アルビオンから学院に戻った翌日、ルイズは授業に出てこなかった。
授業を休むどころか、部屋から一歩も出て来やしない。
朝食の時間が終わっても食堂に姿を現さないルイズを心配して部屋まで呼びに行ったバッツであったが「体調が悪い」の一点張りで顔すら見せない。
本当に体調がすぐれないのかも知れないし、まぁ出て来ない人間を無理に引き出す事も無かろうとその場は大人しく引き下がった。
正直バッツにもキツかった旅だったのだ。お嬢様育ちのルイズの体力で平気な筈も無い。それに、今回の旅は肉体的以上に精神的に深い傷を負ったのだ。
体調が悪いというのも嘘ではないのかもしれない。それに今はそっとしておいてあげるのが一番の薬なのだろう。特に自分と顔を合わせるのは控えた方が良いだろう。
ルイズの事を聞いたシエスタが「何も食べないのは体に悪いでしょう、何か体に優しい料理を作って運んでおきますね」と言うので、その好意に甘える事にした。
ルイズが授業に出ないのであれば、バッツにはする事が無い。
主人が欠席しているというのに使い魔だけが授業を受けると言うのも可笑しな話だ。バッツにとってもこの学院で行われる授業の内容は実に興味深いモノであるが、ここは我慢我慢。
ルイズについて回る以外には本当にする事の無いバッツはコテージに戻ると、荷物を広げ始めた。
「相棒、何を始めようってんだい?」
デルフリンガーが部屋中にアイテムを並べ始めたバッツの様子を眺めながら声をかける。
「荷物の整理だよ。この前はお姫様が来たり何だりで中途半端で終わったからな。ここらで手持ちのアイテムをキッチリ把握しておく事も必要と思ってさ」
「ほぉ~、荷物の整理ねぇ。……にしてもなんだい、この量は。店でも開くか、それとも戦争でもおっ始めようってか?」
デルフが部屋に溢れる武器防具の山を見回して率直な感想を漏らす。デルフには目も首も無いけれど人間で言う所の見回すという動作をしたのだろう。
「戦争、か……。俺のしてきた事は、傍から見たら戦争みたいなもんだったんだろうな……」
バッツが遠くを見つめるような眼でそんな事を呟く。作業自体は、この間は中断されたとはいえその続きからであったのでさほど時間はかからなかった。
昼前には手持ちのアイテム全てのリストアップが終わり、要修理の装備品だけ残して他はまた道具袋の中に仕舞われた。
残された要修理アイテムの中には、こちらの世界に来た時に着用していた赤い鎧──源氏の鎧もあった。
「そういや相棒が今までどんな生き方をしてきたか、ってのをまだ知らなかったな。よかったらよ、何で相棒はそんなに強くなったのか話して聞かせちゃくれねぇか?」
アイテム整理も一段落し、その後に食堂で昼食の給仕手伝いを終え戻って来たバッツにデルフが問いかける。
う~んどうしようかと考えるバッツであったが、相手がデルフであり他の人とは違い包み隠さず話してもそれほど問題は無いだろうという考えに落ち着いた。
デルフは剣であるし本当の事を話しても影響は少ないだろう。
それにデルフには悪いが、もしデルフがこの話を他人にしたとしても「剣の言う事だから」と話半分に受け取られるだろうと言う目算もあった。
それになにより自分の事を“相棒”と呼んでくれるデルフに対し隠し事をしているのも後ろめたい気がした。
バッツはデルフにこの学院に来る前の事を話す。自分の知る範囲で、出来るだけ簡潔に。
自分の生まれた村の事、両親の事、そして世界の事。全ての発端となった無の力と、クリスタルの事。共に旅した仲間と死んでいった仲間の事、そしてエクスデスの事……。
一通り話し終えたところで、デルフが驚愕と感心の混ざった溜息をつく。
「ほぉ~、なんと相棒は世界を救った英雄だったのか。通りでえらく強いわけだ」
「そうは言っても、今ある力の大部分はクリスタルのお蔭さ。それが無かったら俺はただの旅人なんだからな」
凄い、偉い、あんたが大将等々とデルフが素直にバッツを褒め称える。知り合いに褒められるというのは悪い気はしないがどこか論点がずれているような妙なくすぐったさがある。
別におざなりに褒め言葉だけを並べているとかじゃなくて、デルフは心から自分の事を凄いと思ってくれているはずなんだけれど……。
バッツの中の変な居心地の悪さは次にデルフの口から飛び出た言葉によって解消された。
「でも俺の知らない間にハルケギニアにそんな事が起こってたとはねぇ。無の力だっけ?“虚無”に似てるみてぇだけどそんな厄介な系統が存在してたなんて、今まで知らなかったぜ」
この言葉にバッツはガクッとうなだれる。そうなのだ。デルフは肝心な点を勘違いしている。この剣はルイズと同じく、バッツをこの世界のどこか見知らぬ国の出身だと思っているのだ。
まぁ普通そうだろう。自分達の住んでいる世界以外に別の世界が存在しているなんて考えはしまい。実際に行って確かめる事が出来なけれは、それは存在しないのと同じなのだ。
