間隔などほぼ無く放たれるサイラオーグの左の拳打。初見時よりも速い。恐らくは威力を抑えて速さに重きを置いている。
サイラオーグ自身はシンへの牽制を込めて放っているつもりだが、実際に向けられているシンからすればこの左も十分凶器であった。
瞬きすることすら自制し、兎に角左拳から目を離さないようにする。動くと思ったときには既に眼前まで迫って来ているので、サイラオーグの拳の先から発せられている僅かな殺気を肌で感じ取り、視覚と感覚そして直感を合わせて軌道を読み、そうやって初めて躱すことが出来る。しかし、ここまでやっても辛うじて、である。
情報を脳で処理し、体に動きを伝える僅かなラグのせいでどうしても紙一重の回避となってしまう。その上、シンの読みも百パーセント正確ではないので避け切れずに掠ることもある。
その実例を示すようにサイラオーグの左拳が顔面目掛けてくるのを予想してシンは頭部を傾けるが、途中でサイラオーグは拳の軌道を修正したのでシンの頬を掠る。それだけで頬に赤い筋が浮かび上がり、プツプツと血の玉が滲み出し、それらが連なって流血となる。
額の傷と合わさってシンの顔の左半分は血だらけになっているが、それを拭うことも気にすることも出来ない。
掠れば刀剣を上回る切れ味を持ち、直撃すれば肉も骨も爆ぜる。拳の風切り音すらも暴力的であり精神を削ろうとしてくる始末。しかも、サイラオーグはこれ見よがしに右拳を溜めた状態で構えていた。牽制の左を超える本命の右。隙を伺いながらいつでも放てる様子は凄まじいプレッシャーを与える。
重機関銃の如き左拳でも脅威というのにミサイルのような右拳もある。そして、まだ蹴りも残しているので心底厄介であった。サイラオーグという悪魔は全身凶器という言葉を体現している。しかも、攻撃は馬鹿正直に正面から来るものだけではない。サイラオーグは巧みな足捌きで左右に移動し、別角度から攻撃することもあれば、距離を詰めて近距離から攻めてくることもある。シンもその都度足を動かしてサイラオーグに合わせる必要があった。
殺気染みた攻撃とプレッシャーを跳ね除けながら表情一つ変えることなく躱し続けるシン。その光景は見ている者たちに息をすることすら忘れさせる。
シンが攻撃と重圧を掻い潜る一方で攻めているサイラオーグもシンと似たようなプレッシャーに晒されていた。
(本当に底が見えん……!)
手数により相手の隙をこじ開けようとしているサイラオーグだが、全く攻撃が命中しないことに舌を巻く。
どの攻撃も僅かな差で躱されてしまう。相手の動きを見て、攻撃の軌道を修正するなどしているが、それでも皮一枚掠めるのがせいぜい。皮一枚の向こう側が遥かに遠い。
今までサイラオーグは多くの悪魔たちと戦ってきたが、その中でもシンの目の良さと反射神経は一線を画している。
(その涼し気な表情の下にどれだけの強さを秘めている……!)
畏れはある。だが、それ以上の興味がサイラオーグの中で湧き出てくる。湧き出る衝動は拳にも伝わり、サイラオーグの左拳はより速さとキレが増す。
サイラオーグの左が吸い込まれるようにシンの顔へ向かっていく。誰もが当たると思った。サイラオーグ自身も当たる光景を幻視した。だが、次の瞬間、乾いた音が響きサイラオーグの左拳が弾かれた。シンの裏拳がサイラオーグの左拳を叩いて防いだのだ。体捌きで全て避けていたシンだったが、遂に攻撃的な防御へと移る。
弾かれた左手に強い痛みが残る。しかし、サイラオーグは拳を解くことなくすぐに左拳で突いた。シンの守りが一層硬くなったが、同時にそうせざるを得なかったことを意味する。ギアを上げたサイラオーグの攻撃は決して無駄ではない。
