ハイスクールD³   作:K/K

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光弾、襲来

 風を切りながら迫りくる巨大な前足。ただでさえ大きなその足は殺気を纏い、何倍にも膨れ上がって見えるような錯覚を覚える。巨大な図体からは想像出来ない程の俊敏さを持ったそれを、シンは後方へと大きく跳び去って回避しようとする。しかし、振るわれた前足から伸びた爪がシンの想定よりも深く間合いへと入り込み、その先端が微かにシンの右の二の腕へと触れた。

 そのままケルベロスの前足はコンクリートが張られた地面へと叩きつけられ、爪の部分によって深々とした傷跡が刻まれ、前足の部分でコンクリートが捲れ上がる程粉砕される。

 シンは直撃を避けたものの自分の右腕を見て、僅かに表情を険しくする。ケルベロスの爪先が触れた部分は肉が裂けたのではなく抉られており、五センチ程の傷口からは血が少々大目に流れ出し、腕を伝わって指先から地面へと垂れ、床に幾つもの血の斑点を作っていく。

 

(かすっただけでこれか)

 

 ケルベロスから受けた傷により、自分と相手との差を客観的に思考し始める。まず少なくともシンは、この戦いにおいてケルベロスからまともな一撃を貰うことは許されない。もし直撃してしまった場合、相手の攻撃力の高さはシンの耐久力を上回っていると考えられ、そのまま死を迎えてしまう可能性が高いからだ。

 そして、次に動きが制限されるような負傷も負ってはいけない。ケルベロスは巨大な体ではあるが動き自体は鈍重では無く、むしろ速いと言ってもいい動きをする。そんな相手からの攻撃を逃れる為には、骨折あるいは大量の出血が伴う様な傷を受けることは絶対にならない。シン自身痛みに対してはある程度許容出来る自信はあるが、咄嗟に動く場合に生じた痛みが反射的に動きを鈍らせる可能性が高く、それは最初に挙げた相手の攻撃をまともに貰ってしまうことに繋がる。

 つまりこの戦いはほぼ無傷で切り抜けなければならない。それもこの場から少し離れた場所で今も術式の解除を行っている椿姫から注意を逸らしながら。改めて考えると相当難易度の高い戦いとなる。

 ケルベロスは六つもある赤い瞳をシンへと向けながら、その内の真ん中にある頭部が口を開き、そこから火球を吐き出す。

 

「ジャックフロスト!」

 

 シンはジャックフロストの名前を呼びながら放たれた火球を左右に避けるのではなく、火球に向かって走り出す。

 そのときシンの背中に飛び乗るようにして、離れた場所にいたジャックフロストがシンに召喚された。

 

「ヒーホー!」

 

 気合を込めた声を上げるとジャックフロストは指先をシンの走る先に向け、そこから魔力を発生させる。発生した魔力は水へと変化し、更にそこから急速に温度を下げられることによって、状態変化を起こして固体と成り、シンの前方に何枚もの氷壁を造り出す。

 幾重にも重なった氷壁にケルベロスの吐き出した火球が直撃する。火球が秘めた熱はジャックフロストの造り出した氷壁をあっさりと融かし、二枚三枚と続け様に撃ち抜いていく。シンの前を守る氷壁もついに最後の一枚となり、それすらも火球が容易く蒸発させていく。だが、それこそがシンの狙いであった。シンは最初から身を守る為にジャックフロストに氷壁を造り出すように指示を飛ばしたのではない。

 ケルベロスの熱によって融かされた氷壁は液体から一気に気体まで変化し、周囲一帯に高温の蒸気が発生する。その水蒸気を顔に浴びるのを嫌がりケルベロスが目を細める。それはつまり視界を狭めるということであった。

 この瞬間シンは、迫る火球と床との隙間に潜り込み身を低くし地面を滑る様にして避けると、そのまま蒸気の中へと突っ込む。高温の蒸気に蒸されない様にジャックフロストによって生み出された冷気を纏いながら、シンはケルベロスの胴の真下に潜り込んだ。

 文字通り相手の懐に忍び込んだシンは右手に魔力を収束し始め、それが剣を形作る。以前ライザー戦で使用した『熱波剣』であるが、あのときとは違い魔力を溜め込む為の器となる剣の魔力を調整することによって、短時間で準備を整えることが出来る。しかし、その反面威力と攻撃の範囲は格段に下がり、直接相手に刺し込まなければ十分な威力が発揮できない。故にシンはケルベロスの懐へと入り込んだのである。

