ハイスクールD³   作:K/K

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左眼、聖魔

「あいつら大丈夫だよな……」

 

 何回目になるか分からない呟きを匙は洩らした。学園周囲を覆う結界を維持する為に生徒会のメンバーは散り散りとなって、各所で魔力を送り込んでいるが、その間一人になるとどうしても不安が心の中に芽生えてくる。

 最古参の堕天使、そういった肩書きだけでも不安を煽られるが、一誠たちも切り札ともいえる『神滅具』を所持しているため、そう簡単には負けないであろうという希望も持っていた。

 

(俺も参加したら……って言っても足手まといか……)

 

 そう考えて、途中でその考えを捨てる。攻撃よりも補助に向いている自分の神器では、コカビエルたちと戦っても役に立つビジョンが見えてこない。ならばせめて最初に言われた通り、周囲の被害を最小限にするために結界の維持に努めるだけである。

 そんな決心をしていた匙の耳に、ある音が入ってくる。

 

「んん?」

 

 初めはただの空耳であると思った。だが次の瞬間、更なる音が聴こえてくる。聞き間違いでなければそれは音では無く動物の唸り声、それも一つでは無く複数重なって聞こえてくる。

 

(まさか……)

 

 急速に体温が失われ、背中からは夥しい量の冷や汗が流れていく。気を抜けば膝が震えてしまいそうになる中、匙はあることを思い出していた。

 副会長の椿姫が最初の術式を発見したとき、罠として召喚された一匹の魔獣。シンとジャックフロストの二人でそれを撃退したと聞いたとき、素直に匙は凄いと思い、感動すら覚えていた。有名な魔獣を倒す、それだけでどこかの英雄のようなカッコよさがあり、一男子として自分もそうなってみたいという純粋な憧れを覚える。

 だが、実際それを目の当たりにして自分はどんな行動がとれるのか、迫り来る地響きのような足音を前にして、匙は自問自答する。

 

「……あー」

 

 そんな間の抜けた声が思わず出てしまう。しかしそれは無理もないことであった。自分の前に現れる、見上げる程の黒い巨体。三つもある頭の口からは生臭さと鉄の匂いが混じった唾液が零れ、足下を濡らしている。

 六つの紅い瞳を向けられ、匙は心底縮み上がっていた。魔獣ケルベロス、それがどういった因果か、匙の前に立ち塞がっているのだから。

 

「勘弁してくれ……」

 

 ケルベロスを前にして思わず弱音を洩らす。だが、ケルベロスは相手の心情など一切汲まず、ずらりと並んだ白い牙を見せ、今から匙を喰い殺そうとしていた。

 

「ああ、畜生……」

 

 もしこのとき、この場所で無かったならば、匙はこの敵を前にして逃亡していたかもしれない。だが今このとき、別の場所では友人が命懸けで戦い、最愛の人も懸命になって結界を維持している。そしてこの場所は自らが育った街であり、そして学ぶ学園である。

 これを野放しにすればそのどちらか、あるいは両方を傷付ける危険があった。

 だからこそ匙は決断する。恐怖に怯える心を無理矢理奥にしまって。

 匙の手に神器である『黒い龍脈〈アブソーブション・ライン〉』が装着される。

 

「俺が遊んでやる。掛かって来いよ! 犬っころ!」

 

 迫る脅威を前にして匙は啖呵を切る。

 

 

 

 

「間薙!」

「シン、やっぱり生きていたのね!」

「無事でなによりです」

「……信じていました間薙先輩」

 

 現れたシンに一誠たちは、戦いの最中ではあるが喜びの声を上げる。しかしそれは無理もないことであった。つい先程、コカビエルによって重傷を負わせられたことを告げられたこと、そして重傷であった筈のシンが無傷で戻って来たことであった。

 

「おかえりー」

「また会えたんだホー!」

 

 ピクシーはいつもと変わらず、ジャックフロストは瞳を潤ませながらシンの帰還を労う。

 そんな中、唯一シンが行方不明であったことを知らなかった木場は、シンの格好に驚いた様子を見せていた。学園指定の白シャツには所々穴が開き、赤黒い血痕がかなりの量付着している。なによりシンの左眼が、今まで見たことの無い光を放っていたことが、戸惑いを生んでいた。

 

「間薙くん……」

「色々と話したいことがあるが後回しにしてくれ。俺よりもそっちの方と話すのが先じゃないのか?」

 

 シンが顎で指すと木場の周囲には、いつの間にか青白く輝く少年少女たちの姿があった。その体は半分透き通っており、体の向こう側の景色が見えている。その放つ輝きは因子の結晶から溢れた光と同じことから、因子の中に眠る魂と考えられた。

 

「皆……久し……ぶりだね」

 

 自分を見上げる少年少女たちに、木場は言葉を詰まらせながら呼びかける。かつては同じぐらいの身長であった。しかし今では見下ろし、見上げられる程の身長差となっている。それが時の流れを顕著に現していた。

 シンはそれに背を向けるとバルパーたちの視線を遮るようにして、木場たちの前へと歩を進める。旧友との再会。それを下卑た連中の眼に触れさせないようするために。

 

