ハイスクールD³   作:K/K

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白亜、幻夢

 アーくんと呼ばれた巨人はその場で棍棒を振り上げる。だが、巨体が持ち上げる自分の身長以上の棍棒でもデイビットまでの距離はまだあった。

 それでも構うことなく棍棒を振り下ろそうとした時、巨人の上半身がゴムの様に伸びて足りない間合いを補う。

 棍棒が発生させる風圧で帽子の飾りが激しく揺さぶられながら横へ跳んで避けるが、直前まで伸びるとは思っていなかったのか、デイビットの回避は紙一重のものであり、空振りした巨人の棍棒が地面を叩き、大きく深い凹みが生じた際に飛び散った破片で衣服の一部にも裂けた箇所が出来る。

 一撃目を回避された巨人は、上半身を波打たせると腰部分を軸に体を大きく回し、準備運動の様に一回転させた後、二回転目から急加速させて体を伸ばしながらしならせ、そのしなりを利用した横振りでデイビットを吹っ飛ばそうとする。

 巨人の体は柔軟な素材で出来ているらしく巨体には不似合いな変幻自在な攻撃を行う。だから動く必要が無いのか、と思った時、巨人は地面を音も無く滑って移動し、二撃目も避けたデイビットとの距離を詰めて、棍棒を振り下ろしている。

 

「……」

 

 いきなり出て来て詳細の全く分からない未知の巨人。ルフェイは随分と可愛らしい名で呼んでいたが、棍棒を振る度に隕石が落下した様な跡を作る様は愛らしさの欠片も無かった。

 しかし、不思議なことにその巨人もまた何処かで見た様な既視感があった。度々シンの中で起こる現象。単なる勘違い──と安易な考えには至れない。

 

「間薙様。大丈夫ですか?」

 

 立ち尽くしているシンを心配してルフェイが声を掛ける。目立つ外傷は右腕に焼けた痕ぐらいだが、魔人に酷似した相手と戦っているのを考慮すれば外傷だけに留まらず、精神に何らかの影響を及ぼされている可能性もルフェイは考えていた。

 

「──大丈夫だ」

 

 ルフェイの声に反応し、問題ないことを告げる。

 巨人がデイビットの相手をしているので一息吐く間が出来る。レオナルドもデイビットを創造した反動で他のアンチモンスターを創り出すことが出来ず、鋭い目付きで巨人とデイビットの戦いを傍観していた。

 シンは時間がある内に戦いで得た情報をルフェイと共有する。

 

「あの魔人擬きは、あの子供が呼び出した。武器は音だ。ヴァイオリンの音を聞くと強制的に眠らされるか、燃やされるか、凍らされる。まだ他に攻撃手段があるかもしれないが実際に受けたのはその三つだ」

 

 早口で情報を伝えるシン。ルフェイは一字一句聞き逃さない様に真剣な表情で聞いていた。

 

「分かりました! 流石、間薙様! ヴァーリ様が言っていた通りとても冷静な方です!」

 

 尊敬の眼差しを向けて来るが逆に居心地の悪さを覚える。意識してやっている訳では無いので褒められてもいまいちピンと来ない。

 

「そうと分かれば」

 

 ルフェイは虚空から杖を取り出し、ボソボソと聞いた事の無い言語を呟く。ルフェイの足元に魔法陣が浮かび上がり、少し経って消えた。

 目に見えた変化は無かったが、周囲の空気が変わったのをシンは感じ取った。心なしか耳や肌に伝わる感覚が鈍くなった気がする。例えるなら見えない膜を何重にも重ねられた感覚に近い。

 

「何か周りに張ったのか?」

「はい! 音を媒体とした魔術や魔法に近いと推測したので白魔術、黒魔術を併用した防御魔法を使用しました!」

 

 無邪気に答えてくれるルフェイ。ルフェイは若くして白魔術、黒魔術、北欧魔術、精霊魔術を使用することが出来る。幅広い知識と技術から分かる通り非常に優秀な魔法使いである。

 

「あと、ちょっと声に出せない禁術も少々」

 

 どれだけの効果を発揮するのは不明だが、ルフェイの態度を見ているとそれなりの自信が伺える。

 それだけ技術があるなら、と思い訊いた。

 

「この結界もどうにか出来ないか?」

 

『絶霧』によって外部と隔離された空間。この空間をどうにか出来れば、外部からの増援も期待できるが──

 

「……申し訳ございません。流石に神滅具の結界までは……」

 

 ルフェイは表情を一転させ、申し訳なさそうに表情を曇らせた。

 

「分かった。試しに聞いてみただけだ。気にするな」

 

 そんな都合の良い話は無いと分かっていたので失望もしない。

 少し長話をし過ぎたと思いながらもシンの目は会話が始まった時からデイビットと巨人から一時も離さずにいた。

 相変わらずデイビットは巨人の猛攻を避け続けている。その動きは密かにレオナルドから距離を取るものであり、一撃で広範囲を破壊することが出来る巨人の攻撃を警戒しての動きであった。

 レオナルドも変わらない無表情のままデイビットの戦いと時折シン達の動きを見ている。

 

「援護を頼む」

「はい! お任せください!」

 

 いつまでも巨人一体に任せきりにする訳にもいかないので、シンも前に出る。

 

「そうだ! なら……アーくん! あの子達を出してー!」

 

 ルフェイの指示に攻撃し続けていた巨人が動きを止めた。

 

『*・+・#・X!』

 

