ハイスクールD³   作:K/K

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汚染、素裸

 黄金の杯から零れ出たナニカを一番近いもので例えるなら泥水であろう。透明な液体の中で、表現しようのない色が攪拌されながら床に触れると、拳大に広がる。

 杯から垂らされたナニカは、その内に宿す害悪で瞬時に触れたものを侵す。

 目に見えた変化がある訳では無い。ただ、触れたもの、浸されたものが別のものへと強制的に変質させられる。

 それは床だけに留まらず、形の無い空気、あるいは空間すらもナニカに染め上げていく。

 世界そのものへの浸食、あるいは凌辱とも呼べるもの。

 そして、それは認識したものの五感を通し──

 

「グレイフィアッ!」

 

 浸食される世界の中で、拒絶する様にセタンタがグレイフィアの名を叫ぶ。

 マザーハーロットの解き放ったそれから目を離すことが出来なかったグレイフィアは、セタンタの言葉が耳に入ると同時に、行動に移っていた。何をすべきかすぐに分かったのは二人の付き合いの長さ故である。

 グレイフィアは、側にいたセタンタの首にしがみつく。すると、セタンタは持っていた槍を手放し、代わりに動けていないディハウザーとケルベロスを脇に抱え、全力で床を蹴る。

 一歩踏み込むことで床が大きく割れ、セタンタたちは斜め上後方の天井に向かって跳び上がり、セタンタは空中で反転させると天井を踏み抜く勢いで蹴る。

 セタンタは、得物を捨ててまで全速力でこの場から逃走することを選んだのだ。

 狭い空間内で、セタンタは自分の動体視力でも遅れ、急停止も方向転換も出来ない速さのみを特化させた動きでマザーハーロットから離れる。自分が今どこにいるか視覚では分からないが、建物内の構造は覚えているので、その記憶を頼りに天井、床、壁など全て足場に使って踏み壊しながら一秒でも早く遠ざかる。

 まとめて姿を消したセタンタたちをマザーハーロットは追うことはしなかった。黄金の杯を傾け、その中身を口の中に注ぎ込み嚥下する。セタンタたちとって必死になって逃げるほど危険なこれも、マザーハーロットにしてみれば程好く酔える酒のようなもの。

 生にしがみつくセタンタたちの姿を肴にして、黄金の杯を呷る。

 

「──おや?」

 

 マザーハーロットは、彼女にしか分からないものを察知し、口から黄金の杯を離す。

 少しの沈黙の後、マザーハーロットは楽し気な哄笑を響かせた。

 時間にすれば凡そ十秒程度の間に、セタンタはマザーハーロットから数百メートル以上離れることが出来た。

 ある程度の距離を稼ぐとセタンタは止まる。まだここにはあの液体の影響は無い。

 両脇に抱えていたディハウザーとケルベロスを離し、グレイフィアもセタンタから離れる。

 

「──大丈夫ですか?」

「……ええ、何とか。……感謝します、セタンタ殿」

「グル……ルルル……」

 

 真っ青な顔をしながらディハウザーは返事をする。ケルベロスも顔色は分からないが、唸って一応無事であることも告げる。二人からしてみれば、いきなり掴み上げられた挙句、三半規管を直接殴りつける様な高速移動を強制的に体験させられたようなもの。体調が悪そうに見えただけで済んだのは彼らが並外れて頑丈である証拠であった。

 

「グレイフィア──」

「私よりも、自分のことを心配して下さい」

 

 グレイフィアも血の気が引いた顔色をしているが、セタンタもそれと変わらないほど蒼白となっていた。ただでさえ色白の顔から血の気を失うと、死人に近い顔色となる。

 理由は、移動のせいでは無い。

 

「何でしょうね、あれは……」

 

 何とか呼吸を整えながら、ディハウザーが誰もが思っていたことを口に出す。

 

「あれは──」

 

 セタンタが流れ出るアレについて推測しようと脳内に映像を出した途端、猛烈な吐き気が込み上げてきた。吐く一歩手前で抑えることが出来たのは、ひとえにセタンタの精神力が故。

 聞いてきたディハウザー、それによって思い出したグレイフィア、ケルベロスも似たような状態となったのか体を強張らせるが、幸いにもこの場に於いて無様を晒す、やわな精神の持ち主はいなかった。

 黄金の杯から出てきたものに、セタンタとグレイフィアには予想が付いている。あれは恐らく穢れである。それも視覚化される程に凝縮された。

 この様に思い至ったのは、この場にいないあの赤い獣の存在がある。あの獣もまた存在そのものが穢れであり、そこに居るだけで大地や大気、果ては空間まで穢す。セタンタたちの不調は、その時のものとよく似ていたが、あの時よりも症状は数段重い。変な表現になるが、穢れの純度が違うと言っていい。