「くくくく。生きていたどころか傷すら完治して戻るか。そしてその左眼……いいぞ、中々面白い展開だ」

「お前を喜ばせる為に来た訳じゃない」

「ほう、なら何のために現れた」

「借りを返す為に」

 

 一度は失われた左眼をシンの指先がなぞる。コカビエルは笑みを深くし、良い答えだと言って笑う。

 

「フリード」

「なんでさぁ、ボス?」

「試し切りだ。その小僧を斬ってみろ」

「りょーかーい! いやあボスも人使いが荒い! って言おうとしましたが意外と僕チンノリノリでございますですのよ。こんの鉄仮面君にはものすごーくコケにされた記憶がありんすので」

 

 長い舌を伸ばしてから舌舐めずりをするとフリードは統合されたエクスカリバーを肩に担いで前に出てくる。

 

「いよー、こんばんわ! ま・な・ぎくぅーん! あんときチミに逃げられたことを思い出すと腸が煮えくりかえってしかたのいのよねぇ。あん! もう最低な気分だわ! てめえ見てたらそんときの記憶が蘇ってきちゃう! ああ、早くこの想いをリフレッシュしたい!」

「相変わらず良く喋る。そんなに俺に会えて嬉しいか?」

 

 顔面が横に裂けたような凶笑を浮かべながら話す言葉にどんどんと熱が込められていくフリードに対し、シンの態度は酷く冷めたものであり、二人を対照的に現していた。

 その態度はフリードの癇に酷く触るものであったが、すぐにあることを思い出したのか、不快感を与える笑みがどす黒い輝きを見せる。

 

「聞いたぜぇー、なんでもうちのボスにぼろぼろに負けたっていう話じゃないですかぁ。そんで目ん玉まで無くしちゃったって聞きましたけどぉ、何で新しい目があるんだ? しかも変な光まで放っちゃって! あれですか思春期特有の病気が発病しちゃった? ちょっと痛すぎませんかぁ?」

 

 嘲笑と挑発をするフリードに流石にシンも態度が変わる。

 

「……はぁ」

 

 本当に心の底からつまらないと感じさせる嘆息。たったそれ一つだけを吐いただけであったが、その行動は今まで調子に乗っているフリードの頭に、血を逆流させるほどの威力があった。

 

「なん、だ。その、反応……」

 

 フリードの問いにシンは答えない。

 

「何だって聞いてんだろうがぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 激昂するフリード。だがそれでもシンは一切答えない。それを見てフリードの怒りが一気に臨界点まで達する。

 フリードがその場から一歩踏み込んだ瞬間、初速から最高速まで瞬時に加速する。『天閃の聖剣』の能力によって生み出されるスピードは、瞬きするよりも早くシンを剣の間合いに捉えた。

 殺気を乗せたフリードのエクスカリバーが狙うのはシンの顔上半分。間合いを詰められているシンは、未だ回避行動一つとらないでいる。

 横薙ぎに振るわれるエクスカリバーがシンの左耳にその刃を埋め込もうとしたとき、エクスカリバーが空を斬る。

 振るった本人は一瞬何が起こったのか分からなかった。だが返って来る手応えの無さが、狙いを外したことを如実に現しており、そして気付けばシンの姿は、エクスカリバーの間合い僅か外に移動している。

 動揺を押し殺しつつ、フリードは再度斬りかかろうとエクスカリバーを振り上げる。そのときフリードは瞬きをした。文字通り一瞬だけ遮られた視界、次に開かれたときには、間合いの外に居たはずのシンが、今度は逆にフリードを自らの間合いに入れた。

 

「チッ!」

 

 次々と起こる予想外の展開。思い通りに進まないことにイラついた様子でフリードは舌打ちをするが、近接するシンの左腕が微かに動くのを見て、反射的に後退をしてしまう。再度開かれる両者の距離、だが後退したフリードは、自分の行為に信じられないといった表情をする。

 

「何だよ……この展開はさぁ! 俺は無敵のエクスカリバーを! それも四本も統合させた奴を持っているんだぜ! おかしいんじゃねぇの! 今頃だったらてめぇは地面にばらばらになって転がってるだろぉ! なんで俺の攻撃が見切れてんだよぉ!」

 

 駄々をこねる子供のように喚き立てるフリードに、シンは呆れも怒りも見せず、ただ確認するように自分の左眼を指先で撫でる。まるでフリードの言葉など耳に入っていないかのような態度であった。

 

「人の話――!」

「――無敵のエクスカリバーと言っていたが、そんなもの何処にある?」

「あ゛あ゛あ゛! 目の前にあんだろうがよぉ! 目ん玉腐ってんの?」

「お前の持っているその鈍のことを言っているのか?」

 

 あまりに容赦のない台詞にフリードも言うべき言葉を忘れてしまったのか、沖に上がった魚のように口を開閉する。

 

「聞き捨てならないな」

 

 シンの言葉に異を挟んだのはバルパーであった。先程言っていた通り、エクスカリバーという存在に対して並々ならぬ情を持っている為に、シンの述べたことを無視することが出来なかった。

