ハイスクールD³   作:K/K

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悪意、邪笑

 赤色と白色の魔力が衝突し、反発し合う。赤白混じった多量の魔力が天井目掛けて昇っていき、分厚い石造りの天井を突き破ってしまう。膨大な魔力のせいで砕くのではなく殆ど消滅してしまい、瓦礫の落下による被害は無かった。

 問題は、上に向かわずに四方へと散っていく魔力である。

 シンが右足から放つ魔力と一誠のドラゴンショットの魔力が合わさったそれは、無数に分裂しながら床、壁面などを穿ち、様々な場所を破壊していく。

 リアスたちは、なるべく体を低くして当たる面積を小さくし、飛び散る魔力から身を守る。

 シン、一誠にとっては不本意な状況だが、手を抜くことは出来ない。天井を消失する程の魔力を受けても、まだフリードの形は残っている。

 

「────────!」

 

 フリード越しに打ち付け合う魔力は上に伸びる柱となり、フリードをその中に閉じ込めていた。魔力の柱の中でフリードが何かを叫んでいる。痛みによる叫びか、または怨嗟の声か。だが、魔力の奔流に呑まれているせいで全く聞こえない。

 

「ドラ、イグ! まだ持つか……!」

『ああ。だが猶予は少ないぞ』

 

 本来ならば単発のドラゴンショットを放出し続けており、更にその魔力に鎧の維持する魔力も籠めているので、時間が経過する度に鎧の一部が消失していく。既に肩の装甲と具足が無くなっている。

 一方でシンの方も無表情を崩さないが、奥歯を噛み締めて耐えていた。一誠の魔力は倍化していることもあってシンを上回っている。それに押されない様に必死に喰らいつく。

 まだフリードを倒し切れていないのに、一誠の魔力に負ければフリードを倒し損ねるどころか、シン自身がドラゴンショットに巻き込まれる危険もある。

 シンは左腕を伸ばす。消耗していく魔力を少しでも回復させる為に、散っていく魔力を左手で吸収する。

 赤白の光の中でフリードが最後の抵抗と言わんばかりに、シンに向けて手を伸ばそうとしてくる。

 激しい光のせいで影しか見えないが、伸ばされていく手が段々と崩れていくのが見える。人外の耐久力を持つフリードでも、二人の全力の魔力に再生が追い付いてない。

 しかし、崩壊していく手は、激流とも言える魔力の中から外に出ることができ、見せかけの皮膚も無い肉塊の手が確実にシンへ接近している。魔力を打ち込むことに全力を注いでいるシンはそれから逃げることは出来ない。少しでも力を緩めれば、フリードに絶好の機会を与える。

 逃れられない。ならば一刻も早く倒す為に攻める。

 残された魔力。それを惜しみなく出し切る。それでもまだ足りないならば命すら魔力の中にくべる。

 白色の光が強まる。一誠は自分が押されていると感じ、均衡を維持する為に鎧を消失させながら魔力を絞り出す。

 互いにとって数秒が何倍に引き伸ばされている様に感じる。シンと一誠は、魔力を出し尽くす寸前まで来ているというのに、まだフリードの原型は残っている。フリードもあと十数センチ腕を伸ばせば、防御を捨てているシンに痛烈な一撃を浴びせることが出来る。

 勝敗がどちらに傾くか分からないギリギリの状態。数秒先の勝者、敗者は容易く入れ替わる。

 

「──────!」

 

 フリードは声無き叫びを上げ、腕を伸ばす速度を上げる。蝸牛の速さが倍になったところで傍から見れば脅威では無い。しかし、眼前に迫っているシンにとってはまるで弾丸が迫っているかの様な心境であった。

 崩れた指の爪まではっきりと見える距離まで近付く。指先に聖剣の光が宿る。触れれば聖なる気が毒となってシンを蝕むだろう。

 魔力の煽りによって揺れる前髪にフリードの指先が触れる。数本の髪が瞬時に溶けて消える。数秒後のシンの未来を暗示していた。

 均衡が崩れるまであと数センチ。勝利がフリードに微笑みかけようとしていた、その時──

 フリードの手が跳ね上がる。

 何が起こったのか、と気にする余裕はシンも一誠にも無かった。視界の外で宙をクルクルと回るフリードの腕。

 衝突して昇っていく二つの魔力の圧にフリードの腕が先に限界を迎え、千切れ飛んだのだ。

 上昇していく腕は、赤白の魔力によって消滅する。

 フリード最後の抵抗もシンと一誠の力によってあえなく終わり、魔力の光の中で身悶えするのみ。

 やがて、最期の時がくる。フリードの体は耐え切れなくなり崩壊し始めた。

 体のあらゆる部分が、水の中へ溶けていく様に一部分、一部分が崩れ、魔力の中に消えていく。

 それが受け入れられないのか、フリードは魔力の中で駄々をこねる様に腕を振り回すが、残ったもう一本の腕も崩れ消え、それを切っ掛けにして崩壊は速まっていき、光の影が消え去る。

 同時にシン、一誠の魔力も限界に達し、魔力の放出が止まり、光の柱も無くなる。

 光が消えた後にフリードの姿は無い。フリードが立っていた床が足跡の形で残っていたが、それだけであった。

 難敵への勝利。しかし、それへの勝鬨の声は上がらない。勝ったが、その勝利を喜ぶことを味わう余裕すら無い程に二人は疲れ切っていた。

 一誠は鎧が完全に解除され、赤龍帝の籠手も装備出来なくなっている。震える両膝に手を乗せ、呼吸することも困難な程に疲労していた。

 シンもまた今すぐにでも倒れてしまいたい衝動を耐え、俯きながら乱れる呼吸を何とか整えようとする。足元には額から流れる汗が何滴も落ち、黒い染みを作っていく。

 激闘の結末としては何とも静かなものであった。だが、その静けさこそが勝利の余韻と言える。

 リアスたちは、霞む視界でもシンたちが勝ったのが分かった。しかし、勝利の歓声を上げることは無く口を閉ざす。疲労困憊のシンと一誠にこそ真っ先に勝利を喜ぶ権利があり、辛いこと、苦しいことを彼らに任せてしまった自分たちが喜ぶのは、その後である。