最早、拳の形など見えず残像でしか追うことが出来なくなったサイラオーグの左。それすらも見て両手で防御していくシン。弾かれる音が耐えず鳴っていき、その度にサイラオーグは左手に痛みを覚える。だが、痛みを感じているのはサイラオーグだけではない。サイラオーグの拳を弾くこと自体がシンにとってもダメージを与えている。現に音が鳴る度にシンの両手には裂傷が出来ていた。
攻める方も守る方もダメージが蓄積していく。
しかし、段々とシンに攻撃が掠る頻度が増えてきた。顔や両手は勿論のことだが、胴体にも傷を負うようになっていた。サイラオーグの攻撃に押され始めていることを意味する。
この戦いが始まってからシンは攻撃らしい攻撃を出していない。サイラオーグに完封されていると見て取れる。初戦とは違い、サイラオーグはシンを上回る立ち回りをし、好きにさせないようにしていた。
このまま押し切られるのでは、という空気が漂い始める中、違う視点を持っている者がいた。
「押されているねー。でも、均衡している」
二人の戦いを観戦しているファルビウムはぼんやりと呟く。眠そうな顔であるが、彼を知る者ならばこの戦いに未だに興味を持っているのが分かる。そうでなければとっくに眠っている。
「君には均衡しているように見えるのかい?」
傍から見ればシンが防戦一方としか見えないが、稀代の戦術家であるファルビウムには違って見えた。
「状況としては6:4……7:3かな? シンって子が押されているよ。でも、サイラオーグ攻めあぐねている。だから、あれで吊り合っているんだよ。必ずしも5:5である必要も無いし」
戦いに於いては現実の数字が絶対ではない。ファルビウムからすればシンは反撃の糸口を掴んでいないが、サイラオーグは攻め過ぎて知らず知らずのうちに前のめりな戦い方になっている。視点を変えれば危ういのはサイラオーグかもしれないのだ。
「成程。面白い考え方だ」
サーゼクスとアジュカにはファルビウムがどのように見えているのか分かっていない。だが、彼の言葉は信じられる。同じ魔王という立場、その能力の高さは良く知っている。
「でも、反撃するにはそれなりのリスクが必要なんだよねー。あの子にそれを超えるぐらいの度胸や覚悟はあるのかなー?」
潜在能力が高くても最終的に必要になるのは使い手の精神力である。脆弱な精神に強い力は扱い切れず、ましてや困難など打破出来ない。
「──いや、大丈夫だろうね」
アジュカはファルビウムの懸念をやんわりと否定する。
「だね」
それにサーゼクスも同意した。彼らは感じていた。守りを固めているシンが静かに力を高めていることを。普通ならばモニター越しで分かる筈も無いことだが、この二人には分かっていた。何故ならば彼らは普通ではない。魔王という枠組みですら彼らには狭く、それを超越した存在だからだ。
「──そう。なら、そろそろ均衡が崩れるかも」
二人の言葉を疑わないファルビウムは、ここから先の予測を告げる。
そして、それは間もなく現実のものと化す。
サイラオーグの左拳が遂にシンへと届いた。閃光のような左の連射を両手を駆使して防いでいたシンであったが、度重なる攻撃により両腕にダメージが蓄積していき徐々に動きが鈍くなっていた。サイラオーグの無限にあるかと思わせる持久力による粘りがシンの守りをこじ開けたのだ。
胸部に命中し二歩、三歩後退させられるシン。胸にはしっかりとサイラオーグの拳の跡が残っており胸骨、肺に大きなダメージを与えている。
僅かに広がる間合い。サイラオーグは一歩踏み込んで詰めると今まで溜めに溜めてきた右拳を解放する。
だが、シンも黙ってそれを受けるつもりは無かった。シンの体は一瞬光の柱に包まれる。サイラオーグとの初戦時に見せた防御力を高める補助魔法である。
サイラオーグはその補助魔法を一度見ていた。恐らくは前のようにそれで一度耐え、サイラオーグへ反撃するつもりなのだろうが、サイラオーグの拳は既にその硬さを知っている。
左拳を上回る右拳が放たれ、シンが防御の為に交差させた両腕に命中し衝撃が炸裂する。
