本物のぼっち   作:orphan

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第8話

 今日も今日とて放課後がやって来た。退屈な授業が終わり青春の只中に有る少年少女がそれぞれの本分に立ち返る時間が来たのだ。

 

 勿論俺もその一人である。授業時間と清掃の時間を除いた全ての時間を睡眠に充てたお陰で体力も充実している。これならば完全下校時刻までの間一心不乱に読書に邁進することが出来るだろう。

 

 由比ヶ浜からクッキーを貰ってからはや6日。奉仕部は既にいつもの日常を取り戻している。だからと言う事もないが読書が捗る捗る。やはり家で一人静かに本を読んでいるよりも放課後教室で静かに本を読んでいる方が性に合っているという事なのだろう。最大の難敵であるベッドが無いのが功を奏しているのだ。これが恐ろしく退屈な勉強をしている間などは微塵も寄り付かないのだが、如何せん読書中はリラックスしようとして寝転がるせいで気付けば寝落ちしていること多数。見開き1ページも進まずに寝てしまう事が有るのを考えれば、放課後の間に薄い本1冊読み終えたというのは記録的な快挙と言える。

 

 そういう訳で奉仕部での部活に自分なりの意義を見出してからというもの、俺の放課後も人並みに色付いた物となった。今日辺り先日雪ノ下が読んでいた中原中也の詩集が貸してもらえる筈なので、お洒落に紅茶など嗜みながら過ごすとしよう。

 

 そんな事をあれこれと考えながら椅子から立ち上がる。教室の賑わいも最高潮で周囲は大小幾つかのグループに固まって放課後の一時を談笑に講じていた。

 

 それは例えば俺のすぐ後ろの席の男子4人組のグループであり、彼らは携帯ゲーム機を持ち寄って協力プレイなる未知の集団遊戯に耽っているようだった。ガチャガチャとボタンやレバーをいじりながらやれ「悪いけど俺の素材集め手伝ってくんね?」だとか「じゃあ俺はヘビーボウガンで」などと言葉を交わしながら実に楽しそうである。生憎と俺がその手のゲームに手を出せるようになったのは高校生になってからで、高校生活始まって以来友人という物が出来た事のない俺にはその楽しみが分からなかったが、彼らのそれも実に結構な事だと思う。彼らには彼らの、俺には俺の放課後が有るのだ。

 

 そういった一団の中には当然由比ヶ浜の姿も有った。むしろ彼女の属する一団こそがこの教室内で最も存在感の大きい一団だ。先日来彼女の存在をきちんと認識するようになった俺にも漸くそれが分かった。

 

 このクラス、いや学年全体、いや下手すれば学校全体にその名の通ったスーパーイケメン葉山隼人と彼を中心とする三浦なんとか、海老名さん、戸部、あと男子2人と由比ヶ浜。葉山を除いた男子は兎も角女子はいずれもトップクラスの美少女達、らしい。クラスで漏れ聞こえる男子達の会話では少なくともその様だ。そんなトップカーストに君臨する集団にしては男子3人のランクが落ちるような気がするが、戸部はサッカー部だったと言うし、他の2人も運動部だ。何かしらのシンパシーが有ったという事なのだろう。或いは葉山がそれとなく選別でもしたのか。しかしながら教室内を見渡しても、彼らのグループに馴染みそうな者は見つからない。やはり自然に似た者同士がくっついたという事なのか。

 

 もしかするとそれは教師達の都合なのかもしれない。葉山は聞く所によるととても大きな影響力を持っているらしいし、そんなカリスマ性を持った男子生徒の周りにそれに同調する人間を多数配置すれば、いざという時教師達も手を焼くだろう。そういった事態を防ぐための配慮としてのクラス構成と考えてみることも出来た。

 

 そう考えると、気のせいか彼らの他は殆どが少し地味な男子が集められているような気もする。その中でもぶっちぎりで地味で目立たない男の俺も居ることであるし。

 

 さて教室を出ようと荷物を担いで振り返ると、その途中由比ヶ浜と目が合った。教室内での彼女をきちんと認知するようになってからは初めての事だったが、彼女が俺と目が合った事に気がつくと勢い良く顔を背けられてしまった。どうやら随分と嫌われてしまっているらしい。が、それを気に病んだ所で詮ない話だ。俺と彼女の間にもう接点が生まれることも無いだろうし。

