龍を模した兜の下で一誠は独り自分に起こった事態に戸惑っていた。『禁手化〈バランス・ブレイク〉』である『赤龍帝の鎧〈ブーステッド・ギア・スケイルメイル〉』を纏うのは初めてではないが、最初のときとは違い、一誠は何も代償を払っておらず、勝手に纏っていることに驚きを禁じ得なかった。
(どうなってんだ、これ! ドライグ! もしかしてお前がやったのか? 何か俺から代償を貰ったのか!?)
原因として真っ先に思い浮かんだのが、自分よりも遥かに『神滅具』のことに詳しく『神滅具』自体に宿っているドライグであったが、返ってきたのは一誠と同じく戸惑いに満ちた言葉であった。
『こんなことは俺も初めてだ……相棒の意志でも俺の意志でもなく強制的に『禁手化』だと……まさか、外部から『神滅具』を動かすような奴がいるのか?』
想像を上回る展開に思考が中々追い付かない一誠は、コカビエルに消し去られようとしたときのことを思い出す。
あのとき全身が光に包まれ、体が消滅していくのかと半ば覚悟したとき、聞こえる筈の無い声が頭に響いた。
幻聴かと思ったが、その声は恐らくこのようなことを言っていた。
『少しだけ手を貸そう』
その直後に体中に魔力が漲り、気付けば鎧を纏っていた。
(声……聞こえたか?)
『……微かに聞こえたな。聞き覚えの無い声が』
お互いに聞こえたことを確認し合ったことで、幻聴では無いことを確信する。なら誰の声であるかと考えにふけそうになったとき、断ち切るような閃光が目の前に映る。
コカビエルの投擲した光の槍、それも樹木を何本も束ねた程の大きさであった。
『相棒!』
「分かってるさッ!」
『Boost!』
鎧の各所に付属している宝玉たちが輝き始め、一斉に倍加の音声を鳴り響かせる。一瞬にして桁違いの魔力を生み出した一誠。その魔力は一誠の周囲を膜の様にして包み込む。膨大な魔力と膨大な光力が接触したとき、反発し合う力が暴風の様に荒れ狂い、混ざりあった二つの力が辺り一面に弾け飛ぶ。
それでも競り勝ったのはコカビエルの光の槍であった。いくらか力を削がれたが膜を突き破って、中心にいる一誠の身にその穂先を埋め込もうとした。
しかしその先端は一誠の両手が受け止め、そのまま微動だにしなくなる。巨木の様なコカビエルの槍を掴む一誠の姿。だがよくよく考えればおかしくは無い光景である。一誠の周囲を覆っていた魔力の膜は意図して出したものではなく、制御し切れなかった魔力が漏れ出したことで防御壁のような状態になっただけであり、それよりも遥かに多く濃い魔力は一誠の裡に蓄積されたままであるからだ。
一誠は左手を離すとそのまま握り拳を作り、光の槍の穂先に拳を打ち込む。やがて殴られた箇所から亀裂が生じると一気に端までそれを伸ばし、全てに亀裂が刻まれたとき、槍は粉微塵となって消え去った。
「まさか『禁手化』まで使えるとはな……ヴァーリに遠く及ばない器と思っていたが違ったらしい」
自分にしか聞こえない声量で独り呟くコカビエル。放った槍を打ち砕かれても特に焦った表情を見せなかった。
光の槍を潰した一誠はそのままシンたちの側へと移動する。ゼノヴィアは禁手化を使用した一誠の姿を見て明らかに驚いた様子であったが、シンと木場は対照的にあまり歓迎した態度では無く、眉間に皺が寄った険しい表情をしている。
「『禁手化』に至るまで『赤龍帝の籠手』を極めていたとはな……私の切り札に勝るとも劣らないな」
「まあ、何と言うかな……」
勝手に発動した手前、褒められてもどう返せばいいのか分からず言葉を濁す。
「本当に大丈夫なのかい? また何か対価を払って――」
コカビエルを警戒しつつ木場は鎧を纏った一誠に心配そうな声を掛けた。以前『禁手化』した際に、左腕を代償にして発動していることを知っている為、当然とも言える反応であった。
「いや、今回は特別っていうか、その俺もよく分からない。わりぃ、詳しく説明出来ないけど何か『禁手化』出来た」
いい加減に聞こえる一誠の言葉であったが、本人も何が起こったのか分からずに鎧を装着している為、どうにも上手く説明することが出来ない。
そんな中、シンは真っ直ぐコカビエルを見ながら一誠に話し掛けた。
「今度は十秒以上持つのか?」
「ああ、多分だけどライザーのときよりも使えると思う。何というか鎧が漲っている感じがする」
「分かった」
少なくとも、継続して鎧の力を使用することが出来るというのは大幅な戦力の向上が望まれる。リアス、朱乃、小猫が倒れ、その治療にアーシアも専念している。まともに戦うことが出来るのは一誠、木場、ゼノヴィア、シンの四人。
誰が最初に攻めるか、いつまでもコカビエルが黙っている筈も無く、短い時間でどう戦うか決めなければならない。そんなとき木場が口を開く。
「イッセー君、君に先駆けを頼んでいいかい?」
その言葉に躊躇なく一誠は頷く。
「了解!」
「ありがとう。それで――」
口早にその後の戦い方を周りに大雑把に説明をする。そして――
「間薙くんも頼んだよ」
木場はシンの方を見て軽く微笑んだ。シンも頷いてそれに肯定の意を示す。
『相棒』
木場の案を言い終えると同時に一誠の頭の中にドライグの声が響いてくる。
(どうした?)
『こいつの話を聞いていて、多分一度しか通じないが、あいつに一撃を喰らわす方法を思いついた。試してみるか?』
(マジで! どんな方法だ?)
手短に説明するドライグ。聞き終わった一誠は意外そうな表情をする。
(そんなことも出来るのか?)
