ハイスクールD³   作:K/K

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興味、異変

 ソレは丸くなって夢の中にいた。静かに寝息を立て、睡眠という快楽に肉体と精神を委ねる。

 一秒たりとも油断することが許されないこの森の中であまりに無防備な姿。他のモノが見れば餌が横たわっている様に見えるかもしれない。だが、いくら経とうとも眠っているソレに危害を加えるも獣もモンスターも不自然に思える程現れない。故にソレは熟睡し続ける。

 ソレにとっては何にも替えがたい至福の時である――筈であった。

 閉じていた目が唐突に開く。伏せていた頭を上げて、流れる風に鼻孔を向けた。

 風に乗って漂ってくる部外者のニオイ。

 性別は雄。数は二人。

 ソレは、微かなニオイだけで正確な人数を計っただけではなく、侵入者の実力までも把握する。

 片方の男の実力は飛び抜けたものであり、まともに戦えばソレですら命が危うい。

 もう一方は、片方の男と比べると見劣りするが、それでも中々の力を感じた。尤も戦えば負けない、という自負がソレにはあった。

 しかし、気になることもある。見劣りする方のニオイ。初めて嗅ぐ筈のニオイだというのに何処かで嗅いだことが有る、懐かしさを感じさせる不思議なニオイ。

 記憶には無い。だというのにまるで記憶〈それ〉以外が覚えている様であった。

 暫し、このニオイが何なのか考えるソレであったが、その内考えるのが馬鹿らしくなって止めた。

 天涯孤独である自分に、懐かしいと思えるニオイなど無い。

 そんな自嘲が思考を止めさせる。

 ソレは、ニオイを辿ってその二人が居る方角を正確に視続けていたが、少し経った後に再び頭を下げて眠りの体勢に入った。

 まだ森の中心辺りで騒いでいるだけで、ソレの縄張りの場所まで来ていないという理由からであった。

 尤もこの森自体、ソレにとっては縄張りそのものと言えるが、争いごとも揉めごとも好まないソレは、森の奥深くを縄張りとしてそこから出ようとはしなかった。

 だが、もし縄張りにまで入って来た時には――

 グルルル、という低い唸り声が、ソレの喉から聞こえてくる。

 ただそれだけのことで、ソレを中心として半径数十メートル内にいる小動物、鳥などが一斉にそこから離れ、遠くへと逃げて行く。視界に入っている訳でも無いというのに、命の危機を感じた時と同じ全力の逃走であった。

 ソレは大きく欠伸をすると目を閉じ、再び眠る体勢に入った。数秒後、寝息が聞こえてくる。

 弱肉強食が当たり前であり、魔獣、モンスターたちの戦闘音、威嚇の咆哮、断末魔の叫びが絶えず飛び交う筈のこの森で、そこだけ空間を切り取られたかの如く静寂に支配されるのであった。

 

 

 ◇

 

 

 シンは大きく息を吸い込み、肺を膨らます。既に何度も胴体に打ち込まれているせいで、筋肉と骨が膨れ上がった肺に押されて激しく痛む。それでも我慢して限界まで膨らませると、痛みもまた最高潮にまで達し、頭の中で火花が散る様に痛みが迸る。

 蝕む痛みを載せるかの様に、肺の中の空気を一気に吐き出す。吐息は喉を通過するときには極低温にまで下がり、口から飛び出すときには白い靄となって吐き出された。

 牽制や妨害などで良く使用するシンの『氷の息〈アイスブレス〉』。それが一切の加減無しで繰り出される。

 まともに浴びれば、凍傷どころか肉体がガラス細工の様に割れることも可能なそれに包まれようとしているセタンタ。

 しかし――

 

「遅いですよ」

 

 ――風切り音がしたかと思えば、セタンタに向かっていた氷の息が、振り上げられた槍によって真っ二つに裂かれる。

 シンとセタンタの間に出来た道。その中をセタンタが駆ける。

 一歩踏み込んだかと思えば、両者の距離はゼロと等しくなる。だが、肝心なのはセタンタが移動した場所はセタンタの間合いであるが、シンにとっては間合いの外であった。

 鳩尾狙いの直線の突き。狙いを瞬時に見極めたシンは、素早く後方へと飛び退く。

 間合いの外へと逃れたかに思えた瞬間、セタンタは上体を前に倒れ込ませながら握る槍から片手を離し、もう一方の手は柄を滑らせ、柄頭ぎりぎりを掴む。

 これによって槍の間合いが伸び、逃れた筈のシンを再び間合いの中へ引き摺り込んだ。

 胴体に迫る冷たい輝きをした穂先。何とか逃れようと上体を素早く且つ大きく反らす。が、それでも足らず、確実に刺さろうとしていた。

 そこで避けるという考えを捨てると、上体を限界まで反らす。すると体が後ろに倒れ込み始めたのでその反動を利用し、槍の柄を下から蹴り上げた。

 セタンタが、槍を片手で握っていたこともあり、目論見通り掲げられる様に上げられる槍。シンもそのまま頭から地面に着地するのではなく、蹴り上げた足の勢いを使って地面まで数十センチという低い位置で宙返りをする。

 視界が一回転する。だがこの極短い時間の中で、シンはセタンタから目を離してしまった。

 宙返りをし終え、シンがセタンタを視界に収めたとき、セタンタは既に前のめりの体勢から戻って今の位置から半歩ほど前に移動しており、掲げていた槍に離していた手を添え、シンに向かって振り下ろしていた。

 その直後、骨の芯にまで響く痛みが両腕に走る。

 腕を頭の上で交差し、辛うじて受け止めることが出来たが、流れ込む様な痛みが筋肉を麻痺させ、腕から力を抜けさせる。

 その結果、防いだ筈の槍を受け止めきれなくなり、両腕を無理矢理押し下げられて額を強打された。

 目の前が白く染まる。ギリギリの所で意識を手放さずに持ち堪えるが、間髪入れずにセタンタの膝がシンの胸部を突き上げた。

 肺の中の空気が絞り出される。

 更に混濁していく意識。痛みや酸素の欠乏で思考が上手く回らず、途切れ途切れの断片の様な言葉が、脳裏にちらつく。

 どうするべきか。何をするべきなのか。どう動くべきか。具体性の無い思考。だが、戦いの経験を重ねてきたせいか、思考の断片の中に具体性を持った考えを見つけ、それを実行する。

 膝で突かれた直後、それに抵抗せず逆に脱力することでダメージを多少緩和し、尚且つ膝蹴りの勢いを利用して後方に下がる。

 後ろへと倒れ込む様な不格好ではあったが、何とか距離を取ることに成功。そのまま背後の木にもたれ掛かる。

 セタンタと戦い始めてどれほどの時間が経過したのか分からない。時間など気にする余裕など全く無く。常に神経を尖らせ、相手の一挙手一投足を見ていなければならなかった。

 しかし、それでもセタンタの槍捌きは、シンの上を行く。それを示すかの様にシンの両腕は青黒い痣が無数に出来ており、口の端からは既に固まって赤黒くなっている血の痕。シン自身見ていないが、ジャージの下は恐らく腕の倍以上の痣が出来ている。

 上段を狙っているかと思い、そこに守りを固めると、上段から突如軌道が変化して下段へと変わり、横薙ぎに振るわれた槍が急停止して、そのまま突きへと変わるなど、先程の攻防から分かる通り変幻自在であった。

 更にそこに体術も混ぜてくるせいで、読みの難解さが増す。

 

「反応は上々ですね。しかし、反応だけが先行して思考が追い付いていません。だから、私の槍の動きに惑わされるのです。虚の攻撃かそうでないかの判断が出来ていないせいで。経験不足ですね」

 

 槍を何度も打ち込まれたシンに対しての助言。

 簡単に言ってくれるな、と思わず反発心を抱いてしまう。確かに、シンの戦闘経験は少ない。しかし、仮に多かったとしてもセタンタの槍の動きを捉えることが出来たかと聞かれれば、迷わず『いいえ』と答えてしまうだろう。

 どの攻撃も殺気が込められて鋭く、それが軌道を変えながら迫ってくる。凶悪なことに槍の軌道が変化する際、一切速度が緩まることはなく滑らかに動きながら、確実にシンの体を痛めつけた。