 セタンタたちの身を以って知った経験からの推測は正しいと言えた。

 マザーハーロットが黄金の杯から出したのは、この世のありとあらゆる穢れが混じり合って出来たもの。世界から絞り出された毒。人々から集められた悪意、業の滓。逃れられない汚れを煮詰めたもの。

 正しいという行いがあれば、当然間違いという行いもある。正しくないもの、間違ったものは穢れ、汚れ、呪いとなってマザーハーロットの黄金の杯へ溜まっていく。

 目を背けた数だけそれは溜まり、人を妬み、恨み、憎んだ数だけそれは熟成されていく。

 人の存在、繁栄した年月を懸けて出来上がった穢れは、果てなく未来永劫力が高まっていく呪いであり、一滴でも放てば即座に世界を汚染し、五感どれかを問わず通じて呪い、触れればいかなる存在も魂ごと穢し尽くして滅ぼす。

 セタンタたちの体調が悪化したのもこの穢れを思い出し、そのせいで穢れの影響を受けた為である。強力過ぎるせいで直接的では無く間接的にも効果を及ぼす。

 彼らが穢れを見た時間が最小であった為に影響も最小で済んだ。もう少し長ければ、逃げるという思考すら出来ない程に脳内を汚染させられていた。

 

「……一先ずあれのことは考えないようにしましょう」

 

 セタンタの言葉に皆が同意する。深く考えなければならないのに、考えれば考える程悪影響を及ぼす。最悪と言っていいものである。

 

「すぐにでもここから退避しましょう。まずは天界の方々から優先して逃げて貰わないと」

 

 穢れに弱い天使にとって、あの穢れは死と同意である。熾天使級でもしのげる保証は無い。一刻も早く影響の無い場所まで避難してもらう。勿論、他の勢力も同じだが。

 問題はその先にある。皆が退避した後、この会場をどうするかだ。

 最悪の穢れによって汚されている。すぐにでも対処しないと被害は広がっていくだろう。しかし、あのレベルの穢れを完全に消滅させるとなると、魔王クラスの力が必要となる。候補としてセタンタとグレイフィアはこの時、サーゼクスとアジュカ・ベルゼブブの顔を思い浮かべていた。

 アジュカの力か、サーゼクスの滅びの魔力によって周囲一帯を消滅させる方法ならどうにかなる。だが、サーゼクスは現在結界の張られたバトルフィールド内にいるので連絡が取れない。ならば、残るはアジュカであるが、ここでもう一つの問題が出てくる。

 

「──駄目みたいですね。繋がりません」

 

 通信用魔法を使おうとするが上手く機能しない。マザーハーロットの放った穢れの影響がここにまで及んでいる。半ば分かっていたことであった。かつて、セタンタとグレイフィアを含む眷属たちがマザーハーロットと戦った際に、魔力関係の能力が上手く使用出来なくなる事態となった。そのときと同じ事が今も起こっている。

 魔王に助けを乞えない。となると、後は神クラスの者の力を借りなければならないが、果たしてそう都合よく事が進むのか。

 

「直接事態を伝えに行く必要があるわけですか」

 

 何よりもどこで誰が『禍の団』と戦っているのか把握していない。探知することも出来ない。地道に探すしかないのだ。

 もっと穢れの影響が少ない場所があったのなら、探知か通信魔法も行える筈だがその望みも薄い。

 何故なら──

 

「グルッ──」

 

 ケルベロスが息を詰まらせる。嗅覚が敏感な彼だからこそ真っ先に気付けた。続いて、セタンタ、グレイフィア、ディハウザーも話し合いを止めざるを得なくなる。

 鼻を刺激する言葉で表現し切れ無い悪臭。鼻腔に入るだけで体内に悪影響を及ぼしてやるという悪意を感じ取らせる。このニオイの前ではナイフで鼻をそぎ落とす行為ですら正常に思えるだろう。

 

「これ、は……!」

「想像以上に速い……!」

「ここも、すぐに離れないと……!」

 

 マザーハーロットの悪意が迫ってきている。すぐにこの場から移動する。

 歯痒さしか感じらない。自惚れでは無く自分が並以上の力を持っているという自負がある。しかし、今の状況ではそれが全く役に立たないのだ。力があってもそれ以上の力か特異な力の前では簡単に無力になってしまう。

 遠くに声を飛ばすことも出来ず、見ることも出来ず、出来ることがあるとすればひたすら走って地道に一人一人見つけ事情を説明すること。それも、常に背後に迫る悪意と限られた時間を気にしながら。

