頭上に出現した球体の中で輝く光を見た瞬間、リアスはその光が自分の魔力と同質のものであると直感した。
何故ロキがその力を扱えるか分からない。『滅びの力』と呼ばれるそれは、リアスの母方であるバアル家の血を持つ者のみが扱うことが出来る本来『消滅』と呼ばれる特殊な魔力。
しかし、リアスにはあれこれと考える時間は無かった。『滅びの力』の前では如何なる結界も防御壁も無と帰す。それにこれほどの広範囲、間違いなく光が解き放たれ時、間違いなく全滅する。
(そんなことはさせない!)
『滅びの力』に対抗する手段は一つだけ。
「出来るだけ私の傍に寄りなさい!」
大声を出して皆に指示を飛ばしながら、リアスは紅色の魔力を集束させる。迅速に、だけど決して雑な魔力の構築はしない。
球体内の光が臨界点にまで達する。球体が解け、中から光が溢れ出す直前にリアスは魔力を放つ。
降り注ぐ光を遮る様な大きな円状の魔力。解き放たれた真っ白な光が紅色の魔力と接触。
「ううっ……!」
リアスは歯を食い縛りながら魔力を維持。光は紅色の魔力のせいで眷属たちには届かない。
リアスの魔力の外では降り注いだ光が地面に触れると音も無く消失していく。破砕音や破壊音など一切無く、空気の中に溶け込んでいく様にあらゆるものが消滅する。
膜の様に展開したリアスの魔力を白色の消滅が蝕もうとする。広範囲に対し自分もまた広範囲に魔力を放出する。そのおかけで離れた位置にいた一誠とヴァーリも光から守れ、重傷を負って動けないタンニーンも守れた。その分尋常じゃない速度で魔力を消耗していくが。
いつ終わるか分からないが、一瞬たりとも気を抜くことを許されない。今のリアスの背中にはこの場にいる全員の命が圧し掛かっているのだ。
一秒が何十倍にも感じられる根比べ──だが、その時は来た。照射される光が消え、展開していた魔力に掛かる圧力も消える。
ロキがメギドラと呼んだ光が終わったのだ。
光が完全に消えると、リアスも魔力の展開を止める。
「はあ……はあ……」
「大丈夫ですか、部長!」
一気に消耗して崩れ落ちそうになったリアスを朱乃が支える。
「大丈夫よ……」
見れば全員が心配そうな眼差しで自分を見ていたので、安心させる様に微笑む。
「部長っ!」
一誠が急いで向かって来ているのに気付く。彼も安心させようとその声に応じようとした時──再び頭上に光が輝いた。
啞然とした様子で見上げる先には、先程とは違い複雑な術式で囲まれた半透明の球体。球体の中では光が衝突し始めている。
全く同じことが起きようとしていた。そして、描かれた魔法陣には既視感がある。見間違いでなければ、ロキと初邂逅した時に一誠のドラゴンショットを消し去った魔法陣と文字が似ている。
「俺のを防いだが──我が魔術は防げるかな?」
一瞬で口調と声が変えるロキ。
「代わりに言わせて貰おう──メ ギ ド ラ !」
容赦無く放つ無慈悲な二発目。一気に消耗してしまったリアスには、これに対応する余裕が無い。
しかし、リアスがロキの初撃を防いだことは無駄ではない。何故ならば、彼らに対応する時間を与えたからだ。
『Half Dimension!』
ロキの術が空間ごと歪められ、縮小していく。ヴァーリによって術そのものが半分にされていく──かと思いきや、ロキの術がその歪みに抗う様にして浸食してくる。『滅びの力』によって白龍皇の能力すら消滅させようとしていた。
「この力は……! 面白いなっ!」
抗うどころか逆に食い破ろうとしてくるロキの術。その未知なる力にヴァーリは焦りよりも喜びを覚える。能力発動による大きな消耗も気にならないぐらいに。
だが、このままではヴァーリの能力でも封じ切れない。しかし、ここにはそれを可能にする人物が居る。
『Transfer!』
一誠が発動させた『赤龍帝の贈り物』によって自らの力をヴァーリへ譲渡。これにより半分化する力が一気に向上する。
これには余裕のある笑いを浮かべて見ていたロキも思わず眉をひそめる。
術の浸食を白龍皇の能力が上回り、光がどんどんと縮小していく。
最後には線香花火の様な小さな光を散らして消えてしまった。
「部長! 大丈夫ですかっ!」
「ええ、少し疲れただけ……ありがとう、イッセー、それにヴァーリも。助かったわ」
リアスの顔色が悪いが喋るだけの余力はある様子。
ロキの術を二度も防いだが、三度目があるかもしれないと思い、全員が気を緩めずに警戒する。そんな彼らの耳に届く小さな拍手。送り主はロキであった。
