それは曹操たちが駒王町に攻めに入り間もない頃のこと。
「──動いたか」
独り獰猛な笑みを浮かべるのは旧魔王派のシャルバ・ベルゼブブ。ただ旧魔王派と他からは認識されているが、その旧魔王派からも距離が置かれており彼は孤立している状態である。
理由としては突然魔王に匹敵する力を手に入れたことに対し、シャルバはどうやって手に入れたかを同胞である筈の旧魔王派の者たちに完全黙秘をしていること。
もう一人の理由としては帰還してからのシャルバは、旧魔王派の相手にも見下したような態度が目立つようになったからである。まるで自分が選ばれた存在とした振る舞いは、旧魔王派たちの反感を買うには十分であり、咎められても反省した態度を微塵も見せず、両者の間には深い亀裂が生じてしまった。
尤も、旧魔王派のリゼヴィムだけはシャルバの行動について何一つ文句を言わず、力のことについても不問にしていた。
シャルバとしては無邪気で幼稚で悍ましい好奇心を持つリゼヴィムが何も言って来なかったのが意外であった。ただ、変わり果てたシャルバの姿を見てニヤニヤと笑うだけ。
不快に思う反面、背筋に悪寒を覚えた。それは強くなった今でも変わらない。
(それでも何も言ってこないならば、こちらも独断で動くだけだ)
いい加減英雄派に傾いている『禍の団』も鬱陶しく感じてきた。そろそろ旧魔王派に自分が主導権を奪い返すときである。
その為にも曹操たちが別々に行動している内にやるべき事がある。
シャルバが目的の為に動こうとした時、彼の鼻孔を甘い香りがくすぐる。常人ならば脳が蕩けるような麻薬染みた官能的な香り。しかし、シャルバの表情はこれでもかと醜悪に歪む。
「……私に何か用か? 売女がっ」
「オホホホホ。生憎、わらわは自分を安売りしたことがないぞよ?」
艶のある高慢さに満ちた声を響かせ現れたのは魔人の一角マザーハーロット。現れたのは彼女一人。常に伴っている七頭の赤い獣の姿は見当たらない。
「貴様の価値などどうでもいい。もう一度聞く。私に何か用か?」
マザーハーロットは正面からシャルバに近付く。一歩近寄る度に漂う香りが強くなる。シャルバとの距離は数メートル程。数歩移動すれば届く距離なのだが、シャルバにはその数歩がやけに長く感じる。マザーハーロットの放つ香りは理性だけでなく感覚すらも狂わすのかもしれない。
シャルバの本能が警鐘を鳴らす。マザーハーロットに近寄らせるな、離れろと。しかし、シャルバはその本能をプライドで捻じ伏せ、自分の方から一歩マザーハーロットに近寄った。
マザーハーロットの歩幅を狂わすシャルバの一歩。それにより距離間でも見誤ったのかマザーハーロットはそのままシャルバの胸に飛び込むようにしなだれかかる。あまりにも自然な流れにまるでシャルバの行動を予期していたかのようであった。
シャルバは今すぐにでもマザーハーロットを引き剝がそうとするが、その意思に反して体が動かない。マザーハーロットから直に伝わってくる感触、体温、香り。それらが本能すら踏み越えたシャルバのプライドを凌駕し、引き剝がす意思を無意識に奪う。
「汝に一つ手を貸してやろうぞ」
殆ど接点のないマザーハーロットの提案にシャルバは瞠目する。
「……何を企んでいる?」
白骨の顔のマザーハーロットが蠱惑的な表情をする。少なくともシャルバにはそう感じられた。耳を傾けるなと本能が叫ぶ。以前のシャルバならばマザーハーロットと口を利くことすらしなかったであろう。ましてやここまで近付かせることすら拒否した。魔人が信用出来ないという理由もあるが、シャルバは──決して認めないだろうが──マザーハーロットを恐れていた。
しかし、力を得た今のシャルバには嘗てのような恐怖をマザーハーロットから感じない。やろうと思えばいつでもやれる、その考えがマザーハーロットに次を促してしまった。
それが未来を決定付ける選択とも知らずに。
マザーハーロットは小さく笑い、シャルバの耳元で囁く。脳を蕩けさ、理性を気化させる魔性の囁き。だが、それを聞き終えた瞬間のシャルバの顔は悪魔すらも逃げ出す程の恐ろしい顔付きなる。
「き、さ、まは……!」
言葉が途切れ途切れになる。怒りが昂ぶり過ぎて呂律が回らなくなっていた。それぐらいマザーハーロットの提案はシャルバの怒りを買うものであった。
「私を舐めているのかぁぁぁぁ!」
髑髏が描かれた片翅がシャルバの背中から生え、同時に放つ殺気が五月蠅なす。
無数の羽音が具現化し、シャルバの周囲に浮く塊──黒蝿の群れが生まれる。
触れれば対象を削り取る攻防一体の性質を持つこの世ならざる魔蟲。
