ハイスクールD³   作:K/K

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修行、地獄

 エレベーターから降りて来た男性を見て、シンはどうしたものかと考える。髪は見慣れた黒色、腕や脚、首、体といった目につく全ての箇所は鍛え抜かれ、分厚い。

 視線をずらせば、その足元にはヒクヒクと痙攣しながら気絶している男。

 二人の素性は分からないが、この建物で上級悪魔たちが会合を行うというのを聞いている為、ほぼ間違いなくリアスと同じか、それ以上の立場にある者だというのが分かる。

 気絶させてしまった男に関しては、出来れば穏便に済ませたいと思っていたが、あまりに殺気立って襲い掛かり、周りに被害が出るかもしれないと思い、咄嗟に手が出てしまった。無意識に近い状態での反撃にも関わらず傷を負っている所をきっちり狙っているのは、我ながら容赦が無いと思ってしまう。

 

「この男は、お前がやったのか?」

 

 降りて来た男がシンに問う。それは責める様なものではなく、純粋に尋ねている口調であった。

 

「――はい」

 

 少し躊躇いがちに肯定する。すると男は、感心した表情となった。

 

「この男は、ゼファードル・グラシャラボラスといってな。グラシャラボラス家の次期当主だ。兇児と言われる程日頃の素行が悪い男ではあるが、若手悪魔としてはそれなりの実力を持っている筈なのだが……大したものだな」

 

 男は気絶している男――ゼファードル―――の襟首に指先を引っ掛けると、指一本でその体を持ち上げた。ゼファードルもまた成人男性としては大柄と言える体型であったが、それをものともしていない。

 

「ゼファードルの眷属たちは何処だ?」

「ここにいるぞー」

 

 笑いを含んだ声。男とシンが声の方に目を向けると、口を歪ませて笑っているマダが四本の腕を使って、ゼファードルの眷属たちの肩に腕を回していた。

 散歩からいつの間に戻って来たのかは知らないが、眷属たちが誰もゼファードルを援護せず、終わった後も近寄らなかった理由に納得する。

 

「見ていて気持ちいいぐらい無様に吹っ飛んでったよなぁ、あの男。お前らもそう思うだろう?」

 

 眷属たちの主を侮辱する言葉。本来ならば、侮辱を吐いた者に牙を剥いても可笑しくない。だが、ゼファードルの眷属たちは何も言わず、何も行わなかった。

 否、何も出来ないのだ。

 眷属たちは皆震えていた。肩を回し、親し気に話し掛けてくるマダの、言葉に出来ない程の存在感を本能で感じ取り、その内包している力に怯えていた。

 

「なあ? さっきから俺ばっかり喋っているじゃあねぇか。反応が無いと寂しいだろう?」

 

 それでもゼファードルの眷属たちは何も出来ない。

 マダは、その鋭い歯を見せつける様な笑みを眷属たちに向ける。

 

「なあ――」

「いい加減放したらどうですか? はっきり言いますが趣味が悪いですよ」

 

 マダの行いにシンが苦言を呈する。他人が怯えている様をいつまでも見せられるのも気分が良くない。

 

「へいへい。お前さんもアザゼルみたいに口うるさいねぇ」

 

 反論も反抗的な様子も無くあっさりと回していた腕を離し、そのまま肩を竦める。

 解放された眷属を見て、そちらに向けて男はゼファードルを投げ放った。

 息苦しい緊張から解き放たれた直後に飛んで来た主の姿を見て、眷属たちは慌てふためくも地面に落ちる前に皆でその体を受け止める。

 ゼファードルを雑に扱った男に眷属たちは怒りを込めて睨み付けるも、男は全く動じない。

 

「前にも言ったが、先に主を介抱しろ。それと今度は、そいつが馬鹿な真似をする前に止めろ。盲目的に従うだけが眷属ではない。時には主を正すのも眷属の務めだ」

 

 怒りすら軽々と呑み込んでしまう男の迫力に、眷属たちは何も言い返すことが出来ず、怪我をしたゼファードルを連れて去ってしまった。

 男は一仕事終え、息を一つ吐いた後、シンへと近寄った。

 

「迷惑を掛けてしまって申し訳ない。奴と同じ悪魔として謝罪する。怪我などは無いか? あればこちらが責任を持って治療させてもらうが」

「いえ、大丈夫です」

 

 目の前に立つ男を見て、シンは改めてその男の大きさを実感する。確かに体格や身長はシンよりも大きい。だがそれだけではない。纏う気配、存在感、迫力、そういった全てのものが濃く、強い。それが合わさり男を更に大きく見せる。

 

「そうか。怪我一つ無くあの男を倒すとは、やはり大した男だ。俺の名はサイラオーグ・バアル。そちらの名も聞かせて貰ってもいいか?」

「間薙シンです」

「ふむ。その名と気配からしてやはり人間か。珍しいな、ここに転生悪魔ではない人間が来るのは」

 

 顎に手を当て、不思議そうに見て来るサイラオーグ。どう説明しようか考えるが、リアスの名を伏せてああなってしまったので、今度はリアスの名を出すことにした。先程のゼファードルとは違い、サイラオーグの親切な態度も話す気になった理由でもある。

 

「実は、ある上級悪魔の協力者という立場でして、今回はその経緯で冥界に招いてもらっています」

「契約関係ではなく協力関係か。成程、風変りだな。それでその上級悪魔の名は?」

「リアス・グレモリーです」

 

 その名を聞き、サイラオーグは目を丸くする。が、すぐに口元に笑みを浮かべた。

 

「そうか、リアスか。こうやって言葉を交わすのも縁を感じる」

 

 サイラオーグは、自分とリアスが従兄弟の関係にあることを説明する。

 前はリアスの名前を伏せて失敗したが、今回は出して正解であったらしい。尤もあのときのゼファードルの精神状態を考えると、出しても出さなくても同じような結果になっていた可能性があった。

 サイラオーグは握手を求めて、シンに手を差し出す。

 

「縁というものは大事にしていきたい。リアスの協力者というならお前とはこれからも何度か顔を合わせることになるかもしれないからな」

「そうかもしれないですね」

 

 差し出された手を握った瞬間、サイラオーグとシンは同じ言葉が同時に浮かぶ。

 

『強い』

 

 シンは、その厚みのある手から伝わってくる硬い感触に、研磨された鋼でも握っているかの様な気持ちになる。素人でも分かる程何度も何度も鍛え抜き、それによって定着した拳の強さが、そのまま本人の実力の一片として否応無しに理解させられる。

 サイラオーグもまた、握ったシンの手から得体の知れない力を瞬時に感じ取っていた。ゼファードルを撃退したシンを、初めは神器使いか魔術師の類かと思っていたが、全く違うことを知る。

 神器とも魔術とも異なる、冥界でも感じたことがない寒気を覚える力。鋭敏に感じたそれにサイラオーグは、親し気であった雰囲気を消し、鋭い眼差しを向ける。

 

「お前は――」

「おいおいおい。二人で自己紹介して盛り上がっているのはいいけどこっちを無視しないでくれるかぁ? こう見えても寂しがり屋なんだよ」

 

 サイラオーグが問い掛けようとした瞬間、シンの背後から見下ろしながらマダが口を挟んできた。

 

「――その巨体。その四本腕。そして、地獄の悪鬼すらも逃げ出す程の凶相。冥界に居れど聞いたことがあります。神すらも退ける阿修羅、マダ殿ですね?」

「ほほう? 俺のことを御存じで?」

「ええ。その高名、何度も耳にしたことがあります」

「そういうそっちも中々の有名人じゃあねぇか。なあ、サイラオーグ・バアル? こっちも何度も聞いているぜぇ。『大王』の次期当主の話は、よぉ。噂通りいい面構えをしているじゃあねぇか」

「俺など、貴方と比べればまだまだ若輩者です」

「その歳でそこまで出来上がっている奴なんて殆どいねぇよ」

 

 謙遜するサイラオーグをマダが褒める。だが、いつもの様なニヤケた顔はしていない。いつもそのせいで茶化していたり、皮肉を言っている様に見えるが、それが無いせいで言葉により真剣味が増す。

 

「ところで彼の――」

「おーい、チビ共! もうあの小僧は居なくなったから出て来い」

 