 白光色を放つ右手の魔力剣をシンの姿を見失ったケルベロスの胴体に刺し込もうとしたとき、水蒸気の中に影が映る。シンがそれに気付いたとき、水蒸気の中から飛び出してきた影が一瞬にしてシンの体に絡みつく。喉を締め上げる圧迫感と胴体が絞られていく苦痛、魔力剣を持った右腕も胴に押し込むようにして締められ、使用することが出来ない。

 脳へと送られていく酸素が遮断され、視界の端が徐々に黒い色によって浸食され始める。辛うじて動くのは左手の指先のみであり、それを可能な限り伸ばして絡みつくそれに爪を立て引き離そうとするが、爪の先から返ってくる感触はまるで鋼線を束ねたものに触れたかのようであり、温度を感じさせない冷たく滑る様な感触。

 欝血し顔色が変化していくシンの耳に空気が抜ける様な音が聞こえてくる。無理矢理顔を動かし、音の方に目を向けるとそこにはあったのは黒い鱗に覆われた大蛇の姿。大蛇はしきりに長い舌を動かし、先程聞こえた空気の抜けるような音を立てている。それが大蛇の鳴き声であるらしい。

 初めてケルベロスを見たときは体毛に覆われた尾であったにも関わらず、いまはこの様に鱗をもった蛇となり、シンを絞殺しようと長い胴体に力を込めている。

 ケルベロスが自らの意志で尾の形を蛇に変化させるという能力をシンは知らなかったために、相手を嵌めたつもりがまんまと自分が嵌められるという失態を犯してしまう。

 急速に視界が暗くなっていく。このままでは不味いとシンが途切れ途切れになる意識の中で思ったとき、耳元で意識を覚めさせるような声が聞こえた。

 聞き慣れた仲魔の声。近くに居る筈であるが、遠退いていく意識のせいで離れた場所に居るかのような微かな声であった。

 その途端、シンの締め上げる力が緩まるのを感じた。脳への供給が断たれていた酸素が一気に血中の中を駆け上がり、脳へと到達する。暗く、狭まった視界が元に戻ったとき、シンは何故力が緩まったのかを知る。

 

「ヒホー! ヒホー!」

 

 シンを締め上げていた大蛇の顔に、ジャックフロストがしがみ付いていた。短い手足を必死になって伸ばし、大蛇の頭を上から押さえつけるようにして抱き、体中から冷気を放ち続けている。ジャックフロストの冷気は瞬く間に相手を冷却し、黒い鱗を霜で白く染め上げていく。大蛇もジャックフロストを振り払おうと頭を激しく左右に振るうが、ジャックフロストは断固として離れない。

 ジャックフロストに意識を傾けたことと放たれ続ける冷気のおかげで、シンを縛っていた胴の力が完全に弱まる。シンは自由になった両腕にあらん限りの力を込めて、絡みつく大蛇の胴を内側から引き伸ばし空間を作る。その出来た空間の中で片膝を高々と持ち上げると、渾身の力で伸びた大蛇の胴体に靴底を叩きつけた。

 踏みつけられた大蛇の胴体は地面と靴底の間で挟まり、その圧迫によって胴体からは鱗を突き破って血と肉が噴出し、辛うじて皮一枚で繋がっている状態となる。

 

ギャオオオオオオオオオオオン!

 

 シンの行為に大蛇ではなくケルベロスが苦しむ声を上げる。姿は違えどこの二匹の感覚はやはり繋がっているらしい。胴体が千切れかけている大蛇は口から泡を出し、痙攣を起こし始める。

 掴まっている大蛇の動きが大人しくなったのが分かると、ジャックフロストは大蛇の頭からシンの方へと飛び移り、シンはそれを左手で受け止める。

 

「助かった」

「ヒホ!」

 

 礼を言うシンにジャックフロストは誇る様な声で答える。

 胴体が千切れかけている大蛇が最後の抵抗を試みたのか、口を180度開くと、長く伸びた牙と毒液に濡れる口腔をシンに晒しながら、頭からシンを飲み込もうとする。

 だが所詮無駄な足掻きであると証明するように、シンはその口腔内に右手に展開させている魔力剣を捩じり込んだ。魔力剣の先端が大蛇の上顎に突き刺さる。しかし、魔力剣自体に相手を殺傷する威力は無い。刺し込んだ本当の目的は、狙いを外さないようにする為であった。魔力剣内部に溜め込まれた魔力が、刺し込まれると同時に解放される。破裂することを今か今かと待ち望んでいた魔力は、一気に解き放たれたことを歓喜するかのように、一瞬にして大蛇の口内を蹂躙する。圧縮された魔力は大蛇の身を引裂き、吹き飛ばし、肉が無くなったことによって露出した骨も瞬時に砕く。