「ホホホホ。力は付けたが、相も変わらず小さな器だこと」
激昂するシャルバを嘲笑すると体を預けていたマザーハーロットはシャルバの体指先で軽く押す。シャルバはその場に根付いているかのように微動だにしなかったが、反作用でマザーハーロットの方が後ろへ飛んだ。
それを待っていたかのように音もなく、気配もなく、匂いもなく出現する赤い獣。赤い獣は倒れ込んできたマザーハーロットの臀部に頭部を差し出し、マザーハーロットが着くと頭を後方へ振り上げ、彼女にとっての玉座である赤い獣の背に下ろした。
マザーハーロットと赤い獣。シャルバと黒蝿。共に眷属を付き従え、向かい合う。もし、彼らがその気になったのならば、現在彼らが居る『禍の団』の支部は巻き添えで壊滅することが約束される。それも目撃者も証言者も残らない完全なる壊滅が。
次のどちらの言動が知らず知らずのうちにこの支部に居る者たちの命運を握るという理不尽すぎる状況になっていた。
暫くの間、膠着状態が続いくが──
「どちらを選ぶにしても汝の自由。わらわは選択肢を与えただけに過ぎぬ。後は汝の好きにせよ」
──先に矛を下したのはマザーハーロットであった。戦う気が失せたかのように気付けば持っていた黄金の杯を傾け、中身を煽る。主人に続いて赤い獣もまた威嚇を止め、沈黙してマザーハーロットの玉座に徹する。
「……」
魔人の思考など最初から理解するつもりも無いシャルバには、マザーハーロットの言う助言──にもならない戯言は彼にとって非常に腹立たしい内容であった。今も腸が煮えくり返っている。しかし、これからすべきことを思うとその怒りも腹の奥底に押し込んでおくしかない。
無駄な戦いも消耗も抑え、果たすべき目的を果たす。
「……時間の無駄だったな」
シャルバは吐き捨て、マザーハーロットから離れていく。その間際にマザーハーロットは言った。
「無理矢理従わせなくともわらわの名を出せばあの子は従う。伝えるが良い。母は『従え』と言っていた、と」
シャルバのこれからすることを全て見抜いているからこそ出る発言。マザーハーロットを見るシャルバの顔は忌々しさと屈辱感で凶相と化していた。掌の上で踊らされているような感覚が酷く癇に障る。シャルバの怒りが伝播し眷属である黒蝿もまた無機質な赤い目に殺意を宿す。
数万もしかしたら億を超えるかもしれない殺意の視線を浴びせられながらもマザーハーロットは優雅に黄金の杯で一献。殺意の視線すらも心地良いとしている。
「ホホホホォ。ではな、シャルバ。汝の成功を祈っておるぞ」
あまりに白々しい台詞に寒気すら覚える。つくづく魔人と合わないことを実感する。
高笑いをしながらマザーハーロットは赤い獣に乗ったまま何処かへ去っていく。シャルバはマザーハーロットが完全に見えなくなるまで戦闘態勢を解除しなかった。
「──まあ、いい。好きにしろと言うのなら好きにさせてもらうだけだ」
マザーハーロットが居なくなり、シャルバは独り零す。
「せいぜい笑っておくがいい……最後に笑うのは──」
シャルバの口角が上がっていく。しかし、それが笑みを形作るまえに真一文字に戻った。
今はまだその時ではない。
◇
曹操は険しい表情で空の虹を見上げた後、一誠たちの方も見る。普段は人を喰った態度が多い曹操だが、この時は仲間のゲオルクが声を掛けるのを躊躇うぐらいに集中している。
曹操は迷っていた。予想外のイレギュラーに対する対処に。当初の予定ではこの場で一誠たちの相手をし、サマエルでオーフィスの力を奪った後死神たちに全てを任せて撤退する予定であった。
しかし、空の虹──デュリオが理由は不明だが居るとなると予定を大幅に変更する必要が出て来る。
デュリオの『煌天雷獄』とまともに戦えるのは今のところ曹操の『黄昏の聖槍』しかない。ゲオルクの『絶霧』も多少の時間稼ぎは出来るかもしれないが、それでもゲオルクが倒される可能性が高い──そもそもサマエルの制御でこの場から離れることは出来ないが。そして、それは待機しているジークフリートも同じ事。ハーデスの部下である死神たちは当てにならず論外である。
そうなると残された選択肢は一つしか残されていなかった。
「はぁぁ……」
曹操は頭を軽く搔きながら重い溜息を吐く。そこそこ付き合いのあるゲオルクは、曹操がかなりのストレスを感じていることをその動作で悟る。
「……ゲオルク」
「何だ?」
「ここは任せる」
曹操はこの場をゲオルクに任せ、デュリオの許へ向かうことを告げた。
「分かった。当初の計画とは大幅に変更する必要があるが、可能な限り全うしよう」