 

 俺も由比ヶ浜にならって彼女から顔を背けると、誰に挨拶をすることもなく教室を後にした。

 

 

 

 奉仕部の部室は相変わらず閑散とした特別棟の中でも、最も静寂に満ちた空間だった。部室の前に来ても物音一つ感じられない。それも当たり前と言えば当たり前か。雪ノ下1人の教室から話し声が聞こえてきたら、俺は雪ノ下を心の病院に送ってやらなければいけない訳だし。

 

「おっす」

 

 ガラガラと引き戸を開けながら挨拶をするとそっけない挨拶が返ってくる。入室して適当な場所に荷物を下ろすと、俺はいつもの様に雪ノ下のすぐ近くの机から本を拝借した。勿論この時にも声は掛ける。雪ノ下はこの時もそれをちらと横目に見て「どうぞ」と言葉少なに許可を出してくれるので、本を手にしていつも通り俺の席に着席するのだった。

 

 それから本を広げて読書を始めると、大抵もう部活が終わるまで俺達の間に会話はない。例外と言えば俺が自販機に行くときについでにお使いを頼まれる時と、俺の食料をお礼に雪ノ下に進呈する時位のものだ。

 

 遠くの喧騒が扉や窓から染みこんでくる以外には、静かでまったりとした時間がただ流れていく教室。それは先程まで居た人の活気に満ち溢れた教室とは対照的だったが、同様に心地良さを感じさせる。人に囲まれている時は自分が世界の一部となっている感覚が、この教室のように静まり返った場所ではそこから自分が浮き彫りになっていく感覚がして、そのどちらもが俺にとっては快感なのだ。だから種類こそ違えど教室に居る時も、奉仕部室に居る時もどちらも俺にとってはとても楽しい時間だ。

 

 由比ヶ浜以降の依頼者はまだ姿を見せないが、この調子なら俺も卒業までの高校生活をここで送ることが出来ると思えた。

 

 ただ1つ問題が有るとすれば、当初俺がここに連れてこられた理由である友達が出来そうにない事だけで。

 

 そんな俺とは対照的に雪ノ下には友人が出来た。

 

 何を隠そう由比ヶ浜結衣がそうである。俺と教室で目が合ってもすぐ逸らす癖に雪ノ下とは友誼を結んだのは腹立たしいが、雪ノ下雪乃というぼっち少女に友人が出来た事それ事態は大変喜ばしい。元々あの容姿故に近づいてくる人間は多かったらしいが、どうせあの性格が周囲との軋轢を生んだのだろう。そこに耐えうるジュラルミン合金の様な頑丈さを誇る由比ヶ浜ならとも考えられた。ただその下地を育んだ一要素として三浦という女子生徒の影響が有った事は否めない。そういや最近は見られなくなったが、去年も定期的にあの女王様の吊し上げの被害に遭っていたのは由比ヶ浜だった。

 

 まあ過去の事はどうでもいい。話の焦点は雪ノ下雪乃という少女の周囲に人が増えたという事だ。雪ノ下は俺達とはクラスが異なる。おまけにそのクラスが国際教養科という、俺達普通科よりも平均して偏差値が2か3高い連中が集められた空間だというのが問題だ。この辺じゃそこそこの進学校で名のしれた県立総武高校、その中でも格段とは言わないまでも歴然とした偏差値の違いが有るJ組に、総武高校バカ代表みたいな由比ヶ浜が踏み入るのは中々難易度が高いらしい。あれできちんと受験して入学したようだから最低限の学力は有るはずなのだが。そうなると雪ノ下と由比ヶ浜が顔を合わせられるのは昼休みと放課後位のものだ。下手すれば登校する前から連絡を取り合い、それが就寝寸前まで続くような濃密なコミュニケーションの取り方をする今時の女子高生由比ヶ浜が、昼休み程度の短い時間で、雪ノ下との会話に満足できる筈もなく、当然放課後も顔を合わせようとするだろう。しかし雪ノ下には奉仕部という部活が有る。さて、漸くの結論だ。ここまで来れば明白の事と思うが、由比ヶ浜が奉仕部に出没し始めたのである。