 大蛇の頭部はシンの魔力剣の威力にあっという間に粉砕され、頭部と繋がりがあった部分は断面と晒し、一呼吸遅れて鮮血が噴き出す。

 倒した。この瞬間シンはそう考えてしまった。この考えが僅かにシンの判断を遅らせる結果となる。頭部を失った筈の大蛇の胴体が死に体の状態から身体を動かし、その丸太のように太い胴体をシンへと叩きつける。油断をしてしまったシンには躱す余裕は無く、咄嗟に右腕を前へと出した。

 重い衝撃が奔り、シンの体が地面と水平にして飛ぶ。痺れるような感触が右手に残るが、魔力を十分に纏わせてしたことと、相手の力が殆ど残っていなかった為重傷を負わずに済むことが出来た。

 シンは水蒸気の中から飛び出した時、そこで自分の睨む六つの瞳と目が合う。その瞳のどれもが怒りと殺意を滾らせており、尾の大蛇を殺したことへの復讐心に燃え盛っていた。

 ケルベロスは咆哮を上げるとシンに飛び掛かる。シンは左腕に抱きかかえているジャックフロストを出来るだけ遠くへと投げ飛ばし、自分はその反対側へと移動する。

 

「ヒホッ!」

 

 投げ飛ばされたジャックフロストが地面に顔から着地して痛そうな声を上げていたが、今はそのことに構っている暇はない。幸いケルベロスの怒りの矛先はシンへと向かっていた為、危機からジャックフロストを遠ざけることには成功した。

 走るシンの目に、口を大きく開き、噛み殺そうと飛び掛かるケルベロスの姿が見える。一番左の頭の噛みつきは回避することは出来た。中央の頭の噛みつきも回避することが出来た。しかし、一番右端の頭の噛みつきを回避することはタイミング的に不可能であることを察する。

 シンは右の頭の牙が自分へと届くその前に、その上顎を両手で掴み、そして下顎も片足で踏みつけ閉ざされる前に閉ざすことが出来ないようにする。

 生臭い息が顔に当たる。

 空いた足で地面を踏みつけながら耐えるがケルベロスは顎に力を込め、抵抗するシンをそのまま噛み砕こうとする。じりじりと後方へと押されながら、シンも両手片足に力を込めて抗う、犬歯程ではないが鋭く尖った他の牙が手や足に突き刺さり、血が流れていくが、その痛みに構う暇はない。

 そのときシンは、右頭の喉の奥から橙の光が漏れ出していることに気付く。それは火球の放つ準備をしていることを示すものであった。この状態ならば確実にその火球を喰らい、炭と化してしまう。一刻の猶予の無い状況にシンは次の行動に移る。

 地面と踏み締めていたもう一方の足を持ち上げ、下顎の牙を踏み砕きながら押し込むと両手両足に持てる全て力を注ぎ込み、そして一気に力を爆発させる。上下に加わる力にケルベロスの顎はみしみしと音を立て、それが限界を迎えたときガコンという大きな音と共に下顎が力無くぶら下がったような状態となった。ケルベロスの右の頭の顎が外れたのである。

 自らに起きた事態にケルベロスは喉の奥から苦鳴らしきものを洩らすが、未だ奥にある炎の灯りは消えない。シンは大きく息を吸い込むと、閉じることの無いケルベロスの口内に向かって『氷の息』を吹き出した。白い冷気はケルベロスの喉の奥へと入り込み、触れるもの全てを凍てつかせていく。

 これには堪らなかったのか、ケルベロスは頭を激しく左右に振り、口を掴んでいたシンは振り払う。シンもその勢いに乗じて手を離し、ケルベロスと数メートル程の距離を開けた。

 ケルベロスの右頭の閉まらない口から長い舌が垂れさがる。その舌には霜が付着しており、口内からも未だに吹きかけた冷気が漏れ出していた。三頭ある頭の内の一つは当分の間使い物にはならないことになる。

 まだ動く残りの二頭が明確な殺意を持ってシンを睨みつけ、喉からは恨みが込められた唸り声が重い響きを場にもたらす。

 

(これでいい)

 

 相手の狙いが完全にシン一人に絞られたことに内心満足する。これでますます椿姫が狙われる確率が低くなったことになる。シンはケルベロスを警戒しつつも、視線をさり気無く椿姫の方へと向ける。椿姫は壁に浮かんだバルパーの術式に手を翳し何かを呟きながら、徐々にではあるが術式から放たれている魔力の光を押さえこんでいた。