 リアスがそのことを伝えなくとも木場や小猫、朱乃、ゼノヴィアは理解していた。

 そんな静かな中で声を押し殺して泣くアーシアとギャスパー。二人が無事に生き残ったことで元々緩い涙腺が一気に決壊していた。泣き喚くなどのことをしなかったのは、アーシアたちなりの精一杯の我慢である。

 シンと一誠は揃って顔を上げる。汗を流し、顔色も悪い。互いに余力の無い顔を見て静かに笑う。

 疲れ過ぎて舌を動かすのも億劫だったが、この戦いを締める言葉を言おうとしたとき、ゴンという鈍い音が聞こえ、音の方を揃って見る。

 転がるそれを初めは場違いなボールかと思ったが、すぐに違うと分かった。疲れ過ぎて思考も目も鈍くなっているのが分かる。それはボールなどではなく人の頭部、それもフリードの頭であった。

 

「フリ、ード……!」

 

 あまりにしつこ過ぎるフリードに、一誠は悪夢でも見たかの様にその名を口に出す。

 当然ながら一誠の声に反応し、リアスたちもまさか、という表情となる。

 脅威的な生命力。だが、脅威なのはそこまでであった。首だけとなったフリードは顔の下半分が溶け肉色のスライム状となっており、眼球がせわしなく動かしている。シンの目にはそれが焦りに映った。

 シンは疲労で重くなった体を無理に動かして、フリードの側まで移動する。一誠やアーシアが止めるが、シンの足は止まらない。

 一誠たちは、フリードを危険と思っているがシンの勘は既にフリードを敵と見なしていない。その証拠にシンがすぐ近くまで来てもフリードは体を再生させず、また攻撃も仕掛けてこない。

 シンや一誠が限界寸前の様に、フリードもまた既に限界を迎えていた。

 

「──逃げそびれたか?」

 

 フリードにそう尋ねる。フリードは血走った眼でシンを睨み付け、それ以上のことはしない。

 シンが指摘した通り、フリードは逃亡に失敗していた。

 フリードが最後に魔力の中で見せた動き。あの時、フリードは自らの首を切断した。そして、上昇する魔力に乗じて天井から外に逃れるつもりであったが、フリードの体が消滅すると共にシンたちは魔力を止めたので、昇り切ることが出来ず神殿内に戻されてしまった。

 失敗とそれを看破されたことで、フリードはこの世のものとは思えない形相となる。しかし、所詮は顔付きを変えただけのこと。シンがそれを微塵も恐れることは無かった。

 シンは拳を握り締め、フリードの真上に立つと、その拳を振り上げる。

 体力はほぼ使い切った。だが、動かない頭一つ砕くことは難でもない。例え一発で砕けなくても何発、何十でも打ち込めばいいだけのこと。

 

「──さよならだ」

 

 別れの言葉など、フリード相手には不要と言える。それは、もう二度と会わないことを願っての言葉であり、無意識にシンの口から出ていた。それほどまでにフリードという存在を嫌っている証明であった。

 シンの拳がフリードの頭部を砕く──かと思われた瞬間。

 

 待て

 

 頭上からの制止の声に、シンは停まる。意思を無視して強制的に体が待ってしまったことに驚愕する。同時に吐き気を覚える様な甘い香りが場を満たす。

 背中を駆け抜ける悪寒。恐怖というものを直接神経に流し込まれた様な感覚を覚えさせる存在など、一つしか思い浮かべられない。

 

『まさか……この状況でだと……!』

 

 ドライグがシンとほぼ同じタイミングで気付く。最悪の状況下で最悪な存在が現れる事に信じ難い気持ちであることが伝わってくる。

 逃げろ、という言葉を発することは出来なかった。それよりも先にそれは上から落ちてくる。

 シンの眼前に落下した赤い影。衝撃で床は砕け、砕けた床に乗っていたシンは吹き飛ばされる。

 背中から落ち、すぐに立ち上がるシン。先程まで立っていた場所に現れたものを見て、シンは二度目の衝撃を受ける。

 タンニーン、デュリオと共に倒した筈の赤い獣が無傷の状態で、またシンの前に現れた。そして、その背には淫靡な肉体を持つ赤いヴェールを被る髑髏顔の女の魔人。

 シンはマタドールに続いて、二体目の魔人と邂逅する。

 

「ホォーホッホッホッ」

 

 開口一番女の魔人は高らかに笑う。その声は、どんな女の声よりも艶があり、耳心地が良く、そして淫らに聞こえる。

 

『マザーハーロット……! ここに貴様が現れるとは……!』

「ホッホッホ。ドライグかえ? あの赤龍帝が随分とみすぼらしい器に入れられたこと」

 

 旧知の間柄である二人。ドライグは忌々しくその名を呼び、マザーハーロットは相手を心底見下した言葉を吐く。

 

『何をしに来た!』

「さてさて。何をしようか。もう既に目的は達しておる。つまりは、そなたらをどうするかは、わらわの気分次第、ということじゃ」

 

 シンに対し僅かの間、視線を留まらせた後嬲る様に周囲を見渡す。眼球の無い目で見られただけでリアスたちは、背筋を凍り付かされ、反抗する気すら奪われた。視界が封じられ、肌で気配を感じているだけでこれ程である。

 直視しているアーシアなど魔人の死の気配で意識を失いそうになっているが、同時にその死の気配が気付けにもなっており、気絶すら出来ず凍り付いた表情のままマザーハーロットから目を離せずにいた。

