ハイスクールD³   作:K/K

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連携、前兆

 イッセー。

 

 久しぶりに聞いた愛しい主人の声。久しぶりと言ってもせいぜい一週間程度しか経っていないが、毎日聞いていた声であった為、一週間全く聞いていないとなるとやはり久しぶりの様な気がした。

 

 イッセー。

 

 光の無い空間に再度響く甘い声。声の振動だけで鼓膜が柔らかく震え、その震えが脳へと伝わり、一瞬にして脳内が蕩けてしまう。

 

 イッセー。

 

 三度呼ばれて、暗闇の中で一誠は目を開く。するとそこには派手派手しい円形のベッドと、その中心で横たわるリアスの姿。

 肌が透けて見える薄い生地の下着を纏い、蠱惑的な笑みを浮かべながら一誠を指招きする。

 

「イッセー……来て」

 

 官能に濡れた声。背筋が震え、心臓が胸から飛び出しそうなほど激しく動く。

 

「ぶ、部長」

 

 言われるがまま一誠はベッドへと近付き、その縁に片膝を乗せる。

 

「いいのよ、イッセー。遠慮しなくても」

 

 一言一言に色気と艶があり、聞いているだけで天にも昇りそうな気持ちになってくる。

 

「え、え、遠慮しなくてもいいとは?」

 

 緊張で上手く回らない舌。本当は何を意味しているのか分かっているが聞き返してしまう。相手の口からその意味を直接聞きたいという願望から。

 

「私を抱いてくれる?」

 

 ある意味では予想通りの答え。だが、相手の口から直接聞いたとなるとそれだけで興奮が止まらなくなる。

 

「い、い、いいんですか?」

「ええ」

 

 思わず唾を呑み込もうとしたが、このとき緊張と興奮で口の中が乾いていることに気付いた。しかし、それも無理は無い。憧れの人がすぐ目の前にいるのだから。

 

「じゃ、じゃあ!」

 

 飛び上がる様にしてベッドへと乗りリアスの顔を見たとき、一誠は時が止まったかのように停止した。

 ベッドの上にいたのはリアスではない。ワンピースを着た黒髪の少女へと変わっていた。そして、その少女を一誠は知っている。

 

「どうしたの? イッセー君? 変な顔をして」

 

 クスクスと笑う少女。相手を見下す嘲笑であった。

 その声。その笑いを聞くだけで、一誠は全身から血の気が引いていくのが分かる。先程までの昂りが全て消え去っていたが、未だに心臓の鼓動だけは早かった。無論、それは興奮から来るものでは無い。純粋な恐怖による動悸であった。

 

「レイ、ナーレッ!」

 

 絞り出す様に目の前の少女の名を口に出す。それを聞いてレイナーレはますます笑みを深くした。

 

「そんな風に言わないで。前みたいに夕麻ちゃんって呼んでくれない? 私たち恋人同士だったじゃない」

 

 拭いたくとも拭えない忌まわしい記憶。だがレイナーレが言ったことは、仮初であっても紛れも無い事実であった。

 

「何が恋人同士だ! 俺ばかりか、アーシアまで殺しかけたくせに!」

「いいじゃない。実際の所は生きているんだから。悪魔になってね。結果から見れば人間だったときよりもいい暮らしをしているみたいだし」

 

 まるで自分のおかげだと言わんばかりの言動に、流石の一誠も拳を強く握る。きっとこの先の人生で後にも先にも心の底から殴ってやりたいと思う女性は、このレイナーレぐらいであろう。

 

「俺の夢の中にまで現れて、好き勝手言いやがって……!」

「そう、これは夢。貴方の夢。そこが分かっているなら、どうして私がここにいるのかも分かるんじゃない?」

 

 レイナーレがゆっくりと一誠に近付く。避けようとして動くが、何故か手足がベッドに張り付いたまま動かない。何とか動こうとしているうちにレイナーレは、吐息が掛かる程近くまで来ていた。

 そして、一誠の耳元に近付き――

 

「忘れられないんでしょう? 私のことが」

 

 ――甘く、そして蔑む様に囁く。

 

「な、に?」

「私のことが忘れたくても忘れられないから、こうやって夢に見るんでしょう? イッセーくん?」

「――黙れ」

「騙されたことが分かっているのに、守りたかったアーシアの命を奪い掛けた女なのに忘れられない」

「黙れっ!」

「本当に馬鹿な男。初めての女が忘れられないの? あれだけ恋心を汚してやったのに。イッセーくん、貴方って本当に愚かでつまらなくて救い難い男だわ!」

「レイナーレェェェェェェ!」

 

 我慢していたものが一気に決壊し、それによって生まれた衝動のまま握り締めた拳をレイナーレへと叩きつけた。

 

「ふふふふふ」

 

 それを躊躇うことなく顔面で受け止めるレイナーレ。拳から硬い感触が伝わってくる。

 

 ――棒

 

(な、何だこの硬さ!)

 

 異様なまでの硬度に戦慄する。だが、何故かその感触には覚えがあった。

 

 ――相棒

 

(何だよ、ドライグ! 俺はこいつを!)

 

 ――今すぐ起きろ相棒! 死ぬぞ!』

 

(へっ?)

 

 ドライグの言葉の意味が分からず呆けた瞬間、周りの光景が一瞬にして崩壊する。レイナーレの姿も塵の様に消え、何もない白い空間と化すと、何かから引っ張られる様に意識がはっきりとし始める。

 夢から覚める。そう思った瞬間、開けていたと思っていた筈の目がもう一度開いた。

 今度こそ紛れも無い現実。川のせせらぎが聞こえ、開けたばかりでぼやけた視界には日の光、そして何故か突き上げている拳、その拳をもろに顔面に受けているマダ。

 至って平常な朝の――

 

「……あっ」

「朝から随分と威勢の良い挨拶をしてくれるなぁ、イッセー?」

 

 声に怒りの色は無い。いつも通りの口調である。だというのに、全身から冷や汗が止まらない。

 

「こ、こ、これは!」

「ああ、分かっている。分かっているさ」

 

 突き出していた拳を慌てて引き、弁明しようとするがマダは手を振り、それを制する。

 

「朝一から特訓をしたいんだろう? なんせこんなにも元気が有り余っているからなぁ」

 

 マダの全身から視覚化出来そうな程の威圧感が放たれる。空気が一瞬にして浸食され、纏った空気を吸うだけで胃が締め上げられる様な感覚が一誠を襲う。

 

「お、怒ってますか?」

「全然」

 

 そう言いつつ仰向けになっている一誠の頭を人差し指と親指で挟むと、そのまま指二本で持ち上げる。

 

「いだだだだだだだだだだ! やっぱり怒ってますよね! 怒ってますよね!」

「怒ってないって言ってるだろうが」

 

 言葉に反し、締め上げる力が増していく。

 

「特訓を始める――前に顔でも洗って来い」

 

 そう言ってマダは川辺に向かって一誠を勢いよく投げる。

 

「むっ」

 

 その頃、朝食の準備をしていたタンニーンが川辺から聞こえてくる水を切る様な音に気付き、そちらに目を向ける。

 すると水面を水切り石の様に何度も跳ねていく一誠の姿。十数回以上水面を跳ねた後、川へと沈み、そのまま仰向けに浮かび上がる。

 

「ちょうどいい。そのままそこで魚を捕まえろ。獲った分だけ朝飯が増えるぞ」

 

 水面を跳ねていた一誠の心配など特にせず、それどころか魚を捕らえるよう指示してくる。タンニーンにしてみれば先程の光景も日常の一コマに過ぎない。

 水面に浮かびながら、遠のきかけた意識の中でタンニーンの声を聞いていた一誠。幸か不幸か朝一番の衝撃によって、目覚める直前まで見ていた悪夢のことは綺麗さっぱりに忘れていた。

 

 

 ◇

 

 

「ライザー・フェニックス……お前が、俺に炎の使い方を教える?」

「そうだ。有り難く思えよ? フェニックス直伝だぜ?」

 