『相棒は意識を集中していればいい。細かい部分は俺がフォローする』
(分かった。頼りにしてるぜ)
脳内でもドライグとの会話を終えた一誠はコカビエルに向かう直前、木場に話し掛けた。
「木場、手伝ってもらいたいことがある」
一誠たちが小声で会話している中、コカビエルはそちらへの注意よりも自分の左手に注目していた。一誠によってあらぬ方向に折れ曲がった指、それを戻す為にある方法を使うことにする。
コカビエルの左手に光が帯びたかと思えば突如として消える。その直後、折れ曲がっていた指の内の一本が、音を立てて変形し始めた。断続的に続く骨の折れ曲がる音、それに合わせてコカビエルの指は左右に動き、曲がりを修正していく。そして数秒後には、複雑に折れていた指が元の形に戻っている。
折れた指を戻すのにコカビエルが行ったのは、光の力を使い無理矢理指の形を戻すという荒業であった。手の内に光力を流し込み、それを上手く操作することによって、捩じれるようにして曲がった指を内側から矯正する。これによって右手を使わずに指を戻すことが出来るが、これは治療ではなくただ元の形に直しているに過ぎず、戻している最中も痛みは発生し続け、骨も折れたままの状態である。それでも指を直しているコカビエルは苦悶の表情を浮かべず、一本目が直るとすぐに二本目を直すことに取り掛かる。
この戦いの中で本領を発揮してから、コカビエルは目立った致命傷といえる傷は負っていない。しかし、シンによって毟られた右翼があった場所から流れ出る血は勢いを弱めることは無く、また、封が解かれた炎はコカビエルの身を焼き尽くすことを止めない。最初と比べれば明らかにコカビエルの肉体は消耗し、弱ってきている。だが、肉体とは裏腹にその精神は一層高揚し、肉体が死に近付くことに反比例してますます昂っていく。
肉体を精神が凌駕している故、本来なら感じる筈の痛みもあまり感じず、既に肘を通り越して肩付近まで燃え移っている魔人の炎もむず痒く感じていた。
この先のことを考えれば力を温存し、悪魔や天使たちとの戦争の為に残しておくべきであるが、今のコカビエルにはそのような考えが微塵も残っていない。ただこの刻を存分に愉しもうとする、狂気的なまでの戦いへの渇望のみが存在していた。
五本目の指が元の形へと戻ったとき、コカビエルは意識を一誠たちの方へと傾ける。時間にすれば一分も満たない両者の停滞であったが、仕切り直すには十分過ぎる時間であった。
「『禁手化』した『赤龍帝の籠手』と戦うのはこれが初めてだな……来い、如何程のものか試してやる。俺を愉しませてみろ」
わざわざ折れていた方の手で手招きするコカビエル。元より先手で行くことになっている一誠は構える。そして鎧の背中に備わっている魔力噴出口から赤い魔力の光が零れ出した。
「ふざけんなよ! お前の独りよがりの愉しみの為に何人傷付いていると思ってんだ! それだけじゃねぇ! この町を破壊するなんて勝手な真似、ここでお前と一緒にぶっ飛ばす!」
一誠の怒りに呼応し、纏う光が強くなる。一誠の想いは魔力という形となり、『赤龍帝の鎧』に注がれていく。
「いくぜ! コカビエル!」
背中の噴射口から一気に魔力が噴出され、それによって生み出された推進力により一誠が飛ぶ。
地面を矢のように駆ける赤龍帝の姿にコカビエルは、口元に邪笑を浮かべながら左翼を前方に出し、盾の様に掲げた。
駆けながら振り上げた一誠の拳が、コカビエルの左翼とぶつかり合う。一誠の破壊力が翼の防御力を上回り、接触した翼の内の一枚がくの字に折れ曲がる。
その勢いで防御を突き破り、その奥のコカビエルの胴体に突き刺さるかと思ったが、翼の防御によって軌道を僅かに逸らされたのか、一誠の拳は脇腹を掠めるだけに留められる。
そしてその空を切った腕をコカビエルは左腕と脇腹で挟み、捕らえた。
「狙いが甘いな! 赤龍帝!」
燃え盛る右手が橙色の光を放ちながら拳を作る。
「砕けろぉ!」
「舐めんなぁ!」
頭部目掛け振り下ろされた拳。しかし一誠はそれに怯むことなく、自分からコカビエルの拳に向かって額を叩きつけた。金属が軋む音と生々しい破砕音が重なる。一誠の頭部を覆う鎧には罅が生じ、コカビエルの右手は殴りつけた衝撃で指の骨が折れ、肉を突き破り外へと飛び出している。
一見すれば一誠の方に軍配が上がる。だが外から見ているには分からなかったが、鎧の下では一誠の意識は半ば飛びかけていた。
『相棒! おい! 気をしっかり持て!』
ドライグの呼び掛けに辛うじて意識を保つことが出来たが、それでも視界は回り、嘔吐感が込み上げて来る。
首が縮み、頭の中で脳みそが上下左右あらゆる角度でぶつかった様な錯覚を覚えながら、上手く定まらない視線でコカビエルの方を見る。
視界全体に広がる炎。避けるよりも先にコカビエルの右手が、一誠の顔面を鷲掴みにし締め上げる。骨の折れた手とは思えない程の握力であった。
罅割れた箇所が擦れ、耳障りな音が鎧の内側で木霊する。魔人の炎を受けても龍の鱗と同等の耐熱性を持つ装甲が溶解することは無かったが、徐々に熱が伝わってきているのが分かる。
「このぉ!」
『いつまでも掴まえられていると不味いぞ。あの不死鳥の小僧の炎よりも厄介な炎だ!』
「言われなくても!」
一誠は密接した状態から自由の利く左拳をコカビエルの無防備な横腹に叩き込む。体勢は不十分でありきちんとした技術も納めていない為、放たれた拳の威力は十分に発揮されていないが、有り余る力で強引にそれを補う。
拳が触れた箇所から一気に肉を潰し、その奥にある骨も圧によって強引にへし折る。一誠もその感触を拳から確かに感じ取っていた。通常なら骨折の苦しみで七転八倒していてもおかしくない。
だがそれでもコカビエルの締め付ける力は弱まらない。
(痛みを感じないのかよ!)