例えそれが自分が全く聞いた事も無いような国での話であろうが、せいぜい「海の向こうにはそんな国もあるのですね」程度の理解止まりだろう。
元々一つの世界だったとはいえ、二つの世界(本来の姿の世界も含めれば三つの世界)を経験したバッツの方が異常なのだ。
それから改めてデルフに自分のやってきた“世界”について説明するのに小一時間ほど要する羽目になった。
「じゃあ何かい?今聞いた話は俺達の世界には全然関係無いって事か?」
「その通りだ」
「でも相棒が世界を救ったってのはホントなんだよな?」
「ああ」
「相棒が救ったっていう世界はハルケギニアじゃなくて、でも相棒はここに居て、それは嘘じゃねえんだよな?……う~ん、やっぱりわかんねぇ。ここ以外の世界の人間なんてピンとこねぇよ」
「まぁ俺だって完全に理解しているわけじゃないさ。分かっているのただ一つ、ここが“生まれ育った世界じゃない”って事だけだ」
「よくわかんねぇけど、とんだ災難だったなぁ。ま、でもそのお蔭でこうして相棒と会えたんだから悪い事ばっかじゃねえよな」
そう、見知らぬ世界と言うのも悪い事ばかりではない。新しい土地でより多くの人たちと触れ合う事はバッツにとって、とても楽しい事である。
三つの頃から父親に連れられて世界中を旅してまわったバッツは、旅に枕する事が当たり前になっているのだ。
「でも何とかして一度は戻らないとな」
「なんでぇ、相棒はこっちは嫌いか?」
「いや、そう言う訳じゃないさ。でもさっきも話した仲間達に挨拶も無しに来ちゃったからな、きっと向こうじゃ俺の事を心配している。やっぱ黙ったまま居なくなるってのは悪いよ」
元の世界に帰りたいという言葉にデルフが顔を曇らせる。まぁデルフに顔は無いのだが、人間だったらきっとそんな表情をしているのだろう、そんな声の調子だ。
まぁバッツとしては、デルフを連れて戻るという選択肢もあるのだが。デルフと共に行く旅と言うのも楽しそうだとバッツは考える。
以前ならばボコとの二人旅であったのだが今やボコも所帯持ち、奥さんや子供から引き離して連れまわすわけにもいくまい。だから新たな旅の連れとしてデルフを、というのも悪くはない。
でもそれも元の世界に戻るにせよここに留まるにせよ、ルイズの元を離れてからの話だ。いつかは彼女が自分達を必要としなくなる日が来るのだろう。たぶん。
しかし本当に使い魔としての役割を果たし、お互いに別々の道を歩む日がそのうち訪れるのだろうか?
ルイズと初めて会った時の説明では『死ぬまで使い魔として仕え続ける』といった事を話していたような気もするが……、とバッツは思い出す。
ルイズの顔を思い出すと同時に、あの人の顔が頭をよぎる。
──ワルド子爵。
救えたかもしれないのに、救えなかった命。いや、救わなかった命。
今日ルイズが自分と顔を合わせようとしなかったのも、きっと彼を見殺しにしたからに違いない。
理由はどうであれ、使い魔として主人の意向に背いたのは変わらない。あの時のルイズの顔が目に焼き付いている。驚愕と、激しい怒りと、深い絶望の織り混ざった複雑な顔。
何故あの時、自分は彼を助けなかったのだろう。それが彼の望みだったから?またルイズに危険が及ぶ可能性があったから?……わからない。
そんな想いが、バッツの口を突いて出た。
「でもさ、世界を救うだけの力を持っていても、たった一人の人間を救う事も出来ないもんなんだな」
「あのワルドとかいう男の事か? あれは仕方ねぇよ。アレはあいつの心の問題、誰にもどうにも出来やしねぇよ。それにあいつは自分で死を選んだんだ、相棒のせいじゃねぇ。相棒が責任を感じる必要なんざこれっぽっちも無えさ」
デルフの気遣う言葉にありがとう、と答えるバッツ。
しんみりとした空気が流れる室内にコン、コンと扉を叩く音が響いた。
「ミスタ・クラウザー、いらっしゃいますか?」
はいはいと出てみると、そこに立っていたのは学院長秘書の女性であった。確か名前は……。
「ええっと、ミス・ロングビル……、だったっけ? 何か用ですか?」
なんとか相手の名前を思い出し、一応はこちらの風習に倣い女性には名前の前にミスを付けて相手の名を呼ぶと、ここに来た要件を尋ねる。
「学院長がミスタ・クラウザーとお話ししたい事があるそうです。ご足労ですが学院長室までお越しいただけませんか?」
丁度今は暇なので、バッツは二つ返事で了解した。ミス・ロングビルに連れられて学院長室へと赴く道すがら、会話に花を咲かせた。
「ミスタ・クラウザー、使い魔生活というのはどうですか?」
「どう……って、まあ普通だよ。使い魔ってよくわからないけど、なんか執事とか従者とかそんな感じが強いかな? まだあんまり無茶な命令されないし」
「でもやっぱり気苦労は色々とおありでしょう?」
「それは俺よりもルイズの方が多いんじゃないかな? やっぱ他とは違う訳だしさ。俺は比較的自由にさせてもらってるけど、ルイズにとっては他のみんなと同じような使い魔の方が気楽だったかもってのはあるけどね」