「大したものだ。こんなにも素早く対応出来るとは思わなかった。リアス・グレモリー、その若さであれ程の魔力は称賛に値する。そして、赤龍帝と白龍皇。二天龍が揃えばあのようなことが出来るのだな。見物だった」
未知なる術を防がれてもロキの態度は変わらなかった。その余裕がロキの絶対的な自信を表し、不気味さを覚える。
「悪神ロキ……貴殿は一体何なのだ……?」
皆の意見をバラキエルが代表して言う。
「くくく、知りたいのかぁ? そりゃあ知りたいよなぁ?」
ロキの顔付きは変わっていないというのに雰囲気が一変し、別人に見えてしまう。表情を顔ごと剥ぎ取って付け変えている様な印象であった。
「光栄に思って貰おうか。長年隠しとおしてきた我が最大の秘密を知ったことを! ──ひゃはは、運が良いぜ、アンタらは」
傲慢且つ尊大な口調と粗野でチンピラ染みた口調で交互に話すロキ。目の前に一人しか居ない筈なのに二人居るかの様な錯覚を覚える。
「ロキ様の秘密……それに、その変わりよう……まさか二重人格……?」
「見識が浅いなぁヴァルキリー! もっと深く見ろ! それだから嫁の貰い手が居ないんだよぉ!」
「なあっ!」
ロスヴァイセの知るロキならばまず言わない様な台詞を吐かれたこと──そもそもロキは一介の戦乙女如きに関心など持たない──そして、その内容にロスヴァイセは絶句させられてしまう。同時に以前のレーティングゲームで似た様な事を言われたのを思い出した。あの時、一瞬だけだがもう一人のロキが表に出ていたらしい。
その様子にロキは品の無い笑い声を上げる。
「ひゃはは! お前みたいのは本当にからかい易いったらねぇぜ!」
ロキの笑い声だけが沈黙した場に響き続けるが、急にそれが止む。
「――これなら分かり易いか?」
ロキの体から放出されるオーラ。その膨大な量に気圧されるが、同時に驚かされる。一つの体から全く異なる気配のオーラが放たれている。ロキが口調を入れ替えて喋っていた時の奇妙な感覚と重なり合う。
「これは……まさか……! ロキという存在は、最初から二人っ!」
感じたままのことをバラキエルが言葉で表す。
「ご名答」
想像も付かなかった展開や事実に混乱する一同。その姿を見たかったと言わんばかりにロキは笑う。
「改めて自己紹介をさせて貰おうか。
高らかに宣言する声。あらゆる抑圧から解放された様な爽やかさがあった。しかし、それは無理も無いとも言える。途方も無い年月の間隠し通してきた秘密を白日の下に晒してきたのだ。
オーディンにもトールにも他の北欧の神々にも教えず、それどころか我が子と呼ぶフェンリルやミドガルズオルムにも隠してきたもの。
一誠とヴァーリはミドガルズオルムが言っていたロキの秘密を理解した。薄々は何かを隠していると察していたが、流石にロキという存在が二人居るとまでは気付いていない。フェンリルなど今知った様子らしくグレイプニルに縛られたまま、目を丸くして突然二人になった自分の父を凝視していた。
「ミドガルズオルムが言っていた秘密とはこのことか……」
ヴァーリの呟きを、ロキは耳聡く聞きつける。
「ほう、あいつは勘付いていたか──怠け者の癖に鈍い訳じゃねえから質が悪いなぁ」
感心する様な表情がすぐに品の無い笑みで消える。即座に変わる表情は、芸でも見ている様な気になるが、一切笑う気にはなれなかった。
「長年隠し通していた秘密を何故今になって明かす?」
バラキエルが尤もな質問をロキにする。
「良い機会だと思ったからだ。我らがオーディンの首を獲ればどちらにも世界は変わる。なればこそ示さなければならない。新たな世界を主導する者たちの真の姿を──はっ、というのは建前で、いい加減俺の存在が北欧の連中だけじゃなく世界中の神々に認知させたくなったんだがな、こいつが。俺は別にいいって言ってるのによ。大した自分思いじゃねぇか──お前は黙っていろ!」
一人で言い合い、一人で怒るという何ともシュールな姿を見せるロキだが、その様子を見ても誰も油断していない。濃密な神のオーラが気を緩めさせることを許さない。
「うう……」
「アーシア! 大丈夫か!」
ロキのオーラに中てられてアーシアが崩れ落ちそうになるのを、ゼノヴィアがすぐさま支える。
ゼノヴィアに抱えられたアーシアは、血の気が引いた顔色で弱々しく礼を言う。
「あ、ありがとうございます……」
「無理はするな……私でも中々キツイ」
ゼノヴィアの額からは冷や汗が流れ落ちている。他の者たちも似た様な状態であった。