ゲオルクは曹操の決定に不服は無く、寧ろ肯定する。ゲオルクもまたそうならざるを得ないことが分かっているからだ。イレギュラーが発生し、予定変更をしなければならない状況。そこからの曹操の決断の早さにゲオルクはやはり自分たちのリーダーは曹操が相応しいと再確認する。
幾ら悩んだところで決められなければ意味が無い。必要なものは決断力。そして、全てを背負う覚悟。
「──ということだ。予定を早める」
ゲオルクがここに居ない誰かに向かって話し掛けている。
「投入は俺が離れる直前だ。手綱は任せたぞ、だいそうじょう」
曹操はそう言うと同時にいきなり一誠たちに背を向けた。
「残念だが君たちとの戦いはここまでだ! 聖槍の新しい輝きを見せられなくてすまない!」
曹操は言うだけ言って走り出し、前方に現れた濃い霧の中へ飛び込む。
「おい! 何だよ! いきなり!」
一誠は曹操の行動に文句を言うが、それが届く前に曹操は濃霧の中に消えてしまった。ゲオルクの『絶霧』による転移によるものである。
「……貴方一人で私たちと戦うつもりかしら?」
リアスが残されたゲオルクを睨みながら問う。サマエルも居るがほぼ磔状態でありオーフィスから力を吸収することに専念しているので脅威ではあるが戦力ではない。
サマエルを顕現させているゲオルクが一人という状況は、リアスたちにとってオーフィス救出の絶好のチャンスであった。
「──いや、選手交代だ」
ゲオルクがそう告げた瞬間、空間に歪みが生じる。
ブラックホールのような真っ黒な空間の穴。奥の見えない深い闇。すると、闇の向こうに小さな灯が見える。
「……火?」
一誠が初めに抱いた印象は小さな火。吹けば簡単に消し飛ばされてしまい火。その火は一誠たちが見ている前で徐々に大きくなっていく。
火が近付いてくる毎に一誠たちは自分たちの体に異変が起きていることに気づく。
「……え?」
手が小さく震えている。サマエルのときに似た悪寒や震え、まるで天敵に会ったかのような死を感じさせる恐ろしい感覚。
『まさか……!』
ドライグは近付いてくる火の正体に勘付き出す。そして、ドライグと同じく勘付いた者がもう一人居た。
「……てめぇら」
それが誰の発した声なのか一誠たちは一瞬分からなかった。声の方を見て一誠たちは言葉を失う。
アザゼルが怒っていた。本気で、心の底から激怒していた。今までアザゼルが怒った姿は何度か見た事がある。しかし、今のアザゼルの顔を見ればどれも本気で怒っていなかったことを理解してしまう。
それほどまでにキレたアザゼルの顔は恐ろしかった。
「そうか。やはり貴方なら気付くか。アザゼル総督」
「……限度を超えたぞ。お前らも、ハーデスの野郎も」
アザゼルの声はその形相とは裏腹に静かなものであった。だが、静かで冷静さを感じられるのにアザゼルの声が鼓膜に入る度に身震いが起こる。アザゼルに睨まれているゲオルクも顔面が蒼白になっていた。
しかし、それでもゲオルクは例え上っ面であったとしても気丈に振る舞う。
「その態度を見て安心した。……どうやらこれの翳りは無いようだ。恐ろしいことに」
ゲオルクの言葉の最後は一誠たちに届くことはなかった。それを掻き消す爆音が穴から放たれたからだ。
「うぐっ!」
「あうぅぅ……!」
「ぐっ……!」
誰もが耳を抑え、体を屈めてしまう大音量。一誠たちは初めて経験する。命を奪いかねない音を。
耳を塞いで音をシャットダウンしても尚、耳元で爆発が起こったのではないかと錯覚してしまう。
頭が割れそうな音を聞きながらそれが爆発音ではないことが段々と分かってくる。音量が桁違いだが、バイクのマフラーから発生する排気音──エキゾーストノートに良く似ていた。
黒い穴から飛び出したそれは、エキゾーストノートを空からまき散らしながら空中を走る。橙の炎が轍のように空に残り、その間も爆音を発し続けているので爆弾の無い空爆を受けているような気分になる。
空を駆けるそれは炎の塊──のように見えたが凝視していると段々と輪郭が見えてくる。
人型の炎がバイクの形をしている炎に跨っている。可笑しいと思われるかもしれないが、そうにしか見えなかった。
「……最悪だ」
『……最悪だな』
空を駆ける何かを見上げたアザゼルとドライグの声と感想が重なる。
「……いい加減制御してくれ。それは俺にも効く」
ゲオルクが表情を苦痛で歪めながら呟くと、爆走していた炎の周囲に何百もの梵字が発生し、連なったそれが帯のように炎を幾重にも縛り付ける。そうやってようやく炎の暴走は収まり、空中で静止した。
(ド、ドライグ……あれは一体何なんだよ……!?)