「それでも人間であるという点を差し引いても、ミスタ・クラウザーはとてもこの上ない“当たり”だと思いますわ」
ミス・ロングビルは中々の美人である。長く美しい髪が陽の光を受け蒼く煌めきながら歩調に合わせて波打つ様は、思わず見蕩れてしまいそうだ。
そんな彼女から褒められたものだから、バッツとて悪い気はしない。でもあまり褒められ慣れていないバッツは嬉しいというよりも気恥しいという気持ちの方が先立ってしまうのであった。
「そうかな?そう言われると嬉しいけど、人間だから出来る事と出来ない事がハッキリしすぎていて役に立たない事も多いよ。流石にタバサの竜みたいに空は飛べないしさ」
ははは、と笑って照れ隠しをする。そんなバッツの様子を見てミス・ロングビルもフフフと淑やかに笑った。
「ミスタ・クラウザーは不思議な方ですね。一緒に居るとなんだかとても落ち着きます」
「そうか?」
「ええ。なんだかとても穏やかな雰囲気を纏っていますわ。きっとあなたの仁徳の高さ故なのでしょうね」
「よしてくれよ。俺はそんな聖人君子じゃないさ。どっちかっていうと空気みたいなもんさ。しがない根無し草、物珍しいってだけだよ」
褒められるのは悪い気がしない。でも、あまり度が過ぎるとかえって居心地が悪くなるものだ。謙遜でも何でもなく、バッツは純粋にそう思う。
「でもあなたが素晴らしい方というのには変わりはありませんわ。何しろ、あの悪名高い盗賊の手からわたくしを救ってくださったのはミスタ・クラウザーなのですから」
学院を襲った盗賊の一件の事であろうか。まぁ確かにバッツ一人でもあのゴーレムをどうにか出来ていたかもしれないが、現実にはルイズコルベールの助力のもと救出したのだ。
別にバッツ一人の手柄というわけでは無い。それをあたかも全てバッツのお蔭みたいに言われるとなんか違うと感じるのだ。
ミス・ロングビルを直接助ける一手を打ったのはバッツに違いないが、それも他の皆の足止めや陽動あってこそ。それに決定的な一撃をお見舞いしたのはルイズの使う炎のロッドなのだし。
「あれは俺一人の力じゃ無かったし……。あぁそれと、その“ミスタ・クラウザー”ってのは止めてくれないか?名字で呼ばれるのには慣れてないし、なんか背中がムズムズしちゃうよ。バッツでいい。みんなもそう呼ぶし、俺もその方がしっくりくる」
「それではわたくしの事もマチルダとお呼び下さい、バッツさん」
「マチルダ?それがあんたの名前なのかい?」
「ええ。マチルダ・ロングビル、それがわたくしの名前ですわ」
マチルダがそう柔らかく微笑む。その笑顔に思わずドギマギしてしまうバッツであった。
そんな事を話しながら歩くうちに、学院の中央に位置する学院長室に到着した。入室すると、正面の机にオスマン氏が水煙草のパイプを手で弄びながら待っていた。
オスマン氏はマチルダに退室を命じると、室内はバッツとオスマン氏の二人だけとなった。なにやら秘密の話でもしようというらしい。
周囲への音漏れに配慮してかオスマン氏が杖を振り、何かしらの魔法を学院長室全体に施す。魔法効果が十分に巡った事を確認すると、コホンと一つ咳払いをしてオスマン氏は話を始めた。
「急に呼び出して済まんかったの」
「いいさ。今日は暇だったしな」
「わしの方でも色々と調べてみたのじゃよ。お前さんのその左手のルーンについてとか、色々とな。それにしても少し骨が折れたわい。何しろこの学院の図書館の本では用が足らなくてのう。この歳になってトリスタニアまで出向いて王立図書館に通うはめになるとは思いもよらなんだわ」
肩の凝りをほぐすような仕草をしながら、カッカッカッと冗談交じりにオスマン氏が笑う。その口振りからでは、その労力がどれ程の物であったかを推し量る事が出来ない。
とても苦労したのか、はたまた大袈裟に話しているだけなのか。少し気押され気味に困惑するバッツの事などお構いなしにオスマン氏は話を続ける。
「ま、わざわざ出向いた甲斐あって幾らか判明した事がある。先ず一つに人間が使い魔になると言う先例がこのトリステインにも存在していたという事。そのどれもが始祖に連なる家系、つまりは王族かそれに親しい家柄の出身者によるものであったのじゃよ。そして二つ目、人間の使い魔達は皆特殊な存在であったという事じゃ。ルーンの事まで詳しく記した文献は存在しなかったが、その特徴からして恐らくは『始祖の使い魔』と同一の能力を有していたと推測される。要するに、『王族もしくはその周辺の家系の人間』が『人間を使い魔として従え』ており、その使い魔達が『始祖の使い魔と同一の能力』……つまりは伝説にある『始祖の使い魔』であったという事じゃ」
何処から取り出したのか、オスマン氏は今度はパイプから紫煙をくゆらせながら一息つく。