 技術、速度はシンを遥かに上回る。もし勝てる要素があるとすれば、まだ試していない力ぐらいであった。

 セタンタは構えながら摺足で僅かに距離を詰める。それだけで、シンはセタンタの槍の間合いの中に入ってしまった。

 素手と槍。どちらが有利であるかなど素人にも分かる。一応、シンにも槍の間合いの外から攻撃する手段はあるが、『氷の息』程素早く出せるものではない。準備している間に先手を取られるのが目に見えていた。

 熱波剣や光弾を使うには近く。素手で攻撃するには遠い。この絶妙な距離感もまた、シンがセタンタに圧倒される理由であった。

 セタンタが軽く息を吐く。と同時に、空気の壁を裂く様な槍の突きが繰り出された。

 狙いは胴体。フェイントか本命の攻撃かなど考えている暇など、迫る槍の速さの前では零であり、左眼から得た情報によって起こる反射で避けることしか出来ない。

 咄嗟に足を滑らせて横に移動するシン。対象から外された槍はシンの脇腹のすぐ横を通過し、そのままもたれ掛かっていた木に突き刺さる――かに思えたが、槍は木の幹に生えた苔に触れることなく直前に止まり、そこから横薙ぎに払って、柄でシンの脇腹を強打した。

 息が詰まる様な痛みと衝撃が走る。散々打たれたことで蓄積されている痛みが、新たな痛みで連鎖して大きな痛みとなり、シンの脳を焼く。

 だが、この瞬間こそシンが望んでいた反撃の機会でもあった。

 叩き付けられた槍を腕と脇で挟む。万力の様な力を込めて締め上げ、そこから抜けない様にした。

 槍を捉えられたセタンタは目を細め、抜こうと手元に引っ張る動きを見せたが、槍の位置が先程と変わらない。

 力では勝っていると思い、このまま槍を掴んで接近戦へと持ち込もうと考えたとき、シンは体が浮き上がる様な感覚を覚える。否、実際にシンの両脚は地面から離れて宙に浮いていた。

 セタンタは、槍の柄頭付近を片手で掴んだ状態でシンの体を持ち上げていた。軽く見ても標準的な体重はあるシンの体を、見た目は然程変わらない体型をしたセタンタが軽々と持ち上げている。ましてや、シンは槍の先端付近を掴んだ状態である。

 見た目とは吊り合わない剛力を、涼し気な顔で見せつけるセタンタ。態々片手だけで持ち上げたのも、シンに対しどれほどの力があるのかを見せつける為のものだと思われる。

 槍の先端にいるシンを持ち上げたまま、セタンタが槍を木の幹に向かって振るう。

 それに振り回されるシン。しかし、折角掴んだ槍を離すわけにはいかない。

 肩から幹に衝突。その痛みで掴んでいた手が緩みそうになる。

 歯を食い縛ってそれに耐えるシンであったが、セタンタは、今度は手元に槍を引き距離を詰め、接近と同時に打ち付けた肩に拳打を叩き込む。

 痛みが引いていない場所に更なる追い打ちを受けたことで、一時的に腕の機能が麻痺し、シンの意思とは無関係に指先から力が抜けてしまう。

 その瞬間、シンの鳩尾にセタンタの蹴りが打ち込まれ、両足が浮いていたシンは耐え切ることが出来ず、背後にある木に背中から衝突した。

 目の前の光景が白黒に反転する中、それでもセタンタの動きを追おうとするシンであったが、気付けば喉元に穂先を突き付けられていた。

 刃が浅く皮膚を裂き、そこから一滴の血が垂れる。完全なる詰みの状態であった。

 しかし、セタンタはすぐに槍を離し、構えも解く。

 

「今日は初日ですし、ここまでにしましょうか」

 

 あっさりと特訓の終わりを告げた。

 

「……ありがとうございました」

 

 負けたことに対し、屈辱を感じないと言えば嘘になるが、それを隠して礼を言う。尤もそんな心境など、セタンタには簡単に見通されているかもしれないが。

 

「礼なんていいですよ。寧ろここからが本番ですから」

 

 その場で軽く膝を曲げたかと思えば、助走も無しに数メートル上の高さまで跳び上がった。

 枝に跳び乗ると、そこからシンを見下ろす。

 

「言った通り、私はこの場から離れます。次に会うときは、一晩明けてからでしょうね。きちんとこちらから出向きますので」

 

 そして立ち去ろうとするが、何かを思い出したかのように踏み止まる。

 

「ああ、そうそう。一応忠告しておきますが、なるべくこの森の食物は食べない方がいいですよ。草や木の実、モンスターや魔獣の肉は基本的に食べられたものじゃないので。まあ、水ぐらいなら大丈夫な筈です。安心して下さい。食べ物の方は、次に会うときに持ってきますので」

 

 そこで一旦言葉を区切ると、冷徹な眼差しをシンに向ける。あるいは、死地に怪我人を置いていこうとしているせいでそう見えるのかもしれない。

 

「『次』があると期待しています」

 

 そう言い残して、セタンタは枝から飛び、瞬く間に姿を消した。

 セタンタが居なくなったことで、場は一気に静かになる――訳でも無かった。

 

(いるな……)

 

 体中が痛み、鉛の様な疲労感がシンを襲うが、それでも周囲への注意は怠ってはいなかった。

 最初に比べると倍以上に感じる視線。どの視線も刺す様にシンへと注がれ、隠し切れない飢えを露骨に感じさせる。

 修行だから死なせない、とは言っていた。実際に戦っていて、セタンタは槍の穂先を使わず柄や柄頭でシンに攻撃を加えていた。中には、穂先によるひやりとする攻撃もあったが、それがシンに当たることは無かった。

 ただしそれは、あくまでセタンタのみに限られた話であり、四方から見てくるモノ達には、全く関係の無い話である。

 もしかしたら、何処かでセタンタが監視しており、命の危機に瀕したら助けにくるかもしれない。しかし、仮にそうだとしても、一体どれぐらいの怪我を負えば助けられるのかなど分からない。そもそも、監視しているかもしれないというのは推測であり、本当にこの場から立ち去った可能性もある。

 どちらにせよ、当てにして痛い目を見るのは自分自身である。不確定な希望は捨て、取り敢えずは目の前のことをどう対処するか考えることにした。

 なるべく視線を向けられている方角に背を向けずに歩き始める。

 一歩踏み出す毎に殴られた個所が痛む。肉に針を刺された様な痛み。骨が軋む痛み。ずきずきと疼く内臓の痛み。

 このまま動かずにじっとしていれば多少は痛みも治まるが、そんな猶予を周りが与えてくるとは考え難く、少しでも撃退し易い場所を探して移動する。

 周りの視線もシンの後を追う。セタンタが言ったことが本当ならば今も尚、シンの弱まった気配を広い範囲に伝え、魔物たちを引き寄せている。今襲わないのは、獲物が気を緩ませる時間を待っている為と思われた。

 

(それにしても……)

 

 シンの頭の中に過るのは、先程までの戦いであった。

 持てる力を使って戦ったが、結果として掠らせることも出来なかった。無駄なく躱し、反対に的確に攻撃をしてくる。

 まるでマタドールと戦った時を思い出させる。

 湿気の強い森の中でも汗一つかかず、涼し気な表情で眉一つ動かさない。

 

(――だったら)

 

 シンは心の中で、この修行に於ける目的を定めた。

 それは、この修行が終わるまでの間に、セタンタに文句の付けようが無い完璧な一撃を叩き込むというものであった。

 

 ◇

 

 

 神経を張り詰めさせながらこの場を離れて行くシン。その姿を木々の中に身を隠しているセタンタが見ていた。

 推測していた通り、少し離れた場所からシンの動向を監視している。

 シンの鋭い感覚にも悟られない程、完全に気配を断っており、それどころかこの森の住人たちにもその存在を悟られていない。

 

(さて、どうなるか)

 