 

「少々腕が立つようだが、エクスカリバーに対してのその侮辱は取り消して貰おうか。貴様のようなたかが十数年しか生きていない小僧が、エクスカリバーを鈍呼ばわりするには数百年早い、口を慎め」

 

 言葉の端々に見え隠れする昏い感情。いかにエクスカリバーという存在を偏愛しているか、いかにそれを貶すものを許さないか、それらが嫌でも伝わってくる。だが、バルパーの歪んだ感情を突きつけられてもシンは態度を改めようとはしなかった。

 

「鈍は鈍だ――いや、正しく言えばお前たちがエクスカリバーに携わった時点で、ソレはただの棒切れよりも劣る存在になったかもな」

 

 シンは謗る言葉を止めない。バルパーの瞳の中に殺意が灯りはじめる。

 

「口を慎めと言った筈だが」

「お前たちの様な連中に言い様に振り回されるなら、エクスカリバーの方もいっそ鈍と呼ばれた方が有り難いかもしれないな。――エクスカリバーという名に泥を塗られるくらいならな」

 

 自分たちの存在自体がエクスカリバーを汚す。そう辛辣に評するシンにバルパーは外面上平静を装っていたが、内面では溶岩の様に煮え切った怒りを抑え込んだ状態であった。対照的にコカビエルの方は愉快といった様子で哄笑している。

 

「はははははは! 言ってくれるな」

 

 笑うコカビエルを一瞬ではあるが忌々しげに睨むバルパー。それを見逃さなかったシンは内心で、思っている以上に両者には信頼関係といったものはなく、ただ共通の目的があっただけの利益目的の関係ではないかと推測した。

 笑うコカビエルを余所に、冷めた声でフリードに告げる。

 

「その小僧を殺せ」

「言われなくたってわかってんよぉ、じいさん!」

 

 こちらもシンに対して限界まで怒りを溜め込んでいる様子であるらしく、絶えずこめかみや口の端が、痙攣を起こしたかのようにひくついている。

 バルパーの言葉を乱暴に返したフリードは、エクスカリバーを剣先をシンに向けた状態で水平に構えると、距離が開いた状態のまま突きを繰り出した。すると剣先がそこから一直線に伸び始める。

 『擬態の聖剣』の能力である形状の変化。更にそこに『天閃の聖剣』の効果も上乗せされている為、変化する速度も格段に上がっている。一般人の目なら、形状の変化の最初に目が追い付かない程の速度を有した、長距離の突き。

 だが、その突きもそこから半歩足を下げて、半身となったシンにあっさりと躱されてしまう。しかしフリードも先程のことから、想定の範囲内の行動であった。

 

「ひょいひょいと避けるがこいつはどうだぁ!」

 

 その言葉を合図に伸びた剣先が、紐を解くかのように無数に枝分かれする。上下左右逃げ場の無い、縦横無尽の合計十の刃が同時に襲い掛かる。

 迫り来る多数の攻撃を前にしても、シンの心は乱れることは無かった。一つでも掠めれば、通常の治療では回復不可能の傷を負うエクスカリバーの刃、しかしそれに対して今のシンは恐怖を感じない。焦り、恐れを感じない理由、それは新たに芽生えた左目の存在があったからだ。

 左目が十の刃全てを瞳に納めたとき、シンの肉体は動き始める。最初に狙ったのは足下を狙う三本の刃、同時に迫る内の一本の腹を蹴りつけると、刃はそのまま残り二本と衝突し纏まった状態となる。その纏まった刃を今度は、上半身を反らしながら上へと蹴り上げた。

 左右、上空から突き立てようとしてくる刃の群の集合点。それが最初から分かっていたかのようなタイミングで蹴り上げられた刃たちが、下からかち上げるようにして衝突する。甲高い音を鳴らし、四方へと散らされる。

 その光景は、まるで一枚一枚場面を抜き出したフィルムのように、緩慢な動きとしてシンの左目に映っていた。その未体験の感覚に、シンは無意識に体を合わせる。

 左目に何かが映ったと思えば、思考するよりも早く動き出す肉体。あらゆる過程を省いているのではないかと思える程の反射。ほんの少し前の自分であったのならばまず考えられない程の、状況把握からの最速の行動をとっていた。そこには神経、脳といったごく当たり前に使用する部位すらも行動の妨げとし、可能な限り認識と反応の差をゼロにすることを目指すかのようであった。

 見てから動く。それらの必要な要素を、全て左目が補っているかのような感覚。全ての動きが左目によって突き動かされているかのような、不可思議なものであった。

 方向を無理矢理外された刃の群は、狙いを見失って地面へと突き立てられそのまま沈黙をするが、既にシンの左目は次の動きを把握していた。

 一呼吸置いてから、シンはフリードの方に向かって一気に跳ぶ。その直後にシンが立っていた場所に、何十といった刃が突き破るようにして生える。それは地面に突き刺さっていたエクスカリバーが、更に枝分かれして出来たものであった。