存在と放つ力が仲間たちに悪影響を及ぼす。シンの仲魔たちもロキが力を見せつけた時から影響を受けており、ピクシーは飛ぶのを止めてシンの肩に寄りかかり、ジャックフロストは足元で座り込み、ジャックランタンはフラフラと空中でよろめいている。唯一、ケルベロスだけが変わらぬ様子でフェンリルたちを威嚇していた。
「──考えれば考える程に不思議に思える。貴殿の様な存在が実在することに」
バラキエルはロキに探りを入れていた。少しでも情報を引き出す為に。
「別に不思議なことじゃねぇさ、蒔かれた種が芽吹いた結果だ──おい! ――いいじゃねぇか、少しだけでも教えてやろうぜぇ? どうせ知った所でどうしようもないぐらいこの世界はおかしいんだからよぉ」
「種……? この世界がおかしい……?」
バラキエルだけでなく他の者たちも背筋に冷たいものが流れていくのを感じる。何か知ってはならない根幹に関わることに触れようとしているのではないか、そんな気がしてならない。
「俺は遥か昔にどっかの誰かさんがばら撒いた種の一つに過ぎないってことだ。俺だけじゃねぇ、種はもっとある。だけどこの世界で芽吹いた者たちにとっては、ここは揺り籠であると同時に実験場でもあるのさ」
「実験場、だと……?」
「生まれても与えられた場所には限りがある。最初に始めるのは椅子取りゲームだ。そいつの役目を奪うか、奪われるかの。奪った方が本物となる」
『まあ、俺たちの様な稀なケースがあるがな』と言いながらロキは笑う。
「本物になった後はお互いに間引き合うんだよ──そこで間引かれ消えるか、或いは」
ロキの目が一瞬シンを見る。
「抗い自らを高める。または互いに研鑽し合い、より高みに昇るか……」
視線が移動し、ヴァーリの方を見た。
「――俺たちの様に共存するか、っていう具合にな」
全員話についていけなくなってくる。もし、ロキの言っていることが本当ならこの世界が始まる前に何かが異物を混ぜ合わせ、本来居るべき存在を滅茶苦茶に入れ替えたりしているということになる。
そんな創世の神の様な真似事をどんな存在が為したというのか。
「もし、仮に貴殿の話が本当だったとして……貴殿の様な存在を作り上げた者の正体を知っているのか?」
「当然」
さも当たり前の様にロキは頷く。
「知りたいかぁ? 知りたいよぁ? そいつの名は──」
誰もが傾聴し、次に明かされるであろう名の聴覚を集中させる。
「くっ……ははははは!」
だが、聞こえて来たのはロキの哄笑だった。
「言う訳ねぇだろうが。馬鹿か、お前らは?」
敵意を通り越して殺意すら抱かせる様な小馬鹿にした表情で笑うロキ。
「今も聞かれているかもしれないっていうのによぉ」
だが、一瞬で真顔となる。態度の差と不穏な言葉に寒気すら感じる。
「まあ、ここまで話すのはセーフって訳だ。これ以上喋って俺たちの目的を台無しにされるのも御免だ」
肝心な部分を秘密にするロキに、一誠はたまらず叫ぶ。
「一体誰なんだよ! そこまで言っておいて隠すのかよ!」
「ヒヒヒ、簡単に言う訳ねぇだろうが──お喋りはここまでだと言った筈だ、赤龍帝。今までの内容は全て我らの気まぐれに過ぎない。これ以上お前たちが求めるのは烏滸がましいぞ! ――ってことだ、知りたきゃ俺たちに勝ってみな。そうしたら教えるかどうか考えてやるよ」
言い放つロキ。その顔には自分が微塵も負けるとも思っていない。
「さて、戦闘再開といこう。ああ、そうだ。その前にお前たちには礼を言おう」
突然そんなことを言い出し、全員戸惑う。
「我らの気まぐれによる話に付き合ってくれたことだ。お陰で時間稼ぎが出来た──ありがとよ、間抜け共」
金属が擦れ合いながら落ちる音が聞こえる。音の方に目を向ければグレイプニルから解放されたフェンリル。
魔法陣から伸びたグレイプニルによって拘束されている筈なのに解けている。
「神を嚙み殺せる牙が、たかが魔法陣如き嚙み砕けないと思ったのか?」
神経を逆撫でする様に笑うロキ。今までロキが真面目に話していたことがそのせいで全て即興で作り上げた虚構の様に思えてしまう。だが、今はそれの真偽を確かめる時では無い。
グレイプニルの魔法陣を子のスコルとハティが破壊したことでグレイプニルの拘束が緩み、フェンリルの脱出を許してしまった。
が、その肝心のスコルとハティの姿が見えない。あれ程の巨体が動いていれば幾らロキの話に耳を傾けていても気付く筈だ。
「スコルとハティはフェンリルと比べると若さもあってスペックが落ちる。故に少し強化しておいた──ひひひひ、よーく目を凝らしな」
最初に気付いたのはシンであった。彼の左眼が闇夜の中で黒く塗り潰された狼の輪郭を見つけると、足元に転がっている拳ほどの大きさの石をその輪郭目掛けて蹴り飛ばす。
