本物のぼっち   作:orphan

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第5話

「ただいま」

 

「おかえりー」

 

自転車を押しながら2人を我が家に案内し終えた俺が玄関を上げて帰宅を告げると今から妹の返事が帰ってきた。好奇心と緊張が込められたその声に再び後悔を感じた俺だったが、電話からこっち突然重苦しい雰囲気を漂わせている雪ノ下と由比ヶ浜の事を考えれば、それを打開しうる妹の存在はむしろ歓迎すべきなのかもしれない。

 

「お邪魔します」

 

「お、おじゃましまーす」

 

だが、そう思ったのも雪ノ下と由比ヶ浜の二人がそう言うまでの間であった。玄関に響き渡る2人の声を聞きつけるやいなやドタドタと足音を響かせ、妹・比企谷小町は玄関に現れた。閉じられていた今の扉をこれでもかと力一杯に開いたのだろう。完全に開いた扉がその慣性を殺しきれずに壁にぶつかり音を響かせながら跳ね返った。小町はそれを気にも掛けずお客様を見つめると

 

「おっ! お兄ちゃん!? 一体全体どういうあれでこんな可愛い女の子を家に! 信じられない、お兄ちゃんの馬鹿、アホ、ごみいちゃん。そんな事までするとは思わなかった! 小町的にポイント低いよ!!」

 

信じられないのは二人の顔を見るなり俺を犯罪者扱いする小町の方である。てかあれとかそんな事とか勝手な妄想で俺を犯罪者扱いする小町に八幡的にもポイントが底をつきそうである。

 

「小町、よく見ろ。二人共ちゃんと目が開いてるだろ? 誘拐とかじゃない」

 

「それじゃ洗脳? 人質でも取ったとか? 何にしろごみいちゃん如きがそこの人達を合法的に家に連れ込むなんて不可能だよ」

 

カッと目を見開いて口の端から白い泡まで飛ばして言っている辺り小町の本気度が伺える。こいつ本気で怒ってやがる。普段から兄である俺に向けるものとも思えないツリ目がちな目が、はっきりと柳眉を逆立ている。

雪ノ下と言い小町と言い俺を何だと思っているのだろうか。この調子だと両親にも同様に思われているだろうから先手を打って今日辺り3人を説教してやるべきなのかもしれない。とはいえ、今は小町を落ち着かせなければ。さもなければすぐにでも俺は警察で臭い飯を食う羽目になることだろう。

 

「おいおいお兄ちゃんがそんな事までして人を攫うと小町は思ってるのか?」

 

「だって……だってそうとでも思わないと中学時代に香水付けた同級生に『お前臭えんだけど』とか耳を疑う発言して女子を的に回したデリカシー0のごみいちゃんが女の子と一緒に居られる訳がないし」

 

「俺だってあの1件から学んだという事だ」

 

「それだけじゃないよ。ごみいちゃんは移動中歩くのが遅いとかいう理由で同じく中学時代のクラス会を1人抜けだして帰ってきたような癇癪持ちなんだよ? そのごみいちゃんが高校からここまで人を案内なんて出来る訳がないんだよ!!」

 

「それはヒール履いてきたとか訳分かんない理由で配慮を求めてきた連中に腹が立ったから帰ってきたんだ。雪ノ下と由比ヶ浜も何とか言ってやってくれよ」

 

俺の過去の所業を熟知しているが故に俺を信じようとしない小町相手に俺が何を言った所で柳に腕押しだ。一気に面倒くさくなった俺は小町の説得に事の発端となった2人の手を借りることにした。話を聞かない人間の相手なんかやってられないしな。

 

「……そうね、妹さんがそう思うのも無理はないと思うけど今回はお兄さんは無実のような気がするわ。まあそれも私の寛大さがあってこそ言える事だけど」

 

今回『は』と、はを強調する雪ノ下。挙句俺に恩を売りつつ俺が問題行為をしでかしたと暗に示している。

 

「そうだよ小町ちゃん。その、今日はヒッキーまだ何もしてないから安心して。」

 

