激怒する匙。だが、その心の芯の部分は冷静であった。自分の神器をどう組み立て、どう攻めるのかを思考し、何処まで出来るのか分からない時はヴリトラに相談をしていた。
匙は英雄派の二人に『殺す』と言ったのは衝動的な殺意からではない。その前からずっと、木場に仇を討つ為に『殺してやる』と言った時からある確固たる殺意。
匙は殺意というものがどういうものかこの短期間で嫌という程知った。頭の中に無限とも言えるぐらい殺しの為のシミュレーションが行われるのだ。
黒炎で焼き尽くす、龍脈で枯れ果てさせる、呪いで苦しめ、のたうち回らせる、ヴリトラになって圧し潰す、など数え切れない手段で数え切れない程殺す。
匙は自分の中にこれ程の黒い感情があったことに驚きを隠せない。ただ、どれだけ頭の中で殺しを繰り返しても匙の心に掛かった黒い靄が晴れることはない。それどころか元々そういうことに向いていない性格なので繰り返す度にストレスが溜まっていく。
慰みのようで解消にならない脳内シミュレーターの果てにようやくそれをぶつける相手が現れた。
抑え付けていた感情が溢れると共にこれまでシミュレートしてきた殺り方が現実に反映されていく。殺意の衝動に吞まれないようギリギリの部分で手綱を握りながら、自分の文字通り黒い部分を全て曝け出す。
その結果、万を超える黒い蛇が津波の如くヘラクレスとジャンヌに押し寄せる。
「うおしゃああああああっ!」
暴れ回ることに、それを存分にぶつけられる相手が現れたことに歓喜の雄叫びを上げながらヘラクレスは巨大な拳を突く。
黒い津波との距離はまだ離れているのでヘラクレスの拳は空を切るだけ──かと思いきや、ヘラクレスの拳の先から爆発が連鎖して起こり、黒い津波に到達すると連鎖爆発の数倍の大きさの爆発が発生した。
「これが俺の神器『巨人の悪戯』だ! 結構な威力だろ!?」
殴った対象を爆発させるとシンプル且つ屈強な肉体を持つヘラクレスと相性の良い能力。今の連鎖と巨大爆発もヘラクレスの拳圧、空気を殴ったことで生じたもの。
「おおっ!?」
自慢と共に神器を紹介したヘラクレスであったが、爆発を呑み込む黒い津波を見て驚いたリアクションをする。ヘラクレスの『巨人の悪戯』は黒い津波を構成する蛇たちを吹き飛ばした。しかし、それは数万いる内のほんの数百程度。黒い津波を止めるには威力と火力が足りない。
「あっははははは! 自信満々に出したのに全然止められてないじゃん! カッコ悪ーい!」
「うるせぇよ! 思ったよりも威力が出なかったんだよ! この空間のせいだ!」
「まあ、確かに息苦しい感じは嫌よねー」
ヘラクレスを揶揄いつつ同意するジャンヌ。匙が戦闘前に発動させた二種の神器による領域は彼らを閉じ込めると同時に内部に居る対象の力をじわじわと削っていく。消費させられる体力、魔力はそれ程多くはないが並行して戦闘を行うと普段との違いが生じ、違和感となる。
消費されていく力はこの領域の維持か匙の力どちらかに還元される。長期戦になれば英雄派の二人が不利になる。
思ったよりもやり難い相手だと分析している二人の目の前には黒蛇たちが壁のように迫っており、二人の姿がそれによって覆い隠されそうになる。
そうなる前に二手に分かれ、黒蛇たちから逃れるヘラクレスとジャンヌ。二人の間には大河のように黒い蛇の群れが広がっていた。
「逃がさねぇ!」
群れが二つに割ける。地を這う黒蛇らは這いながらどんどん密集していき、やがて巨大な大蛇と化す。
群れが集合して出来た二頭の巨大黒蛇は大口を開け、ヘラクレスとジャンヌを呑み込む。
構成する黒蛇の一匹一匹は『黒い龍脈』と同じ効果を持つ。吞み込まれれば最期、指一本動かせなくなるまで吸い尽くす。
匙はすかさず『黒い龍脈』の能力を発動。
「──ちぃ!」
しかし、すぐに舌打ちをする。吸収する対象が見つからない。捕らえたように見えたが逃げられていた。
二頭の巨大黒蛇はばらけて再び黒蛇の群れに戻り、敵を探す。
「ホント、どうしようか」