『痛覚を意識的に消しているか、さもなくば痛みを感じない程戦いに夢中になっているか。どちらにしろ面倒な相手だ』
理解の範疇を超えた相手の強靭さに驚くも、すぐにどうにかしなければと頭を働かせる一誠。そして唐突に閃き、躊躇うことなくそれを実行する。
「だったら!」
背中にある魔力噴射口に再び光が灯る。そしてそこから魔力が噴き出したかと思えばそのまま噴射口が下へと向き、コカビエルが張り付いたまま真上に飛び上がる。
「むぅ!」
いきなりの上昇にコカビエルは軽く呻くが、取り乱す程の驚きは無く、未だに一誠から手を離さない。そのまま一誠はある程度の高さまで昇ると再び噴射口の向きを変え、今度は真横に向ける。
膨大な量の魔力を吐き出すことによって一誠の体は空中で横転。その腕を掴んでいるコカビエルもまたその動きに巻き込まれる。
当然噴射口は下を向いていない為、二人は横転しながらも地面へと落下していく。視界が三百六十度高速で回転し、目に映る光景はただの螺旋状の色に過ぎない。
もつれ合う中、一誠は左拳を引き、コカビエルを引き離そうと殴り掛かった。
その動きを見逃さず、突き出した一誠の拳を止めようとコカビエルの左手が伸ばされる。放った拳がコカビエルに触れる前に手首を掴まれ止められる。だが掴まれた一誠は、鎧の下で小さくその名を呼ぶ。
「ドライグ!」
『Blade』
音声と共に掴まれた左手の甲から白と黒が入り混じった光が伸びる。その不意の一撃にコカビエルは咄嗟に回避出来ず、光の先が右肩へと突き刺さった。
一誠の左手甲から突き出た刃、それは木場の神器で在る筈の聖魔剣の刃であった。
「器用な真似を!」
舌打ちしコカビエルは一誠から手を離すと、突き刺さる聖魔剣の腹に掌底を打ち込む。それにより剣身が半ばで砕け散り、元の魔力へと還元されていく。
この一撃こそドライグが提案した案であった。一度きりの奇襲、技量の無い一誠では初見の相手にしか当てることが出来ず、尚且つ木場自身の手から離れている『神器』であるため、木場以上に能力を引き出すことが出来ない。使い捨てを前提とした策であったが、何とか一撃を入れることが出来た。
肩へと突き刺したことにより、顔面を握り締めるコカビエルの握力が弱まるのを感じる。
一誠はその状態で更に速度を上げる。
三半規管が悲鳴を上げる中で一誠は両膝を折り曲げ、足をコカビエルの腹部に押し当てると膝を発条の様に瞬間的に伸ばす。回転の中で意識を無理矢理逸らされていたコカビエルは反応するのに一歩遅れ、二人は空中で離れる。
片翼となったコカビエルには前の様に自在に飛翔する力を失っており、錐揉み状態で上から下へと落ちていく。
景色が無茶苦茶に映る中、コカビエルの姿を視界に入れたとき、一誠は力の限り叫んだ。
「木場ぁぁぁぁ!」
そしてそのまま離れた一誠は、魔力の噴出の勢いや方向感覚の狂いのせいで窓を突き破り、校舎の中へ突っ込んで行った。
それを聞いた木場は手に持つ聖魔剣を地面に突き刺す。そこから地中を伝いコカビエルが落下する地点まで力が届くと、そこから剣山の様に無数の聖魔剣が落ちる。コカビエルに向かって全ての刃を向け、一斉に射出された。
無数の聖魔剣が迫るのを捕捉したコカビエルは迎撃しようとするが、片翼を失ったことによって思い描く様に身を動かせない。
短く舌打ちをするとコカビエルは一誠の拳を防いだときと同じく、翼を前方に掲げ防御の姿勢をとった。
放たれた刃がコカビエルへと襲い掛かる。頭、喉、胴体などといった戦いを継続するのに必要な器官を重点的に守るが、それ以外の疎かになっている部分を容赦なく刃が裂き、削り取っていく。大腿部を掠め、横腹に刃を僅かに喰い込ませ、肩の上を擦るように通過し、肉が裂けると血が溢れ、錐揉みするコカビエルの動きに合わせて血を撒き散らす。
意図せず細かく刻む様にコカビエルの体を削いでいくが、削がれている本人は特に苦痛の色を見せず、代わりに削っていく刃に対し、小蝿でも纏わりついているかの如く不快な色を浮かべていた。
聖魔剣の群を掻い潜り、地面に両足で降り立つ。顔を上げたコカビエルが見たものは、撃ち落とすときの倍以上の本数の聖魔剣が周囲に浮かび、自分を取り囲む光景。
「針の筵――いや、剣の筵といった所か?」
圧倒されるような光景を前にしても怯まず、冗談を口にする。
「これで囲ったつもりか?」
コカビエルの片翼が大きく広げられ、羽の一枚一枚に光が灯る。その光が溶け込むと同時に、光沢の無かった羽に金属の様な反射光が映る。
そしてコカビエルはその翼を体ごと振るった。翼に聖魔剣が触れるとその剣身に罅が生じ、そのまま振り抜くと砂糖菓子の様に砕け散る。数を増やしたことで強度が脆く、容易く打ち砕かれていく聖魔剣たち。
コカビエルの周囲に砕けて破片と化したものが舞う。
「こんなものか!」
「こんなもんじゃないさ」
コカビエルの恫喝に冷水でも浴びせるかのような、シンの冷めた言葉が被さる。
翼を振り回した後のコカビエルの正面に立つシン。その姿が目に入ると同時に、コカビエルは光の剣を発生させて斬りかかった。
するとそれを読んでいたかの様にシンが上へと跳び上がる。ならば降りてきた所を斬ろうと思い上を向いたコカビエルが見たのは空中で更に跳ね、自分の頭上を越していくシンの姿。
悪魔の翼など生やさずに飛ぶシンに一抹の疑問を覚えるが、すぐに追撃しようと振り返ると、既に間合いを詰めたシンが拳を振り上げていた。
「くっ!」
それを咄嗟に光の剣で受け止める。シンの左拳は光に触れたことでその箇所から白煙を上げるが、シンはその状態のまま、今度は右拳を剣に叩き込んだ。
最初の左拳よりも魔力を多く纏わせていたらしく、右拳が剣に衝突するとその威力に光の剣が一瞬波打ち、形がぶれたかと思った次の時には形を失い崩壊していく。
明らかに一撃の重さが増している。コカビエルはその急な身体能力の上昇について、すぐに一誠の『神滅具』の仕業であると理解した。コカビエルの気付かぬ裡に、倍加した分の力をシンに譲渡していたらしい。
それなりに高かった力がより強まることを厄介と思いつつ、光の剣が消えると同時にコカビエルの前蹴りがシンを襲う。シンは殴り抜けた姿勢のまま、横滑りでそれを回避した。
さっきも見た不可解な動き。その謎はコカビエルがシンの足元を見たときにすぐに判明する。
シンの両足は地面に着いておらず、代わりに地面すれすれを浮く木場の聖魔剣へと乗せられており、それが乗り物の様にシンを運んでいた。
その状態で跳び上がると今度は空中に浮く聖魔剣を踏み台にし、そこから跳ねる。曲芸のような動きを目で追うコカビエルであったが、背後から迫る気配にその場で身体を沈める。その直後、首があった場所に二つの光が交差した。
振り返らずともそれがゼノヴィアの聖剣であることが分かっていたコカビエルは、沈めていた身体を起こしながら片足を軸にして振り向き様に、ゼノヴィアの側頭部に向け肘を繰り出す。