一刻も早くオーフィスをサマエルから助け出さなければならない状況下で投入された英雄派の新戦力。戦う前からそれがサマエルと同等以上に危険且つ強い存在なのが分かってしまう。
『相棒、すぐに禁手を使え。そうしないとすぐにやられる』
(ドライグ?)
『……俺たちと奴との相性は最悪だ』
忌々しそうに吐き捨てるドライグ。アルビオンとも能力が相反する筈だがアルビオンの時とは違い明確な嫌悪があった。
「……コキュートスの最下層に封じられた魔人の一体。その魔人が走り抜けた跡に残るのは炎の轍と葬られた者たちの灰と死。怒り狂う獄天使──ヘルズエンジェル」
それは嘗てアザゼルたちが命懸けで封じた魔人の名。撃退することに成功したが、アザゼルたちに深い爪痕を付けていった忌むべき存在。
「これは封じられたヘルズエンジェルから抜き取った炎だ。流石に本体を持ってくることは出来なかった。尤も、本体だとだいそうじょうでも操ること不可能だが。だが、魂の無い力のみならば同じ魔人であるだいそうじょうでも制御出来る」
魔人が魔人を操る。ヘルズエンジェルの状態と魔人同士が敵対的であることが可能にした反則。
「言わばこれはヘルズエンジェルの写し身──」
「……ふざけんなよ」
戸惑う一誠たちを他所にアザゼルは空中に留まっている炎の塊を見上げて──
「ふざけんなよっ!」
──怒りを大爆発させる。感情が一周回って静かにキレていたアザゼルであったが、炎を見て遂に感情を押し留めることが出来なくなり、感情がもう一周して張り付けてあった冷静さが焼け落ちる。
「そいつを封印するのにどんだけの血が流れたか知ってんのか!? どういう形であれお前らみたいな奴らが簡単に扱っていいもんじゃねぇんだよ!」
アザゼルの憤怒の矛先はこの場に居るゲオルクへ向けられる。その射殺さんばかりの眼光は凄まじく、ゲオルクですらその場から無意識に後退る程であった。
「お前らだけじゃねぇ! ハーデスの野郎も関わっているんだろ! お前らも魔人も神もくそったれだ! 強い奴、偉い奴も好き勝手するのもいい加減にしておけよ! てめえの都合で世の中混沌にしてんじゃねぇ!」
一誠たちが啞然としてしまう程のアザゼルの感情的な叫び。しかし、アザゼルとあの火との因縁を知る者ならば妥当と言えるもの。故に彼の心情に同調して動く者がいた。
「きゃ!」
アーシアが短い悲鳴を上げた。彼女の足元から伸びる影が盛り上がり、そこから単眼の魔象──ギリメカラが現れる。基本的に怠惰で自主的に動くことが稀な──今もピンチだというのに全く手を貸さなかった──彼が動いたことに驚く。
「ギ、ギリメカラさん?」
パオ
恐る恐る尋ねるアーシアにギリメカラは一鳴き。意味は「手を貸してやる」というもの。頼もしく思う反面、事態はそれだけ不味い方向へ進んでいることを意味している。
「イッセー!」
「は、はい!」
アザゼルの余裕の無い呼び掛けに一誠は慌てて応じる。
「オーフィスには悪いがあいつを先にやる! というかやらないと俺たちが死ぬ! 手を貸してくれ!」
オーフィス救出を後回しにしてあの人型の炎を倒す。その判断に異を唱える者は居なかった。誰もが分かっているのだ。あの炎の危険性を。
「ドライグ! 行くぞ!」
『──用心しろ。あいつも凶悪だ』
「──それでもやるさ」
既に泣き言も怯えることも許されない。ならば全力で前に突き進むしかない。一誠の意思に応えて『赤龍帝の鎧』が装着される。だが、相手が恐るべき魔人故に出し惜しみをしない。
「我、目覚めるは王の真理を天に掲げし、赤龍帝なり!」
真なる『女王』に至る為の呪文。
「無限の希望と不滅の夢を抱いて、王道を往く! 我、紅き龍の帝王と成りて──」
切り札を切ることに躊躇いが無いと言えば噓になる。まだ、曹操も控えているし『龍喰者』のサマエルも居る。しかし、ここで生き残られなければ意味がない。そして、何よりものリアスたちを守る為に全力を尽くさないでいつ尽くすというのか。