黒い輪郭に石が触れた瞬間石が粉々に砕け散り、砂粒となって地面に降っていく。一誠たちも蹴り飛ばした石によって、そこに何かが居ることに気付いた。
「当たりだ」
闇を剝ぎ取る様にスコルとハティの姿が現れる。
「でかい癖に姿も消せるのかよ……」
ほぼ完璧に近い隠密に一誠は冷や汗を流す。
「スコルは太陽を追い掛け、呑み込むことで日食を起こし、ハティは月を追い掛け、呑み込むことで月食を起こす」
二匹の巨狼の身体が欠け始め、瞬く間に消えてしまう。今度は移動しているらしくシンの眼でも何処にいるか即座に見抜けない。おまけに足音も無く、気配も感じない。
「ふははははは。中々の傑作だろう、あの二匹は! 太陽と月を呑み込む様にその身で光を喰らい姿を消す! 油断をするなよ? 神殺しの牙はすぐ傍まで迫っているかもしれんぞ! ――まあ、せいぜい足掻きな」
ロキは腕を組み、空中に腰を掛ける。それは傍観の姿勢であった。
「余裕のつもりかい?」
兜の奥でヴァーリが眼光を鋭くさせる。
「戦況を見定めているだけだ。我が手足は既に縦横無尽に動いているからな」
飛翔していたヴァーリが突然降下する。直後、何もない空間に衝突し合う音が響く。ヴァーリの背後から奇襲を仕掛けたスコルの噛み付きが外れた音であるが、その姿を見える者はいないのでそう推測するしかない。
降下したヴァーリが急旋回。背部の光の翼がヴァーリを包み込む様に捻じれる。すると、ヴァーリが居た場所を何かが風切り音と共に通過する。恐らくはハティの爪によるものと思われる。
不可視の攻撃を連続して回避してみせたヴァーリ。彼の順応力の高さが伺える。
「追えるか?」
シンは傍にいるケルベロスにニオイで位置を把握出来るか問う。
「──ニオイガ薄イ。ソレニ動キ回ッテイルセイデ分カリヅライ。グルルル……」
追跡出来ないと悔しそうに言う。感知されない為の対策を施している模様。
「小猫!」
「黒歌!」
リアスと美候の声。仙術、或いは気の流れを探知出来ればスコルとハティの動きを見抜けると考える。小猫と黒歌は猫耳を動かしながら二匹の気を把握しようとする──だが、それを易々とさせるロキではない。
「フェンリル! 吼えろ!」
ロキの指示にフェンリルが吼える。獣の咆哮とは思えない程の透き通った美声。しかし、綺麗な鳴き声とは裏腹に、その咆哮を聞いた小猫と黒歌は苦痛に満ちた表情で己の猫耳を押さえた。
「あ、うう……!」
「これは……きつい、にゃん……!」
普通の状態で聞いたシンたちですらフェンリルの咆哮の大きさに一瞬体が硬直してしまう。探知する為に感覚を研ぎ澄ませていた小猫と黒歌は、頭の中で爆弾でも爆発させられた様な衝撃を受けており、平衡感覚が狂い、五感の一部が麻痺してしまう。
「行け」
ロキが命令を下すと、フェンリルの姿が消え、リアスたちのすぐ傍にまで移動していた。スコルとハティの様に姿を消したのではなく、純粋な身体能力でそれを為す。
フェンリルが爪を振るう。巨体が掻き消える速度を生み出す前脚から繰り出されるそれは、移動よりもなお速い。
神速を以ってリアスたちを切り裂こうとする。が、それを阻む為にフェンリルの爪の前に現れたシンが、巨大な足目掛けて拳を放っていた。
音速を超えるフェンリルの前足とシンの拳が衝突し合うと衝撃波が駆け抜ける。
フェンリルの前足が跳ね上がるが、シンの方も数十メートルも吹っ飛ばされ背中を岩壁に叩き付けられた。
岩壁に大きな亀裂が生じ、シンがどれ程の勢いで叩き付けられたのかを物語る。だが、シンは倒れることも、苦痛で顔を歪める事無く、岩壁から離れフェンリルの下へ向かおうとしていた。
しかし、表面上はどんなに痛みを押し殺していても体は受けたものを素直に反映させる。走れば数秒で辿り着ける、たった数十メートルの距離なの今のシンには異様に遠くへ感じられた。
走っているつもりで足が上手く動かない。前に進む意志に反して、脚が上がらず摺り足の様に前へ動かされていた。
数秒という時間が何倍にも引き延ばされる。その間に、リアスたちはフェンリルたちの猛攻に晒されていた。
攻撃を妨害されたフェンリルは、再度攻撃を仕掛けようとする。だが、シンが稼いだ時間でバラキエルは準備を完了させていた。
雷光が奔り、フェンリルの胴体へ刺さる。灰色の体毛を貫通することは出来なかったが、一部が焦げ、それ以上追撃を嫌がってフェンリルは離れる。
木場、ゼノヴィア、アーサーが剣を振るうと、何もない所に血が噴き出た。スコルとハティの体の一部を裂いたのだ。だが、致命傷には程遠い掠り傷だと斬った本人らは理解していた。