「それと、人間を使い魔として従えていたメイジは他のメイジとは一風変わった系統の魔法を駆使していたという記述も発見した。これらの事を総合して考えると、人間を使い魔として従えていた者は、伝説にある始祖の系統『虚無』を習得していたと考えられるじゃろう。事実、その者たちは『虚無の担い手』と呼称されておった。しかしながらどういう経緯で『虚無』を習得するに至ったか、はたまた『虚無』を扱えるようになる条件とは何なのか、それはまだ不明じゃ。しかも不思議な事に、その者たちは通常の系統魔法は殆ど使う事が出来なかったらしい。まぁ『虚無』以外の系統魔法を使ったような記述が見当たらなかっただけで、本当に系統魔法が使えなかったどうかは定かでは無いがの。史上初めて『虚無』を使ったとされ、『虚無』の代名詞でもある始祖ブリミルは全ての魔法の祖と呼ばれているくらいだから、『虚無の担い手』達が系統魔法を使えなかったとは考えにくいしのう」
オスマン氏は顎髭を撫でながら、考え込むように眉間に皺を寄せる。その額に刻まれた深い皺は今回の調査における苦労を表したものか、それとも得られた結果が芳しくない事に対する軽い絶望か。
バッツには分からない。
「わしの方で分かったのは僅かばかりじゃ。どれもこれも始祖とその使い魔については書かれていても、肝心の『それらが何処から来たか』についてはサッパリ書かれておらなんだ。どういう理屈で人間が使い魔として選ばれるのか、失われた系統『虚無』とは一体どのような存在なのか、それらについては一切不明のままじゃ」
一切不明……、それは現状ではこれ以上の調査は不可能ということである。
どの書物にもその全貌はおろか欠片も内容が記されていない未知の系統『虚無』。知られているのはその系統の名称と、確かに存在しているという事だけである。
始祖の用いたとされる、今は失われてしまった系統・『虚無』。
今となってはどのような代物であったのか、本当に存在するのか証明できる人間など存在しないにも関わらず、その実在だけは確固として信じられている謎の系統。
「その『虚無』って一体どんな魔法だったんだろうな」
「さあ、それについては皆目分からぬのだよ。始祖にまつわる書物にせよ、『虚無の担い手』と呼ばれる者たちに関する書物にせよ、その具体的な内容は描かれておらなんだからのう。ただ“『虚無』とは奇跡の力である”といった記述があるのみ、じゃ。平民が奇跡と思うような事象の多くは系統魔法で再現する事が可能と言えば可能なのだが……。しこうしてそのメイジをして、系統魔法を以上の“奇跡”と形容されるモノがいったいどんな存在なのか……わしにも見当つかん。伝承によれば『虚無』は系統魔法より更に深いところの魔法とも言われておる。全ての魔法の根源とされる魔法……、人よりもだいぶ長生きしているワシでさえ、その片鱗すらお目に掛かった事が無い」
「奇跡……、か。俺にとっちゃ、こっちの魔法も十分奇跡なんだけどな。それ以上の代物なんてそうそう思い浮かばないなぁ」
何の変哲もない土くれを鉱物に変えてたり、空高く舞い上がったり、自分の分身を何体も作り出したり……魔法というモノにある程度親しみのあるバッツですら驚くような魔法がここにはある。
それ以上の事象を操るなんて、思い当たらない。
「結局のところ、現時点で調べられた事はこの位じゃ。これ以上の事を調べようと思ったら、他国の文献に手を出してゆくしかないかのう。しかも肝心な情報がサッパリ得られなんだわ」
「肝心な情報?」
「君を元の世界に帰す方法じゃよ。『サモン・サーヴァント』は使い魔を呼び寄せる事が出来る。が、その逆の呪文や方法については何にも分からなんだ。が、もしかしたら系統魔法では無理でも『虚無』ならば可能性があるのかもしれん」
「それは本当か?」
この言葉にバッツはとても強烈に食らいついた。学院長机に乗り出しオスマン氏に喰らいつかんばかりに身を乗り出す様に、流石のオスマン氏も肝をつぶした。
興奮しすぎているバッツをなんとかなだめると、少し申し訳なさそうに言葉を続ける。
「いや、あくまでも可能性の話じゃ。今も言った通り、『虚無』の実態は全く分かっておらん。だから君を元の世界に帰す魔法があるかもしれんし、やっぱり無いのかもしれん。そもそも、『虚無』にそのような呪文が存在したとしても、それを扱えるメイジが存在していなかったら意味の無い事ではあるがの」
一時的に我を忘れてしまったバッツも平静を取り戻し、ちょっとバツの悪そうにしている。なんかはしゃぎ過ぎたのを反省しているみたいにも見える。
頭をポリポリとかき、控えめながらも話を続ける。
「たしか『虚無の担い手』とか言うヤツか?そんなのは本当に居るのか?」
「居ない、と断言する事はできんじゃろ。少なくとも、君と言う実例があるのじゃから」
パイプを咥えながらバッツに視線を向ける。急に自分の事に話が振られて、バッツは自分を指差しながら目を丸くする。
「俺?」
