業火を纏い、部室で見せたときの比では無い程の威圧感と殺気を合わせ、場の空気が一瞬に支配された。このときになってようやく、一誠はライザーという悪魔を恐ろしいと感じた。女好きで傲慢な表情の更に奥にある悪魔の表情、その一端を一誠を含める全員が触れていた。
だが、その脅威を前にしても一誠は自らを奮い立たせ、周りに少しでも自らの意志が伝わる様に腹の底から声を張り上げる。
「『赤龍帝の籠手』!」
『Boost!』
籠手の宝玉から音声が生じ、倍加が始まる。続けて一誠は、相手の本陣へと到着したことで発動できる『兵士』の能力を解放した。
「『プロモーション』!『女王』!」
実戦では初めて試みる『女王』へのプロモーション。以前の一誠ではその力に耐えられる器が整っていなかったが、日々の特訓と合宿の成果によって、それに至れるまでに成長をした。
「仕掛けるわよ! イッセー!」
「はい!」
リアスの手の中で紅い魔力が発生し、それが球状に変化する。リアスは一度一誠に視線を送ると、一誠はその視線に込められた意図を察して頷く。
「先手はこちらが貰うぞ」
ライザーは翼を広げると、屋上から両足が浮き、空中へと飛翔し始める。ただ飛び上がっただけであるというのに、ライザーの周囲では炎が渦巻き、その熱によって屋上の床の材質が変色を始める。
地面から数メートルの高さまで上がると、そのまま一気にリアスたちに向かって急降下を開始した。
それを見たリアスはすぐに手の中の魔力の球をライザーへと向かって放つが、それを見てもライザーは回避する動作をせず、そのまま真紅の魔力に頭から突っ込んでいく。その二つが接触したとき、真紅の発光と炎が辺りに散っていく。
ライザーの行動に驚く一誠であったが、次に見た光景に更なる驚きを覚えた。真紅の魔力と紅蓮の炎の中から飛び出してきたライザー。しかし、その下顎から上が完全に消失しており、並びの良い白い歯と赤い舌が外気に晒されていた。それにも関わらず飛翔するライザーの速度は一向に緩まず、リアスと一誠の間を迅速に通り抜けていくと、リアスたちの背後に回り込む様にして再度高く上がる。
リアスが振り向いてライザーの位置を確認したとき、それが意味することを一瞬にして悟り、なりふり構わない大声を出す。
「アーシア! その場から急いで逃げなさい!」
「えっ!」
ライザーの居る位置、それは危険が少ないよう後方へと待機させていたアーシアとリアスたちとの中間点であった。
顔を消失したライザーの右手が持ち上がると、そのまま自分の足元に向かって横薙ぎに一閃。少しの間の後にアーシアとリアスたちを区切るかのように、橙色の線が屋上の端から端まで走る。
地響きを彷彿とさせる重い音が屋上に響き渡り、そして思わず耳を蓋ぎたくなるような擦れる音。そこから先はまさに瞬きの間の出来事である。
突如としてアーシアの立つ位置が低くなる。何が起きたのか理解できない一誠であったが、アーシアの身に危険が迫っていると判断し、急いでアーシアの下に行こうと走り出すが、その目の前でアーシアの居る一角が下へと滑り落ちる。
橙色の線は良く見れば屋上の床が赤熱化して変色したものであり、そこが飴細工の様にコンクリートの糸を引きながら下の階へと崩落していく。
ライザーの一振りによって屋上が焼き切られた。
「アーシア!」
「イッセーさん!」
一誠は咄嗟に手を伸ばし、アーシアも一誠に手を伸ばすが僅かに届かず、アーシアは落ちていく屋上の一部分と共に、落下によって舞う土煙の中へと消えて行った。
「悪いな。力の無い相手、ましてや女に手を出すのは個人的には趣味ではないんだが――あまり長引かせると手痛い反撃を貰いそうだからな、取り敢えずキミたちの『回復』を断たせて貰った」
一誠は怒りを込めた視線を声の方へと向け、唖然とする。先程まで下顎から上が消失していた筈であったが、まるで最初から何事も無かったかのように頭部は元の状態に戻っており、屋上を焼き切った方の手で髪を撫でつけ形を整えている。
「てめぇぇぇ! よくもアーシアを!」
「吼えるなよ、赤龍帝。まだリタイヤの放送はされていないぞ? 何なら助けに行ってやったらどうだ? リアスを置いてな」
激昂を挑発で返すライザーに一誠は拳を握りしめ、今にも飛び掛かりたくなる衝動に駆られるが、同時にライザーから聞かされたリタイヤをしていないという言葉がそれを急速に冷ます。
「その怒り様、お前にとっても大事な娘なんだろ? それなら救いに行くのが筋じゃないのか? それとも見捨ててリアスを選ぶか?」
この台詞全てが自分を惑わす為の言葉であることは一誠も分かっている。確かにアーシアは自分が守ると心に誓った少女であり、今すぐにでも助けに行きたい。だが、リアスも一誠にとって守るべき存在であるのも事実。ここでアーシアを助けに行けば、消耗しているリアスに一対一で戦わせるという状況になってしまう。それに背を向けてアーシアを助けに行くことは出来ない。
苦悶し、答えの出ない答えを探す一誠。そこにライザーは追い打ちとばかりに更なる揺さぶりを掛ける。
「赤龍帝。あんなか弱い『僧侶』の少女を独り――」