 いきなりそのようなことを言われてシンは面喰らってしまう。この前戦っていた相手からその様なことを言われれば尚更であった。

 

「それは有り難いが……大丈夫なのか?」

「何がだよ?」

「ついこの間まで引き篭もっていたが……」

「はっ! たかが数ヶ月閉じ籠っていたぐらいで腕が鈍るかよ」

 

 あくまで自信満々といった様子。引き篭もり時のときの陰鬱な様子はすっかりと消えていた。見た目も中身も最初に会ったときに戻っている。

 

「あっちの方も大丈夫なのか?」

「あっち? 何のことだ?」

「ドラゴン」

 

 ぽつりと呟いた単語。しかし、ライザーは余裕の表情を貫き続ける。

 

「ふん。今更そんな言葉に惑わされるか」

「あっ。イッセー」

「何っ!」

 

 ピクシーの指差す方向に向かって、凄まじい勢いで振り返るライザー。だが、当然振り返った先に一誠の姿は無い。

 気不味い空気が場に流れる。

 

「――はっ! 嘘だなんて分かってたよ! 敢えて乗ったんだよ! 未だに怖がってねぇよ!」

 

 子供の様な誤魔化しをするライザーであったが、その膝は生まれたての小鹿の様に震えていた。取り敢えずドラゴンという言葉に対してはやせ我慢出来るらしいが、一誠の恐れはトラウマとして根強く残っているらしい。

 

「……悪かったな」

「本当に怖くないからな! 我慢している訳じゃないからな! もう克服しているからな!」

「分かった。分かったから」

 

 必死になるライザーを宥め、話を元へと戻す。

 

「お前が教えてくれるのは分かったが、良いのか? 敵を強くする様な真似をして」

「……いいんだよ。お前や赤龍帝にはきっちりと強くなってもらわなきゃ俺が困る」

「理由は?」

「お前らは、認めたくないがこの俺に勝った。不本意だがそれは俺よりも強者であることを意味している。勝った奴が負けた奴に対する義務というのを知っているか?」

 

 その問いにシンは首を横に振る。

 

「負けた奴がリベンジするまで強者であり続けることだ。俺は、お前らがどこの馬の骨とも分からん奴らに負けることを絶対に認めない。お前らに土を付けるのは俺だ! だからそれまで赤龍帝やお前には勝ち続けてもらう」

 

 自分に勝った者が負ければ、自然と自分の価値も下がる。だから負けない様に強くなってもらう。本末転倒の様な気もするが、プライドの高い者からすれば到底許せないことなのであろう。完全にとは言えないがシンとしても理解出来る部分もある。

 

「それが理由か」

「まあな」

「何だかんだ言って本当は、部屋を出る切っ掛けを作ってくれたシンへのお礼じゃないのー」

「違う!」

「そうなのかホ? そうならそうと言えばいいホ! 別に恥ずかしいことじゃないホ!」

「違うと言っている!」

「それっぽいこと言ってるけど~。やっぱり図星っぽいね~」

「違うって言っているだろうが! 燃やすぞ! チビ共!」

 

 外野の言葉に限界がきたのか、両手に炎を纏わせ恫喝する。ピクシーたちは、わーと言いながら離れていき、近くの木の影に隠れると、そこから頭だけを出してシンたちの様子を窺う。

 

「何だ、あのガキ共は……!」

「気にしないでくれ。遠慮と物怖じをしない性格なんだ」

 

 興奮しているライザーを宥めるシン。ライザーもこれ以上ピクシーたちに付き合うのがバカバカしくなったのか、咳払いを一つした後に本題に戻る。

 

「俺がお前に教える理由はもういいだろ。話を先に進めるぞ。それで炎の使い方だが――おい、試しにさっきの様に炎を出せ」

 

 シンはライザーの指示に従い、左手に炎を生み出す。業々と燃え盛る橙色の炎。それを見た途端、やれやれといった様子でライザーは首を振るった。

 

「思った通りだ。お前は魔力を燃料にしてその炎を出している」

「まあ、そうだな」

 

 これに関してはシンも凡そ分かっている。

 

「が、それだけだ。お前の魔力は炎を維持するだけの使用に止まっている。それじゃあいくら振り回しても何の意味も無い。纏っている炎が揺らぐだけだ」

「――成程」

「つまり――」

 

 ライザーの説明を聞きながら、シンはそれを頭の中で整理していく。

 左手に魔力を集中させ、それを炎に変換するまではいいが、一度点いた炎を絶やさない為には次々と燃料である魔力を注がなければならない。あくまで燃える理由は、シンの魔力によるものである。可燃性のモノに触れるならまだしも、空中には火種となるモノが無い。こんな状態では、シンが想像している様な炎を飛ばす遠隔攻撃など到底無理な話である。

 ならば、遠くまで炎を届かせるにはどうしたらいいのか。

 答えは至って単純である。目標まで魔力を届かせればいいのだ。

 解決策が分かれば後は実行するのみ。早速試してみようとするシンであったが、その前にライザーが声を掛ける。

 

「――ちょっとその左腕を上げてみろ。炎は消さなくていい」

「うん? ……ああ」

 

 どういう意図でそんな指示を出したのか分からないが大人しく従って、燃える左腕を肩の高さまで上げた。

 ライザーは、少しの間左腕を見ていたが、徐に燃える左腕に手を翳す。

 

「ちっ」

 

 忌々しそうに舌打ちをしながらライザーは手を素早く引き、その後暫し掌を眺めていたが、やがてその手を握り締めてズボンのポケットに突っ込んでしまう。

 

「もういいぞ。さっさとやれ」

「……ああ」

 

 ライザーの行動を不審がるもそれ以上追及することはなかった。

 シンはライザーの助言に従って特訓を再開し、そして思い知ることとなる。理想と現実にはいつだってそれを隔てる壁があることを。

 

 

 ◇

 

 

 左手に魔力が集い、それが熱を発する炎と化す。燃え盛る左手が向けられた先には立ち枯れした一本の木。

 左手の中にある魔力を徐々に押し出すイメージを頭の中に描きながら、左手の魔力を外へと放出していく。

 覆っていた炎が放たれる魔力に合わせて動いていき、やがて――といった所で突如として炎は消え去ってしまった。

 

「……またか」

 

 掌から数センチほど炎が飛び出した瞬間に鎮火してしまった。何回目か数えるのも億劫になってきた失敗である。

 魔力を動かせば炎も動く。至極簡単なことであるが、その炎を維持したままという条件が付く途端に難易度が跳ね上がる。

 魔力を無理矢理押し止めるのは、熱波剣や光弾といった技を持つシンにとっては然程難しくは無い。だが、それは純粋な魔力の場合である。

 魔力を変換した炎の操作は想像以上に精密なものであり、中々結果を出せずにいた。

 

「早々上手く出来るものじゃない。炎を舐めんなよ」

 

 何度も失敗を繰り返すシンを見て、ライザーはそっけない態度でそう言う。言い方はぶっきらぼうではあるが、すぐに出来ないのは当然であり、焦る必要は無いことをライザーなりに伝えたいらしい。

 

「――そうだな」

 

 それが伝わったのか、シンは深く呼吸をして気分を落ち着ける。

 自分では分からなかったが、知らず知らずのうちに上手くいかない焦りで操作が雑になっていたのかもしれない。少なくともライザーからはその様に見られたのは間違いなかった。

 

「フェニックスも初めて炎を使うときは、誰もが苦労したのか?」

 

 気分転換の為にライザーに話を振る。

 

「はっ! そんなわけないだろうが。フェニックスは炎と風を司る悪魔だぞ? 炎を操ることなんて息を吸うよりも簡単だ。ただ――」

「ただ?」

「生まれ持った感覚だけではいずれ限界を迎える。炎が何故燃えるのか、風が何故逆巻くのか、それを知り、学ぶことで初めて限界の先を行ける。まあ、俺はそっちの方もすぐに憶えたがな」

 

 最後に自慢を加えたことを除けば、中々為になる話である。

 先天的な才能があってもそれを磨く努力をしなければ輝き発しないということであろう。

 

(俺も知る必要があるかもしれない)

 

 『魔人』というものが何なのかを知る。いつまでも避けられるものではない。いずれ知らなければならないことである。その手始めとして自分の体の詳細について知らなければならない。

 

(アザゼル先生辺りに頼めば調べてくれるかな?)