もっと集中すればスコルとハティの位置を感じ取れたかもしれないが、フェンリルの存在感が大き過ぎてそれを妨害してくる。
ギャスパーの邪眼で動きを停められたのならいいが、姿を消しているスコルとハティの位置が分からない。下手をすれば味方を停めてしまう。それを理解しているギャスパーは、悔しそうな表情を滲ませた泣き顔をしている。
スコルとハティは姿を隠し、フェンリルは自らの存在感で子たちの気配を消し、それに乗じて親のサポートをする。親子巨狼たちの連携が完成していた。
「イッセー! ヴァーリ! 貴方たちはロキを!」
リアスは大声で指示を出し、あまり残っていない魔力を振り絞ってフェンリルに魔力の弾を撃ち出す。
フェンリル、スコル、ハティは脅威だが、真の脅威はロキそのもの。力が在る内にロキを倒すべきと考え、フェンリルたちを引き受ける。
急いでリアスの傍に行こうとしていた一誠は急ブレーキをし、ロキとリアスに交互に視線を送り迷う様な動きを見せる。一方でヴァーリは一瞬も躊躇わず、リアスに言われた通りにロキの方へ飛んでいた。
ヴァーリは周りに北欧の術式を展開し、そこから魔術を放ちながら接近していく。
ロキもまた魔法陣を出し、ヴァーリの魔術を迎撃或いは発動する前に破壊してしまう。
魔術の弾幕の中を怯むことなく突き進むヴァーリ。ロキが近くまで捉え、拳を握り締めるが──
「少し冷たいぞ?」
──一定の距離までヴァーリが近付いた瞬間、ヴァーリの拳が瞬時に凍結し始める。凍結は拳から腕に這い上がって来る。
「くっ!」
咄嗟に拳を引きながら急停止し、魔力の噴射方向を変えてロキから離れる。
氷はヴァーリの半身を覆っていた。
「流石に反応が良い」
完全に凍結させることは出来なかったが、ヴァーリの迅速な動きを見て悪戯でも成功した様にロキは笑う。
ヴァーリは拳に力を入れてみる。拳は開かず、張り付いた氷も剥がれない。これ以上力を込めると開く前に拳が砕ける気がした。普通の凍結ではなく魔術による凍結であり、現象としての凍結とは異なる、自然に解凍されるとは思えない。
「氷……それでタンニーンのおっさんを……」
一誠の呟きに、ロキは口の端を吊り上げる。
「わりぃな。完璧に氷漬けにさせるつもりだったが、加減を間違えて色々と砕いちまった」
反省の色など全く無い言葉だけの謝罪は、タンニーンを師の一人と思っている一誠の怒りを誘う。
「てめぇぇ!」
怒声を上げ、一誠はロキに挑もうとするが──
「ぐあっ!」
――見えない何かが一誠の背中を撫で、鎧ごと一誠の肉を裂く。スコルもしくはハティの仕業である。
「ロキの言葉に耳を貸すな、兵藤一誠! 奴の言動全てが俺たちの油断を誘うものだ!」
感情を乱せば視界が狭まる。視界が狭まれば攻め込む隙が生まれる。仮に狙った相手が冷静に対応したとしても、他の者たちに何かしら影響を与える。ロキの目はそれを見逃さない。
「ヴァーリ──後ろだ!」
リアスたちを狙っていたと筈のフェンリルが、大口を開けてヴァーリを嚙み砕こうとする。
しかし、ヴァーリはそれを予測していたかの様に身を翻して牙を避け、フェンリルの横顔を殴りつけた。
「──勉強になったよ」
ロキを真似し、隙を見せることで逆に相手の隙を誘う。来ると分かっている攻撃なら、ヴァーリでも回避出来る。
「一度ならず二度もフェンリルの顔を殴るか……言っておくが、我が子は中々優秀だぞ?」
瞬間、フェンリルは口から何かを吹き出し、それがヴァーリの脇腹に当たる。『白龍皇の鎧』ならば大抵の攻撃は弾いてしまう。しかし、当たった反射音は無く、代わりに生肉に包丁を突き立てる様な音が聞こえた。
「っつ!」
声を押し殺そうとして、殺し切れなかったヴァーリの声が洩れる。『白龍皇の鎧』の脇腹に円形の穴が開き、そこから血が流れ出ている。背中側からは乳白色の突起がつきでており貫通には至らなかったが、逆に体内に残っていることの方が厄介であった。
思わず声を出しそうになる一誠。しかし、それよりも先にやったヴァーリの行動に、出しかかっていた声が勢い良く引っ込む。
ヴァーリが開いた傷穴に指先を突っ込んだのだ。
「ヴァーリ!」
一度は引っ込んだ言葉がやっと出る。ヴァーリの行動に何度も喉の中で引っ掛かっていた。見ているだけで痛々しいヴァーリの自傷行為。拳程の大きさの傷口を、手甲を填めた指で抉る行為など想像しただけで鳥肌が立つ。
粘着質な音が数秒間響いた後、自分の血で真っ赤に染まった指先が傷口から先が尖った三角形状の物体を取り出す。