その先を言う前にリアスの手から放たれた紅い魔力がライザーの頭部へと炸裂し、今度は下顎から上だけでは済まず、首から上が完全に消し飛んだ。
「ライザー、戦いの最中におしゃべりとはいい度胸ね」
不快感と軽蔑を隠そうとしないリアスに、ライザーの首の無い体がからかうように指を一本立て左右に振る。すると首から炎が吹き出し、頭部があった部分にまで昇ると、そこで炎が形を変えていく。揺らぐ炎が骨と肌となり、目、鼻、口、耳、頭髪を次々と作り上げ、炎の揺らぎが無くなったときには、傷一つ無いライザーの顔がそこにあった。
軽く首を回し、噛みあわせを確かめるように顎に手を当て動かす姿を、一誠は信じられないものでも見るような視線で見る。事前に不死身であると聞かされていたが、一誠の常識の中で頭を欠損して生き返る存在などまず居ない、それなのにライザーはそれを二度も実践している。目の当りにしてみて初めて理解する不死鳥の再生能力の異常さ。
「イッセー! アーシアの下に急ぎなさい!」
思いもよらないリアスの言葉に、ライザーの再生に驚愕していた一誠はその上に更なる驚愕を重ねる。リアスはこの場から離れろと言っているのだ。
リアスの指示にはライザーも反応し目を細める。ライザーにとってリアスの指示は悪い意味で予想外のものであった。
「部長! それだと――」
「少しの間なら私一人でもライザーは抑えられるわ。その間にアーシアを助けてきなさい、イッセー。……彼女は今の私たちの要、無くてはならない存在よ」
リアスの言葉に一誠は迷う。このままリアスの好意に甘んじてしまえばアーシアを助けることが出来る。だが、それが本当に正しいことなのか。正しければ何故自分はこんなにも迷うのか。胸の奥の表現し難い感情が一誠の想いを締め上げる。
「部長……俺は……!」
『部長さん……イッセーさん……』
通信機から聞こえるか細いアーシアの声。
「アーシアか! 無事なのか!」
『私は……大丈夫です……』
痛みに耐えているのか話す言葉に所々不自然な間が開く。明らかに何らかの怪我を負っている。
「アーシア! 俺が――」
『イッセーさんは……そこで……部長さんの為に……戦って……下さい』
助けに来ることを拒み、リアスと共に戦うことを懇願する。
『私も……すぐに……そちらに……向かいます……だから……だから……』
「……分かった、アーシア。俺はここで部長と一緒に戦う! そしてアーシアが来るまで待つ!」
アーシアの願いを受け止め、一誠はそれに応じた。
一誠の口の端から血が流れる。それは強く唇を噛み締めたせいで破れたせいであった。
『はい……待っていて……下さい……』
最後にそう言ってアーシアは通信を切った。
「アーシア……本当に強い子だよ……」
尊敬の意を以って呟いた一誠は、頬を挟むようにして両手で強く叩く。それは自らの気持ちを切り替える為のものであった。
「部長、聞いての通りです……すみません、迷ってしまって」
「いいのよ。イッセー……アーシアの為にも戦いましょう」
そんな二人のやり取りをライザーはただ静観する。戦いの場に相応しく無いやりとりに呆れているという訳では無く、言葉一つ一つから何かを得るといった、観察者を彷彿とさせる淡々としたものであった。
「自分のことより眷属のことを優先させようとするか……」
言外に何かを含ませる。リアスはそれを嘲りと感じたのか視線を鋭くしライザーを睨みつける。ライザーはリアスの視線を受け、おどけるように肩を竦めると薄い笑みを浮かべた。
「リアス、レーティングゲームの経験者として一つ忠告しておこう。ゲームに於いて『優しさ』を持ち出すのは決して悪いことじゃない。だが、使い所を見誤ってはいけないな。見誤ればそこにつけ込まれる。こんな風にな!」
言い終えた途端ライザーの右手から炎が巻き起こり、螺旋を描きながら一誠へと襲い掛かる。一誠が身構えるがそれよりも早くリアスが放った魔力の弾が炎を相殺した。しかし、それに安堵する暇も無くライザーが一気に一誠との距離を縮めると、紅蓮の炎に包まれた左手の掌打が繰り出される。それを咄嗟に左腕の籠手を突き出し防御する。
鈍い打撃音。一誠の倍加はまだ完全ではない状態であるが『女王』にプロモーションしたことで『兵士』のときとは比べものにならない程身体能力は向上している。それでもライザーの一撃は重く、骨まで貫かれていく衝撃があった。
そして、燃え盛る炎は籠手越しでも、皮膚が爛れていっているのではないかと感じてしまう熱が込められており、防ぐ一誠の額には痛みと熱さによって汗の玉が浮かんでくる。
一誠はこの状態のまま反撃に移ろうと右手に力を込めようとした瞬間、それを見越していたのかライザーの左手が籠手を鷲掴みにする。
「熱ッ!」
「フェニックスが司る炎と風。その意味を知れ!」
風が動き始める。その勢いは激しく一誠とリアスの髪を靡かせるが、その中心にいるライザーには無風の中に居るかの様に全くの影響がない。動く風がライザーの掴んでいる左手に一気に収束していった、次の瞬間――
一誠の左腕を中心にして爆炎が放たれる。
周囲を包み込む炎の中から飛び出してきた一誠が背中から屋上のフェンスへと叩きつけられ、フェンスの形が激しく変形した。