今日『は』と、はを強調する由比ヶ浜。『今日は』、『まだ』というワードはいつもは何かしている様な物言いだ。

 

「お前らなんで初対面なのに息ぴったりに俺を貶し始めるんだよ。流石に俺でも凹むぞ」

 

「お2人がそういうなら。でもお兄ちゃんがまたどうして家に人を連れてきたり?」

 

「なんで俺以外ならあっさり信じるんだよ。洗脳とか何とかはどうした!?」

 

「もうお兄ちゃん何いってんの? そんなの冗談に決まってんじゃん。それよりいつまでお客さんを玄関に立たせておくのかな? 小町的にポイント低いよ」

 

何から何まで本気で言っていたとしか思えないが、ここで抗弁しても雪ノ下と由比ヶ浜の2人含め誰一人同意してくれないのは確実なので、俺は嘆息1つで扱いの悪さで飲み込むと2人に上がり框に上がるよう2人を促した。

 

来客用のスリッパを用意して2人がそれを履くと小町が笑顔で二人を迎え入れた。

 

「どうも! 比企谷小町です。不肖の兄がいつもお世話になってます」

 

女の常という奴なのか、妙に愛想良く挨拶する小町。それともこいつも雪ノ下なんかと同様に俺の扱いだけが悪いのか。家族からすら不遇な扱いという目尻に汗をかきそうな可能性からは目をそらしておくことにする。

 

「あー、こっちの2人は」

 

「比企谷君に紹介されるには及ばないわ。初めまして。雪ノ下雪乃です。比企谷君とは……比企谷君の……比企谷君には……、そうね比企谷君とは加害者と被害者の関係よ」

 

「それは主に俺がお前に言葉で以って加害されているという事だよな」

 

散々言葉に詰まった挙句の一言には必要以上に物騒な表現が込められていたが、俺はそれに首を傾げる。雪ノ下のそれとしては妙というか、気のせいかこいつは俺に対してもっと突き放した態度がなく、冗談とはいえ俺との関係を明示的な言葉で表現するとは思っていなかったのだ。

とはいえ散々迷う辺りは雪ノ下である。俺ならば同じ部活の人とかで片付けている。

 

「あら、私がいつ貴方の事を罵倒したというのかしら。全く失礼な猿ね。頭の上に乗っかっているのは帽子掛けかしら」

 

「記憶か性格のどっちか或いはどっちも狂ってるお前に言われたくないな」

 

「奇遇ね。私もたった今比企谷君の減らず口を二度と聞きたくないと思ったところよ」

 

「なるほど、雪ノ下さんと兄との関係性は大体把握しました」

 

今のやり取りで小町が悟った俺と雪ノ下の間柄はどんなものだろう。八幡的には前世からの因縁が濃厚。本命は狩人と獲物。大穴で仲の良い異性といった所か。最後のはオッズ1000倍は堅いな。

小町はやんわりと俺と雪ノ下の会話を終わらせると雪ノ下の後ろに居た由比ヶ浜に視線を走らせた。

 

「それじゃそちらの方は……うーん?」

 

由比ヶ浜の顔を見た途端、小町は動きを止めじっーっと由比ヶ浜を見つめ始めた。

自慢ではないが小町は可愛い。身内贔屓を差し引いてもご町内のアイドルレベルだ。おまけに俺の知る中でもトップクラスのコミュニケーション能力を併せ持ち、在籍している中学校では生徒会長という要職にも就いている。当然人脈も俺とは比べるべくもない。もしかしたら俺の知らない所で小町と由比ヶ浜には繋がりが有ったのかもしれない。それにしては由比ヶ浜が冷や汗を流しながら目を逸らしているのは不自然だが。

 

「初めましてー、ヒッキーのクラスメイトの由比ヶ浜結衣です」

 