 

 そんなことを考えているとライザーが話し掛けてくる。

 

「もうそろそろ日が完全に落ちるが、お前らはどうするんだ?」

「いや、いつもこの森で野宿している」

「はあ? 野宿! 信じられん……」

 

 貴族として生きてきたライザーからしてみれば、この様な場所で寝泊まりしていること自体、想像の範囲外のことらしい。

 

「――まあいい。それで明日も朝から炎の訓練をするのか?」

「朝はセタンタさんと訓練している」

「お前、セタンタ様から直々に教えられているのか!? ……その訓練は何時までだ?」

「実戦形式だからどのタイミングで終わるかは分からない。取り敢えずまともに動けなくなるまではやる」

「……お前、よく今まで生きていたな」

「やっていれば慣れる」

「……そうか」

 

 シンの発言に信じ難いといった眼差しを向ける。

 

「なら適当に時間を見て来る」

「ああ――ん?」

 

 頷き掛けたがそこで止まる。

 

「明日も来るのか?」

「来ちゃ悪いのか?」

「そういうことではないが……」

 

 シンからしてみれば助言をしてそこで終わりと思っていたので、継続して教えに来るとは思っていなかった。

 

「何か別の予定とかは無いのか?」

「気にする必要はない。……色々あったせいで当分の間は、レーティングゲームに参加しないと主催者側に言ってしまったからな……とくにやることもねぇよ」

 

 若干卑屈な表情となる。やろうと思えばすぐにでも不参加の取り消しなど出来るのであろうが、いくら見た目は元に戻っても精神の方はまだ完全に戻ってはいないらしい。

 これ以上聞くのは傷を抉るだけだと思い、シンは素直に受け入れることにした。

 

「分かった」

「はっ。俺が来る前にくたばっているなよ?」

 

 憎まれ口を叩くと、ライザーは炎の翼を広げて飛び立っていく。

 

「また頼む。ライザー・フェニックス」

「またねー」

「またホー」

「さ~よ~な~ら~」

 

 ライザーが帰るのを見て、少し離れていた所で見学していたピクシーたちがシンの下にまで出て、空を飛んで行くライザーに向け手を振る。

 その声に気付きライザーは下を見下ろすと、返事はせずにふん、と鼻を鳴らして飛び去っていった。

 時同じくしてライザーが飛び去っていくのを眺めている者がいる。木の陰に身を潜めてシンたちを見守っていたセタンタである。

 ライザーがこの場所に来て、新たな力の使い方に悩むシンにその使い方を教えたのは意外であったが、セタンタからすれば嬉しい誤算であった。

 あの炎の扱い方に関してはセタンタが直々に教えるのも有りであった。武術に秀でているが魔術に関してもセタンタは相当な実力を持っている。だが、やはり扱える術に関しては偏りがある為、上手く教えられるか若干の不安があった。そこに炎に長けたライザーが来てくれたお陰でその不安も解消される。

 

「手札は多い方がいいですからね」

 

 新たに手に入れた力のことを考慮しながら、セタンタは今後の実戦訓練についてのやり方を考える。

 

 

 ◇

 

 

 シンたちの姿が完全に見えなくなると、ライザーは飛びながらポケットに入れていた手を出す。シンの炎に翳して以降、訓練中ずっとポケットの中に入っていた。

 握っていた拳を開く。すると掌の中央部分が赤く変色し、所々水泡が出来ていた。明らかに火傷である。

 

(まさか、不死鳥が火で火傷をするとはな)

 

 炎を支配する存在として在り得ないことであるが、その在り得ないことが目の前に傷という証拠として残っている。

 シンとの一戦で感じた異質な熱。それを改めて確認する為にシンの炎に触れたが、答えは目の前の通りである。

 不調とはいえフェニックスの炎を超え、更に再生を阻害する炎。ライザーにとってもフェニックス家にとっても未知の脅威である。

 だが、ライザーの胸に不思議と焦燥も恐れも無かった。代わりにあるのは燃え盛る様な強い対抗心。

 

(いいぜ。もっともっと強くなってみろ。こっちの予想を上回るぐらいに。だが覚えておけ。必ず俺はお前に勝つ!)

 

 いずれ起こるだろう雪辱戦を思い、ライザーは更に己を昂らせるのであった。

 

 

 ◇

 

 

「はあ……はあ……はあ……」

 

 俯き、額から目にかけて流れる汗を手の甲で拭う。全身の熱を冷ます為に全身にも汗が流れており、そのせいで衣服が体に張り付き不快感を覚えた。

 与えられていた特訓は既に熟していた。というよりも与えられていた内容の二倍以上の特訓を自主的にしており、とっくに必要量は超えていた。

 それ故に体は限界が近いことを訴えている。しかし、どんなに内容を熟していても消えることのないものが胸の中にあった。

 不安。焦燥。

 その二つがどんなに厳しい訓練をしていても消えない。寧ろ特訓をすればするほど強く感じる。

 特訓を終える度に、本当にこれだけでいいのか、という疑問が湧き、更なる特訓を行う。それが終わってもまた疑問が湧き、同じことを延々と繰り返す。

 疲労が溜まり、体が上手く動かなくなっていくことで見えてしまう今の自分の限界。もっと出来る、もっと出来る筈、と自分に言い聞かせ、見たくないものから目を逸らす。

 一分一秒たりとも無駄にしたくない。その焦りから俯いていた顔を上げ、更なる特訓をしようとしたとき――

 

「そこまでだ」

 

 後ろから肩を引っ張られて無理矢理止められた。

 振り向くとそこには眉間に皺を寄せ、険しい表情をしたアザゼルがいた。

 

「……アザ、ゼル先生」

「言いたいことは山程あるが、取り敢えず――」

 

 アザゼルが顔面目掛け腕を振るうのが見えた。殴られる、そう反射的に思ったが想像していた衝撃は無く、代わりに眼前に突き付けられたのはペットボトルを握るアザゼルの手であった。

 

「水分を摂れ。小猫」

 

 有無を言わさぬ態度に気圧され、小猫は突き出されたペットボトルを受け取る。触れた瞬間、痛みに近い冷たさを感じた。キャップを捻り、飲み口に唇を当てると中身を一口飲む。

 舌で感じ取れるほんのりとした甘さとしょっぱさ。市販されているスポーツドリンクに近い味であった。だがそれよりも強く感じたのは冷たさであった。

 熱が滞った体にするりと流れ落ちて染み渡る冷たさ。体の内側から冷えていく心地良さに飲むことが止まらなくなる。

 十秒も満たずに空になってしまうペットボトル。名残惜しさを感じながらも飲み口から唇を離す。

 小猫が渡された飲み物を一気に飲む姿を黙って見ていたアザゼルであったが、その表情は変わらず険しい。

 

「一人一人様子見に周っているが……お前、俺が与えた課題以上のトレーニングをしているな?」

 

 その言葉に小猫の動きが止まる。態度だけで図星を指されたのが分かる。

 

「勘違いしているようなら言っておくぞ。俺が与えたトレーニングは今のお前に最適と思って与えたものだ。指定した量を以下でも以上しても無意味だ。逆にお前の成長を阻害するだけだ」

 

 諭す様な言い方であったが、小猫は無表情のまま。心なしか苛立っている様にも見える。

 

「……私は、もっと強くならなきゃいけないんです」

 

 アザゼルに、というよりも自分に言い聞かせる様であった。

 

「……皆さんはどんどん強くなっています。特にイッセー先輩や間薙先輩は私以上に強くなっています。……ギャーくんも段々と神器を使いこなせる様になっています」

「焦る気持ちは分かる。他と比べるなというのも無理な話だ。だが、それでも俺は教える立場として言わせてもらう。これ以上のトレーニングは止めろ。結果の前に壊れるぞ」

 