ジャンヌの声が頭上から聞こえた。匙は目線を上げる。英雄派の二人は『黒い龍脈』から逃れて上空にいた。
滞空する二人。その両肩を掴んで飛んでいる二体の銀色のワイバーン。ジャンヌは『聖剣創造』の応用で聖剣を組み合わせて工作のように生物を創り、それを生きているかのように動かせる。聖剣で創ったワイバーンの飛翔により彼らは余裕で匙の広範囲攻撃を躱していた。
「派手な攻撃の割にはチマチマと削ってくるじゃねぇか……!」
ヘラクレスは領域内での強制的な消耗に強いストレスを覚える。拳を強く握って力を溜めても小さな穴が開いたかのように力が少しずつ抜けていく脱力による不快感。力の限り暴れたいヘラクレスからすれば気持ちが悪い。
「そんなストレスに悩まされている貴方にお姉さんからプレゼント!」
ジャンヌはヘラクレスにプレゼントのように短剣を投擲。かなりの速度が出ていた短剣を投げ渡されたかのようにヘラクレスは柄部分を容易く掴み取る。
「何だこりゃ?」
儀式に用いるような柄と鍔部分がやや装飾過多な短剣。その代わりに剣の両刃部分には輝きが無く、見るからに切れ味が無い。
「対呪い用の聖剣短剣バージョン。それを身に付けていたら少しの間はヴリトラの呪いを中和出来るから。腰にでも差しておいて」
「相変わらず便利だなぁ、お前」
「そういう言い方、ちょっとムッと来るんだけど?」
ヘラクレスはやや皮肉を込めた褒め言葉を送りながら言われた通り腰のベルトに短剣を差す。その途端に脱力感が消え、全身の筋肉が隆起する。
「これこれぇ! これだぜっ!」
鬱陶しい感覚が消え、ヘラクレスは解放感から叫ぶ。近くにいるジャンヌは顔を顰めて両耳を覆っていた。
「はいはい。うるさい。力が有り余っているのは分かったから。──という訳で頑張ってきてねー」
ヘラクレスを掴んでいた聖剣のワイバーンが爪を離す。
「投下ー」
了承を得る前にヘラクレスを黒い蛇が蠢く大地に落とす。
一方、勝手に落とされたヘラクレスだが驚きや焦りは皆無。粗野な笑みを全開にして落下中に両腕を振り上げる。
「うおりゃあああああああっ!」
神器『巨人の悪戯』の能力を解き放ちながら黒い蛇の大地に着地。両足が地面に着くと同時に両腕も叩き付けられる。
四肢から放たれる爆発に黒い蛇は触れることも許されず瞬時に消滅。ヘラクレスを中心に広がっていく衝撃波は地面をめくり上げていき、黒蛇らを吹き飛ばしていく。
「くっ!」
爆風は匙にも届き、更には大きいものでは人サイズ、小さいものでも拳程の瓦礫も混じって飛んで来ており、匙は『邪龍の黒炎』の能力で黒い炎を生み出し、それを前方に盾として展開して瓦礫から身を守る。
爆発が収まった後爆心地には深く広いクレーターが出来ており、大量の黒蛇は全滅させられていた。
すると、クレーターからヘラクレスが飛び出し、手に持っている人の頭程の大きさの石を掌打で打ち出した。
匙は再び黒炎の盾で防御する。黒炎の盾に石が接触した瞬間、爆発が起こる。
「なっ!?」
前方は黒炎で防ぐことが出来たが、完全には防御出来ず匙の足元が爆風で捲れ上がり、匙は後方へ倒れる。
慌てて体勢を変え、地面に手を着いて完全な転倒は防ぎ、すぐに立ち上がった。すると、今度は頭上から何本もの聖剣が降ってくるのが見えた。
こちらも黒炎で防ごうと盾として展開。聖剣が黒炎へ接触──と同時に刺さり、剣先が匙の耳を掠めた。
「っ!?」
黒炎の守りを無効化することが分かると同時に匙は急いで駆け出す。
「判断早いじゃない」
ジャンヌは空中で匙の切り替えの早さを褒める。ジャンヌが創造したのは呪いの炎を中和する聖剣。ジャンヌの想定では黒炎を紙のように突き破る筈であったが、黒炎の密度と質が創造した聖剣の中和力を上回っていた。そうでなければ最初の一本目で匙の顔を貫いて終わっていた。
匙を追跡する聖剣。匙が通った後に聖剣が突き刺さっていく。
このままでは追い付かれると匙が思った矢先、目の前に聖剣が落下。急停止し、急いで方向転換する。
その時、匙に影が掛かった。
「しまっ──」