一誠の左腕の『赤龍帝の籠手』自体には変化は無いもののその隙間からは白煙が昇り、その下の被害を暗示していた。
ライザーも炎の中から飛び出し、追撃の蹴りを放つ。
『Boost!』
一誠の籠手から更なる倍加を告げる音声が流れ、向上した力でその蹴りを両手で真っ向から受け止めた。その姿をライザーは意外そうな表情で見ていたが、すぐに表情を引き締めると、背後に向かって己の右腕を振るう。すると、隙を見て放ったリアスの魔力と接触し、その右腕は肘から下が粉砕されるものの、すぐに肘から炎が噴きだし無くなった腕を再生した。
その間にひしゃげたフェンスから身を起こした一誠の拳がライザーの頬にめり込む。その威力によって首が真横に折れるが、その眼は揺らぐことなく一誠を凝視し離れない。しかし、今度はリアスの方がライザーへと接近すると、その両手の中で紅く煌めく魔力をライザーの胸部へと直接押し込む。
ライザーの背中から魔力が突き抜けていくと、正面から背後の景色が見える程の大穴が胸部に開く。それでもライザーの表情に苦痛の色は無く、折れた首のまま胸部へと両手を押し付けているリアスの手を掴むとそのまま適当な場所へ放り投げ、一誠の方は防御の甘い脇腹に爪先で蹴りつけ、そのまま捩じり込むようにして蹴り抜く。それにより一誠は二転、三転と屋上の床の上を跳ねていき、リアスとの距離が離れていく。
離れた二人の中間点に立つライザーは、自分の手で自分の顔を掴むと、折れた首を真っ直ぐに直すのではなく、爆炎を放ち自ら頭部を爆砕した。
ライザーの行動に息を呑む二人であったが、数秒も経たずしてライザーの頭部は元通りに復元される。
「この方が早い」
不死ゆえの治し方に一誠とリアスも流石に戦慄した。それと同時に考えてはいけないことを考えてしまう。本当に倒しきれるのか、ということを。
二人の反応はライザーにとって狙い通りの反応であった。肉体だけでは無く精神も攻める戦い方、一筋縄ではいかないレーティングゲームにおいてそれは重要な要素であり、不死というメリットを最大限に生かせる戦い方であった。積み上げてきたものを一気に崩す再生能力は、奮い立つ戦意を折るのにこれ以上無い程の威力を発揮する。
「だったら何度でもやってやらぁ!」
それ故に戦意を失う事無く向かって来る一誠の姿はライザーにとっては意外なものであった。
顔目掛けて大振りで放たれる左のフックを後ろに顔を逸らし紙一重で避けると、お返しと言わんばかりに一誠の鳩尾に拳を捩じり込む。体内の酸素を強制的に吐き出され、それに苦鳴を混ぜたものが一誠の口から洩れるが、それでも膝を着くことなく今度は右腕を下から突き上げてくる。
拳の握り具合から皮膚の皺まではっきりと目視出来るライザーの動体視力を以ってすれば、それを避けるのは先程と変わらず造作も無いこと。
『Boost!』
しかし、それを覆す天啓の様な音声が籠手から再び鳴り響く。現段階から更に倍となった身体能力から繰り出された拳は途中から急加速し、見事ライザーの顎を打ち抜く。
「……厄介だな」
顔面を仰け反らした状態でライザーは一誠をそう評価する。
「へっ! 『赤龍帝の籠手』を甘く見るなよ!」
一誠はライザーの言葉を『赤龍帝の籠手』を指したものであると解釈したが、実際は違う。ライザーが評価したのは一誠の精神であった。圧倒的不利な状況でも消極的にならない態度、痛みや苦しみを恐れず立ち向かってくる無鉄砲ともとれる直情性。それは想いを力に変える『神器』を持つ者にとって、最高とも言える逸材である。
そして、その精神や足掻きは仲間にも伝播し、心を奮い立たせ、傾く流れを引き寄せようとする引力があった。
ライザーは猛禽類を思わせる瞳でリアスを見る。奮戦する一誠を見て、自分もするべきことをしようとする気迫があった。それと同時に、その気迫の中に潜む僅かな陰りを、ライザーは見逃さなかった。
ライザーは首を仰け反らせた体勢のまま、一誠の胸板に靴底を叩きつける。前方からの強い力に押された一誠は屋上の床を滑るように飛ばされ、ライザーとの距離が数メートル離れるとその場で胸を押さえ、乱れた呼吸をする。
ライザーの視線が一誠を離れ、再びリアスへと向けられる。一誠の傷付く様子を見てさっきの陰りがより濃いものとなる。
その反応を見たときライザーはこのゲームの勝利を確信する。
戦う前にライザーは本気で戦うことを宣言した。それはただ単に力で捻じ伏せるということではない。戦いの進め方によって与える相手への精神の圧迫、ライザーは力によって一誠を下し、精神によってリアスを下す。
一つの戦いで二つの勝利を得る。それこそがライザーにとって手加減を一切抜いた戦い。
『この勝負はリアス・グレモリーの投了〈リザイン〉によって幕が落とされる』
それが勝利を確信したライザーの未来図であった。
◇
あれからどれほどの時間が経ったのであろう。
床へと垂れていく自分の血の雫を見ながら、一誠はぼんやりと考える。
観戦している側からすれば、一誠が屋上に到達してから十数分程しか経過していない。だが、その渦中にいる側からすればその何倍もの密度を感じていた。