 独自言語を叫ぶと、左手を伸ばし、指先で地面を軽く触れていく。巨人が触れた地面に巨人が登場した時と同じ光の円が発生する。ただし、大きさは半分以下程度で、巨人が四回地面に触ったので四つの円が出来ていた。

 四つの円から出て来るのは、見た目は巨人によく似た、だが大きさと色が異なる四体の分身、或いは子機と呼べるものであった。

 大きさは成人男性と変わらない程度。体に巨人と同じく線で模様が施されており、顔も三角と丸で目と口を表していたが、分身は丸一つで単眼であった。

 それぞれ黒、緑、赤、黄で配色されており、棍棒を装備しておらずに素手のみ。

 

『2・&・%・V!』

 

 巨人の掛け声で四体の分身は横並びで巨人の前に整列する。

 

「クロくーん! ミドちゃーん! アカくーん! キイちゃーん! 頑張ってねー!」

 

 当然のことながら巨人と同じく分身の正式な名前は判明していないので、ルフェイは分身を見たままの名前を付けて呼んでいた。名前を呼ばれた分身達は、ルフェイの声に応じる様に両腕をひらひらと波打たせる。

 

「さあ、これで準備完了です! 間薙様はお好きなタイミングで」

 

 何をするのかとシンが考えた直後、黒の分身は冷気を、緑の分身は旋風を、赤の分身は猛火を、黄の分身は雷を発生させた。

 異なる属性、しかもどれもが強力な力を秘めたそれが一斉発射される。

 四重の属性が自分へ襲い掛かってきたのを見て、デイビットは地を蹴って避ける。無表情ながらもその動きには必死さが垣間見える。或いは、創造主であるレオナルドがその攻撃に危険を感じ、その焦りがデイビットに反映されているのかもしれない。

 一斉発射を回避されると、分身達は今度はタイミングをずらして攻撃する。黒の分身と緑の分身が同時に攻撃することで広範囲に冷気をばら撒く合体攻撃となり、デイビットですら瞬時に範囲外から逃れられない様にする。

 局地的に発生した猛吹雪を受け、デイビットの体は凍結し始め、自慢のヴァイオリンからも氷柱が垂れ下がっている。

 その状態からデイビットは激しくヴァイオリンを奏でる。烈火の如き激しさの演奏。吹雪が吹き荒れる中でもデイビットの演奏は搔き消されることなく響き渡る。

 しかし、シンの耳にはその音楽は届かなかった。デイビットが激しい演奏をしているのは見て分かるが、シンに聞こえているのは凡そ音楽とは言えないチグハグな音の羅列。高音、低音などの音階の異なる音を無理矢理繋げた様な不協和音としか届かず、どんな演奏をしているのか分からない。

 間違いなくルフェイが張った結界の影響である。シンからの情報を基にして作った結界はデイビットの音楽を無効化、妨害する。

 それとは別に巨人達は音楽の影響を受けてはいなかった。元からそういう機能が備わっているのか、もしくはシンが推察していた音を聞いてそのイメージが浮かび上がると攻撃が発生するか。

 もし後者なら、人語は理解しているが音楽等とは無縁そうな巨人達はデイビットにとって相性が悪い敵と言える。

 演奏が無効化されているにもかかわらずデイビットは演奏をし続ける。デイビットがムキになっているというよりは、操り手であるレオナルドがその辺りの判断が未熟なせいで中断させるタイミングを逃していた。

 そこに降り注ぐ黄の分身の雷光。最速の攻撃であったが、デイビット自身が危険と判断したのか、雷撃が降る前にそれの発生を音で聞き分け、演奏を一旦中断して既に落雷地点から移動しており、雷撃を回避していた。

 跳ねる様に避けたデイビットが着地する、と同時に体勢が大きく崩れる。

 よく見るとデイビットが降りた地面が光を反射している。デイビットが避けることを想定して逃げる先に黒の分身が冷気を浴びせて地面を凍結させていたのだ。それによりデイビットは足を滑らせてしまう。

 攻撃が次なる攻撃の布石、もしくは目晦ましになる。連携という強みが発揮される。

 体勢を立て直そうとするデイビットだが、相手がそんな格好の隙を逃すことはしなかった。

 

『&・%・$・#!』

 

 巨人が棍棒を突き出す。回避する隙を与えない一直線という最短距離を最速で突き抜ける。

 体勢が戻ったデイビット。その眼前には棍棒が迫っていた。コンマ数秒後にはデイビットの体を粉砕するであろう。

 デイビットはそのコンマ数秒間に可能性限り体を動かす。逃げる方向など考えず、即座に動ける分の最小の力を足に溜め、凍結して不安定な地面ながらもそれを蹴り付ける。

 横滑りで移動するデイビット。コンマ数秒間とは思えない判断と動きで直撃は避けた。

 そうあくまで直撃のみ。巨人の棍棒の先端がデイビットの胸部辺りを綺麗に貫くと、鋭く波打つ部分が綺麗に傷口をズタズタに引き裂き、露出したあばら骨を引っ掛けてまとめて砕く。

 デイビットの楽士服の左側は引き千切られ、その下の骨も砕かれてしまったことでデイビットの左胸部分はほぼ無くなっていた。

 大きな代償を払ったが、デイビットはまだ動け、身を呈したことでヴァイオリンも無傷である。

 デイビットは反撃の一曲を奏でようとした時、横から飛んで来た拳により顔の半分を吹き飛ばされた。

 拳を振り抜いたシンが、頭部が半壊したデイビットを無感情な瞳で見ている。

 シン自身大したことはしていない。少し離れた場所からデイビットと巨人達の戦いを俯瞰的に見て、デイビットが移動しそうな先を予測して先回りしていただけのこと。

 巨人達がデイビットを追い詰めた結果、デイビット自らがシンの拳の餌食になりにいったのだ。

 