 何か言い掛けるサイラオーグを遮って、マダは姿を隠している者たちを呼ぶ。するとマダの声に反応して、物陰に隠れていたピクシー、ジャックフロスト、ジャックランタンが様子を窺うように顔を出す。

 

「もう出ていいの?」

「ヒホ?」

「びっくりしたね~いきなりだも~ん」

 

 ゼファードルが襲い掛かってきた際、シンは仲魔に身を隠す様に指示を出し、それによって対象を自分だけに絞らせていた。害が他に飛ぶのを防ぐ為である。

 羽ばたくピクシー、小走りのジャックフロスト、浮遊するジャックランタンがシンの下に戻ると、サイラオーグの方をじっと見た。

 

「このヒト誰?」

 

 指を差して問うピクシー。初対面の相手に対し失礼な態度であったが、サイラオーグの方は気分を害した様子は無く、ピクシーたちの登場に少し戸惑っていた。

 

「これ程希少な存在を一度に見るとは……」

 

 ピクシーたちの詳細を知っているのか、驚きと困惑が混じった声を洩らす。

 

「このヒトは、サイラオーグ・バアルさんだ。リアス部長の従兄弟だそうだ」

「へー、リアスの。アタシはピクシー、よろしくねー」

 

 軽く挨拶をして、ピクシーは最早定位置となっているシンの肩に腰を下ろす。

 

「オイラは、ジャックフロストだホ!」

「ヒ~ホ~。ジャックランタンだよ~」

 

 ピクシーに続いて手を振りながらジャックフロストは自己紹介し、ジャックランタンはフワフワと動きながら挨拶をする。

 

「あ、ああ。よろしく」

 

 暫し、ピクシーたちを眺めていたサイラオーグ。するとそんな彼にマダが声を掛ける。

 

「そういやぁ、何か聞きたい事があったんじゃねぇか?」

 

 マダが言った様に、サイラオーグは二度質問を言い掛けていた。

 聞かれたサイラオーグは、少し黙った後険しい表情を緩め、再び微笑を浮かべる。

 

「いえ。きっと俺の杞憂でしょう。お気になさらずに」

 

 一時向けられた鋭い眼差しは消え、最初のときの様に強い意志を感じられる目に戻る。

 

「そろそろ会合の時間なので戻ります。所で、何故こんな場所でリアスたちを待っているんだ? 間薙シン。」

「一応、悪魔ではないので」

「お前がリアスの友人ならば多少融通が効く筈だが? 中にはサーゼクス様も居る。俺も口添えすれば大丈夫だと思うが?」

「気持ちだけ貰っておきます。……こういった言い方は癪に障るかもしれませんが、俺は悪魔が全てリアス部長やサーゼクスさん、そして貴方の様な人格者だとは思っていないので」

 

 聞く者が聞けば怒りを覚えそうな台詞だが、それを聞き寧ろ納得した様にサイラオーグは小さく笑う。

 

「その考え、決して間違ってはいない。浅慮だったな。詫びよう」

 

 思う所があるのか、シンの意見を否定ではなく肯定する。

 

「また会おう」

 

 サイラオーグは、そう言い残して建物の中へと戻っていった。

 

「あー、やだやだ」

 

 居なくなると同時にマダは、嫌気が差すといった表情となる。

 

「何が気に入らないんですか?」

「あの面構えだよ。年不相応な面。どれだけ苦労してきたのか一目で解っちまう。あんな面にならなきゃいけなかった事情や環境のことを少しでも考えると、なあ」

 

 長い舌を出しながら不満を漏らす。

 

「俺はな、笑える不幸ならいいが。笑えない不幸は話をされるのも聞くのも考えるのも嫌いなんだよ。酒が不味くなる」

 

 「あー、やだやだ」ともう一度呟きながらマダは地面に寝そべり、これ以上考えるのを止める為に居眠りを始める。

 マダが、サイラオーグの顔付きからどんな過去を読み取ったのかは分からない。だが、間違いなく愉快な話ではないことだけは分かった。

 悪魔たちが集う建物を見上げながら、一体どのような会合が行われているのか沈黙の中で考えるのであった。

 

 

 ◇

 

 

 サイラオーグと言葉を交わしてから約二時間が経過した。

 ピクシーたちは相変わらず三人で戯れ、マダは寝息を立てている。

 あとどれくらいなのかと若干退屈を感じ始めてきたとき、建物のエレベーターが開く。すると、中からソーナたちが現れた。

 

「あら? 姿を見ないと思っていましたが、ここに居たんですか? 間薙君」

 

 建物前で待っているシンの姿を見て、ソーナは意外だという表情を浮かべていた。

 

「お前、グレモリー部長たちをずっとここで待ってたのか? はぁ、よくこんな何も無い所で待っていられるな」

 

 少し呆れた様子でシンを見る匙であったが、シンの方は匙を見て違和感を覚えた。いつも以上に表情が険しく見え、声も不機嫌そうに聞こえる。

 匙だけではない。ソーナの眷属たち全員、妙に刺々しい気配を纏っている。この中で平静でいるのはソーナと椿姫ぐらいであった。

 

(何かあったのか?)

 

 会合で気に入らないことでもあったのかと思ってしまう。

 

「リアスたちならば、来るのにもう少し時間が掛かりますよ。サーゼクス様とお話をしていたので」

「そうですか」

「所で――」

 

 ソーナの視線が、シンから寝そべっているマダの方に向けられる。ソーナたちとマダは初対面であった。

 

「あの方はどなたなんですか?」

「あのヒトは――」

「この姿で会うのは初めてだが、お前さんらとは一度会っているぜ? ソーナ・シトリー」

「うおっ!」

 

 少し目を離していただけなのにいつの間にか起き、それどころかシンの隣に移動する。その早業に匙が驚きの声を上げた。

 

「その声……貴方がマダですね」

「ご名答」

 

 冷静に正体を見抜くソーナにマダは、感心した様に軽く拍手をする。

 

「え……このヒトが?」

 

 マダの名を聞き、匙の目の色が変わる。

 

「冷静な女は嫌いじゃないぜぇ。どうだい? このあとお茶でも」

「遠慮しておきます。私たちには早急にするべきことがあるのでその様な時間はありません」

 

 それは残念、と言ってあっさりと引き下がる。元より本気では無かった様子であった。

 

「するべきことですか?」

「ええ。今から約二十日後、私たちはリアスとレーティングゲームを行います」

 

 それを聞いてシンの頭に疑問が浮かぶ。レーティングゲームについての詳細はあまり知ってはいないが、シンの記憶ではリアスもソーナもまだレーティングゲームに公式参加をしていない筈である。どういう経緯でそうなったのか、全く分からない。

 

「疑問に思うのも仕方ありません。私たちは、まだデビューすらしていないので」

「何が会合の場であったんですか?」

「掻い摘んで説明しますと――」

 

 ソーナが言うには、会合の場で各若手悪魔が将来の目標について語る機会があったという。

 サイラオーグはバアル家から初となる魔王になること。リアスは、近い将来グレモリーの当主となり各レーティングゲームの大会に優勝するという目標を語った。そして、ソーナが語った目標は、一部の特権のみが通えるレーティングゲームの学校を下級、転生悪魔の為に建てたいという目標を語った。

 が、この夢を聞いた上級悪魔の御偉方の反応は嘲笑、冷笑であったという。笑った理由はソーナの目標が『夢物語』だからだ。

 根本にあるのは下級悪魔、転生悪魔への差別視。下級、転生は所詮上級悪魔という主に仕えるのが常であり、ソーナが言う様な施設を作るというのは、伝統と誇りのある旧家の顔を潰すことになると言ったらしい。

 周りから非難される中で助け舟を出したのが、ソーナの姉であり魔王であるセラフォルーと、サーゼクスであった。

 セラフォルーの言葉で御偉方を黙らせた後、サーゼクスがリアスとソーナとのレーティングゲームを提案したのである。

 

(部長も会長も眷属全てが転生悪魔だ。会長がもし部長に勝てたら、転生悪魔への指導力をアピール出来る、という訳か? 惨敗したら言われた通り夢物語として片づけられるかもしれないが……まあ、賭けだな)

 

 サーゼクスの意図をそう判断する。

 