 セタンタの内心は煮え滾っている。マザーハーロットの前で武器を手放し逃走した時から決まりきっていたことだが、自分はマザーハーロットに負けたのだ。生死の問題では無い。生きていれば負けではないなどと自分を甘やかす様な勝負観など持ち込まない。

 今のセタンタたちの無様に逃げる姿、これが敗者の姿でなければ何だと言うのだろうか。

 マザーハーロットの高笑いが聞こえてくる気がした。あの悪女は今頃、自分が蒔いた穢れの中心で優雅に佇んでいることだろう。追いもせずに。もし、本気でこちらを倒す気ならとっくに姿を見せ、そこら中に杯の中身を零している筈。

 舐められている以前の問題である。こちらが本気でも、向こうにすれば精々時間潰しの戯れなのだろう。

 怒りで熱が生まれるなら、セタンタの臓腑はとっくに焼き尽くされている。内心を面には出さず、当たり散らさないのがせめてもの抵抗であった。

 尤もそれに気付いている者は居た。

 グレイフィアは移動する最中にセタンタの顔を一瞬だけ見た。それだけでセタンタが激怒しているのが分かる。付き合いが長いこともあって、セタンタがどんなにポーカーフェイスを貫こうとも内心が読める。サーゼクスも同様である。というよりもセタンタの表情の見極め方は、サーゼクスから教えて貰った。セタンタは知らないだろうが。

 悪化していく現状と、それをどうにも出来ない自分に怒りを覚えているのがグレイフィアには分かった。グレイフィア自身も同じ心境である。

 サーゼクスにこの場を任されておきながら、そのサーゼクスに頼らざるを得ない現実に無力感を覚える。

 どうにかしなければならない。しかし、そんな都合の良い方法は無い。

 もし、これを覆すにはそれこそ神の力が──その時、セタンタたちは走るのを止め、急停止する。否、しなければならなかった。

 

「何、必死になって走ってんだよ」

 

 全速力で走っていたセタンタたちをさも面白がる偉丈夫。

 

「ふむ。どうやらこの悪臭の原因は向こうからか」

 

 通路に壁の如く仁王立つ巨躯。

 

「へっへっへっ。何があったかちょっと教えてくれよ」

 

 同じくセタンタたちの行く手を遮る様に立つ巨体。

 

「あ、貴方方は……!」

 

 その組み合わせにセタンタたちは、迫る悪意のことを一瞬だが忘れてしまう。

 四大魔王を遥かに上回る力を持つ神──帝釈天。

 北欧神の中で最強と謳われる雷神──トール。

 帝釈天ですら真っ向から戦うことを避けたと言われた化物──マダ。

 神の中でも指折りの実力者とそれに等しい力を持つ存在が三人並んでいる。それは神秘的光景と言うべきか、悪夢と言うベきか。

 

「……何で居るんですか?」

「居ちゃ悪いのかよ? 冷てぇーなぁー」

 

 セタンタは思わずマダに聞いてしまった。帝釈天との仲の悪さは有名である為、絶対に接触させないよう箝口令を敷き、レーティングゲームの情報が洩れないようにしていた筈である。

 だというのにここに居る。ということは──

 

「ちょっと遊びに来ただけじゃねぇか。……ついでにインドラの奴もぶっ殺してやろうと思っただけだぜぇ」

「やっぱり化物ってのは常識がねえぜ。つまらない冗談をすぐに口にだすからよ。俺がお前をぶっ殺すってのが当たり前の常識だよなぁ?」

「非常識なこと言ってんじゃねぇぞ、インドラ?」

「俺が常識なんだぜ、マダ?」

 

 チンピラの様な口喧嘩をしているのに、放つ圧は非常識そのもの。というよりもマザーハーロットの陰で帝釈天とマダが衝突しようとしていたという事実に、セタンタたちは蒼褪める。気付かない所で冥界は危機に陥っていたのだ。

 

「口を慎め貴様ら。彼らの話を聞くのが先だ」

 

 それを止めるのがトール。セタンタたちは彼が居たことでこの二人が戦うことを防げたのだと分かった。

 

「お前が黙れ脳筋。あっちに行ってろ」

「とっとと北欧に帰ってロキに遊ばれてこい」

「良し分かった。今から力尽くで黙らせよう」

 

 と思ったが違った。止めるどころか戦いに加わろうとしている。

 魔王でも止められるか分からない三人が、殺気立った様子で睨み合う。

 

「──グルルル。オマエタチ、イタノカ」

「あっ! 無事だった!」

「ヒホ! 良かったホー!」

「ヒ~ホ~。無事でなにより~」

 