 相手の気持ちを理解しながらも、それを敢えて無視し警告する。力の入っていない四肢。活力の無い目。全身から漂う濃い疲労の色。アザゼルの目には既に小猫が限界に近い疲労困憊の状態に見えていた。

 

「……嫌です」

 

 だが小猫は、アザゼルの警告を拒む。

 

「小猫――」

「私は!」

 

 語気を強めるアザゼルの言葉を遮る小猫の声。それは悲痛なものが含まれていた。

 

「……今の私は、きっと眷属の誰よりも弱いです。……きっといつかこの弱さのせいで部長にも迷惑を掛けてしまいます。……だから……だから」

 

 そこから先の言葉は言わず、小猫はアザゼルに一礼すると逃げる様に走り去っていく。

 小さくなっていく背中を見て、アザゼルは何か言いたげな顔をしていたが、やがて溜息を吐く。

 

「俺もまだまだだな……」

 

 自嘲する言葉を思わず呟く。

 無理をする小猫を止めるならばそれこそ簡単である。捕まえてベッドに鎖で縛り付けてしまえばいい。だが、それが根本的な解決にはならない。

 焦っているのは分かっていた。それ故に無理をする可能性も見えていた。だが、面と向かってそれを咎めるのが、想像していたよりも難しい。

 焦り、悲しみに濡れた目を向けられると言うべき言葉が喉で詰まってしまう。

 そもそも出会って間もない相手の言葉。それが小猫の心にすんなり届くとは思えない。それこそリアスでも連れて来なければ説得も難しいであろう。

 だがそれはそれでリスクもある。リアスの説得に耳を貸すのは間違いないであろうが、それによって拭い切れない罪悪感、劣等感を覚えてしまう可能性もあるし、今度は陰で見つからない様に過酷なトレーニングをする様になる危険もあった。

 こればかりは本人が考え方を変えなければ解決しない。

 取り敢えずはいつ小猫が倒れるか分からないので看視の目を強めることにする。

 

「年頃の子供を扱うのは本当に難しいもんだな」

 

 ヴァーリを頭に浮かべながら、アザゼルは若々しい容姿とは裏腹に年寄り染みた言葉を吐くのであった。

 

 

 ◇

 

 

 全身が重石を架せられた様に重い。体の至る所からひりつく痛みを感じたが、それをどうこうする程の力も出ない。

 セタンタとの実戦訓練が終わった時は、必ずと言っていい程この様なボロボロの状態となっていた。最初の頃は思考するのも億劫だったことを考えれば、自分の体のことに注意が払える程度は慣れた。

 仰向けになりながら荒い呼吸を徐々に規則正しいものへと変えていく。その間にピクシーが治癒魔法をかけて体の傷を治す。

 ピクシーの治癒魔法は、傷だけでなく多少ではあるが体力を回復させる効果も有り、疲労に満ちた体にはその多少の効果も有り難いものであった。

 

「相変わらずズタボロだな。セタンタ様とやり合ってその程度で済んでいると考えれば大したものなのかもしれないが」

 

 仰向けになっているシンを覗くのはライザー。この様な状況で似た様な台詞を聞くのはもう何度目となるか。

 

「……始めるか」

「どうせそんな体じゃ満足に動けはしないだろうが。ゆっくり立て。そして、とっとと回復しろ」

 

 立ち上がろうとするシンを制止しながらも、矛盾する様な急かす言葉を言ってライザーは近くの木に背を預け、こちらを待つ構えをする。

 ライザーから炎について助言を受けて数日。その日から毎日の様にライザーは、シンの訓練場に顔を出す様になった。

 ライザーはセタンタとの特訓が終わったと同時に顔を出す。最初のうちは偶然と思っていたが、どうやらセタンタとの特訓が終わるまでどこかで身を潜めて待っているらしい。

 セタンタとの特訓中にそれらしき視線を何度か感じ取っていた。

 一度、そのことをライザーに聞いてみると――

 

「俺は色々忙しいんだ! お前の特訓なんぞ最初から最後まで見ている暇は無い! 只の偶然に決まっているだろうが! 自惚れんな!」

 

 ――と凄まじい剣幕で捲し立てられた。

 セタンタの方も気付いているらしいが特に何も言わない。ライザーがこの訓練場に来ていることや特訓の手伝いにも何も言わず、シンにそれに関することを尋ねるのも無い。完全に黙認している状態であった。

 ゆっくりと時間を掛けてシンは立ち上がる。体の各部に異常が無いか確かめる為に首や肩、手首、足首を緩やかに回す。所々鈍い痛みを感じるものの大事に至る様なものではない。

 体に足りない酸素を補充するかの様に大きく長く息を吸い、同じ間隔で息を吐く。それを数度繰り返した後に、ライザーの方を見た。

 まだ疲労は残るものの何時までも休んでいる暇は無い。与えられている特訓の期間も半分は過ぎようとしている。

 

「早速やるか。ほら、さっさと炎を出せ」

 

 シンの左手に炎が灯る。魔力を糧にして燃え盛る炎が宿った左手を、適当な位置に生えている木に向けた。

 炎を維持したまま、火種となる魔力を移動させる。この時、シンが頭に思い描くのは一本の軸であった。左掌から対象に向かって伸びる真っ直ぐな軸。

 それを導火線として、イメージする軸に向けて魔力を注ぎ込む。炎が掌から目標の木に向かって一気に伸びる、が一メートル程伸びた所で一気に失速し、そのまま萎れる様に地面に当たり、生えている雑草を燃やした後に消えてしまう。

 届かなかったのを見て、シンは息を吐きながら左手の炎を消す。強く集中していたせいで額から汗が流れ落ちる。

 

「最初の頃に比べたら大分良くなったんじゃないか?」

 

 数日前まで左手を燃やす程度のことしか出来なかったが、今では僅かではあるが炎を伸ばすまで成長している。

 色々と助言していたライザーは目に見える形で成長するシンに嬉しそうに笑う――ことなどせず、逆に顔を顰めていた。

 

(腹立たしいぐらいに上達していきやがって)

 

 数日前までは碌に炎を操れなかった者が急速にモノにしている。その早さには複雑な感情を抱かずにはいられなかった。

 見せつけられるシンの成長に対し、ライザーは嫉妬すら覚えていた。

 だが、とライザーは湧き上がる感情を腹の奥底に押し込める。この仕舞い込んだ感情すらも糧にしなければ自分自身も成長出来ない。どんなに言い訳を並べようと、ライザーは既に一誠とシンに完敗した身。体の内側から焼け爛れそうな屈辱感を覚えるが、それを納得し、受け入れなければ前と何一つ変わらない。

 

(いいさ。どんどん俺に見せてみろ。お前の実力を。いずれその全部を超えてやる。勿論、赤龍帝もな)

 

 虎視眈々と雪辱を注ぐことを考えながら喉の奥で笑うライザー。シンやピクシーたちは、ころころと変わるライザーの表情を不審な眼差しで見ていた。

 シンらの視線に気付いたライザーは、不気味な笑いを引っ込め誤魔化す様に睨み返してくる。

 

「何だ?」

「いや、別に」

「ふん、余所見してないでさっさと再開しろ。……にしても」

 

 ライザーは頭上を見上げる。あるのは何十にも重なった木々と葉のみ。そのせいで日の光も殆ど入って来ない。

 

「ここは蒸し暑い上に薄暗いな。もう少し明るい場所はないのか?」

「枝の隙間が大きな場所があるが大分戻らないといけない」

「奥に同じような場所は無いのか?」

「さあ、どうだろうな」

 

 セタンタと特訓しながら徐々に森の奥へと入っているのは分かっていた。入口付近は油断する暇も無いほどの魔物たちが群れを成して襲撃して来たが、そこから先に進むとパタリとそれも止んだ。

 セタンタですら異常と思い森の調査をしていたが、シンが結果のほどを聞くと空振りであったと告げられた。

 直感的にこの森に何かがあるのは分かっているが、それが何かは全く分からない。

 