由比ヶ浜の自己紹介は活字に起こせばきっとこんな風になるに違いない。

はじめましてー、ヒッキーのクラスメイトのゆいがはまゆいです。

小町に弱みでも握られているとしか思えない。そんな負い目引け目を感じさせる由比ヶ浜の姿に、教室で幾度か目にした三浦に詰め寄られて俯いている由比ヶ浜の姿が想起した。中学生相手にこれとはリア充軍団の中でもトップカーストに位置している女とは思えない醜態である。

 

「まあいっか。それでは不調法な兄に変わって小町が案内しますね。どうぞこちらへ」

 

「あら、比企谷君の妹とは思えない位気の利いた妹さんね」

 

「小町は自慢の妹だからな」

 

小町の案内に従って居間に向かう雪ノ下が俺の横を通り過ぎざま言った言葉には素直に首肯しておいた。というか俺は我が家では唯一と言っていい程配慮のない男である。それにしたってこうなってくると親父がいつか俺に語って聞かせた俺が橋の下で拾われてきた説が俄に現実味を帯びてきてしまうのだが。

それは置いておいておくとして、小町が移動して居間に姿を消すと露骨に胸を撫で下ろした由比ヶ浜が気になった。決してその手の描いた奇跡が雪ノ下と同じ年の人間のそれとは思えなかったからではないぞ。

 

「小町に会ったこと有るのか?」

 

「う、ううん。そんな事ないよ! さっき初めましてって言ったじゃん」

 

「そっか。でも自分の妹の事だけど家の外じゃ何やってるか知らないからな。何か迷惑掛けられてたりしたら言ってくれていいからな」

 

小町の事だから無いとは思っているのだが、何かが無ければあんな風にはなるまい。自己紹介する前から名前を知っていた理由にもなる。

とはいえ、そう仲良くもない女子の事情など易易と踏み込めるわけもない。俺は気休めにもならない台詞を吐いて話を切り上げると由比ヶ浜を居間に向かわせた。

 

居間では小町が食器用の戸棚から客用のグラスを2つ取り出してテーブルに置き、冷蔵庫から出したオレンジジュースを振舞っていた。俺は2人がそれに口をつけるのを見届けると一言断ってから自室に着替えに向かった。小町の事だから適当な話題でも振って饗してくれるに違いない。

ただ心配なのが女子同士というのは、時として1瞬で意気投合する事が有るという事である。既に玄関でのファーストコンタクトにおいて見られたあれだ。言葉を交わす前からお互いの俺に対する扱いを見てコンビネーションを見せた3人が俺の居ない隙に本格的に徒党を組むという可能性が有る。

俺は一瞬このまま自室から出て行きたくなくなってしまったが、それはそれで長時間3人から目を離す恐怖も生まれてしまうという事で出来うる限りの速さで着替えることになったのだった。

 

 

 

 

無地のシャツに紺のジーパンという大学の教授の様な格好で俺が居間に入ると3人は談笑中だった。俺の居ない間にどんな会話が交わされたか事細かく聞き出したかったが、そんな事をすれば総スカンを食らうのは火を見るよりも明らかである。俺は仕方なしに今日の本題である由比ヶ浜のクッキー製作に取り掛かる事を提案したのだった。

しかしながらこの提案こそが今日最も難儀な仕事の始まりだった。由比ヶ浜結衣という女は俺の予想以上の女だったのだ。

 

まずエプロンを着れば着方がだらしないと雪ノ下に怒られ、てずから格好を整えようとする雪ノ下相手に遠慮を連発して苛立たせる。常温に戻したバターを練っているかと思えばバターの塊を吹き飛ばして雪ノ下の顔面に直撃させ、篩った薄力粉にはくしゃみをお見舞い。2,3回に分けて投入する卵は1度に全てを投入し、バニラエッセンスをこれでもかとぶち込みまくった。

案の定出来上がったのは凄まじく微妙な出来のクッキーであり、製菓経験を持つ俺どころか、趣味がお菓子作りという男の理想とも言うべき女雪ノ下ですら額を抑えているほどだった。

 