 奇襲を絶妙なタイミングで外されたフリードの表情が歪むも、すぐに伸ばしたエクスカリバーを手元に戻そうと操作するが、現状が僅かにそれを遅らせる。その間に駆けるシン、枝分かれしたエクスカリバーも元の形に戻り、素早くフリードに引き寄せられる。

 速度はエクスカリバーの方が速い、だがもたついているときに稼いだ距離によって、その不利は打ち消されている。

 シンがフリードの目の前に立つと同時に、フリードの手に伸ばしていたエクスカリバーが収まる。

 繰り出される右手。払うエクスカリバー。両者は一瞬交差した後にシンはそのまま駆け抜けていき、二人の間に再び距離が開いた。

 立ち止まったシンの指先からは、赤い血の雫が垂れていく。だがシンの表情に苦痛の色は無く、相変わらずの無表情――と思えたが、心なしか何かを成し遂げたかのような、すっきりとした表情にも見えた。

 シンは閉じていた指先を離す。するとそこから、血に塗れた布とそれに包まれた赤黒い物体が下へと落ち、地面に赤い円を形作る。

 

「かへへ、かははははははは!」

 

 背後からフリードの狂った笑い声が聞こえてくる。しかしそれはいつもの嘲笑うようなものではなく、何処かやけくそといった響きが含まれていた。

 

「何だろねぇ、こういった展開……普通の奴には耐えられずに死んじゃう因子を入れて結構スペシャルな俺様になってその上でエクスカリバーを四本も使って出来たこれまたスペシャルなエクスカリバーを手に入れてスペシャルの上、うーん、なんつうのスゥプェシャァアアルゥな俺様が完成していたっつうのにさ……」

 

 エクスカリバーを振るった後の形で固まり続けるフリード。その右腕の一か所が袖ごと抉られており肉と共に骨の一部が露出していた。

 

「こんな風にされちまったら俺様がかませじゃねぇぇぇぇかぁぁぁぁ!」

 

 怒声を張り上げ、額には血管が浮き出ている。

 あのときの一瞬の交差、シンは振るわれたエクスカリバーよりも早くフリードの右腕を親指と人差し指で挟むと同時に捩じり、衣服ごと肉を千切ると同時に駆け抜けていった。

 だが、フリードの怒りが向けられているのはそのことではない。多くの命を殺めてきたフリードだからこそ分かる感覚、それはあのとき、奪おうと思えば自分の喉元へと手を伸ばし、命を奪えたという事実であった。しかし、結果は右腕の肉の一部が奪われただけである。

 

「どういうつもりなんだるらぁ! 情けでもかけてんのくぁ! クールに見えて実は命に対して人一倍の優しさを持つ、なんてキャラ付けは流行りませんよぉぉぉぉ!」

 

 フリードが喚き続けているが、シンはそれを雑音以下として一切耳に入れていなかった。シンの耳は今、木場を取り囲む陽炎のような少年少女たちの歌に意識が注がれていた。

 聞こえてくる歌はおそらく聖歌。本来なら神へ捧げる歌であり、悪魔が聞けば祈りの言葉と同様に悪魔を苦しめる効果がある。だが聖歌に包まれた木場の表情に苦しみはなく、寧ろ安堵と安らぎを感じている様子であった。歌の届く範囲にいる一誠たちも同様である。

 直観的ではあるが、シンには何故そうなっているのか大よそ理解出来た。この聖歌は神ではなく、友に捧げる為の歌。

 優しさ、温かさ、慰め、願い、それらが込められた言葉通りの魂の歌。そんな歌が他を苦しめることなど考えられなかった。

 

「……ぅおい! ちょっと聞いているんですかぁ! おたく!」

 

 何も反応を示さないシンに、苛立った声でフリードが話し掛ける。そこでようやくシンはフリードの言葉に応じるかのように首を横に向け、目だけをフリードの方に向けた。

 

「――借りは返した」

 

 そう言って右腕を掲げる。

 

「ああん? 何だそ――」

 

 言い掛けた言葉を途中で飲み込む。フリードの頭に浮かんだのは、最初にシンと戦ったときの光景。そのときにシンの右腕を斬りつけたのを思い出した。

 

「これで終わりだ」

「……はぁ?」

 

 無意識で気の抜けた声を出してしまう。そのような声が出てしまう程、相手の言っていることが理解できなかった。

 

「もしもぉーし、ちょっとおっしゃっている意味がわからないんですがぁー? 『これで終わり』って『これで終わり』って……あのぉもしかしてもしかしなくてもこれ以上俺様と戦うつもりは無いってことでございますかぁ?」

「お前を倒すのは俺の役目じゃない」

 

 早口で捲し立てるフリードの言葉にシンは一言だけ返すが、それでも背を向けたままである。その無愛想、まだ自分がエクスカリバーを手に持っているにも関わらず、一切こちらに注意を向けない態度、その二つがフリードの質問を肯定しているかのようであった。

 

「ああ。そうですか、そうですか……」

 

 頭の奥で何かが千切れる音が聴こえる。それも一本や二本ではない。何十にも重なって聴こえ頭の奥で鳴り響く。フリードが生を受け、今まで生きてきた中で、これほどまでに虚仮にされた記憶は無かった。故に初めて聴くかもしれない。自分の理性の緒が千切れ飛ぶ音を。