既に『赤龍帝の籠手』の倍加も限界値まで到達し、一誠の能力を最高にまで高めている。しかし、それでも一誠の力はライザーには及ばない。
「ぐわっ!」
振り下ろされたライザーの拳が一誠の頬にめり込み、その口から血を飛ばす。倒れまいと踏ん張る一誠の脚を容赦なく蹴りつけ、前かがみになって倒れていく一誠の髪を掴みそれを止めると、今度は左頬を殴り飛ばし、床に血反吐の線を描いて一誠の身体が転がしていく。
転がり終わって仰向けになっている一誠の腹部に、ライザーは踵を踏み下ろし、その奥にある臓器を痛めつける。
「ぐあっ!」
「ライザー! 狙うなら私を狙いなさい! 『王』の私が負ければあなたの勝ちでしょう!」
痛めつけられていく一誠の姿に耐えられなくなったリアスが叫ぶ。ライザーとの戦いの中、全ての魔力を消費してしまったリアスにはもう抗う術は無く、今も玉の様な汗を浮かべながら、困憊した様子で乱れた呼吸をしている。
ここでリアスを下すのが定石ではあるが、ライザーはそんなリアスの言葉を無視し無表情のままもう一度踵を踏み下ろし、更なる苦痛を一誠に与える。
ライザーはレーティングゲームの最中にリアスと決闘したときから、一切リアスを傷付けようとはせず、魔力によるいかなる攻撃も炎と再生能力で完封する均衡状態を作り、持久戦に持ち込もうとしていた。リアスは最初、それを上級悪魔同士、互角の実力を持っている為であると思っていた。
しかし、現実は違う。ライザーは単に手を抜いていただけ。その事実が分かり激怒するリアスであったが、それ以降に見せるライザーの本当の実力に焦燥感を覚え、本気になっても今なお自分に危害を加えようとしないライザーに焦燥感は、敗北感へと変わりつつあった。
「ライザー!」
「……部、部長……駄目です……そんなこと言っちゃ……」
悲痛なリアスの声を、一誠が途切れ途切れの言葉で制す。
「イッセー! もう十分よ……貴方はよく戦って……」
「まだ……です……!」
一誠は歯を食いしばり、踏みつけているライザーの足首を掴む。それを振り払おうとするが、その手は離れようとしない。
「まだ……まだ、俺は拳を握れます! おおおおおおおおお!」
気迫の叫びが木霊し、一誠の掴んでいる手に更なる力が加えられると鈍い音と共にライザーの足首から先が九十度に折れ曲がる。足首をへし折られたライザーは、掴む手を振りほどこうと倒れている一誠の顔に拳を向ける、が仰向けの姿勢から寝返りを打つように腹這いの姿勢へと変えた一誠の動きに巻き込まれ、顔面から床に叩きつけられる。
すぐに起き上がろうとするライザーであったが、一誠の方が素早く立ち上がり、掴んでいる足にもう一方の手を添え、両手持ちにするとそのままライザーを力の限り振り回す。
「ぬがぁぁぁぁああああああ!」
声をあらん限りに張り上げ、激しく旋回する一誠。成人男性であるライザーの重量など、合宿で鍛えているときに当たり前のように背負っていた岩に比べれば、風船のような軽さである。
振り回されているライザーも大人しくしている筈も無く、短く舌打ちをすると全身が炎に包まれた。当然、掴んでいる一誠の両手も無事では済まず、掴む手の隙間から白煙が上げる。しかし、それでも掴む手から力が抜けず、寧ろその熱さに抗うように掴む力は増していく。
回転の勢いが最高潮まで達したとき、一誠はライザーを持つ手を床に向けて振るう。ライザーの顔半分が床へとめり込むと、そのまま床を削りながら地面を引き摺られていく。地面が抉れていく度にライザーの顔も削れ、その削れた部分が再生しようと炎を噴き上げるが、再生よりも削れていく速度の方が上回っている。
このままライザーを擦り下ろしていくかと思われたが、攻撃されているライザーも反撃に移る。
再びライザーの身体が炎に包まれ、一誠の手を焼くが先程と同じように一誠はその手を放さない。次の瞬間目の前に閃光が弾けた。
衝撃と熱に押され吹き飛ばされていく一誠。その手には千切れたライザーの足首が握られ、傷口からは炎が燃え上がっている。
閃光が爆ぜる前の一瞬の間、一誠は見た。ライザーの身体が膨張し、内側から爆ぜて爆炎を撒き散らす様を、スローモーションのように遅延した時間の中で。
まさか自爆するとは思わず、身体中に造られた火傷のことを忘れしばし呆然とした姿でライザーがいた場所を見ていた。離れた場所で見ていたリアスも同様にあまりに呆気ないライザーの終わりに呆けた様子であった。
散った炎の残滓が、雪のように空から舞い落ちていく。
「何だその顔は」
屋上に響くライザーの声。しかし、その姿は見えない。
「くっ!」
一誠が突如、首を押さえ苦しげな声を発する。押さえている首には纏わりつくように炎の残滓が巻き付いている。その炎は段々と大きさを増していき、一つの炎と化すとその中から人の手が現れる。
「例え灰の中からだろうと不死鳥は蘇る。覚えておくことだな」
現れた手の先から炎が迸っていくとそれが徐々に人の形へと変わっていき、最後に地面に落ちているライザーの片足を炎で巻き込んで内へと取り込むと、そこには皺一つないワインレッドのスーツを纏うライザー・フェニックスが立っていた。
「中々の粘りだな。流石に『神滅具』を持っているだけのことはある。だが、そろそろ終わりにさせて貰う」