「油断を、したよ……!」
発せられるヴァーリの声には喜色と怒気が混じっている。意表を突く攻撃を受けたことでより成長する自分を喜び、それに対しまんまと受けてしまった不甲斐ない自分への怒り。どちらも相手では無く自分に向けた感情であった。
「効くだろう? フェンリルの牙はよぉ──とは言え判断が速い。流石だ!」
フェンリルの牙と言われ、一誠は思わずフェンリルの方を見る。フェンリルは見せつける様に口を剝く。牙の一部が欠けていた。先程のヴァーリの拳によって欠けさせられ、それをフェンリルは攻撃に利用したのだ。
欠けても神殺しの牙。ヴァーリに大きなダメージを与える。
刺さっていた牙を放り棄てるとヴァーリは傷に手を当て、半減を応用した治療を施そうとするが、効果が無い。
「成程、神殺しの力の影響か。半減の力が上手く発動出来ないな」
流血の量の多さの割に、ヴァーリは冷静に判断していた。
「はあ……」
ヴァーリは短く溜息を吐く。諦めを含んだ様な溜息であった。
「少し欲張り過ぎたか……」
自嘲する様に兜の下で小さく笑うヴァーリ。
敗北を認めた、という風には一誠もロキも感じられなかった。全身から放つヴァーリの闘気は一切弱まっていない。
ヴァーリが右手をある場所に向ける。すると、吸い込まれる様に地面に落ちていたグレイプニルがヴァーリの手の中に収まった。半減の力を応用で距離を縮め、引き寄せたのだ。
腕すら通りそうなグレイプニルの鎖の輪を掴むと、鞭の様に振るう。並みの力ではまず無理と思われたそれが、蛇の如くうねりフェンリルへ伸びていくと、フェンリルの前脚に巻き付く。
巨大なグレイプニルを道具として扱ってみせたヴァーリであったが、かなりの力を必要とする行為であり、代償として傷口から血が噴き出し、腹から下を真っ赤に染め上げる。
「兵藤一誠」
大量の出血をしている筈なのだが、ヴァーリの声に弱々しさは全く無い。
「ロキとその他は君と美候たちに任せる。代わりに──」
ヴァーリはグレイプニルに引く。フェンリルもまたグレイプニルを引き、伸び切った鎖が軋む音を出す。
「フェンリルは、俺が確実に倒す」
ヴァーリの宣言にロキは口元を歪めて笑うが、その目は笑っていない。
手塩に掛けて育て、強くした自慢の我が子フェンリル。いずれはその牙をオーディン、トールに突き立てる。例え相手が二天龍の片割れであっても一対一で負けるとは思っていない。ましてや手負いのヴァーリに後れを取るなど考えられなかった。
「吠えたな、白龍皇! 驕りによる無駄吠えは自身の名を貶めることに繋がるぞ! ──生きの良い奴は嫌いじゃないぜぇ? だが、好きでもねぇ」
「ロキ。お前が特別な存在であり、その実力はそれに見合ったものだと認めよう。驕っているのはどちらかな?」
肌が焼かれる様なヴァーリの闘気が一転して寒気を覚えるものと変わる。
「天龍を、このヴァーリ・ルシファーを舐めるな!」
前までは戦いを楽しむことによる熱を持っていたが、今はそれを殺気が上回っている。シンはヴァーリの殺気混じりの闘気を肌に感じ、魔人の気配を連想した。
「黒歌っ!」
ヴァーリの鋭い声に、耳を押さえて苦しがっていた黒歌がバネ仕掛けの様に立ち上がる。
「俺とフェンリルを例のポイントに転送しろっ! ここじゃ巻き添えが起こるっ!」
黒歌が素早く指を動かす。その速さは宙に残像が見え、図形や文字を描いているのが分かる。
指の動きが止まると、ヴァーリとフェンリルを連なった魔力の輪が囲んでいく。
フェンリルはロキを見た。それはロキの傍で戦うことを優先するべきか、ヴァーリと戦うことを優先するべきか確認の意味が込められている。
「遠慮をするな。そいつを喰い殺して我が下に戻って来い!」
ロキの許しを得ると、フェンリルは前脚に巻き付いているグレイプニルを咥える。それは、ヴァーリと自分との間に繋がっているグレイプニルに自ら絡むことでヴァーリの挑戦を受けるというフェンリルなりの印である。
輪の中でヴァーリとフェンリルが風景に溶け込んでいく。
「死ぬなよ」
ヴァーリが最後に残した言葉は誰に送られたものなのか。ライバルである兵藤一誠か、もしくは仲間たちに向けてのものか、或いは全員へのものか。
「ヴァーリ!」
その答えはヴァーリしか知らず。一誠の声が届くか、届かないか曖昧なタイミングでヴァーリはフェンリルを伴って消えた。
「フェンリルが抜けた穴を埋めないとな」