だが、振り向きながらコカビエルが見たのは、首を横に傾けているゼノヴィア。その不自然な格好の意味を瞬時に解すと、肘の向きを横から下へと急転換し、その勢いを利用して上体を仰け反らせる。するとコカビエルが先読みした通り、ゼノヴィアの耳横を聖魔剣が通り過ぎ、先程まで肘があった場所を通過していった。コカビエルがぎりぎりで避けたのを見てゼノヴィアが追撃を試みようとするが、そうはさせまいとコカビエルの掌が空を押す。するとそこから見えざる衝撃波が放たれ、ゼノヴィアの腹部に手の形が浮かぶとそのまま押し飛ばされた。
流石に周囲の聖魔剣が鬱陶しく感じたのか、コカビエルはそれらを全て吹き飛ばそうと力を全身に込め、いざ解き放とうとしたとき――
「ぐっ!」
紙一重、あるいは絶妙と言えるタイミングで、シンの拳がコカビエルの背中に叩き込まれた。通常の状態ならば防ぐことの出来る攻撃であったが、コカビエルの意識が防御から攻撃へと傾く、刹那の意識の間を見破っての一撃。その重みは肺、心臓へと伝わり、痛みに対し鈍感になっているコカビエルの攻撃への意識を無理矢理遮断し不発にさせる。
それによりコカビエルの膝が僅かに折れる。その隙を狙い木場が現れ、両手に持つ聖魔剣を振り下ろす。
それを業炎の右腕が受け止める。黒く炭化しつつある腕でもコカビエルの力、あるいは魔人の炎の影響か、聖魔剣を以てしても刃を僅かに埋める程度で押し止められる。
「ッ! 抜け目ないな――!」
コカビエルの身体が一瞬震えた後、木場を褒める様な言葉を口にする。
いつの間にか脹脛に突き立てられた聖魔剣。それは振り下ろすと同じタイミングで足を器用に扱って木場が刺し込んだものであった。
脚が傷付けられたことで十分に力を伝えることが出来ないのか、木場の剣力に押されてコカビエルの腰が沈む。
押さえ込んでくる木場を払おうとコカビエルは左腕を掲げ、そこに光の槍を造り出そうとするが、飛び掛かったシンがその腕に手を回し、関節を無理やり逆方向へと伸ばそうとする。
「ぬうううう!」
筋や腱を千切ってしまおうとする程の力で腕を曲げていくシンに、コカビエルも体の内で聞こえるミシミシという音を聞きながら抵抗するが、能力が向上しているシンの力に押され気味であり、へし折られそうになる時間を引き延ばすぐらいの抵抗であった。
両腕の自由を奪った今、コカビエルに吹き飛ばされたゼノヴィアが好機と見て、すぐに体勢を立て戻し聖剣を構えて走り出す。
「その命、神に返す時が来たな、コカビエル!」
追い込まれた状況。だがコカビエルはゼノヴィアの言葉を聞き一笑する。
「死んだ者にどう命を返すと言うんだ?」
「な、に?」
返された言葉があまりに予想外なものであったのか、明らかな動揺がゼノヴィアに広がる。それはゼノヴィアほどでは無かったが、他の皆も聞き捨てならないものであった。
「仕えるべき主を失った子羊たち、哀れで無知で滑稽だ」
「耳を貸すな。はやくこいつを斬れ」
嫌なものを感じ、シンはゼノヴィアに急かす言葉を掛けるが、その耳は既にコカビエルの言葉に傾けられている。
「この期に及んで、そのような戯言を――」
「戯言? そう思うのは自由だ。だが神は既にあの時の戦争っ!」
コカビエルの頬にシンの肘が叩きつけられる。こちら側にあった流れを変えられるのを防ぐ為、物理的にコカビエルの口を封じる。
「黙っていろ。ゼノヴィア、早く斬れ。迷うのは後にしろ」
「くくく、焦ったか?」
「口を閉じていろ」
口の端から流れる血を舌で舐め取りながら嘲笑をシンに向けるが、それを冷徹な言葉で一蹴する。
信仰を持たないシンや既に信仰するのを止めた木場には、コカビエルの言葉はあまり意味を成さないものであったが、未だ信仰心を持つゼノヴィア、そしてアーシアには絶大な効果があるらしく、目に見えて心が揺れている。もし普段のゼノヴィアやアーシアであったのならば、激しく動揺することが避けられたかもしれないが、運悪く事前にアダムから聞かされた天界側の黒い一面のせいで、根付いてしまった僅かな不信感が『もしかしたら』と強く揺さぶりをかけてしまう。
ゼノヴィアが握る聖剣の光が目に見えて弱まっていく。それが露骨にゼノヴィアの現在の心情を現していた。
斬れと急かしていたシンもその状態で斬りかかるのは流石に危険と判断し、先に自分で行動しようとしたときゼノヴィアが動き出す。
呼び止める前に振り翳した二本の聖剣が、動きを制限されたコカビエルの両肩目掛け振り下ろされる。
しかし、その後に聞こえたのは剣が肉を裂く音では無く、鈍く篭った音であった。ゼノヴィアの二本の聖剣はその刃をコカビエルの肩に食い込ませる程度で押し止まり、皮一枚切れていない。切れ味が著しく衰えていた。
「内に有る支えが揺らいだな。最早、お前の振るう聖剣は只の鈍刀だ」
コカビエルが一際強く地面を踏みつける。同時に悪寒が走った木場とシンは拘束を解き、一目散にコカビエルから離れようとするが、ゼノヴィアは二人の様に気配を感じ取ることが出来なかったのか、反応が遅れる。
それを見た木場はコカビエルから離れるよりも先に、棒立ちとなっているゼノヴィアへと体当たりするようにして担ぎ上げると、全速力でその場からの離脱を試みた。
だがその直後、コカビエルが踏みつけた場所を中心にして円状に地面が輝いたかと思えば、地面を突き破って無数の槍状の光が現れた。
シンは回避出来たもののゼノヴィアと一緒に離れようとしていた木場は逃げるのが遅れ、突き出した光の槍が内腿を深く抉られる。それでも転がる様にしてその場から辛うじて逃げ延び、半ば担いでいた物を放り出すような形で地面を転げ回る。周囲を囲んでいた聖魔剣も光の槍によって次々と破壊されていく。
「つぅ……!」
抉られた箇所を押さえる木場。指の間からは光の毒によって肉体が焼け、煙と血が漏れ出している。
「戦争というものはかくもおかしいものだとは思わないか? 常に予期せぬことが起こり続ける。あのときの大戦もそうだ。誰もがまさかと思っただろうな。神が戦いの中で命を失うなど」
天を仰ぎ、自由の身となったコカビエルは周囲に向け独り語る。
「バルパーは聡い奴だったよ。三勢力の一部しか知らない事実を、たった一つのイレギュラーから推測したのだから。『聖魔剣』、天秤が崩れ、混沌と化していくこの世をよく表したイレギュラーだ」
倒れ伏す木場の聖魔剣を見ながら喉の奥で笑う。奇しくも味方の存在によって、敵の言葉を裏打ちするような事態となっていた。
「死んだ神に祈りを捧げるのはどんな気分だ? 底が開いた瓶に延々と水を注ぐようなものだと知らされてどんな気分だ?」
煽る様にゼノヴィアやアーシアへと尋ねる。敬虔な信者である二人は答えることが出来ず、その全身からは生気が失われつつあった。
「いっそ殉教でもしてみるか? この世の果てならば神も待っているかもしれないぞ?」
光の剣を出しながらコカビエルは、立ち上がろうとしないゼノヴィアの下へと近寄る。そしてその頭上に光の剣を振り上げようとしたとき、横から伸びた手がコカビエルの手を掴む。