 特訓である為、死なせないことが大前提ではあるが、それ以外で手助けをする気は、セタンタの中に全く無い。

 それは知り合って日が浅いという理由ではなく、この森で生き残れるぐらいの力量はあると考えていたからである。

 実戦形式で戦っていたが、あくまで訓練である為、槍の刃を極力使用しなかった。しかし、それでも戦いの最中、傷を負わせる為に何度か穂先を使用して攻撃をしている。

 柄や柄頭のみで攻撃していれば、手を抜いていると思われるかもしれないと思い、適度な緊張感とどうせ手加減してくれるだろうという甘い考えを断つ為のものであった。

 ところが予想に反し、先程までの実戦の中でシンが穂先で怪我を負うことは無かった。寸での所で全て躱し切られていたのだ。

 セタンタはシンに経験不足であることを指摘したが、それでも数多の攻撃の中にある微妙な殺気を嗅ぎ分けて、回避していたのが分かる。

 とは言っても、シン自身も自覚の無い無意識、或いは本能的なものに過ぎない。最も望ましいのは、常にその感覚を戦いの場で使えることである。数十発受けて、一発を完全に避けるだけでは、この先相見えることになるであろう『魔人』たちと互角に渡り合うことなど出来はしない。

 やや鈍い動きを見せるシン。本人は無表情だが、体力の消耗、特訓によって怪我をしているのが見て取れる。

 この広い森の中で、あの様な枷を填められた状態でどれほど戦えるのか、ある意味見物であった。

 本当に死にそうになれば助けるつもりではあるが――

 

(手足が二、三本無くなれば流石に手を貸すか)

 

 ――その基準は中々に高く、少なくともそういう状況になるまでは手助けをするつもりなど毛頭無かった。

 

(それとも……)

 

 セタンタの中には、ある迷いがあった。サーゼクスから『魔人』であるシンを鍛える様に言われた時から芽生えた、ある迷いが。

 

 

 ◇

 

 

 十数分程道無き道を歩く。全く人が踏み入っていない場所なので、足元の雑草が長く伸び、それが足に絡まって必要以上の体力と時間を消費してしまった。

 生い茂る木々の枝の隙間から、空を覗く。紫色の空を見ても、今が何時か全く分からない。そもそもセタンタとどれぐらいの時間を戦っていたのかも分からず、時計も持って来ていない。完全に時間の感覚が分からなくなっていた。

 常人ならば、当ても無い道を歩き、先の見えない時を過ごすだけでも精神をかなり削られるであろう。加えて、常に何かの視線を向けられている状況、下手をすれば発狂していても可笑しくは無い。

 しかし、そんな中でもシンの思考は鈍らない。この森の中で生き残る。そのことだけに意識を傾けていた。

 やがて目の前に、シンの背丈の数倍はある巨大な岩が現れる。長い年月を重ねたのか、一面苔に覆われ、至る所に蔦が這っている。

 

(ここにするか)

 

 そう決めると岩の前まで行き、それに背を預け、ずり落ちる様にして腰を下ろす。背中越しに感じる岩の冷たい感触が、湿気の強いこの森の中で火照った体には心地良かった。

 やがて、疲労が限界に達したのか、シンは俯くとそのまま目を閉じてしまう。

 場に暫しの間、沈黙が訪れる。

 そして、数分後。沈黙を静かに破り、狩人たちが動き始めた。

 今まで草むら、木の陰、木の枝等に姿を隠して、シンが隙を見せるのを窺っていた魔物の群れ。無防備な状態と判断すると、飢えの衝動のまま姿を現す。

 茶色の体毛を全身に生やしたその生物は、猿と犬を掛け合わせた様な異形の姿をした魔物であった。手足が異常に長く、そのせいか関節が人と比べると一つ多い。人の手足に近い形をしているが、指先からは指と同じ長さの太く分厚い爪を生やしていた。三角に尖った耳を忙しなく動かし、平坦な顔から突き出た口吻からは鋭い犬歯を覗かせている。

 現れた数は十数匹であり、まだ背後にも潜んでいる。

 狩りに慣れているのか、一歩一歩音を殺してシンへと近付いていく。

 やがて、一メートル以内にまで接近すると、その内の一匹が耐え切れなくなったのか大口を開き、頭から噛み砕こうと飛び掛かろうとする。

 が、しかし――

 

(結構な数だな)

 

 ――飛び掛かる直前に顔を上げたシンが、大口を開けた魔物の口に腕を叩き込む。

 只でさえ大きく開いていた口は、シンの腕を無理矢理突っ込まれたことで更に開き、顎の関節がミシミシ悲鳴を上げ、口の端が裂け始めていた。

 触れれば肉すら裂けそうな犬歯も奥にまで腕を入れられたら無意味であり、奥歯で噛み絞めようとも顎が閉じず、甘噛み程度しか出来なかった。

 シンは、魔物が腕に噛み付いたと同時に腕を背後に向かって振るう。振り回される魔物は顔の側面から岩へと激突。顔の形が歪に変形し、砕けた歯を散らしながらシンの腕から離れていく。

 仲間を倒され、怒りに燃える魔物たちが唸り声を上げる。しかし、シンはそれを涼し気な表情で流すと、魔物たちに向かって指招きをする。

 その挑発を理解したのか、していないのかは分からないが、それに応じる様に魔物たちは一斉に飛び掛かった。

 岩を背にしている為、襲い掛かって来る魔物は前方にしかいない。襲ってくる魔物たちが、シンに到達するまでの僅かな間に、端から端まで視線を動かし、敵の位置を把握すると同時にシンも動く。

 まず正面から飛び掛かってきた魔物の顎を下から蹴り上げる。間髪入れず左から襲ってきた魔物の頭を鷲掴みにすると、それを鈍器の様に振り回した。

 数匹の魔物をそれで叩き返すと同時に手を離し、掴んでいた魔物は近くの木に向けて投げ捨てる。すると今度は、右方向から牙を剥きながら噛み付こうとしてくる魔物の姿を視界の端で捉えた。

 牙が到達するよりも先に、その首にシンの肘が突き刺さり、背後の壁に押し当てられる。血反吐を吐きながら岩壁を舐める様に落ちて行く魔物。そこに追い打ちの裏拳が頬に叩き込まれた。

 集団による強襲を完全に防いだシン。しかし、戦えなくなったモノたちの代わりが茂みの中から現れ、あっという間に数が補充される。

 だが、魔物たちもしぶとい獲物と判断したのか一斉に飛び掛からず、様子を見る様にシンの周りを歩き続ける。

 警戒しているのは、シンにとっても有り難いことであった。一気に動いたせいもあり、静まっていた痛みがぶり返してきており、回復しつつあった疲れも更に溜まり、内心で顔を顰めている状況である。

 数は圧倒的に相手の方が上回っている。一気に片づけてしまいたい衝動に駆られるが、相手の残りが分からない状況で、全力を出し尽くす訳にもいかない。

 どうするべきか、そう考えていたとき茂みの奥から魔物が更に一匹出てくる。他の魔物たちに比べると一回り大きく、体毛の色が濃い。

 一目見て分かる。今現れたのがこの群れのボスであることを。

 どういった意図で姿を現わしたのかは分からない。余裕から来るものなのか、不甲斐無い手下たちに憤りを感じて出て来たのか、自分の手を下さないといけない強者とでも判断したのか。

 それにどんな意図があるかなど、この際関係無かった。ボスが出てきた瞬間、シンは行動を起こしていたのだ。

 

「―――――――――!」

 

 肺から空気を絞り出し、それによって声帯を激しく震わせ、喉の奥から出てきたものは、最早人の声ではなく、獣の雄叫びそのものであった。

 空気を伝播し、場に浸透していく雄叫びは、音速で魔物たちの耳の奥へと侵入し、その奥の鼓膜を激しく揺さぶる。

 本能を刺激し、一瞬硬直状態になる魔物たち。その瞬間、シンはボス目指して走り出していた。

 魔物たちの動きが止まっていたのは、時間にして二、三秒ほど。雄叫びによる硬直が解けたときには、目の前を通り過ぎていくシンを見ているだけしか出来なかった。登場と共に出鼻を挫かれたボスは、すぐに気を取り直そうとする。が、その時には既にシンへ地を蹴って飛び上がっていた。