「悪魔の中でもこの様な差別的な考えはあります。それも一部に限った話ではありません。冥界に蔓延した考えなのです……失望しましたか?」

 

 恥じる様に、自嘲する様に問う。

 少し考えた後、シンはこう答えた。

 

「上級だろうと頭の中身や性格まで上級ではないと分かって、寧ろ親近感が湧きましたよ」

 

 痛烈な皮肉。普段、その様な類の言葉を言わないのでソーナたちは暫しポカンとし、マダは聞いた瞬間に噴き出していた。

 

「く、ふふふ、ははははは! そういうの好きだぜぇ」

 

 シンの背中を叩きながらマダが上機嫌に笑う。

 

「……お前もそういうこと言うんだな」

「偶に、な」

 

 物珍しそうに匙が言う。シンとしては、一応場の空気を少しでも緩ませようとして言った皮肉であるが、普段が普段なこともあり逆に妙な空気になってしまった。

 

「――コホン。場所が場所であったのならば聞き捨てならない台詞でありましたが、この場では無関係なので貴方なりの冗句として受け取らせて頂きます」

 

 わざとらしい咳払いをしてから気を取り直すソーナ。若干ではあるが、先程よりかは表情の固さが抜けた様に見えた。

 

「それで貴方はどうするんですか? 今回のレーティングゲームは?」

「――ああ、それですか」

 

 レーティングゲームへの参加の意思を聞いてくる。前回、シンがレーティングゲームに出たのはオカルト研究部の存続を願ってのことであり、また相手の人数がリアス側を大きく上回っているからである。しかし、今回は対等な数であり、それにシンが加わる余地は無い。

 

「大人しく観客席から観戦させてもらいます。リアス部長側には参加しません。申し訳ないですがソーナ会長側にも――」

「ええ。それだけ聞ければ満足です。私も契約を盾にして無理強いをするつもりはありません」

 

 シンの答えに満足し、これで失礼します、と去ろうとするソーナたち。

 

「ちょ、ちょっと待っててもらっていいですか?」

 

 するとそれを匙が慌てて止める。

 

「どうしたのですか? サジ。すぐにでも私たちは対リアスに向けての対策や特訓をしなければならないんですよ?」

「すぐに済みますんで!」

 

 匙が飛び掛かる様な勢いでマダに接近する。

 

「おう、どうした? ヴリトラの小僧」

「マダ――さん! 少しお話いいですか?」

「何だ何だ? 愉しい話なら歓迎だぜぇ?」

 

 マダの腕を引っ張り、シンたちから少し離れた場所に移動する。

 そこで周りに聞こえない声量でボソボソと小声で会話し始めた。時間にして約三分。短い時間で両者の会話は終了し、戻ってくる。

 マダの表情は変わらないが、匙の方は眉間に皺を寄せ何か考えている様子であった。

 

「もういいんですか?」

「……」

 

 ソーナが声を掛けるが、匙の返事は無い。言葉が耳に入らない程深く集中している。

 

「サジ?」

「え! あ、はい! もう大丈夫です!」

 

 先程よりも少し大きめな声で呼び掛けられ、匙は漸く声を掛けられていることに気付き、慌てて返事をした。

 

「一体何を話していたのですか?」

「ええと……それは……」

 

 匙が一瞬、こちらに視線を向けたのに気付く。どうやらソーナやその眷属たち以外には聞かせたくないらしい。

 

「まあまあ、そう急いて聞く様なことじゃあないだろう? 自分のとこに戻ってじっくり聞けばいいじゃねぇか?」

 

 言い淀んでいる匙にマダが助け舟を出す。

 

「……そうですね。先程も言った通りすぐに対策を練らなければならないのでこれで失礼します。間薙君、お元気で」

 

 ソーナに続いて眷属たちも一礼すると早々に去って行く。

 

「何を話していたんですか?」

 

 シンも会話の内容が少し気になり、マダへと尋ねる。

 

「ひーみーつ。まあ、強いて言うなら、ゲームがもっと盛り上がるかもしれない助言ってやつかな」

 

 ニヤニヤとしながら、マダは去って行く匙の後ろ姿を眺めているのであった。

 

 

 ◇

 

 

「ふふ~」

「ああー」

 

 鼻歌と気持ち良さそうな声が開けた空間に響き渡る。

 場所はグレモリー邸の庭の一角であり、そこには日本風に作られた温泉が備えられていた。

 会談を終えた一同はグレモリー邸に帰ってくると、出迎えたグレイフィアが温泉を用意していると報告し、ならばと皆で入ることとなった。

 湧き出る湯と立ち上る湯気に身を任せながら、体に溜まった疲労を湯船で解かす。

 

「ふふふふ~」

 

 先程から呑気に鼻歌を歌っているのは、用事を済ませて戻って来たアザゼルであり、十二の黒い翼を全開にして文字通り羽を伸ばしている。

 その隣では浮かべた盆の上に酒瓶を並べたマダが、湯船に浸かりながら酒を楽しんでいる。尤も杯に注ぐ様なことはせず直接口を付けて一気飲みするという、風情を一切無視した飲み方をしていた。

 少し離れた所では、シンが手拭いを首に掛けて眠る様に目を瞑りながら湯を静かに楽しむ。そんなシンのすぐ前には、桶に入ったジャックフロストが、短い手足を縁に掛けながらゆらゆらと波に揺られていた。

 雪精であるジャックフロストは温泉には入れないので、桶に掬った湯をジャックフロストが冷やし、冷水にしてから体を浸している。

 その近くには、シンと同じように目を瞑るセタンタ。彼は最初入るつもりは無かったが、マダが半ば強引に誘い、リアスからも入らないかと誘われ渋々了承する形となった。

 こちらも瞑想しているかの様に静かで微動だにせず、彼の周りでは水面が一切揺れない。が、何故か手拭いをマフラーの代わりに巻き付けており、妙な怪しさがある。

 

 

「イッセー君。背中、流そうか?」

「……何でだよ」

「裸の付き合い、ってやつかな? ――ダメかい?」

「嫌に決まってんだろうが! 上目遣いで聞いてくるな!」

 

 木場が提案し、それを一誠が全力で拒否する。木場は、純真に親睦を深めようと考えているのかもしれないが、湯で紅潮した顔で言っているせいで、一誠には変な意味で捉えられている。

 

「ギャスパ~。いい加減覚悟決めて行ったら~? このままじゃあ皆が先に出ちゃうよ~」

「うう……でも……」

「でもじゃな~い。早く行く~。ヒ~ホ~」

 

 脱衣所内で躊躇しているギャスパー。それを何とか説得し出そうとしていたジャックランタンであったが、やがて痺れを切らしたのか鈍い音と共に『キャッ』という短い悲鳴を上げながらギャスパーが脱衣所の外に出る。

 

「うう……ひどいよ。ランタン君」

 

 頭を擦りながら出て来たギャスパー。どうやら一発殴られたらしい。

 出て来たギャスパーを見て、一誠は絶句する。まるで女子の様に胸辺りをバスタオルで隠していた。

 一誠の視線に気付き、ギャスパーは頬を赤く染める。

 

「あ、あまり、こっちを見ないで下さい……」

「男の癖にそんな位置にバスタオル巻いてるんじゃねぇよ! 色々と戸惑うだろうが!」

「え、戸惑うって……ま、まさか僕のことをそ、そんな目で!」

「だあああああああ! 違うっての! いいからさっさと湯に入れ!」

 

 頭を掻き毟りながら温泉に入ることを催促する。

 ギャスパーは恐る恐る湯に近付き、足の指先を湯に浸けた途端飛び上がる。

 

「あ、あついよ! こんなのに入ったら僕、溶けちゃうよぉぉぉぉ!」

 

 湯の温度に対し、敏感過ぎる反応を見せる。

 

「別に入っても溶けたりしないよ」

「さっさと入って来い」

 

 木場は優しく招き、一誠は若干ギャスパーの反応にイラつきながら招く。

 ギャスパーは、涙目になりながらも再度湯に入ろうと挑戦する。するとその背後に現れる浮遊体。

 

『あっ』

「え?」

 

 木場と一誠が声を揃える。それにギャスパーが反応した瞬間、背中に軽い衝撃を受けて湯船の中に落ちて行った。

 

