「無茶をしたわね」
それが、ドーナシークとの戦いの後、リアスから最初に言われた言葉であった。
そして、その言葉を見下ろされる形で、今度は安堵と心配を含んだ声で再び言われる。
今、シンがいる場所は、シンの自宅であり、現在シンは寝間着に着替えて自分の部屋のベッドで横になっている。その額には熱を冷ます為の冷却シートが貼ってあった。
ドーナシークとの戦いの後、リアスに連絡を取ると、すぐさま転送用の魔法陣でシンの居た公園に現れ、それを使って部室まで転送し、そこからシンの希望で自宅まで送ってもらっていた。
リアス、そして部室に寄った際、たまたま朱乃も居たので、シンの身を案じて自宅まで付き添うと言われたが、異性を自宅に招き入れるのに抵抗感と気恥ずかしさを覚え、付き添われるのを少々渋るシンであったが、
「そんなこと考えている場合じゃないでしょう!」
というリアスの至極真っ当な一喝により、首を縦に振らざるをえなかった。
自宅に転送され、玄関を潜ったとき、家にたどり着いたという安心感により今まで意識の奥底に閉じ込めていたものが一気に噴き出したのか、体が鉛にでもなったかのような疲労感と、体が無意識に震えるほどの寒気がシンを襲う。
玄関を上がるとき掛けてある鏡に自分の姿が映る。そこには血の気が失せ、見たことの無い顔色をした自分がいた。
血や穴が開いた制服を脱ぎ、なかなか言う事を聞かない体を無理に動かして着替えると、リアスたちに支えられる形で、二階にある自分の部屋にまで移動する。シンの部屋は、シンの性格を表すかの様に、強い個性を感じないごく一般的なものであった。勉強用の机にテレビ、パソコンに本棚、特徴のないことこそが特徴と言える模様であった。
そして、シンはその部屋に置かれたベッドの上に崩れるように倒れこんだ。
横たわるシンを心配して、ピクシーは少しでもシンの苦痛を和らげようと、左脇腹に出来ている傷に、右太腿の時と同様に光を注ぎ込む。既に右太腿の傷の出血は止まっているが、脇腹の方の傷は不完全であり、一度部室に寄ったときに応急処置として包帯を巻いた程度の治療しかしておらず、巻いた包帯には血が滲んでいた。
傷の痛みが和らいでいく中、ピクシーの治癒の力にリアスたちは感心した様子を見せる。どうやらピクシーの能力は、リアスたちにとっても未知数のものであるらしい。しかし、傷は回復していくものの体調は回復の兆しを見せない。寒気は収まらず、だんだんと風邪のときのように体が熱を帯びてきた。
「堕天使に受けた光がだいぶ体内に残っているのね」
シンの症状を見て、リアスはそう判断した。
悪魔にとって『光は毒』。それは、一誠と共にリアスから聞かされたことであった。天使や堕天使の使う光によって悪魔が傷を負えば、治癒の阻害を受けたりなどの悪影響を及ぼす。シンは悪魔として中途半端な存在故に光に対して過敏な反応が起きず、ピクシーの治癒の効果を受けられたが、それでもやはり悪魔として影響が及ぶ部分もあったらしく、今の様に風邪に似た症状が起こっていた。
「その状態だと一、二日は安静にする必要があるわね」
「そうですか……すみません」
「何故、謝るの?」
「理由はどうあれ勝手に堕天使と戦った上に、こんな風に怪我で迷惑――」
そこでシンは言葉を止める。何故なら、シンの言葉を聞いていたリアスの顔に明らかな怒りが浮かんでいたからだ。
「シン」
「はい」
「あなたは、私がそれを理由に責めるような悪魔だと思っていたの?」
低く抑えられたリアスの声、それは静かな怒りに満ちていた。
「あなたは協力者という立場だけど、私は他のグレモリー眷属と同様にあなたを守る義務が有るわ。今回のことは私が招いた失態よ。あなたに咎はないわ」
リアスは確かに怒っていた。しかし、それはシンに対しての怒りではなく、今回の事態を未然に防げなかった自分に対しての怒りであった。