 三人の存在のせいで陰に隠れていたが、ケルベロスがピクシーたちの存在にようやく気付く。ピクシーたちは、自分たちを逃がす為に一人残ったケルベロスが無事であったことに気付き、一触即発の三人のことも忘れてケルベロスにしがみつく。

 

「良かったー」

 

 ケルベロスを撫で回すピクシーたち。平和的な光景に見えるが、その隣りで巨体三人が至近距離で睨み合っているので対比でシュールな光景となっている。

 流石にこの状況で争うのは格好がつかないと思ったのか、三人とも息でも揃えたかの様に同じタイミングで視線を逸らす。

 

「……それで、一体何が起こった?」

 

 さっきまでの一触即発の空気を無視してトールがグレイフィアに事情を尋ねる。

 緊急事態でのマイペースさに文句の一つも言いたい気分であったが、事態が事態の為に不満は呑み込んで迅速に対応する。

 

「実は──」

 

 マザーハーロットが現れたこと。彼女と戦っていたこと。マザーハーロットがこの会場に最悪の穢れを撒いたことを簡潔に伝える。

 

「はあー。魔人が来たのは分かっていたが、『大淫婦』が来たのかよ。見た事は無いが聞いた話じゃ、いい女と聞いたぜ?」

「どうりでくせえわけだ。流石に魔人の穢れじゃ胃がもたれそうだぜ」

「ちっ、出遅れたか」

 

 マザーハーロットに興味を示す者、顔を顰める者、不満を露わにする者と反応は三者三様であったが、共通してこの状況を慌てているものはいない。

 

「んじゃま、全部綺麗さっぱりと消し飛ばすとするか」

「はい?」

「いいだろう。不浄なものなど我が雷で滅してくれる」

「HAHAHA! お前の静電気でどうにかなるのかよ?」

「抜かせ。真の雷を知らぬ未熟者が」

「あ、あの……」

「へっへっへっ。ごたごた言ってないでとっととやれ。何なら代わりにやってやろうか?」

 

 まるで何のことは無い様に、穢れを消し去るという方向で話が進んで行く。セタンタたちにとっては望ましいが、展開が早過ぎて置いてけぼりとなっていた。

 

「いや、なら他の方々にこのことを……」

「俺がやっといてやるよ。で? お前らどうする? 安全な場所にでも避難するか? 世界一の所を知ってるぜぇ?」

「世界一安全な所?」

「おうよ」

 

 すると、マダの四本の手が伸び、セタンタの肩、グレイフィアの腰、ディハウザーの腕、ケルベロスの首根っこを掴む。

 掴まられた方は驚くしかない。突然であったとはいえ、こうも易々と触られたのだから。

 

「おい待て! こっちは避難すると言っていない!」

 

 了承も無く触れてきたマダにセタンタが怒鳴るが、手が離されることはなくしっかりと掴んだまま。

 

「まあまあ。ついでに面白いもん見せてやるよぉ」

 

 マダはゆっくりと口を開ける。普通ならば顎の可動域には限界があるが、マダのそれには限界が無い。顎が地面に着くまで下がり、それに合わせて左右も広がっていき、人が数人入り込める大きさとなる。

 

「まさか……!」

 

 ディハウザーの額に汗が伝わる。こんな光景を見れば何をされるか一目瞭然であった。

 マダの蛮行を止めようとセタンタたちが動こうとするが、それより一歩もとい一手早くマダは己の口の中に手を突っ込む。

 口から手を引き抜いたときには、セタンタたちは手の中からいなくなっていた。

 

「うっそ!」

「た、食べちゃったホー!」

「え? え? ホントにホント~?」

 

 マダの行動にピクシーたちは驚き、慌てるしかない。

 

「後は──」

 

 マダの目線が、ピクシーたちへ向けられた。それが何を意味しているのかなど、数秒前の光景で嫌でも分かる。

 振り返り、一目散に逃げようとするピクシーたち。途端、凄まじい勢いで後ろに引っ張られる。

 マダは手を使わず、口で吸い込むだけでピクシーたちを引き寄せていた。

 

「いやぁぁ!」

 

 飛んでいるピクシーがジャックフロストの帽子を掴む。

 

「ヒホッ!」

 

 後ろに仰け反ったジャックフロストが、ジャックランタンのローブの裾を掴む。

 

「あ~れ~」

 

 宙に浮いているジャックランタンに二人を止まらせる力は無く、マダの吸引力に負けて口の中へと入り、呑み込まれてしまった。

 大きく広げられていたマダの口が元の大きさに戻る。

 