 ボスの視界一杯に広がる何か。それがシンの膝であることを気付く間もなく、顔面の中央に叩き込まれる。

 鼻が顔の奥へと引っ込み、前歯がへし折れる。

 そのままボスを巻き込みながら地面へと着地。全体重を掛けた膝と地面との間にボスの頭を挟み込んだ。

 何が起きているのか分からないといった様子で、遠巻きに眺めている魔物たち。そんな彼らに見せつける様に、シンは徐に立ち上がる。

 押し付けていた膝を上げると血が赤い糸を引き、その下からは顔の中央が大きく陥没したボスの瀕死の顔が露わになる。

 ピクピクと細かく痙攣するボスの姿を見て、統率された群れは一気に崩壊。奇声を上げながら散り散りとなって、森の奥へと消えていってしまった。

 襲ってきた魔物たちの姿が完全に消えると、シンは疲れた様に溜息一つ吐く。

 

(何とかなったか……)

 

 疲労や怪我が蓄積している状態で撃退出来たことに、僅かな安堵を覚える。

 だが――

 

 ギャアギャアギャアギャアギャアギャア

 

 ――けたたましい鳴き声が、安堵する暇を掻き消す様に頭上から聞こえてくる。

 見上げると、木の天辺付近から見下ろす複数の目。

 剥き出しとなった骨の様な頭部。嘴は無く、人に近い形状の歯牙が持っている。その頭から下は鳥に似た体であり、鴉の様な真っ黒な羽毛で覆われているが、体格は倍近い。

 休む暇すら与えずに現れた新たな鳥の魔物。数は先程の獣の魔物と同じくらいおり、そのせいで緑の木が真っ黒に染まっていた。

 先程の戦いで弱ったシンの気配を感じ取ったのか、あるいはこの場に漂っている血のニオイを嗅ぎ付けたのかは分からないが、時間が掛かれば掛かる程不利な状況に追い込まれていくのを、身を以って実感する。

 鳥の魔物たちは、鳴きながら枝から飛び立ちそのままシンに襲い掛かる――のではなく、地面に横たわっている傷付いた獣の魔物たちへと襲い掛かった。

 獣の魔物の体に歯を突き立て、そのまま頭を持ち上げて肉を引き千切る。当然、獣の魔物たちも弱った体で必死に抵抗するが、群がる鳥の魔物たちによる数の暴力の前には全くの無意味であり、絶叫すらも鳥の魔物たちの鳴き声によって掻き消される。

 集まって黒い塊となる鳥の魔物たち。死肉を貪るハゲタカを彷彿とさせる光景であった。

 その中でも特に酷いのがつい先程倒した獣の魔物のボスであり、一回り大きな体格をしているせいで群がる鳥の魔物の数が倍近い。姿が見えなくなる程群がっているが、前足だけが唯一黒い塊の外にはみ出ているが、凄まじい勢いで地面に爪を立て、何度も土を掻いていた。

 惨状を見ずともそれだけで、悲惨さが容易に想像出来てしまう。

 清々しいまでの弱肉強食。文明の中で生きる者ならば、まず見ることの無い光景であった。

 自然の環に生きるモノならば仕方の無いとも言える。しかし、自分勝手だと自覚しつつも嫌悪感を覚えずにはいられなかった。

 やがて、食事が終えたのか群がっていた鳥の魔物たちが飛び立ち、近くの木の枝に止まる。

 飛び立った後に残るのは、骨になった獣の魔物たちの亡骸。綺麗な白骨ではなく、さっきまで生きていたせいもあって骨は薄紅色をしており、所々、赤黒い肉が骨に付いているのが余計に気分を悪くさせる。

 枝に止まる鳥の魔物たちはまだ満足していないようであり、片時もシンから視線を外さない。

 

「喰いたいなら喰わせてやる」

 

 吐き捨てる様に言うと、シンは右手に魔力を収束させ、魔力剣を形成する。それと同時に鳥の魔物たちは飛び、大きく口を開いて飛び掛かる。

 

「まずはこいつからだ」

 

 魔力剣を振り下ろして発動する熱波剣。蓄積された魔力を解放され、飛翔する鳥の魔物たちは揺らぎの様な魔力の波によって包み込まれる。

 

 

 ◇

 

 

「はぁ……! はぁ……! はぁ……!」

 

 身を隠す程の巨大な岩の物陰に隠れながら、一誠は乱れる呼吸を必死になって整えようとしていた。

 訓練用に着てきたジャージはまだ特訓初日だというのにあちこち裂けていたり、穴があいていたり、焦げていたりしている。

 なるべく音を出さない様に深い呼吸にしようとするが、疲労と緊張のせいで上手く呼吸を変えることが出来ない。

 それでも何とかしようと努力している所に――

 

「どこだぁー? 何処に隠れたぁ? イッセェェェェェェ」

 

 地獄の底から轟く様な声で名を呼ばれ、呼吸が止まり、体は硬直、ついでに心臓も止まりそうになる。

 

「におうぞぉ? ドラゴンのニオイがするぞぉぉぉ? 近くにいるなぁぁぁぁぁ?」

 

 地を揺さぶる様な足音を立てながら、マダが隠れた一誠を探している。

 隠れている一誠は、さながらホラー映画の登場人物になった様な気分で、出来ているかどうかは分からないが必死になって気配を殺していた。

 足音が一誠の隠れている岩のすぐ近くにまで来る。早まる心臓の鼓動。他人にすら聞こえるのではないかと思える程強く脈動する。そのせいで大量の汗が全身から滲み出てきた。

 見つかるかと思いきや、足音は次第に岩から離れていく。徐々に小さくなっていく足音。やがて遠くへ行ったのか、それも聞こえなくなってしまった。

 

「……はあ。行ってくれた――」

「見ぃぃぃつけたぁぁぁぁ」

「――た、か?」 

 

 緊張が緩んだ絶妙なタイミングで掛けられる声。見上げたそこには、満面の笑みを浮かべたマダが岩越しに見下ろしていた。堪らず絶叫を上げてしまう。

 

「ほぎゃあああああああああああああああ!」

「俺から逃げられるなんて万年早いぜぇ? イッセー」

 

 逃げなければ、と思いすぐに駆け出そうとする。

 

「遅い」

 

 マダが岩をつま先で軽く蹴り付ける。それだけでトン単位はありそうな岩が、ボールの様に蹴り飛ばされ、逃げようとしていた一誠の背中に直撃。

 

「ぐえっ!」

 

 岩がぶつかった衝撃で一誠は、そのまま転倒。蹴られた岩は、遠くの山へと消えていった。

 

「全く。修行が始まってからずっと逃げてばっかじゃねぇか。逃げ足を鍛えるのも重要かもしれないが、お前さんの第一目標は禁手だろ? そんな弱腰じゃあ千年修行しても至れねぇぞ? ほら、かかって来い」

「無理ですって! 初っ端から師匠に全力を軽く受けられたんですよ! あれが駄目なら俺に打つ手は無いです! 逃げて隠れるしかないです!」

 

 弱気な発言に対し、マダはやれやれと首を軽く振る。

 

「そういうのが駄目なんだろうが――と言いたいところだが、そうなっちまったのは俺にも責任はあるしな……」

 

 マダは考える様な素振りを見せ、何か思いついたのか、屈んで一誠に顔を近付ける。

 

「な、何ですか?」

「ほれ、殴ってみろ」

 

 戸惑う一誠の前で、マダは自分の頬を指先で叩く。

 

「ええっ!」

「自信を付けるには、実際に殴ってみるのが一番だろ? 無駄だと思っていても実際にやると案外違うもんだぜ? 今のお前に必要なのは自信だ。だからほれ、一撃ここに入れてみろ」

 

 挑発ともとれるマダの提案。あるいは、失った自信を自分の手で取り戻させる様にも思えた。

 

「……本気で殴っても、殴り返したりはしないですよね?」

 

 マダの頑丈さは知っている為、最初の時の様な躊躇は無い。が、そのときに受けた反撃が相当痛かったのか、一誠は額に無意識に手を当てる。

 

「しないしない。誓って言う。絶対に『手』は出したりしない」

 

 このときドライグは、マダの言葉に含まれた意図を察したが、一誠には教えずあえて沈黙を続けた。ドライグも、一誠には早く成長して欲しいと願っている。下手に情けは掛けない。

 

「行きますよ!」

「声掛けも遠慮もいらねぜぇ?」

 