急停止と方向転換。それにより止まった匙の足。その間にヘラクレスが急接近していた。
『邪龍の黒炎』で黒炎の盾を張る。触れれば解呪の難しい呪いの炎。ヘラクレスがこれで怯めば──
「しゃらくせぇ!」
ヘラクレスは構うことなく黒炎を拳で打つ。黒い炎を越しでも見える爆発の閃光。気付けば匙は吹き飛ばされており、無人の建物の窓ガラスを突き破り中で転げ回る。
「やっちゃった?」
「手応えがねぇ。先に爆風で吹っ飛ばされやがった。ひょろい野郎だ」
『邪龍の黒炎』ごと匙を吹っ飛ばしたヘラクレスは少し不満気な態度で片手を振るう。ヘラクレスの手はヴリトラの炎で呪われていなかった。確かに黒炎に接触したが、呪われるよりも爆発の方が早く、纏わりつこうとしていた炎を全て吹き飛ばしてしまった。ヘラクレスらしい力任せなやり方で呪いの影響を受けずに済んだ。
「く、そ……!」
匙は建物の中で仰向けになりながら自分の不甲斐なさに毒吐く。直撃は黒炎の盾で免れたが窓ガラスを突き破った際に強く体を打ち、更に破片で体の何箇所に浅くない裂傷を負っている。また爆発を至近距離で受けたせいで聴力もおかしくなっており、ずっと耳鳴りがしている。
幸い大ダメージとまでは行かないのでまだ動くことは出来る。
ジャンヌの『聖剣創造』のバリエーションの豊富さとヘラクレスの破壊力を甘く見ていた。これはその代償と割り切り、それを頭の中にしっかりとインプットさせて再び挑もうとする。
匙は体を起こし、そこで固まり、言葉を失った。
◇
「くたばるには早ぇぞ! あんだけ啖呵を切ったんだからまだやれんだろっ!」
建物内でダウンしている匙を挑発する為に大声で呼び掛けるヘラクレス。中々出て来ないことに少々声が苛立っている。
「何かの作戦?」
ジャンヌも地面に降り、匙の動向を窺う。
「へっ。あんまり上等な作戦が思い付くような面はしてないがな」
ヘラクレスは自分が直情的だと自覚しているので匙が同じように直情的な性格をしているのが雰囲気で分かる。神器は直接戦闘には向いていないが。
「おいっ! これ以上じらすんなら建物ごと吹っ飛ばすぞ!」
脅しではなく本当にやるつもりのヘラクレス。匙一人が挑んできた時は心が躍ったが、期待外れならばこれ以上時間を無駄にするつもりはない。
すると、何故か周囲を閉ざしていたヴリトラの領域が消える。
「……おいおい。まじでくたばったのか?」
これには敵であるヘラクレスも困惑する。急に領域が解かれたのならばそう考えても仕方がない。
敵地で思わず拍子抜けしてしまうヘラクレス。ジャンヌもヘラクレスではないが首を傾げていた。
暫くすると建物内で物音が聞こえる。少し待つと匙が出てきた。
「随分と待たせるじゃねぇか」
そう言いつつ匙の状態を確認する。見える範囲では目立った傷は無く、傷の具合も軽い。大怪我を隠している様子もない。それなのに建物から出て来るまで随分と時間が掛かった。それが腑に落ちない。
「……」
匙はヘラクレスに何も言葉を返さない。心なしか建物に突っ込む前よりも余裕が無いように見える。英雄派の二人の実力を直に感じたからとも考えられるが、臆したようにも見えず、切羽詰まっている。
「──にしてもくたばっちまったかと思ったぜ。折角張った領域を解いちまった時は」
匙の目が一瞬動揺したように左右に揺れるのを二人は見逃さなかった。
「……一瞬意識が飛んだ。とんでもねぇパンチだな」
領域を解いたのではなく解かされた、と説明するがどうにも言い訳っぽく聞こえる。匙の不自然な行動にヘラクレスとジャンヌも徐々に訝しみ出す。
「ふーん。じゃあ、そろそろ本領発揮? 君ってヴリトラに変化出来るんでしょ?」
使用していた二つの神器を止めたことを考えると、切り札である『龍王変化』を使用すると考えるのが自然。
匙はジャンヌに答えず、険しい表情のまま『黒い龍脈』を顕現させ、周囲にラインを蜘蛛の巣のように張り巡らせる。
「何だこりゃあ? 鬱陶しい」
「ストップ。触れたらちょっと厄介だよ、それ」