「もう少し奥に行ってみるか」

 

 そんなシンの考えをよそに、ライザーは躊躇することなく森の奥へと入って行ってしまう。

 

「おい」

「少し調べるだけだ」

 

 シンが咎めるが、ライザーは気にすることなくどんどん先へと進んで行く。

 相手が聞く耳を持たないことに溜息を吐くが、一人で行かす訳にもいかずライザーの後を追う。

 ライザーは、草木が生い茂る道無き道を、不機嫌そうに顔を顰めながらも掻き分けて進む。

 周囲に特に異常は無い。問題があるとすればせいぜい自前の赤いスーツに蜘蛛の巣がひっついてしまいそうになるぐらいである。

 ライザーは、蜘蛛の巣の下を潜る。特に気を張ることもなくこのまま先へと一歩踏み出した瞬間――

 

「ッ!」

 

 ――得体の知れない重圧が突如としてライザーへ圧し掛かった。何か目の前で変化が起きた訳では無い。危険な香りが漂ってきた訳でも無い。ただ本能が告げる。まるで触れてはいけないものに触れてしまったと、まるで起こしてはならないものを起こしてしまったようなと。

 変化を感じ取ったのはライザーだけではない。

 

「――ゆっくりでいい。そこからゆっくりこっちに戻ってきてくれ」

 

 シンもまた見えざる重圧を敏感に感じ、前にいるライザーに後退する様に言う。

 

「なになになに!」

「ヒホ! 体がぞわぞわするホー!」

「ヒ~ホ~。何かあれだね~。間違って悪霊の巣に入っちゃった時のことを思い出すね~。この感じ~」

 

 ピクシーたちもまた危険を感じ取り、怯える様にシンの側に寄る。

 すると今度は木々がざわめく。木の葉が擦れ合う音があちこちで聞こえてきた。見上げると枝葉の隙間から無数の翼を持った魔物たちが一斉に飛び立っていくのが見える。

 あれほど静かだったのにこれほどの数の魔物たちが身を潜めていたことに驚きつつ、それが何故か息を殺す様に隠れていたことに強い不安感を覚えた。

 

「――おい」

 

 声を掛けられ、シンは視線をライザーへと戻す。緊張しているのかライザーの声は少し掠れていた。

 

「来るぞ」

 

 

 ◇

 

 

 森の最奥。いつもの場所でソレはいつもの様に眠っていた。

 誰も侵すことの出来ないソレのみが許される安眠。

 何時もの様にそれが続くと思っていた。しかし――

 閉じていた目が開かれたかと思えば、ソレは勢い良く立ち上がる。

 ソレは離れた場所にいても感じ取っていた。誰かが自分の縄張りに足を踏み入れたことを。

 僅かに鼻を動かす。複数のニオイを感じ取った。一つは前に一度嗅いだことのある不思議なニオイ。他は最近森で騒いでいる者らのニオイ。その中で火と風のニオイがする者がどうやら縄張りに侵入したらしい。

 一番警戒している強者のニオイも感じたが、どういう訳か他の者たちよりも離れた場所から感じた。尤も例えその強者が居たとしてもソレは縄張りを侵した者を見逃すつもりはなかった。

 ニオイの下に向かって地を蹴る。一足で最高速へと達したソレは、木々の隙間を縫う様に、あるいは木の枝を踏み台にして木々の間を飛ぶ様に走りながらもその速度を保ち、緩めない。

 どんどんニオイが濃くなっていく。侵入者たちは、その場に止まったままである。

 間もなく侵入者たちを視界へと捉えることが出来る距離まで来た。目の前にそびえる大木。その向こう側に侵入者たちはいる。

 ソレは前足を大きく振り上げる。ここまで来たのならば迂回する必要も無い。大木が邪魔ならばどかすまで。

 大木に向かって前足を一閃。すると大木が大きな音と共に周りの木々を巻き込みながら倒れていく。

 阻むものはなくなった。切り倒された木の向こうにこちらを見ている複数の存在を確認する。

 切り倒した大木の株に飛び乗り、最も近くにいた人物目掛け再び前足を振り上げた。

 

 

 ◇

 

 

 人が数人いなければ囲えない程の大木が目の前で倒れていく。本来ならばこの光景に目を奪われていたであろうが、今のシンたちにとってそれは些細なことであった。

 切り倒された木の株に何かが乗る。その何かは一瞬こちらの人数を確認する様に一瞥すると、近距離にいたライザーへと飛び掛かった。

 間近に現れたソレは前足を振り上げながらライザーへ襲い掛かる。

 回避。反撃という選択は最初から抜け落ちていた。咄嗟の判断か、あるいは相手の気に呑まれてしまった為かは分からないが、このときのライザーは避けることしか考えていなかった。

 横へ飛び退くかあるいは後方に下がるか、何千分の一秒にも満たない時間の中で思考を動かし、相手が動きの大きい振りをしているのを見て、避けるついでに後ろにいるシンたちに合流しようと考えて、後方に下がろうとした。

 

(――何?)

 

 だが何故かライザーの意思に反して体が横へと飛ぶ。思考と嚙み合わない体の動きにライザーは戸惑うが、その戸惑いもすぐに消える。

 空振る大振りの一撃。すると爪先から放たれた三爪の軌跡。虚空を斬り裂くだけでは飽き足らず、触れていない筈の地面を大きく斬り裂き、大地に深々と爪痕を残す。

 避けたライザーは、その光景を見て心臓が大きく鼓動したのを感じた。刻まれた爪痕はシンたちがいる場所近くにまで伸びており、もし仮にライザーが横ではなく後ろへと下がっていたら、間違いなく自分の身が爪痕の数だけ分断されていたのが分かる。

 思考ではなく直感が働いて選んだ選択が、ライザーによって最良の選択となった。

 素早く立ち上がったライザーは襲撃者の姿を見る。シンたちもまたその姿をはっきりと捉えた。

 全身から生やした真白な体毛。光が当たる角度によっては銀色にも見える。首周りを覆う豊かな鬣から一見獅子に見えるが、長く伸びた口吻は大型犬あるいは狼によく似ていた。

 体格は軽く見ても二メートル以上。口を開ければ人の頭など軽々と噛み砕ける程の体格差があった。その大柄な体格を支える四本の足はどれも太く、指先からは黒々とした爪を生やしていた。あの斬撃を放てるのも納得してしまうほどに鋭く、禍々しい。

 臀部というよりも背中の半ば辺りから尾を生やしており、体毛が無い代わりに鱗を縦に連ねた独特な尾であった。

 

「グルルル……」

 

 魔物は、喉から低い唸り声を出してシンたちを威嚇する。全身から凄まじい殺気を放っている。下手に動けば真っ先に狙われるのが分かっているので、ピクシーたちも蒼い顔をしたまま動くに動けなかった。

 シンもまた微動だにしていなかったが、ピクシーたちとは理由が違った。度々起こる既視感によって彼は動けなかったのだ。

 見たことが無い筈なのに見たことがある。何度も経験してきたそれが今も起こっていた。

 この魔物を見た時、ある言葉がシンの頭に過っていた。しかし、その言葉と目の前のこれとはあまりにかけ離れていると言ってよかった。だが以前、それと会ったとき何一つ間違っていないそれを見た時に違和感を覚えたのを記憶している。

 何一つ合っていない筈なのにその言葉と目の前の魔物とが不思議と結び付き、すんなりと受け入れられる。

 

「何だこいつは……」

「グルルル……オレハコイツデハナイ」

「喋れるのか!」

 

 魔物から思わぬ返事が来たことにライザーは驚く。シンもこの森で様々な魔物たちと戦ってきたが、喋る魔物は初めてであった。

 

「喋ることは、まあいい。一応話が通じるということだな? おい、何でいきなり襲ってきた?」

 

 驚きもすぐに消え、ライザーは突然襲ってきた魔物にその訳を問う。

 

「コノ森ハオレノ縄張リ。他ノ奴ラニ恵ンダ場所マデナラ許ス。ダガココカラ先ハ、オレノモノ。入ッテキタオ前ラ、許サナイ!」

「チッ! 多少知恵はあるが、結局は考えることはそこらの魔物並みか、こいつは!」

 