 

「やっはろー」

 

 俺に遅れること30分。由比ヶ浜が片手を上げて挨拶の文句を唱えながら入室した。普通に考えれば完全に遅刻なのだが、依頼者が来なければ開店休業状態の我が部にそれを指摘する人間はいない。由比ヶ浜はさして悪びれることもなく、そのままスタスタと教室の中に歩みを進めたかと思うと雪ノ下と俺の丁度中間地点に置かれた椅子に着席した。

 

「また椅子動いてる」

 

「だって貴方私のすぐ隣に座ろうとするんだもの」

 

 下手をすれば接触を忌避しているとも受け取れる雪ノ下の発言。

 

「ぶー、ゆきのんってもしかして私の事嫌い?」

 

 だが由比ヶ浜はあっさりとそれを受け止め、口を尖らせた。

 

「嫌いじゃない……わ。苦手なのかしら」

 

「それ女子言葉で嫌いと同義だから!」

 

 言葉面とは裏腹に言葉の響きは実に優しい雪ノ下。由比ヶ浜も突っ込みを入れながら猛然と雪ノ下に抱きついた。本当いちゃいちゃと仲のいいことだ。これで俺をシカトするのさえ止めて貰えたら、後は教室から出て行ってくれるだけで良いのだが。

 

 そう、俺が今どうにかしたいと思う問題の本質がそれだ。

 

 彼女は俺と全く言葉を交わさない。目を合わせない。耳を貸さない。そのくせ静かに読書している俺を時折盗み見ているのだ。それは携帯を弄りながらだったり、雪ノ下とじゃれつきながらだったり、教室中央にある長机に突っ伏しながらだったりするが、兎に角見られているのだ。俺も殆どの場合気がつかないが、時々本から目を上げるとこちらを見ている由比ヶ浜と目が合ったりしてしまう。それが非常に落ち着かないのである。既に5回、それをどうにかしようと話しかけたが顔を真っ赤にするばかりで二進も三進もいかないのが現状だった。

 

 出来たばかりの友人雪ノ下が看過できずにそれを指摘してもどうにもならない以上、これ以上手の尽くし様がない。

 

 そうした結論に辿り着きとうとう放置をし始めたが、だからといって気にならないというものでもない。教室のような人の多い場所ならともかく、3人しか人のいない部室でやられるととてもかなわなかった。

 

 終いにはその由比ヶ浜の視線が気になりすぎて、読書も覚束なくなり俺の方も由比ヶ浜を盗み見るようになっていた。全く中原中也も台無しである。

 

 今だって、つい2ページ前を読んでいた時由比ヶ浜と目が合った時の事を考えているし、その前は買ってきていた紅茶を飲んでいる時あちらの視線に気が付いた時の事を、更にその前はチョコを口に入れながら由比ヶ浜を見ていたら向こうに気が付かれた時の事を。今までどんな状況でもモブに徹してきた人間には人に見られているという事が過大なストレスなのだと感じられた。お陰で背筋はムズムズするし、落ち着きなく貧乏揺すりなどしてしまう。

 

 とうとう耐え切れず自販機前に逃亡しようとした時、いつだかと同じように教室の戸を叩く音が響いた。

 

「どうぞ」

 

「お邪魔します」

 

 浮かしかけた腰を椅子に落ち着け直しながら、入室した生徒を見る。背は低かった。俺もそう高い方じゃないが大体平均身長である170センチ半ばで有ることを考えると160センチ位だろうか。ふんわりと柔らかそうな髪が天使の輪っかを作っている。

 

「さいちゃんじゃん。どうしたの?」

 

「あれ? 由比ヶ浜さんって奉仕部だったっけ?」

 

「んーん。でも気にしないで。そいでさいちゃんの用事は?」

 

 由比ヶ浜がここに居ることを疑問に思ったのか『さいちゃん』が首を傾げる。偶々俺が居た方の首が顕になったが、驚くほどその肌が白く、首も靭やかだがほっそりとしている。バッグを持つ手も小さいし、そこから生えた指など人形のように可愛らしい。青色のジャージを肘まで捲り上げていて……って学校指定ジャージの色が青いって事はこいつ男なのか。