 

「おやおや。また随分と面白い姿になっておるのう、フリード」

 

 半壊したフリードを見て、マザーハーロットは笑いながら赤い獣の背を撫でる。すると、七つある頭の内の一つが、フリードの頭部を咥えた。

 

「どうする気だ……?」

 

 シンがマザーハーロットに初めて声を掛ける。マザーハーロットが放つ香りのせいか、思考が段々と鈍くなっていくのが分かる。赤い獣が垂れ流す穢れとは違うが、これもまた人を堕とすもの。何か行動しなければ、このまま何もせずにマザーハーロットに屈服しそうになる。

 

「何をするのもわらわの自由。そなたらには関係の無いこと。そこで大人しく頭を垂らしながら跪いているのが利口じゃ」

 

 嘲り、煽り、見下す。悪意しか感じさせない。だが、マザーハーロットが言うことはある意味では正しい。この場に於いて絶対的強者は間違いなくマザーハーロットである。

 彼女の機嫌を損ねず、嵐が過ぎ去るのを待つ様に縮こまれば気紛れで命は助かるだろう。

 

「──何様だ、お前は」

 

 しかし、そんな諂う利口さなどシンは即座に捨てる。生殺与奪を相手に委ねた時点で命なんて無いも同然である。ましてや、魔人がそんな媚びた態度で許す筈が無い。

 相手の手の中に自分の命が握られているのなら、足掻いてでも取り返すしか道しかない。

 魔力はほぼ空。体力も空。片腕は骨が折れて使えない。

 舌を回す。思考を回す。精神を感情で焚き付け、とにかく体でも心でもいいから何かを動かす。でなければ、何も出来ない木偶人形と化してしまう。

 シンは罅が入った腕でゆっくりと拳を作る。

 例え虚勢にしか見られなくとも、戦う意思は捨てることは出来ない。

 

「何一人でカッコつけてんだか……」

 

 呆れた様な声を出しながら、一誠は体を引き摺る様にしてシンの隣に移動する。

 

「俺にもカッコつけさせろ……!」

 

 一誠もまた拳を作り、構える。既に神滅具を出す力すら残っていないというのに。

 シンと一誠、二人がマザーハーロットたちの思考を奪う猛毒の魅了に抗う姿は、リアスたちにも伝播し、折れ掛けた心に活を入れる。

 構えるシン。吼える一誠。活力を取り戻していくリアスたちを見て、マザーハーロットは愉快そうに笑う。

 

「ホォーホッホッホッ。まさに虚勢ぞよ。幼さ故の無知からくる蛮勇じゃ。だが、それも良し。ここはわらわも童心返り遊ぶとしよう。もがく虫の手足を一本一本千切るのは子供の戯れゆえ」

 

 シンたちの反抗する意思すら幼稚と嗤う。あまつさえ、今のシンたちを虫と評し、これからすることは戦いではなく遊びと断じる。

 どこまでも見下して上から物を言う。誰が反論しようと、誰が抗おうと、それは純然たる事実であり、マザーハーロットという魔人の存在に屈していないだけで、未来はほぼ決まったも同然であった。

 それを受け入れないからこそ、マザーハーロットはシンたちを幼稚と認識するのだろう。

 

「さて、誰から可愛がって欲しい? 最高の快楽を以ってもてなそうぞ。死という名の快楽で」

 

 吐き気を覚える程に香りが濃さを増す。一呼吸するだけで脳が麻痺するかの様に思考力が奪われていく。

 

「悪いが、彼らは先約済みだ」

 

 姿は見えない。しかし、声だけは聞こえる。しかもそれはシンたちもよく知る声。

 何も無い宙に一筆走らせた様なものがシンと一誠の前方に現れる。それは裂け目となって中から人が現れた。

 後ろ姿を見て、一誠は思わずその名を呼ぶ。

 

「ヴァーリ!」

 

 白龍皇ヴァーリが突如としてこの場に参上する。

 

「やあ、兵藤一誠に間薙シン。まだ正気かい?」

 

 横顔だけを見せ、爽やかさすら感じる口調で応える。

 

「な、何でここに……」

「俺たちも居るぜぃ」

 

 裂け目からヴァーリに続いて二人の男性が出てくる。古代中国の鎧を纏う美候、背広姿で二本の聖剣を帯剣するアーサー。

 

「丁度、この辺りの空間を探索していたのと、『禍の団』から野暮用を頼まれたからついでに。どうやら良いタイミングだったみたいだ」

 

 ヴァーリは臆することなくマザーハーロットを見る。

 

「ホッホッホッ。わらわをついで、と言うか」

「いくら『禍の団』内で貴女を咎める者が居ないとしても、少々勝手が過ぎたみたいですね」

「おかげで俺っちたちが駆り出される羽目になっちまったぜぃ」

 

 アーサーは紳士的に、美候が愚痴りながら言う。マザーハーロットたちを正面から向き合ってもその声が淀まず、彼らの胆力の強さを表していた。

 

「相変わらず小物の集いぞえ、『禍の団』の上は。だから新参者に立場を奪われる。その愚かしさも度が過ぎて愛らしくも見えるが」

 

 自分が所属している『禍の団』を小馬鹿にするマザーハーロット。尤も、彼女が『禍の団』に身を置くのは英雄派の者たちと交流があった為の気紛れ故。その結果、新参、古参問わず多くの『禍の団』の団員がマザーハーロットの信徒として堕とされた。

 旧い者たちにとってマザーハーロットは、面白くもないし、触れたくも無い存在である。

 

「という訳で、大人しく付いてきてくれないか? 手荒な真似はしたくない」

「ホォーホッホッ。どこぞの戦闘狂と同じで戦うことしか頭に無いそなたが、女の扱い方を少しでも心得ているのかえ?」

「生憎、エスコートは苦手だな」

 