ちなみに由比ヶ浜には普段から使っているエプロンを、雪ノ下には俺が小学校の時家庭科で作ったエプロンを着用させた。普段キッチンに立つ小町は兎も角、俺や母親はエプロンをしない人間だったので普通のエプロンの用意が無かった。苦し紛れに引っ張り出してきた俺製作のエプロンだったのだが、サイズはギリギリで入ったものの予想に違わず俺が作ったという事実とそのデザインセンスに雪ノ下が難色を示し、さりとて防御力の低い方をやらかす確率の高いド素人に装備させる訳にもいかず不承不承前述の状態に落ち着いたのだった。エプロンのデザイン? 黒龍だとかBLACK★DRAGONだとかプリントの入った小学生男児垂涎の、今となっては痛々しいそれですよ? 雪ノ下にはそれについても散々扱き下ろされたが、当時俺のクラスではこのデザインを選ぶ男子が大勢を占めた事ばかりは主張させてもらった。本当だよ?

 

出来上がったギリギリクッキーの領域を逸脱しない、それでいて決して美味しくないクッキーを毒味と称して(由比ヶ浜は抗議の声を上げたが雪ノ下はそれに取り合わず、俺が口にクッキーを放り込むとそれきり黙り込んだ)雪ノ下に食わされた今となっては、エプロンを着た美少女2人が我が家のキッチンに立っているという奇跡のような状態で今日という日を終えておくべきだったと後悔するばかりである。

 

全くの余談だが制服にエプロンこそ至高だとか言い出すのは間違いなくオッサンで、高校生男子としては強く裸エプロンを希求するものである。だって制服来た女子とか学校に居れば毎日見れる訳で、俺のような女子に縁のない男子含めリビドー全開な少年としては裸の方が圧倒的にレアかつエロスを感じるのである。

閑話休題。

 

思えば開始直前、「家庭的な女の子ってどう思う?」と由比ヶ浜が俺に聴き出した段階でこうなる事を予想して積極的に介入すべきだったのだ。叶うならあの時の俺をぶん殴ってやりたい。何が「男の理想だな」だよ! 理想は理想でしかないと何故気が付かなかった。予兆に気を配ってさえいれば、きっと雪ノ下の顔面直撃バター事件だけは防げたものを。俺が方針を変えるべきだと気がついた時には既にクッキーの生地が出来上がってしまっていたのだ。そこからはもうオーブンを使っての作業だ。不注意で目を離すという愚挙にでも及ばない限り失敗の無い工程だが、逆にここまで至ってしまえば手を出すこと殆ど無く、ミスのリカバリも出来ないという事。時既にTHE ENDという訳だ。生地だけに。

 

念の為の少量生産が功を奏してクッキーの処理をつつがなく終えると、そのまま反省会が行われることになった。

勿論戦端を開いたのは雪ノ下だ。

 

「さて、ではどうすればまともなクッキーが作れるか考えてみましょう」

 

「目標そこなの!?」

 

「替え玉作戦はどうだ? 由比ヶ浜以外に作らせて由比ヶ浜は渡すだけ」

 

「私全然関係なくなっちゃうじゃん!」

 

「最後の作戦としてなら十分に検討の余地ありね」

 

「結衣さんのクッキーを焼き上がったタイミングですり替えるのは?」

 

「それなら由比ヶ浜も文句ないだろ」

 

「文句ないっていうか私まで騙しちゃうの!?」

 

初対面の小町までが参加しての袋叩きに有った由比ヶ浜はクッキーを食べた直後より落胆した。もしかしたら誰か1人くらいは慰めてくれると思っていたのかもしれないが、その考えは甘すぎると言わせてもらおう。

 

「やっぱり、あたしって料理に向いてないのかな。才能とかそういうのないし」

 

この程度の失敗でそこまで落ち込むか。繊細というかなんというか、面倒臭いやつである。別に殺人的な不味さの物が出来上がった訳でもなし。才能がどうこう言うならこんな普通に不味すぎてネタにもならないレベルのものでなく、もっと笑うしか無いような物を作るべきである。最低限雪ノ下が泡を吹いて倒れる位に。小町には絶対食べさせないけど。

 