(思った以上に簡単だったな)

 

 一対一の時は苦戦したデイビットだが、ルフェイが巨人達を引き連れて現れただけで一変した。

 巨人の荒々しい棍棒捌きと子機である分身達の属性攻撃がデイビットの動きを制限させ、ルフェイが掛けた魔法のおかげでデイビットの攻撃も気にする必要も無くなった。

 数と質が完全に上回っており、苦戦を強いられる理由が無い。

 普段、強敵と戦うと大怪我や欠損が付き纏うシンにはこの戦いには物足りなさすら感じる──ことは無かった。怪我や欠損など無い方が良いに決まっている。それを自発的に求める様になったら精神が危険な領域に片足を突っ込んでいることになる。

 体をほぼ真横に傾かせているデイビット。ゆっくりと体を起こし始め、砕かれた箇所を修復し出すが直る速度が遅い。

 デイビットに注意しながらシンはレオナルドの方を見る。無表情のレオナルドであったが、その顔は汗で濡れており顔色も良くない。かなり消耗している様に見える。

 シンの考えは正しい。レオナルドはかつてないほどの消耗を経験していた。初めて試みた禁手による魔人の創造。慣れていない力を長時間使用した為にまだ幼いレオナルドは虚脱感や睡魔に襲われていた。

 これ以上戦闘を継続すればシン達を倒す前にレオナルドの方が倒れてしまう。

 しかし、レオナルドは退かなかった。シンを放っておけば必ずマザーハーロットを害する存在となる。ここで仕留めなければならない。

 ムキになるという子供らしい部分が前面に出てしまい、レオナルドは完全に引き際を見誤ってしまう。

 デイビットに力を注ぎ込み、もう一度戦わせようとした時、レオナルドは足から力が抜けて行くのを感じた。

 視界が傾き、ゆっくり斜めに倒れて行く。それが自分が倒れているのが原因だと分かった時にはレオナルドは頭が地面に叩き付けられる寸前であった。

 目を瞑り次に来る衝撃に覚悟するレオナルド。だが、数秒待っても衝撃が来ない。

 閉じていた目を開く。視界の先には目を鋭くしているシンと目と口を丸くして驚いているルフェイ。

 レオナルドは足が地面から離れていることに気付く。何かが倒れる筈であったレオナルドを掴んでいた。

 レオナルドが見上げると十四の白い眼がレオナルドを見下ろしている。

 一つの体に七つの頭を持つ黄金の冠を被った赤い獣。マザーハーロットに従う赤い獣の一頭がレオナルドの服を咥えて彼を支えていた。

 レオナルドは赤い獣の登場に分かり易く驚く。それはシンとルフェイも同じであった。

 突如空間の一部が歪んだかと思えばいきなり姿を現したのである。幸いというべきか主であるマザーハーロットは赤い獣に座していない。

 赤い獣を見ていると心がざわめくと同時に右足に疼きを覚える。右膝から下を食われた時の感触が鮮明に蘇ってきた。

 ルフェイの方もまさかマザーハーロットの遣いが来るとは思っておらず戸惑っている。巨人達に指示を出すべきかどうか躊躇っていた。

 ヴァーリのチームとマザーハーロットは仲が良い訳では無いが、悪くも無い中庸な関係である。赤い獣の行動かルフェイの行動次第でその中庸が崩れるかもしれない。それを考慮すると今の彼女には多大な重圧が圧し掛かっていることになる。

 シンとルフェイとの心境とは裏腹に赤い獣の方は二人に全く関心を向けておらず、瞳はレオナルドに向けられていた。

 鳴き声一つ上げずにジッとレオナルドを凝視する赤い獣。

 

「……分かった」

 

 それだけのことでレオナルドには伝わったのか彼の口から了承の言葉が出る。赤い獣はレオナルドを丁寧に立たせると、ぬいぐるみの様にレオナルドは赤い獣の一頭に抱き着く。

 赤い獣の周囲に再び歪みが発生。このまま退却するつもりらしい。

 それを黙って見過ごすシンでは無かったが、相手の方もそれが分かっており先手を打つ。

 

「お願い」

 

 レオナルドの短い言葉に沈黙していたデイビットが堰を切った様にヴァイオリンを演奏し出す。

 奏でるのは異なる曲調を繋げた狂詩曲。しかし、ルフェイが張った結界でその音楽もシン達には届かない。

 半壊している体で無理に演奏しているせいでデイビットの体が崩壊し出し、体の一部が塵のようになり霧散していく。

 それでも演奏を止めないデイビット。その鬼気迫る動きにシンは嫌なものを感じ出す。

 

(止めさせるか……だが、止めさせるか……だが、止めさせるか……だが、止めさせるか……だが)

 

 不意にシンは自分がおかしなことを考えていたことに気付く。同じ事を延々と繰り返し思っているだけで全く先に進まない。そして、それをおかしいと思ってすらいなかった。

 異常が起こっていることに気付いたシンはルフェイの方を見る。彼女もまた微睡んだ表情で棒立ちになっている。

 ルフェイがこんな状態である為か巨人達の挙動もおかしい。体を左右に捻ったり、腕を上下させるという意味不明な行動をしている。

 シンが知る由も無いが、巨人達は自律行動も可能だが、ルフェイの護衛と彼女の指示を最優先する設定になっている。ルフェイの思考が現在混乱しているせいで、その指示が巨人達にも伝わり、それを優先した結果挙動不審になっていた。