 マザーハーロットの挑発に苦笑を返すヴァーリ。

 

「しかし、上の彼奴らもわらわを見くびったものよ。たったこれだけでわらわを連れ帰ると思っているとは……それとも、そなたらが出来ると自惚れているのかえ?」

「魔人の、それも大淫婦を相手に自惚れなんて出来る訳が無い──実を言うと全員で行けと言われたが、出来ると確信しているからこそたったこれだけで来ているんだ」

 

 途端、赤い獣たちが一斉に唸る。たった三人でマザーハーロットたちを連れ帰ることが出来ると豪語するヴァーリたちに牙を剥く。

 獣の怒気、殺気、穢れに一歩も後退らないヴァーリたち。逆にヴァーリの方から獣の方に一歩近付く。

 十四の眼光と、ヴァーリの眼光が衝突し、見えざる圧力で空間が歪んでいく錯覚が見え始める。

 アーサーは静かに聖剣の柄に手を置き、美候は好戦的な笑みを浮かべながら如意棒を肩に担ぐ。

 しかし、マザーハーロット本人は殺気立つ空気を他所に戦いに一切興味無しという態度で黄金の杯を呷る。また、唸る赤い獣の背を足で叩き、黙る様に促す。赤い獣もマザーハーロットには従順で、すぐに唸るのを止めて殺気も引っ込める。

 

「つまらぬ挑発に乗るではない」

「挑発のつもりで言ったつもりは無いんだが?」

「ならば戯言よ」

「まあ、どちらにしてもここから立ち去るのは間違いない。──聡明な貴女なら、もう気付いてもいいんじゃないか?」

 

 ヴァーリの何かを含ませた言葉に、マザーハーロットは傾けていた杯を途中で止める。

 シンたちもあることに気付く。場に漂っていた筈の思考を狂わせる甘い香りがいつの間にか消えていた。突風で吹き飛ばされたかのように綺麗さっぱりに。残り香すら無い。

 何か大きなことが起こる前兆。シンたちはそう感じとった。

 白い空に音を立てて大きな穴が開いていく。そこから現れたものを見て誰の目も釘付けになる。

 

「よく見ておけ、兵藤一誠。あれが俺の本当の目的。この世の頂点に立つものだ」

 

 憧憬、戦意を混ぜ合わせた笑みを浮かべるヴァーリの目に映るのは、百メートルを軽く超える真紅の巨大なドラゴン。

 人が思い浮かべるドラゴンというものを形にした様なその姿は、何もかもが途方も無く感じられた。

 何せ、シンたちが耐えることしか出来なかったマザーハーロットの穢れ、魅了を登場の前兆だけで掻き消してしまう程である。

 饒舌であったマザーハーロットが、今は黙って真紅のドラゴンの動向を見ていることも、ドラゴンの強さを現わしている。

「『D×D(ドラゴン・オブ・ドラゴン)』、『真なる赤龍神帝(アポカリュプス・ドラゴン)』、『真龍』、グレートレッド。俺が目指す果てだ」

 

 

 ◇

 

 

「──ってな感じで今頃ヴァーリの奴は眼の色を変えているだろうな」

 

 アザゼルは、空を自由に飛ぶグレートレッドを見上げながら、ヴァーリの動向を予想していた。

 

「グレートレッドが次元の挟間に住んでいることは知っていたが、まさか姿を見せるとは……今回のバトルフィールドのせいなのかな?」

 

 今回のレーティングゲームのバトルフィールドは、次元の挟間に近い所に結界を張ってその内部で展開をしていた。もしかしたら、その結界が次元の挟間に干渉し、グレートレッドを呼び寄せたのかもしれない。

 

「──しかし、現白龍皇の目的が打倒グレートレッドとは……冗談でも私は口に出すことは出来ないな」

「あいつは唯一無二の白になりたいんだよ。『真なる白龍神皇』にな。白だけ赤の一歩手前で止まっているのが気に入らないって前に言っていたな。まあ、それに至る素質は十分にあるのが幸福とも不幸とも言えるがな」

 

 他人が聞けば荒唐無稽の夢か笑い話に捉えられるかもしれない。しかし、ヴァーリ本人の口からそれを聞けば、誰もが笑おうとしていた口を閉ざすだろう。ヴァーリの強さには、それを成せる可能性が見える。

 

「グレートレッド、久しい」

 

 オーフィスは、グレートレッドに指先を向け、撃ち抜くジェスチャーをしてみせる。

 

「我は、いつか必ず静寂を手にする」

 

 グレートレッドに破れて次元の挟間から追い出されたオーフィスからの宣戦布告。それを聞かされるアザゼルとサーゼクスは心情的にたまったものではない。この二頭が全力で戦えば、地球など軽く消し飛ぶ。

 幸いオーフィスは、今は戦うつもりは無い。グレートレッドの方もただ空を飛んでいるだけ。そもそも神すらも超える存在が他者に関心を持つことなど無い。

 そう思っていた。

 地面が震える。空間が揺れる。天地の振動で体が細かく揺さぶられていく。最初何が起こったのか分からなかった。時間が経つにつれて理解する。この揺れがグレートレッドの咆哮によって引き起こされているのだと。

 咆哮一つで森羅万象を震わす。その事実に、改めてグレートレッドは規格外であることを思い知らされる。

 だが、同時に疑問を抱く。あらゆるものに関心が無い筈のグレートレッドが何故に吼えたのか。

 

「──ああ、そうだね」

 

 涼やかな声が咆哮に応える。

 

「僕も君と久しぶりに会えて嬉しいよ、グレートレッド」

 

 微笑を浮かべるベル。ルイもまたグレートレッドに向けて小さく手を振っていた。

 ベルが再会を喜ぶ言葉を言い終えると、グレートレッドの咆哮も止まる。

 信じ難いことだが、あのグレートレッドがベル、ルイという存在を認識し、挨拶の声まで送っているのが事実だとすれば、彼らはグレートレッドと対等の関係であることを意味する。