 腰を下とし、左半身を後ろに大きく捻る。まず実戦には使えない大きな予備動作であったが、相手が避けないということを信じ、全力で放つ構えをとる。

 今まで逃げ足だけに使っていた倍化の力を左拳へと溜め、それが限界に達したとき、力強く踏み込みながら捻りで得た力を体内で爆発させ、マダの頬に全力の拳を叩き込む。

 直撃と同時にその余波が空気を震わし、振動する大気で近くの木々に生えていた枯葉や若葉が一斉に落ちていく。

 相変わらず拳から伝わってくる感触は圧倒的であった。しかし、想像していたよりもショックは少ない。それどころか寧ろ清々しさすら感じる。

 今まで逃げ続け、隠れ続けてきたことで知らず知らずに溜まっていた鬱憤が、今の一撃で吐き出すことが出来た為なのかもしれない。

 マダの言った通り、思っていたときと実際に行ったときの気持ちには大きな差があった。

 一誠は拳の先にいるマダを見る。頬に拳が当たっているが特に痛がっている素振りは見せず、気持ち良い――と一誠には見える――笑みを浮かべていた。

 

「マダ師匠、俺――」

 

 言い掛けた時、胸に軽く押す感触があった。視線を下ろすと、何故か当てられているマダの爪先。

 

「え? え? え?」

「飛んで行け」

 

 次の瞬間、一誠の体は空高く飛んでいた。

 

「嘘つきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

 

 蹴り飛ばされて小さくなっていく一誠の泣き声も遠くへ消えていく。

 

「約束通り『手』は出してねぇぜ。『足』は出すけど」

 

 屁理屈を言いながら消えていく一誠の姿を、マダはケタケタ笑いながら眺めるのであった。

 

「ぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

 

 空中を高速で飛ぶという中々に新鮮な経験をする一誠。意外なことに蹴られた場所は、思っていたよりも痛みは無かった。蹴り飛ばされたというよりも、足で掬い投げられたといた方が正しい。

 尤もそんなことなど、現在進行形で恐怖を味わっている一誠には些細なことである。

 

「ぃぃぃぃぃぃてぇっ!」

 

 涙混じりの叫びが、痛みの声に上書きされる。

 飛ばされていた筈であったが、何故か壁に激突。後頭部に走る痛みで目から火花が散る。

 壁伝いに擦り落ちて地面に落下した一誠は、思い切り打ち付けた後頭部を擦りながら体を起こした。

 

「いってー。何にぶつかったんだ」

「姿を見ないと思っていたが、自分から俺の方に来たか。感心だな」

 

 頭上から掛けられる声。油が切れたオモチャの様な、ぎこちない動きで一誠は頭上を見上げる。

 そこには腕組みをして仁王立ちするタンニーンがいた。

 

「でたぁぁぁぁぁぁぁ!」

「お前の方から来たんだろうが」

 

 絶叫を上げる一誠に、タンニーンは呆れた様子で真っ当なことを言う。

 

「――まあいい。それでは続きといくか」

 

 タンニーンが軽く息を吸う。それを見た一誠は一瞬で蒼褪め、這う様にしてその場から駆け出す。

 ふっ、と蝋燭の火でも吹き消す様な変哲も無い動作で息を吹き出すタンニーン。しかし、そんな軽い行為とは裏腹にタンニーンの口から吐き出されたのは、巨大な火球。一誠の体を余裕で包む程の大きさがある。

 

「うわぁぁぁぁぁん!」

 

 涙目になりながら前方へ飛ぶ一誠。すると先程まで一誠がいた場所に巨大火球が着弾。爆発と共に火柱が昇った。

 火球が触れた場所には人が数人収まる程の穴が出来ており、熱によって赤く変色している。仮に直撃すれば、人ならば骨も灰も塵も残らずに気化してしまうであろう。

 

「おいおい。せめて弾くぐらいはしてみせろ」

「無茶言わないでくれ! 絶対に無理だって!」

「全力を出せばそれぐらいは出来る。ちゃんとお前の実力を見極めて調整しているつもりだ」

 

 タンニーンの言った通り、先程までの火球は全く本気ではない。本来の威力の数十分の一ぐらい抑えた威力である。タンニーンの本気のブレスは隕石の直撃に例えられる程であり、今の一誠ならば直撃どころかその余波だけでも即死してしまう。

 

「嘘だ! そんなの嘘だ! 俺は信じない!」

「お前自身がそんなに強く否定してどうする? 一番信じなきゃダメだろうが」

 

 マダとタンニーンという怪物二体に追い込まれているせいで、若干精神が不安定になっている一誠。圧倒的な実力を見せつけられているせいもあり、自分のことをかなり過小評価している。

 

「……まあ、初日ならばこんなものか。まずは慣れろ。ほら、ほら」

 

 そう言いながら先程の火球を放つ。今度は一発ではなく立て続けに数発吐かれた。

 

「どわっ! うおっ! ひぃや!」

 

 情けない悲鳴を上げながらも紙一重でそれを躱し、何とか逃げようと全力で走る一誠であったが、突然目の前に巨大な岩が落下し、逃げ道を塞ぐ。

 

「なっ!」

「おいおいおいおい。折角、俺が自信付けさせる為に痛い思いをしたのにさっきと全然変わってないじゃねぇか」

 

 現れるマダ。その手に山の様な岩がもう一つ持たれており、それを小石でも投げるかのように片手で放り投げ、一誠の逃げ道を完全に塞いでしまう。

 

「よっと」

 

 並んだ岩の上に飛び乗り、腰を下ろして一誠を見下ろす。

 

「ああ。いたい、いたい。とてもいたいなー」

 

 わざとらしく殴られた頬を擦りながら、棒読みで話すマダ。

 

「嘘だ! 絶対に嘘だ! 全然痛くないでしょ!」

「いやあ? 痛いさ。蚊に刺されたぐらいには、な」

 

 煽ってくるマダに対し、一誠は歯噛みして悔しがるが、一誠自身もその程度だろうなと内心で思っていたので言い返すことが出来なかった。

 

「来たか。で、どうする? 俺が終わるまでお前は待つか?」

「おいおい。可愛い弟子を独占するのは見過ごせねぇな。ここは仲良く『一緒』にやろうぜ?」

 

 マダの言葉に全身から汗が噴き出る。命懸けの逃走で熱を帯びていた体が一気に冷たくなるのが分かった。寒くはない筈なのに膝がガクガクと震え始める。

 一人相手にするのにあんなに必死であったというのに、もしも二人同時に相手することになるとすれば――

 

「ドライグ! どうにか、どうにか出来ないのか!」

 

 己の左腕に何か考えはないかと縋る。

 

『……俺から言えることは一つだけだ、相棒。――耐えろ』

 

 返ってきた答えは無情なものであった。

 

「加減はしてやるが……まあ、死ぬなよ?」

 

 前門の龍王。

 

「大丈夫、大丈夫。死ぬ瀬戸際になったらきちんと止めてやる」

 

 後門の阿修羅。

 

「じょ、冗談ですよね? まだ始まったばかりじゃないですか? いきなりハードなことなんてしないですよね? 何で二人して近付いて来てるんですか? 何で口から火が漏れているんですか? 何で腕四本も振り上げているんですか? ちょ、ちょっと待って下さい! こ、心の準備が、ってぎゃああああああああああああああああああああああ!」

 

 一誠の絶叫が木霊し、山々へと響き渡る。

 一誠はこの日のことを振り返り、後にこう語る。『あの日、あの時、あの場所は、間違いなく地獄であった』と。

 

 

 ◇

 

 

 タンニーンとマダは、無言で目の前の襤褸屑を見下ろしていた。よくよく見ると、その襤褸屑は人の形をしている。というか人であった。より詳しく言えば一誠であった。

 ただ、あまりに無惨でボロボロになったその姿は、一誠の様なボロ雑巾と称しても過言では無かった。

 一誠の様なボロ雑巾もとい一誠は、一応生きているのか微かに動いており、虫の羽音の様な声量で「花畑が……花畑が……」という譫言を繰り返し言っていた。

 

「やり過ぎた……」

「結構手加減したんだがなぁ?」

 