『邪龍の黒炎』とは違ってヘラクレスがラインに触れることを止めるジャンヌ。触れたら即座に力でも血でも何でもいいので根こそぎ抜き取るつもりであったが、ジャンヌのせいで警戒されてしまう。
しかし、それはそれで匙にとって好都合。ヘラクレスとジャンヌの動きが止まっており、尚且つ二人の位置は匙の射程圏内。
「燃え尽きちまえっ!」
ヘラクレスとジャンヌを分断するように噴き出す黒炎。匙の狙い通り二人は黒炎から離れようとする。その逃げ道を塞ぐように反対側からも黒炎が噴き出す。そのまま前後にも同様のことが起こり、四方が黒炎によって塞がれた。
最初に使っていた二つの神器の内の一つ『龍の牢獄』により黒炎の中に閉じ込められた二人は黒炎の熱によって炙られ、その命を削られていく。
「悠長な奴だぜ」
──筈であった。
黒炎の一部が膨張するとそのすぐ後に破裂。内側からの爆発により『龍の牢獄』が突き破られた。しかもそれだけでは済まず他の三方向の黒炎の壁も吹き飛ばされ、無傷のヘラクレスが現れる。壁一枚破壊した段階で脱出出来たが、残りの壁も破壊するという余裕を見せつけてきた。
「ホントホント。やるなら一気にやらないと」
するりと黒炎を通る刃。下から上へ刃が滑り、黒炎が裂ける。それにより出来た隙間からジャンヌが出て来る。ヘラクレスと違って最小の破壊のみで『龍の牢獄』から脱出した。ヘラクレスとは対極だが、これもまた余裕が為すもの。
少しは時間を稼げると思っていたが、すぐに脱け出されてしまった。単体での神器の練度の差を見せつけられる結果となったが、ヘラクレスたちが簡単に脱出出来たのはそれだけではない。
「お前……集中出来てないな?」
「……急に何言ってんだよ?」
「あれ? 無自覚? 最初と違って神器の操作が御粗末よ?」
匙自身気付けなかったが、英雄派の二人には分かった。最初の大規模且つ精度の高い神器の操作に比べて先程の『龍の牢獄』は規模が小さいのに操作が荒く、綻びがあった。
「なーんか……気が散っている感じ?」
匙の表情が強張る。
「へっ。気になるもんでもあったのか?」
匙は答えない。ただ、冷や汗が額から流れ、顎を伝って下に落ちる。
『黒い龍脈』から複数のラインを伸ばし、威嚇するように蠢かしながら英雄派の二人との間合いを維持するようにじりじりと動く。しかし、二人から見ればこの場から離れさせるのが目的のように映った。
『……』
両者の間で沈黙が訪れた。匙にとってそれは嫌な、ヘラクレスとジャンヌにとっては断片的な情報を繋ぎ合わせる為の。
「あの建物の中かぁ!」
ヘラクレスが叫ぶと同時に匙が出て来た建物へ突撃していく。匙はヘラクレスへラインを伸ばし、ヘラクレスの四肢に絡める。
「
最早隠し通すことは無理と悟り、匙は大声を上げる。それは建物内に誰かが居る証明であった。
匙は地面に足を突き立てるようにしてヘラクレスを止めようとする。だが、ヘラクレスの怪力は匙一人分の重さなど無いものとして扱い、速度を緩めずに匙を引き摺っていく。
「やめ、ろぉぉぉぉ!」
匙は反対側の手にも『黒い龍脈』を顕現。そこからもラインを伸ばし、近くの建物に巻き付ける。流石に建物分の重量ではヘラクレスの動きも止まる。しかし、その間にいる匙は両腕が千切れるような力が掛かっていた。
巻き付いているラインから力を吸収している筈なのに、ヘラクレスの前進を止めない。足で地面を踏み割り前傾姿勢になる。それだけで匙の両肩に凄まじい負担が掛かり、確実に数ミリ、数センチ前に進んでいた。
「俺ばかり気にしていいのかぁ?」
建物に放たれる幾つもの聖剣。ジャンヌによる聖剣の投擲。壁や窓を突き破って中に突入していく。
「くそ、ったえれぇぇぇ!」
悪態を吐きながら匙はヘラクレスから何本かラインを放し、ジャンヌへと伸ばす。しかし、伸ばしたラインは旋回する聖剣により斬り飛ばされてしまう。
「さっきも言ったがよぉ、集中出来てねぇぜっ!」
ヘラクレスが地面を踏み締めた瞬間爆発が起こり、それを推進力にしてヘラクレスが突撃を行う。
(ダメだ! 耐え切れねぇ!)