「己を支える柱が無くなった信者など、いっそ殺してしまうのが慈悲というものだとお前は思わないのか」
手を掴むシンを見てコカビエルは嘲笑混じりの言葉を掛ける。シンは無言で地から片足を上げると、コカビエルに叩きつける――のではなく、項垂れているゼノヴィアの胸部に容赦なく撃ち込んだ。
ゼノヴィアの身体が宙に浮き、ボールのように飛んで行く。
蹴られたゼノヴィアは勿論、それを見ていた木場も突然の蛮行に目を丸くする。
ゼノヴィアはそのままアーシアの近くまで蹴り飛ばされ、二度三度地面を転がった後に止まった。
「間薙くん!」
「邪魔だ」
シンは軽く首を振った後、木場の言葉を最後まで聞かず一言で会話を終わらせると、蹴りつけた脚をそのままコカビエルに振るう。それは脚で難なく受け止められる。
「助けるつもりで蹴ったのならばもう少し手加減するべきだったな。あれは骨が折れている。治癒しなければまともに動けんぞ」
「それがどうした」
掴んでいた手を捻り、腕ごと捩じ折ろうと試みるも、その動きにコカビエルも素早く合わせ、その場で宙返りをする。
「これ以上絶望する前に葬ってやろうとしたのだがな。そんなに救いたかったか?」
「興味無い。あの様子ならばほっとけば舌でも噛むか、首でも括る」
「白々しい。あの娘の宗派を知っての台詞ではないな」
着地と同時に右の手刀が、掴んでいる腕目掛け繰り出される。止むを得ず手を離してそれを空振らせると、お返しとばかりにシンの拳が開いた胴体へと放たれる。だがコカビエルは解放された左肘を手の甲へと叩きつけて防いだ。
「神は死に、四大魔王も死んだ! あるべき秩序が壊れた今、天使も堕天使も悪魔も緩やかに死滅していくだけだ! ならば時に殺されるのではなくいっそ互いの手で滅ぼし合った方がましじゃないか? だからこその二度目の戦争だ!」
「一人でやっていろ」
「言葉にせずとも俺の意志に賛同する奴らは必ず存在する! 三勢力の中に必ずな!」
「ならそいつら諸共あの世で戦争ごっこでもしているんだな」
両者とも瞬きよりも早く己の四肢を動かして、付かず離れずの近距離で互いの命を獲りあっていた。
◇
「げほっ! ごほっ!」
遠巻きでそれを眺めながらゼノヴィアは、シンに蹴られたことで咳き込んでいた。その度に胸の内側で鋭い痛みが奔る。経験から骨に罅が入っていることを悟った。
正直、ゼノヴィアの心の中ではシンに蹴り飛ばされたことに対して怒りを抱いてはいなかった。ただ信仰していた神が既にいないという信じがたい事実に、感情が浮かぶ気力すら湧かなかった。
「大丈夫かい?」
いつの間にか近くに来ていた木場が話し掛けてくるがゼノヴィアは応えない。木場は片足を引き摺りながら側まで寄ると、うつ伏せになっているゼノヴィアを起こす。
「すぐにアーシアさんのところまで運ぶよ」
「……あの男の手助けをしなくていいのか?」
昏く擦れた声でゼノヴィアは木場に尋ねる。
「――悔しいけど、この足じゃ間薙くんの枷になってしまうだけだからね。それに間薙くんも君の所へ行けって合図を出していたし」
木場がシンの行動に驚き思わず声を掛けようとしたとき、シンは口では聞く気など無いと示していたが、さりげなく顎でゼノヴィアを指し、その後にアーシアの方を指すという動作で密かに木場へ指示を出していた。それが上手く伝わったことにより木場はゼノヴィアの介抱をしている。
「……コカビエルが言ったことは……」
「恐らく本当のことだろうね。神を見限った堕天使が罰せられず、今の今まで存在してこられたのは、神という罰を下す存在が居なくなったからかもね。それに――」
木場はコカビエルが指摘した、自分の手に握られている聖魔剣に目を落とす。確かに禁手化で生み出されたこの剣は、この世ではありえない矛盾の塊だった。
コカビエルの言葉を否定せず逆に肯定する。あれほどまでに戦いの中で己を曝け出しているコカビエルが、口先だけで惑わすような戯言を言うとは思えない。
「……この場で一番信じるべき私はだ……なのに私は誰でもいいから嘘であると言って欲しいと願っている……自分の背を押してくれる様な言葉を望んでいる……」
否定し切れないゼノヴィア。その震える姿を見て木場はかつての自分を重ねた。信じるものを失い、何で自分を支えればいいのか分からずに絶望した自分。
「――ゼノヴィア。居ようと居まいと君自身を救う都合のいい神様はここには現れないし、救いの手を差し伸べることはない」
木場自身信仰を捨てた身。この場で慰める為に耳触りのいい言葉を並べるつもりは無く、ただ残酷とも言える言葉を突き付ける。
「例え降りしきる雪の中を独り走っていようと、例え血反吐を吐いていようと、例え命の灯火が消えかけていようと、手を差し伸べる神様は現れたりしないんだ」
かつての自分の経験から出て来る言葉。ゼノヴィアはただ生気の無い瞳でそれを黙って聞いていた。
「このまま死んでしまいたいというのなら僕は止めない。――でも、もしほんの一欠片でも生きたいという願いがあるなら」
木場はまっすぐゼノヴィアを見つめた。
「君を助ける手はここにある」
その言葉にゼノヴィアの瞳が微かに揺れる。
「……何故そうまで助けようとする?」
「ただの僕のエゴさ。生きることを諦めさせたくないんだ」
木場は微笑を浮かべ、ゼノヴィアを立たせようとする。が、木場の支える手をゼノヴィアは掴んだ。
「大丈夫だ。……まだ私は独りでも歩ける」
「そうかい」
木場は問い返すことなく掴んでいた手を離す。ゼノヴィアの目が完全に生きる気力を失っていないことが分かったからであった。
「だったら――」
次に心配すべきは、悪魔になっても変わらずに神への信仰を積んでいるアーシアのことであったが、木場の予想に反しアーシアは、ゼノヴィアの様に震えていたりショックを受けていたりせずに、ひたすらリアスたちの治癒を続けていた。
「彼女のことも頼むよ。アーシアさん」
「はい!」
胸を押さえているゼノヴィアがアーシアの側まで行ったのを見て、木場は胸の裡にあった疑問を投げ掛ける。
「アーシアさんは……平気なのかい?」
その問いで懸命になっているアーシアの表情が一瞬曇ったのを見て、つい口走ってしまったことを後悔しながら、すぐに自分の言葉を訂正しようとする。
「ごめん。やっぱり聞かなかったことに」
「主がいないこと、私たちの信仰が全て無意味であったこと、そして主から与えられる愛が無いこと……本当は凄く苦しいです」
でも、とそこで区切り、アーシアの視線は横たわるリアスたち、傷付いた木場、ゼノヴィア、コカビエルと息つく暇も無く接戦を繰り広げているシンの姿、そしてコカビエルと揉み合ってそのまま校舎を突き破っていた一誠が造った大穴の方へと次々に向けられる。
「私は皆さんの様に戦えません。だからせめて、自分の与えられた役目だけは見失わずに全うしたいんです」
そう言い切るアーシアの姿を、ゼノヴィアはじっと見つめていた。その目がどんな感情を映しているかは木場に分からなかったが、少なくとも最初のときに見せたような、『魔女』として軽蔑していたときのものではなかった。