 シンはルフェイの肩を軽く叩く。ルフェイは体を一瞬震わせ、驚いた表情で周囲を見回す。ルフェイが正気に戻ると巨人達の挙動も落ち着く。

 レオナルドと赤い獣の方に目を向けるが、当然ながら姿は無かった。シン達の意識を混乱させている間にさっさと退却していた。

 その混乱の原因となったデイビットであるが、デイビットは地面に横たわった状態でヴァイオリンを弾こうとしていた。

 両足が消滅し、片腕も無い状態でレオナルドの指示を全うして離れた場所で転がるヴァイオリンに弦を伸ばす。

 デイビットが満足に演奏出来る状態でない為、浅い混乱で済んだが、もし完全な状態であの演奏が行われたらどうなるか。

 ルフェイもそのことが分かっているのかシュンとした表情になっている。

 

「申し訳ございません……間薙様。あの方の力を見誤っていました。多重に張った結界を突破してくるなんて……」

「気にするな。これだけ助けられておいて文句を言う資格なんて無い」

 

 シンが言う通り前半はかなり苦戦を強いられていたが、ルフェイが合流した途端にレオナルド達を退散させることが出来た。これに不満を垂らせる程シンは傲慢では無い。

 誤算があるとすれば、マザーハーロットがレオナルドのことをかなり大切にしていること。そして、消滅し掛けていたデイビットの底力を見誤っていたことだろう。

 

「そうですか……?」

 

 ルフェイがこちらを子犬の様な目で見上げて来る。慰めついでに笑顔の一つでも見せればルフェイも信じたかもしれないが、シンの鉄仮面の様な無表情から吐かれた台詞なのでいまいち信じ切れていない。

 

「ああ、本当だ」

 

 だからといって会って間もない相手に笑みを見せる程シンはサービス精神に溢れていないので、乾いた素気の無い態度で念を押す。

 

「本当に、本当ですか?」

「……本当だ」

 

 やはり信じ切れないルフェイ。少しの間、シンとルフェイの間で不毛な問答が続いた。

 

 

 ◇

 

 

 朝の朝食を済ませ、アーシアは愛娘と一緒に一誠を見送る。上級悪魔として赤龍帝としてやる事が沢山ある一誠だが、朝晩の食事だけは必ず家族一緒に取ることになっていた。

 見送りが済むとアーシアはアイリを学校へ送る。従者に任せても良い仕事であるが、アーシアはアイリを学校まで送って行くのを日課にしていた。

 アイリが通っている学校はレーティングゲームや魔法の事について専門的に教えてくれる学校であった。

 かつてソーナが夢として語っていた『誰でも通えるレーティングゲームの学校』である。ソーナ自身もその学校の理事長を務めており、魔法等の学科は彼女の眷属である駒王学園の元生徒会メンバー、そしてリアスの眷属であるロスヴァイセが講師をしていた。

 アイリはレーティングゲームの成績と魔法の成績が非常に優秀であり、ロスヴァイセからそのことを褒められたことがある。アーシアは娘を褒められ、表面上は謙虚に振る舞っていたが、内心では親バカ全開でアイリのことを褒め称えていた。

 アイリを学校へ送ると空いた時間は大切にしている花壇に水やりや手入れをする。一誠やアイリの為に縫い物をする。今晩の夕食は何にするのかを考えて時間を潰す。

 

「えーと、昨日は肉料理でしたから、今日は魚料理にしようかな……そうなるとスープは……」

 

 ただ献立を考える。それだけの事なのに心が幸福感に満ちて行く。愛する者達を想うだけで心に無限の幸せが湧いて来る気分であった。

 

 パオーン

 

「え?」

 

 また動物の、それも象の鳴き声が聞こえた気がした。思わず周囲を見回して声の主を探すが、当然象などという巨大な生物は居ない。そもそも冥界に普通の象など存在しない。

 

(空耳……?)

 

 それにしては鮮明に聞こえた気がした。

 スッキリとしないものを感じながらもアーシアは意識を今晩の献立の方に向けるのであった。

 

 

 ◇

 

 

 迫って来る光景は壮絶の一言に尽きた。

 大地を割る程の衝撃が波となって襲い掛かって来るだけに済まず、そこに混ぜられたこの世に存在しない猛毒が割った大地を紫に染め直した挙句、毒の効果によってヘドロの様に溶かしてしまう。

 ギリメカラの地獄を生み出すかの様な攻撃にゲオルクは頬が引き攣って行くのが分かった。

 ゲオルクは『絶霧』が生み出す霧を、猛毒の衝撃波の前に集めて行く。霧による転移で衝撃波をギリメカラへ返そうと試したのだ。

 衝撃波に霧が触れる。そこでゲオルクはこの試みがダメであったことを瞬時に悟った。

 衝撃波が含む猛毒が霧と混じり合い転移を阻害してしまう。以前、ギリメカラが毒ガスを吹き出して『絶霧』の妨害を行っているのを覚えているが、あの時とは毒の密度が違うので、もしかしたらと思っていたが儚い希望で終わった。

 盾として集めた霧が毒の衝撃波によって呆気無く霧散する。仕方なくゲオルクは霧を自身に纏わせて転移し、衝撃波の範囲外へと逃れる。

 ゲオルクがついさっきまで居た場所は毒の衝撃波によって破壊と溶解を同時に行われ、とても人が生きていける場所でなくなる。

 逃げの手しか思いつかず屈辱を感じるゲオルクであったが、すぐにそれを感じる暇も無くなった。

 