 後悔の言葉を呟くタンニーン。それとは対称的に悪びれた様子も無く、どこからか瓢箪を取り出すマダ。

 うつ伏せになって倒れている一誠を蹴って乱暴に仰向けにさせると、「ひいじいちゃんが……ひいばあちゃんが……」という譫言を、両頬を挟んで口を開かせることで無理矢理黙らせつつ、そこに瓢箪を突っ込む。

 

「おい」

「まあ、見てろって」

 

 マダの行いを咎めるタンニーン。それを手で制しながら、マダは瓢箪の中のものを一誠の口の中に注いでいく。

 変化はすぐに起きた。

 全身にあった傷が瞬く間に治っていき、数秒も経たず完治する。それに伴い失われていた一誠の意識も覚醒するが、自分が何かを飲まされていることに気付くと跳ね起き、その拍子に気管に瓢箪の中身が入って咽る。

 

「ごほっ! ぐほっ! げほ! げほ! い゛、いっだい何を……」

「やっと起きたか。まずは自分の体を見てみろ」

 

 慌てる一誠を宥めさせる為に、自分の現状を知るよう促す。

 一誠は、口元を拭いながら言われた通りに今の自分を見る。そして、目を丸くした。

 

「治ってる……」

 

 かなりの傷を負っていた筈だが全く無くなっており、痛みすら無い。それどころか全身に圧し掛かっていた疲労も消え、全快となっていた。

 

『魔力も回復している……おい、マダ。相棒に一体何を飲ませたんだ?』

「ひ、み、つ」

 

 ドライグの質問に茶化した態度で応じる。きちんと答えるつもりは無いらしい。

 

『ちゃんと答えろ』

「疑るなよ、ドライグ。タンニーンもそう怖い顔をするな。俺ぁ別にこいつに毒なんて飲ませてねぇよ。この日の為にわざわざ持ってきた秘蔵の薬ってやつさ」

「……取り敢えずは、そういうことで信じてやろう。俺はお前がふざけている奴だとは理解しているが、それでも線引きは出来ると思っている」

 

 マダを信じ、これ以上追及しないことを示すタンニーン。ドライグもタンニーンと同意見なのかそれ以上何も言わなかった。

 

「何だこれ、体が軽い!」

 

 修行を始める前よりも調子が良い体に驚きつつ、軽く跳んだり、体を曲げてみる一誠であったが、不意に背後から肩に手を置かれる。

 

「それだけ調子が良いんだったら別にいいよなぁ? 二回戦」

 

 先程まで血色が良かった一誠の顔が、死人を彷彿とさせ蒼白となる。

 ギギギ、と音が出そうな程ぎこちない動きで背後に目を向けると、口角が吊り上がって三日月の如く見事な笑みを見せるマダの姿。

 

「い、い、い、いやあ……も、もう夜も遅いですし、そろそろ明日に備えて眠った方が……」

「さっきまで十分眠っていただろう?」

「気絶は睡眠に入りませんって!」

 

 嫌がる一誠を無視して襟首を掴み、そのまま引き摺っていく。一誠も手足をバタつかせたり、岩や木に掴って必死に抵抗するが、マダの力の前には無いに等しい。

 

「おい。マダ」

 

 それを見兼ねたのか、タンニーンの鋭い声が飛ぶ。

 一誠は、地獄に仏でも見た様な気持ちで縋る眼差しを向ける。

 

「まだ基礎体力作りも残っているんだ。ほどほどにしとけよ?」

「わーってるよ。三分の二殺しぐらいには止めておく」

 

 絶望に更なる絶望が加わる。

 

「無理ですって! 本当に死んじゃいますって!」

「だから安心しろって。加減はしてやると何度も言ってんだろうが」

「加減してもさっきまで俺死にかけていたじゃないですか!」

「あれでギリギリのラインが分かったな。次はもっとライン際を攻めていくかな?」

 

 反省している様子は皆無。それどころかさっきよりも追い込むつもりでいた。

 

「師匠! 俺をボコボコにするのを楽しんでません!? 俺の生死で遊んでいません!?」

「まさか! 俺が大事な弟子の命を弄ぶ訳無いだろう? これでも心を鬼にし、胸の奥で涙を流しながらやっているんだぜぇ?」

 

 わざとらしく目尻を拭う仕草を見せる。

 

『……で、本音は?』

「正直、棒倒しでもしている気分で面白い」

「やっぱり遊んでいるんじゃないですかぁ!」

「タンニーン、一つ賭けでもしないか? 負けた方が飯の準備をするってので」

「……勝敗のつけ方は?」

「こいつが立っていられなくなったら」

「ええっ!」

「生憎、お前と違って修行に遊びを混ぜるのは性に合わん」

 

 乗り気なマダに対して否定的に見えるタンニーンの態度。一筋の希望が見えたかに思えた。

 

「勝ち負けはお前が勝手に判断しろ。俺は前と同じことをするだけだ」

 

 乗り気では無いだけで結局参戦することに変わりは無い。

 

「じゃあ、始めるか」

 

 笑うマダと佇むタンニーンの姿は、一誠の目にこの世のどの悪鬼よりも恐ろしく映るのであった。

 

 

 ◇

 

 

 頭上で爛々と輝いていた月にはっきりとした陰りが見え始めた頃、シンは頬から流れ落ちるものを手の甲で拭う。

 手の甲にはべっとりと赤い血が付着していたが、シンに焦る気配は無い。何しろその血はシンのものではない。

 彼の周囲で悶えてまともに動けない魔物たちから浴びせられた返り血であった。

 血を拭った手を素早く払う。血が飛び、地面に落ちるとすぐに土へと吸い込まれていった。

 今のシンは普段よりも呼吸が荒く、息を吸う度に肩が上下する程深い。

 あれから多種多様な魔物たちが、シンの命を狙って絶えず襲い掛かってきた。

 猪の様な見た目で口から炎を吐く魔物。蟷螂に蟹を足した見た目をした魔物。手足、目鼻口が無い人型をした粘液など、数えるのも億劫になる。

 それらを死力を尽くして撃退したシンであるが、当然無傷では済まない。体の至る所に裂傷、火傷、刺し傷、咬み傷がある。先程拭い捨てた血の何割かはシンの血も混じっていた。

 ひたすら目の前の敵を打倒していくことに集中していたが、そろそろ体力の限界が近いらしく、体力や集中力が途切れ始めていた。

 それでも立て続けに襲い掛かってきた魔物たちもシンに恐れをなしたのか、急に姿を見せなくなる。

 張り詰めていた緊張の糸が若干緩んだのか、今まで感じなかった疲労、そして意識に重く圧し掛かる眠気を覚える。特にこの眠気が厄介であり、意識しないと自然に瞼が下がり始め、視界を半分覆っていく。

 微睡む快感に浸ろうと脳が必死になってシンの意識を断とうとするが、それを精神力で抗う。いくら敵の襲撃に間が空いたとしても、この場で無防備に寝ることは即死に繋がるのは分かり切っていた。

 あとどれくらいこうしていればいいのだろうか。終わりがある筈なのに先が見えないことに若干の焦燥を覚えた時、暗闇の向こう側から新たな唸り声が聞こえてくる。

 目を凝らすと闇の中に潜む複数の魔物。鎧を纏った豹。それが魔物への第一印象であった。

 魔物たちは、シンの様子を窺う様に左右を行ったり来たりしたかと思えば、軽やかな動きで木に登り、そこから観察してくるものもいた。

 その様子から、明らかにこちらの警戒が途切れることを狙っているのが分かる。獰猛そうな姿に反して、冷静かつ狡猾な思考を持つ魔物であった。

 そこから先は持久戦であった。シンは複数いる魔物たちの動きを逐一警戒し、神経を尖らせる。一方魔物の方はというと、時折襲い掛かる様な動きは見せるものの、それ以上深くは入ってこず、嬲る様にシンの周囲を動き回っていた。

 何時まで経っても襲い掛かって来ない魔物たちに対し、いっそのこと広範囲を熱波剣で吹き飛ばしてしまおうかという考えも思い浮かぶ。しかし、前の襲撃で既に十数回使用しているせいで、シンの魔力は尽き掛けていた。これ以上使用するとシンの魔力は確実に枯渇する。