二撃目など一切考えず、その一撃に全てを込めるぐらいの思いで出された拳は補助魔法で高められたシンの防御を容易く打ち抜いた。
拳が触れるとその圧に押され、シンの両腕は胸に押し当てられる形となる。次の瞬間には両腕を通して胸に衝撃が貫いてきた。防御させていた両腕に罅が入ったのは分かる。そして、それが当てられている胸骨にも罅が入ったのが伝わってきた。サイラオーグの拳の破壊はそれだけで終わらず、両腕を上って肩にまでダメージを与える。
結果としてサイラオーグが右拳を引くとシンは両腕を力無く垂れ下げることとなった。
シン自身は痛みで戦意喪失している訳では無い。戦意は衰えてもいない。だが、意志とは裏腹にシンの両腕は麻痺状態となっており、シンとの感覚が断ち切られていた。
防御力を高めていてもこの惨状。シンはあろうことかサイラオーグの前でノーガードという無防備を晒す。
もし、これが普通の試合だったのならここでストップが掛けられていたかもしれない。だが、この試合に於いては止める審判は存在しない。故にサイラオーグの攻撃はここで止まらなかった。
影すらも置き去りにする速さでサイラオーグの右足が上がる。鍛えに鍛えた下半身から放たれる必殺の名に相応しい蹴り。その蹴りが死神の鎌の如くシンの首筋を狙って振るわれる。
間に合わないと分かっていても観戦していたライザーは『待てっ!』と叫んでいた。
サイラオーグの耳にはライザーの声が届いていたが、それでも止まらなかった。止められないのではなく自らの意志で止めない。
戦う前からサイラオーグは覚悟していた。シンと殺し合いになる覚悟を。そうでなければ勝てないと理解していたからだ。
このまま蹴りがシンの首に命中すれば死は免れない。運が良かったとしても首から下は一生使い物にならなくなるだろう。サイラオーグはそれが分かっていてもやる。鋼の意思を以って実行する。強敵と認めた相手に半端な情など返って失礼だからだ。
命を断つサイラオーグの蹴りがシンの首を刈り取る──刹那、シンの体を青紫の光が連続して包む。直後、蹴りがシンの首へと命中する。
「何っ!?」
驚きの声を上げたのはサイラオーグであった。蹴りを首筋に打ち込まれて傾くシンの顔。シンの目とサイラオーグの目が合う。シンの目には確かな生気があった。
シンは首の力だけでサイラオーグの蹴りを耐え切ってみせたのだ。
反撃が来るのはサイラオーグも分かっていた。だが、上段蹴りという大振り且つ隙の大きな技を出してしまったせいで咄嗟に動けない。
シンは首で蹴りを受けた状態のまま肩を真上に突き出した。サイラオーグの脚は下からの突き上げを受けたせいで更に上向きになる。ただでさえ安定性の無い体勢であったが、その突き上げにより不安定さが増す。
サイラオーグのバランスが僅かに安定性を失ったタイミングでシンの前蹴りがサイラオーグの腹に叩き込まれた。
「っつ!」
サイラオーグの鍛え抜かれた大理石のような腹筋。生半可な攻撃ではビクともせず、その気になれば刃物すら通さない。しかし、シンの前蹴りはサイラオーグの長年の鍛錬を嘲笑うかのように衝撃を貫通させる。
体内に広がる衝撃の波紋。内臓を揺さぶり、表現しようのない不快感をサイラオーグに与えた。
だが、この程度の苦しみだったのならサイラオーグは耐え切ることが出来た。問題なのは痛みなのではない。サイラオーグはシンの前蹴りのせいでバランスを崩し、仰向けに倒されてしまったのだ。
(不覚……!)
サイラオーグは床に背中や後頭部を打ち付けるがそれよりも己の失態を恥じていた。
補助魔法の重ね掛け。その発想を頭の片隅であっても想定しておくべきだった。防御を強化した両腕のガードを突き破った時点ですっかり上回ったと思ってしまったのがサイラオーグの油断に繋がった。
(まだ甘く見ていたのか俺は! 愚か者めっ! そして、見事だ! 間薙シン!)