「いやああああああああああ! あっつい! あっついよぉぉぉぉ! 溶けちゃう! 溶けちゃううううう! 溺れる! 溺れるぅぅぅぅぅ!」

「ヒ~ホ~。いちいちお湯に入るぐらいで躊躇し過ぎ~」

「ひどいよぉぉぉぉ! ランタンくぅぅぅぅん!」

 

 突き飛ばした本人であるジャックランタンが、悶えるギャスパーを見下ろしながら言った。

 一誠は溜息を吐くと、ギャスパーのバスタオルを掴んで引き上げる。

 

「足がすぐ着く温泉で溺れる訳がないだろうが」

「あ、ホントだ……」

 

 吸血鬼は流水に弱いという伝承を聞いたことがあるシンであったが、湯の温度で悶えている程度から、ハーフヴァンパイアにはあまり関係ないらしい。

 パニックが収まったギャスパー。すると一誠が掴んでいたバスタオルが解けて、再び湯船の中に頭から突っ込んでいく。

 

「うああああ! いやあああああん! イッセー先輩に剥かれたぁぁぁぁぁぁ!」

「うおい! 隣に部長たちが居るのに変なこと言うな!」

 

 一誠が言った通り仕切り板の向こう側は女湯であり、リアスたちもまた現在入浴している。

 

『イッセー、ギャスパーに変なことをしちゃダメよ』

 

 クスクスと笑いを含んだリアスのからかい声。こちらの会話はとうに筒抜けであるらしい。

 それを聞いて恥ずかしくなったのか、一誠は顔の下半分まで湯船に沈む。

 すると、照れている一誠の側にアザゼルが近寄っていく。

 

「はしゃいでんなー。まあ、こんなことが出来る暇なんて今日までぐらいだからはしゃげるうちにはしゃいでおけ」

「ぼうべぇすぼえ〈そうですよね〉」

「みっちりと鍛えられるだろうけど、腹括っておけよ?」

 

 そこで湯に浸かっていた顔を上げる。

 

「何か今更ですけど、堕天使総督にアドバイスを受けたり、知らない人は居ないってぐらいのヒトに直接指導されたり、更にはもう一人教えてくれるヒトがいるって、反則的なぐらい恵まれていません? 俺」

「そいつはどうかなぁ?」

「え?」

 

 何時の間にかマダもまた、アザゼルと同じ様に一誠の隣にいた。

 

「何だか勘違いしているかもしれないが、俺が誰かにものを教えるのって今回が初めてだからな?」

「ええ! だ、大丈夫なんですか、それ!」

 

 いきなりそんなことを言われて一誠は驚く。長年生きている存在だからこそ、そういうのに長けていると思い込んでいたが、ここに来て全くの素人であったことを告白されれば無理も無い。

 

「まあ、大丈夫、大丈夫。ヒトに教えるのに必要な三つのことをきっちり守っておけば、だいたい上手くいく」

「三つのこと、ですか?」

 

 マダは腕を一本上げ、指を三本立てる。

 

「『生かさず』」

 

 指を一本折る。

 

「『殺さず』」

 

 更にもう一本折る。

 

「『壊さず』の三つだよ」

 

 見せつける様に三本目の指を折った。

 

「大丈夫ですよね! 本当にこのヒトに教えられて大丈夫ですよね! 俺!」

「そこらへんの加減は分かっている奴だから大丈夫――な筈だ」

「断言して下さいよ! ああ……俺、部長たちと再会出来るのかな……」

 

 物騒な三つの信条を聞かされ、明日に対し不安を抱く一誠。そんな一誠の不安を少しでも和らげようと思ったのか、アザゼルがニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら全く違う話題を上げる。

 

「ところでよ。前から聞きたいことがあったんだが……」

「何ですか?」

「お前ってリアスの胸を揉んだことがあるのか? お前ってあいつとヤりたいって言ってたし、どこまで進んでいるのかちょっと気になってよ」

 

 女湯に聞こえない声量に抑えながら尋ねる。

 

「は、はい! この右手で!」

 

 誇る様に右手を掲げ、かつての感触を思い出すかの様に開閉してみせる。

 このとき、静聴していたセタンタが閉じていた目を開き、険しい目付きで二人の会話を注目し始めた。

 

「そうか――なら、お前は女の乳首を突いたことがあるか?」

『いきなり何を言い出しているんだ? このヒト?』

 

 正気を疑う様な発言に対し、沈黙しているシン、木場、セタンタ、ドライグがほぼ同じ台詞を胸中で浮かべる。ジャックフロスト、ジャックランタンは全く関心を示さず、ギャスパーは未だに温泉で四苦八苦していてそもそも話を聞いていない。

 

「――ッ! い、いえ! ありません!」

 

 何故か強い衝撃を受ける一誠。

 周りの反応を無視して、二人の会話が始まっていく。

 

「何だよ突いたことがないのか? 言っとくが『ポチッ』とは突くうちに入らないぞ? 『ずむっ』ってやってこそ突いたと言えるんだ」

 

 アザゼルは語る。指が埋没していく様は圧巻だと。突いた瞬間、女は鳴る。『いやーん』と。

 聞いているだけで脳細胞が死滅していく様な下らない内容であり、傍から聞いていたシンとセタンタは心底うんざりした表情をし、木場は困った様に笑っていた。

 引いた周りの反応の中で、一誠だけは食い入る様にアザゼルの話を聞き、一言一句聞き逃さない様に集中している。さながら釈迦の説法でも聞いているが如くであった。

 

(もう上がろうか……)

 

 聞いていられなくなり、シンは入ったばかりではあるが湯船から出ようかと思ってしまう。

 冷めているシンとは対照的に、二人の話はどんどんと燃え上がっていく。

 

「そんな……そんな世界があるだなんて……! 俺はまだまだでした!」

「自分の未熟さを認めただけましだ。いいか? 女の胸はそれこそ無限だ。天使を容易く堕天させちまう程の魅力も詰まっている」

 

 その堕天した天使本人が言っているせいで、とんでもない説得力がある様に聞こえる。下手をすれば自虐と捉えることも出来るが、言っている本人が一切の悔いを感じさせない表情をしている。

 笑えばいいのか、呆れればいいのか、何とも言い難いアザゼルの言葉に、風呂内で微妙な空気が流れる。

 困った様に木場がシンにチラチラと目線を向けてくる。シンは無視しておけ、といった意思を込めた視線を返した。セタンタは気付けば遠くを見詰めており、これ以上頭の中にこの会話を入れることを拒否していた。

 

「やれやれ……さっきから聞いてりゃあ、随分と程度が低い会話をしてんなぁ」

 

 二人の会話を黙って聞いていたマダが、否定的な言葉を吐く。真っ先に乗っていてもおかしくない人物のこの言葉に、シンたちは意外と思いながらマダの方を見た。

 

「どういう意味だ?」

「言葉通りの意味だぜぇ、アザゼル。いくらこいつのレベルが低いからってわざわざ話を合わせる必要はねぇよ」

「……これでも十分だろうが」

「十分? 不十分だろうが。正直、聞いてて呆れたぜ」

 

 新たな可能性を知り志気を高めた一誠であったが、それを程度が低いと一蹴されて多少頭に血が昇ってくる。一誠個人ならばここまで頭に来ることはなかったが、師事するアザゼルも馬鹿にされたことが余計に怒りを高める。

 

「……一体どこが低いっていうんですか?」

「突くなんざ、女の胸への入門に対して初歩の初歩。それを高みにあるものとして語っていることが俺には許せねぇんだよ」

『――ん?』

 

 傍から聞いていたシンたちは、微妙に話の流れがおかしいことに気付き始める。

 

「しょ、初歩の初歩、だって……! アザゼル先生! そんなことは――」

 

 ないですよね、と問おうとした一誠。しかし、視線を向けた途端アザゼルは視線を逸らし、申し訳なさそうに唇を噛み締めていた。

 

「――すまん」

「そ、そんな!」

 

 落雷を受けた様な衝撃が一誠の全身を貫く。揉む、吸う、挟むものがおっぱいであると今まで思っていた。そして、今日ここに突く、鳴らすという新たな二つが加わり、新境地を開けたと思った。だが、実際には女の胸に一歩すら踏み込んでいない状況であることを突き付けられる。

 

「自分がどれだけ高い山の前に立っているか、それを突き付けなければ成長しないぜ。アザゼル、お前はやっぱり優し過ぎる」

「……自分がこれからどれほどの高みに上ろうとしているのかを知って、もし絶望する様なことがあったらどうする?」

「信じろよ、自分の教え子を。そして、こいつの目を。この目は容易く折れる男の目じゃねぇ」

 

 何やら熱く語り合っているが、それが女の胸のことだと思うと、滑稽を通り越して恐怖すら覚えてしまう。

 

「……なら、なら教えて下さい! 貴方はどれほどおっぱいを極めているのかを!」

 

 今までの自分を否定された一誠が縋る様な声で、何とも阿呆な質問を繰り出す。

 

「お前は、女の胸をどうやって評価する? どうせ大きさ、形、張りの三つぐらいだろう?」

「そ、それが基本じゃないんですか? ならば貴方は一体何を基準にして評価するんですか!」

「味」

 

 格が……格が違い過ぎる!