それを察したのか、シンは失言したと内心思った。必要以上に自らに責任があるように言い過ぎたため、返って相手を見くびっているような結果となってしまった。相手に責任を一切乗せず一人で背負い込むということは、逆に言えば、相手を信頼していないともとれる。
意図せず言った言葉が相手の傷口を抉るという結果に、どう言葉を返したらいいのか内心で考えてみるものの、いい言葉は浮かんでこない。必死に頭を回転させるシンに助け舟が出される。
「あらあら、部長。間薙くんは真面目だから私たちに心配を掛けたと思って、謝っているだけですから、あまりカッカしちゃダメですよ?」
落ち着いた朱乃の声が、張り詰めた空気を和らげる。
「ああ、そうですわ、間薙くん。お腹は減っていませんか? よろしければ台所と材料を使わせて頂ければ、何か作りますが?」
朱乃の言葉を聞いて、シンの体は素直に栄養を求める。体の不調は有るが、食欲までは不調ではない。
「お言葉に甘えていいですか?」
「うふふ。それじゃあ、さっそく作ってきますね」
朱乃が料理の支度をしに一階へと降りていく。
部屋に残されたのは、シンとリアス、そしてピクシー。
今更、先程の話を蒸し返す訳にもいかず、苦し紛れに何か適当な話題を考えてそれを口に出す。
「あの部――」
「あー……もう限界……」
シンの言葉を遮り、今まで黙々とシンの治療を続けていたピクシーが消え入りそうな声を出す。リアスとの会話ですっかりと忘れてしまっていた――正確に言えば、忘れてしまうほど痛みが消えた――脇腹の傷は、ピクシーの治癒の甲斐あって出血も止まっている。
「ごめん……あたし……疲れたから……寝る」
瞼を重たげにして、ピクシーはシンにそう告げると、シンの腹の上で横たわり、力を限界まで酷使したのかそのまま寝息を立てはじめた。
「小さな体で、頑張る子ね」
幾分和らいだリアスの声。
「ええ、こいつのおかげで今日は命拾いしましたから」
「ふふふ。でも、その子もあなたのおかげで助かったわけだし、お互い様じゃない?」
「そうなりますかね?」
「あなたたち、結構相性がいいのかもしれないわね」
リアスは慈愛に満ちた微笑みで、眠るピクシーの頭を優しく撫でる。いつもの凛とした表情とは違う一面を見たような気がして、珍しいものでも見るかのようにシンはまじまじとその顔を見る。
「どうしたの?」
「いえ、別になにも」
シンの視線に気付いてリアスが尋ねてくるが誤魔化す。普段のリアスから想像できない表情だったので珍しいから見ていました、と正直に口にするのは相手に対して失礼が過ぎる。
ここで会話が途切れた。理由としては、ピクシーを起こさない様に会話を控えたことが原因の一つであるが、根本的な理由はシンの会話能力であった。基本的には聞き手側であるシンには、今の空気でリアスとどのような会話をすればいいのか内容が思いつかない。先程話題にしようとした内容も冷静になって考えれば下らな過ぎる話題であった。
部屋に飾られた、時計の秒針が進む音がやけに大きく聞こえる。
(兵藤と木場が居ればな……)
この場に二人が居ないことが悔やまれる。
「おまたせしました」
沈黙を破る声。朱乃が、盆を持ってシンの部屋へと戻ってくる。盆の上には茶碗が一つ。
「とりあえず、軽く食べられるようにお粥をつくってきました」
シンは、眠るピクシーを起こさないようにそっと動かしてから、上体を起こし、朱乃から盆を受け取る。盆に置かれた茶碗の中には白い粥と、赤い梅干し。至ってシンプルなものであったが、シンはそれを見て、口の中に唾液が溜まっていくのを自覚する。
「いただきます」