己を責めつつシンを称賛する。幾ら補助魔法を重ね掛けして防御力を強化したとしてもそれを超えられないという保証など無い。ましてや、防御を強化した守りを破られた直後である。死んでもおかしくない攻撃を前にして一か八かの博打染みた行動をとれるのは、偏にシンの精神力が為せるものであった。
そして、シンはそれに勝った。サイラオーグが優勢であった筈なのに一転してシンが有利となる。
シンは仰向けになっているサイラオーグに容赦無く足を振り下ろした。
「ぐうぅぅっ!」
踏み付けという単純だが強力な攻撃。腹を足裏で押し込まれて内臓全てを吐き出してしまいそうな圧迫感に襲われる。それでも耐えるサイラオーグだが、シンは躊躇無く同じ箇所を全力で踏み付けた。
サイラオーグは咄嗟に両腕でそれを防ごうとするが、先程のお返しと言わんばかり両腕ごと踏み抜く。
サイラオーグの体を通して床まで衝撃が貫き、サイラオーグを中心にして床に亀裂が生じた。
「がはっ!」
サイラオーグは呼気とはっきりとした苦鳴と吐き出させられる。余波だけで床を砕く程の衝撃である。まともに受けたサイラオーグのダメージは計り知れない。
相手のダメージの大小関係無くシンは三度目の踏み付け体勢に入る。しかも、三度目は足に力を集中させており、足に浮かび上がっている紋様が光を発している。完全にサイラオーグを仕留める気であった。
ライザーとレイヴェルは鳥肌を立てていた。シンが発する気配だけで察してしまう。後先のことなど一切考えずにサイラオーグを殺す気で攻撃しようとしていると。
だというのに目が離せられない。悪魔としての業なのかもしれないが、ひどく高揚してしまう。サイラオーグがシンを全力で殴り付けたときも、シンがサイラオーグを全力で仕留めようとする今も興奮が止まらない。
サイラオーグが無慈悲に敗北してしまう未来を想像してしまう反面、サイラオーグがここで終わる筈が無いという期待も生まれてしまう。兎に角、見たいのだ。この先を。終わりでも次に繋がる展開でも良い。戦う二人が見たい。
勝負を決するかもしれないシンの三度目の攻撃がサイラオーグへ振り下ろされる。
「ぬうっ!」
サイラオーグは全身を捻ることによりその勢いで地面を転がる。転がっていく姿は無様の一言であり、身体中の筋肉をゴムのようにしならせたせいでシンによって痛めつけられた筋肉、骨、内臓が悲鳴を上げた。
サイラオーグはそれでもシンの攻撃から逃げる。サイラオーグもまたここで終わらせたくなかった。全力は出しているが、まだ出し切っていない。尽き果てるまでこの戦いを何が何でも終わらせつもりはない。
まんまとサイラオーグに逃げられてしまったシン。足でも掴んでいればそれを阻止出来ただろうが、サイラオーグの強烈な右によりシンの両腕はまだ使用不可能である。サイラオーグの攻撃の一つ一つが未来へ繋げた。
対象を失ったシンだが、攻撃を中断することはせず白色の床に足が叩き込まれる。トレーニングルームが一瞬震え、クレーターのような陥没が瞬時に出来上がった。破壊の跡がサイラオーグのあったかもしれない未来を容易に想像させる。
不発に終わった攻撃。シンはサイラオーグを追おうとしたが、あるものが目に入った。
地面に深くめり込んでいる己の足。陥没から生じる幾本もの亀裂。
ここから先の行動に関してシンは何か考えがあった訳では無い。思い付き、閃き、或いは天啓のようなもの。頭に過った瞬間には行動に移っていた。
足に込めていた力を地面へ流し込む。土に溢した水のように地面へ吸い込まれていくシンの力。力は亀裂の中へ張り込み、亀裂を一気に伸ばす。それはサイラオーグの逃げた先にまで達した。
シンの追撃が来る前に立ち上がろうとするサイラオーグ。そのとき、いつの間にか足元に亀裂が走っていたことに気付く。次の瞬間、裂け目の奥に光が見えたかと思えば、亀裂から一気に力が噴き出し、その上に立っていたサイラオーグは下から突き上げられ、地面から跳ね上がった。
シンは内心少し驚いていた。サイラオーグがまるで地面に殴り飛ばされたように跳ねたからではなく、自分の思い描いていた光景と寸分違わなかったからである。殆ど思い付きでやったことなのに不思議なぐらいにしっくりとくる。初めてやったことなのに初めてではないような既視感。サイラオーグにダメージを与えられた反面、その既視感を気持ち悪く感じるが、戦いの中ではそれは不要な感覚なので心の奥底に押し込んだ。
「ぐっ!」
足裏から脳天まで突き抜けていく衝撃。一瞬、何故自分が宙に浮いているのか分からなくなる。不意を衝かれた攻撃により意識が混濁してしまうサイラオーグ。
(まだ……戦いの最中だっ!)
だが、いつまでもその状態は続かなかった。持ち前の精神力により意識を覚醒させ、自分の置かれている状況を把握し、何事もなかったかのように着地する。罅割れた地面に降り立ったサイラオーグだが、先程の攻撃が来ることは無かった。
(体が……!)