 

「ふ……」

 

 下げていたエクスカリバーの切っ先をシンの背中に向ける。持ち上げた際、抉られた部分から血が溢れ出て来るが、感情が振り切れた今のフリードには、その痛みなど感じていなかった。

 

「ざけんなぁぁぁぁ! この#$%&¥@#!」

 

 人の言語とは思えない叫びを上げてフリードが地を蹴りつける。踏み締めていた土が宙へと舞う間に、フリードは既にシンの背後に迫っていた。

 エクスカリバーの光が霞む程の殺意を練り込んだ凶刃が背後で振り上げられているにも関わらず、シンはその場から動かないどころか振り向こうともしない。

 その余裕と言える態度にフリードの怒りは、天井知らずで上がり続けた。

 

「開きになりやげれぁ!」

 

 頭頂部から股下まで一気に裂こうとして振り下ろされる聖剣の一撃。だがそれは――

 

「させないよ」

 

 横から現れた一振りの剣によって遮られた。過度の装飾は無い、簡素とも言える白銀と黒の金属で出来上がった剣。しかしその輝きは、白い光と黒い光が混ぜあった複雑な光を放っており、見る者に眩さと恐れといった、相反する感情を抱かせるものであった。

 防がれたフリードの目が限界まで見開く。それは自分の一撃を防いだ人物に向けられたものであった。

 

「なんで……なんで無敵の聖剣が魔剣使いに防がれるんだよぉぉぉ!」

「答える義務は無いね」

 

 そう言って木場は好戦的な笑みを浮かべながら踏み込むと、鍔迫り合いをしているエクスカリバーごとフリードを後方へと突き飛ばした。

 

「間薙くん、いくら余裕があるからって敵に背を向けるのは感心しないな」

「大丈夫だろ。こっちには背中を守ってくれる頼りになる『騎士』様がいるからな」

 

 数日ぶりに交わされる両者の言葉。良好とは言い難い状態でお互いの進むべき道を歩いていた二人であったが、久しぶりに交わした会話は存外軽いものである。だが二人にはそれだけで十分であった。

 

「――ははは! うん、そうだね。それが僕のすべきことだ」

「その剣は?」

「僕と同志たちの魂の剣。聖と魔を有する禁手『双覇の聖魔剣〈ソード・オブ・ビトレイヤー〉』

 

 『禁手〈バランス・ブレイカー〉』、『神器』を持つ者が至ることが出来る、その名が示す通りの禁じ手とも言える段階。かつて一誠が『禁手』に至った際は自らの左腕を糧にしたことで至ったが、木場はかつての友の魂をその身に宿すことでそれに至る。

 

「成程。色々と吹っ切れたという訳か……カッコいいじゃないか」

「ありがとう」

「くっちゃべってんじゃねぇよ!」

 

 戦いの最中に自分を無視して会話しているシンと木場に向かって、いつの間にか接近していたフリードがエクスカリバーを振るう。だが、振るわれたエクスカリバーは聖魔剣によって払われ、弾かれたエクスカリバーの軌道をすぐに修正したフリードは再び振るおうとするが、それよりも早く切り返した木場の聖魔剣が、エクスカリバーに十分な力が込められるよりも先に斬り上げた。

 剣を振り上げた格好となり大きく胴を開けるフリードに、シンの追撃の右拳が脇腹にめり込む。脇腹に拳が触れた瞬間、僅かにシンは眉を寄せるがそのまま振り抜く。フリードの体はそのまま殴り飛ばされると数メートルほど宙を飛び、やがて地面に接触するが、そのままの状態で更に三メートルほど地面を転がっていく。

 飛ばされたフリードは思ったよりも早く立ち上がるが、すぐにその場で膝を折り激しく咳き込む。その拍子に神父服の内側から何かが零れ落ちた。落ちたのはフリードが愛用している拳銃であったが、その形状は拳銃としての機能を奪うほど大きく変形し、拳銃の側面には拳の痕らしき凹凸がある。それが殴った際にシンが眉を寄せた理由であり、殴られたフリードのダメージが思いの外軽かった理由でもあった。

 

「げほっ! げはぁ! ……さっきおたく借りは返したって言ってたのにこの一発はどゆことですかぁ?」

「ツケにでもしてくれ」

 

 咳き込みながら嫌味のように言うフリードに対し、シンはそっけなく応じる。

 

「木場、そっちは任せても大丈夫だな?」

「ああ、君だって最初からそのつもりだったんだよね。気を遣わせちゃったね」

「気にするな。俺の借りは返した。次はお前の番なだけだ――後は任せた」

 

 シンが軽く木場の肩を叩く。そこから伝わってくる僅かな熱、それが体の芯へと伝わり、自分と同志たちの魂へと伝導していくのを木場は確かに感じた。

 

「任せてくれ」

 

 振り返りながら答えた木場が見たのは、僅かに口角を上げ、微笑を浮かべるシンの横顔であった。出会ってから今までの間で木場が初めて見る、無表情以外の表情だった。

 シンが離れる足音を聞きながら木場は、立ち上がろうとしているフリードと、険しい表情を浮かべているバルパーへと視線を戻す。

 