 時間がどれほどかかるかはまだ分からないが、この調子であれば、あと数分もあればここから抜け出せる可能性が高いとシンは判断する。場合によっては、結界が解呪されると同時にここから脱出する考えもあった。あくまでシンの目的は時間稼ぎであり、目の前で殺意を滾らせるケルベロスを始末することではない。しかし後のことを考えると、この場で戦闘不能な状態にするか命を奪うかという選択肢が出て来る。

 ならば取るべき選択はすでに決まっている。後へと繋がる危険を断つため、そして目の前の敵の命のことを考えて戦える程自分に十分な強さが無い故に。このとき既にシンは割り切っていた。

 ケルベロスの二頭が口を開く。再び火球を放つ体勢に入ったことを理解し、シンはなるべく火球の余波が椿姫に届かない様に、椿のいる位置から反対側へと走りながら移動しつつ、ケルベロスとの距離を縮める。

 ケルベロスの牙の隙間から炎が漏れ出したのが見えると、そこから一気に火球が吐き出される。だが、吐き出された火球は一つしかない。ケルベロスの左頭は火球を吐き出さず、左目を閉じ、眉間に皺を寄せて苦悶の表情を浮かべていた。見ればケルベロスの左目の周囲にはいくつもの氷柱が突き刺さっている。それは火球が吐き出される直前にジャックフロストが放った氷柱であった。

 

「いくホー!」

 

 埃に塗れた顔をしたジャックフロストの声援を背中に受け、シンは生じた攻撃の隙間へと踏込み、左頭の死角からケルベロスへと接近する。そのとき放たれた一発の火球が床へと接触し、炎を噴き上げる。そのとき生じた爆発によって床一面に積もっていた埃が一斉に舞い上がり、ケルベロスは目に入るのを嫌がり反射的に瞬きをしてしまう。このとき中央の頭部は、シンの姿を刹那の間見失ってしまう。

 相手をほんの僅かな時間見失ってしまったケルベロス。だがすぐに視覚で追うことを止め、嗅覚で追うことに切り替える。そこで近付いて来るシンの匂いに気付くが、シンの居る場所は既にシンの拳が届く範囲内、左頭の真下であった。

 気付いたケルベロスが後方へと飛び退さるよりも早く、シンの握り締めた右拳が左頭の顎を下から殴り上げる。口の中で歯と歯が激しくぶつかり合いその衝撃で数本の歯が折れる。突き上げた勢いで仰け反りそうになる頭を左手で口吻を掴んで押し止めると、間髪入れず今度は爪先で蹴り上げた。折れた歯が今度は凶器となってケルベロスの口の中を裂き、あるいは突き刺さって激しく傷つける。口の隙間からは夥しい血が流れる。その零れ出た血で汚れた口吻を今度は両手で掴むと、再びケルベロスの顎を蹴り上げる。

 蹴り上げた爪先から伝わってくるのは、固くも柔軟性のある骨の感触と、それが砕ける感触の二つであった。砕かれた顎は弛緩し下顎がただ皮膚と肉のみで繋がっている状態となり、歪んだ下顎は大きく口を開いた状態となる。絶え間なく血は流れ続け、ケルベロスの足元を汚していく。

三頭ある内の二頭を潰されたケルベロス。頭は三つでも一つの胴体の為か痛みも共有している様子であり、真ん中の頭は明らかに痛みを堪えているように顔に深い皺を刻み、全身を細かく震わせている。最初のときと比べてケルベロスから感じられる殺意は明らかに薄まってきており、度重なる痛みに怒りよりも恐怖の方が増しつつあるのか、いつでも飛び掛かれる様な前のめりの体勢も、腰が引けたものへと変わっている。

 このまま行けば相手の命を奪うよりも相手の心の方が先に折れそうになるという展開は、シンにとっては誤算であった。だが決してシンにとって不本意な展開では無い。方法が無ければ殺生も致し方ないという考えはあるが、好き好んで殺す趣味などは無い。少なくとも命を奪うことに喜びを見出していないシンには、願ってもいない状況であった。

 完全に折るにはどうするべきか、先程までの殺す前提の考えを切り替え、相手を屈服させる為の方法を考える。

 だが、ケルベロスは衰えた闘志ながらも一瞬思案するような表情をしたシンの姿に隙を見出したのか、後ろ足で地面を蹴ると前足を大きく振り被りながらシンに向かって飛び掛かる。