ライザーはそう宣言すると一誠の首を掴んだまま、宙へと放り投げる。地面から数メートルの高さまで軽々と投げられた一誠。何とか空中で体勢を変えようとするも、炎による傷と疲労で思う様に動かない。
頂点まで達した一誠の身体が重力に従い落下をし始める。地面へと落下していく最中、一誠の瞳が落下地点にいるライザーの姿を捉え、それに息を呑む。ライザーの右足が激しく燃え上がり、地面を熔解させながら一誠が降りてくるのを待っている。
自由の利かない一誠に回避する方法は無く、落ちていく数秒の間に様々な考えが頭の中を通り過ぎていく。そしてある考えに至ったとき、一誠は今までに無い程の真剣な表情となり、覚悟を決めたように胸の前で両手首を合わせるという独特な構えをし、次に来る一撃の防御に備える。
一誠の身体がある点を通過したとき、文字通りライザーの右足が火を噴いた。
周囲から取り込んだ風を右足へと圧縮させそれに自身の炎で点火したとき、圧縮された風はロケットの噴射推進器のように定められた方向に爆発的な加速を与え、その反動でライザーの右足が目で追うことが不可能な速度で放たれた。
一誠が気付いたときにはライザーの右足は深々と自身の両腕に食い込み、籠手を持って入る左腕は辛うじて無事であったが、右手は完全に粉砕され、そこから突き抜けてきた衝撃が、その奥にある肋骨を軽々と砕いていく。骨の奥にある臓器は激しく形を変えられながら痛めつけられ、それから伝わってくる痛みは声に出すことも出来ず、目の前が真っ白に染まった状態で、一誠はライザーの蹴り上げた方向へと飛ばされていく。
白く染まった視界が色と形を取り戻したとき、一誠は先程の十数倍の高さにまで蹴り上げられていた。
筆舌尽くしがたい痛みと嘔吐感に堪える一誠の視界に飛び込んできたのは、上空から見下ろす形で飛翔しているライザー。
「終わりだ」
ライザーの手が一誠の額を掴む。ここから急降下して地面へと落とすことが狙いだと理解した一誠であったが、その顔に焦りも恐怖も無い。そう、この最大の危機こそ同時に残された一誠の最後の反撃の機会であった。
一誠を掴むライザーも負の感情を見せない一誠の表情に一抹の疑問を覚える。何か仕掛けて来る前に素早く終わらせようとするライザーであったが、そのとき軽い衝撃がライザーの胸を打つ。見ると一誠の左手がライザーへと押し付けた形となっていた。精一杯の足掻きと判断し、視線を外そうとしたとき、微かな違和感がライザーの脳裏を過ぎた。
ライザーは視線を戻すのを止め、押し付けた一誠の左手を凝視する。そのとき彼は見た、左手の隙間から僅かに零れる魔力の光。自分の魔力の大きさで気付かない程の極小の魔力であったが、それを見た瞬間にライザーの直感が凄まじい勢いで警鐘を鳴らす。
「お前っ!」
ライザーは咄嗟に一誠の手を引きはがそうとするが、僅かに遅い。
「ドラゴン……ショット……!」
蹴り上げられる直前に準備をしていた一誠が全ての魔力を注ぎ込んで放つ零距離ドラゴンショット。押し付けられていた極小の魔力の塊は一瞬にしてライザーを飲み込むが、至近距離で放った一誠もただで済まない。
ライザーの炎を吹き飛ばす爆風と爆発をまともに受けて、嵐の中で舞う木の葉のように錐揉みしながら落下していく。そのまま幸運にも屋上の端に落ちたものの、背面から落ちた衝撃で屋上の床は蜘蛛の巣状に割れ、砕けた破片などが一瞬だけ浮き上がった。一誠も無事では済まず、傷付いた体に更なる追い討ちを掛けられたせいで血塊を吐き出し、その場で大の字となって動かなくなる。
「イッセー!」
悲痛に満ちたリアスの声。
「……だ、だいじょう……ぶ……です……」
辛うじて聞き取れる程か細い声で、一誠がリアスの声に応えた。
『Reset』
そのタイミングで増幅の終了を知らせる音声が籠手から聞こえる。最大まで高まった能力と『女王』へのプロモーションによる力の底上げ、そして一誠の持つ天性の打たれ強さのおかげで、辛うじてリタイヤを免れる一誠であったが、これ以上の戦闘は不可能な状態であった。
「へ……へへへ……やってやりましたよ……部長」
「ええ、見ていたわ。貴方は本当によくやってくれたわ」
倒れる一誠を抱き起そうと歩み寄り始めるリアス。しかし――
「本当に大したものだ」
――その声によって足は止まる。
「……久しぶりだ。本当に久しぶりだ……」
一誠の胸元に礫のような炎が灯り、それが一気に燃え広がっていく。
「ま……さか……ぐっ!」
最初に形になった足が一誠の胸を踏みつけ、動けない様に地面へと縫い付けた。既にライザーの蹴りによって骨も臓器も傷付けられている一誠には地獄の苦しみであったが、消耗し切った体力ではそれを払うことはできなかった。
そのまま炎は人の形となりその中から無傷のライザーが現れる。
「戦いの中でここまで冷や汗を流したのはな」
現れたライザーは言葉通り、額や頬から汗を流し、足下で動かない一誠を見下ろしながらも賞賛の言葉を掛ける。
「いくら『神滅具』持ちだったとはいえ、『兵士』一人相手に心底驚かされた。だが同時にお前が『兵士』であることが詰めの甘さに繋がった。……お前の元々の魔力は相当低いな」