「ちゃんと出してやるから大人しく待ってなぁ」

 

 マダは腹部をポンポンと叩く。そして、ついでに気絶している帝釈天の関係者も口の中へ放り込んでいき、最後にはマダたち三人しか残らない。

 

「相変わらず品がねぇな」

「お前だったら特別によく噛んで呑み込んでやるよ」

「阿修羅の腹の中なんざ、死んでもごめんだぜ」

 

 わざと牙を見せつけるマダに、帝釈天は鼻を鳴らす。

 

「やり方はあれだが、一先ずは安心か」

 

 トールが口を開く。マダの体内についてはトールも知っている。外に居るよりもそこにいた方が安全と判断し、セタンタたちやピクシーたちが放り込まれていくのを黙って眺めていた。

 

「それで他の者たちには、これからのことをどう伝えるのだ?」

 

 イリナたちに天使たちのことは任せろと約束した手前、彼らを無事にここから逃がす義務がトールにはあった。マザーハーロットの穢れで上手く連絡が取れない以上、どのような手段をとるのか。

 

「あん? そんなの簡単だろ」

 

 マダは簡単そうに言い切ると、少し息を吸い込み──

 

「今からぁぁぁぁぁぁ!」

 

 爆心地の衝撃波の様なマダの大声。声の波で通路が揺さぶられ、細かい亀裂が生じる。

 

「五分以内にぃぃぃぃぃ!」

 

 凶器同然のマダの声。通路の細かい亀裂は大きな亀裂へと変わり、壁の一部が崩れ始める。

 

「ここを消滅させるぅぅぅぅぅ!」

 

 魔力、魔術などの小細工に一切頼らず声で伝えるという原始的過ぎて、一周回って逆に斬新とも思えるマダの連絡手段。

 

「死にたくなけりゃあとっとと逃げろぉぉぉぉぉぉ!」

 

 通路だけでなく建物全体がマダの声で揺さぶられ、天井の一部も落下し始める。

 セタンタたちとピクシーたちをマダが呑み込んで正解であった。この大声を間近で聞いていたらピクシーたちは間違いなく死に、セタンタたちも重傷を負っていた。

 

「よし」

「よし、じゃねえんだよ。喧しい」

「事前に言え。耳鳴りがする」

 

 伝えきって満足気なマダに、帝釈天とトールが文句を言う。死人が出てもおかしくない殺人的な大声を至近距離で聞かされても耳鳴り程度で済む当たり、やはり別次元の存在である。

 

「一仕事終えたし、ここでのんびりと見物させてもらうぜ」

 

 マダは壁に背を預け、四本の腕を頭の後ろで手を組み、胸の前で腕を組む。完全に傍観する構えであった。

 

「お前にも雷浴びせてやってもいいんだぜ?」

「そりゃあいい、肩凝りに効きそうだ」

 

 丸サングラスをずらして睨む帝釈天と牙を覗かせるマダ。

 

「殺し合うならせめてこの後にしろ」

 

 先程とは違って、マザーハーロットの穢れをどうにかするという最優先の目標が出来た為にトールは口だけ挟む。尤も、いがみ合う態度とは裏腹にマダと帝釈天も形だけで争う気は疾うに失せていた。

 マダと帝釈天が望む戦いは、一切の介入が無い正々堂々としたもの。言い訳など入る隙間も無い完全なる決着であった。トールが戦いに横槍を入れようとしている時点でそれは成立せず、戦う気も萎えていた。

 なら何故未だに殺気立っているのか。自分から引いて舐められるのが嫌だという子供染みたしょうも無い理由である。質の悪いことに殺気自体は本物であり、互いに退くに引けない状況、場合によっては不本意な形ながら戦っていた可能性もあった。故にグレイフィアたちが現れたのは、マダと帝釈天にとってこの戦いを有耶無耶するのに丁度良かったのだ。

 

「ま、こんな化物とグダグダと喋っていても時間が勿体無いから、とっとと終わらせるか」

 

 帝釈天はアロハシャツの内側に手を入れると、そこからある物を取り出す。中央が膨らんだ棒状の物体で、両端に特殊な装飾が施されている。長さは短く、棒の部分が掌で覆い隠せた。

 それは、仏教に用いられる金剛杵に酷似していたが既存の種類に当てはまらない形をしている。

 これこそが帝釈天の武器であり、全ての金剛杵の原型ヴァジュラである。

 帝釈天がヴァジュラを握ると輝きを放ち始めた。ヴァジュラには雷を操る力があり、今頃は、会場の空は雷雲に覆われているだろう。

 帝釈天が準備を始めたのを見て、トールはミョルニルの柄をより強く握る。すると槌の部分が蒼白い光に包まれ、そこから稲光が飛び出し、床や天井の一部を焦がす。

 内と外。二つの側から攻めて完全にこの会場を消し飛ばす。欠片も穢れも一片も残さずに。

 