 

 マダの即答に一誠は打ちひしがれた。たった一言で分かる、自分とマダとの間にある絶対的圧倒的な差。

 まさに極めし者にしか言えない言葉であった。

 一誠は無言で湯船から上がり、マダの正面に立つと大理石の上でいきなりその場で土下座をする。

 

「師匠と呼ばせて下さい!」

 

 圧倒的な差を突き付けられ、一誠の胸中に生まれたのは敬意であった。頂も見えない遥か高み。そこに立つマダに一誠は少しでも近づきたく弟子入りを志願する。

 

「……俺の教えは厳しいぞ?」

「どんなことでも耐えるつもりです!」

「そうか、いいだろう。お前に女の胸とは如何なるかを叩き込んでやる」

「はい! お願いします! マダ師匠!」

「へっ、敢えて苦難の道を行くか。だが決して諦めるなよ? 諦めたらそこでおっぱい終了だぞ?」

「――はい。はい!」

 

 二人の間で結ばれる師弟関係。そしてそれを暖かく見守る者が一人。熱く滾った情熱を燃やしている一誠であったが、それを見ている方は完全に引いていた。

 

「ごめん……正直何て言っていいか分からないよ、イッセー君」

「考えるだけ無駄だ、木場。これはそういう次元じゃない」

「ここまで眩暈がする会話は初めてだ……」

『相棒! 戻って来い! 今ならまだ間に合う! 正気になれ! お前の行こうとしているのは泥沼だ!』

 

 一方で――

 

「イッセー先輩が何だか輝いて見えます」

「ヒホホホホホ! ヒホホホホホ!」

「いや~。何ていうか、逆に尊敬しちゃうね~」

 

 ギャスパー、ジャックフロスト、ジャックランタンは、妙な関心を見せていた。

 常人には理解し難い青春劇が終わり、男湯に間の様な静けさが起こる。

 すると、その静けさを通って隣の女湯からリアスたちの会話が流れて来た。

 

『あら、リアス。またバストが大きくなったんじゃない?』

『そうかしら――って、触らないでよ、朱乃。そういう貴女だって前よりも大きめのブラに変えたんじゃなかったかしら』

『本来のサイズにしただけよ。彼、大きい方が好きだから。ちょっと大胆になってみただけよ』

『そうね……ぁあん、もう! いい加減、私の胸から手を離しなさい』

『ごめんなさい。貴女の胸ってとても触り心地がいいからつい……』

『そうなのー? じゃあアタシもー』

『きゃっ! だ、だめよ、ピクシー。そこは……』

『おおー、弾む弾む。柔らかーい』

 

 楽しそうにしている朱乃とピクシー。そんな二人に翻弄されながら艶めかしい声を出すリアス。

 

「……何か喋らないのか?」

 

 沈黙を続けていると女湯の会話を傾聴していると思われるのでシンが口を開くが、その途端真剣な表情をする一誠が口の前に人差し指を立て、静かにというジェスチャーを見せた。余程会話に集中しているらしく、鼻から鼻血を流している。

 

『いいですね、お二人とも。私はお二人ほど大きくはないので羨ましいです』

『それならば揉むと大きくなるという話を聞いたことがある。試しにしてみようか? こんな風に』

『はぁん! ゼノヴィアさん! ダメです! そんないきなり! ああぁ!』

『ふむ。良い触り心地だ。こういった感触ならば男も喜ぶかもしれない』

『へぇー。アタシにも触らせてー』

『よし。右は君に任せた』

『おおー。すべすべー』

『ゼノヴィアさんもピクシーさんも……あっ……ダメで……うぅん……こんなことされるの初めてで……』

 

 朱乃に続いてゼノヴィアも同じようなことをし、アーシアから色のある声が漏れ出す。

 一誠も興奮状態が極限にまで達そうとしているのか、女湯を隔てる壁をしきりに見ている。覗き穴の一つでも無いか探している様であった。

 

「女湯があったら覗く。古来より伝わる伝統だな。ここは俺に任せておけ」

 

 一誠の肩に手を置いてからマダが壁に向かっていく。

 

「おいおい。お前も覗きかよ。やっても結構だが、覗いて満足じゃあスケベとして一流には程遠いんじゃないか?」

「一流を知っているからこそ、たまには敢えて下流なこともしてみたくなるもんだぜ」

 

 そう笑いながら人差し指を立て、勢い良く壁に向かって突き立てる。指が一切の抵抗なく壁に沈む様に入っていくが――

 

「あっ」

『あっ?』

 

 聞こえてきた、マダのしまったと言わんばかりの小さな声に、皆が聞き返してしまう。

 するとメキメキという音が壁から聞こえ始めたかと思えば、壁を支えている支柱が根元から折れ、そのまま女湯の方に向かって倒れていく。

 数秒後、盛大に巻き上がる湯。全員の頭上に雨の様に、舞い上がっていた湯が降り注いだ。

 仕切りが完全になくなった。女湯側では、何が起こったのか判断が落ち着かずに、呆然としている全裸のリアスたちの姿。

 女湯を覗く所か眺める程まで開放されたが、男湯の面々は事が事なだけにこちらもポカンとした表情をしている。

 そして、この事態を引き起こした張本人はというと。

 

「やり過ぎちまった。――てへっ」

 

 可愛らしさなど欠片も感じず、寧ろ腹立たしさを感じさせる台詞を空気も読まずにのたまう。

 直後、悲鳴と怒号が上がり、マダに湯、桶、魔力、雷撃、光の槍というありとあらゆる非難が浴びせられた。

 

 

 ◇

 

 

 風呂場での喧騒も終わり、ピクシー、ジャックフロストと共に床に就いたシン。明日から本格的な修行が始まることもあり、早めの就寝であった。

 夢すら見えない程の深い眠り。だが、それもある音で強制的に覚めさせられる。

 コンコンというドアをノックする音。寝起きの為、緩慢な動きで上体を起こす。外を眺めるとまだ魔力で出来た疑似月が浮かんでいる。詳しい時間は分からないが、少なくとも夜が明けている時間ではないらしい。

 広いベッドで未だに眠るピクシーたちを起こさず静かに降りてドアまで移動し、ドアを少しだけ開いた。

 

「早くに失礼します」

 

 ドアの向こうにはセタンタが立っていた。よく見る軽鎧を纏った姿だが、その手には槍が握られている。少なくとも冥界に来て武装したセタンタを見るのはこれが初めてであった。

 

「何か御用ですか?」

「今まで黙っていましたが、私が貴方に『戦い方』を教えることになっております」

「貴方が俺の先生なんですか?」

「先生などと大層なことは出来ません。何せ『魔人』に教えることなど今までもこの先も無いであろうことですからね」

 

 さらりとシンの正体に触れる。

 心臓が一瞬跳ね上がったが、表面上は平静を保つ。尤も相手には見抜かれていそうではあった。

 

「これから貴方に色々教える為の場所に移動します。荷物は……まあ、動き易い格好だけで十分です」

「あいつら――俺の仲魔はどうしましょうか?」

「取り敢えず置いておいて下さい。事情は後でアザゼル様辺りが説明してくれるでしょう」

 

 取り敢えずセタンタの言うことを聞き、アザゼルから前以って持ってくる様に指示されていたジャージへ、二人を起こさない様に物音を立てないよう素早く慎重に着替える。

 