事も無げにそう言うと足元を指差す。夜の闇に染まった大地が泡立つ様に変化すると、その中から巨大な蛇と見紛う姿をした長い胴を持つドラゴンが複数現れる。数えるだけで五匹も居る。
蛇に似たドラゴン。ロキが新たに呼び出したそれに一誠は見覚えがある。五大龍王のミドガルズオルムに姿だけはよく似ていた。ただし、大きさはかなり縮小している。それでもタンニーンと同じぐらいの大きさがある。
『ミドガルズオルム……それの量産品か』
一誠の頭の中でドライグが忌々し気に吐き捨てた。ドラゴンのプライドとして物の様に複製されることが気に入らないのを露骨に出している。
「アレと比べると大分質が下がるが、優っている点もある。こいつらは怠け者ではない」
五匹の量産ミドガルズオルムが口を開く。口内に橙色の色が灯る。炎を吐く様子。それを察した者たちがそれを防ごうとすると──突如、量産ミドガルズオルムの一匹が大爆発を起こし、余波で残りの四匹も吹き飛ばされて攻撃を中断させられる。
爆発の後には大きなクレーターが出来ており、爆発した量産ミドガルズオルムは跡形も無くなっていた。
「確かに、大分性能が下がっているな、ロキ……!」
「タンニーン……!」
「おっさん!」
ロキによって凍結させられていたタンニーンが体を起こしていた。だが、まだ体の一部が凍り付いている状態であり、手や羽が欠損した姿が痛々しい。
「動けるだと……手加減をした訳ではないな? ──そんな訳があるか。寧ろ、加減を間違えたと思ったぐらいだ」
タンニーンが復帰してきたことは、ロキにとっては予想外であった。まともに動けなくなるぐらい芯まで凍らせたつもりであった。
「骨の髄まで凍っておいて元気なことだ」
「ミドガルズオルムの……産みの親の割には……ドラゴンの生命力を、舐め過ぎだ……!」
「言ってくれるな。だが、完全に凍結が解除されたのでは無い……動けるぐらいに回復させた……? ああ、そういうことか。ちっ、見落としていた。フェニックスの涙か」
一人で内なる自分と話し合った結果、ロキは一つの回答を導き出す。それがフェニックスの涙である。内に仕込んでいたものを使用し、ある程度動けるぐらいまでは治癒したのだと推測した。
ロキの推測は当たりである。フェニックスの涙は事前に全員に配られており、タンニーンはそれを奥歯に仕込んでいた。体が凍結してまともに動かなくなった中で辛うじて口を動かし、フェニックスの涙が入った容器を嚙み砕いて少しだけ動ける様になった。
これはタンニーンが言う通り、ドラゴン並の生命力があってこそのことであり、通常ならばそのまま凍死していてもおかしくはない。ましてや、僅かな回復程度ですぐに動けるタンニーンの生命力、精神力が桁外れの証明である。
タンニーンが炎を吐き、量産型ミドガルズオルムを狙うがその間にロキが割って入り、タンニーンの炎に掌を翳す。
タンニーンの業火が瞬時に凍結。ロキの掌に触れると粉々に砕け散り、細かな氷片と化す。
「炎が凍った!」
有り得ない現象に一誠が驚くが、その反応にロキは呆れる。
「我が凍気が自然のそれと同等と思っているのか? ──足りねぇな、赤龍帝。想像力と考えが足りねぇ。俺たちの氷は術によるものだ。人間界の常識なぞ無意味。人が計った様な絶対零度などとは全く違う。俺たちの氷には限界がねぇし、何でも凍らせる。例え、炎であったとしてもなぁ」
神たるロキからすれば、わざわざ自分たちの限界を定める一誠たちの考えこそが異端。常識という考え方に縛られ、視野を狭くする人間の考え方は理解に苦しむ。尤も、ロキ自身が神という在り方に縛られているので完全に自分のことを棚に上げているが。
「神の慈悲だ。お前たちに選択肢を与えよう。喰い殺されて八つ裂きにされるか、焼き尽くされて丸吞みにされるか、氷の彫像と化すか、どれがいい?」
「ふざけんな! 選ぶ訳ないだろ!」
死に方の選択肢を上げるロキに、一誠は怒鳴るが、ロキは意地悪く笑う。
周囲の気温が一気に下がり始め、量産型のミドガルズオルムたちは炎を噴き出し、不可視の巨狼たちが忙しなく辺りを動き回る。
「そうか! 全部か! 贅沢だな!」
ロキの持つ全ての暴力が、一斉に牙を剝く。
◇
ヴァーリがフェンリルを連れて転送された場所は、周囲を木々で覆われた採掘場と同じく全く人気の無い場所であった。
採掘場からかなり離れた場所にあり、こちらも万が一の場合に備えて周りの環境に影響を及ぼさない様予め結界を多重に張ってある。
着いて早々にヴァーリは掴んでいたグレイプニルを放り投げる。フェンリルの弱体化させるグレイプニルを自ら放棄する行動は、フェンリルに獣の顔でも分かるぐらい困惑の色を浮かべさせる。