一誠の基本能力の低さを見抜くライザーに一誠も反論が出来ない。仮に反論があったとしても、体中の痛みでそれどころでは無かった。
「ライザー! その足を退けなさい!」
「断る――と言ったら? ああ、下手な真似も止してくれよ、リアス。俺の下にはこいつがいる」
視線を向けたままライザーはリアスに警告をする。それを聞きリアスは唇を噛み、悔しさを隠そうとはせずにライザーを睨むがそれ以上のことはしなかった。
ライザーはそれを見て、前のように目を細める。
「それだ、リアス。何故キミは俺の忠告を無視して攻撃をしない」
思わぬライザーの言葉にリアスは眉を顰める。
「それは、どういう意味?」
「キミは気付いている筈だ。一見俺が有利に見えるこの状況、実際の所は俺もキミも全く有利不利の差は無い。何故なら俺が捉えているのはあくまで『兵士』、ゲームを決定付ける『王』と比べればただの一つの駒に過ぎない」
「……私にイッセーを『犠牲〈サクリファイス〉』をしろと言うの?」
激しくでは無く見る者を凍てつかせる怒りを静かに見せるリアスにライザーは首を横に振る。
「犠牲という言葉に惑わされるなよ、リアス。この場にこの『兵士』が来るまでどれだけの犠牲が出たと思っているんだ? 自分の視界の中ならば嫌だが、外なら別に構わないのか?」
「違うわ! 彼らが託したことでイッセーはここに来ることが出来た! その託した想いと一緒にイッセーを犠牲にすることは出来ないわ!」
「ぶ……ちょう……」
痛みに耐えながら一誠はリアスの想いに心を震わせる。ただ言葉にしてくれただけでも心の奥底に響くものがあった。
「――優しいな、リアス。だからこそもう一度言おう。優しさの使い所を見誤ればそれに付けこまれる。――こんな風にな」
ライザーは仰向けに倒れている一誠の胴体を蹴りつけ、うつ伏せにすると左腕を捻りながら持ち上げ、籠手と腕との境目に手刀を当てる。
「リアス、今から三十秒以内に投了〈リザイン〉をするんだ。でなければこの左腕を焼き切る」
ライザーの脅迫にリアスは顔色を変える。脅すライザーの表情には一切の喜怒哀楽は無く、淡々とした表情がその言葉に込められる本気を現していた。
「ライザー……貴方……!」
「例えゲームと言う名が付いていようとこれは遊びじゃないんだ。リアス、キミが相手をしているのは誰だ? キミの婚約者であるライザーか? 違うだろ? キミと同じ悪魔であるライザー・フェニックスだ」
あと二十秒と最後に付け加え、ライザーは手刀に炎を灯す。それがどれほどの切れ味を持っているのかは、校舎を切り崩したときに嫌と言う程見せつけられている。
「……ライザー、私の――」
「駄目です!」
自らの敗北を認めようとするリアスに一誠が大声を出して止める。既に満身創痍の状態で声を出すことにも激痛が走るが、一誠はそれに構わず血反吐を吐きながらも声を出し続ける。
「大丈夫です……! 俺は勝ちますから……! ライザーだって……ぶっ飛ばして見せます! だから……!」
「まだそれだけの声を出す余力があるか……赤龍帝、ここでリアスが答えを出さずお前が左腕を失ってもそれが最後じゃない。次は右腕、足、目、耳、鼻と失っていくことになるぞ」
「それが……どうした! 全部……くれてやらぁ!」
威圧を込めて次はどの箇所を焼き切るか説明するライザーに一誠が啖呵を切る。その眼は二人とも間違いなく本気であった。
「リアス、キミは面白い奴を眷属にしたみたいだな。――赤龍帝、その言葉が嘘じゃないか確かめてやる、あと十秒だ!」
無慈悲にも時間は経過していきライザーの手刀は赤熱化し、鉄すら容易に切断することが出来る程の威力を秘める。一誠も歯を喰いしばり数秒後に訪れる痛みに備える。
やがて十秒を経過しようとしたとき、その直前にリアスが口を開いた。
「ありがとう、イッセー」
その言葉の意味を理解し、一誠が再度声を張り上げて止めようとするが、それよりも先にリアスが決定的な言葉を口にする。
「ライザー、私の敗けよ。投了します」
それを聞いたライザーは炎を消し、押さえつけていた一誠から離れていく。
「黙り込まずにきちんと決断したか――賢明な判断だ」
擦れ違い様、ライザーはリアスの行動をそう称したがリアスは何も言わず、倒れている一誠を起こし、そのまま抱き締めた。
「ありがとう、朱乃も祐斗も小猫もアーシアもシンも、そしてイッセーも不甲斐ない私の為に戦ってくれて、頑張ってくれて本当にありがとう」
頬を伝わって流れるリアスの涙が一誠の頬へと落ちていく。
「部長……俺は……」
その言葉の続きを口にすることは無く、急速に一誠の視界は狭まり黒く染まっていく。一誠が最後に記憶していたのは頬から伝わってくるリアスの涙の暖かさと。
――あなたの為に最強の『兵士』になりたかった。
という口に出来なかった想いであった。
この日、リアス・グレモリーはライザー・フェニックスに完敗を喫した。
◇
シンが目を覚ますと、自分が清潔感のある白いシーツのベッドの上で寝ていることに気付く。周囲はシーツと同じシミ一つ無いカーテンで覆われており、横になっているシンからは天井しか見えない。