「汝を真紅に光り輝く天道へ導こうーッ!」
『Cardinal Crimson Full Drive!』
赤の鎧が真紅へと変わり、一誠の力が跳ね上がる。『覇龍』とは異なる一誠だからこそ辿り着いた『女王』の力を我が物にした新たなる力──『真紅の赫龍帝』。
禁手を終えた一誠は翼を展開して飛翔し、ヘルズエンジェルの写し身と同じ高度まで上昇する。
「それが赤龍帝の新しい力か……!」
ゲオルクは、一誠の姿に敵対する立場であることを一瞬忘れてしまう程に強い関心を抱くと同時に冷や汗を流す。好奇心と恐怖の二つが強く刺激され、普段は冷静沈着なゲオルクも心の乱れを感じていた。
影響はゲオルクだけでなく他にも及ぼす。
先程まで怖気立つ絶叫を上げていたサマエルが、一誠の禁手化をすると絶叫を止め、拘束衣で封じられている瞳を確かに一誠の方へ向けた。一瞬正気に戻ったのかと思いきや、すぐに狂気に侵食され、再び聞くに堪えない絶叫を上げる。
魂の無いヘルズエンジェルの写し身もまた『真紅の赫龍帝』の出現に炎の体を大きく揺らめかす。魂は無くともその体は赤龍帝のことを憶えているかのように。
だからこそ、ヘルズエンジェルの写し身は真っ先に動く。誰よりも速く、早く、迅く。その肉体が予め仕込まれていたプログラムのように強敵に反応してしまった。
ヘルズエンジェルの写し身は身を翻し一誠たちに背を向ける。何気ない動作のように見えたが、その様子を見たドライグが叫ぶ。
『不味い!』
ドライグの叫びが脳内に響くと同時に一誠の体はほぼ無意識に行動を起こしていた。今までの戦闘経験、特訓により身に染み込んだ戦闘手順が一誠の意思よりも先に働く。
両腕にチャージされる赤いオーラ。両翼から砲身を展開させた方が高い威力の砲撃を行えるが、一誠の直感がこちらを選択する。
瞬時に充填された魔力を放つ為に構えようとする一誠であったが、その背中に悪寒が走る。
前以って記しておくが一誠の行動に何一つ不備はなかった。それどころか今までの中で最もスムーズ且つ迅速な行動と言える。
だが、そんな一誠よりもヘルズエンジェルの写し身の方が速かった。
『来るぞぉぉぉ!』
その瞬間、一誠の視界に広がる灼熱地獄。ヘルズエンジェルの写し身が跨るバイクのマフラーから噴き出した炎が壁になって一誠へ迫っている。
見ているだけでただの炎ではないことが分かる。灼熱と獄炎を前にして背筋が凍る思いをするのは一誠も初めての経験であった。しかし、その地獄の炎に焼かれたらどうなるかは知っている。嘗てコカビエルと戦った時、一誠はコカビエルの体を焼き続けるヘルズエンジェルの残り火を見た。
写し身とはいえヘルズエンジェルには変わらない。ヘルズエンジェルに焼かれれば死ぬまで焼き尽くす──もしかしたら、死んでも焼かれ続けるかもしれない。
そんな最悪の結末を迎えたくないし、誰にも迎えさせない。だが、現実は一誠に難問と苦難を与える。
ドラゴンショットでは間に合わない。だからといってそれ以外の攻撃では押し負ける。
今までの過程を嘲笑うかのような問答無用の攻撃。
何をすべきかと迷う一誠の脳裏に浮かぶ光景。天啓と呼ぶべきそれは過去の経験が齎してくれたもの。
「おおおおおおっ!」
一誠はオーラが充填された右拳を獄炎目掛けて突き出す。ドラゴンショットの為にチャージされていた魔力が、突き出された拳に乗って放たれた。
赤い閃光が一瞬町を覆った後、空には二つに割かれた炎が走る。
「ぐ、ぬうううううう!」
サイラオーグがレーティングゲームで見せた闘気を拳に乗せて放つ技。それを一誠なりに再現している。オーラの収束がいまいちであり一点に集中していないなど無駄な部分がある未完成の一撃だが、一先ず食い止めることには成功している。
しかし、このままやっていても力負けすることは拳に伝わってくる感触から分かっている。故に右拳の攻撃は時間を稼ぐ為のもの。出来るだけ粘り続け、左拳に溜め込んだ魔力をより圧縮させ無駄をなくす。
「ぐ、くぅぅ!」