そんな由比ヶ浜を前にしても雪ノ下は決して慰めるような真似はしなかった。その逆に無意味に甚振るような事もせず当たり前のようにこう言い放ったのだ。

 

「努力有るのみね」

 

確かにそれしかないだろう。結局のところ自作のクッキーを渡すのが目標だというなら自分で作れるようになるしかないのだ。お手軽さを求めるなら市販の物を買って渡せば済む所だが、それでは目的に適わない。由比ヶ浜は一度も作ったことのないクッキーを作ってでも感謝の気持ちを示そうとしたのだから。大体この程度の事で劇的な改善を見込めるような手段を期待すること自体が間違っているのだ。歩くのを面倒臭がっているようではいつまでたっても走りだすことなど出来はしないのだから。

 

幸いなことに彼女の努力が無為に終わることはないだろう。何故なら彼女のそばには奉仕部部長雪ノ下雪乃がいるからだ。酔狂としか思えない、そんな部活を先週までたった1人で全うし続けた雪ノ下雪乃がいる限りどうあれ彼女の努力は報われるだろう。

恥ずかしながら今じゃ俺もその部活の一員で、更に今日限定で小町も一緒にいるのだ。これだけの人員が集まって由比ヶ浜にクッキー1つ作らせることが出来ないなんて、そんな事はありえないのだ。

 

「由比ヶ浜さん、あなたさっき才能がないって言ったわね? その認識を改めなさい。何の努力もしない人間には才能がある人を羨む資格はないわ。成功できない人間は成功者が積み上げた努力を想像できないから成功しないのよ」

 

「そうそう。それにな、この程度の事に才能なんて要らないんだよ。お前は単に誰でもするようなつまんないミスをしただけ。小石に蹴躓いたって歩く才能がないなんて事にはならないだろうが。きちんと足を上げて歩くように気をつけりゃ良いんだよ」

 

とはいえ、由比ヶ浜本人はそうは思わなかったようだ。雪ノ下と俺の言葉は受け取り手のないまま何処かに消えて、残ったのはいじけてしまった少女だけだった。

 

「でもさ才能なんて要らないような事でさえ失敗しちゃったんだよ。……やっぱりこういうの向いてないんだよ。それにさ、優美子達が言ってたけどこういうの最近みんなやんないっていうし、別に出来なくても」

 

由比ヶ浜の発言に、俺の中でスイッチが入りかける。

本当に何処まで鬱陶しい。こいつの動機も目的も努力も挫折も究極俺には何の関係もない事だというのに、何故こいつは俺の目の前でウジウジとしているのだろう。慰めればやるのか、励ましてやればやるのか。だとして、どうして俺がこいつの為にそこまでやってやらなければならないのだろうか? クッキーを作りたいから手伝えというのなら良いだろう。納得が行くまで幾らでも手伝ってやる。だが、お前がクッキーを作ること自体に疑問を持つというのならさっさと諦めて帰って欲しいものだ。

苛立ちに全く歯止めが効かない。自分を誤魔化すように笑う由比ヶ浜が1から10まで気に食わず、0から10まで許し難い。

 

知らず拳を握り込んでいた。弁明する訳じゃないが別に手を出すつもりはなかった。単なるフラストレーションの発露だ。口を開いてしまえば、場にそぐわない事を口にせずにはいられなくなるだろうと耐えていると、カップが置かれる音が響いた。音の発生源は雪ノ下。彼女はとても静かな物音でその場にいた俺達の注目を集めると、もしかしたら俺以上の怒気を湛えながら冴え凍る声音で話し始めた。

 

「貴方に足りないのは一にも二にも努力なの。才能の有り無しなど関係ないわ。最低限の努力。それが有って初めて才能なんてものを語るべきなのよ。ところが貴方は始めた直後からどうのと。成功者が積み上げた努力なんて全く想像もしないのでしょう?」

 

「そうやって周りに合わせているのが好きなら一生そうやっていなさい。お礼を言う為に作ろうと決めたクッキーを周りに合わせて諦めるなんて、由比ヶ浜さんて本当に友達思い。さぞ助けてくれた人にも感謝しているんでしょうね」