 

「さて、行こうかオーフィス。もうここに用は無い」

「うん。我、帰る」

 

 オーフィスは無表情だが、心なしか満足している様にも見える。宿敵が健在なのが嬉しいのかもしれない。

 このまま大人しく帰ってくれたのなら、アザゼルたちにとっては万々歳。しかし、どうしてもアザゼルは口に出さずにはいられない。

 

「今回の件、一から十まで全部お前たちにはお見通しだったのか?」

 

 すると、背を向けていたベルがアザゼルを見る。下手をすれば消されるかもしれない危険があったが、少しでも情報を聞き出す為に危険を承知で踏み込む。

 

「まあ、ほぼ予想通りという所かな。──でも、一箇所だけ大外れをしたよ」

 

 大外れという割には、アザゼルにはベルの機嫌が良さそうに見える。

 

「死ぬかもしれないと思っていたが、どうやら今の環境は彼にとって良いみたいだ。こちらの予想を上回る速さで戻っている。喜ばしいことだよ」

「……何の話だ?」

 

 誰かの成長を指しているのかもしれないが、不自然な表現も混じっている。『戻る』とはどういう意味を持っているのか。

 

「彼を見守っていてくれ、アザゼル。人修羅の未来を」

「──おい! そりゃあどういう意味だ! 何でお前があいつのことを!」

「また会う機会があれば、もう少しだけ教えよう。さようなら、アザゼル、サーゼクス」

「アザゼル──これから先はもっと楽しくなるぞ」

 

 瞬きよりも早くオーフィスたちは消え去ってしまう。止める暇すら無かった。

 三人が完全に居なくなると、アザゼルは溜息を吐く。

 

「最後の最後で気になること言いやがって、あの野郎……」

「人修羅。やはり、彼も関わっているのか……」

「得体の知れない連中が、裏で密かに何かを企んでいるか。全く、『禍の団』だけでも厄介だっていうのによ」

「──それも気になるが、今は一刻も早く魔人を探そう。死人が出る前に」

「得体の知れない奴らの次は、何を考えているか分からない奴らの相手か。骨が折れるな」

 

 口で愚痴を言っているが、既にファーブニルの宝玉を出し、何時でも交戦出来る状態となっている。

 

「──強い奴は自由でいいな」

 

 アザゼルは飛び立つ前に、悠々と空を漂う様に飛翔しているグレートレッドを見上げながら、少しの嫌味と羨望を混ぜた言葉を小声で零した。

 

 

 ◇

 

 

 今にも崩壊しそうな神殿内。上空のグレートレッドの咆哮一つでそれが起きようとしている。

 

「はははは! 凄いな! 声だけでこれか! 震えて来るな!」

 

 空間を震わす程の咆哮を受けたヴァーリは、武者震いでその身を震わしながら上機嫌そうに笑う。

 

『まさか、グレートレッドが鳴くとは……』

『珍しいこともあるものだな、白いの』

『……』

『白いの?』

『──喋り掛けるな』

『な、何故!』

 

 終生の好敵手であると思っていたアルビオンに冷たくあしらわれ、ドライグはショックを受ける。

 そんな二天龍のやりとりなど耳にも入らない様子で、ヴァーリはグレートレッドを見つめていた。

 

「流石は『黙示録』に記された赤いドラゴン。──とはいえ『黙示録』の赤は一つだけじゃないな、マザーハーロット?」

 

 マザーハーロットにしか伝わらない様な言葉を投げ掛けるが、マザーハーロットは答えず、その代わりにヴァーリへ優雅にその白い手を伸ばす。

 

「その手は?」

「わらわを連れて帰るのであろう? 無骨なそなたに女のエスコートの一つでも教えてやろうぞ」

 

 上からの言い方だが、要は『禍の団』へ帰る気になったらしい。グレートレッドを敵が居る中で戦うのを避けたのか、もしくは別の理由か。彼女の心情は彼女にしか分からない。

 

「得意ではないが精一杯はしよう」

 

 差し伸べられたマザーハーロットの手を取るヴァーリ。一流の職人が長い年月を掛けて作り上げる絹織物よりも滑らかな肌に触れてもヴァーリの表情は変わりもしない。

 ヴァーリは、マザーハーロットの手を引いて赤い獣の背から降ろし、出て来た裂け目の中に入っていこうとする。

 

「勝手に出てきて勝手に帰るのか?」

 

 それを呼び止めたのはシンであった。僅かだが口調に苛立ちがあった。いきなり襲撃されたかと思えば、蚊帳の外に追いやられ、今度は見送らせる。相手に振り回され過ぎたのと、過労によって余裕が無いせいで普段よりも声に感情が現れていた。あるいは、マザーハーロットという存在がシンの心を騒めかせているのかもしれない。

 

「ここは押さえてくれ、間薙シン」

「ホラーか恋愛映画のワンシーンを強制的に見せられたこっちの身にもなれ」

 

 躊躇なく品の無い嫌味が口から滑り出て来たことで、相当気が立っていることをシンは自覚する。

 マタドールや赤い獣と戦ったときもそうだが、魔人を相手にするとどうしても自制心が緩んでくる。魔人という存在がシンを戦いに駆り立てようとしているようであった。

 ピンと来ないのかヴァーリはキョトンとした顔をし、美候には受けたのか吹き出し、アーサーは表情を崩さない。さっきの場面を辛辣に評されたマザーハーロット本人は声無く笑っていた。シンの台詞に笑っているというよりも、余裕があまり無いシンの態度を嘲っている様に見える。

 

「それが何なのか良く分からないが、もう一度言う。俺たちが退散するまで大人しくしていてくれ。俺はまだ君に死んで欲しくは無い。当然、兵藤一誠にも」

 