「では行きましょうか」

 

 着替え終えたのを見て、セタンタがドアから離れて行く。シンはその後を追い、ドアの外に出ると二人の顔を一瞬見た後、静かにドアを閉めるのであった。

 

 

 ◇

 

 

 その日の朝。グレモリー邸の一角でジャージ姿のリアスたちが同じくジャージ姿のアザゼル、そしてマダと共に椅子に座ってミーティングを行おうとしていた。メンバーはほぼ全員席に座っているが、シンだけが姿を見せない。

 

「じゃあ始めるか」

 

 アザゼルがそれに構わずにミーティングを始めようとしていたので、そこにリアスが異を唱える。

 

「ちょっと待って。まだシンたちが来ていないわ」

「あー、そのことなら――」

「おはよー」

「おはようだホー」

 

 すると目を擦りながらピクシーとジャックフロストが現れる。

 

「貴方たち。シンはどうしたの?」

「あれ? もう来てるんじゃないの?」

「オイラたちが起きたときにはとっくに居なかったホー」

 

 二人もこのとき初めてシンの不在を知った。

 

「心配はいらないぞ。あいつは一足先に修行に行っているだけだからな」

「アザゼル先生がここに居るのにですか?」

「あいつの先生はセタンタだよ」

 

 その一言にリアスの顔色が変わる。

 

「セタンタがシンを教えるの!? そんなこと私は聞いていないわ!」

「言ってなかったからな。ちゃんとサーゼクスには通してある。あいつに関しては神器とは関係の無い力だからな。はっきり言って俺の専門外だ。だからどう修行するかは全部あいつに任せてある。まあ、大丈夫だとは思うが……」

 

 そのとき一誠は、隣に座っている木場の顔色が蒼白になっていることに気付いた。それを見て、木場もセタンタから戦い方を教えられていたという話を思い出した。

 

「なあ、セタンタさんて厳しいのか?」

 

 小声で尋ねる。

 

「……正直、あまりセタンタ様との修行は思い出したくないかな……セタンタ様は文字通りの実戦派で、教えるというよりも自分で学習させるというやり方だったから……あのとき一体何度死を覚悟したか……」

 

 輝きの無い瞳で遠くを見詰める木場。彼の脳裏に一体どのような修行風景が流れているのか想像し難い。

 その後、アザゼルは皆に対し助言を添えながら、その人物に合った訓練方法を書いた紙を渡していく。

 リアスは、元々の才能を伸ばす為に基礎を伸ばすことを重視した訓練。そしてレーティングゲームの『王』という指示を出す立場であることから、過去のレーティングゲームの記録を見て、それを記憶し機転、判断力を伸ばす訓練も入っていた。

 朱乃に出された助言はシンプルで、自らに流れる堕天使の血を受け入れるということであった。本来、堕天使の力を受け継いでいる為、光の力も使用することが出来るが、朱乃本人がそれを忌み嫌っていることから、今まで使用してこなかった。

 対悪魔として光の力を使えば、戦闘力も跳ね上がる。自らに嵌めた枷を外すことが訓練の主な内容であった。

 木場は、高い身体能力に加え、メンバー内で唯一自分の意思で禁手化を使用することが出来るので、その禁手化を長時間維持することが与えられた訓練の内容であった。神器のより詳しい扱い方はアザゼルが、剣術の方は木場の剣の師匠から学ぶこととなる。

 ゼノヴィアは、デュランダルを今以上に使い熟すこと。そして、用意されたもう一つの聖剣の扱いに慣れることであった。この場ではその聖剣が何なのかは言わず、すぐに次のギャスパーに話を移していた。

 

「次にギャスパー」

「は、はいぃぃぃぃぃぃ!」

 

 悲鳴の様な返事が上がる。

 

「お前はシンプルに神器の操作を上達させろ。そんで一日も早く禁手化に至れ。お前自身のスペックなら間違いなく到達出来る筈だ。本当に、一分一秒でも早く、せめて自分の命を守れるぐらいには強くなれ」

 

 他とは違ってやたら念を押して言うのに違和感を覚え、つい一誠は口を挟んでしまう。

 

「でもギャスパーもこの頃神器を暴走しなくなってきましたし、それなりに使い熟してるんじゃないですか?」

「それは分かっている。だけどな、それじゃあ足りないんだよ。……こいつマタドールの奴に顔も名前もしっかり覚えられているしな」

 

 ソーナとのレーティングゲームだけではなくこの先のことを考えての指示であったが、その事実が初耳であったリアスたちが、一斉にギャスパーの方を見た。

 

「貴方、何て相手に目を付けられたの……」

「で、でででも! おお、覚えられただけで、ぼ、ぼぼぼ僕なんて間薙先輩にくっついていただけのちっぽけな存在でしたし!」

「そんなリップサービスする様な奴じゃない。殺ると言ったら将来必ず殺りに来るぞ?」

「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃ! い、今更ながら僕ってとんでもないことをしちゃいましたぁぁぁぁぁぁ?」

「そうビビるな。あのとき一人で駆け付けてみせたんだ、元よりお前には勇気が備わっている。そいつの出し方がちょいと分かっていないだけだ。俺の組んだプログラムでその出し方を覚えて、人前でも動きが鈍らないようにしてこい」

「は、はいぃぃぃぃぃ!」

「という訳でこいつは没収だ」

「あ~れ~」

 

 ギャスパーの膝の上に座っていたジャックランタンの首根っこを掴まえて取り上げてしまう。

 

「ラ、ランタンくぅぅぅぅん!」

「この訓練中、こいつとの接触は禁止だ」

「そういうわけだから~頑張ってね~ギャスパ~。ヒ~ホ~」

 

 泣きそうな表情をするギャスパーに対し、ジャックランタンはひらひらと手を振ってドライな反応を見せる。

 ギャスパーは目に涙を溜めるもののそれが落ちない様に懸命に耐え、足元にあった段ボール箱を頭から被る。

 

「ランタン君が居なくても、当たって砕けろの精神でやり遂げてみせますぅぅぅぅぅ!」

 

 震えた声を出しながら精一杯の強気な発言をしてみせた。

 それに満足したアザゼルは、今度はアーシアの伸ばす方向性について話す。

 身体能力が低いのでそれを補う基礎訓練。そして、『聖母の微笑』の能力を向上させる為の魔力の向上が提示された。

 悪魔ですら癒す『聖母の微笑』はアーシアにとって最大の長所であり、その長所を更に引き出す為に神器の射程距離の拡大、癒しの力そのものを遠くへと送る精密な操作を習得するのが訓練の主な目的となった。

 次に小猫の番であるが、言う前にアザゼルの表情は少しだけ固くなる。

 

「お前の『戦車』としての能力は決して低いものじゃない。寧ろ高いと言える。だが、リアスの眷属内で見るとはっきり言って見劣りする。木場、ゼノヴィア、そして禁手化する予定のイッセーにはどう足掻いても勝てない。――このままじゃな」

「……はい。分かっています」

 

 メンバーの能力について色々と言ってきたアザゼルであったが、その中でも一番低い評価を受ける小猫。顔にはっきり悔しさを浮かばせるも、アザゼルの評を否定せず、自覚があると肯定する。

 

「あのときは何も言わなかったが、マダがお前に言っていたことについては俺も賛成だ。封じているものを晒け出さなければ、朱乃と同じく停滞するぞ」

 

 何も言うことが出来ず、小猫は無言となる。するとそこに茶々を入れる様なマダの声。

 

「難しいこと考えずにパパッと出せばいいだけじゃあねぇか。そんなあれこれ考える様なことかぁ?」

「……何も知らないヒトが軽々しく言わないで下さい!」

 

 無神経な言葉に小猫は怒りを露わにする。

 

「じゃあこのままずっと同じ場所でぐるぐる回っているか? まあ、きっとお優しいご主人様だからとやかく言われないだろうがな。良い飼い主に拾われて良かったなぁ? こ・ね・こ・ちゃ・ん」

 

 厭味を込めたマダの台詞に、小猫の顔色に憤怒の赤が差す。

 小猫は、アザゼルに手渡された特訓内容が書かれた紙を握り潰す様に掴むと席を立ち、この場を離れようとする。

 