「そうじゃよ。君のその左手甲のルーン、それはかなり高い確率で『ガンダールヴ』と断定できるじゃろう。今はまだただの文様に感じられても、きっとそのうち何かしらの効果が顕れるはずじゃ。そして、『始祖の使い魔』が実在すると言う事は、それ即ち『虚無の担い手』も実在することの証明とはならんじゃろうかのう?」
オスマン氏はわざとなのかはっきり言い切るのを避けた。もしバッツが伝説の『始祖の使い魔』であるならば、『虚無の担い手』が誰なのかは直ぐに思い至りそうなものに。
「そう言えば君のミス・ヴァリエールは大丈夫かの?今日は授業を休んだと聞いたが」
オスマン氏が急にルイズの心配を口にする。てっきり『虚無の担い手』関連の話でも膨らませるのかと思っていたが、なんだか肩透かしを食らった気分だ。
「ルイズ?ああ、確かに今日は休んだけど、そんなに気になる事か?」
「まあの。ミス・ヴァリエールは我がトリステインでも屈指の名家。常にいくらかの注意は払っておる。あまり粗相が過ぎるというのも良いことではないしの。それにミス・ヴァリエールは今まで授業を欠席した事が無かった真面目な生徒であったからのう。もう帰ってきているのに授業に出んとは、余程体に堪えた旅だったようじゃの。なにせ一週間以上の予定の所を僅か三日でやり遂げて来たのじゃから」
「今回の事を知っていたのか?」
てっきり学院側にも内緒の旅だと思っていたバッツはオスマン氏の言葉に驚く。しかもその日程まで知っているとは。
「まぁ、我が学院の生徒が関わる事なわけじゃし、ワシの方に姫殿下から直々に打診があったのじゃよ。詳しい内容までは聞けなんだが、一週間から十日の間ミス・ヴァリエールの外出を許可してほしいと言われたのじゃ。姫殿下直々の命である上、あの時の姫殿下にはなにか逼迫した事情があったようでの、とても断れる雰囲気でも、詳しい内容を聞く事も出来なんだ」
「そっか……。なら、俺から旅の内容を詳しく聞こうってことか?」
バッツがいくらか警戒するように問うと、オスマン氏は静かに首を左右に振った。
「いや、そうではない。ワシが聞いてもいいような内容であるのならば、姫殿下がご自分で直接お話しになる筈じゃ。そうでないという事は、ワシが聞くには不相応というわけじゃろう。深入りはせんよ。むやみやたらに何でもかんでも知ろうとはしない、それは学者としてわきまえるべき事でもあるし、長生きの秘訣でもある」
と、オスマン氏が人差し指を立ててイタズラっぽくウインクして見せる。
「そうそう、ミス・ヴァリエールの体調が回復したらワシの所に来るように君からも言伝を頼めるかの」
「ルイズにも何か用があるのか?」
「まぁの。またかと思うじゃろうが、姫殿下直々の御指名の依頼がまた一つあるのじゃよ」
「まだ何かさせるっていうのか?」
バッツが呆れとも悲鳴ともとれる声を挙げる。正直、今回の旅がアンリエッタの思惑以上にハードな内容になったのは全てが彼女の落ち度では無い。
が、全てが彼女の責任では無いとはいえ、ルイズは心身ともにとても深いダメージを負ったのだ。そんなルイズに更に何かさせようと言うのは余りにも酷ではなかろうか。
そんなバッツの考えが態度に現れているのを察したオスマン氏は、彼が悪いわけでもないのに申し訳なさそうに言葉を発する。
「この話は君らがアルビオンへ出発した日に打診されての。姫殿下も大層お心を痛めていたようではあったが……」
「別にあんたが悪いって訳じゃないんだ、あんたが謝る必要は無いさ。」
肝心のルイズもアンリエッタも居ないこの場で、第三者同士が謝ったり謝られたりしているのもおかしな話だ。
バッツはオスマン氏の言葉を制すると、ルイズには俺からも言っておくと了承した。
話も粗方終わった気配を察し、退室しようとしたバッツをオスマン氏が呼び止める。
まだ何か話す事が残っていたのかと振りかえると、オスマン氏が申し訳なさそうに言葉を付け加えた。
「一つ君に訊いておくことがあったのを忘れておったわい」
「なんだ?」
現時点でバッツが何か協力できる事はあるのだろうか?自慢ではないが書物を読み漁るようなことは苦手である。オスマン氏の調べているような事に協力出来るなんて思えない。
そんな心の内が顔に表れてしまっていたのか、どうやら大層間抜け面をしてしまったようでオスマン氏が軽く噴き出した後、言葉を続けた。
「なに、そんな難しい事では無いよ。少しばかり教えてほしい事があるだけじゃ」
「何をだ?」
「君の知っている国名や地名、その他何か手掛かりになりそうな単語を教えてほしい」
「それは構わないけど、それが何の役に立つと言うんだ?」
オスマン氏の目的が分からない。バッツの知っている地名なんか聞いて何が分かると言うのだろうか。バッツ自身、このハルケギニアのどの地名にも心当たりがない。
きっとオスマン氏にとってもそうだろう。バッツの知る単語を聞いたところでそこから何かヒントを見出す事が出来るのだろうか?