 パオォォ。

 

 嘲りを含んだギリメカラの鳴き声がすぐ近くから聞こえる。ゲオルクがハッとし見上げると剣を振り上げたギリメカラがすぐ傍に立っていた。

 何故、という疑問がゲオルクに湧く。ギリメカラの行動はゲオルクの予想よりもあまりに早く、まるで見通していたかの様であった。

 実際、ギリメカラはゲオルクの動きをある程度予測していた。毒の衝撃波を放てばゲオルクは必ず『絶霧』によって転移する。

 そうなると何処へ転移するかが問題になってくるが、ギリメカラはゲオルクがそう遠くない場所へ転移すると予想していた。

 今回の戦いに対してリベンジする意気込みがあることから遠くへ逃げることはまずない。そうなると毒の衝撃波の範囲外へと移動するのは容易に分かる。

 それでもかなり広い範囲にしか絞れなかったが、何処へ移動するかはギリメカラは驚くべき方法を使う。

 それは自らの勘。それのみ。

 この事実を知れば、ゲオルクは理不尽さに怒り狂うかもしれないが、同時に納得もするかもしれない。

 長い年月を生きて来た魔象がその中で培ってきた経験から得た勘である。予知能力者や預言者よりも説得力がある。

 血相を変え、ゲオルクはギリメカラと自分との間に霧を密集させる。そして、それを媒介にして防御魔法を発動。

 気体でありながら鋼よりも硬い壁がゲオルクの前に何重にも張られた状態となる。

 ギリメカラの斬撃が霧に触れる。刃が僅かに霧へ入り込んだ瞬間、ギリメカラは張られている防御魔法の硬さを理解した。

 ギリメカラの腕が倍近くまで膨張する。ゲオルクも一瞬何をしたのか分からない程に極めて自然に行われた自己強化によるもの。

 これによって瞬時に力を増したギリメカラは、霧の防御魔法を紙の如く易々と斬り裂いてしまう。

 少しでも保てる、というゲオルクの考えを甘いと一蹴するギリメカラの容赦無い斬撃。

 振り下ろされた刃が巻き起こす風が吹き抜け、ゲオルクに触れていく。

 それ自体に何の殺傷力も無い。しかし、その風に顔を撫でられたゲオルクは、自らが真っ二つとなり鮮やか断面から体の内にあるものを全て溢す光景を幻視した。

 ギリメカラの容赦の無い殺気が見せる幻覚。それなりの数の戦いを経験しているゲオルクですら全身が瞬時に冷や汗で濡れる。

 まともな感覚の持ち主ならこの殺気だけで戦意喪失し、微動だにせず次なる攻撃を受けて幻覚を本物の光景に変えるだろう。だが、前述した様にゲオルクはそれなりの数の経験をしている。

 経験が芯となり途切れそうなゲオルクの意思を繋ぎ止め、直感的に最も適した魔術を発動させる。

 見えざる手で引っ張られるかの様に後ろへ飛ぶゲオルク。本来の魔術ならば鳥の様な軽やかな動きになる筈なのだが、あまりに突発的に使用したせいでかなり雑な魔術になっており、ガクンと首を前に振り、頸椎を痛めそうな勢いで移動する。

 その甲斐あって二撃目の間合いから離れるゲオルク。

 

 パオ。

 

 ギリメカラはそんなゲオルクを『ノロマ』と罵った。

 お世辞にも身軽と言えないギリメカラの巨体が、跳ねる様に移動する。その速度はゲオルクの魔術同等──否、それよりも速かった。

 ゲオルクの動きが止まった時、ギリメカラはそれを待ち構える様にゲオルクの背面に立って剣を振り上げていた。そして、止まったゲオルクに容赦無く剣を振るう。

 この時のゲオルクは、自分の生涯で最も機敏な動きをしたと思った。死の予感は彼に恐怖だけでなくそれから免れる為の集中力も与える。

 魔術は間に合わない。『絶霧』も間に合わない。なら残された手段は一つ。

 ゲオルクは地べたに這うぐらいに体を低くし、ギリメカラの斬撃を回避。他の英雄派のメンバーと比べて体を動かすことは得意では無い。研究を得意とするインドア派の彼だが、この時の動きは自画自賛出来る程に見事な反応であった。

 間一髪のタイミングで避けたゲオルクは、恥も外聞も捨て前方へ転がる様にしてギリメカラから距離をとる。

 ローブが地面で汚れようと構わない。傍から見れば無様と言われる体勢のままゲオルクは魔法陣を展開。何を出すか、どんな魔法にするかなど考える余裕は無く己の直感に任せたままの展開であった。

 魔法を使うのにそれ相応の力や知識、技術が必要になるものだが、この時のゲオルクはほぼ何も考えずに魔法陣を出す。しかし、瞬時に展開された魔法陣は数十はあり、どれもが不具合を起こさないまま正常に発動する。

 ゲオルクとギリメカラの間で台風、落雷、大火、吹雪が発生。至近距離からそれを浴びせられたギリメカラは流石に足が止まった。

 その間に『絶霧』で周囲を守りながら可能な限り離れるゲオルク。咄嗟の行動にしては上手くいった。普通ならここで安堵するだけで終わるのだが、慎重なゲオルクはこれを上手く行き過ぎたと思う。