 至って単純な理由で襲われたことに、腹立たしい気持ちを吐き捨てる。

 

「グルルル! コイツト呼ブナ! オレノナハ――」

「――ケルベロス」

 

 魔物が言うよりも先にシンが、頭に浮かんでいた言葉を囁く様に漏らす。

 

「は?」

 

 シンが言っていることが一瞬理解できなかったのか、ライザーは気が抜けた声を出す。

 

「いきなり何を言い出しているんだ、お前は?」

 

 至極尤もなライザーの疑問に対し、シンは自分でもよく理解していないのか、やや躊躇いがちに口を開いた。

 

「――何となく思ったことを言っただけだ」

 

 自分でも唐突で突拍子も無いことを言ったのは自覚している。だが、それでも何故か口に出さずにはいられなかった。

 

「呆けたか? こんな時に……」

 

 理解出来ないといった態度を見せるライザー。しかし、シンの言葉を聞いてからピクリとも動かなくなった魔物の姿を見て、不審そうに眉を顰めた。

 

「……何故ワカッタ?」

「なに?」

「何故、オレガケルベロスダトワカッタ?」

 

 驚き、そして同等の警戒心を込めながら、魔物ことケルベロスはシンに問う。

 

「……ただそんな気がしただけだ」

「理由ニナッテイナイ」

 

 尋ねられたとしてもそう言うしかない。根拠など無かった。ただそう思ったから言っただけである。全くイメージと違う目の前の魔物を何故ケルベロスと言ったのか、自分でも知りたいぐらいであった。

 

「待て待て待て待て!」

 

 すんなりと自分をケルベロスと認めた魔物に対し、それを認められずライザーが口を挟む。

 

「お前のどこがケルベロスだ!」

「オレガケルベロスト言ッタラケルベロスナンダ!」

 

 否定するライザーにケルベロスは犬歯を剥き出しにしながら応じる。

 

「体毛の色が違う!」

「生マレツキダ」

「尻尾が蛇じゃない!」

「アンナヒョロヒョロシタ生キ物ナンテ邪魔ナダケダ」

「そもそも根本的な所から違う。お前、頭が一つしかないだろうが」

 

 その言葉を発した瞬間、ケルベロスは目を細める。誰も判別出来ないぐらい微妙なものであったが、これから巻き起こるであろう嵐の為の静かな変化であった。

 

「三つ首はケルベロスにとって当たり前だろうが。残りの二つはどうした? 何処で首を無くし――?」

 

 そこまで言い掛けてライザーは黙る。黙らざるを得なかった。

 ケルベロスが全身の毛を逆立てながら凄まじいまでの怒気を露わにしている。さっきまでの外敵を払う為の気とは全く違う。業火を彷彿とさせる様な激しい怒りに、ライザーは自然と口を閉じるしかなかった。

 

「オマエモ呼ブカ……」

 

 前足を上げたかと思えば、それを地面に叩き付ける。地面が沈み、衝撃が伝わった周囲の木々から一斉に木の葉が落ちていく。

 

「オレノコトヲ『クビナシ』ト呼ブカッ!」

 

 咆哮と共に、宙を舞っていた木の葉が全て吹き飛ぶ。

 

「――言ってはいけないことを言ったみたいだな。ライザー・フェニックス」

「俺は、あくまで常識を言っただけだ!」

 

 尤もシンもケルベロスがここまで激怒するとは思わなかった。あまり話が通じない相手ではあったが、今は完全に話の通じない状態となっている。

 

「オマエラモオレト同ジニシテヤル!」

 

 ケルベロスの四肢に力が込められ、爪が地面に食い込んでいくかと思えば、込められた力は瞬時に爆発し、その場から跳躍した。

 狙いをライザーに定め、前脚を振り上げながら飛び掛かる。接近してくるケルベロスの速さにライザーの反応は僅かに遅れ、避けようとしていた時には既にケルベロスは前脚を振り下ろそうとしていた。

 

「舐めるな!」

 

 避けきれないと判断したライザーは、ケルベロスの前脚が振り下ろされるよりも先に指先をケルベロスへと向けるとそこから炎弾を数発放ち、ケルベロスの顔面を炎で覆い尽す。

 しかし、ケルベロスの動きはそれでも止まらず、横振りの爪が宣言通りライザーの首を狙って振るわれた。だが、炎で視界を奪われているせいか振りに最初のときの様なキレが無く、ライザーは仰け反る様にして回避すると、炎の翼をはためかせながら後方に飛び、追撃の炎を放って、ケルベロスを火達磨にする。

 

「くそっ!」

 

 シンの近くに降り立つライザー。その顔は苛立ちから歪んでいた。

 首筋を手で押さえており、そこから血の代わりに炎が洩れている。直撃は避けたものの僅かに掠っていた。

 押さえていた手を離すと傷口を埋める様に炎が吹いていたが、その状態が続くだけで一向に傷が塞がる様子は無い。今のライザーの治癒能力ではここまでが限界らしい。

 ライザーの状態が気になりつつも、シンはケルベロスから意識を逸らすことが出来なかった。

 不死鳥の炎で全身を焼かれるという時点で、通常ならば決着が付いてもおかしくない。しかし、燃え盛る炎の中で崩れることなく立つケルベロスの姿を見ていると不安が拭えない。炎を放ったライザーもシンと同じ心境らしく、燃えるケルベロスを睨むように見ている。

 そんなことを思っているとケルベロスに動きがあった。炎の中で体を左右に激しく振る。すると纏っていた炎が四方に飛び散っていく。

 まるで水を振るい落とす様な動きで炎を取り除くケルベロス。銀の体毛には焦げ跡一つ無く、無傷の状態であった。

 

「俺の、フェニックスの業火を受けて無傷だと……」

 

 龍の鱗すら焼くことが出来る炎を浴びて無事でいるケルベロスに対し、ライザーは信じられないといった様子で目を見開く。それと同時に、やはり目の前の魔物はケルベロスではないと確信する。只のケルベロスであったのならば、フェニックスの炎に耐えられる筈が無いのだ。

 

「温イ」

 

 ライザーの額に青筋が浮き出る。その一言は、プライドを大きく傷付けるものであった。

 ケルベロスが大きく口を開く。それを見て、何をするのか察したシンたちは急いでその場から離れる。

 直後、予想した通りケルベロスの口から炎が吐かれた。直線状に放たれた炎はシンたちが立っていた場所を通り過ぎてその先にある木に当たると、呑み尽くす様に炎で包み込む。

 湿気を帯びた森の空気を一瞬にして乾燥させる程の熱量。当たれば即灰と化すのが想像出来た。

 炎によってシンとライザーを分断させたケルベロスは、今度はシンに狙いを変え、一直線に駆けてきた。

 振り上げられる前脚。しかし、その動きを読んでいたシンは振り下ろすよりも先にケルベロスの側面へと回り、無防備となっている胴体目掛けて拳を打ち込む。

 

(むっ)

「グッ!」

 

 全力で放った拳の威力にケルベロスの口から小さな呻き声が洩れる。だが、すぐにそこから飛び退き、追撃出来ない様に距離をとる。

 

(この感触……)

 

 拳に伝わってきた感触から、ケルベロスへ大したダメージを与えられていないことが分かった。まるで針金の束でも殴ったかの様な感触。硬いが弾力があり、剛柔が合わさっているケルベロスの体毛に阻まれ、芯まで届いていない。

 炎への耐性は厄介であるが、打撃への耐性まであるとなると、戦いが更に困難なものとなる。

 よろけるケルベロスであったが、すぐに地面を足で蹴り付けて体勢を建て直し、その流れに沿う様にして再びシンへと爪を振るう。

 振るわれるケルベロスの大きな足。爪先が掠ればそこから全ての皮が剥がされてしまいそうに思えた。

 だが殺気という重圧をその身に受けながらもシンは逃げずにその場に止まり、足の下から根が張る様なイメージをしながら地面を踏み付け、奥歯を噛み締めると迫る爪に拳を繰り出す。