「えらい、えらい」
ピクシーがアーシアの側まで飛んでくると、アーシアを褒めながら頭を撫でる。
「あの、私のことよりもピクシーさんは間薙さんのことを心配した方が……」
「シン? きっと大丈夫でしょ?」
あっけらかんと言うピクシーの態度に誰もが絶句してしまう。シン自身の実力はそれなりに高い方であるが、相手は堕天使の幹部であるコカビエルであり、今も一人で戦い続けている。
「そんな簡単に……」
「シンが死ぬ時があったとしたらきっとアタシも死ぬときだと思っているし、でももし今日がその日だったら――まあそのときは仕方ないかな」
口調は軽いが、その内容は非常に重いと言えるものであった。普段から無邪気で飄々としているピクシーであったが、生死を共にする覚悟があったことを、この時誰もが初めて知った。
「――なら僕も自分の役割を果たそうかな」
木場は足を引きながらアーシアたちの前に立つ。
「『騎士』としてここに居る皆を守らないとね」
負傷をしている木場は今も戦っているシンのように十分な力で戦えない。ならば少しでもシンが気兼ねなく戦えるようにこの場を守る。それが木場の選択であった。寧ろゼノヴィアの下へ木場を行かせたことを考えると、シン自身そのような形になることを望んでいたのかもしれない。
「ヒホ!」
前に立つ木場の横にジャックフロストが並ぶ。
「オイラもゆうとと同じことをするホー!」
意気込むジャックフロストに木場は苦笑する。
「危ないかもしれないよ?」
「オイラはまだシンみたいにあんな風に戦えないホー。だったら自分の出来る範囲から少しづつやっていくホー! それが強くなる方法だってこの間シンに聞いたらそう教えてくれたホー! これで防御力が上がたホー!」
胸を張って言うジャックフロスト。危険に首を突っ込まない様にそれっぽい様なことを言ったのではないか、と木場は思ったが、口には出さなかった。
「王様になるんだったら『騎士〈ぼく〉』に任せてもいいと思うんだけど」
「王様を『騎士』が守るんだったら王様が『騎士』を守ったっていいホー! 二人で守り合えば倍強いホー!」
子供の様な理屈と一蹴するのは簡単であった。だが木場はこの隣に立つ小さな雪精の存在に、見た目以上の頼もしさを感じられた。
「そうかい。じゃあ僕のことは任せたよ」
「ヒホ! オイラのことも任せたホー!」
普段は冷静な木場であったがこのとき、天に向かって思いっきり、声を大にして叫びたくなった。天に昇って行ったかつての同志たちに届く様な、大きな声で伝えたい。
『これが今の僕の仲間たちだよ』と。
◇
短い時間の中で幾度なく続く命の奪い合い。両者とも近い距離でお互いを顔を見ながら、異なる表情を浮かべていた。コカビエルはこの戦いの中に喜びと歓喜を見出し、実に愉しそうな表情を浮かべ、シンは目線のみ動かすだけでそれ以外の表情筋は微動だにせず、無表情を貫いている。
だが、それでも共通している部分もあった。それは、相手を死に至らせてやろうという殺意を込めた目であった。
シンの左拳がコカビエルの鳩尾へと深くめり込む。コカビエルの口の端から唾液が流れ落ちる。しかしその状態からコカビエルは頭蓋を砕く勢いで肘を降ろした。それを捉えたシンは身を引いて躱す。
その動きを読んでいたかのように振り下ろされた肘は途中で急停止し、顔面目掛け真っ直ぐ突き出された。先読みされたことで見切るのが微かに遅れたシン、それでも回避しようと無理を承知で身体を強引に動かす。
内側の筋肉や筋が無茶な動きに、痛みという名の悲鳴を上げるが、それを無視する。
突き出したコカビエルの指先の先端が左瞼の上に触れる。その瞬間、噛み合わなかった身体の動きがようやく噛み合い最速、最少の動きでそれを避ける。
直撃を受けることは避けられた。だが最初に受けた指先の部分は触れた箇所を抉り、そこから血が流れ出す。流れた血はシンの左眼へと流れ込み反射的にシンは左眼を閉じてしまった。
しまったと心の中で思った次の瞬間、衝撃が腹部に走る。コカビエルの爪先がシンの腹へ捩じ込まれていた。痛みを堪えコカビエルの足を掴もうとするが、それよりも先にその状態から蹴り飛ばされ、コカビエルと距離を開けられてしまう。
天に掲げたコカビエルの手。そこから光が迸ると光は巨大な槍と化す。シン一人を葬るにしては過剰といえる力が込められていた。
対するシンもすぐに体勢を整え、蹴られた痛みなど無いように平然とした態度で右手に魔力剣を生み出す。巨大な光の槍を前にしてシンの持つ魔力剣はあまりに小さく感じられた。
コカビエルは頬を痙攣させるかの様に嗤う。
「愉しかったがこれで幕引きだ!」
シンに向けて放たれる光の槍。しかし、シンは魔力剣を握り締めたままそれを振るおうとはしない。
一見すれば諦めているかのように見える態度。シンは待っていた。このような危機的状況、それに黙っていられない存在がこの場にいる。それが都合よく現れる根拠など何一つ無い。敢えて根拠を挙げるとしたら、只の『勘』という具体性の無いものであった。
だがシンはその『勘』に命を賭ける。他人が知れば狂気の沙汰であるが、少しでもコカビエルを倒す確率を上げる為にその狂気に己を投じる。
そしてその賭けは――
「させねぇよ!」
第三者の声と共に放たれた赤い閃光が、光の槍に真っ向からぶつかっていったことで勝ったことを告げる。
赤い閃光ことドラゴンショットを放ったのは、勿論というべきか校舎の大穴から両手を突き出した構えをとっている一誠であった。
堕天使の光と赤龍帝の魔力、その二つは拮抗し合い、やがて一つになったかと思えば眩い閃光と衝撃となって、校庭内に広がっていった。
その強烈な光に誰もが目を閉じてしまう中、ただコカビエルだけが瞳を閉じ切ることなく前方を睨みつけていた。このような状況の中、敵が黙ったまま何もしない訳がない。
そしてコカビエルの予見通り、光の奥からこちらの方に向かって迫る、陽炎のように揺らぐ人影の姿。
完全に消えきっていない魔力の中を突っ切って来たのか、光の中から姿を見せたシンは、体の至る所に魔力や光力で生じた傷を負っている。だが本人はそれを気にすることなく、コカビエルへの懐へ一気に飛び込むと、限界まで高めた魔力剣を振るった。
しかし、シンの動きを既に把握していたコカビエルはその全身から光を放ち、前に防いだときのように光の膜を纏う。
シンの魔力剣が光の膜へと触れる。それと同時に魔力剣の内に溜め込まれていた魔力が解放されるが、解放された魔力は光の膜の上を滑り、コカビエルの体まで届かない。
「フハハハハ! どうやらここまで――」
シンの攻撃が届かないのを見て、そのまま反撃へと転じようとしたコカビエルは、その続きの言葉を吐くことが出来なかった。
振り上げられる左腕、そこには右手に握られたものと同じ魔力剣が形成されていた。
シンがどうして先程のコカビエルの攻撃の時、反撃する素振りを見せなかったのか。それは左手で創り出す魔力剣の為に、魔力を確保しておきたかった為である。