サイラオーグは自分の異変を感じ取っていた。しゃがんだ体勢から十数メートルも打ち上げられる程の衝撃を足から受けてしまったせいでサイラオーグは足に力が入らず、細かに震えさせていた。その場で立っているだけで精一杯であり、進むことも退がることも出来ない。サイラオーグの眷属たちが見ていたのなら色々な意味で有り得ない姿なのである眷属は驚愕し、ある眷属は滂沱し、ある眷属は主の見てはいけない姿を見た自分を罰するように両目を固く閉ざすだろう。
シンとサイラオーグとの間には数メートルの距離が出来ている。魔力が使えないので近接格闘のみ磨き上げたサイラオーグにとっては絶望的なまでに遠い。
一方でシンの方は未だに両腕が痺れて使えないが、サイラオーグとは違って間合いの外の相手を攻撃する手段を豊富に持つ。
シンは息を吸い込む。それを見てサイラオーグは両手を構える。吐き出された息は炎となり、サイラオーグへ一直線に伸びていく。
「ふんっ!」
サイラオーグが拳を捻りながら突き出すと、眼前の炎は螺旋状に捻じれたかと思えばサイラオーグの拳圧により四散した。
拳一発で炎を消し飛ばしたサイラオーグだったが、炎の向こうに見える光景に息を呑む。
シンの全身が充填された力により発光しており、次なる攻撃の準備を済ませていた。炎の息は時間稼ぎと目晦ましであった。
シンは前屈みになり上半身を発条のように引き絞る。そして、大きく仰け反ることで体内に溜めていた力を解き放った。
サイラオーグに向け、数十の光線が一斉に伸びていく。
両眼が上下左右に動き、光線の軌道を読み取る。全てが直撃する軌道には入っていない。外れているのは避けた先を想定してのもの。それでも六割程は確実に命中する。
「ふぅぅぅ……」
サイラオーグはゆっくりと呼吸をする。動揺と焦りは皆無。それを表すかのように纏う闘気はさざ波よりも落ち着いている。ここまで追い込まれても恐怖は全く湧いてこない。逆に闘志によって昂っており、それを鎮める方が大変である。
闘志をコントロールしながら全身の緊張を一旦解き、脱力状態に入る。力むことも大事だが、本当に力を振り絞りたければ力を抜くことも重要。力の振れ幅の差が大きな力と速さを生む。
四方から来る光線に対し、サイラオーグは脱力していた筋肉を隆起させ、空を切り裂く勢いで左右の拳を繰り出した。
殴った後に殴る音が聞こえてくる程の拳速。ほぼ同時に迫っている光線を同じくほぼ同時に打ち落としてしまう。
このまま全て打ち落としてしまうかと思ったとき、目に見えて分かる程に片手の速度が落ちた。それにより、打ち洩らした光線がサイラオーグの肩に命中。そのまま貫くかと思われたが、鍛えられた分厚いサイラオーグの体に風穴を開けることは出来なかった。
(くっ……見誤ったか……!)
相手の攻撃の特性を見抜くことが出来ず、痺れて動かせない片腕を見てサイラオーグは恥じるように言った。
シンのこの技には相手の体を麻痺させる効果がある。サイラオーグは闘気を纏わせていたおかげで影響が少なかったが、迎撃している間に麻痺の効果が蓄積して片腕の動きが鈍ってしまった。そのせいで一発貰ってしまうという不覚をとる。
初見の攻撃に対し、ここまで反応出来るサイラオーグは異常であり、見ている者たちからすれば称賛ものであったが、サイラオーグ自身が己に厳し過ぎるせいで今の攻防に及第点すら与えられない。
シンはそんなサイラオーグを更なる力で潰す為に追い打ちを掛ける。足を奪い、片腕を奪っても攻撃の手を緩めることは一切しない。
全身ではなく今度は左足に力を集束させる。それを後ろ回し蹴りの勢いに乗じさせて飛ばした。
左足から放たれるのは幾本の魔槍。先程の光線以上の破壊力を持っている。
手足の自由を奪われたサイラオーグに対するこの攻撃。傍から見れば今のシンはどう映っているのだろうか。悪魔よりも悪魔らしく見えるのだろうか。魔人という存在を体現しているのだろうか。答えは各々の中にあるだろうが、少なくとも目を離すことが出来ない存在であることは共通している。
動けず、迎撃出来ずのサイラオーグ。彼がとって残された手段は一つ。片腕を真上に突き上げ、それを眼前に持ってくるという構え。最低限急所への守りをしながら己の肉体を信じて防御を固める。