 

あくまで物腰は冷静だった。雪ノ下の声と言葉だけが、聞いているだけで震えを覚えるほどに大きな怒りと嫌悪を宿していた。その音声に冷水をぶっかけられたみたいに一瞬で頭を冷やされた俺が雪ノ下を見ると思わず声が漏れた。いつもなら冷ややかで、かと言って悪意を感じさせない瞳が真っ赤に燃えていると錯覚するほどの怒りに燃えていた。それは俺の人生で最も激しい、赫怒と言い表すに足るものだ。

 

俺の隣に座っていた小町も小さな悲鳴を漏らしたっきりピクリともしなくなった。多分動いたら殺されるとでも思ったのだろうが、それも強ち勘違いと笑い飛ばすことが出来なかった。

 

「それってそんなに楽しいのかしら。自分の無様さや愚かしさの、したい事を諦める理由を周囲の人間に求める生き方は。貴方のやりたい事ってその程度の物なの?」

 

雪ノ下の痛烈な皮肉に由比ヶ浜が言葉を失って肩を震わせていた。さっきの冗談の比じゃない打ちのめされ方だ。じっとテーブルの縁を見つめる彼女の面持ちを窺い知ることは出来ないがひょっとすると泣いているかもしれなかった。

 

由比ヶ浜結衣という少女に関して俺が知っていることなどたかが知れている。彼女は我がクラスのトップカースト葉山グループに所属していて、そのグループ内での彼女はとても控えめだという事。かと言って彼女の交友関係は葉山グループに終止することなくクラスの誰とでも話している場面が見られる事。その程度である。時折三浦が機嫌を悪くした時なんかに矢面に立たされて、その間中黙って嵐が通り過ぎるのをやり過ごそうとしているのを見るに彼女は気が弱い。それは臆病と言い換えても良いかもしれないが、多くの場合優しさと呼ばれるのだろう。だから彼女は誰とでも繋がりを持てるのだ。

だからこそというべきか、彼女には譲れないものがない。人とぶつかればあっさりと意見を曲げてしまう。自信がない。

 

優しくなく、人に譲るということを知らず、人とぶつかれば打ち倒すことしか考えない。自信過剰としか思えない。そんな雪ノ下とは正反対の女の子なのだ。

 

両者のパワーバランスは武装した猟奇的殺人鬼と保育器の中の乳児並。すわ解体ショーの始まりか、すまん由比ヶ浜俺にはお前の安らかな眠りを祈ることしか出来ない。と心の中で十字を切っていると思いもかけない言葉が聞こえた。

 

「か……格好いい……」

 

発言者の感動がこちらにまで伝わってくるような、余韻と情感のたっぷりと篭った一言だった。

 

「はあ?」

 

俺と雪ノ下、そして小町の声が重なった。

あれか。追い詰められすぎて精神の平衡を失ったのか。元々残念な子だったが、とうとう行き着く所まで行き着いてしまったのだ。

 

おいおい雪ノ下やっちまったな。そう茶化そうとした俺だったが、元々テーブルの隣同士だった由比ヶ浜がぐっと雪ノ下の方に乗り出して、そしてそれから逃れようと狭い椅子の上で精一杯体を仰け反らせている雪ノ下に気付くとそんな言葉は霧散してしまった。落ち込んでいたさっきまでとは打って変わってキラキラと光りながら雪ノ下を見つめる由比ヶ浜の熱っぽい視線が、そんな横槍を許さない程真摯で、つまり真剣だったのだ。由比ヶ浜は正気で、本気で言っているのだ。

 

そんな由比ヶ浜に雪ノ下はすっかり飲まれてしまっていた。やはり饒舌だった先程とは打って変わって口をぱくぱくと開閉させるばかりで言葉らしい言葉が1つも聞こえない。全く内実が異なるものの、直前とは正反対の立場で同じ状況に陥っているのだ。