茶碗と一緒に置かれていたスプーンを使い、煮られて柔らかくなった米を掬い、口の中へと入れる。口の中に入れたとき、最初に感じたのは熱さだった、だが、火傷するような熱さではなく、味を損なうようなぬるさも無い、適温という言葉がよく合う絶妙な熱さであった。次に感じたのは、粥の塩気であった。薄くも無く濃くも無く、熱さと同様に適量という言葉がこれほど相応しいものはない。一緒に入れられていた梅干しは、食べる人間のことを考えて種を抜いてあり、その梅干しからの酸味がシンの食欲を一層煽る。
シンは手を休めず、一心不乱に粥を体内へと流し込む。
数分後、手に持った茶碗を盆へと置く。その茶碗には米粒一つ残ってはいなかった。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「うふふ。お粗末様です」
美味しかった、そうとしか表現できないほど絶品の粥であった。学園内で大和撫子と称される朱乃であったが、ここまでの料理の腕を持っているのは、シンとしては尊敬の念を覚えずにはいられない。
空になった食器をシンから受け取ると、洗う為に朱乃は再び下の階へと降りていく。
「そう言えば、今日、あなたが着ていた制服は私たちの方で処分しておくわね」
シンが食事を終え、一息吐えたところを見計らってリアスは言う。リアスの言葉を聞いて、そのことを失念していたことにシンは気付いた。
今日のドーナシークとの戦いで、制服には大小二つの穴が開き、おまけにシンの血がかなり付いている。自分で洗って取れる量ではなく、下手に捨てるわけにもいかない。
「助かります」
「新しい制服は、明日には届けるから」
「お願いします」
返事をした後、シンは眠気を覚えた。今までの肉体的な疲労と、空腹が満たされたことで、シンの体は休眠を要求し始める。
「眠たそうね。安心して眠っていいわ。誰か護衛として――」
「それはダメです」
最後まで言い終わる前にハッキリとした声でリアスの提案を拒否した。
「迷惑を掛けた自覚はあります。ですけど、これ以上迷惑や足を引っ張るような真似はしたくありません。俺のせいで本来の仕事を疎かにさせたくありません」
シンは、リアスや他の面々が自分を護衛するのを迷惑とは考えないだろう、と内心思う。そこまで深い付き合いではないがオカルト研究部のメンバーは、変な話ではあるが善人的な悪魔だと思っている。だからこそ必要以上に甘える様なことをしたくなかった。一度その寛容さに慣れてしまえば、それ以降無様な自分を許してしまうような気がして。
我ながらつまらない拘りとプライドだと自覚し、そんな意地を張ること自体が迷惑であると、自らの考えの矛盾を理解しながらも拒否の態度を緩めない。
結局の所、シンという存在は不器用な人間であった。
リアスの碧眼の視線とシンの揺るがない視線が衝突し、再度部屋内に重い沈黙を作り上げ、その状態がしばらく続く。
「……はぁ……あなたって、イッセーに負けないくらい変わった子ね」
折れたのはリアスの方が先であった。シンの瞳から意志を変えさせるのが無理であると悟ったらしい。
「なら、代わりにこの子なら文句はないわね?」
リアスの手元から、軽い音と上げて真紅の蝙蝠が現れた。
「使い魔は主と特別な繋がりがあるから、あなたのように堕天使の結界内に囚われても情報を伝達することが出来るわ」
そう言い終えると手元にいた蝙蝠はリアスの手から飛び立ち、近くにあったカーテンレールに逆さまに止まってシンを見下ろす。
「私の使い魔をあなたに預けておくわ。これで緊急の場合もすぐに駆けつけられるわ」
「……ありがとうございます」
話が終わると共に瞼の重みが、秒数ごとに増していく。
「もういいわね? なら、早く寝なさい。学校のことは私がやっておくから」
「……はい……ありがとうございます……」
数十秒後、瞼は完全に閉じシンは寝息を立てはじめた。
リアスは、ピクシーと同様に眠るシンの頭をそっと撫でる。
「お疲れ様。いまはゆっくりと眠りなさい」