サイラオーグが纏う闘気の量が倍以上となる。不思議なことにサイラオーグが傷付く度に闘気の量や質が増していく。闘気は生命の根本というべき力。サイラオーグの溢ればかりの活力と生命力によって可視化している。
迫り来る死に対し、サイラオーグの生きるという強靭な意思に反応し、今まで以上の闘気を引き出していた。
悪魔の中でも類を見ない──現状、これ程の闘気を出せるのはサイラオーグのみ。それが、シンという敵を前にして次なる段階にして新たな領域に入ろうとしている。
それが如何なるものかはこれから知ることとなる。
シンの魔槍がサイラオーグの闘気に触れた。濃密なる闘気の膜が魔槍を阻もうとするが、勢いを削ぐことは出来ても完全に防ぐことは出来ず、魔槍は闘気の中を突き進み、サイラオーグの脇腹、脚、腕などの箇所に刺さる。
だが、闘気の防御は決して無駄ではなかった。闘気により威力を殺すことでサイラオーグは己の肉体でそれを受け止め、貫くことを許さない。
サイラオーグは腕を振り、刺さっていた魔槍を振り払う。残りの魔槍も躊躇無く抜いた。
傷口からは多くの血が流れ、サイラオーグの足元に血溜まりを作る。失血により意識を失うのも時間の問題であった。
生命の源である血を大量に失いながらもサイラオーグは平常心を保ち続けている。不思議と恐れは湧いてこない。血が流れ落ちた分だけ体から無駄なものが削ぎ落されていく気分になる。
(体は──まだ動く)
瀕死に近い状態に反して集中力が極限まで高まっていく。度重なるダメージのせいで肉体を制御する箍が外れ掛けている。それに伴い視野が一気に広がる。
視界の端ではライザーとレイヴェルが瞬きもせずにこの戦いを見届けようとしている。レイヴェルは興奮している様子だが、ライザーの方は複雑な表情を浮かべていた。二人の戦いを見て、自分の実力がまだそこに届いていないことを痛感していた。
シンの方は次なる攻撃の為に五指を開き、指先のみに力を集中させていた。サイラオーグの腕に傷を残した引っ掻きの何倍もの威力を持つ攻撃の準備に入っている。
サイラオーグは前のめりに倒れ込む。見ている者たちはとうとうサイラオーグが限界に達したと思ったが、それは違った。
前に倒れ込む勢いを利用し、サイラオーグは一気に前に跳んだ。シンの攻撃により力の入らない両足とは思えない瞬間移動かと錯覚するような踏み込み。
集中力が極まっている今のサイラオーグだからこそ自身の肉体を完全なコントロールができ、最小の動きで最大の効果を発揮することが出来た。
サイラオーグが生きてきた中で初めて感じる体の軽さ。筋肉や骨、神経、体を構築する全てのものを把握したような万能感。
気付けばシンの目の前まで来ていた。サイラオーグは無心で拳を作り、そして放つ。
シンからすればいきなり近距離までサイラオーグが移動してきたような状況。しかし、焦ることなく攻撃を切り替え、突き出された拳に掌打を返す。
サイラオーグの拳を掌打で受け、掴み、そこから光弾による反撃を行うというのがシンの算段であった。
サイラオーグの拳がシンの掌に触れる。瞬間、シンとサイラオーグは同時に未知なる感覚を体験した。
決して速さも無く、威力も感じられないと思った拳に触れたとき、掌を通じて腕の中に経験したことの無い痛みが走った。シンの腕は音を立ててひしゃげていき、折れた骨が肉を突き破って外に出る。
サイラオーグはあまりに軽い手応えに驚いた。殴ればそれなりの反動というものが拳に返ってくる。だが、それが無い。拳から発生する衝撃が余すことなく相手に流れ込んだような感触であった。
サイラオーグが拳を突き抜くとシンは後方へ飛ばされる。サイラオーグはそれを追うことはせず、自分の拳を見ていた。
それは神の死んだこの世界でどれ程の奇跡だったのだろうか。偶々、非才の悪魔が存在し、その悪魔は折れることも腐ることもせずに一心不乱に鍛錬を積み、類を見ない闘気をその身から発せられるようになった。
そんな悪魔が出会ったのは魔人。その魔人は如何なる守りも貫く拳を持っていた。
本来ならば存在しなかった概念。魔人がこの世界に生み落とされたことで新たに生まれた概念。過程は違えば突き進んだ先に用意された贈り物。