「不要だ。──これも」
ヴァーリは液体の入った瓶を取り出すと、蓋を開けて中身を地面に零し出す。
『ヴァ、ヴァーリ! フェニックスの涙を……!』
さしものアルビオンもヴァーリの行動に驚かざるを得ない。フェンリルによって負った傷を治癒出来るかもしれない手段を自ら捨てたのだ。
「兵藤一誠を見ていて思ったんだ……俺はもう少し追い詰められるべきだ」
トールの試練で完敗した一誠。作戦の要とも言える重圧を背負わされた彼は、それに押し潰される事無く見事にトールの試練に合格した。ヴァーリはそれに肉体よりも精神の成長を感じた。神器を扱う上で精神の力は非常に重要なもの。
自身も成長するには自らを追い詰めなければならない。勝つだけでは面白くない。勝って成長し、強くなることこそ面白い。
フェンリルからすればヴァーリの行動が愚行そのもの。正気を感じられない。舐めているのかすら思う。手負いの状態で挑もうとするヴァーリに臓腑の奥底から怒りを覚える。
その傲岸不遜ごと嚙み砕いてしまおうとした時、結界の一部に魔法陣が浮かび上がる。形からして転送用の魔法陣であった。
魔法陣から何かが落下し、地面にそのまま激突して地響きを起こす。
「あー、着いたかぁ……」
折れた木々を蹴り飛ばしながら立ち上がる異形──マダは、首を鳴らしながら周囲を見渡してヴァーリとフェンリルに気付く。
「あん? 何で居んだ?」
「──それはこっちの台詞だと思うんだが?」
「いやぁ、慌てて来たんで適当に気配の強い所に跳んだんだが……まあ、間違ってねぇよな」
遅刻した挙句、場所も間違えているマダであったが、悪びれる様子も無く品の無い笑い声を出す。
「済まないがこれは俺の戦いだ。黙って見ているだけなら助かる」
「悪いなぁ。俺の頼まれた仕事は、お前みたいなのが必要以上に暴れない様、押さえつけることなんだよ」
「怪我をしたくないなら引っ込んでいた方がいい」
「生意気言うなぁ。そういう奴を泣かすのは、俺ぁ大好きだぜぇ?」
殺気立つ両者。仲間ではないのか、とフェンリルは困惑させられる。
次の瞬間、弾かれた様に全員が揃ってある一点を凝視した。
「素晴らしき闘争の気配を感じたら──」
混沌とする場を鎮める様な冷たく恐ろしい死の気配。
地面に現れる渦。肉の断面の様な赤と白が渦となって混ざり合い、不気味な色を生み出す。
「──当たりであったようだ」
声はその渦の中から聞こえて来た。
「来たか!」
その声を知るヴァーリは、兜の下で笑みを深める。
舞台役者の如く、渦の中心から迫り出てくるは、死と戦いを信奉する戦士マタドール。
「遅かったじゃないか」
「何、主役というものは常に遅れて来るのが定石」
マダ同様に悪びれた態度は無く、全ては自分を中心にして回っているかの様に言い放つ。
マタドールはヴァーリを見る。
「ヴァーリ、いつの間に私好みの着飾りを覚えたのだ? 白に赤は実に良く映える」
血に濡れた『白龍皇の鎧』姿を讃えた後、マダを見る。
「聞きしに勝る雄々しさ! 阿修羅マダ! 貴公へ勝利した時、私は更なる高みに至れるだろう!」
神をも超える怪物マダの力を感じ取り、戦う前から戦意を高揚させる。そして、視線はフェンリルへ移り──そのまま露骨に無視した。
あらゆる存在から畏怖の眼差しを向けられてきたフェンリルにとって、マタドールの一切興味を持たない視線はある意味で衝撃的であった。
「さて、誰と手合わせをするか……目移りをしてしまうな。まだ、赤龍帝もロキも人修羅も居るというのに……」
当の本人は完全にフェンリルを無視して話を進めようとしている。ここまで屈辱的な行為をされるのは、フェンリルにとって初めての経験であった。
故にフェンリルは、マタドールの傲慢さを正す為、神速の爪を振り下ろす。
マタドールはフェンリルを見向きもせず、爪に向けて赤のカポーテを翳す。
そこから先の体験もまたフェンリルにとって初めてのこと。
爪が赤のカポーテに触れた瞬間、力も、重さも、重力も何もかもを無視し、フェンリルの四肢が地面から離れ、巨体が空中で半回転する。
視界が逆さまになったことに驚く暇も無く、フェンリルは背中から地面に落下した。
仰向けに倒れたフェンリルを、マタドールは冷たく見下ろす。
「私と遊びたいのか? なら、飼い主にじゃれついていろ、犬」
二人が遅れた理由。
マダ「さあ、アザゼルからの仕事するかー、え! 場所ってここじゃないの!」
マタドール「さあ、今まで溜まった鬱憤を戦いで晴らすとするかー、え! 戦いの場はここではないのか!」