 落ち着き、視野を広げる。そして気付いた。ゲオルクが放った魔法の射線上には結界で閉じ込められていうアーシアが居たのだ。発動のみに重点を置いていたのでアーシアの存在が完全に頭から抜けていた。

 一方でギリメカラは荒々しく戦いながらもそれを把握しており、盾となって魔法を全て受け切った。

 アーシアは確保する、という決まりを自分から反故にしてしまいゲオルクとして恥すら覚える。それを未然に防いだギリメカラに感謝──する気は起きないが、助かったという気持ちだけは抱いておく。

 

「──俺を殺すのではなく痛めつけるのではなかったのか?」

 

 自分がやったことを誤魔化す様にゲオルクは話し掛ける。どの攻撃も手加減無しで殺す気で仕掛けてきたとしか思えなかった。

 ギリメカラは魔法を至近距離で受け、少々焦げ付いた腹を掻きながら目を細め、それだけで嗤いを表す。

 

 パオン? 

 

『お前、あの程度で死ぬの?』という嘲りが返って来た。

 

 パオー? 

 

 続けて『もっと加減して欲しいかー?』というねっとりとした嫌らしい言い方の後──

 

 パオ

 

『なら頭を地面に擦り付けて懇願しろ』という悪辣な言葉で締める。

 

「こ、この……!」

 

 その悪意に塗れた言葉はゲオルクの頭に一気に血を昇らせるには十分だった。馬鹿にされたり、悪意をぶつけられたことは多々あるが、それでもギリメカラの煽りは別格である。

 神経を直接逆撫でするかの様に兎に角腹が立つ。ゲオルクは、ここまで怒れるものかと自分の新たな一面を発見するぐらいに。

 ゲオルクの煮え滾る怒りに触発されて周りの霧が騒めき出す。ギリメカラはそれを鼻で一笑しながらさり気なく捕らわれのアーシアを一瞥した。

 アーシアは相変わらず幸せな夢を見ている最中である。顔を紅潮させてややだらしない顔つきになっている。

 

 パオー。

 

 誰にも聞こえない程絞った声量で、眠るアーシアに向け『とっとと起きろ馬鹿』とギリメカラは呼び掛けるのであった。

 

 

 ◇

 

 

 パオー。

「ふえ……?」

 

 最近、度々聞こえるようになってきた象の鳴き声の幻聴でアーシアは目を覚ます。正体不明の鳴き声に対し、不思議と恐怖を覚えなかったが何故か申し訳ない気持ちになる。

 

「アーシア、もう起きたのか……?」

 

 隣で寝ていた一誠が起き上がり、体を伸ばすと同時に欠伸をする。一切布を纏っていない鍛え抜いた体をアーシアの前に晒す。

 その体付きにアーシアは頬を赤く染めるが、アーシアもまた一誠と同じく一糸纏わず肌を全て晒している。

 ここは夫婦の寝室。二人はベッドの上。何があったのか説明しなくとも察せられる。因みに結婚し、子供が出来てからも二人の営みの数も情熱も減少することは無く、いつまでも新婚の様な関係を保っている。

 

「ごめんなさい。起こしちゃいましたね」

「うーん……? いや、別に。寧ろ良かったかも」

「え? あっ」

 

 一誠がアーシアの手を引き、自分の方へ引き寄せる。

 

「まだ時間に余裕があるから、出来るだろ?」

「あっ……」

 

 アーシアから艶のある声が漏れ出た瞬間──

 

 パオッ! 

「は、はい! ごめんなさい!」

 

 アーシアは背筋を伸ばして急に立ち上がり、何処かへ向けて勢い良く頭を下げる。

 

「ア、 アーシア?」

「あ、あれ……?」

 

 一誠はアーシアの奇行に驚くが、当の本人も自分の行いに驚いている。

 

「どうしたんだ? もしかして寝ぼけたのか?」

「え、えっと……」

 

 アーシアは説明に困ってしまう。急に何かに叱られた気がしてつい反射的に謝ってしまったのだが、それをキチンと説明するとなると一誠は間違いなく困惑する。アーシアも意味が分からない。

 

「多分、そうだと思います……」

 

 アーシアは仕方なく寝ぼけていた事にした。そう言うと一誠が笑ったのでアーシアは恥ずかしくなってしまう。

 

「ははは。ま、こういうこともあるか。よし、やっぱ起きるか」

「すみません……」

 

 折角の良いムードを自分からぶち壊してしまい、アーシアは申し訳なさそうにする。

 

「いいっていいって。それに今晩はパーティーだし、早めに準備をしてた方が良いかもな」

「パーティーですか……?」

「忘れたのか? 今度、部長──じゃなくてリアスが主催するレーティングゲーム大会があるからそれを記念したパーティーだよ。俺も一選手として参加する予定だしな」

「リアスお姉様のパーティー……」

 

 そんな予定など記憶に無かったのでアーシアは急に聞かされて戸惑う。戸惑うのだが、突如として一誠がパーティーの話をする記憶が湧き起こった。

 

「確かに……言っていました」

 

 今度は何故忘れていたのかを疑問に思ってしまう。いくら何でも大事な人の晴れ舞台を忘れてしまうのはおかしい。

 

(あれ……?)