偶然に偶然を重ねた果てにサイラオーグは貫き通す拳を手に入れた。
思いもよらない力の発現に戦いの最中だというのに戦いを忘れて呆然としてしまうサイラオーグ。どうやって今の一撃を放てたのかサイラオーグも分からない。先程までその手にあった感触は消えていた。辿り着いたがまだ完璧に掴めていない。
隙を晒すサイラオーグ。だが、シンは攻撃出来ない。片腕がジグザグな形に変形した上に開放骨折までしているのも理由の一つだが、サイラオーグの貫く拳を受けたことで彼を生半可に攻撃することを躊躇っていた。
半端な攻撃は出来ない。やるのならば一撃で葬るような攻撃をしなくてはならない。
脳裏に浮かぶのはあの技。沖田総司に指摘されたことを切っ掛けに生まれた技。
◇
「勿体無いですよ」
総司との手合わせが始まり、暫く経った後総司に熱波剣を放った後に言われた言葉であった。
「勿体無い、ですか?」
「はい。見させてもらうのは二度目ですが、折角良い技なのに色々と勿体無い部分があると思いました」
刀一本で熱波剣を斬り払った総司に言われると皮肉に思えてしまう。確かに熱波剣を多用しているが通用しない相手も増えてきた。使い方を工夫しているが、とどめを刺す技ではなく牽制ぐらいの技にまで落ちてきている。
「改良すべきということですか?」
「そうですね。と言っても簡単に出来ますよ」
総司は軽々と言う。
「君がとても器用で命知らずなのはその技を見ていたら分かります。だからこそ、もっと分担すべきです」
「分担……」
「片手で熟す必要なんてありません。君は両手で出来るんですから」
総司から言われ、シンは当然のようにやっていたことへの視野の狭さに気付かされた。
熱波剣は片手専用の技──ではない。当時のシンは右手しか魔人の力を発現することが出来なかったので、苦肉の策として片手で使えるようにしたのだ。後に左手でも魔人の力を発揮することが出来たが、片手で熱波剣を使うことが癖になっており、総司に指摘されるまで頭の片隅にもその考えが無かった。
自分はこんなにも頭の固い奴だったのかと軽くショックを受けてしまう。
当たり前のように同じことをやっていても発展性は無い。逆に今、それを知れたことは幸運と言える。
「──試してみたいことがあります」
「幾らでも付き合いますよ」
総司は微笑を浮かべながら頷いた。
◇
練習は重ねてきた。これが本番であったとしてもやることは変わらない──筈だが、サイラオーグにより片腕が使い物にならなくなっている。
形はどうであれある程度使えるようにしなければならない。
シンは徐に折れた方の手首を掴み、引っ張る。サイラオーグにより歪に変形させられ、縮んでしまった腕を強引に引っ張って元の長さに戻す。
「ひっ!」
その行為にレイヴェルが悲鳴を上げた。見ているだけでも痛みを想像してしまう。
シンは突きでている骨を元の位置に無理矢理押し戻す。レイヴェルがまたも悲鳴を上げる。
治しているというよりも自傷行為としか映らない。しかし、これにより歪だった腕はある程度元の形には戻った。だが、戻ったところでとても使えるようには見えない。これからどうするのかと思った、そのときであった。
「──えっ?」
レイヴェルは驚きの声を出してしまう。傍で見ていたライザーもレイヴェルのように声を出さなかったが同じような表情をしている。
サイラオーグによって破壊された腕が音を立てて治り始めた。瞬きをすると歪さが残っていた腕が真っ直ぐになっていき、また瞬きをすると内出血による変色が元の血色へと戻り、三度目瞬きをすれば骨が突き破ったことで出来た傷が塞がれた。
手品のような光景にライザーとレイヴェルは我が目を疑う。
しかし、何となくではあるが納得してしまう思いもあった。シンによってサイラオーグは追い詰められた状況から拳一つで逆転してみせた。シンもまたサイラオーグに追い詰められたことで新たな段階へと進んだのだ。
互いに互いを高め合う関係。シンとサイラオーグは相性が良過ぎたのかもしれない。
会心の一撃によって与えた傷がすぐに治ってしまったが、サイラオーグはそのことを特に驚くことはなかった。それぐらいやってみせるだろう、という不思議な信頼があった。
サイラオーグは集中する。一度掴み、放してしまった先程の感覚を取り戻そうとしていた。