このままだと片腕もしくは両腕が千切れると判断した匙は、止むを得ず建物に巻き付けていたラインを解く。
「うおおおおおおおっ!?」
ロケットのように飛ぶヘラクレスに引っ張られる匙。ヘラクレスは建物の壁を粉砕しながら中へ突入。匙もそれを追うような形で再び建物内に入っていき、ヘラクレスが急停止したことで慣性により壁へ叩き付けられ、止まった。
息が止まる程の痛みを体感しながらも匙は絞り出すような声で言う。
「逃げ、ろ……!」
「ほお? これが理由か」
ヘラクレスの大きな眼が動き、建物の隅を見る。
「あ、うう……!」
体を限界まで縮こませて震える悪魔の子供。その顔は恐怖により蒼白になり、孤独によって歪み、涙によって濡れていた。
悪魔の子供は偶然匙が建物の中に入った時からこの様な状態であった。恐らくは避難の途中で親とはぐれて迷子になり、彷徨った挙句に疲れてこの建物で休んでいたのだと思われる。そして、運悪く戦闘に巻き込まれてしまった。
子供の存在を知った時、匙が真っ先に考えたことは『どうやってこの子を安全な場所に避難させるか』である。
戦闘に巻き込まれないようここでじっとしているよう言い聞かせ、英雄派の二人を建物から引き離そうとした。
だが、それが上手く行かなかった。子供に影響を及ぼすことを恐れ、神器による領域を解除し、建物を倒壊させるのを危惧して『龍王変化』も使わなかった。子供の安全を第一に考えた行動が皮肉にもヘラクレスとジャンヌに子供の存在を勘付かせることとなってしまった。
(くそ! 完全に俺の失敗だ! 逃がすどころか危険な目に遭わせちまってる……!)
これがもし一誠だったなら、という考えが過るがすぐにそれを消す。
(馬鹿野郎……! それは違うだろ!)
憧れたりライバル心を持つのは間違っていない。だが、自分がダメだったからといって一誠だったら成功していたと考えるのは盲目的過ぎる。対等を望む相手を盲信すれば、今後一生同じ立ち位置になれない。
(弱気になるな! 考えろ!)
この状況をどうやって切り抜けるかアイディアを必死に絞り出そうとするが、時は無情に過ぎて行く。
一方でヘラクレスは白けた表情になっていた。
「ったくよぉ。ガキ一人でこの有り様か」
匙が決して強力ではない神器で大規模な攻撃をしてきた時は昂ぶったが、悪魔の子供が逃げ遅れたと知った途端に消極的になってしまったことにひどく落胆する。
「こいつ庇おうとしてお前が死んだら本末転倒じゃねぇか。もっと死人が出るぞ?」
ヘラクレスが尤もらしく匙の行動の矛盾を指摘する。多くの為に少数を切り捨てる。それこそ無難であり、匙は子供を無視して全力で戦うべきだったと言っている。
「──うるせぇよ。誰のせいであの子がここで怯えていると思ってんだ。それと覚えておけ。てめぇらにくれてやる命は冥界に一つも無いんだよ、クソ野郎」
匙の冷え切った声と眼差し。ヘラクレスの言葉に怒りが飽和してしまう。殺意と怒りが入り混じった感情を言葉にしてヘラクレスに叩きつける。
「はっ! だったら早速一つ貰おうか」
ヘラクレスはわざとらしく指を鳴らし、怯える子供を睨む。ヘラクレスの視線に身を竦ませる子供だったが──
「だからお前はクソ野郎なんだよぉ!」
ヘラクレスの足元から突如何十の『黒い龍脈』のラインが伸び、ヘラクレスの足に巻き付く。
「ぬぅっ!」
咄嗟に吹き飛ばそうとするヘラクレスであったが、ラインが下に引っ張られると足元の地面が急に崩れ、ヘラクレスが通れる程の穴が開き、ラインによってその穴に落とされる。
「ぬおおおおおおおっ!?」
穴の中に消えていくヘラクレス。
密かに地面に仕込ませていた『黒い龍脈』。『黒い龍脈』は力だけでなく血などの物質も吸収することが可能であり、その能力を使ってヘラクレスの足元周辺の土を掘るように吸い込んでいた。後はタイミングを合わせ、そこに『邪龍の黒炎』を放つことで床を抜き、即席の落とし穴の完成である。