 数メートルの距離など無いと等しいと謂わんばかりにシンの間合いの中へ強引に入れてくる巨大な爪。

 それがシンへと振るわれたとき、シンの頬に真紅の血が飛び散った。

 

(……終わりだな)

 

 全身に掛かる血を見ながらシンの心の中でそう呟いた。最初に考えていた様にケルベロスの巨体から繰り出される攻撃を耐えることはまず不可能であり、もし貰ったのであればシンの勝ち目は零になり、すなわち自らの死を意味する。ただし――

 

(あれをまともに受けていたら)

 

――それが直撃していた場合である。

 振るわれた前足の間合いの外へと立つシンの体には傷一つ無かった。シンの体の至る所に付着している血液は、ケルベロスが先程から流している血であり、前足に付いていたものが振るった拍子に付着しているだけに過ぎなかった。

 攻撃が外されたケルベロスがすぐさま二撃目を繰り出そうとしたとき、シンがそれよりも先にケルベロスに向かって跳ぶ。

 跳んだシンはケルベロスの中央の頭の眉間を踏み台にして中央の頭の後頭部に移動すると、その首を両足で挟み込む。中央の頭は何とか振り落とそうと頭を揺するがシンの体は微動だにせず、固定しているかのように動かない。

 ケルベロスが抵抗する中、シンは右掌をケルベロスの後頭部へと押し付ける。その状態でシンは右手の中に魔力を集め出した。かつて朱乃に体内で魔力を集中させてはいけないという言葉を貰っていた。それはそのときのシンの実力では魔力を正確に操作する技術が無く、それをした場合、溜め込まれた魔力が暴発して溜め込んだ箇所が吹き飛ぶ危険性があったからだ。

 しかし、それは既に過去のことである。シンの右手の紋様が肘の辺りまで浸食して以降、魔力操作の正確性は明らかに上昇し、危険とされていた魔力の体内集束を容易に行える程にまでなっていた。新たに増えた技術からシンはそれを使用し、新たな技が出来ないかと考える。そこで注目したのが、一誠の持ち技である『ドラゴンショット』であった。

 倍加によって得た膨大な魔力を一つの形に留め、相手に向かって放つ。それは『氷の息』や『熱波剣』といった、狙いを一点に絞って放つことが出来ないシンの技とは対称的なものであった。

 今まで得た要素を束ねて一つの形にしたシンの新たな技。まだシンが納得する段階には至ってはいないが、それでも十分な威力を秘めている。

 血管の一本一本に、熔解した鉛でも流し込まれたかのような熱を帯び始める。魔力自体に質量などないが、大量の魔力が右手へと流れ込むたびに血管が拡がっていくような錯覚を覚える。魔力を流し込まれる度に熱く滾り、内側から爆ぜそうになる右手の中の魔力を、意志の力で捻じ伏せるように抑え込み制御する。

 やがて右手に限界寸前まで魔力を送り込んだとき、シンの右手は内に溜まった魔力が出口を求めて激しく暴れ、痙攣を起こしたかのように震え続ける。それをシンの左手が右手首を掴み強引に震えを止め、狙いを定められるようにしたことによって、ようやく技を放つ準備が整う。

 

「これを使うのはお前が最初だ」

 

 そう告げたことにシン自身、特に意味を考えていなかった。言語が通じるかどうか分からない相手、ましてや敵に対して言う必要のない言葉。しかし、自然と口から出てきた言葉。あえて意味を付けるならば、これからすることに対しての謝罪の言葉の代わりの様なものであった。

 右手を掴んでいる左手に、僅かな魔力を流し込む。それを一旦左手の中に留める。そしてそれが一定の量まで溜め込まれたとき、右手に向けて溜め込まれた魔力を一気に流し込んだ。右手の中の魔力が、更に流し込まれた魔力によって決壊寸前までいくと同時に、右手の魔力を全開放する。撃鉄を叩き込まれた銃弾のように内部で小規模な爆発が起こり、その勢いによって全ての魔力が右掌から放出された。

 右手の紋様と同じく蛍光の色を持った球状をした魔力の塊は、押し付けていたケルベロスの頭を一瞬にして飲み込み、鳴き声すら出す暇も無くケルベロスの頭部は塵すら残さず消失させた。

 それでも威力が衰えない光弾はそのまま地面へと接触し、そこから地面へと沈み込んでいく。床が砕ける音も土が掘り起こされて舞うこともなく、ただ進む方向にあるものを消し飛ばしていく。だが、床から二、三メートル程沈み込んだとき光弾は解れ始め、そのままただの無害な魔力となり、空気に溶け込むようにして消え去ってしまった。