構えたまま微動だにしないサイラオーグ。一見すれば隙だらけに見えるが、その体からは触れることすら恐れる程の膨大な闘気が放たれており、あらゆる者を威圧する。
一方でシンもまた構えに入る。重傷であった片腕を瞬時に治したことに大した反応を見せないまま、輪を作った右手を腰に当て、空を握る左手をそれに添えながら上半身を右に少し捻る。刀を鞘から抜く構えに良く似ていた。
この構えこそ総司との助言と実戦式の特訓の中で導き出した熱波剣の発展。
左手に力を集中させ、魔力の剣を創造する。このとき、熱波剣とは違い力のコントロールを一切せずに全ての力を注ぎ込む。
左手から伸び、右手の中に納められる炎のような魔力剣。今にも暴発しそうな魔力剣を抑えるのは右手。右手にも力を集中させ、魔力剣を包むように魔力で覆う。右手は構えの通り鞘の役目を果たしていた。
最初は燃えているような形の魔力剣が、右手の中で段々と研がれていくように無駄な部分が削げていく。また力を注がれ続け力の密度が変化したせいか蛍光色が青紫へ色を変えていく。
役割を分散することで今まで以上に力を集束することが可能となり、マグネシウムの燃焼反応のように不安定な形を魔力剣は、熱波剣時よりも膨大な力を注がれているというのに安定し、より刀剣らしい鋭利な形となっている。
対戦相手を前にしてどちらも悠長と言える溜めを作る二人。だが、この戦いを見ている者たちには分かっていた。二人とも次で決着をつけようとしているのだと。
示し合わせた訳では無いが、どちらかが動くときが相手の動くときなのが伝わってくる。相手を待たずに攻撃するなど無粋なことはしない。これは試し合いである。相手の本気、全力を上回って勝つことに意味がある。
シンの剣が研ぎ終わり、サイラオーグの闘気が噴き出るのを止む。どちらも準備が完了した。
サイラオーグは踏み込み、シンは待ち構える。ライザーとレイヴェルはこれから起こることを瞬くことをせず目や脳に焼き付ける。
剣と拳。衝突する力。勝ったのは──
◇
「これで決着かー。というかどっちが勝ったのか分かんないや。どっちも死にそうだし」
ファルビウムは戦いの決着を少し惜しむようであった。
「早く処置しないと死んじゃうね。医療班は準備してある」
「大丈夫だ。あの場にはフェニックスの兄妹が居る。これ以上ない程適材だ」
「サーゼクスさぁ、もしかしてこうなることを想定して、あの兄妹の観戦を許したの?」
「まさか。私は、君程先を見通せないさ」
すると、アジュカはモニターに背を向けて去ろうとする。
「もう帰るのかい?」
「ああ。いいものを見せて貰った。おかげで色々と刺激を受けたよ。早速、研究を進めたい」
シンとサイラオーグの戦いにも興味を惹かれたが、アジュカが最も興味を持ったのはシンが戦闘中に使用した防御力を高める魔法であった。
「あれは、原理としては赤龍帝の倍加に近い。尤も、全てを倍にする倍加とは違って限定されているがね。逆にそちらの方が汎用性がある。何よりも興味深いのは既存の術式とは根幹が違うところだ」
あらゆる魔術の式を開発してきたアジュカだからこそ分かる特異性。
「見せてくれたのは防御力を高めるあれ一つだったが、研究を進めればもっと応用を利かせられる。例えば力や素早さ、反射神経を上げたり、逆にそれらを下げたりなんてね」
すぐに有効性と応用への目途を立たせる。
「必要ならこの戦いの録画を提供するが?」
「結構。もう覚えたよ」
数度見ただけでシンの魔法を完全に解析したと言うアジュカ。サーゼクスもファルビウムもそれが法螺だとは思っていない。アジュカが言うならば本当のことなのだろう。
殆どの者が知らないシンとサイラオーグの戦い。しかし、そこで生み出された波紋は、この世界に確かに広がっていく。
敢えて勝者、敗者をぼかすやり方にしたのは賛否両論あるかもしれませんが、ご容赦を。どちらが勝ったのかはご想像にお任せします。
サイラオーグが貫通(未完成)を覚え、メガテンの補助スキルがこの世界に広がっていく予定となります。
そして、人修羅は死亡遊戯を覚えました。しかし、後続のシリーズだと居合切りモーションから何故かパンチの連打に変化しましたね、何ででしょう?