匙はヘラクレスが穴の中に消えたのを見届けてから怯えている子供の傍に行く。子供は何も言わず匙に抱き着いた。匙の体に直接伝わってくる震え。どれだけ怖かったのかを言葉以上に伝えてくれる。
「ごめんな……恐い思いをさせてごめんな……!」
震えるその子を抱き締める。今はこれぐらいしか出来ない。
子供に訪れる束の間の安堵。だが、それも壁を突き破って入ってくる聖剣がぶち壊す。ヘラクレスは一時的にどうにか出来たがまだジャンヌが残っている。
「しっかり掴まっていろ!」
子供を抱きかかえ、匙は聖剣が飛んできた反対側の壁に向かう。
「ヴリトラァァ!」
任せろ
最大火力の『邪龍の黒炎』が壁を破り、出来た穴から匙は飛び出す。そして、迷うことジャンヌに背を向けて走り出す。
敵前逃亡だが匙はそれを恥に思わない。優先すべきなのは腕の中の子供。それに比べたら自分のプライドなど二の次以下。
「あらら? 敵前逃亡?」
頭上からジャンヌの声が聞こえてきた。見つかってしまったが振り返る余裕はない。
「ヴリトラ! 防御を頼む」
分かった。お前は脇目も振らずに走れ
匙はヴリトラを信じ、全速力で走り続ける。
「無視? お姉さん、悲しいなぁ」
ジャンヌは匙が抱えている子供を見て状況を理解するが攻撃の手は緩めない。足止めの為の聖剣を何十も投擲する。
聖剣の風切り音が匙の耳に入ってくるが足を止めない。匙の後方に彼らを守る為の黒炎が広範囲に張られ、投擲された聖剣が黒炎によって阻まれる。
しかし、ジャンヌはすぐに『聖剣創造』により対ヴリトラ用の聖剣を創り上げ、再び放つ。
ヴリトラは神器を複合させることで守りを強化させ、ジャンヌの聖剣を受け止めた。半数の聖剣は黒炎によって弾かれ、更に半数が黒炎に突き刺さり、そして残りの聖剣は黒炎を貫通して地面に刺さる。
何度もヴリトラの黒炎を見ているうちに呪いへの理解が深まったのか呪いの炎を浄化する力が高まっていた。
匙の脳内にヴリトラの忌々し気な舌打ちが響く。匙もヴリトラと同じ悔しさを感じていた。五大龍王の一角『黒邪の龍王』の力はこんなものではない。
『龍王変化』さえすれば勝てる。それには一刻も早く腕の中の子供を安全な場所に運ばないといけない。
もっと力があれば、と匙は歯噛みする。今以上の力があれば英雄派二人と戦い、敵討ちが出来る。逃げる必要がなくなる。腕の中の子供が震える必要がなくなる。しかし、所詮はないものねだり。こんな余計なことを考えてしまう辺り、知らないうちに追い詰められているのかもしれない。
喰らえ
『黒い龍脈』がヴリトラの意思で発動し、ラインが伸びる。一定の長さまでなるとラインは本体から切り離され黒い蛇となって自立行動をし、地を這って物陰に移動する。
空中を飛んでいるジャンヌの視界から隠れる蛇たち。ジャンヌは一定の間隔で逃げる匙の方へ目を向けるので見逃してしまう蛇もいた。
上手くジャンヌの死角に入った蛇は建物の壁を這い、ジャンヌのいる高さまで移動するとジャンヌの意識が逸れた瞬間を狙って飛び出す。
「うわぉっ!?」
空中にいるのにいきなり跳んできた蛇に本気で驚いた声を上げるジャンヌ。しかし、驚きながらも手に持っていた聖剣を大口を開けている蛇に向かって振るう。聖剣は蛇の口に入り、上顎と下顎を切り離す。聖剣で斬られた蛇はそのまま塵となって消えた。
不意を衝かれた攻撃に半ば自動的に反撃してみせたジャンヌ。神器だけでなく肉体や技術も鍛えているのが分かる。だが、対処するのは一匹だけではない。他にも隠れていた蛇たちが一斉にジャンヌへ飛び掛かってくる。
「もぉ! 鬱陶し過ぎっ!」
蛇らの足止めに苛立ちながら次々と切り捨てる。一匹でも喰らい付かれればそこから全てが吸われてしまう。ジャンヌも正確に対処せざるを得なくなり、追撃の手が緩む。