「君に以前話した通り、わしもかなり昔に、恐らく君と同じ世界から来たと思しき御仁と遭遇している。だからもしかしたら同じような人間が他に居てもおかしくはないと考えておるのじゃ。そしてその全員が元の世界に戻れたのかそうではないのかまでは分からんが、彼らの残した痕跡に君の世界の名残を見いだせるかもしれん。それは各地に残る伝承やお伽噺に姿を変えておるかもしれんし、もっと他の何かになっておるかもしれん。いずれにせよ、トリステイン国内でもそういった手掛かりが探せば幾つかは見つかるはずじゃ。今度はそういった方面から攻めていこうかと思う。」
「そんなに上手くいくか?」
オスマン氏は軽く肩をすくめる。
「流石にそれは分からんよ。でも現時点ではもう今わかった以上の情報は期待できん。でも、分からんからと言って何も手を打たなければそこで終わりじゃ。もう新しい情報は望めん。ならば可能性は低くても考えうる限りの手を打っておくに限る」
考えられる全ての可能性を試してみる、それは何ら手の打ちようの無い現状でもくさらずに足掻こうと言うオスマン氏の前向きな姿勢を表していた。
いや、ただ単に学者として目的を持って調べ物をする事が楽しいだけなのかもしれないが。
バッツとしても別に知られて困る事も無いのでここはオスマン氏の提案に乗る事にした。
取り敢えず思いつく所から始めた。タイクーンやイストリーやサーゲイトといった様々な地名、……そしてクリスタル。
「クリスタル?水晶に何か特別な意味でもあるのかね?」
オスマン氏が怪訝そうに聞き返す。水晶なんて鉱物としてはそれほど高価でもなく、どちらかと言えばありふれたものだ。
まぁたしかに混入物の無く透明度の高いものであれば少しは値が張るかもしれないが、それほど希少と言うものでもない。
「まぁ、色々あるんだよ」
言葉を濁すバッツの態度を咎めるでもなく、オスマン氏は今バッツから聞いた単語を紙に書き留めていった。
一通りキーワードとなりそうなものを挙げ終え、書き留めた文字群に目を通しながらオスマン氏が軽く息をつく。
「流石に聞いたことも無いものばかりじゃの。これはなかなか調べがいがありそうじゃ」
「なんだか色々と苦労を掛けるみたいでなんだか悪いな」
バッツがオスマン氏の労をねぎらう言葉をかける。その言葉を受けたオスマン氏は、照れ隠しのように一層声を大きくして笑った。
「なに、わしら学問の道に生きる者にとって調べ物は苦労とは言わんよ。例えこのハルケギニア中の書物をひっくり返そうが、知識の探求の為ならばそれすら楽しくなるのじゃ。研究者とはそういうもんなんじゃよ」
今書き留めた紙を眺めながらオスマン氏は楽しげに髭を撫でる。そんなどこか楽しげなオスマン氏の様子を見たバッツはふと心に思いついた事をそのまま言葉に表した。
「あんたの得意な系統って、もしかして風か?」
バッツの意外な言葉にオスマン氏が興味深そうに応える。
「どうしてそう思う?」
「“探求は風に英知を乗せる”……俺の世界に残る古い詩の一節だ。何かを追い求める気持ちはあちらこちらを吹き渡る風に似ている、って意味だろうと俺は解釈している」
「成程、確かにそう言われればそうかもしれんの」
その後もう少しだけ軽く話をしてバッツは学院長室を後にした。
初めて対面したときからなんとなく感じてはいたことだが、どうやらこの魔法学院の長であるオスマン氏は、その気難しそうな風貌より実際はかなりフランクな性格であるようだ。
学院長室を後にしたバッツはコテージへは戻らず、その足は自然とルイズの部屋へと向かっていた。
ワルドの一件があるからルイズと顔を合わせるのは躊躇われるが、それでも放っておくこともできない。食事の世話などはシエスタに任せたので心配はないのだが、それでも様子は気になる。
知らずに早足になりながらルイズの部屋へ急ぐ途中、キュルケと彼女に連れられたタバサと合流した。
二人も授業を休んだルイズのことが気になり様子を見に行くところだという。そういえば時間的に今日の授業は終わっているようだった。
お互いにルイズのことを気にかけているとわかると、一緒に様子を見に行こうという流れになった。
コンコン、と控えめに部屋の扉を叩く。
中からは何の反応も無い。聞こえなかったのかともう一度、今度は少し強めに叩く。
そうすると中から「誰?」というルイズの声が返ってきた。思ったよりもしっかりしていたが、何処と無く冷たい響きを持っている。
「あたしよ、キュルケ。あなた今日授業サボったでしょ?大事な資料が配布されたから、わざわざ持ってきたのよ」
勿論、キュルケは手ぶらだ。特に何を持っているわけでもない。資料なんてただの口からの出任せであり、ルイズが扉を開けやすくするための方便だ。
そんな嘘をさらりと言ってのけるキュルケが少し怖く感じながらも、それでルイズが出て来るのであれば……とバッツは黙認した。
「ちょっと、聞こえてるの?明日提出の課題だってあるんだから、さっさとこのドアを開けなさいよ」
少し語勢を強めてキュルケが続ける。課題の話だって勿論嘘だろう。よくもまぁこれだけ平然と嘘をポンポン吐けるかとある種の感心を抱いていると、中から声が掛かった。
開いているから勝手に入ってくればいいというルイズの言葉に従い、ドアノブをひねる。成程、言葉の通り鍵は掛かっておらず簡単に扉が開いた。
部屋に入ると、ルイズは机に向かって座っていた。てっきり寝間着のままかと思っていたが、ルイズはきちんと着替えていた。しかし、それは制服では無い。
恐らくは今手元にある中から喪服の代わりになりそうなものを選んで組み合わせたのだろう、ちぐはぐながらも全身黒づくめの出で立ちで合った。