「へ、へへへ! いいのかい? 今なら俺様切り捨てアタックチャーンスなんだぜ? それにわざわざ一対一にならなくも良かったんじゃないの?」

 

 口の端を吊り上げ、フリードは戦力を割いたことと自分が立ち上がるのを待っている木場の甘さを嘲笑う台詞を述べていたが、木場は眉一つ動かすことは無かった。

 

「甘いのは重々承知だよ。正直今回のことで嫌というほど自分の甘さ――いや未熟さを知ったからね」

「言ってることおかしくないですかぁ? それならなおのことズバッといくものだとおもいますがぁー」

「けじめだよ」

「ああん?」

「打倒エクスカリバーを胸に刻んだ今までの僕とリアス・グレモリーの眷属、『騎士』としてのこれからの僕と決着をつける為のけじめさ。だからこそ君には全力を以ってエクスカリバーを振るってもらう」

 

 木場の言葉にフリードの嘲笑は固まる。エクスカリバーを手にしてから過去に二回木場と戦い、いずれもきちんとした勝敗は付いていなかった。だが今回は過去二回に比べれば最も強い力を手にしている状態と言っても良かった。それなのに相手から情けを掛けられるという。それはひどく癇に障るものであった。

 

「本家本元の聖剣に勝てるっていうのか、御宅の駄剣が?」

「勝つさ。僕の、僕たちの剣は」

 

 言い切った木場の聖魔剣はその言葉に応じるかのように月光を反射し、一層輝きを増す。その輝きを見てバルパーは、誰にも聞こえないほどの声量で何かを呟き続けていた。

 

「聖と魔の融合……聖魔剣……『魔剣創造』だけでは理論上ありえん……もう一つ『神器』を……『聖剣創造〈ブレード・ブラックスミス〉』……だとしても……反発する……何故だ?……どういうことだ……」

 

 淡々と言葉を並べながらも、その表情には明らかな焦燥があった。バルパーがこの世で絶対という存在として崇拝に近い感情を抱くエクスカリバー。それが――

 

「しゃらくせぇんだよぉ! エクスカリバーに勝てるかよぉ! この腐れ悪魔がよぉ!」

 

 立ち上がる動作の流れから瞬時に加速し、背筋を伸ばす勢いと共に木場の顎下を狙ってエクスカリバーを斬り上げる。

 

「エクスカリバーになれないエクスカリバーじゃ、僕たちを断つことなんて出来ないよ」

 

 聖魔剣の腹がエクスカリバーの刃を受け止める。木場の創造していた魔剣ならば容易く両断出来たであろう斬撃を受けても、聖魔剣に罅どころか、一切の綻びが生まれることはなかった。

――一介の悪魔によって真っ向から突き崩されそうとしていた。

 

 

 

 

 フリードのことを木場に託し、シンはリアスたちの下に寄る。するとピクシーとジャックフロストが真っ先に近寄り、ピクシーはシンの肩に腰掛けジャックフロストは足下にしがみついてきた。

 

「おかえりー。うん、やっぱりここが一番座り心地がいい」

「ヒーホー! 生きてるってオイラは信じてたホー!」

 

 対照的な態度でシンの帰還を喜ぶ二人をそのままとして、視線を一旦リアスたちの方に向き直す。

 

「――よく生きてくれたわ」

「心配かけました」

 

 簡素な会話であったが、現状を考えれば満足な内容であった。まだリアスの言葉が続きそうであったが、上空から聞こえてくる羽ばたきの音に喜びの色は一瞬にして消し飛び、真剣な表情が代わりに張り付けられる。

 

「さて、エクスカリバー統合という余興とそのデモンストレーションも終えたことだ。そろそろ俺も楽しむとしよう」

 

 傍観をしていたコカビエルが周囲の空間が歪んで見えるような重圧を纏って地に降り立つ。

 

「小僧。エクスカリバーを持ったフリードを手玉に取るとは大したものだ。素直に賞賛の言葉を送ろう。――くくく、一度は興味が失せたが、その眼を見て考えを改めた」

 

 コカビエルは血が溜まり込んだかのような眼でシンの左眼を注視する。

 

「似ても似つかないその眼、最初に出会ったときよりも更に色濃く『奴ら』を彷彿とさせる。翼の羽が総毛立つような気分だ。はははは! 気まぐれで抉って正解だったようだな」

 

 肩を震わせて上機嫌といった様子で笑う。心底愉快だといわんばかりの笑い声は、聞く者にとってひどく耳障りなものであった。事実、無表情を続けていたシンもその笑い声を聞いた途端、不快そうに目を細める。尤も、シンの場合別の感情もあって、いつもよりもやや過敏に反応してしまったという理由もあるが。

 

「――間薙」

 

 笑うコカビエルを余所に、いつの間にか近付いていた一誠が小声で話しかけてくる。シンは顔をそちらの方に向けた。

 

「お前は――大丈夫なんだよな?」

 