『堪えろ、相棒! ──くそっ! 相変わらずなんて熱量だ!』
フェニックスの炎でも耐えることが出来る龍の鎧。しかも、数段パワーアップしている状態だというのにヘルズエンジェルの写し身が放ち続ける炎の熱を感じる。直接炙られている訳ではないはずなのに一誠の全員からは汗が噴き出し続けている。
見ているだけで想像が付く。この炎が何度も耐えられるものではないと。同時に『真紅の赫龍帝』になったことが最適解であった。『赤龍帝の鎧』では一度耐えられるかも怪しい。
発射し続ける魔力を伝って地獄の炎の熱が一誠の拳を熱し始める。魔力を伝導する熱など本来ならばあり得ないことなのだが、魔人という超越した存在を前にはそんな常識など語る方が愚かなのだ。
「っ二発目ぇぇぇ!」
限界まで溜め切った一誠は右拳を引くと同時に左拳から魔力を撃つ。最初の一撃で半ばまで二つに割れていた獄炎が二発目により真っ二つになった。
獄炎の先に待つのは背を向けているヘルズエンジェルの写し身。一誠の魔力がその背中を貫く──ことはなかった。
攻撃の接近を感じ取ったヘルズエンジェルの写し身が行ったのは高速のターン。その場で一回転するというだけのものだが、それをヘルズエンジェルがやればたちまち攻撃手段へと変わる。
空気も音も全て巻き取ってしまったかのような高速ターンにより振り回された前輪が一誠の魔力を弾き飛ばす。
獄炎を裂く為に威力が多少減衰しているが、それでもまるで小石でも弾くかのように呆気なく一誠の魔力が霧散する。
「遠い……!」
全力でも届かなかった。ただの力の塊だがそれでも実力の差がある。心をへし折りに来るような差には既視感がある。初めてヴァーリと戦った時やマタドールやトールとの時のような、頭の片隅で『敵わない』と囁き続けられる感覚。
「……良かった」
だが、そんな中で吐かれた言葉は絶望とは真逆のもの。
「強い奴ばっかと戦ってて良かった!」
強者たちとの戦いに心から感謝する。おかげで肝心な時に震えずに済む。
既に屈するような柔い精神など今の一誠には無い。強敵との死闘と勝利が彼の中に折れない芯を作り上げていた。
気合いを入れ直し再度ヘルズエンジェルの写し身に挑もうとするが、その勢いを挫くような事が起きる。
「──しまった!?」
一誠は見てしまった。押し返したヘルズエンジェルの写し身の炎。それが空中で散らばり火の粉となってリアスたちに降り注ぎ始めたのを。
バーナーのような勢いの強い噴射ではなくひらひらと散る火の粉。しかし、火の粉になったとしても元はヘルズエンジェルの炎。触れればただでは済まない。しかも、広範囲に細かく散っているので逃げ場も無くなっている。
リアスたちの救出の為に動こうとした時、凛とした声が一誠の耳に届く。
「ここは私にお任せを!」
レイヴェルが前に出ると炎の翼を広げ、両手を翳す。両手から放たれた炎に風が織り込まれて全員を守る壁を作り上げた。
物理的な衝撃には弱いが耐炎に関しては最上級に近いフェニックスの障壁。それを以ってヘルズエンジェルの炎を防ごうとする。だが、レイヴェルはまだ守りの完成度に満足していない。
「黒歌さん! ルフェイさん! 術による防御を! 小猫さんも可能なら黒歌さんのサポートをして下さい!」
不測の事態を可能な限り抑える為、レイヴェルは一刻を争う状況下で的確な指示を飛ばす。彼女もまた元七十二柱に名を連ねる悪魔らしく上に立つ者としての資質を魅せる。
ルフェイの指示が正確なものであると即座に判断するとレイヴェルに言われた通りに黒歌とルフェイは彼女の背後に立って仙術と魔術による防御態勢に入り、小猫も普段はいがみ合っているレイヴェルの指示に文句一つ言わず確執のある姉の傍に寄りいつでも彼女をサポート出来るようにする。リアスたちは可能な限り密集し、レイヴェルの守りの範囲を狭めて負担を減らす。また、リアスは密かに力を溜め、いつでも滅びの力で迎撃出来るようにしていた。