 

 納得しようとして納得出来ない自分が居ることに気付くアーシア。頭の中で引っ掛かるものを感じた。今にも消えそうなその引っ掛かりを忘れまいと意識すると、途端に当たり前の様に享受していた幸福に違和感を覚える様になる。

 

「私は……」

「本当に大丈夫か? 起きてから変だぞ?」

 

 一誠が心配してくる。気遣いの筈だが、今のアーシアには自分の考えを妨げる様な行為に映ってしまう。

 

「大丈夫、です……それよりもリアスお姉様のパーティーがあるならもう準備をしましょう」

 

 そう言って一誠に微笑むアーシア。ちゃんと笑えているか本人には分からない。

 

「そうか?」

 

 首を傾げながらも一誠は着替える為にベッドから降りる。

 アーシアは深刻な表情をしながら黙考する。

 

 パオ。

 

 聞こえる幻聴。だが、それは今までになく鮮明に聞こえた。

 

 

 ◇

 

 

 違和感を抱えたままパーティーの時間になる。

 一誠はスーツに、アイリとアーシアもドレスに着替えて会場に到着していた。

 一誠達が会場に到着した途端、招待されていた他の悪魔達が騒めき出す。

 

「おい、赤龍帝だ」

「おお……! 本物か!」

「凄い……! 兵藤一誠様よ!」

「サイン貰えるかしら……」

 

 ひそひそと話ながら興奮した様子の悪魔達。注目され、人気な様子に誇らしい気持ちになる。

 

「奥方のアーシア様も居るぞ。珍しい」

「相変わらずの美貌だ」

「素敵なご夫婦ね」

 

 注目がアーシアへと移る。一誠への注目は嬉しいことだが、自分のこととなると気恥ずかしさの方が上回る。

 皆の視線を浴びながら会場へ入る。中は煌びやか造りになっており、立食形式の豪華な料理やお酒などが並んでいる。

 アーシアは一誠達と暫くの間、時間を潰していると会場内が騒がしくなる。

 

「主役のお出ましか」

 

 ワイングラスを片手に持ちながら一誠の視線が用意されていた舞台の方へ向けられる。アーシアもその視線を追うと舞台には髪と同じ色の真紅のドレスを完璧に着こなしたリアスが立っている。

 

『本日は私、リアス・グレモリーのパーティーにお越しいただき誠にありがとうございます。ご参加いただいた皆様にはスタッフ共々大きな感謝と、皆様とともに新たなレーティングゲームを開催できることに大きな喜びも感じております』

 

 マイク代わりの魔術によりリアスの声が会場中に響き渡っていく。

 大勢に注目される中で言い淀むことなくスピーチを続けるリアス。最初に会った時も輝いて見えたが、今のリアスは出会った時以上の輝きを放っていた。

 リアスのスピーチとレーティングゲームについての説明が終わると歓談の時間が設けられる。

 一誠は色々な悪魔達に囲まれ、言葉を交わしていた。そして、アーシアとアイリもまたお近づきになろうとする悪魔達に囲まれ戸惑っていた。

 四方から話し掛けられ軽いパニックになってしまうアーシア。誰にどう返すべきなのか考えていた時、囲んでいた悪魔達が急に分かれる。

 

「久しぶりね、アーシア」

 

 分かれて出来た道を堂々と歩くのはリアス。そして、彼女の眷属である朱乃、木場、小猫、ギャスパー、ロスヴァイセも付いていた。

 

「お、お久しぶりです……!」

 

 近しい間柄なのに緊張して声が裏返りそうになる。

 

「あらあら。少し見ない間にますます綺麗になりましたね、アーシアちゃん」

 

 学生の時よりも艶が増し、全ての男性の視線を釘付けにする朱乃。

 

「やあ、アーシアさん。アイリちゃんも随分と大きくなったね」

 

 その微笑み一つで会場内の女性の頬を赤く染め上げる木場。

 

「……とても可愛らしいです」

 

 幼い体型から黄金比の肉体へと成熟した小猫。

 

「ふふ。子供の成長は早いですね」

 

 泣き虫で女装が趣味であったギャスパーは、何処へ出しても恥ずかしくない紳士へと成長していた。

 

「ええ。イッセー君やアーシアさんの素質を受け継いだ慈悲深く逞しい子ですよ」

 

 凛々しい佇まいと共にアイリを高く評価するロスヴァイセ。自慢の教え子の一人として褒めたくて仕方のない様子。

 

「本当に皆さんと会うのは久しぶりです……皆さん?」

 

 アーシアは自分の言葉に疑問を持つ。本当に全員揃っているのだろうか、と。

 

「あの……もう一人居ませんでしたか?」

「もう一人……?」

 

 アーシアの質問に全員が首を傾げる。その態度でこれが全員だと答えている。

 

「ほら、あの、とても無口ですけど、冷静で大人びてた……」

 

 名前を出そうとしたが何故か出て来ない。知っているのにどうしても答えが出ない。

 

「あ、あれ……?」

 

 胸の奥にあった違和感が増していく。何かがおかしい。何かが間違っている。

 

「私は……」

 

 眩暈がしてアーシアは倒れそうになるが、膝を突いて堪える。周囲がアーシアの異変に騒めくがアーシアの耳にはそれが入って来ない。

 

「私は……私は……」

 

 気付き始めた真実。しかし、何かしらの力がアーシアの中からそれを取り除こうとし、記憶を曖昧にしてくる。

 

「私は……あっ……!」

 

 俯くアーシア。照らされた照明がアーシアの影を床に映す。

 影の中心に現れる一つ目。その目はアーシアに対し呆れと怒りを半々にした眼差しを向けていた。

 普通ならば異常事態なのだが、アーシアはその目に恐怖を抱かない。彼女はその目を知っていた。

 

「大丈夫か! アーシア!」

 

 一誠が心配そうに声を掛ける。アーシアの影にある目に誰も気付いていない。

 