 シンの左眼を見た後に掛けられた言葉。そこに含まれているのは、コカビエルと一戦交えたことによる戦闘への影響と、抉った筈の眼が異様な輝きを放って再生していることで、シン自身の肉体に何らかの影響が出ていないかという、二つの心配が込められたものであった。

 

「左眼を生やすコツって知っているか?」

「はぁ? 何だよそりゃ」

「適度な睡眠と食事を摂ると自然と生えてくるらしい」

 

 一誠には本気か冗句かよく分からないものであったが、このとき珍しくシンは軽くおどけたような喋り方をしていた。

 

「――そんな冗談言えるなら、一応大丈夫ってことでいいんだな?」

「ああ……」

 

 今はな、という台詞は言葉にせず、胸の裡で呟く。現段階ではどのような影響があるかシン自身も把握出来ておらず、要らない心配を周りに掛けない為の措置であった。

 

「では開幕の鐘を鳴らすとしよう。頼むから開始早々で幕引きという結末にはならんでくれよ」

 

 コカビエルの左腕を掲げる。そして人差し指を一本だけ立てると指先に光が灯る。直径にして数センチ程の光球、それを指先で弾くと、コカビエルの頭上まで浮き上がる。すると光球は一瞬にして膨れ上がり形を変えた。

 堕天使たちが得意とする光力で形成された光の槍。だがコカビエルが創り出す槍は幅も長さも下位の堕天使の比では無く、もはや光の柱であった。

 

「さあ、全力で抗ってみせろ!」

 

 コカビエルが掲げた左腕を振り下ろそうとしたとき、四人の人物が一歩前に踏み出る。

 リアス・グレモリーが全身から放たれる真紅の魔力を両掌へと収束させ。

 姫島朱乃は内包する魔力を雷に変換し、その身から紫電を散らす。

 兵藤一誠は『赤龍帝の籠手』によって限界まで倍加した魔力を左手に集め。

 間薙シンはその右手に魔力剣を造り出す。

 コカビエルの手から光の槍が撃ち出されると同時にリアスの魔力が、朱乃の雷が、一誠のドラゴンショットが、シンの熱波剣が迎え撃つ為にその手から放たれた。

 

 

 

 

「この! 大人しくしやがれぇぇぇ!」

 

 暴れるケルベロスの背中にしがみつきながら、匙は何とか無力化しようと必死に足掻いていた。ケルベロスの真ん中の首には『黒い龍脈』が巻き付いており、それによって背中から落ちずにいられたが、肝心の締め付ける力が弱く、ケルベロスの意識を断つには不十分であり、それが暴れる原因ともなっていた。

 獣特有の臭いと一本一本が針金のような硬質な体毛のせいでしがみ心地は最悪であったが、このまま振り落とされれば、確実にその牙や爪の餌食になってしまう自分の姿が容易に想像出来る為、必死になって匙は喰らい付く。

 しかし、いくらしがみついていても匙自身にはケルベロスを倒す力は現状無く、ただ両者ともいたずらに体力を消耗しているだけであった。

 

(畜生! 啖呵切ってこのザマか!)

 

 自分の非力さに怒りすら覚える匙であったが、匙の『神器』の能力上、決定打となるものが無い。あるとすれば少しずつであるが『黒い龍脈』を通じてケルベロスから力を吸い取っていく方法のみであるが、それはあまりに時間の掛かる攻撃手段であった。

 ケルベロスが跳び上がる。それによって匙の体も跳ね上がった。背中に張り付く異物を何とか取り除きたいケルベロスはそこから体勢を180度回転させ、背中から地面へと着地しようとする。

 

「嘘だろぉ!」

 

 視界が反転すると同時に頭上に固いアスファルトが見える。このままではどう考えても圧死は免れない。

 咄嗟に伸ばしていたラインを縮めると、匙の体がケルべロスの頭部の方へと引き寄せられる。そしてケルベロスの後頭部付近まで移動すると、巻き付いている部分を軸にして素早くケルベロスの喉元へしがみ付いた。

 それと同時に盛大な音が夜の帳に響き渡る。陥没するアスファルトがどれほどの重量があるのかをよく現していた。幸い学園付近には民家などは無い為、住民などを集めることは無かったが、この音のせいで事態は匙の望まない方向へと進んで行く。

 

『サジ、そちらで大きな音がしましたが何かありましたか?』

 

 頭の中に直接響いてくるソーナの声。ケルベロスの起こした音が離れた場所に居るソーナの耳に届いてしまったらしい。

 

『会長! その……うお!』

 

 どう返そうかと一瞬迷う匙であったが、現状は匙にそのような暇を与えない。地に伏せていたケルベロスが立ち上がり、今度は匙を喉からぶら下げた状態とする。

 

『どうしました、サジ? 今の声は――』

『会長! こっちに来ちゃダメです! こっちは危険です!』

『何が――』

 

 そこでソーナの言葉が途切れる。正確に言えば、ソーナの言葉を聞いていられない程の脅威に匙の意識が向けられたせいであった。

 向けられた左右の顔。その口から橙色の光が漏れ始めている。

 焼き殺される。その言葉が匙の頭に浮かんだ。

 

(どうする……! どうする……!)