シンは体をベッドの上で起こす。すると、全身に引き攣ったような痛みが走った。そこで初めてシンは、自分の体の至る所にガーゼや包帯が巻かれていることに気付く。それを見て自分がリタイヤをしたことを悟り、この場所がリタイヤをした者の為の治療施設であることを知る。
シンは自分が敗北したことよりもゲーム自体の結果を一刻も早く知りたいが為、身体の痛みを無視し白いカーテンの外へと出ると、そこでアーシアと会う。
「あっ! 間薙さん……」
シンが現れたことに驚いた表情をするアーシア。そんなアーシアにも頭部や腕に包帯が巻かれている。
「駄目です! まだ完全には治っていないんですよ! お願いですから横になって下さい!」
普段のアーシアからは想像が出来ない程強く懇願する。よく見ればその眼は赤く充血しており、つい先程まで泣いていたことが容易に想像が出来た。そして、そのアーシアの泣いた跡から彷彿とさせる事実にシンは、胸の奥に鉛を流し込まれたかの様な重い感覚を覚えた。
「他の皆は?」
「まだ眠っています。私の『神器』で治療をしていますが……まだ、目を覚ます気配は無いです」
幾つもある白いカーテンの区切りの向こう側に他のメンバーがいて、取り敢えず命に別状が無いことに安堵する。
「部長は?」
「部長なら――」
アーシアの言葉よりも先に部屋にある扉からリアスが現れる。その眼はアーシアと同じ眼をしており、シンの顔を見た瞬間に昏くなる表情から、推測の域を出なかった考えをより確実なものとした。
「……シン、私は――」
「すこし外の空気を吸ってきます」
リアスの言葉を最後まで聞かず、アーシアが止めてくるのを無視してシンは扉の外に出て、目的も無く通路を歩き続ける。
(もっとましな理由を思いつかなかったのか)
歩きながらシンは、逃げるように去っていった時の台詞を思い返して自嘲する。
リアスの言葉を最後まで聞く気にはなれなかった。分かりきった事実を更に聞かされることは、ただの苦痛でしかない。
胸の奥にある鉛の重さは内から苦みを出し、シンの精神を鬱屈とさせる。シンは早足で通路を歩く。その度に痛みが体中を走るが、今は考え事をしたくないシンにとっては、思考を中断するその痛みに有難味すら感じた。
「そんなに急いで何処にいくんだ?」
不意に背後から掛けられた声にシンは足を止めた。振り返るとそこにいたのはライザーとその『女王』であるユーベルーナの二人。
「別に、特に意味なんて無い」
「ふん、相変わらず愛想の無い奴だ。……まあ、ここで会えたのは都合がいい。お前に用があったからな」
ライザーの言葉にシンは眉を顰める。少なくともシンにはライザーが自分に用がある理由が思いつかなかった。
「単刀直入に言おう。今から二日後に行う俺とリアスとの婚約パーティー、お前には出席を控えて貰いたい」
「理由は?」
「婚約パーティーに集まるのは転生悪魔と純血悪魔のみ、そしてお前は人間。ここまで言えば分かるな?」
例え悪魔の力を使えようと、シンという存在は人間でしかない。それが上級悪魔、それこそ七十二柱に名を連ねる、純血の悪魔同士の婚約の場に於いてはただの異物でしかない。ライザーの処置は、シンが参加することで起こるかもしれない場の雰囲気の害を未然に防ぐものであった。
「……了解した」
「ふっ、敗けた直後だというのに中々冷静な態度だ……と言いたいところだが隠しきれてはいないな」
視線を落とすライザーの眼には、強く握り続けたせいで血の気を失い、白くなったシンの拳が見えていた。
「まあ、敗けてへらへらしている奴よりはましだがな」
シンは何も答えない。
ライザーの申し出を強く拒否する選択もあったが、それは子供のする八つ当たりであるとシンは考えた。相手に屈服するようで不本意ではあるが、自分の不満や後悔の内にある感情を他者に押し付けることはするつもりも無く、いつもの大人ぶった思考で無難な選択を選ぶ自分に自己嫌悪を覚えながら、大人しくライザーの申し出を受け入れる。
ライザーはシンの返答に満足した表情を浮かべると指を鳴らす。その合図にユーベルーナがシンの前に進み、一つの小瓶を手渡した。
「こちらの都合で不参加をしてもらうんだ、詫びの品ぐらいなら用意する。その『フェニックスの涙』は自由に使ってくれ。自分で使うのも良し、リアスたちを通じて金に換えるのも良しだ」
手渡された『フェニックスの涙』を見つめるシンであったが、そこにユーベルーナが声を掛けてきた。
「人間界で貴方の名前を名乗っていましたが、もう一度だけお名前を窺ってもよろしいですか?」
「――間薙シンだ」
「その名前、今度はしかと記憶させて頂きます。まさか人である貴方に敗れるとは思いませんでした。大したものです」
まさか敵だった相手から褒められるとは思っておらず、シンはどう返せばいいのか考えていたが返事を返す前にライザーがユーベルーナの名を呼び、この場から去って行く。
「それでは御機嫌よう。間薙様」
ユーベルーナは最後にそう言ってから一礼し、去って行くライザーの後ろへと付いていった。
一人残されたシンは、手の中にある無色透明の『フェニックスの涙』を意味も無く眺める。シンの心境はその液体と同じだった。怒りたくも哀しみたくも憎みたくも暴れたくも泣きたくも無い。