 この魔物で打ち止めなどという甘い考えはしない。先のことを思うと無駄に魔力を消費することは出来なかった。

 吸魔によって相手から魔力を補充する考えもあったが、魔物から魔力を吸収するのは試したことが無い。人以外から魔力を吸収するとどういう結果になるか、不確定要素がある為決断し難い。

 思考するシンを他所に、魔物たちはじりじりと距離を詰めていく。嬲る様な行動とも捉えられるが、弱肉強食を当たり前とする世界では慎重とも言える行動であった。

 まだ余力があると判断しているシンは、相手の動きから一瞬たりとも意識を離さず、いつでも動ける様に四肢に力を込める。

 魔物たちが更に距離を詰めようとしたとき、魔物たちの足元に閃光と共に青白い電撃が着弾。怯んだ魔物たちの体に橙色の火の粉が落ちたかと思えば、それが一気に燃え広がる。

 

「ヒホッ」

 

 聞き慣れた声と共に魔物たちからシンを守る様にして突如氷の壁が地面から生えたかと思えば、氷は瞬く間にシンの周囲を覆い、ドーム状の防護壁と化す。

 

「もー、酷いんじゃない? あたしたちを置いていくのってさー」

 

 耳元で言われる不機嫌そうな声と共に、慣れすら感じる重みが肩に掛かる。

 目線を動かせばそこには頬を膨らませているピクシー。

 

「ヒホッ! オイラたちを置いていくなんて薄情だホ! それに一人で修行なんてずるいホ! オイラも修行したいホ! 修行をさせるホ!」

 

 壁を顕現させたジャックフロストが、両手を上げながら抗議してくる。

 

「ヒホ~。ギャスパーとは当分会えないからね~。暇になったからこっちについてきたよ

 ~。でもいいよね~? ボクも君の仲魔だから~。ヒ~ホ~」

 

 何時もの様にマイペースな喋り方で登場するジャックランタン。

 シン個人の修行の為、置いてきた仲魔たちが現れたことに、シンは目を丸くする。

 何故ここに? どうやって来た? などという疑問が浮かぶが、ここに居る以上そんな詮索をするのは最早無意味。

 ならばここでシンがするべきことは一つ。

 

「……少し休む。それまで時間を稼いでくれ」

 

 仲魔に信頼を寄せての一時休憩。

 

「りょうかーい。ま、ぐっすりと寝てなよ。起きるまであたしたちがちゃんと守ってるからさ」

「頼んだ」

 

 そう言うと今まで重かった瞼を閉じる。そして一秒も待たずにシンの意識は眠りの中に入っていくのであった。

 

 

 ◇

 

 

 突然の仲魔の乱入を遠くから眺めているセタンタ。

 

「出来れば一人でいることが望ましかったのですがね……彼個人の能力を高める為にも」

 

 誰かに語り掛ける様に呟く。

 

「彼女らを連れて来たのは貴方の判断ですか? アザゼル様」

 

 視線はシンらに向けたまま問い掛ける。その問いに応じて宵闇の中から浮き出る様にアザゼルが姿を現した。

 

「ここを見つけるのに苦労したぜ。お前が管理している物騒な土地を片っ端から調べる羽目になったからな。御陰でこんな夜遅くになっちまった」

 

 悪びれる様子も無くいつもの態度で話し掛けるアザゼルに、セタンタは誰にも聞こえない程小さな溜息をマフラーの下で吐く。

 

「それにしても随分と危うい鍛え方をしているな。俺の担当外だから口出しするのもあれだと思うが、実際見てみて考えを改める必要があるかもしれんな」

「……もしもの時は、私がきちんと救出します」

「お前にその気があるならな」

「……」

 

 シンを助けるつもりがない。それを指摘するアザゼルに対し、セタンタは怒ることもせず沈黙する。反論しないことが、アザゼルの言っていることが正しいと肯定しているようなものであった。

 

「ここに来る前にサーゼクスと話したぜ。セタンタという男は心配になるぐらい真面目な男だってな。もしかすれば、セタンタは彼を将来の脅威と捉え排除することも考えているかもしれないってなことも言っていたな」

「……そうですか」

 

 セタンタは否定しなかった。サーゼクスの指摘は間違いなく正しかったのだ。

 サーゼクスから魔人であるシンを鍛える様に言われた時から密かに思っていたこと。しかし、サーゼクスもまた言い渡すと同時にセタンタの内心を読み取っていたらしい。

 

「サーゼクスの奴が言ってたぜ。セタンタという男はいざとなったら私心を捨ててグレモリーに尽くそうとする危うさがあるってな。……何でもグレモリーに仕える前の記憶が無いっていうじゃねぇか。理由は知らないが、シンの奴を見て既視感を覚えたんだろ? 自分の記憶を取り戻す手掛かりをみすみす屠るのか?」

「サーゼクス様は、そこまで貴方に話しておいでですか。……まあ、話す気持ちも分かるかもしれませんね。貴方の性格とサーゼクスの性格は良く合いそうですから」

「あとこうも言っていたな。尤も私が信じるセタンタならばつまらない真似をしないだろうがね、とな」

「あの方らしい釘の刺し方だ」

 

 僅かに眼を細める。セタンタはマフラーの下で苦笑を浮かべていた。

 そこで初めてセタンタはアザゼルの方を見た。

 

「……彼が私の記憶の手掛かり……それも私が彼を屠ろうとする理由なのかもしれません。ここで彼が居なくなれば、私は記憶を戻す手掛かりを失う。そうすれば今まで通りグレモリー家に仕えるセタンタのままでいられますので」

「忠誠の為に過去の自分を完全に殺すのか? 真面目真面目と聞いていたが、予想以上だな」

 

 セタンタの言葉にアザゼルは呆れた表情となる。

 

「とは言っても今はそんな気はあまり無いです」

「ふーん? 何か心境の変化でもあったか?」

 

 セタンタの目線が再びシンの方に向けられる。シンは、氷の壁に守られているとはいえ周囲を敵に囲まれている状況で、太々しく睡眠をとっていた。

 

「未熟な魔人。彼は恐らく他の魔人の中でも最弱でしょう、『今は』。だがこの先どれほどの成長を遂げるのか、魔人としてどれほどの力を振るうようになるのか、それは未知数です」

 

 実戦形式でのシンとの戦い。そして、無数の魔物相手の死闘。その中で確かに感じ取った力の片鱗。

 

「不謹慎だと自覚しています。三勢力の未来を思えば馬鹿な考えだとも思います。しかし、私は見てみたいと思ってしまいました。彼の未来〈さき〉を」

 

 既視感を覚えた彼に対する失った記憶の残滓から来る親近感なのか、あるいは僅かに触れた力に惹かれたのか、どれが答えなのかはセタンタには分からない。

 

「ふーん。なるほどねぇ……」

 

 アザゼルは顎を擦りながら、何処となく納得した様な雰囲気を出していた。

 

「馬鹿な奴だと笑ってもらっても構いませんよ?」

「いや、気持ちは結構分かるぜ。ジャンルは違うが、俺も神器の研究をしていた過程で何人か神器使いと接触したことがあるが、へったくそな使い方している奴や逆に上手に扱う奴を見ているとついついアドバイスをしちまうし、もっと先が見たいって気持ちにもなるからな。それに今の俺は、元敵のリアスたちを鍛える立場にあるんだぜ? お前を笑うとなると俺自身も笑い者だな」 

 

 研究者として、オカルト研究部顧問であり彼らを育てる先生という立場としてセタンタに共感を示す。

 

「そうですか。そう仰って下さると助かります」

 

 セタンタは乱れ一つ無い整然とした動きでアザゼルに頭を下げる。

 

「そう改まった態度なんか必要無い。――ところで大丈夫そうか? あいつ等は」

 

 話を変え、今も魔獣たちの襲撃を受けているシンらを気に掛ける。

 

「大丈夫だと思います。独りで戦ってきたときも多少危うさはありましたが生き延びていました。今は彼女らもいます。問題は無いかと」

 