戦いの中で初めて試みる二本同時の『熱波剣』。どのような結果になるか、成功するか否かは最早問題では無い。既に体の中にあるありったけの魔力を掻き集めて創り出している故、二度目が無いのである。
これを使えばシンの攻撃手段は、この戦闘中全て使えなくなるかもしれない。その覚悟を持ってシンは、左手に創りだした魔力剣を交差するように、既に振るった右の魔力剣へ叩きつけた。
二つの重なった魔力剣は爆ぜる様に、その中に眠る暴風の如き力を一気に吐き出す。光の膜を滑るように弾かれていた魔力に更なる魔力の波紋が重なり、光を激しく揺らしていく。元より無茶苦茶な軌道で相手を蹂躙する魔力の余波は、新たな魔力の波を受けて更に凶悪さを増し、触れるもの全てを引き千切るような暴力の塊と化す。
最初は耐えていたコカビエルの光も荒れ狂う魔力の波に喰らい付かれ、綻びが生じたかと思えばそこから急速に食い破られる。
「これほどとは。やはり貴様も魔人――」
そこから先を聞く前に、光を突き破った白色の魔力がコカビエルの身体を飲み込む。防ぐものを壊した魔力の波はそれに歓喜するように暴れ狂い、校庭の土などを巻き上げてその中に取り込んでは、破壊し尽くし塵すら残らないようにする。
その破壊の渦の中に取り込まれたコカビエルもまた、蹂躙され、その身を破壊し尽くされる。そう誰もが思った。
一人を除いて。
コカビエルが光力と魔力が交わる閃光の中でシンの存在に勘付いたのと同様に、シンもまた目の前の魔力の渦の中にコカビエルの消えぬ存在に勘付く。
白色の光の中に只一点揺れる灯火の様な橙の光。それは遠ざかる事無く逆に近づき、その灯りを徐々にはっきりとさせていく。やがてその光が最も強く感じられたとき、シンは己が放っていた魔力剣から手を離した。
「来い」
『熱波剣』の渦を突き破り、そこから飛び出してくるのは、地獄の業火を宿すコカビエルの右手。破壊の渦の中でもその炎を絶やすことはなく、折れぬコカビエルの意志を反映するかのように一層激しく燃え盛り、既に右腕は炭化を通り越し、気化し始めているのかその形を細めていった。
真っ向から破って現れたコカビエルの姿は無傷ではなく、纏っていた黒のローブも殆ど体に張り付く程度の布切れにまで裂かれ、その下から覗く肌は元の色が分からない程血に塗れていた。
コカビエルは長い髪を振り乱しながら、赤い瞳に込めた殺意をありったけシンに叩きつけ、今にも崩れてしまいそうな右手で拳を形作りシンに振るった。
あらゆる物を焼き尽くしてしまう程の炎を前にシンは左手を翳す。それは万が一の場合利き手を残す為であった。
シンの左掌にコカビエルの右拳が叩き込まれる。左手から肩にまで抜ける様な重い衝撃が奔り、受け止めた左手から割れるような音が伝わってくる。それでもシンは怯まず相手の拳を手で覆う。
炎が左手に燃え移っていく中、その灼熱の痛みに耐えつつ半ば自爆覚悟で左手に魔力を送り込もうとする。だがやはりと言うべきか、いくら送り込もうとしても体の中から湧き立つような衝動が起きない。
完全に魔力が切れていた。
ならば奪い取ればいい
突如聞こえてくる声。それは外からではなく内から聞こえてきた。
足りないなら奪え。
頭に響く声。紛れも無く自身の声であった。
奪え奪え奪え奪え。自分の不足は相手を糧にして補え。
囁く言葉。何故、こんな言葉が頭を過ぎるか分からない。
目の前に在る力はお前の力だ。奪い、取り込み、己のものにしろ。
言っていることが分からない。第一そんな方法自分は知らない。
いや知っている。お前は知らなくてもお前の力がソレを知っている。さあ、奪え奪え奪え奪え奪え奪え。
既にその方法を知っている?
魔人の力は全てお前の力だ。
「奪う――」
その言葉を呟いたとき変化が起こる。燃え盛っていた筈のコカビエルの炎、それが突如として火の粉の様に舞い上がり、シンの左腕の中へと吸い込まれていく。
「馬鹿な! 俺の炎を取り込んでいるのか!」
どんな方法でも封じることしか出来なかった魔人の炎がシンによって引き剥がされ、それどころか体内へと納めていく。
体の奥へ途方も無い熱が流れ込んでくる。血が全て蒸発し、臓器が融解し、肉体が炎上していくかのような錯覚。だが吸い込む炎はシンの身体の中で炎から魔力へと変換され、空になった器がそれによって満たされていく。
炎を取り除かれたコカビエルの腕は燃え尽きた木の枝の様に細まり、ひどく脆そうに見えた。だがその細まった腕からは想像出来ない圧力を、シンは掴んでいる左手から感じ取っていた。
「返せ! ソレは俺のものだ!」
今まで身を焼いていた炎が消えたことに、安堵するよりも先に奪われたことに激怒するコカビエル。そこには、常人には到底理解出来ない執着があった。
シンは左腕を右手で掴み固定するような構えをとる。体を満たす魔力により今ならばあの技が放つことが出来る。
奪った魔力を左腕、右腕へと充填させる。未完成故、本来ならばもっと時間を掛けて魔力を流し込み調整をするが今は、そんな悠長な時間は無く半ば勘で調整する。
それによって白色の魔力光を帯びた両腕は、左腕を主として膨大な魔力が蓄積されていく。右腕もまた魔力を帯びているがその輝きは左腕に比べれば鈍く、浮かんでいる紋様が発光する程度のものであった。
急速に溜め込まれた魔力は左腕の内側で圧縮され、出口を求めて暴れる。それを押さえつつ充填が完了したと判断すると同時に、掴んでいる右手から更なる魔力が流され、それによって勢いを得た左腕の魔力は掌から一気に放出された。
掴んでいるコカビエルの拳に直接叩き込まれるシンの魔力の塊。それは触れると同時に焼け焦げたコカビエルの右腕を消滅させる。
拳が消え、肘が消え、肩の部分まで消失したとき、コカビエルは咄嗟に体を動かし、右腕の消失のみで被害を抑える。そのままであったのならば右半身が消滅していた。
「おおおおおおおおおおおおおおお!」
吼えながらコカビエルは右腕を消し去られてもなお闘争心を揺るがさず、右腕を失ったと同時に左手に光の槍を作りそれを握り締める。その展開の速度は今まで見たことが無い程早く、最初から右腕を捨てる覚悟で左手に力を集めていたことが窺える。
シンの頭部に向けて振るわれるそれをシンは目で捉えることが出来ていても、既に攻撃の体勢に移っていたコカビエルと違い、魔力を放った反動からか、咄嗟にシンは身体を動かすことが出来ない。
どう足掻いても一手遅れてしまっている状況。そんな中でただ思考だけが無意味に高速で働き続ける。
どうするどう避ける体の動きが遅い鈍い反応できない視ろ回避は不可能考えろ相手の動きに追い付けていない読み敗けた視ろ考えろ考えろ足は動かない手を伸ばせばそれも間に合わない間に合わない視ろ間に合わない視ろ反応しろ反応しろ視ろ視ろ動け動け動けそうじゃない視ろ視ろ視ろ視ろ何の為の左眼だ視ろ視ろ視ろ視ろその眼は伊達じゃない視ろ視ろ視ろ視ろ。
万分の一秒の中で動く思考の中、雑音の如き囁き、浮き出てくる言葉。
(眼? 左眼? これで視る?)