◇
「あ、起きた」
目覚めたシンの耳へ最初に入ってきたのは、ピクシーの声であった。
昨日に比べ、体の熱っぽさは既に無い。しかし、体のあちこちの筋肉は痛み、傷を負った場所も突っ張った感覚が残っている。それでも体を支障なく動かすことが出来るまでには回復をしていた。
寝起きでやや視点が定まらないが、声のする方へと目を向ける。
ピクシーが居たのはシンの机の上。そこで、リアスから預かった使い魔の蝙蝠の両頬を引っ張って遊んでいた。蝙蝠は頬を引っ張られてキーキーと鳴いている。
「そいつは、グレモリー部長から預かった奴だ。あまり苛めるな」
「ええー。でも、この子楽しんでるよ」
予想に反しあの鳴き声は抗議の声では無く、楽しんでいる声であるらしい。ピクシーのでまかせかと考えたが、蝙蝠からは抵抗する意思が見えないのであながち嘘ではないらしい。
そこでシンはいきなり片手で顔を覆い、天を仰いだ。ピクシーと蝙蝠とのやり取りを見ていて、眠りに就く前のリアスとの会話を唐突に思い出して羞恥心が込み上げきたからだ。いくら余裕の無い体調であったからといって、今思い起こせば自分の言っていたことは殆ど子供の我儘であった。
(他に言い方は無かったのか……)
相手に気を遣わせたことを考えれば考える程に羞恥心は増し、あの時の自分の行動、言葉全てに対して、恥と疑問を持ってしまう。
気を紛らわせる為、時計を見ると、ちょうど昼を過ぎていた。そう認識すると寝る前に食べていた粥をすでに消化し終わった胃が、新たな栄養を求めて、食欲を刺激してきた。
「――ピクシー、何か食べるか?」
「食べるー!」
蝙蝠から手を放し、シンの提案に即答をする。すると蝙蝠の方も鳴き声を上げ、何かを訴える。
「この子も何か食べたいんだって」
「分かった」
ベッドから降りたシンの肩にピクシーが乗る。ピクシーを乗せたまま食べるものを探しに、二階から一階のキッチンへと降りていく。蝙蝠はその跡を追い、飛んでついてくる。
一階のキッチンへと着くと、テーブルの上に一枚の紙が置いてあることに気付く。手に取ってみると、それは朱乃からの書き置きであった。
『間薙くんへ。起きたときにすぐに食べられるように、勝手ではありますが、何品か作っておきました。台所と材料を使わせていただいてありがとうございます。焦らず体の方を治して下さいね。朱乃より』
コンロの上に鍋が二つ置いてある。蓋を開けてみると、片方は味噌汁、もう片方は煮物であった。炊飯器を確認してみると、中には炊かれたご飯。冷蔵庫の中も調べて見ると、煮魚、御浸しなどがラップを掛けて置いてある。意識せずにシンは唾液を飲み込んだ。数品の料理を前に、空腹はより強くなっていく。
この気遣いを心の底から感謝しつつ、コンロや電子レンジをフル稼働させ、一秒でも早く料理を温めなおす。
数分後、温まった料理を皿に移す。ピクシーの分も皿へと移すが、それでもまだ結構な量であった為、夕飯の分は残しておく。炊飯器からご飯を茶碗へとよそい、テーブルの上へと置く。
途中、使い魔の蝙蝠には何を食べさそうと考えるが、蝙蝠は、自分から冷蔵庫まで飛んでいくと、中にある果物の缶詰を要求するように足で突く。リアスの使い魔だけなこともあって相手の考えに気付き、自分の考えを伝える程の知能があるようであった。
蝙蝠のリクエストに応え、シンは缶詰から果物を出すと適当な大きさに切り、皿へと盛ると、キーキーと喜んでいるような鳴き声を出して、果物に噛り付いた。
シンも目の前に置いてある料理を前にして、手を合わせる。
「いただきます」
これほどまで、気持ちを込めていうのは、いつ以来だろうと考えるが、最初に箸をつけた煮物を口に入れた瞬間、そんな考えは彼方へと消え去り、その後は機械の様にただひたすら箸を動かして料理を口へと運ぶ。