 拳はケルベロスの足の中央、肉球にあたる部分へと直撃する。

 力と力の衝突。肩が外れるかと思える様な衝撃が右腕に走るが、それでも力を緩めない。

 ケルベロスの爪撃を力で押えたシンであったが、すぐさまそこにもう一方の足から凶爪が迫っていた。

 シンは、爪が届くよりも先に足首の部分に手の甲を叩き付け動きを止める。両方から掛かる圧力に、肉と骨がか細い悲鳴を上げる。

 

「オマエ、丸カジリ」

 

 両腕で押えられて動けない状態のシンにケルベロスは口を大きく開き、頭部を言った通りに丸齧りにしようとする。

 そんな場合ではないとは思いつつも、以前別のケルベロスと戦った時も喰われかけたことを思い出し、変な縁を感じてしまう。が、シンの心情を相手が考慮することなどなく、綺麗に並んだ牙はすぐそこまで迫っていた。

 牙が届く直前、シンは可能な限り頭を前に倒し、ケルベロスの胸元に頭を押し付ける様な格好となる。

 ケルベロスの牙が狙いを外され、ガチンと牙が打ち合う音が頭上で聞こえたのと同時に、上半身をバネ仕掛けの様に跳ね上げ、後頭部をケルベロスの下顎へ叩き付けた。

 

「ウッ!」

 

 流石に顎への打撃は効いたのか、先程よりも強い声でケルベロスが呻くのが聞こえた。

 シンはそのまま後頭部を顎に押し当て、口を開けない様にする。ケルベロスはそれを嫌がり、押し付けている両足に力を込めて押しのけようとしたり、全身を震わせて逃れようとするが、シンは密着したまま動かない。

 

「そっちばかりに気を捉えられてんじゃねぇよ」

 

 耳に届くライザーの声。意識をそちらへと向けようとしたときには既に遅かった。

 炎の翼を羽ばたかせて加速したライザーが、両足を揃えてケルベロスの横顔を蹴り飛ばす。

 無防備状態からの突然の一撃。ケルベロスの大きな体が真横に吹き飛び、地面に接するとそこから数度転がっていく。

 

「余所見しているからだ」

「助かった」

 

 礼を言うシンであったが、ライザーの方は苦虫を噛み潰したような表情でシンを見ていた。

 

「白々しい。こうなることは想定済みだったんだろうが」

「――まあ、二対一みたいなものだからな」

 

 最良とは分かっていても相手の思う様に動かされたことが、ライザーのプライドに障った様子であった。

 

「……もし、俺がお前の予想通りに動かなかったらどうするつもりだったんだ?」

「大丈夫だろう。お前は弱くないしな。ライザー・フェニックス」

 

 そこでライザーは舌打ちをした。いつかは打倒すべき相手だと分かっている。その相手が自分の実力を買っている。上から目線かと反発したい気持ちがあると同時に妙な嬉しさも覚えてしまう。それを悟らせない為にわざと不機嫌な表情を浮かべる。

 

「――上級悪魔である俺に当たり前のことを言うんじゃない。あと一々俺の名をフルネームで呼ぶな。……ライザーだけでいい」

「そうか、分かった。力を貸してもらうぞ、ライザー」

「お前が俺に力を貸すんだよ、シン」

 

 改めて共闘することを確認する様に互いの名を呼ぶと、二人はケルベロスとの距離を詰めていく。

 

「このまま一気に攻める」

「殴る蹴るなんて野蛮な戦い方は趣味じゃないんだがな」

 

 炎が効かないのは分かっているが、素手で戦わなければならないことに不満があるらしく愚痴を溢す。

 

「代わりに突くか、啄んでみるか?」

「お前、フェニックスのことを馬鹿にしているだろ?」

 

 戦いの最中であるが軽口を言い合う。

 

「グゥゥゥ……」

 

 頭を左右に振りながらケルベロスは立ち上がろうとする。不意打ちであったせいでそれなりのダメージを負ったが、それよりも地べたを舐めさせられることとなった屈辱の方が強く、更なる怒りが湧き、負わされた痛みもそれによって気にならなくなる。

 

「アオォォォ……オン?」

 

 立ち上がってすぐに怒りの咆哮を上げようとしていたケルベロスであったが、それも途中で困惑の声へと変わった。

 自分の間合いに立つ二人の姿。二人は少し距離を置いてケルベロスの左右に立っていた。

 この森を縄張りにする為、何十もの魔物を仕留めてきた。ケルベロスの力を見ると決まって魔物たちは距離を取り、接近することを避けた。命の取り合いをするということは、臆病とも呼べる慎重さが必要である。だというのに少し前脚を伸ばせば簡単に届く距離に平然と立つその命知らずな姿にケルベロスは純粋に驚いた。

 

「――ナゼ、オレノマエニ立ツ?」

「この位置でなければ手が届かない――怖いか?」

 

 シンの言葉にケルベロスは体の血が沸騰しそうな程の怒りを覚えた。自分が相手に臆する理由など何一つ無い。見下されたと判断したケルベロスは、咆哮を上げて爪を振るおうとする。

 この行為自体、図星を指されムキになって否定している様にしか見えないものであった。

 冷静さを欠いた衝動的行動。もし『一人』であったのならば重圧のある攻撃に見えたのかもしれない。しかし、それを『二人』で見ればただの隙のある行動でしかなかった。

 爪を振るおうとした直前、ケルベロスの側頭部に衝撃が走る。脳を揺らす程のものではなかったが、それでも無視できるものでもない。

 目だけを向けると肘部分から炎を噴き出していたライザーが軽く手を振っていた。

 

「見た目以上に硬いな、こいつ」

 

 ライザーに殴られたと理解した瞬間、今度は脇腹から内臓に向かって突き抜けていく衝撃と痛み。

 ほんの僅かの間意識を逸らされた時を狙われ、今度はシンによって胴を殴打されていた。

 偶然か意図してか、丁度骨と骨の隙間に拳が叩き付けられていた。

 大概の物理的攻撃に耐えられる自慢の体毛であったが、シンの攻撃もライザーの攻撃も予想以上に重く、痛みを味わうのはケルベロスがこの森を縄張りにしてから久しい。

 

「グウッ!」

 

 呻きながらケルベロスはシンの頭部目掛けて爪を振り下ろす。少しでも掠れば相手の動きを鈍らせることが出来る。

 だが、それを感知しケルベロスの斜め後ろへと避けつつも素早く移動すると、ケルベロスの後足を蹴り付ける。

 蹴られた足から力が抜け、ケルベロスの身体がガクンと沈む。その瞬間、炎を噴出させたことで急加速したライザーの足がケルベロスの腹部を蹴り上げる。

 再び呻くケルベロス。反撃する度に別方向からの攻撃が飛んできて、それに意識が割かれるとまた別方向からの攻撃が来る。

 前足を振るう。すると側頭部を殴られ、左後足に蹴りを受ける。炎を吐こうとする。次の時に顎を真横から殴打され、背中に肘が下された。

 最初は反撃していたケルベロスであったが、二人の連携によってその機会を奪われていき防戦状態となる。

 一方攻め続けているシンたちであったが、決して余裕とは言えない状況であった。一撃一撃が鋭く、重いケルベロスの攻撃を回避するのは相当精神を削るものであること。既に百以上の攻撃を繰り出しているが、まだケルベロスが倒れる気配が無い。

 僅かでも攻撃の手を緩めれば手痛い反撃が来るのが分かっているので、両者とも全力で攻めの状態を維持しなければならなかった。

 精神と肉体を消耗する戦い方に、二人からは尋常ではない量の汗が流れている。そもそもシンはセタンタとの特訓終わりで疲労が抜け切れていない。ライザーは長い間引き篭もっていたせいで体力が落ちている。どちらも限界の底が浅い状態であった。そこへ蓄積していく疲労。やがてそれはこの連携に綻びを生じさせる。