 ヴァーリの目線が一誠の方を向く。

 

「俺は、現赤龍帝の兵藤一誠もそうだが、君とも戦いたいし倒したいとも思っている。宿敵がいるのに目移りした話だが。──兵藤一誠、君も同じ気持ちだと思うが?」

「……俺もお前を倒したいさ。超えたいと思っている。けど、超えたいのはお前だけじゃない。同じ眷属の木場だって超えたいし、ダチの匙も超えたい。それにここにいる間薙だって当然超えていきたい。挙げ出したらキリがないな」

「──だそうだが?」

 

 ヴァーリが投げ掛けてくる。シンは短く溜息を吐く。内のモヤモヤとした感情を吐き出すかのように。

 いつもは落ち着かせる側だが、今回ばかりは逆の立場となった。それを自分の未熟さとして甘んじて受け入れる。

 

「──一応聞いておくが、それはどうするつもりだ?」

 

 冷静さを取り戻した声で、シンは赤い獣の頭の一つを指差す。その口に収まるフリードの頭部。よく見れば牙が何本も突き刺さっている。丁寧に扱うつもりは無いと見てとれる。

 

「うおっ。何だこれぃ?」

 

 シンの指摘でフリードの頭部に気付き、まだ生きていることが分かった美候は気色悪そうに言う。

 

「ああ、これか」

 

 マザーハーロットが片手を上げる。すると、赤い獣は口を閉じ、フリードの頭部を丸吞みにする。人の頭部が通るには十分な太さが無い首の為、嚥下されていく様が喉の膨らむ形で良く見えた。

 

「これで満足かえ?」

「……腹を壊すぞ」

「ホォーホッホ。悪食ゆえ馳走となろう」

 

 どちらにしろこれでフリードに手を出せなくなる。必死になってフリードを追い込んだのに全てを台無しにされた気分であった。

 だが、ここで下手に喚くと台無し以上のことが起きるかもしれない。表面上は静かに、しかし、怒りや屈辱は深く心に刻み込む。

 ヴァーリたちが、空間の裂け目の中に入って行く。

 その間際──

 

「では、再会を愉しみにしているぞえ。『人修羅』」

 

 マザーハーロットが、皆が聞いている中でわざわざ強調する様にその名でシンを呼ぶ。

 初めて聞く者はその名の意味が分からず困惑し、名だけ知っている者は魔人がそれを知っていることに驚き、名の意味を知っている者は一瞬だけ肩を震わす。

 最後の最後までこちらの神経を逆撫でする真似をしてくれたマザーハーロットに、殺意を覚えながら、その殺意が薄まる前に胸の奥にしまい込む。いつの日か、叩き付けてやる為に。

 ヴァーリたちは次元の裂け目に消え、空を遊覧していたグレートレッドもそれに合わせたかの様に、登場時と同じ派手な音を出しながら次元の挟間に戻っていった。

 

「──スッキリしない終わり方だな」

 

 残されたリアスたち。シンが戦い終えた感想を愚痴にして出す。

 

「アーシアも無事だし、全員生きてるしそう考えたら俺たちの勝ちだろ?」

 

 戦いの発端は、アーシアがディオドラに攫われたことからであった。そこに『禍の団』の旧魔王派からの襲撃が有り、更にはフリード、魔人の登場。しかし、結果として負傷者は出たもののリアスたちの中に死人は出ていない。他人が聞けば奇跡の様な生還と称するだろう。

 

「──かもな」

 

 短い間に連戦してきたシン。タンニーン、オーディン、デュリオの助けが無ければ死んでいた。結果に納得し切れなくとも生きていることは素直に喜ぶべきである。

 死んでいたら次など無い。生きているからこそ次が考えられる。次に会う時には、マザーハーロットの好き勝手にはさせないと強く決心することが出来る。

 

「うう……」

 

 不意に聞こえた呻き声。戦いの後で過敏になっているシンたちは、すぐに声の方を見る。

 

「う、うう……」

 

 気絶しているディオドラ。その胸から下は瓦礫に埋もれていた。シンと一誠の魔力で崩れた建物の一部が、ディオドラに落下していた。

 このまま放っておけば、瓦礫によって圧死するだろう。よく見ると瓦礫の隙間から血が流れ出ている。

 

「──どうする?」

 

 シンが尋ねたのはアーシアであった。ディオドラの非道な行いは既に知っている。そして、アーシアもまた彼の毒牙にかかる寸前であった。

 

「おい! よりにもよってアーシアに!」

「今、この場でどうにか出来るのはアーシアだけだろ?」

「それは、そうだけど!」

 

 出来ることならアーシアには二度とディオドラと関わって欲しくはない。しかし、重傷のディオドラを助けられるのはアーシアの神器だけ。

 だが、ディオドラはアーシアの人生を狂わせた張本人。そんな相手を治癒するなど酷と言える。

 

「わ、私は……」

 

 すぐには答えられなかった。アーシアとて思うことはある。

 

「好きに決めればいい。誰も、何も言わない。本当に決めたことなら」

 

 アーシアの意思を何よりも優先する。ただそれだけを告げる。

 

「──私は」

 

 真っ直ぐにシンを見つめ、アーシアは自分の決断を下す。

 

 

 ◇

 

 

 目が覚める。眼球だけ動かし周囲を探る。薄暗くすぐ近くに壁が見える狭い部屋であった。その狭さに圧迫感を覚えるほど。

 自分がベッドで寝かされているのが分かり、体を起こそうとする。だが、足は動かず手も動かない。指も全く動かず、動くのは目だけ。

 

「起きましたか?」

 

 その声に心臓が飛び跳ねる。全く気配が感じられなかった。

 

「だ、誰だ?」

 

 眼球だけでなく舌も動かせることに今気付く。

 

「私ですよ」

 

 顔を覗き込む様に見下ろすのはセタンタ。

 