机の上には剣が置かれている。ルイズが自分の剣を所持している筈もなく、それは言うまでも無くワルドの形見の剣であった。
それだけではない、同じくバッツがウェールズより託されたワルドの帽子も置いてある。
黒い衣装に形見の品──ルイズは喪に服しているのだろう。
その事を察し、バッツだけでなくキュルケも言葉を失う。ベッドで丸くなって塞ぎこんでいてくれれば無理やり元気づける方策でも思いつくのであろうが、状況は全然違った。
意識も、心もしっかりとしている。その上で彼の死を弔っているルイズにかけるべき言葉が、中々出てこない。
ルイズの方も自分から何か話し出すという事も無く、バッツらを部屋に迎え入れると直ぐに机に戻り、黙祷を捧げているような姿勢のまま動かない。
気まずい雰囲気の充満する部屋の中には、この場の空気を知ってか知らずか、タバサが興味無さ気に手に持った本のページをめくる音だけが響いていた。
何分くらい経ったであろうか、意を決してバッツが話を切り出す。
「学院長がお前が授業を休んだのを心配していたぞ」
バッツの口からオスマン氏の話題が出て来る事にキュルケが軽く驚くが、ルイズは短く「そう」とだけ反応した。
そして再び訪れる沈黙の時間。話を続けるのに失敗したバッツはそのまま切っ掛けを失って次の言葉を発しづらくなってしまった。
その気まずさに耐えきれず、キュルケが声を挙げる。
「ああもう、とにかく怪我とか病気の類じゃあないみたいだから一安心したわ。アルビオンで何があったかは知らないけれど、落ち込むのも程々にしなさいな」
あの夜、ルイズ達の報告を盗み聞きしていたとは口が裂けても言えないキュルケは、殊更に「アルビオンへ向かったルイズ達の身に降りかかった事」を知らない事を強調する。
勿論、あまり不自然になって相手に感づかれる事のないように気を付けながら。
「あんたに心配される筋合いは無いわ」
「あなたには元気で居てもらわないと、からかう相手がいなくて退屈なのよ」
「なにそれ」
「そのまんまの意味よ。それに、あんまり授業を休みすぎると成績落とすわよ。座学しか能の無いあなたが筆記試験で点を落としたら、それこそ退学の危機よ」
「あんたには関係ない事でしょ」
「だから言ったでしょ?あなたが居ないとあたしの楽しみが一つ減るのよ。あたしの楽しい学院ライフの為にも、からかいがいのある相手は必要不可欠なのよ」
「はぁ?なにそれ。訳わかんないわよ」
「あなたには訳が分からなくてもいいのよ。あたしが分かればいいんだもの。いいこと?とにかく、何をジメジメしているのかは知らないけれど、終わった事はどうにもならないわ。大切なのはこれからどうするか、よ。何もしなければ何も変わらない、いいえ、状況は悪化する一方よ。少しくらい辛くても悲しくても苦しくても、顔を上げて前を向かなくちゃいけない時もあるものよ」
キュルケが分かるようで良く分からない持論を展開してルイズをやり込める。
「何も知らない癖に」
「ええ、何も知らないわ。でも、何があったか説明できないんだったら、少なくとも周りに心配をかけさせない事ね。あなたが勝手に授業を休むことで、余計な手間がかかる人間だっているのよ」
キュルケの言葉に、ルイズは今日一日の事を思い出す。そう言えばメイドのシエスタが何かと世話を焼いてくれた。朝も昼も食事を部屋に運んでくれたし、ついでに少し掃除もしていってくれた。
部屋の掃除はメイド本来の仕事とはいえ、食事を部屋まで持ってきてくれたのは彼女の好意だ。いくら学院仕えの小間使いであっても、食事を各人の部屋まで運ぶというのは本来の業務では無い。
「……わかったわよ。でも今日はダメ。色々あったのよ、だからそっとしておいて頂戴。明日からまたいつも通りに授業に出るわ」
「わかれば良いのよ、わかれば。それじゃ、明日……は休みだから、明後日教室で顔を合わせるのを楽しみにしているわよ。もし出て来なかったら、どうなるか覚悟しておきなさいよ」
キュルケは杖の先に小さい炎を灯らせると、ニヤリと目を細める。脅し……では無いのであろうが、力づくでも連れていくわよと言外に滲ませた。
言う事言ってすっきりしたのか、キュルケは満足そうにタバサを連れてルイズの部屋を出て行った。
この部屋に取り残される事に耐えかねたバッツは、慌ててキュルケの後を追いかけた。今ルイズと二人きりになっても気まずいだけで、居たたまれないばかりだ。
扉を閉めようとしたバッツの耳に、ルイズの声が届いた。
囁くような、呟くような、独り言のようでやはりバッツに向けて発せられたその言葉。部屋を出ようとする人に届くか、届かないか、そんな小さな声だった。
ごめん。あんたのせいじゃないって分かっているの。大丈夫よ、大丈夫。心配掛けてごめんなさい。でも、もう大丈夫だから……。
そう、ルイズの呟く声が聞こえた。
そしてバッツはカチャリ、と静かに扉を閉めた。
翌日早く、ルイズはバッツを連れてオスマン氏のいる学院長室へ赴いた。
朝食を手早く済ませ、午前の授業が始まる前にオスマン氏に会う事にしたのだ。
ルイズの様子は普段と変わらずに見えた。
凛とさわやかな空気が立ち込める塔内を歩き、学院長室に到着した。
ドアをノックすると中から声が掛かり、二人は部屋へ招き入れられた。室内に居たのはオスマン氏とその秘書のマチルダ。いつもの光景だ。
軽く挨拶を済ませると、オスマン氏は早速本題に入った。
「君はこれが何か分かるかね?」
そう言って一冊の本を取り出す。古びた皮の装丁がなされた少し厚みのあるその本は、かなりの年代物なのか今にも崩れてしまいそうなほどにボロボロになっている。
『錬金の』呪文が施されているのであろうか、オスマン氏は殊更丁重に扱っている様子も無いので多分見た目程脆くは無いのであろう。