舞い散る火の粉が建物に触れる。その瞬間、小さな火の粉は餌にありついたかのように建物を貪り大炎上。瞬く間に一軒家を呑み込む大火と化す。周囲でも似たような状況になっており、ゲオルクが創造した結界内の建物は次々と炎上。リアスたちの周囲は火の海と化す。
「……一歩間違えれば俺も丸焼きだな」
幸いにも火の粉の範囲外に居たゲオルクは、建物が燃え盛る光景を見て険しい表情をする。ヘルズエンジェルの写し身を使用することにゲオルク自身は乗り気ではなかった。強過ぎる力は諸刃の剣になり得る。しかも、それを操るのは同じような諸刃の剣。いつ我が身を切り裂く刃と化す分からない組み合わせは大きなリスクしかない。
しかし、曹操はそれを分かっていながらも実行した。巨大な相手に挑むにはそれ相応のリスクを背負ってでも勝負するしかないと判断したのだ。
ゲオルクは魔人を信用しておらず基本的には距離を置いている。それが正しいと思っている。曹操はだいそうじょうと、レオナルドはマザーハーロットと親しくしている様子だがいざという時には第三者の自分が引き離すのが役目だと自負していた。
内も外も油断ならない。しかし、今はやるべき事に集中する。
サマエルの維持をしつつ、オーフィスの力の吸収を見守る。
ゲオルクは視界の隅で皆を守護しているレイヴェルを捉えた。彼女が展開している炎と風の守りにヘルズエンジェルの火の粉が触れる。
「……ご愁傷様だ」
火の粉とはいえ地獄の業火。それに触れるということがどういうことなのか。後に起こる苦難を想像し、ゲオルクは敵ながら同情の言葉を送った。
◇
密かにゲオルクから哀れの視線を向けられていることを知らないレイヴェル。尤も、今の彼女にはそれに気付く余裕など無かった。後ろに立つリアスたちを守る。そのことだけに意識を集中している。
(大丈夫……いける、いけますわ!)
自らを鼓舞し、ヘルズエンジェルの写し身が撒き散らす火の粉とレイヴェルが作り出す対炎用の障壁が接触する。
「ヒホ! ヒホ! 溶けちゃうホ!」
「じゃあ、ここに隠れてなよー」
ジャックフロストが降ってきた火の粉にパニックを起こす。ピクシーがケルベロスを目で指す。ジャックフロストは慌ててケルベロスの腹の下に潜り込む。火に強いケルベロスを避難場所とした。
パニックになる者も居たがレイヴェルの目論見通り火の粉が障壁を突破することはなかった。これにはリアスたちもレイヴェルを褒め称える。
「流石フェニックスね!」
「同じ炎なら負けないということですね」
災厄のような炎から身を守ることが出来たことに安堵するリアスたち。レイヴェルもまた火の粉を防げたことに静かに溜息を吐いたのだが──
「──ッ!」
レイヴェルは小さく声を漏らす。翳している両手、その指先に感じる微かな違和感。むず痒さに似た微かなそれは最初は気のせいだと思おうとしたが、すぐにはっきりとした感覚となって指先を伝ってレイヴェルの脳内に届ける。
(何ですか、この感覚は……!? 痛み? いえ、それとは違うような……)
初めて経験する感覚に戸惑う。やがて、痛みは鋭敏になっていき──
「うぅ……」
レイヴェルの口から小さな呻きへ変換される。
呻いてしまったレイヴェルは慌てて口を閉ざす。誰かに聞かれていないかと思ったが、幸いにも皆ヘルズエンジェルの写し身の方に意識を向けていたせいか耳に入ってはいなかった。
一先ず安心、という訳にもならない。今もレイヴェルの両手には未経験の痛みがより激しさを増してレイヴェルの神経を苛む。
手を翳すことを反射的に止めてしまいそうになる。冷や汗が出そうになり、ついでに涙も出そうになってくる。だが、レイヴェルは耐える。今にも決壊しそうになるそれを耐えさせているのは、レイヴェルが今までの人生の中で培ってきたプライドによるもの。
しかし、その高いプライドすらも挫こうとするヘルズエンジェルの炎。レイヴェルは自分を蝕む痛みの正体についてある答えを出す。
(まさか……これが……『熱い』ということですの……!)