「ぼ、僕を──」

「無駄ですよ。魔力によって現在拘束状態になっています。指一本動かせません。目と口だけは動かせますが。貴方には聞きたいことが山ほどありますからね、ディオドラ様」

 

 敬称を付けて呼ぶが、言い方に吐き捨てる様なものがあった。

 

「一応はディオドラ様と呼ばせていただきます。今回の件でアスタロト家は失墜し、魔王の輩出の権利を長期間失うことになりますが、まだ正式に発表されていないので。無理矢理眷属にしていた件や、現ベルゼブブ様の顔にまで泥を塗ったのは、私個人としては許せることでは無いですが」

 

 セタンタの目に獣の如き光が宿る。その眼光にディオドラは萎縮する。

 

「な、何故──」

「私がここに居るという質問なら私は見張りですよ。貴方が万が一自害でもする可能性があるかもしれないので。まあ、杞憂でしょうが」

 

 そんな度胸も忠誠も無いと馬鹿にする。侮辱に反論しようとするが、セタンタの圧に負け言葉を吞み込んでしまう。セタンタの指摘をわざわざ体現してみせた。

 

「それとも、死に掛けていた自分が生きていることへの疑問ですか?」

 

 セタンタに言われると同時に、記憶がフラッシュバックする。

 顔が潰れる程の衝撃。脳や頭が歪んだのではないかという痛み。一誠の拳の感触が生々しく蘇る。

 

「はぁ……! はぁ……!」

 

 せり上がって来る嘔吐感。一誠によって気絶させられた後、ディオドラは一度目を覚ましていた。体に落ちてきた瓦礫の衝撃によって。

 瓦礫の上に更に瓦礫が落ち、一瞬では無くじわじわと骨と内臓が潰されていく感触。押し潰されたものが行き場を求めて喉に這い上がってきて、血と吐瀉物が混じりあったニオイが体の内から漂ってきた。

 声を上げられず、助けも求められず、誰も気付かない。そうしている内にディオドラの意識は途切れ、気が付いたらここに居た。

 

「彼女が貴方を治しました」

「彼女?」

「アーシアですよ。彼女が神器で治癒しなければ間に合わなかったでしょう」

「はあ……?」

 

 心の底から意味が分からないという声を発する。人生を狂わせ、凌辱までしようとした自分を助ける理由が全く分からない。

 

「どういうつもりなんだ……?」

「目の前に死ぬ寸前の悪魔がいたからでしょうね」

「は、ははは……あはははははは!」

 

 ディオドラは哄笑する。助けられたことへの感謝など微塵も無い。アーシアが、自分が想像するよりも遥かに愚かな女性であったことを。教会から追放される理由を作った相手をもう一度助けるなど、ディオドラの考えからすれば愚者でしかない。

 その愚かさが腹の底から愉快であり、笑いとなって出てくる。

 

「耳障りだ。黙れ」

 

 セタンタの手がディオドラの口を鷲掴みにした。ミシミシと骨が軋む音が鳴る。

 

「本当だったらこのまま顎を砕いてやってもいいが、そんなことをしたらお前を治癒した彼女の覚悟に無駄にすることになる。感謝しろ、彼女に」

 

 セタンタは上辺だけの丁寧さを捨て、完全に粗野な口調となる。

 

「笑うならもう少し考えて笑え。お前は、彼女のおかげで今も笑うことが出来るんだからな。──そして、それが最後だと思え。もう、そうやって笑うことは二度と無い」

 

 ディオドラの精神を押し潰していくセタンタの殺気。ディオドラという男を心底軽蔑しているからこそ容赦が無い。

 

「確かにお前は彼女の人生を狂わせた。だが、それでも彼女はもう一度お前を助けた。どうしてか分かるか? 千年考えてもお前が辿り着くことが無いから今ここで教えてやる」

 

 押さえていた手を離し、ディオドラの目に己の目を近付けるセタンタ。ディオドラの眼球に殺意でも焼き付ける様に。

 

「お前如きが、彼女の生き方を曲げられると思うな」

 

 狂わされた人生であっても、アーシアがアーシアで在り続けたことで今の居場所を手に入れられた。ディオドラの下衆な欲望では、彼女の心を折り曲げることなど出来はしない。

 

「きっと、こんなことを言っても何一つお前には届かないだろうな。全て理不尽に思い、自分は悪くないと思い続ける。だが、それでいい。そうやって全てを呪っていろ。駄犬の様に同じ場所を回り続けていろ。他の皆は先に進んで行く。いずれお前のことなど忘れて」

 

 ディオドラはこの先、己の過ちを認めることも反省することも無いだろう。何故自分が、何故こんな目に、と自分の置かれた環境を不幸と嘆くだけ。ならばこそ罪に対する罰になる。

 言い返すことがあれば言い返してみろ。そう言わんばかりに、言い終えたセタンタはディオドラの目を覗き続ける。

 舌は動く筈なのに、セタンタに見られるだけで鉛にでも置き換えられた様に重く、動かすことが出来ない。

 目を逸らすことも呻くことも出来ず、冷や汗を流しながら脅威が去るのを待つだけ。

 やがて、セタンタは興味を無くした様にディオドラから目を離す。

 

「──情けない奴め」

 

 そう吐き捨て、壁に背を預けて見張りを続ける。ディオドラは他の者達に輸送されるまで、声も発さずにひたすら怯えることしか出来なかった。

 

 

 ◇

 

 

「あーららー。やられちゃったねー。シャルバ君とクルゼレイ君」

「一応、シャルバはまだ生きている。どさくさに紛れて逃げ延びたらしい」

「だからってこっちに戻って来れるかねぇ? あんだけ息巻いておいて全滅でしたーなんて、恥ずかし過ぎじゃない?」

 