今はただ何も考えず、頭の中を何色にも染めたくなかった。
「あ、いた」
「ホントだホー!」
ぼんやりと眺めていたシンに聞き慣れた声。声の方向にはピクシーとジャックフロストがおり、こちらへと向かってくる。
「――よくここが分かったな」
「ん? ああ、あのね魔王の付き添いの人に送ってもらったの。えーと、名前はなんだっけ?」
「確か、セタタンじゃなかったかホー?」
「そうだっけ? セセンタじゃなかった?」
いきなりシンを置いてきぼりにして、送ってきた人物の名前がなんだったかをあーだこーだと喋り始める。そんな二人にシンはいつもの様に呆れた表情をする。
「お前ら、人の名前ぐらいちゃんと覚えておけ」
「まあ、いいじゃん! 次に会えた時に覚えたらいいし」
「そうだホー! 次覚えたらいいホー!」
いつものマイペースな二人の様に、シンは呆れながらも同時に感謝をしていた。励ますでも慰める訳でもなくいつもの様に振る舞う。
ただ、そんな当たり前なことに、少しだけ胸の奥の重さと苦みが薄まった。
◇
「御二人を送ってきました」
「ご苦労、セタンタ」
サーゼクスの労いの言葉にセタンタは頭を下げ、そのまま部屋の外に出て行こうとするが、それをサーゼクスが呼び止める。
「セタンタ、キミはこの決着をどう思う?」
「……悪魔の血が守られる結果となって喜ばしいことであると私は思いますが?」
サーゼクスの質問にセタンタはそつなく応えるが、心なしかその表情には幾分の険しさが含まれる。
「そういったグレモリー家に仕える者としての意見を聞いている訳じゃない。私の一人の友人として、あの子を幼い頃から見守ってきた者の一人としての声を聞きたい」
しばし沈黙するセタンタであったが、真剣に見詰めてくるサーゼクスに嘆息した後言葉を吐き出す。
「『サーゼクス』、正直に言えば『俺』はこの婚約に対して心の底からは祝福は出来ない」
一人称が『私』から『俺』へと変わり、魔王であるサーゼクスを呼び捨てにするセタンタ。その口調は先程までの固さは無く、友と接するような親しみと柔らかさが込められていた。
「あの子には血など関係なく普通に恋に落ち、自分で選んだ相手と添い遂げて欲しい。そう簡単にはいかないのは分かっている。血を受け継ぐということは様々な枷が着けられるということにも等しいからな」
そこで一拍置く。
「……だが、それでも俺はあの子には幸せになって欲しい」
「兄としてはそこまで妹のことを思ってくれて喜ばしいな」
「からかうな、サーゼクス」
軽い口調にセタンタは目を鋭くするが、サーゼクスは肩を竦めるだけであった。
「それほど思っているなら父上に直談判すればいいものを。キミの言葉なら父上も耳を傾ける筈だが?」
「言える筈がない。旦那様と奥方様は、俺のような過去の記憶が無い得体の知れない者に、居場所と役割を与えてくれた恩人だ。俺はあの御二人の決定に口を挟むつもりは無い」
言い切るセタンタにサーゼクスは微笑む。悪魔の頂点としての笑みでは無く、サーゼクスという存在が持つ本来の笑み。
「なら、その父上の気が変わるようなことが起きたならどうする?」
セタンタは眉を顰めた後、詐欺師でも見るかのような眼差しをサーゼクスに向ける。
「――何か企んでいるな」
「キミもあのドラゴン使いくんの力をもっと見たくないかい? 特に大きな場所で」
「まさか……」
「例えばドラゴン対フェニックスのリベンジ対決なんて催し物として最高だと思うんだが?」
「……サーゼクス、俺はお前のそういった部分を尊敬しているが同時に嫌いだ。どうせもうグレイフィアには伝えているんだろ?」
セタンタは心底呆れた眼でサーゼクスを見た後、話はこれで終わりだと言って部屋を出て行こうとする。
「最後にもう一つ質問していいかい?」
「――何だ?」
途中で呼び止められ若干ぞんざいな返事をするセタンタ。
「キミはあの人間を見たとき何を思った? 彼の姿を見たとき珍しく動揺をしていたみたいだったが」
シンのことを尋ねるサーゼクスにセタンタは背を向けたまま答える。
「……あの姿を見たとき何故か不思議と懐かしいと思えた。……全く知らない初対面の相手の筈なんだがな」
「キミの失った記憶に彼は関係しているのだろうか?」
「さあな。別に失ったものを取り戻したいとは思ってはいない。あの少年が俺の中にある何かに触れたのかもしれないな」
「成程」
「もういいか? 俺は別の仕事があるんだが」
「ああ、済まない。時間を取らせたね」
「それでは『私』は失礼します。何かあったらお呼び下さい『魔王』さま」
口調を戻してから退室していくセタンタにサーゼクスは面白そうに笑っていたが、その笑みはすぐに消えた。
サーゼクスはセタンタにシンについて思ったことを聞いたが、サーゼクスもシンの姿を見たとき脳裏に浮かぶ者たちがいた。それはシンがレイヴェルに最後の抵抗をしたとき、より確信的なものへと変わる。
サーゼクスは記憶の中で、数度に渡り命のやりとりをしてきた宿敵たちの名を呟いた。
「『魔人』か……」
おそらく次で二巻の話は終了の予定です。
また、次巻に入る前に幕間話でも入れようかなと思っています。