持つことだ。他人が好きなら好かれる為に何をすべきか。嫌いなら細心の注意を払って何事もなく過ごすために。自分の事しか考えていないと良かれ悪しかれ酷い目に遭う。

 

 俺みたいにな。




もうね。雑ってもんじゃないですよ。

でもね、終わりました。終わりにします。

やったね。これで話に一区切り付けた最初の作品が出来たよ。

いやー、駄目だ。いろはすとか絶対出せねえ。てかまずこの雪ノ下誰だよと自分自身突っ込みたい。合体事故かと。

とはいえ、ここまで来てしまった以上引き返しはすまい。

読者の皆さんには申し訳ないですがこれ以上手元に留めておくと削除してしまいそうなので、これで第1部終了とさせて頂きます。

お付き合い下さり誠にありがとうございました。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。