 ただ、という言葉の繋ぎを胸中で付け加える。

 セタンタは、シンが魔物たちに襲われていたときからある疑問を抱いていた。

 この森には様々な魔物たちによるいくつもの縄張りがあった。森の奥に行けば行くほど、縄張りを守る魔物は強く、あるいは狡猾となっていく。

 この森での修行を進める毎に森の奥へと自然に進んで、より強い魔物たちと戦わせる算段であった。

 だがどういう訳か、今までシンを襲っていた魔物たちは普段森の中心部辺りに住む森で中堅クラスの強さを持った魔物たちである。

 たまたまこの様なことになったのか。あるいは、そうならざるを得ないことが森の中で起こっているのか。

 特に不都合があるわけではないが、この森の管理者としていずれ原因を調べなければならないと密かに思うのであった。

 

 

 ◇

 

 

 分厚い氷の壁に何度も爪や牙が突き立てられる。その度に削れ、罅が入るが、魔力によって創られた氷はその度に修復され、ますます分厚さが増す。

 諦めて別の獲物を探してもいいように思えるが、魔物側にとってはある事情で満足に餌を食べていない状況であり、折角の食料をみすみす逃す訳にはいかなかった。

 厚い氷に牙を突き立てながら魔物は思う。ほんの前まではこの様なひもじく、惨めな生活を送ってはいなかった。

 数ヶ月から全ての状況が一変した。

 本来森の奥で暮らしている筈の魔物たちが、何故か自分たちの縄張りを奪いにきた。抵抗空しく居場所を獲られ、仕方なく森の入口辺りに逃げ延び、そこで自分たちよりも弱い獲物を狩っていた。

 しかし、そこには自分たちと同じく居場所を奪われた別の魔物たちも逃げてきており、そこで起こったのは熾烈な縄張り争いと獲物の奪い合いである。

 それにより多くの仲間たちが消え、更に食料となる獲物も姿を消した。

 弱肉強食が当然であるこの森にも暗黙のルールというものがあった。長年森に住む魔物たちが自分たちの種を滅ぼさない様に自然と出来たものである。

 だがそれも崩壊し、残るのは完全な無秩序。今までルールを強制する側であった力有るモノたちがそれを破ってしまったのだから仕方ない。

 子孫を残すなどという考えなど無く、一日でも生き延びる為に他を滅ぼす。自滅する為に生きているようなものであった。

 飢餓で思考も本能も上手く働かない魔物たちはそんなことに気付く筈もなく、一秒でも早く空になった腹を暖かな血や肉で満たしたいという考え一つだけであった。

 だからこそ、彼らは選択を見誤る。

 何度目かの牙が叩き付けられると氷に亀裂が入った。

 これを見た魔物は更に強く牙を叩き付けようとしたとき、氷の壁を突き破って現れた手が口を開こうとしていた魔物の額を鷲掴みにする。魔物は気付いていなかった。氷の亀裂が外側からではなく、内側から生じていることに。

 掴んだ手が今度は引っ張り、突き破って出来た小さな穴に無理矢理魔物の頭を引き摺り込む。

 頭部よりも明らかに小さな穴に強引に引っ張り込まれれば、当然引っ掛かる部位があったが、引き込む力がそれを氷の壁と一緒に削がしていく。

 その痛みに絶叫を上げるが力は弱まらず、やがて穴の中に魔物の頭が完全に入り込む。

 壁の向こうには引き摺り込んだ張本人が、冷たい目で魔物を見ながら拳を振り上げて待っていた。

 完全に引き際を誤ったことを魔物は悟る。氷の壁の外にある手足に力を入れて頭を抜こうとするが、びくともしない。

 直後、魔物の眉間に拳が突き刺さる。

 頭が嵌っていた氷の壁諸共、魔物の身体は飛ばされ茂みの奥へと消えていく。

 仲間が吹き飛ばされたのを見て、他の魔物たちは怯み、様子を窺う。

 氷の壁の中の人物もまた開いた穴から魔物たちの様子を窺っていた。

 警戒しているのではない。今から倒す魔物の数を静かに数えているのであった。

 

 

 ◇

 

 

 セタンタとの修行が始まって一週間以上が経過する。最初の頃は毎回毎回死ぬのではないかという思いをしていたが、恐ろしいことにその辛さにも慣れ始めつつあった。

 そして、シンは今日も修行する――

 

「ねえねえ、あれ買ってー」

「オイラはこれが欲しいホ」

「ボクはアレ~」

 

 ――のではなく、街で買い物をしていた。場所は魔王領都市ルシファード。以前リアスたち上級悪魔が集う行事を行った都市である。

 いつもだったらセタンタと実戦形式の特訓をしている時間の筈だが、仲魔三人と呑気に時間を過ごしていた。

 尤もこの様な提案をしたのはセタンタ本人からである。

 切っ掛けとなったのは二日前のことであった。

 セタンタとの修行を終え、疲労困憊となった状態で森の中の魔物たちとひたすら戦う実戦を行う筈であったが、どういう訳かその晩、魔物が一匹たりとも姿を見せなかった。

 シンの立場からしてみれば、疲れ切った体を休ませる時間が出来たと喜ぶべきことであったが、何とも言えない気持ち悪さを感じていた。

 そして、翌日の晩。前日と同様に全く魔物が姿を見せなかった。

 流石に不審に思ってシンの方から魔物たちを探すこととなる。あちこち探した結果、何度か魔物の姿を発見することが出来たが、シンたちを見た途端何処かへと走り去ってしまった。まるで争うことを拒否するかの様に、脇目も振らず脱兎の如き逃げであった。

 折角考えた修行が上手く行かなくなってしまったセタンタは、原因を究明する為に森を隈なく調査することを決め、その間シンたちに休みを与えた。

 シンは、居ない間でも特訓が出来ることを主張するが、自分の目から離れた場所でそれを行うことは教える責任として出来ないと却下し、転送用魔法陣を使用して安全圏である場所に送ったことで、シンの現状に至る。

 特にすることもなく仲魔たちが好奇心にあれこれ目を輝かせているのを眺めていたシンであったが、そこで見覚えのある人物らを見つける。

 

「う゛っ! 貴方は!」

 

 縦にロールされた金髪を二つに括っているやや高飛車そうな容姿をした人物が、嫌そうに顔を顰めさせている。シンの記憶が確かならば、ライザー・フェニックスの『僧侶』で実の妹であるレイヴェル・フェニックスである。

 

「まさか冥界で貴方と会うとは……」

「奇遇とはこのことだな」

 

 側にいるのは『女王』のユーべルーナと『騎士』のカーラマインであった。二人ともシンを見て目を丸くしていた。

 

「……どうも」

 

 顔を合わすのも言葉を交わすのもレーティングゲーム以来の三人に対し、シンは素っ気ないとも言える挨拶をするのであった。

 

 

 ◇

 

 

 異変が起きている森を調査し、木々の枝を飛び移りながら奥深くへと進んでいくセタンタ。

 奥に進む毎に森の異変がより分かり易くなっていく。

 常にあった魔物同士の殺気に満ちた空気が無くなり、絶えず聞こえていた魔物の鳴き声が一切しない。

 不気味な程の静寂が森の中に満ちていた。

 

(むっ?)

 

 移動していたセタンタは、視界の端に何かを捉える。すぐに方向転換し、そちらへと向かった。

 

「これは……」

 

 到着した先にあったのは巨大な魔物の死骸であった。

 人間界で言う熊に近い姿をしているが、大きさは十メートル近く、前脚が四本あり、額には三つめの目が備わっている。

 セタンタはこの魔物に見覚えがあった。この魔物こそ、この森で最強の魔物であり森の主である。

 しかし、その主は首と胴体が離れている状態となっていた。

 

(死後一ヶ月ぐらいか……)

 

 腐敗し始めている主の死体を見てそう判断する。ここで修行を始める前には既に主が交代していたらしい。

 

(この傷。一撃でこれを仕留めたのか?)

 

 切断された頭部以外に傷は無く、明らかに生きている内に頭部を切り落としたのが分かる。そして、頭部と胴体の切断面には余分な傷は無く、一撃で切断したのも分かった。

 

(やったのは流れモノか? だがこれに圧勝する程の実力があるとなるとかなりの力を持っているな)

 

 未だ見ぬ新たな森の主の存在。セタンタは、その得体の知れない相手に対し強い警戒心を抱くのであった。

 

 




雑魚ラッシュによる修行の次はボスラッシュによる修行になっていく予定です。
誰が相手かは楽しみにしておいて下さい。

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