まあ、由比ヶ浜と雪ノ下の体の近さもその一因となっているのだろう。2人の体と来たら真横から見てもぴったりとくっつくような近さになっていて、その筋の人がここに居たならば『キマシタワー』と叫ぶこと請け合いな状態だからだ。

 

「由比ヶ浜さん、あなた一体何を言っているのかしら?」

 

「え? ゆきのん私の事励まそうとしてくれたんでしょ? 言葉とか言い方とか色々軽く引いたけどさ、怒りながらでも私の事考えてくれてるんだ。って」

 

「……ええ、……そうだったかしら?」

 

由比ヶ浜のポジティブシンキングにたじたじの雪ノ下は最早そうではないとも言えず、一人首を傾げ、そんな雪ノ下を他所に由比ヶ浜がヒートアップし始めた。

確かに字面だけ追っていけば、雪ノ下の言葉はそう受け取ることも可能か不可能かで言えば不可能ではないのだが。真剣に由比ヶ浜の事を思っていたのかというのはちょっと疑わしい。全部が全部とは言わないが半分くらいは苛立ちだったと俺は睨んでいるのだが。

 

だが、どのみち言葉の受け取り手である由比ヶ浜がこの調子で、前向きに受け止めているのなら水を差す事もない。罪悪感か後悔か由比ヶ浜と目を合わせられないらしい雪ノ下も、由比ヶ浜の態度自体には関心したのか、目を合わせられないなりにチラチラと由比ヶ浜を見つめている。

いつの間にか蚊帳の外に置かれてしまった俺も気を取り直して、椅子から腰を上げた。

 

「今度はきちんと1から10までお手本を見ながらやってみるか」

 

初の奉仕部活動。由比ヶ浜を改心させた雪ノ下には及ばないだろうが、俺も場所の提供で終わらず何か一つ位役に立って終わろう。そう思いながらレシピ本を広げ直す俺の前を横切って雪ノ下が颯爽とキッチンに入っていく。

袖をまくりあげ、エプロンを付け直した雪ノ下は一言。

 

「一度お手本を見せるから、その通りにやってみて」

 

それだけ言うと口を差し挟む余地のない手際の良さであっという間に材料の計量を済ませ、更に粉を振るい、バターをこね回し、かき混ぜた卵とそれらを混ぜ合わせていった。

由比ヶ浜とは比べるべくもない手際の良さには、由比ヶ浜と一緒になって俺も舌を巻いた。

 

出鼻をくじかれた形になってしまったが、俺の出る幕はない。へーとか、わーはやーい、とかお兄ちゃんよりずっと上手だねとか言っている女子2人と大人しくそれを見守っていると、あっという間に。一度目のそれを考えると本当にあっという間にクッキーが焼き上がったのだった。

 

雪ノ下がクッキーを移し振る舞うと由比ヶ浜が電光石火の速さで飛びついた。

 

「うわあああーー、すっご、すっごい美味しいよこれ」

 

「本当ですね。おいしいー。これはお店に並んでいても不思議じゃないですよ」

 

由比ヶ浜に続いた小町までがそのクッキーを絶賛した。余程美味いのだろう。2人の顔が零れんばかりの笑顔がになって、口々に雪ノ下のクッキーを褒め称えている。ひょいひょいと手を伸ばす2人の間を縫って俺も一枚頂戴する。

 

「う、うますぎる! なんだこれ本当にうちにおいてあった材料で作ったとは思えないな」

 

例え何度俺が作ってもこうはならないだろうという、明らかに基本の範疇を超えた味わい。ほんのりとした甘さと同時にバターの香り高さが口中に広がった。

標準的な大きさのクッキーだったが、油断していると1ダース位ペロッと食べてしまいそうな美味しさだ。

 

「でもそれは本当にレシピ通りに作っただけなのよ。だから由比ヶ浜さんも同じようにすれば同じように出来ると思うわ。だから頑張りましょう」

 

賞賛に嫌味のない笑顔を浮かべた雪ノ下がそう言って、今度こそ本当に由比ヶ浜を励ました。

目指す目標と具体的手段を手に入れた今由比ヶ浜の快進撃が今始まる。

 


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