「気合い入ってんじゃねえか。そそるぜ」

「貴様もな」

 

 間近で見せ合う力に、戦神としての面が疼く。昔とは違い、軽々と神が戦い合うことが出来ないのを口惜しく感じる。それさえなければ、己の全力を懸け戦っていただろう。

 

「イチャついてんじゃねぇぞー」

 

 その輪に入れないマダが外からヤジを飛ばすが、二柱の神が気にすることは無かった。マダは拗ねる様に天井を見上げる。

 あと三分も経たずに始まり、終わる。その間マダには珍しく、可愛がっている弟子の安否を想うのであった。

 

 

 ◇

 

 

 穿たれ出来た脇腹の傷。鎧の下で一誠は苦悶の汗を流す。

 

(ドライグ……!)

『ああ、分かっている!』

 

 鎧の穴の開いた箇所が修復され、それによって傷口を押さえ込み塞ぐことで出血し難くする。痛みが消える訳では無いが、血を失うよりもましと思っての咄嗟の判断であった。

 

「イッセー!」

 

 駆け寄ろうとしてくるリアスに、一誠は手を突き出してこちらに来ないように伝える。

 

「大丈夫、です!」

 

 やせ我慢をしてわざと明るい声で無事だと伝える。リアスたちに心配させない為に。尤も、一誠の性格を知っているリアスたちはすぐに内心を見抜いたが、一誠の意思を尊重して誰もその場から動かない。

 

「お初にお目にかかる、忌々しき偽りの魔王の妹よ」

「……誰?」

 

 一誠を傷付けられたせいで、リアスの声は刺々しい。

 

「私の名は、シャルバ・ベルゼブブ。偉大なる真の魔王ベルゼブブの血を引く正当な後継者だ」

「旧ベルゼブブの御出ましとわね」

「……その呼び方は止してもらおうか。殺意が湧いてくる。新も旧も無い。ベルゼブブは常に一つだけだ」

 

 表情は変わらないが眼光から発する圧に殺気が混じり、この場に居る者達の背筋を冷やす。

 

「それにしても──」

 

 シャルバは顔面を血塗れにして気絶しているディオドラを見下ろす。

 

「調子に乗ってこのザマとは。アガレスの時に無断で蛇の力を使って、周りに疑念を抱かせただけに済まず、あの娘に執着した挙句にそれだけの醜態を晒すとはな。愚行も度が過ぎると感心する。間違いなく貴公は私が見てきた中で一番の愚者だ」

 

 手を貸しているディオドラをこれでもかとこき下ろす。仲間であっても明らかに蔑んでいる。

 

「──まあ、こんな愚図の処分などいつでも出来る。それよりも優先すべきは」

 

 シャルバの目がリアスに止まる。

 

「貴公だ、サーゼクスの妹君。ここで死んでもらう」

 

 その言葉が出た瞬間、リアスの眷属たちは一斉に戦闘態勢へ移っていた。そんなことを許せる筈が無い。

 

「理由は二つ。一つは現魔王の血筋を全て滅ぼすため。もう一つはクルゼレイの死を、貴公の命で慰めるため」

 

 クルゼレイがサーゼクスに敗北したことは、シャルバにも伝わっていた。盟友という間柄では無いが、真の魔王の血統を継ぐ同士、偽りの魔王の手によって死んだことへの無念は理解出来る。

 

「今回の作戦はこれで終了だ。『絶霧』を使った仕掛けもあったが、ディオドラの失態で無駄に終わったな。潔く失敗であると認めよう。だが、得るものは在った。後はそれを次に生かすだけだ。色々と失ったが問題は無い。まだ我々が残っている。我々がいる限り真の魔王は滅びない」

「どんなに潔く見せようとも、貴方の言っていることは負け犬の遠吠え! やっていることは悪足搔きよ! 私が死ねばお兄様が絶望すると思ったの? そう思っているなら外道と言わせてもらうわ!」

「偽りの血統が、真の血統を前によく吼える。……そんなに早く死にたいのかね?」

 

 シャルバから憎悪を具現化させたようなどす黒いオーラが放たれ、空間を殺意で染め上げる。対するリアスは怯むことなく対照的な赤いオーラを迸りさせ、シャルバに指を突き付ける。

 

「貴方の血も考え方も、旧いを通り越して腐っているわ!」

 