 守りに入っていたケルベロスが、咆哮を上げてシンに飛び掛かろうとする。その隙を狙うライザーであったが、突如横に向かって吹き飛んだ。

 吹き飛んだ原因は、ケルベロスの太く長い尾による一撃である。シンに攻撃すると見せかけておいて、実はライザーの方が本命であった。

 万全の状態ならば避けることが出来たであろうが、疲れによりやや集中力が欠け始めていたライザーは気付くのが遅れ、まともに受けてしまっていた。

 この時、シンは吹き飛ばされたライザーの姿をほんの僅かの間目で追ってしまっていた。これによりケルベロスの攻撃への初動が遅れてしまう。

 地を蹴り、飛び込んできたケルベロス。咄嗟に腕を交差して防御するが、頭から衝突してきたケルベロスの重量によって軽々と飛ばされる。

 背中から木の幹にぶつかり、その際の衝撃で呼吸が止まりそうになるが、口を開いているケルベロスの姿を見た途端、痛みのことなど忘れどう動くか考えることだけに思考が動く。

 だが相手も猶予など与える訳も無く、すぐにケルベロスの口から炎が吐かれる。

 一人など容易く包み込むことが出来る巨大な炎。逃げる時間など無い。ならばどうするべきか。

 このときシンがとった行動は、炎に向かって左手を突き出すというものであった。

 やけになった訳では無い。シンは頭の中でライザーから教えてもらったことを思い出していた。

 魔力による炎は、魔力を糧にして燃える。ケルベロスの炎がここまで届くというのは即ち既にケルベロスの魔力がシンに届いているということである。

 仮にもしその魔力に狂いが生じたのならば? 頭に浮かんだ疑問をこれから証明する。

 炎に突き立てた左腕に炎を灯らせる。そして同時に左手からいつも思い浮かべている魔力による『軸』を伸ばす。

 ケルベロスの炎を敢えて自分の魔力に引火させ、自分の炎とケルベロスの炎を同調させると、左腕を力の限り振るう。すると、左腕に燃え移っていたケルベロスの炎は左腕の動きに合わせて動き、シンから狙いを外れて腕の振るった先にあった木に直撃した。

 

「バカナ!」

 

 自分の炎が操られたことにショックを覚えるケルベロス。その隙を見逃さない男がいた。

 

「土壇場で魅せる様なことをしやがって……腹が立つ!」

 

 苛立つライザーの声の方に目を向けるが、ライザーの姿は無い。

 

「こっちだ、犬っころ」

 

 再び声が聞こえる。聞こえた方向はケルベロスの頭上。

 炎の翼で風を操りながら錐揉みしているライザー。それを見て構えようとするケルベロスであったが――

 

「こっちだ」

 

 ――別方向からのシンの声。無視出来ずにそちらを見るがシンの姿は無い。何故ならば既にシンは、地面すれすれまで身を低くした体勢でケルベロスの顎下まで接近していたのだ。

 ケルベロスがそれに気付いた時には既に遅い。地面から伸びる様にして立ち上がりながらケルベロスの顎を拳で突き上げる。それと同時に錐揉みして勢いをつけたライザーの踵がケルベロスの脳天に直撃。

 下と上。両方から来る衝撃はケルベロスの頭の中心で激しくぶつかり合い、脳を揺さぶる。

 

「グ、ウウ……」

 

 ケルベロスは短く呻くと白目を剥いて崩れ落ち、気絶して横倒れとなる。

 動かなくなったのを見て、二人は同時に息を吐く。

 

「……コイツはどうするんだ?」

「……取り敢えず動けない様にしてから、その後に考える。……正直、今はあまり何かを考えたくない」

「……それには同意してやる」

 

 疲労によって二人が同時に座り込んだのを見て、避難していたピクシーたちは慌てて駆け寄るのであった。

 

 

 ◇

 

 

「うーむ……」

 

 ソーナによる地獄の特訓を終えた匙は、一人部屋の中で唸りながら考えていた。腕には顕現させた『黒い龍脈』。それを難しい顔をしながら眺めている。

 あの時マダに『どうすれば赤龍帝を倒せる様になるか』と聞いた際、返って来た答えは『今以上に神器と心を通わせ、ヴリトラを味方にしろ』というものであった。

 具体的な方法などは言わず勝てる可能性を上げただけであったが、その日以降匙は自分の神器と心を通じさせる方法を悩んでいた。

 最初に思い付いたことといえば神器をとことん使い続け、扱いを上達させるというもの。これはソーナの特訓の中で自然と高まってきた。だが、使いこなす技術が上達していくだけでいまいち心が通っているという感覚は無い。神器の表面だけで止まっている感じで奥まで届いてはいない。

 次に考えたのは神器に話しかけること。朝、神器におはようと挨拶し、今日の予定を話し、神器を上手く扱えたなら褒め、撫でる。夜にはその日の出来事を振り返りながら話し、おやすみの挨拶をする。

 次にやったのは神器を磨く。休憩時間に延々と神器を磨き続けた。

 その次にやったのは写生。画用紙に自分の神器を模写する。

 その次の次にやったのは秘密の共有。誰にも言えない匙だけの秘密をこっそりと自分の神器に打ち明けた。

 その次の次の次にやったのは歌と踊り。自分の神器の名を歌にし、神器を表現する踊りをひたすらやってみた。

 その他にも色々な方法を試してみたが効果は出ず、それどころか他の生徒会メンバーから『最近のサジは奇行が目立つ』と心配される様になっていた。

 今日も何らかの方法で神器と心を通わす方法を試してみなければならない。一体何をしようかと悩んだ挙句――取り敢えず舐めてみた。

 『黒い龍脈』の黒い本体を匙の舌が這う。丁寧に、そして優しく時には激しく、隅から隅まで余すことなく――

 

「……何をやっているんだ? 元士郎」

「はっ!」

 

 声を掛けられ慌てて振り向くと、『戦車』の由良が得体の知れないものを見る様な眼差しで匙を見ていた。

 

「最近独りでぶつぶつ呟いていたり、妙な動きをしているのは知っていたが……まさかここまでとは……会長の特訓が厳し過ぎたせいなのか……?」

 

 完全に頭がおかしくなったと思われたらしい。

 

「違う! 誤解だ!」

 

 このままではレーティングゲームよりも先に病院に入れられそうだったので、匙はこれまでの奇行の理由を説明する。説明を聞き終えた由良は呆れた様子であった。

 

「それならそうと最初に言え。傍から見たら頭が病んだ様にしか見えなかったぞ?」

「まあ、何というか……」

 

 理由を口籠る匙に由良は微笑を浮かべる。

 

「男のプライドというやつか? 分からないでもないが」

 

 理由を話せばソーナたちは力を貸してくれるに違いない。だが匙としては己に宿る力を己自身で極めたかった。そんな匙の考えを敏感に悟った由良は背を向け部屋を出ようとする。

 

「このことは私たちだけの秘密にしておこう。本番で会長たちの度肝を抜いてみせてくれ」

「由良……恩に着る」

 

 男前と言える様な笑みを残し、由良は部屋から去ろうとする。匙も再び神器と心を通わすのを試みようとしたとき――

 

「くしゅん」

 

 ――背後から可愛らしいくしゃみが聞こえた。振り向くと由良が口と鼻を手で押え、少し顔を赤くしている。

 

「聞き苦しいものを聞かせたね」

「可愛いくしゃみだったと思うけどな」

 

 美少年と呼んでも差し支えない容姿の由良から少女らしい声が出て来た。そのギャップで素直にそう感じてしまう。

 

「まあ、私も女だからね。こういう一面もあるということさ。では、おやすみ」

 

 少し照れた表情を浮かべながら由良は足早に部屋から退出していく。

 

(珍しいものを見たな……)

 

 そんなことを考えながら再び神器と向き合う作業に集中する匙。このとき意識を目の前の神器に集中させている匙には気付かなかった。

 由良が歩いていった方角から数度咳き込む音がしたことに。

 

 




怪盗団に時間を盗られていて遅くなりました。
次はもう少し早く投稿出来ると思います。

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