今のうちに行け
「サンキュー! 相棒!」
ヴリトラが作ってくれた時間を無駄にさせない為、匙は急いでこの場から離れようとする。
その時、匙はバランスを崩して倒れそうになる。慌てて堪え、踏み止まった。しかし、またバランスを崩しそうになる。
「これは……!?」
最初は疲労のせいで足元がおぼつかなくなったのかと思った。実際は違っていた。地面が揺れており、そのせいで匙はバランスを崩してしまったのだ。
しかも、揺れは段々と大きくなっている。震源が匙に近付いてきていた。
「まさか!?」
嫌な予感がし、匙はすぐに走り出そうとした。すると、匙の前方数メートルの場所の地面が盛り上がり、地面を割って爆炎が噴き出す。その光景に走る筈の足が止まってしまう。
「うおらっ!」
拳を突き上げたヘラクレスが地面の中から飛び出してきた。
ヘラクレスが落ちたのは建物の内の穴。そこからここまでかなりの距離がある。そうなると導き出される答えは一つしかない。
「地面を掘り進んできたのか……!」
「俺の力と神器があれば余裕だな!」
得意気に言うが一歩間違えれば生き埋めになってもおかしくない行為。それを平然と行った挙句、匙たちに追い付いたのは狂気の沙汰である。
「落とし穴なんてつまんねぇ真似をしてくれた礼だ。強烈なやつを喰らわしてやる」
匙たちの恐怖を煽るように大きな手を握り、大きな拳を見せつける。
「時間稼ぎも立派な戦術だぜ? 引っ掛かかった奴が言っても負け惜しみだ」
「ああっ!?」
匙は言い返すが虚勢であった。ヘラクレスに臆すればその恐怖は抱きかかえている子供にも伝播する。
何か策を、と考えるが何も思いつかない。ヘラクレスとの距離が近過ぎてヴリトラの神器よりもヘラクレスの方が早い。更に匙は子供を抱きかかえている状態なので子供を巻き込む策も取れない。
(どうする……どうする……!)
ないものねだりと分かっていてもソーナのような頭脳と一誠のような爆発的な力が欲しくなってしまう。
「──安心しろ。腹が立っても嬲り殺しにはしねぇよ。一撃で粉砕してやる!」
当人感覚で慈悲を込めた台詞を言いながらヘラクレスは拳を振り上げる。
(万策尽きるっていうのはこういうことか……)
きっともっと考えればこの危機的状況を脱する為のアイディアが浮かんだかもしれない。しかし、そんな時間は匙には残されておらず、また相手も持ち合わせていない。
「まあまあ楽しめたぜ!」
ヘラクレスの巨大な拳が迫ってくる。匙は少しでも子供が生き延びる可能性に賭け、その子を抱き締めながら拳へ背を向け、自分を盾とした。
次に来る衝撃に歯を食い縛りながら覚悟を以って備える匙。
一秒、二秒と経っても衝撃は来なかった。嬲り殺しにしないと宣言した手前、いくらなんでも遅い。
匙は徐に背後を見る。ヘラクレスの拳は匙に当たる寸前で止まっている。
寸止めではない。何故ならヘラクレス自身が停止していたからだ。
「い、今のうちにですぅぅ!」
悲鳴のような高く、可愛らしく、必死な声。匙にはその声が天の助けに聞こえた。
「ギャスパァァァァ!」
極限状態から解放された反動で思わず名を叫んでしまう。名を叫ばれたギャスパーは一瞬ビクリとしていたが、すぐに匙たちに手招きをする。
「は、早く! こっちです!」
ギャスパーに言われるがまま彼の許へ行く。建物の中に隠れ、目が届かないようにする。
「さ、匙先輩! ぶ、無事ですか!?」
「あ、ああ。お前のお陰だ」
「そ、それは良かった──あああっ!?」
いきなり悲鳴を上げるギャスパー。彼の目は匙が抱きかかえている子供を見ている。
「も、もしかしてこの子をずっと守って?」
「すまん。話は後でいいか? まだ一人英雄派の奴がいる。見つかる前に安全な場所に運びたい」
「は、はいぃぃ!」