「小猫!」

「……私が一番成長しなければならないのは分かっているので、一足先に特訓の方に入らせてもらいます」

 

 リアスの制止に足を止めるも、そう言い残してグレモリー邸の庭から姿を消した。

 

「おい」

 

 アザゼルがマダの行為を咎める。リアスたちもマダの行いに非難の目を向けた。

 

「何だ?」

「言い方ってもんがあるだろうが……」

「だから? 優しく丁寧に下手に出て頭を下げながら『どうか真の力を見せて下さい』とお願いすればいいのかぁ? 違うよなぁ? あの手の奴は、これでもかってぐらい精神を揺さぶった方がいいんだよ」

「逆に意固地になったらどうするつもりだ」

「周りのことよりも自分のことの方が大事だったってことだろう。はい、それで終わり、だ。レーティングゲームの本番で落ちる駒が確定して戦略も練りやすいだろ?」

 

 この言い方にリアスも頭に来たのか椅子を倒す勢いで立ち上がる。

 

「さっきから聞いていれば好き勝手なことを……貴方の無神経な言葉がどれほど小猫を傷付けているのか分かっているの!」

「優しくすれば万事上手くいくなんて思っていないだろうな? お嬢ちゃん。その情愛の深さは素直に感心するが、あんまり度が過ぎると相手を腐らせることになるぞ」

 

 感情が高ぶり始め、その身から赤い魔力が電流の様に迸っていく。一方のマダは、殺気立つことも魔力を見せることも無く平然としていた。

 このまま、一触即発の事態に移るのかと思いきや、空気が破裂する様な乾いた音が重くなった場に響き渡る。

 全員音の方を見る。アザゼルが手を打ち鳴らした姿があった。

 

「おい、マダ。お前を連れて来たのは俺の責任だが自重しておけ。あんまり若い奴らをからかうな。これ以上やると俺直々に地上へ強制送還するぞ。そしてリアス、さっきも言ったがお前は『王』って立場なんだ。どんなことがあっても冷静な思考をしなきゃならない。言葉一つで心を乱されるな。例え乱されても表に出さないようにしろ」

 

 アザゼルの言葉に、マダは肩を軽く竦めた後閉口。リアスの方もハッとした表情になった後、魔力を消して大人しく椅子に座った。

 アザゼルが溜息を吐く。

 

「来る前に説明しておきたかったが、時間切れだな」

 

 天を仰ぐアザゼルに、皆もつられて上を見上げる。

 そこにはこちらに向かって急速に迫ってくる巨影があった。

 何も聞かされていない一誠たちは、急いでこの場から離脱しようと席を立つが、時既に遅く、その巨影は庭へと降り立つ。

 轟く音。それに合わせて衝撃で地面が割れ、数十メートル離れた位置にいる一誠たちの足元にも亀裂が生じる。舞い上がる土煙は周囲を一瞬にして包み込んでいくが、その土煙から現れた一対の巨翼が羽ばたき一つで掻き消されてしまう。

 消え去った砂煙の中から現れたのは、身長十五メートル以上もある巨大な怪物。

 全身が赤紫色の鱗で覆われており、人の身長程の幅もある脚で地面に立ち、同じく太い腕を組んで堂々と立っている。

 規則的に並んだ鋭い歯。身長並みの大きさを持つ広げられた両翼。黄金の角。その姿を見た一誠は思わず叫んでいた。

 

「ドラゴン!」

 

 現れたドラゴンは、アザゼルの方を見下ろして口の端を吊り上げる。人並以上の表情の変化であった。

 

「アザゼル、よくもまあ悪魔の領土に堂々と入れたものだ。そして――」

 

 人の言葉を喋るドラゴンの視線は、マダの方に向けられる。

 

「まさか、お前とこの地で会うことになるとはな。再会は無いと思っていたぞ」

「まあ、世の中何が起こるか分からないってことだなぁ」

 

 旧知の間柄らしく、親し気といった様子で言葉を交わす。

 

「先生、このドラゴンって……」

「ああ、こいつはタンニーン。前に話したことがあるだろ?」

 

 その名には一誠も聞き覚えがあった。五大龍王がまだ六大龍王と呼ばれていたときの龍王の一匹。『魔龍聖』タンニーン。悪魔側に付いたことから除名された存在である。

 

「こいつがお前のもう一人の先生だ」

「……えええええええええええ! この巨大なドラゴンがですか!」

 

 言葉の意味が分からずに一瞬沈黙していたが、それを理解したとき絶叫の様な驚きが一誠から上がる。

 

「久しいな、ドライグ。俺の声は聞こえているだろう?」

 

 一誠越しにその内に宿るドライグへと話し掛ける。

 

『久し振りだな。懐かしさすら覚えるぞ。タンニーン』

 

 龍王に属していたこともあり、互いに面識のある両者。関係は悪くないらしく、気安く会話している。

 その間に一誠は、アザゼルとマダにタンニーンについての詳細を尋ねる。

 

「転生悪魔の中でも最上級悪魔。タンニーンが吐く火の息は隕石の衝撃以上と言われている。現役で活躍している数少ない伝説級のドラゴンだ。お前にドラゴンの力の使い方を教えるにはこれ以上無い程の存在だな」

「隕石級って……禁手を覚える前に俺死んじゃいません?」

「まあ、安心しろよ。ちゃーんと寸前で止めてやるから」

 

 不安がる一誠に、更に追い打ちを掛けることを言うマダ。

 

「しかし、鍛えるとなると俺よりもドライグが鍛えるのが筋だと思うが?」

『それでも限界があるな。大体、ドラゴンの鍛え方って言ったら一つしかないだろう?』

「実戦方式か。とことんいじめ抜けば良い訳か。些か拍子抜けだな」

『そう言うがなタンニーン。俺の宿主は想像以上に弱い。何せ俺が目覚める前でも今でも素の魔力では転送魔法陣を跳べない程だからな』

「むっ。ならば難しいかもしれんな。……ある程度力を抑えるつもりだが殺してしまうかもしれん」

 

 物騒なことを言うタンニーンに思わずこの場から逃げ出そうとする一誠だったが、直前にマダに首根っこを掴まれて阻止されてしまう。

 

「大丈夫だ。即死しなければ俺の方で何とか出来る。三分の二殺しぐらいに収める程度追い込めばいいからよぉ」

「そうか。それならば楽だな」

 

 一誠の意思を無視してどんどんと話は進んでいく。

 助けを求める様にリアスたちを見る。

 

「では各自修行を怠らない様にね」

 

 リアスの方は他のメンバーと話しており、然程心配していなかった。

 

「イッセーも頑張ってね!」

 

 それどころか見送る気でいた。

 

「リアス嬢。修行の場としてあそこの山を貸して貰いたいのだが?」

 

 霞んで見える程遥か先の山を指差す。

 

「ええ、いいわ。存分に鍛えてあげてちょうだい」

「任せろ。死なぬ様に細心の注意は払う」

 

 既にドラゴンと修行することが確定した一誠は、今にも泣き出しそうな顔をしている。

 

「ねえねえ。みんなすることは決まったけどアタシたちもすることないの?」

「ヒーホー。オイラたちも修行して強くなりたいホー!」

 

 リアスの眷属たちがそれぞれ修行に向かい、暇になったのかピクシーとジャックフロストがアザゼルに話し掛けてくる。

 するとこれに動揺する存在が居た。

 

「まさか……そこに居るのは雪精――ジャックフロストか?」

 

 ジャックフロストに対し、信じられないといった眼差しを向けるのはタンニーンであった。

 名指しをされたジャックフロストはタンニーンを見上げる。

 

「オイラのこと知っているのかホ?」

「知っているというか……話せば長くなるな。今はこの少年の修行の方を優先させてもらう。アザゼル、済まないが頼みがある」

「何だ?」

「時間が空いたときでいい。この雪精と話す場を設けて欲しい」

「ジャックフロストとか? 別にいいぞ」

 

 タンニーンの頼みに深くは聞かず、アザゼルは快諾する。

 

「頼んだ。では行くぞ。赤龍帝の小僧、マダ」

「あいよー」

「部長ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 

 翼を羽ばたかせて飛翔すると、飛びながら一誠は胴体を鷲掴みにされ、マダはタンニーンの足を掴んでぶさらがる。

 瞬く間に姿が小さくなる一誠たち。

 