 毅然とした態度で言い放つリアスに、シャルバは表情を変えなかったものを内に滾る激情を言葉に変えて吐き出す。

 

「あまりほざかないでもらいたい。──楽に死ねんぞ?」

 

 シャルバは魔力の弾を撃ち出す。それも動作を最小限とし、最速で行うことでリアスたちの反応が一瞬遅れてしまう。

 目で得た情報が脳に伝わり、危険と判断したときにはリアスは避けるのに間に合わないところまで来ていた。

 リアスが滅びの魔力を放つ。朱乃もまたリアスと同じタイミングで雷光を撃ち出していた。

 これによりシャルバが放った魔力の弾の三分の二は消え去るも、残りが間に合わない。

 当たる、かと思われたとき、魔力の弾がリアスの眼前で停まった。

 

「ま、間に合った……」

 

 ギリギリで反応出来たギャスパーが、両眼に宿る神器『停止世界の邪眼』によって時間停止させたのだ。

 

「良くやったギャスパー!」

 

 一誠は、ギャスパーを褒めながらシャルバに突撃する。リアスを殺すと言ったこと、そして、実際に殺そうとしたことで一誠の怒りは頂点に達している。開いた傷口など気にならない程に。

 

「おおおお!」

 

 その怒りを拳に載せてシャルバに殴り掛かる。一誠の拳が、シャルバの顔に突き刺さる。

 

「ドラゴンの割には非力だな」

 

 一誠の拳を受けても余裕の言葉を出すシャルバ。よく見ると一誠の拳はシャルバに届いていない。数センチ手前でシャルバの魔力で作られた防御障壁によって防がれていた。

 一誠が動くと共に、ゼノヴィアも動く。デュランダルとアスカロンの二刀流で、同じ箇所を狙い、突きを繰り出す。

 二本の聖剣の切っ先が一点に集中され、頑強な防御障壁にも亀裂が生じる。

 しかし──

 

「愚かだな」

 

 自ら防御障壁をすり抜け、シャルバが前進すると共に一誠とゼノヴィアの腹部に掌を当てる。

 

「隙だらけだ」

 

 攻撃を重視する余り疎かになった守りの隙を衝いたシャルバは、押し当てた掌から魔力を放つ。

 一誠、ゼノヴィアは一直線に飛び、端から端までをほぼ減速することなく飛ばされ壁に叩き付けられる。

 

「ぐあっ!」

「うあっ!」

 

 一誠は鎧を纏っているのでダメージを抑えられたが、衝撃で傷口から血が押し出される。ゼノヴィアは、身を守るものが無かったせいで一誠よりもダメージが大きい。壁からずり落ちる様にして倒れ、その手から聖剣が転がっていく。

 

「ゼノヴィアさん!」

 

 急いでアーシアが駆け寄り、神器による治療を始めようとする。

 

「アー、シア……すま、ない……」

 

 すぐに立ち上がることが出来ない状態だが、ゼノヴィアの意識はまだある。

 

「すぐに治しますから! イッセーさんも!」

「俺はまだ大丈夫だ! ゼノヴィアの方を優先してくれ!」

 

 このときばかりは全身鎧で良かったと一誠は思う。でなければ、今頃足元に血溜まりが出来てアーシアを泣かせてしまっていた。

 

「治癒の神器は少々厄介だ。無駄に時間をとらせられる」

 

 アーシアに向けてシャルバは手を突き出す。その腕には見慣れぬ機器が装着されている。

 

「消えろ」

 

 機器から放たれる光が、槍の様にアーシアを貫こうとする。

 

「アーシア先輩!」

 

 そうはさせまいとギャスパーが神器を発動させる。放たれた光の時間を停止させ、宙に光の軌跡を固定させた。

 だが、それには代償も伴う。

 

「ううう……!」

 

 ギャスパーが両眼を押さえて蹲る。

 

「ギャー君!」

 

 小猫がすぐにギャスパーに駆け寄る。急いでギャスパーの目を見ると、ギャスパーの両眼は固く閉ざされ、大量の涙を流している。

 

「目が……!」

 

 眼球への激痛で目を開けることが出来ない。

 シャルバが使った機器は、一誠の腹部に穴を開けたものであり、人工的に天使、堕天使の光の力を生み出すものである。光は悪魔にとって猛毒。ギャスパーは神器の都合上、毒の光を直視しなければならず、両眼にダメージを受けてしまう。

 不幸中の幸いはまだ力の弱い光の力であったこと。もっと強ければ失明していた可能性もあった。

 

「ほお。これは都合がいい。『停止世界の邪眼』も厄介だと思っていたところだ。さて、サーゼクスの妹君」

 