 

 ここで離れたとしても、今の匙はケルベロスから逃げ切る自分の姿は想像出来なかった。それどころか自分が炎で焼かれ崩れ落ちていく姿は、はっきりと想像出来た。

 どうにかしようと頭を働かせるが、一向に妙案など浮かばない。それどころか頭が真っ白になっていくだけである。

 頭を空回りさせている匙の都合など構うことなく、ケルベロスの炎はどんどん喉から口へとせり上がっていく。そしてケルベロスの口の端から火の粉が零れたのを見たとき、焦りが限界に達して匙の逃げる為の思考は完全に停止、代わりに別のことを考え始めた。

 

(思えば泣かせてばっかだったな……)

 

 脳裏に浮かぶのは、幼き頃の自分が今の自分へと成長していく過程であった。それが走馬灯と自覚しつつ、匙はお世辞に真面目とは言い難い、荒れていた頃の自分を振り返っていた。

 行き場が無く、空回りする力を他人にぶつけ、夢も希望も特に無く、宛てもなく生きていた匙。そのせいで他人から白い眼で見られ、よく母親を泣かせていた。

 そんな匙に転機があったのはソーナとの出会いであった。ソーナと出会ったことで『兵士』という自分のするべき役目、『神器』という力、生徒会という居場所、シトリー眷属という仲間、そして何より、心の底から好きだと言える女性に巡り合えた。

 いろいろと苦しいことも厳しいことも多々ある。それでも匙は今この時を胸を張って幸福であると言える。だが――

 

(それでも死ぬときは死ぬか)

 

 徐々に炎の熱も感じてきた。残る時間も少ない。

 

(でももし死ぬって言うんだったら……)

 

 それはある種の諦観であったが、その域に達したとき、爆発するかのように胸の奥底から、強い想いが溢れ出て来る。

 

(死ぬんだったら……!)

 

 強い想い。それは『神器』を動かす為の力であり、成長させる為の糧である。

 

「お前も道連れにしてやらぁぁぁぁぁぁ!」

 

 吼える匙に呼応し、手に装着された『黒い龍脈』から新たなラインが発射され、撃ち出す寸前の左右のケルベロスの口吻に巻き付き、無理矢理閉じさせる。行き場を失った火炎はケルベロスの口内で爆発し、内側からの圧力で牙が折れて、口を貫通しながら外へと飛び出ていく。

 自爆させられたケルベロスの頭部からはあちこちから白煙が立ち昇り、白眼を剥いた状態となっていた。

 

「へっ、ざまぁみやがれ」

 

 左右の頭を何とか戦えない状態にした匙であったが、そのとき視界の端でケルベロスが前足を振り上げるのが見えた。まだ意識のある真ん中の頭が匙の胴体を引き裂こうとしている。

 『黒い龍脈』を使って何とか躱そうとした矢先、前触れもなくケルベロスの体が倒れ伏す。

 

「ぐえっ!」

 

 喉の辺りにいた匙は、いきなり地面に叩き伏せられたことで呻き声を上げてしまう。ケルベロスの頭一つ分の重量を何とか押しのけて下から這いずり出てきた匙が見たのは、手足を投げ出した状態で伏せているケルベロスと、その上に胡坐をかいて座っている男性の姿であった。

 

「そこに居たのか。わりぃな、怪我は無いか」

「へっ? ああ、無いです……」

 

 思わず男の質問に答えてしまった匙であったが、それは目の前の光景を見て思わず反射的に答えてしまった。どう見ても成人男性程の男の体格、しかしその男に座られているケルベロスはまるで重しを載せられているかのように苦しみ、何とか振り払おうと懸命に足を動かしているが地面を削るだけで一向に立ち上がれない。

 

「大人しくしてろ。『伏せ』だ」

 

 男が一言言った瞬間、ケルベロスの体に更に男の体が沈み込む。その結果、真ん中の頭は口から白い泡を吹き出し、そのまま意識を断ってしまった。

 

「おお、おお。大人しくなったな」

 

 陽気に笑う男に匙もポカンとしてしまう。明らかに人間離れの所業、普通なら警戒心の一つも抱いてしまうが、今の匙は事態に頭が追い付いていない為、ただ茫然とするしかなかった。

 

「懐かしい匂いがすると思って寄り道したが、ヴリトラの奴は元気か?」

「え? あー……ヴリトラって?」

「あん? お前が持っている――って何だあいつの一部か、そりゃ目を覚ましてるわけないか。へっへっへっへ!」

 

 一人で納得し一人で笑い始める。理解出来ない為、匙は目の前の男に付いて行けなかった。

 

「というか……誰?」

 

 辛うじて出てきた匙の質問。男は声を出して笑うのは止めたが、その顔には野性的な笑みを浮かべていた。

 

「なぁに、ただの通りすがりの『怪物』さ」

 

 通りすがりの『怪物』ことアダムは、自らをそう称するのであった。

 

 




個人的には匙のようなキャラクターが好きなのでこれからもちょいちょい優遇するような扱いをするかもしれません。

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