 

 親しげに会話する由比ヶ浜とさいちゃんから、2人が顔見知りだという事が分かったがクラスメイトにこんな奴が居ただろうか? こんな時間にここに居られる由比ヶ浜が、部活動に所属しているとは考えにくい。だから最も考えやすいこの2人の繋がりと言えばクラスが一緒という事なのだが、どうにも見覚えがない。こんな女子みたいな中性的な見た目の奴が男と居たら逆に目立って記憶に残っていそうなものなのに。

 

 はっ!? そういえば生まれて初めて中性的とか言う言葉を使ったな。まさか本当にそういう人にお目にかかれるとは思っていなかったが、こういう性別を見間違いそうな人間が実在するとは、新鮮な驚きを覚える。確かにそう考えると短パンから除く脚なんかは、女子にしては少し逞しすぎる。その脚にしたって静脈が浮くんじゃないかと思うほど白いのでちょっと直視はしにくいが。

 

「うん、この間テニス部の子が雪ノ下さんと一緒に帰ってる所見たって言ってたから……やっぱり居た。比企谷君」

 

 そのさいちゃんの瞳が俺を捉える。真正面から見ても目がくりくりっとしていて、口が小さく鎖骨の辺りがいやに艶めかしい。これで女装していたら100%俺は性別を間違えていただろう。そう断言出来る。とはいえ、その程度にこいつをマジマジと見てもさっぱり記憶にヒットしない。やはり由比ヶ浜さえ覚えていなかった俺の脳味噌って割りとポンコツなんじゃないだろうか。

 

 ついでにこいつが俺を探し求めて奉仕部なんぞに来る理由についても心当たりが無かった。

 

 だが、灰色の脳細胞を持つ我が校最高の頭脳雪ノ下雪乃には有ったらしい。

 

「流石比企谷君ね。まさかとは思ったけど可愛ければ性別も無視するなんて。ここはせめてその蛮勇を称えておくべきかしら。安心しなさい戸塚君。貴方の犠牲は無駄にはしないわ」

 

 ああ、案の定だ。由比ヶ浜、俺ときて雪ノ下もそこそこのポンコツだったようだ。それとこの生徒の苗字は戸塚というらしい。やはり聞き覚えもない。

 

「俺の名誉をどれだけ貶めようとお前の勝手だが、こいつの名誉までついでに貶めようとするのは止めて貰おうか」

 

「……それもそうね。でも意外だわ。真っ先に否定してくると思ったのに。まさか本当にそっちのケが?」

 

「好きな人が出来た事がないもんでな、そうと分かるまで断言せんでも良いかなと」

 

「ええっと」

 

 声のした方を向くと戸塚が困った顔で頬を掻いていた。や、その仕草までが可愛いのは分かったから。

 

「ごめんなさい。どうぞ、話をしてもらって構わないわ」

 

 そういう雪ノ下の視線はイヤに冷たい。由比ヶ浜の依頼の時は雪ノ下の様子にまで気を配っている余裕が無かったけど、あの時もこんな目をしていたのだろうかこいつは。

 

 雪ノ下の視線に促されるように戸塚が口を開いた。とはいえ戸塚の口の動きは鈍い。それがどんどん酷くなっていく。無理もない。雪ノ下は基本美人だが、無愛想で迫力が有り過ぎる。急かされるように口を開いたはいいものの、今度は逆に雪ノ下の視線に口が開けなくなってしまうのだ。

 

「えっと、そのー……、あ、あの、テニスを強くして、貰いた……いんだけど?」

 

 それに気が付いた俺はいち早く動き出し戸塚と雪ノ下を結ぶ射線上に躍り出ると、持っていた文庫本で戸塚から雪ノ下の目の当たりが見えなくなるように視界を遮った。

 

「比企谷君、一体何のつもりかしらそれは」

 

「お前が美人の癖に怖い目してるから話しにくいのかと思ってな。」

 

「ひ、比企谷君、セクハラは止めて欲しいのだけど」

 

 この時俺は戸塚の視界を想像していた。その像が偶然にも彼女の発言と噛み合ってしまったが為に、何も言えなくなってしまう。

 