相変わらず悲鳴みたいな返事をするギャスパー。それでもギャスパーが来てくれたことは心強く、また少し安心を覚える。思っていた以上に追い詰められていたのだと匙は自覚する。
素早く建物から出る。上空にジャンヌの姿は見当たらない。ヘラクレスもギャスパーの『停止世界の邪眼』の効果によりまだ時間が止まっていた。
「お前の邪眼はどれぐらい持つ?」
「え、えーと、全力でやったからあと三分ぐらいだと……」
「上出来だ!」
ヘラクレスをそれだけの時間足止め出来るのなら文句など無い。そして、ギャスパーの神器は相変わらず凶悪な能力だと再認識する。もしかしたら、ギャスパーの神器は神滅具に次ぐもしくは同等の性能を秘めているのかもしれない。
「走るぞ。ここから離れる」
「は、はいぃ!」
匙は走り、ギャスパーも付いて行く。
子供一人抱えているとはいえ匙と並走出来るようになったギャスパー。最初の頃の文字通り箱入りヴァンパイアだった時と比べて随分と体力がついた。
「──お前一人なのか?」
走りながらギャスパーがここに来た経由を訊く。
「は、はい! 実は僕だけグリゴリの研究機関に行っていて、そこで冥界が大変だって偶然聞いちゃったので、堕天使の人たちに無理を言って冥界に来たんですぅ!」
冥界に来たのは良いがリアスたちは見つからず、どうすればいいのか途方に暮れていた所に都市部でソーナたちが避難指示を出していることを耳にし、何か役に立てるのではないかと思って居ても立っても居られなくなり独断で来たと語る。
「お前……そんな大胆なことが出来るようになったのか……」
ギャスパーの成長に感心する匙。
「え、えへへへ。イッセー先輩や間薙先輩みたいですか?」
褒められ、照れたギャスパーは尊敬するその二人に近付けたかどうか訊いてみる。訊かれた匙は言葉を失い、ギャスパーから顔を背ける。
「……ああ。そうかもな」
背けた匙の顔は哀しみが滲み出ていた。今のギャスパーの言葉で一誠とシンがどうなっているのかまだ知らないことが分かってしまう。
(言える訳がない……!)
ここで一誠とシンの訃報を教えることなど出来ない。ギャスパーの精神が不安定になって神器に影響を及ぼすから──などという打算など匙は思い付かない。ただ単に先輩に対して誇れるような後輩になれたか輝かせているその目を曇らせたくなかった。
「ま、まあ、そうだから頼りにさせてもらうぜ! 研究機関帰りだから何か得るものもあっただろうし」
何気なく言ったその言葉にギャスパーの表情は凍り付き、今度はギャスパーの方が俯いて表情を隠してしまう。
「そ、そうですね……」
お互い顔を背けてしまっていたせいで互いの表情を見ることが出来ない。そのせいで言葉以上の情報に気付くことはなかった。
抱えている子供の方は両者の間に流れる微妙な空気を感じ取り、不安そうに二人を交互に見ている。
匙は不安気な眼差しに気付き、安心させるように笑う。
「大丈夫だ。もう少しで親の許に──」
「匙先輩!」
ギャスパーが叫び、匙は急いで正面を見る。眼前に立ち塞がるように急に出現した白い壁が二人に迫ってきていた。
回避が間に合わず身を守る二人。しかし、衝撃は無く、二人は白い壁の中へ入ってしまう。
「これは……!」
壁だと思っていたものは密度の濃い霧。匙とギャスパーは濃霧の中に閉じ込められる。
不自然に発生した霧。答えは一つしか思い浮かばない。
「不味いぞ! これは──」
覆っていた霧が一瞬にして晴れる。その先にいたのは──
「よお。待っていたぜ」
「お帰りなさーい」
振り切った筈のヘラクレスとジャンヌ。
「悪いがヴリトラも『停止世界の邪眼』もここで消させてもらう。君たちの存在は俺たちにとって危険だ」
『絶霧』を所持する霧使いゲオルク。彼の霧により匙とギャスパーは振り出しに戻される。
ハイスクールⅮ×Ⅾ本編の最新刊が六年前という事実を目の当たりにし、時の流れの早さを感じます。