 中央の頭を失ったケルベロスの体が、地面へと倒れ込む。シンはそれよりも先に飛び降り、倒れたケルベロスの方を見た。中央の頭が在った場所は、断面をさらけ出す首しかない。そこからの出血は無く、骨、血管、筋肉組織が綺麗に見える。

 生物に対して初めて使用した技の為、今後の参考にと観察した後に、シンは先程の光弾であけた穴を見る。

 深さは約二メートル、それを見てシンは軽く嘆息する。折角編み出した技ではあるが、これには欠点があった。込める魔力は『熱波剣』や『氷の息』をも上回るが、それに反して射程距離が致命的に短いものであった。シンが望む形では、少なくとも自分の持つ二つの技ほどの範囲が欲しかったが、それに至るまでにはまだ研鑽が必要であった。

 

「ヒホ! シン!」

 

 そのとき、ジャックフロストの警戒する声が聞こえてきた。ジャックフロストの方へと目を向けると、ジャックフロストが何かを指差している。シンは指差す方を見ると、倒れていたケルベロスが立ち上がろうとする姿があった。

 

(大した生命力だ)

 

 頭を一つ失い、残り二つの頭も重傷を負っているがそれでもケルベロスはまだ屈するつもりはないらしい。あるいは自分の命の限界を見越して、せめて一矢報いるつもりなのかもしれない。

 左右に激しくぶれる四肢に力を込めて身体を起こす。その最中、消失した中央の頭が在った場所の断面から血が吹き出し始めるが、それでも動きを止めようとはしなかった。

 まだ戦いは終わっていない。改めて今行っていることが命のやりとりであることを実感する。命の一片を尽くして足掻くケルベロスを相手に自分がすべきことは何か。

 結論はすぐに出た。

 シンの右手に、また魔力の光が灯り出す。今度は、先程見せた魔力剣の比では無い程の全力で右手に送り込み、魔力剣を形成していく。右手の中で造り出されていく魔力剣の光は、前の光と比較すれば電灯の光と太陽の輝きという程の差が有り、直視出来ない程の閃光を放っていた。

 ライザー戦の一件以来、劣化版ともいえる『熱波剣』の習得と共に、本来の『熱波剣』の威力の向上にも務めていた。あのときはまだ片手で数える程しか使用していなかったこの技も、連日魔力が空になる寸前まで使用し続けた結果、両手両足で数え切れない程の使用回数を熟してきた。使う回数が増えるにつれ、それを使用する際のコツともいうべきものを掴み始め、徐々にではあるが大量の魔力を込めた魔力剣の制御に慣れ、込める魔力の量は増え、またそれに伴い、準備から使用までの時間を僅かに縮めることも出来た。最初は十秒かかっていた『熱波剣』も、今ではその半分以下の時間で使用することが出来る。

 シンが形成した魔力剣の内部で極限まで圧縮された魔力が、行き場を求めて暴れ狂う。

 死に行く者に全力を以って相手するのが敬意――などというのは自己満足であり、敬意を以って殺したとしても殺されたものが納得する筈も無く、またそれで殺した者への怨みや憎しみが消えるなどと都合のいい考えをシンは持たない。有るのは今ここで命を奪う自分は、いずれ誰かに命を奪われるのだろうという考えであった。

 横薙ぎに払われた魔力剣。その内に篭る魔力が殻を破り、暴力となって一斉にケルベロスに襲い掛かる。魔力の暴風はケルベロスの巨体を軽々と浮かせるとそのまま壁へと叩きつけ尚もその肉体を圧する。四肢は別々の向きに折れ曲がり、そこから更に捻じ曲げられ肉を突き破り骨が姿を見せる。胴体は魔力と壁に挟まれ耐えきれる限界以上の圧力を受けて骨の砕ける音を鳴らしながら変形し始め、折れた骨が近くの臓器を裂き内側を血の海と化す。既に半分程の厚さまで圧縮された胴体、それによって大量の血液が二頭の口から噴出し始める。結界でも許容できない程の破壊を生み出しているのか、壁の一部に亀裂が生じ始め、はめ込まれたガラス窓が耐え切れずに窓枠ごと外に飛ばされていく。

 やがて魔力の暴風は収まり、その後に湿った引き摺る音と、液体が跳ねる音がする。それは壁にへばりついていたケルベロスだった肉塊が地面へと落ちた音であった。元の形がどんなものであったのか、想像することが難しく思える肉体の破壊。