「そうですか……そういうことだったんですね……」

 

 胸の中にあったモヤモヤとした感情が急速に晴れていく。それと同時に会場内に亀裂が生じる。会場が壊れたのではなく空間そのものに出来た亀裂であった。

 

「すみません……ずっと私を呼び掛けていてくれたんですね……?」

 

 頭の中の靄が消えて行く。忘れていた記憶が蘇ってくる。

 

 パオ。

「はい……心配をお掛けしました」

 

『そんなことはいいからとっとと戻って来い』とぶっきらぼうな鳴き声がハッキリと聞こえる。それとは逆に周囲の声はノイズの様なもの混じり出し、言葉が崩れていく。

 

「ああ……」

 

 アーシアは立ち上がる。既に周りが崩壊し始め、形がおかしくなっていく。

 そんな世界の中でアーシアは一誠とアイリの姿を目に焼き付ける。

 

「残念ですけど……これはやっぱり夢なんですね」

 

 今まで見ていたこと全てをアーシアは夢だと認める。その言葉を引き金にして、夢の世界の崩壊が加速する。

 

「私は元の世界に戻ります」

 

 アーシアは一筋の涙を流しながら微笑み、壊れていく世界に頭を下げる。

 

「ありがとうございます。──良い夢でした」

 

 

 

 ◇

 

 

「何……だと……?」

 

 ゲオルクは我が目を疑った。『絶霧』の禁手である『霧の中の理想郷』で創り上げた結界が粉々に砕け散ったのだ。

 結界の中から囚われていたアーシアが出て来る。

 

「そんな、馬鹿な……」

 

 信じられなくて声が震える。アーシアを捕えていた結界は、捕らえた本人の精神と強い結び付きがある壁を張る。壁を破壊することは捕えていた人物の精神の破壊を意味する。そして、結界内に閉じ込めた対象にその者にとって最も幸福な夢を見させて脱出不可能にするものであった。

 結界を解除する方法はたった一つ。対象が夢の中でその幸福を否定する事である。簡単の様でいて非常に難しい。そもそも夢を見ている自覚が無く、幸福は誰にとっても抗えないもの。

 それを、稀少な神器を持っているとはいえ少女に突破されてしまいゲオルクのプライドはズタズタになる。

 顔色、表情が目まぐるしく変わる。蒼褪め、赤くなり、唇を震わせ、奥歯を砕けんばかりに噛み締めた後、重く長い溜息を吐く。

 そして、何も言わずに『絶霧』を使って何処かへ消えてしまった。

 台詞を言い残すこともしないあっさり過ぎる退場。これ以上アーシアとギリメカラを見ていたら二条城周辺に展開している結界にすら支障をきたす恐れがあった。

 要はアーシアに禁手を解除されたせいでゲオルクは本気で凹んで落ち込んでしまったのであった。

 去るゲオルクをギリメカラは見逃した。本当なら禁手関連のことで色々と言うつもりであったが、ゲオルクの世にも情けない面を見たのでそれで我慢する。

 

「あ、あの! ご迷惑をお掛けしました!」

 

 アーシアはギリメカラに勢い良く頭を下げて謝罪する。

 実際のところ、アーシアが結界から脱出出来たのは二つの要素があったからだ。

 一つはギリメカラ。ギリメカラはアーシアの使い魔的位置──力関係は逆だが──にあり、アーシアと精神的な繋がりを持っている。それにより、ギリメカラの精神力が逆流してアーシアの精神が結界に完全に囚われるのを阻害出来た。

 これにより本来ならば夢の中で幸福な記憶で塗り潰されることは無く、逆に現実と夢との差に疑問を抱く隙を生ませた。また、ギリメカラの方も少しながらアーシアの夢に干渉することができ、何度も呼び掛けることが出来たのだ。

 頭を下げ続けるアーシアだがギリメカラの反応が無い。長い鼻で頭をぺしぺしと叩かれることを予想していたが、何もしてこない。

 アーシアは様子を窺う為に顔を上げる。すると、ギリメカラは目を三日月状に細め、目でニヤついた表現する。

 

 パオ? パオー! パオォォォ! 

「なっ! ああ、あああっ!」

 

 ギリメカラの鳴き声でアーシアは顔を一瞬で真っ赤に染める。ギリメカラが何をしているのかと言えば、夢の中でのアーシアと一誠の情事の際に発したアーシアの声の物真似をしていた。

 何せギリメカラも少しながら干渉出来ていたので、その辺りのシーンもバッチリと見ているし聞いている。

 

 パオオオオ! 

「止めて、止めて下さいっ! お願いですからっ!」

 

 ゲオルクへの鬱憤を、アーシアを揶揄うことで満たそうとするギリメカラであった。

 ギリメカラのせいですっかり忘れてしまっていたアーシアだが、この忘れてしまったことが結界を抜け出せたもう一つの要素であった。

 完全に術中へと入り切っていないことで、アーシアは夢の中の記憶の修正に対して違和感を抱く様になっていた。

 その違和感を最大まで揺さぶったのが、あのパーティー会場でのとある人物の不在である。

 ゲオルクの見させた夢は完璧な幸福であった。完璧過ぎると言ってもいい。そのせいで夢の中とはいえ害を及ぼすと思われたその人物を完全に排除してしまったのが。

 その完璧さが結果として大きな綻びを生むこととなる。

 しかし、それも致し方無いことなのかもしれない。

 

 幸福な世界に魔人は要らない。

 




これで二つ戦いが終わりました。
この章の終わりにはまだまだ掛かりそうです。

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