「……」

 

「比企谷君。その、あまり見つめないで、ふ、不愉快だわ」

 

 いつもなら彼女は口にした言葉通り心底不愉快そうな表情をしているのだが、今回彼女は顔を背けた。万に一つの可能性としてそれが照れ隠しかとも思ったが、朝から他人に顔を背けられっぱなしの俺としては他のそれと同じに見えて意図が読めない。

 

「雪ノ下さんと比企谷君は仲いいんだね」

 

「そ」

 

「それは違うんじゃないかなー!! ヒッキーもゆきのんもいっつも馬鹿にしあってばっかだし!」

 

 何を見ていたというのか戯けた事を言う戸塚に、俺と雪ノ下よりも早く由比ヶ浜が否定の言葉をぶつけた。ああ、全くその通りだ。俺と雪ノ下が同時に頷く。

 

「そうね。それに野蛮で下品な比企谷君と穏和で文化的な私とではそもそも会話が」

 

「確かに雪ノ下の読む本は実に文化的と言えるだろうが。その読者たる雪ノ下までそうだとは」

 

「やっぱり。比企谷君教室じゃ誰とも話さないのに、ここではとってもお喋りだし」

 

「何故その事を」

 

 地味な面子ばかりの我がクラスでも、相当に地味なポジションに居る俺の生態に詳しい奴が居るとは。いやまてよ。誰とも話さないというのは案外目立つのか? 未だイジられた経験はない、と思っているだけで結構そういう話題のネタにされていたりするんだろうか。

 

 恐々としながらの俺の言葉に戸塚が笑いながら答えた。

 

「だって比企谷君目立つもん」

 

「そうなのか?」

 

「戸塚君、この男に気遣いは無用よ。率直に浮いていると言ってあげなさい」

 

「貴様、薄々気付きながら気付かない振りをしてるんだから直球を放り込むなよ」

 

 少なくとももう1周間以上教室では誰にも話しかけられていない。つい2週間前位までは……よくよく考えてみたらもう1月位教室ではまともな会話をしていなかった。

 

「まあ違うとは言えない、かなあ」

 

「そりゃあれだけの事をすればねえ」

 

 戸塚と由比ヶ浜が追い打ちを掛けて来る。お前らまで。男子が1人居れば違うも思ったが、俺の味方にはなってくれないらしい。それどころか容姿が下手に女っぽいので余計に肩身が狭くなったような気さえする。

 

「俺の事は良いから依頼の事を話せよ」

 

 本題から逸れた話題で甚振られるというのも気分が悪かったので軌道を修正しよう。ついでに雪ノ下の顔を伺うと、意識してか表情を和らげていたので目隠しを止めて自分の席に戻る。

 

「テニスが強くなりたいんだっけか」

 

 直前の戸塚の発言を思い出す。

 

 しかし奉仕部にまでそんな事を頼み込みに来るなんて、うちのテニス部はそんなに弱かったのか。

 

 その不甲斐なさを改めて感じたのか戸塚の頬が赤らむ。それでもじもじしながら「うん」とか言うもんだから男の俺でさえ可愛いとって何を考えてるんだ俺は。

 

「平塚先生に何と言われているのか分からないけど、奉仕部は便利屋ではないの。だから貴方が強くなるかどうかは貴方次第よ」

 

「そうなんだ……」

 

 雪ノ下の発言は当たり前の話だ。努力すべき人間が努力しないで力など付く訳がない。だが、逆に言えば努力さえすれば大抵の場合力が付くものだ。勿論その目的達成に足るほどのものかは別として。

 

 だからここで戸塚が落ち込むのは気が早い。

 

「さいちゃん、今のはお手伝いしてあげるから頑張りなさいって意味なんだよ」

 

 突き放されたと思った戸塚のフォローには由比ヶ浜が回った。まあ由比ヶ浜の翻訳はちょっとばかり優しいニュアンスにしすぎだが、由比ヶ浜のクッキー作りを手伝った雪ノ下がこの依頼を断るとも思えない。

 

「いいわ。戸塚くん、貴方のテニスの技術向上を手助けしましょう」

 