 シャルバは、リアスを嘲笑する。

 

「足手纏いが増えて、どこまで抵抗出来るか見物だな」

 

 シャルバの挑発に、リアスは奥歯を強く噛んだ。

 ヒュウ、という風切り音。それは前触れも無く突然であった。入口から何かが勢い良く飛び込み、石造りの床の上で派手な摩擦音を立てながら止まる。

 突然の乱入に驚くが、その人物が誰なのか気付き、また驚く。

 

「祐斗!」

「ああ、部長。すみません。驚かせてしまって」

 

 木場はリアスに突然現れたことを詫びるが、リアスの方に目を向けず飛んできた方向に固定したままであった。

 体の至る所に裂傷があり、口の端から血を流している。両手には聖魔剣。明らかに戦闘の形跡がある。

 木場は視線を動かさずに手の甲で口元の血を拭い取る。木場に手傷を負わせた相手は、一瞬でも目を離すことが出来ない実力者なのがそれだけで察せる。

 

「おやぁぁ? おやおや? 何だか身に覚えのある気配がするぞー? 誰かな? 誰のだろうなぁ?」

 

 耳障りで聞く者に不快感を覚えさせる声。そして、危うさを感じさせる言葉。一度聞けば忘れられない存在。

 

「あ、やっぱり居た。おーひーさーしーぶーりー! イッセーくぅぅぅん!」

 

 フリード・セルゼンの登場に誰もが言葉を失った。リアス、朱乃、アーシアは、フリードが現れた途端、即座に視線を逸らす。戦闘中に相手から目を逸らすなど自殺行為だが、それが分かっている上でも今のフリードを直視することなど出来ない。

 

「ナイトくーん! 俺様をエスコートしてくれたのぉ? サンキュサンキュ! おかげでぶっ殺したいランキング一位のイッセー君に会えたよー! お礼にその綺麗な顔をトロフィーにして部屋に飾ってやんよ! ヒャハハハハハハハ!」

 

 ゼノヴィアと小猫は高笑いをするフリードに嫌悪と軽蔑に満ちた眼差しを向ける。今のフリードは彼女らの生涯において、最悪と言っても過言では無い。

 

「フリード……」

「はいはーい。何すかー?」

 

 シャルバの呼び掛けに、フリードは笑うのを止める。

 

「何て姿だ……」

 

 シャルバがこの場に居る一同が思っていたことを代弁した。

 フリードは何一つ身に纏っていない全裸であった。更には木場と戦っていた為か体の至る箇所に聖魔剣が刺さっている。右太もも、右腕、左肩に一本ずつ。腹部と右胸に二本。背中に三本聖魔剣を刺したままにしており、不思議なことに刺された箇所からは血が流れていない。

 某パーティーゲームを人で再現したような悪趣味なフリードの姿は、何故そんなことになっているのかという疑問を皆に抱かせる。

 

「やだ! 何! 皆の視線が集まってる! 俺様恥ずかすぃぃぃ!」

 

 と言いながら顔を隠すフリード。明らかにふざけている態度であった。

 

「……お前のその醜悪な姿にはこれ以上何も言わん。いいから手伝え。ここでグレモリーの血を絶つ」

「ふーん」

 

 顔を隠す手に隙間を空け、そこからシャルバを覗く。

 タン、という地を蹴る音。フリードが高々と跳躍し、数十メートル離れた位置にいるシャルバのすぐ側に着地する。

 助走無しの脚力のみで跳んでみせたフリードの身体能力に木場を除く他のメンバーは驚かされる。確かに人並み外れた身体能力を持っていたが、ここまでは無かった。それにまだ余裕すら感じられる。

 

「挟撃すればいいものを。わざわざ私の側に来てどうする。馬鹿なのか、お前は?」

「えーと。僕からー貴方にーちょっと言いたいことがありまぁぁす」

 

 いつの間にかフリードの人差し指がシャルバの脇腹に押し当てられていた。シャルバは触れられたことに、まだ気付いていない。

 

「どーん」

 

 シャルバの脇腹の一部が軽鎧ごと抉られて消失する。

 

「──がっ」

 

 フリードの凶行に、一瞬遅れて反応したシャルバは、抉られた箇所を押さえる。そこから血が溢れ出し、白煙が指の隙間から昇っていた。

 

「だーれーにー命令してんだよぉぉ。クソ腐れ悪魔風情がよぉぉぉ! はいムカついた。はい決めた。はいお前から殺す」

 

 フリードの制御不能の狂気が、暴走を始める。

 




六巻ラスボス交代のお知らせ。

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