シンの左眼の視線が、光の槍を振るうコカビエルの左手に焦点を合わせられる。
そうだ視ろ視ろ視ろ視ろ。お前の眼もまた己の武器だ。視ろ、相手を視ろ。
頭の中に響く声に従いシンの眼は、迫り来る凶刃ではなくコカビエルの手を凝視し続けた。すると左眼の奥から左目を突き出すような圧迫感を覚えたかと思えば、左眼が焼けるような熱を感じる。それはシンが魔力を集束させるときと、似たような感覚であった。
それでいい。狙うべき場所を視ろ。そして――穿て。
熱や痛みが限界まで達したとき、シンはある光を見えるはずの無い左眼の奥で幻視した。まるで蛇の様に絡み合い一つの束へとなっていく光の姿、それが一際強く光ったと同時に視界が消える。正確に言えば視ていた筈の左眼から見える光景が白色へと染まり、何も映さなくなった。
だが視えなくなった左眼の代わりに、シンの右眼がしっかりと視ていた。光の槍を振るっていたコカビエルの左手が、突如として千切れ地面へと落下していく光景を。
断たれた左手を見てコカビエルは驚く。反応も知覚も出来ないうちに左手を切断されたからだ。目の前にいるシンが何かしたのは明白であった。だが何をしたのかが分からない。
それは視認も反射も出来ない視えざる一撃であった。
「まだやるか」
右腕と左手を失ったコカビエルにシンは問う。コカビエルはそれを一笑し、答える。
「愚問だな」
コカビエルは大きく口を開け、その歯をシンの喉へと突き立てようとする。他者から見れば原始的かつ尊厳すら捨てた攻撃。だがその方法は最後まで相手を殺すことを止めない、コカビエルの生き様を表しているかのようであった。
だが――
「お前の戦争はここで終わりだ」
その牙が突き立てられる前にシンの拳が、コカビエルの顔面へと叩きつけられた。叩きつけた拳をそのまま振り抜くとコカビエルの体はそのまま飛ばされ、背中から地面へと着地すると数回跳ねた後、地面の上を滑っていった。
数十メートルも殴り飛ばされたコカビエルはそのまま仰向きに倒れる。その場で身体を起こそうと試みていたようであるが、体が痙攣したかの様に震えるだけでそれ以上動くことはなかった。
殴られたコカビエルの顔面に刻まれたシンの拳の痕。奇しくもそれは、抉られた左眼に報いるかのように、顔の左半分に刻まれているのであった。
◇
「終わったみたいだな」
何かに気付いたアダムは口の端を吊り上げて笑う。そのアダムの下ではケルベロスが、血混じりの泡を吐き出しながら悶え苦しんでいた。
「へっへっへ。賭けはこっちの勝ちだな」
「あんたさっきから何一人で喋ってんだ?」
一人楽しそうにしているアダムを匙は、不審者に向けるような眼差しで見る。尤も、その匙の態度は決して間違っておらず、アダムと言う謎の人物をソーナから聞かされているものの、いきなり現れてケルベロスを押し潰して、身動き取れなくする姿を見て警戒しない訳にもいかない。だがそのおかげで助かったということもあり、匙の心中は複雑であった。
「色々と動いた甲斐があったっての実感してんだよ、黒龍〈ヴリトラ〉の坊主。俺の仕事もそろそろ締めだなぁ」
感慨深そうに言っているが事情を知らない匙からすれば、何一つ意味が分からない。ソーナの話で聞いたときは慇懃無礼な人物だと言っていたが、実際に会ってみて匙が受けた印象は真逆と言ってよかった。
「サジ!」
背後からの声。振り返るとそこにはソーナが立っている。最初は厳しい表情をしていたが、ケルべロスの姿とアダムの姿を見て、軽く驚いた表情へと変わった。
「何度も呼び掛けて応じないと思っていたら……」
「すみません! 会長! いろいろとトラブってしまって……」
ソーナが何かを言う前に匙の方から頭を下げる。心配してわざわざソーナから足を運んでくれたことへの謝罪であった。
「怒んなよぉ、シトリーのお嬢ちゃん。そっちの坊主はコレを一人で抑えようとしてたんだぜぇ。頭の一つでも撫でてやったらどうだ?」
「別に叱るつもりはありません。――そっちの喋り方が貴方の素ですか? もう別の人物を演じる必要は無いという判断ですか?」
アダムは応えず、ニヤリと笑った。
そのとき、上空から流星のような白い光が、尾を描きながらソーナたちの造った結界を突き破り、学園内へと侵入する。それを見たソーナと匙は驚くが、アダムは逆に笑みを消して眉根を寄せた。
「あの野郎、予定と違うじゃねぇか……」
その呟きはソーナの耳にも届き、思わず振り向く。だが大の字に倒れ伏すケルベロスの上にアダムは居らず、辺りを見回すと百メートル先でこちらに背を向けて歩いていた。
「最後の仕事も今無くなったし、俺は帰るよ。色々動いてもらって礼を言うぜ。この埋め合わせは必ずさせてもらう」
そのまま帰ろうとしているアダムに、慌てて匙が声を掛ける。
「おい! あれも放っておくしこれも放っていくのかよ!」
あれとは先程の白い光を指し、これとは倒れているケルベロスのことを指す。
「あれのことは中のお嬢ちゃん方に任せておいても大丈夫だ。その犬っころの方は……まあ頼んだ。ああ、それと」
何かを思い出したのか、足を止め振り返る。
「頼まれついでにあの教会のお嬢ちゃんたちとシンって坊主に伝えておいてくれねぇか?」
アダムは頬を引っ張りながら、ある病院の名前を口にする。
「そこにこれの持ち主が眠っているっていうのと、詫びとして『ソレ』はお前に預けておくってな」
ゼノヴィアたちへの伝言の内容は分かるが、シンへの伝言は全く内容の意味が分からないものであった。
「何だよ『ソレ』って!」
「そのうち分かる」
もう伝えることは無いのかアダムが再び去ろうとしたとき、今度はソーナが呼び止める。
「最後に一つだけ質問してよろしいかしら?」
「何だい?」
「貴方は結局何者なのですか?」
アダムは少し考えた後、こう答える。
「アダムって言葉をアルファベットで書くとどうなるか知っているか?」
「はぁ? A、D、A、M、Uじゃねえのか?」
「ハハハ! Uは余計だぜ、坊主」
匙の回答にアダムは笑うが、ソーナは何かに気付く。
「まさか……貴方は……」
「じゃあな。『この顔』で会うことはもうないだろうぜぇ」
背後に立つ匙たちに手を振りながら今度こそ、その場から立ち去るアダム。その姿は闇夜に消えていくがどういう訳か、夜目に優れている悪魔でもその姿を追うことが出来なかった。
これでコカビエル戦は終わりです。
次でようやく三巻の話は終わります。