レイヴェルにとって笑い話にもならない。フェニックスである自分が、炎と風を司る筈の悪魔がその炎によって身を焦がされているのだ。
焼かれていくという恐怖。しかし、レイヴェルはそれをおくびにも出さず、痛みで思考が麻痺してしまう前にこの窮地を脱する方法を考える。
間もなくしてレイヴェルは閃き、即座に実行。
レイヴェルが張っていた障壁が内側から膨れ上がる。守る為に使っていた火と風の比率を変えた結果であった。
次の瞬間には障壁が破裂するように裂け、纏わりついていたヘルズエンジェルの火の粉ごと遠くへ飛ばされていく。
「──お怪我はありませんでしたか?」
レイヴェルは振り返り、優雅に微笑みながらリアスたちの様子を伺う。ヘルズエンジェルの火に焼かれて爛れた掌を上手く隠して。普通ならばとっくに治ってもおかしくない傷だが再生が遅い。恐らくはヘルズエンジェルの炎が再生を阻害していると思われる。
「凄いです! レイヴェルさん!」
アーシアがレイヴェルの活躍に感動している。レイヴェルはそれに柔らかく微笑む。すると、レイヴェルの横に小猫が無言でやって来てさりげない動きでレイヴェルの手に自分の手を触れさせた。
「こ、小猫さん?」
「──黙って。バレたくないでしょ?」
瘦せ我慢をしていても小猫の目にはレイヴェルの気の乱れが見えている。ヘルズエンジェルの炎は生命を著しく害するのがレイヴェルの消耗から分かった。彼女がフェニックスでなかったのならもっと傷が深かったかもしれない。
小猫はレイヴェルに触れ、自分の気を流して乱れているレイヴェルの気を正す。
レイヴェルは心なしか掌の痛みが弱まっているのを感じた。
「──意地っ張り」
「なっ!?」
「──でも気持ちは分かる。……私も意地っ張り」
反り合わないと思っていた相手からの思わぬ言葉にレイヴェルは何と言っていいのか分からず照れくさくなって目を逸らしてしまう。ただ、触れられている手を離すことはなかった。
レイヴェルの頑張りのおかげでリアスたちは危機を乗り越えたが、飛び散った火の粉のせいで周りは火の海に変わろうとしている。それを空中から見下ろしていた一誠は、地獄のような光景だと内心で吐き捨てた。
(早く倒さないと皆丸焦げになっちまう!)
元から全力で戦うつもりだったが、時間的な余裕も無いことを再認識し、一誠はヘルズエンジェルの写し身にもう一度全力の攻撃を撃ち込もうと考える。
その時、ヘルズエンジェルの写し身が不審な行動に移る。バイクのスロットルを何度も回すジェスチャーを繰り返す。回す度に唸るエキゾースト。
何かが不味いと感じた時、一際大きなエキゾースト音が響き渡り、それが衝撃となって一誠を襲う。
「くっ!」
空間の歪みのようなものが迫ってきたので反射的に防御を固めた。全身を打つ不可視の衝撃。だが、先程の炎に比べれば耐え切れない程ではない──そう思っていた。
「──あっ」
何かが体から抜けていくのを感じた。ヘルズエンジェルの写し身が放った衝撃波に押し出されたかのように。そう認識した瞬間、一誠は体に重量感を覚える。今まで当たり前のように纏っていた鎧の重さ。それがどういう訳か一誠に圧し掛かってきた。
体調の変化は一誠だけではない。衝撃の余波を受けた木場たちもまた自分の体に今まであったものが無くなったかのような、体の内側が空になった変化が生じていることに気付く。
変化を感じていないのはリアスとアザゼル、そしてシンの仲魔たちだけ。
違和感の正体。それはすぐに知ることとなる。
『Reset』
「噓だろ……」
それは倍加による強化が解除されたことを告げる音声。
一誠は思い出す。ヘルズエンジェルの写し身が現れる前に言ったドライグの言葉を。
『……俺たちと奴との相性は最悪だ』
その言葉の意味を理解する。
ヘルズエンジェルの写し身が放つエキゾーストは全てを吹き飛ばす。それは文字通りであり物体的なものであったり、形のないものであったり。例えそれが体に付与された強化であったとしても吹き飛ばし、強制的に解除してしまう。
魔人ヘルズエンジェル。十体居る魔人の中で赤龍帝にとって最悪の天敵である。
悪魔の駒の強化は回数制限有りのオートカジャ系で解除されても自然に戻る。
一誠の倍加は無制限の半オートのカジャ系で解除されると一誠の意思で倍加をスタートさせる必要がある、というイメージで書いています。