 蹂躙。その言葉が相応しく思える程の一方的な破壊。今までシンが裡で考えてきたこと全てが白々しく思える程の無慈悲と残酷がそこに存在していた。

 自分が起こした惨状に目を背けずに眺める。物言わぬ躯となったケルベロスを見ながら、想像以上に罪悪感を抱かない自分の冷めた心情と、それどころかこの死体をどう処分しようかと考え始めている自分自身に内心驚く。比べるには難が有るかもしれないが、昔は犬も飼ったことのある身としては、似たような生物を殺めたことにもう少しは人間味のある感情が湧き立つと思っていたが、終わってみれば特にそんなことは殆ど無い。そもそもこうやって客観的に自分を見ていること自体、ある種の異常であった。

 我ながら碌でもない成長をしていると、内心自嘲する。

 昔はもっと人間味がある性格であったなと過去に思いを馳せつつ、シンは床に横たわるケルベロスの亡骸を見ながら、ある疑問を抱いていた。それは冥界の生物であるケルベロスを、堕天使側がどうやって手に入れたのかというものである。

 現状でこれを入手することが出来る可能性を持つ人物は、この騒動の発端であるコカビエル、そしてそれと協力関係にあるバルパーであった。一応フリードも候補に考えたが、あの壊滅的な人格と不快感そのものと言っていい社交性から即座に却下した。

 この二人のどちらかがケルベロスを手に入れたとして、一番重要なのはどういった方法で手に入れたのかということである。いくら強力な力を持っていたとしても、敵対関係にある悪魔側のケルベロスを、誰にも知られずに手に入れられるとは考え難い。

 少なくとも悪魔側に、コカビエルたちと繋がっている存在がいる可能性が高いとシンは推測する。堕天使と悪魔、本来なら殺し合う立場であるが、何らかの共通する目的があるとしたら、互いにメリットのあることならば、手を結ぶことも無きにしも非ずと考えられた。

 尤も、この考えはあくまで邪推のようなものであり、飛躍して考えているに過ぎないこともシン自身自覚していた。だが、捨てきれない考えでもあるので、戻ったらリアスたちに今の悪魔の現状――あまり表に出したくない事情――などを詳しく聞いてみようと思うのであった。

 

「まさか本当に二人で倒してしまうなんて……」

 

 驚きを含んだ言葉が聞こえてくる。振り返ると、普段の冷静な表情ではなく、目を丸くしている椿姫がシンの方へと歩み寄ってくる。

 

「終わったんですか?」

「ええ、間薙くんたちが時間を稼いでくれた御蔭で、ここの術式の改変をすることができました」

 

 椿姫が指を鳴らすと壁一面に伸びていた結界の網が一斉に剥がれ落ち始め、力を失ったせいか床に落ちる前に塵の様になって消える。

 

「大したものですね」

「その言葉はそっくり返させて頂きます。本当なら私も戦いに参加するべきでした……強いですね、御二人は」

 

 崩壊していく結界を見ながら感心した言葉を口にすると、椿姫の方からも賞賛の言葉が出て来る。

 

「ヒーホー! オイラも毎日一杯動いているから強くなっているんだホ!」

 

 両手を腰に当て胸を張るジャックフロスト。椿姫は淡い笑みを浮かべながら、偉いですねと言って頭を撫でる。撫でられたジャックフロストも満更でない表情であった。

 各自の戦いを終えた二人の姿に場の空気は暖まりつつあったが、それに浸かる前にシンは聞くべきことを聞く。

 

「副会長、もうここの術式は無害なんですね」

「はい、この場所の術式にはもうこの街を破壊する効果はありません。それと改変の最中に分かったことがあります」

 

 術式を解析する最中、椿姫はその術式から別の場所へと繋がる魔力の線〈ライン〉を発見したという。その線を辿ってみた先に有ったのは、別の場所にある術式だったと語る。椿姫が分析するに、この術式自体が一種の爆薬のようなものであり、それに繋がっている線は導火線であるという。何処かにある点火装置から魔力を流すことによって、線を伝わり次々と術式を作動させ、大規模な破壊を生み出すというものであった。

 

「その線を使って、逆にここから他の場所の術式は破壊できないんですか?」

「その方法は危険です。遠隔から魔力を流した場合、それに反応して誤作動を起こす可能性があります」

 

 何事も都合のいいようには出来ていないらしい。それでも、今回の術式の発見によって、残りの場所にある術式の在処を把握できたことは大きな収穫であった。これによって、探索に費やす時間は大幅に短縮することが出来る。