机の上に置かれたその本をマジマジと見つめるルイズであるが、全く見当が付かないらしくただただ困惑の表情を浮かべるだけだ。
「いいえ、わかりません」
ルイズは一、二分ほど本を見ていたが、結局思い当たる節も無く降参した。
「これはな、我がトリステイン王国に代々伝わる秘宝の一つ、『始祖の祈祷書』じゃ」
「『始祖の祈祷書』!?」
ルイズが驚いて声を上げる。
「これが、『始祖の祈祷書』なのですか……。その存在は知っていましたが、現物を見るのは初めてです」
ルイズはさっきよりも熱心に本を見つめる。時折軽い歓声のようなものを漏らしながらマジマジと見入っていた。
秘宝、とオスマン氏が言っているのでそれなりに価値があるものだと言うのは何となく理解できてはいるが、今一つ実感の湧かないバッツの様子を組みとってか、オスマン氏は少し説明を加えた。
「そう、コレが『始祖の祈祷書』──つまり、始祖ブリミルが所持していたとされる本じゃ」
「でもこれが、本当の本当に『本物の始祖の祈祷書』なのでしょうか?」
ルイズがふと心をよぎった疑問を口にする。国の秘宝に対してなんと畏れ多いという思いはあるものの、口に出さずには居られなかった。
何故ならば『始祖の祈祷書』とされる書物はトリステイン国内のみならず、このハルケギニア各地に点在しているからだ。
勿論、その全てをルイズが直接見た事がある訳ではない。それでも、その内の何点かは目にしたり耳にしたりした事がある。
なにしろ、ヴァリエールの領地内にも『始祖の祈祷書』を所蔵しているとする教会があるくらいだ。それくらい、始祖にまつわる秘宝でありながらも、ある意味最も身近な存在であるのだ。
多分、どの貴族の領地にも一つは存在しているのではないかと思われるくらいに、『始祖の祈祷書』は世に溢れていた。
もっともその全ては偽物であり、始祖以外の誰かの手によって後世に造られたものである。
本物があるのかどうかすら定かではないのになぜ偽物と言い切れるのか。理由は簡単である。そのどれもが煌びやかな外装をしており、見るからに自己顕示欲の強そうな造りなのだ。
始祖の名を騙り、始祖の威厳を世に知らしめるために金と技巧凝らした造り、そして内容も虚無の詳細には一切触れず、しかしながら系統魔法と虚無の賛美に終始する……。
それが世に溢れる『始祖の祈祷書』の、所謂“お決まり”であった。
だが今目の前にある物は、それらとは一線を画するものだ。見た目はただのみすぼらしい本。
いや、みすぼらしいと言っても元はそれなりにしっかりとした装丁であったのだろうが、経年劣化によるものかすっかりボロボロになっており、往時の姿をうかがい知ることは出来ない。
更には『錬金』の効果だけでは劣化を防ぎきれていないらしく、あちらこちらに修繕の跡が見られるのも何か不思議な説得力を醸し出している。
これほどまでに手をかけて保存されてきた品物、しかも始祖の直系である王家伝来の宝ともなればその信憑性は否が応にも高まるというものだ。
「左様。これは世に溢れる模造品ではなく、正真正銘の『始祖の祈祷書』である……らしい。流石のワシも六千年前の現物を見た事は無いが、まぁ間違いは無かろうて」
オスマン氏が自慢の顎髭を撫でながらルイズの問いに答える。
「が、今はこれが本物であるかどうかは実はさほど重要ではない。重要なのは、“王家から『始祖の祈祷書』が貸与された”という事なのじゃよ」
「と、言いますと?」
「トリステイン王家の伝統の一つに、王族の結婚式の際には貴族の中から選ばれた少女が巫女として式に参加せねばならん。その時、この『始祖の祈祷書』を手に式の祝詞を読み上げる習わしとなっておるのじゃ」
コホン、と軽く咳払いをするとオスマン氏は言葉を続ける。
「そしてこれがここにあると言う事、そして君がここに呼ばれたという事──それがどういう意味を持っているかもう分かってくれているとは思うがの」
「まさか、私がその巫女に……?」
「そうじゃ。姫直々の御指名じゃ。」
「そう……ですか……」
ルイズが俯きがちにそう答え、少し顔を曇らせたのを見逃さないオスマン氏であったが、あえて触れず気が付かない振りをした。
辞退の言葉を口にしないという事は承諾したものとみてオスマン氏はルイズに巫女としての心得やらしなくてはいけない事やらを簡潔に説明した。
黙ってオスマン氏の話を聞いていたルイズの顔が急に曇る。何事かと言葉を止めたオスマン氏に、ルイズは控えめに手を上げて質問した。
「巫女の役を受けるのは良いのですが、式で詠み上げる祝詞は自分で考えなければならないのですか?」
ルイズは祝詞の製作まで自分がしなければならない事に不満を示した。
「そうじゃ。式の祝詞は巫女が考える。もちろん、ある程度の草案は用意されているであろうし我ら学院の教師一同、完成までの助言や推敲といった協力を惜しむつもりは無い。だが、婚姻を喜ぶ気持ちを最大限に込めるには巫女自らが言葉を紡ぎ詩を編みあげる方が良いとされているのじゃ。そなたには苦労を掛けるがの、まぁ一つ宜しく頼む」
「それで、式は何時なのですか?」
「来月、ニューイの月に入って直ぐじゃ。式まで半月程しかない急な事ではあるが、宜しく頼むぞ。先に言った通り、我らも協力を惜しまん。何かあれば遠慮なく頼ってもらって構わんぞ」
わかりました、謹んで拝命いたしますとルイズが答えると、オスマン氏は目元を緩ませた。
そしてオスマン氏から『始祖の祈祷書』を受け取り、その他にも過去の祝詞を書き留めた書物とマチルダが図書館から選別してきたという詩集や詩歌の書き方入門といった書物も一緒に渡された。
両手に抱えきれない程の書物の山を抱えて、ルイズはバッツを連れて学園長室を後にしたのであった。