「何であのドラゴンは、オイラと話をしたいのかホ?」

「さあな。何か事情があるのかもな。――ん?」

「どうしたの?」

 

 急に首を傾げるアザゼル。

 

「何かタンニーンに言うことがあった筈だったが……何だったかな……」

 

 

 ◇

 

 

 山へと連れられてきた一誠は、顔色が悪いまま目の前に立つタンニーンとマダを見上げる。

 

「で、早速鍛えるのはいいが、俺とお前、どちらが先に仕掛ける?」

「いっそのこと二人掛かりでもいいが、そうすると死んじまう可能性があるからなぁ」

「だが、それが一番早く鍛えられる」

「確かに。まあ、その前に灰になる方が早いと思うが」

 

 二人して相談しているが、会話の内容が筒抜けであるため、待機している一誠の恐怖を呷っていく。まな板の鯉とはこの様な心境を指すのかもしれない、と現実逃避する様にそんなことを考えてしまう。

 

「取り敢えずは、今どれだけの実力があるのかを知りたい」

「最初はそれだな。おい、イッセー」

「……何でしょうか? マダ師匠」

「限界まで倍化を使って俺を殴ってみろ」

「え!」

「遠慮することはねぇ。お前が持てる最高の一撃を見せてみろ」

 

 急に言われて戸惑う一誠であったが、ドライグがそんな一誠に話し掛ける。

 

『いいからやってみろ、相棒。間違っても『怪我させるかも』などと思っているなよ? それは思い上がりだ』

 

 明らかにマダの心配などしていない様子のドライグに、一誠も覚悟を決めて『赤龍帝の籠手』を顕現。そのまま倍化を始める。

 

『Boost!』

 

  倍化を始めて数分。今の一誠の限界値まで倍化が完了する。

 

『Explosion!』

 

 倍化の力をここで止め、上昇した力を全身に巡らせる。

 

「行きますよ!」

「いいから来いって」

 

 構える一誠に対し、マダは一切構えず、欠伸をして余裕の態度。明らかにこちら側を舐めた態度であった。

 少々カチンと来る態度であったが、一誠は努めて冷静さを保ち、今いる場所から踏み込んでマダを拳の間合いにまで入れると、全身を投げ出す様に左拳を放った。

 

「まあ、こんなものか」

(……何だこれ?)

 

 渾身の力を込めた左拳は、マダの片手によって受け止められていた。それも掌で受け止めているのではない。揃えられた三本の指の腹でしっかりと止められていた。

 止められた一誠は驚いていた。

 殴った手から帰ってきた手応え。まるで山、大地、といった巨大な質量を殴った様な感触。マダという存在の内側にどれだけのものが秘められているのか。

 

「鍛えがいがありそうだ」

 

 マダの空いた手が、一誠の眼前に突き付けられる。そして、避ける暇も無く額を指で弾かれた。

 

「いっ!」

 

 痛い。という言葉よりも先に体がその場で仰け反り、頭を地面に打ち付け、勢いはそこで収まらず、更に一回転をしてまたもや頭を地面に直撃。それを数度繰り返しながら後方に転がっていき、最後には顔面から岩へとぶつかって止まった。

 

「おい。死んでないだろうな?」

「大丈夫、大丈夫。加減はした。おい、さっさと起きろよ。これから修行を始めるからなぁ」

 

 遠くに聞こえるマダの声を聞きながら、一誠は自分が地獄に来てしまったことを自覚した。

 

 

 ◇

 

 

 鬱蒼とした森を前に立つシンとセタンタ。転送魔法陣を通り抜けた先がここであった。

 

「ここで特訓をするんですか?」

「ええ。ここは私が管理している土地なので、特訓するには色々と相応しい場所かと」

 

 するとセタンタは、シンの前で素早く指を動かす。その動きは凄まじく、残像で描いた文字が浮き上がっている様に見えた。

 何かを描き終えると、シンは体に見えない何かが張り付いた様な感触を覚える。

 

「今のは?」

「敵避けの呪いです。この森はそれなりに物騒ですから」

 

 そう言って森へと入っていくセタンタ。その後にシンも続く。

 森へと入った途端、森特有の湿った土や木々のニオイを感じた。そして、その中に混じって鉄の錆びた様なニオイ。何かが腐ったニオイも漂ってくる。セタンタが言った通り、物騒なものが中に潜んでいるらしい。

 だが、事前に掛けられた呪いの御蔭でそれらと会うことも無く三十分程歩き、やがて目的の場所なのか、上を覆う森が途切れて空が見える、開けた場所に着いた。

 

「ここで何を――」

 

 言い掛けた瞬間、振るわれる槍。

 驚きと共に体が反応し後方へと下がる。その刹那、目の前を槍の穂先が通過していく。

 一体何を、と言う前に踏み込んでくるセタンタが目に入り、更に下がろうとすると、体が急停止する。

 槍の柄頭がシンの足の甲を突いており、それによって地面に縫い止められていた。

 体勢を崩したシンに、セタンタは腹部を狙って足刀蹴りを放つ。

 腕を突き出してそれを防ぐが、勢いを殺せずにそのまま蹴り飛ばされて、背中から木の幹に叩き付けられた。

 肺を突き抜けて来る衝撃に、咳き込みそうになるが、それを堪えて奇襲してきたセタンタを睨み付けた。

 

「これが特訓ですよ。私と貴方が戦う。それだけの特訓です」

 

 先にセタンタが口を開き、言うと同時に駆ける。

 突然仕掛けてきたセタンタに文句の一つも言いたかったが、それを拳に載せて迫るセタンタへと放つ。が、拳が当たる直前にセタンタは地に着くかと思える程体勢を低くして拳を躱し、シンの両足を槍で払う。

 衝撃と痛みが足に走ったかと思えば、両足が地面から離れ、宙に浮いた状態となる。すかさずそこに先程と同じ足刀が叩き込められ、再び背中から木の幹に叩き付けられた。

 今度はそれだけでは終わらず、体勢が修正されるよりも早く槍の突きが、シンの両膝、両肩、心臓、肝臓、鳩尾、喉へ打ち込まれる。

 複数個所狙われているのに、まるで同時に打ち込まれた様な衝撃。穂先ではなく柄頭であった為に致命傷とはならなかった。

 

 

「気絶しないとは大したものです」

 

 シンのタフさを褒めつつ側頭部を槍の柄で払い、地面に叩き伏せる。

 脳が揺さぶられる感覚を覚えながらも、シンは地面から立ち上がろうとした。

 

「貴方のことは聞いています。死の淵に追い込まれながらもその度に力を増していたらしいじゃないですか? だったらどう鍛えればいいのかは簡単ですよね?」

 

 シンが立ち上がろうとしている間に、セタンタは特訓の内容を喋っていく。

 

「この特訓でとことん貴方を追い詰めさせてもらいます。力を引き出す為に」

 

 立ち上がる最中のシンの頬をセタンタは槍の柄で打ち払う。

 地面を転がっていくシン。そのときある違和感を覚える。

 

「――ですが、貴方を死なせてはならない。という最低限の条件がある為、どうしても私では貴方を追い詰めるのに一歩足りなくなります。そこで考えました」

 

 森の中から感じる視線。それも一つや二つではない。至る所から感じる。

 

「森に入る前に貴方に敵避けの呪いをしたのを覚えていますか? あれは、本来かけた対象を呪いの要にして、対象よりも弱い存在を近付けなくさせるものなのですが、貴方に掛けた呪いには少し手を加えています。『かけた対象の現状をそのまま周りに伝える』様にしています」

 

 その言葉だけで、自分の身に何が起こっているのか理解した。つまり弱まれば弱まる程、この森の住人たちに狩りやすい獲物が存在することを教えることになる。

 

「ご理解頂けましたか? これから二週間程私と実戦を繰り返し、それ以外の時間はここに住む魔獣やモンスターたち相手に生き延びて下さい」

 

 あっさりと言うセタンタ。真面そうに見えていたが、戦いに関しては真面ではないらしい。

 

「マダという方は良いことを言いました。『生かさず、殺さず、壊さず』。私も最大限の努力をしますが――壊れないで下さいね?」

 

 

 




話の取捨選択が出来なくて、長い話になってしまいました。

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