 今回の件の結果を報告され、リゼヴィムは敗れ去ったシャルバたちを嘲る。バルパーの方は興味無しという態度であった。

 

「旧魔王派はほぼ壊滅したというのに呑気だな」

「壊滅ぅ? うひゃひゃひゃひゃ! 全然問題ナッシーング! 俺さえ残っていたらそれだけで十分だよーん! カテレアちゃんもシャルバ君もクルゼレイ君も正直扱い辛い駒だったから、一掃されて逆にスッキリしたねぇ! ま、成果無しの犬死ってのはちょっとマイナスだけど」

 

 強がりではなく本気で言っているのが分かる。同じ悪魔ですら情け容赦無く悪意を以て嘲笑う。

 

「英雄派の者たちが動くぞ?」

「動きゃいいじゃーん。暫くは高みの見物と洒落込ませてもらうぜい! 色々とやらなきゃいけないこともあるしさぁ!」

「ほう? それが何なのかわらわも少し気になるぞ」

 

 二人しか居ない場所に姿を見せたのは、赤い獣に座るマザーハーロット。

 

「やあ、マザーハーロットちゃぁん! 相変わらずセクシーだねぇ! おじいちゃんクラクラしちゃう!」

「──お前か」

「ホォーホッホ。相変わらず無礼な奴じゃ」

 

『禍の団』内において、マザーハーロットをちゃん付けして呼ぶ者などリゼヴィムしかいない。他の者たちは、そんな命知らずな真似など出来ない。

 一方でバルパーの反応は非常に冷めたもの。興味無しという態度を貫いている。

 

「何しに来たの? マザーハーロットちゃん。あ、もしかしておじいちゃんに会いに来た? それだったら感激だなぁ!」

 

 如何にもリゼヴィムはマザーハーロットに魅了されているかの様であるが、それは上辺だけのもの。実際は心ひとつに動かされていない。リゼヴィムの中にあるのは強烈な自己愛のみ。自分よりも好きになるものなど存在しないからこそマザーハーロットの魅了が通じない。

 そして、バルパーもまたマザーハーロットの魅了が一切効かない。彼にあるのは聖剣への憎愛だけで、その他一切に関心など無い為である。

 マザーハーロットとしては、自分の魅了が通じない相手だというのに好意的であった。敵も味方も愛せるし殺せる彼女にとっては、それも許容出来ることにしか過ぎないからだ。

 

「拾い物を届けに」

「拾い物?」

 

 マザーハーロットが赤い獣の背を撫でる。七頭の一つが喉を膨らませ、口から何かを吐き出した。

 

「わーお。やあ、初めまして?」

 

 地面に転がるのは、半分溶け掛けたフリードの頭部であった。まだ意識があるらしく、瞼と眼だけが動いている。

 

「フリードか。よく戻って来たな」

 

 バルパーは立ち上がり、フリードの側に移動する。

 

「おかげで色々と実験と研究が出来る」

 

 バルパーの目は、フリードを完全に実験動物としか見ていない。

 それに危機感でも覚えたのか、溶解していた部分を動かし逃げようとするフリード。

 

「はい。ダメー」

 

 リゼヴィムが指先をフリードに向けると、途端動きが止まる。

 

「残念だなぁー、フリード君。君とは馬が合いそうな気がしたけどね。ああ、抵抗しても無駄だよん。俺と君とじゃ能力の相性悪すぎなんだよねん」

 

 動けなくなったフリードをケラケラと嗤うリゼヴィム。

 

「わらわはもう行く」

「えー、もっとゆっくりしていきなよぉ。おじいちゃん寂しいよぉー。寂しいからベッドの上で良い子、良い子して欲しいなぁー」

 

 甘えた声を出すリゼヴィムに、バルパーは本気で気持ち悪そうな視線を向ける。いい歳をした男の甘える態度など醜悪という言葉では収まらない。

 

「ホォーホッホ。気が向いたら時にでもしてやろうぞ」

 

 本気なのかリゼヴィムの冗談に合わせたのか分からない言葉を残して、マザーハーロットたちは姿を消す。

 

「やっぱいいわぁ……」

「まだ言っているのか」

「違う違う。魔人ってのが良いなぁって思うわけ。あ、マザーハーロットちゃんが良い体してるってのは本気だけど」

「それで?」

 

 バルパーはフリードを何処からか持ち出した透明な箱の中に入れながら、リゼヴィムの真意を尋ねる。

 

「おじいちゃん専用の魔人、欲しいなぁって」

「成程」

 

 それだけ言ってバルパーは何処かへ行く。数分後、戻って来たバルパーは透明の液体が入った筒を持っていた。

 

「何これ?」

「役に立つかもしれん」

「へえ……」

 

 液体の中には人の眼球が一つ浮かんでおり、覗き込んでいるリゼヴィムの目と合う。

 

「じゃあ、創っちゃおうか、魔人!」

 

 リゼヴィムは童の様に笑った。

 

 

 

 

「ホォーホッホ。不満かえ? あの場で言わなかったことが」

 

 唸った赤い獣を宥める様に、マザーハーロットはその背に指を這わす。

 

「あの小僧を魔人と明かしたところで浅い溝が出来るだけ。すぐに飛び越えられ、埋められるだけぞ」

 

 人修羅と言ったが、魔人であると暴露することは無かった。最初はそのつもりであったが、並び立つ二人の姿を見て気が変わった。

 

「どうせなら、もっと深く、もっと激しく、もっと死を孕んだ傷にしなければ面白くない」

 

 思い描く未来の光景。それだけで背中に快感が走る。

 

「人修羅と赤龍帝。あの二人を殺し合わせる方がもっと愉しそうではないかえ?」

 

 赤い獣はそれを聞き、邪笑を浮かべて同意する様に唸った。

 




マザーハーロットの口調が書いていて一番難しいですね。合っているのか分からないです。
六巻の話は次でラストとなります。

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