 やっぱり請け負った。大体俺の人格矯正とか無茶苦茶な依頼を受ける時点で、こいつが依頼を選ぶ訳もなかった。

 

「ありがとう。僕頑張るよ」

 

 ギュッと拳を握って気合を入れる戸塚。そんな所まで可愛く見えているという事は俺の網膜か脳は完全にやられてしまっているらしい。戸塚ウイルスとでも呼びたい何かのせいに違いない。罹患した所で幸せになるだけなので問題にはならないだろうが。

 

「でもゆきのんてテニス出来るの?」

 

 由比ヶ浜が雪ノ下に疑問をぶつける。確かにそれは気になる所だ。よもやテニスが出来ないのに請け負ったという事もなかろうが。

 

 と同時においおい戸塚の手伝いなんだから同じ男の俺に聞けよ。とも思ったが俺がテニスの経験が無いことくらい同じクラスの由比ヶ浜には筒抜けか。この場合聞かれた方が逆に不味い。

 

「あら、愚問ね由比ヶ浜さん。自慢じゃないけど高校程度で習うスポーツなら大概出来るわ」

 

 雪ノ下の胸を張った言い方と台詞はとても自慢じゃないとは言えない気がしたが、それよりも。

 

「サッカー、バレー、バスケ、野球、ラグビー、他にもチームワークを要するスポーツは軒並み駄目そうだけど」

 

「私という存在に嫉妬して手を抜いたり、足を引っ張ったりという低俗な真似をする方が悪いのよ。まあどうあがいた所で敵う訳がないのだから、そうなってしまうというのも分からなくはないけど」

 

「それで寛大さをアピールしたつもりか。チームワークを乱す事は認める所はまだマシなんだろうが」

 

「話の腰を折ろうとする比企谷君を生かしておいてあげるんだもの。これ以上を望むのは無謀というものだわ」

 

「まあまあ2人共。その辺で、ね。ゆきのんがテニス出来るのも分かったし」

 

「それに比企谷君もフォームはとっても綺麗だし」

 

 俺と雪ノ下の間に割り込んだ2人がそれぞれフォローを入れてくる。俺には戸塚が、雪ノ下には由比ヶ浜が。俺もくだらないことで横槍を入れた事を反省した。依頼人の前でやることではなかった。

 

 これが日常茶飯事、そもそもお互いに喧嘩とも思っていない事だったので俺達は謝罪はせず、次の話題に移った。

 

「トレーニングメニューは至って単純よ。死ぬまで走ってから死ぬまで素振り、死ぬまで練習。ね、簡単でしょう?」

 

 本当にそれが簡単な事のように言ってくる雪ノ下を目の当たりにして、俺は戸塚に憐憫を、戸塚は只管に後悔を、由比ヶ浜は新しいコスメの事を胸に抱いた。そんな俺達の心模様にも気が付かない雪ノ下は続けてこうも言った。

 

「放課後は部活が有るでしょうし、特訓は昼休み。場所はコート集合。但し部活が終わった後にもきちんとトレーニングをしてもらうわ。カロリー消費的には無酸素運動を先にした方が良いらしいけど、その必要も無さそうだし放課後は筋トレを重点的に」

 

 次々に段取りが組まれていく。強豪校でも無ければむしろ貧弱と言っていいテニス部の普段の活動との落差を想像したのか、戸塚が軽く身震いを始めた。それを目にして雪ノ下が念押しに。

 

「勿論、ここまで依頼に来た戸塚君の事だものね。きちんとこなせるでしょう?」

 

 と薄い唇を横に伸ばして笑ってみせる。が、この笑顔もまた恐怖を想起させるに十分な迫力と恐ろしさを持っているのである。どんな表情をしていても怖いとかもうね。

 

「比企谷君、僕死んじゃったりしないよね」

 

 雪ノ下からこちらに視線を移動させた戸塚が、不安そうに見つめてくる。その潤んだ揺れる瞳とか、自分の体を抱きしめようとしている腕とかどこもかしこもか弱そうに見える戸塚に、俺の中の保護欲が掻き立てられた。

 

「まあ、部活以外は俺も付き合ってやるから」

 

 決して大丈夫だとは断言してやれないのが残念でならなかった。


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