 

「このことを早く部長や会長に報せないといけませんね」

「はい。ここには長居無用――」

 

 椿姫の表情が一瞬にして凍り付く。血の気が引いた唇は震えだし、動揺で揺れる瞳がシンを、より正確に言えばその背後に視線を向けていた。明らかな恐怖、ジャックフロストも椿姫と同様の反応を示している。

 

(……どういうことだ)

 

 シンは二人のような反応はしなかったが、二人が何故怯えているかは理解出来ていた。前触れもなく現れた強力な圧力を背中から感じる。それは、全身の温度を奪われたのではないかと思える程の重圧を与え、それなのに背中から冷たい汗が絶えず流れ続ける。

 二人が呆然と見る自分の背後。シンも振り返るつもりであったが、肉体がそれを拒否するように硬直し抵抗する。それでもこのまま立っている訳にもいかず、全身を無理矢理動かし背後を見た。

 

「ほう、想像していたのとは随分と違う顔をしているな」

 

 黒いローブを纏う長身の男が嗤っている。

 最初に印象に残ったのはその双眸であった。白目の部分は血を流しこまれたかのような真紅であり、その目の輝きはケルベロスと似たような光を放っていたが、ケルベロスと比較出来ない程の濃い殺気でぎらついている。艶の無い黒そのものといっていい長髪、そして全身を覆う黒いローブのせいもあって、その目は異様な存在感を放っていた。

 

「そんな……こんなに簡単に接近を許すなんて……」

「それは冗句で言っているのか? 悪魔の目を掻い潜る方法などごまんとある。本気で言っている様なら悪魔も随分と鈍くなったようだな――笑えん」

 

 椿姫は震える声で、これほどの存在感を持った相手が目の前に来るまで気付かなかったことに動揺するが、男はそんな椿姫の反応を侮蔑する。

 

「つまらんなぁ、つまらん、あまりにもつまらん! 戦争が終わればこれほどまでに質というものは低下するのか? 悪魔しかり天使しかり――堕天使もしかりだ」

 

 自分以外の全てを罵る男の言葉。そこには隠そうとはしない狂気と飢餓感が込められていた。

 

「まあそれでも、この退屈を紛らわせるかもしれない者は存在するらしいがな」

 

 男の視線がシンへと向けられる。期待、飢餓、殺意、歓喜、いくつもの感情を織り交ぜた、穿つような視線を受け、軽い嘔吐感を覚えた。

 

「お前は俺の血を滾らすことが出来るか?」

 

 答えるよりも先にシンは行動を起こす。躊躇うことなく椿姫の胸元を掴み上げると、窓枠が外れた壁に向かって全力で投げ飛ばす。

 椿姫は突然の事態に付いて行けずそのまま外へと飛び出すが、地面に落下する前に悪魔の羽を広げて宙へと飛翔した。

 

「間薙くん――」

「ヒホー!」

 

 椿姫が何かを言う前に、今度は椿姫目掛けてジャックフロストが飛んでくる。慌てて受け止めると、工場の中からシンの大声が聞こえてくる。

 

「二人はこの場から離れて部長たちの下へ」

「ですが!」

「早く行け。犠牲が増える前に」

 

 椿姫は強く唇を噛み締めると、工場に背を向けて飛び始める。それを抗議するようにジャックフロストが暴れるが、それでも椿姫はジャックフロストを強く抱き締めたまま、無言で飛び続けた。

 

「頼みましたよ」

「ハハハ、自分よりも仲間を優先するか。――甘いな」

「お前の狙いが俺一人なら他を逃がす確率が高いと思って逃がしただけだ。そうだろ?」

「成程、そういう考えは嫌いではないな」

 

 男は嗤いつつ、自分の右手をシンへと見せる。黒い皮手袋を着けた右手を見て、シンは胸の奥がざわめくような感覚を抱く。

 

「この右手の疼き、お前を前にして一層激しくなってきた。どうやら俺の勘は鈍ってはいないようだな」

 

 男の背中から黒い翼が飛び出し、周囲に黒い羽根が舞う。その数は十。男の正体に薄々は気付いていたシンであったがこれを見て確信する。

 

「――お前がコカビエルだな」

「その通り。今度はこちらが訊ねる番だな」

 

 コカビエルは笑みを深くする。

 

「お前の名は何というんだ? 『魔人』よ」

 

 

 




主人公の戦いのスタンスは「壊せるとこから壊していく」という感じにしています。

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