時間を忘れ、周りに一切気を配らず、ただ食す。空腹が満たされていく度に力も満ち、体中の細胞が蘇っていくかのような感覚を覚える。
数分後、目の前に置かれた食器は全て空になった。
「ごちそうさまでした」
手を合わせ、ここには居ない朱乃に対して感謝の念を送りながら食事を終えると、食器を流し台の中に一旦置いて、シンは台所から離れようとする。
「どこいくの?」
いまだ食事を続けているピクシーが尋ねてきた。
「風呂だ」
寝ている間に結構な量の汗をかいたのか、肌がべたついていた。シンはそれを不快に思い、洗い流す為に風呂場へと向かおうとしていた。
「一緒に入る?」
「一人で入る」
ピクシーの提案を一蹴し、シンは風呂場の方へと消えていった。
それから十数分後。
汗を湯で流し、新しい寝間着へと着替えたシンは、自分の部屋へと戻っていた。既にピクシーもシンの部屋に先に戻っており、使い魔の蝙蝠とじゃれあっている。
机の上に置かれた携帯電話を手に取り、履歴を確認すると、何通ものメールが送られていた。差出人たちは、オカルト研究部のメンバー全員から。
内容は共通して、シンの安否を気遣うものであったが、リアスは厳しくも優しさを感じさせる内容、朱乃は暖かさを感じさせる内容、木場は誠実さを感じさせる内容、小猫は簡素ながらもこちらへの心配を感じさせる内容、一誠は情の篤さを感じさせる内容、それぞれの性格が滲み出る文面であった。
メールのやりとりなど、両親か偶に木場とするくらいなものであった為、こうも送られてくると胸に来るものを感じる。
(返信をどうしようか……)
シンはベッドの上で寝そべり、返信の内容を思考する。頻繁にメールをする習慣が無い為、こういうときに限って良い文面が浮かばない。
「なんか嬉しそうだね」
「……そう見えるか」
「うん。笑ってないけど嬉しそうに見える」
無表情で携帯電話と真剣に向かい合うシンを見て、ピクシーはそう感じた。シンもピクシーの言葉を否定することは無く、携帯電話と向き合い続ける。
文面をどのようにするか四苦八苦しつつ、シンがメンバー全員に返信し終えたのは、それから二時間後のことであった。
◇
ピンポーン、と来客を告げるチャイムが鳴る。その音で、シンはベッドの上で目を覚ました。メールの返信後、シンはそのまま眠ってしまっていた。上体を起こすと、シンの枕のすぐ横で、ピクシーが蝙蝠を抱き枕の様にして眠っている。
起こさない様に静かに下の階へと降りて行き、玄関を開けると、そこには紙袋を持った一誠が立っていた。
「よお」
「――どうした、何か用か?」
「これ、部長から」
一誠が紙袋を差し出す。寝起きで若干回転の悪い頭で、これは何なのかという答えを導き出すのに、十秒ほどの時間を要した。
「……ああ、替えの制服か」
「それにしても大変だったな。怪我は大丈夫か? 堕天使に襲われたんだろ?」
「まあ、何とか生還できたがな……お前も知っている相手だ」
「マジ?」
「あの黒スーツの堕天使だ」
げっ、という声を出して一誠は反射的に腹部に手を当てた。ドーナシークの顔を思い出して、ついでにそのとき受けた傷の痛みまで思い出したのかもしれない。
「でも勝ったんだろ? ……ありがとな」
「礼を言われるようなことはしていないぞ」
「俺が勝手に思っただけだけどさ、なんか代わりに一発返してくれたみたいな気がして……自分で言ってて変な感じだけど」
苦笑を浮かべる一誠にシンは内心首を傾げる。どことなくではあるが、一誠の表情に翳りを感じられた。
「ホント凄いよな……リアス部長の眷属悪魔じゃなくても俺に出来ないことが出来て……それに比べて――」
口の中で何か呟くがシンには聞き取れなかった。一誠はシンが凝視しているのに気付き誤魔化すように笑みを浮かべた。
「はっはっは! 何でもない! いつまでも怪我人引き止めてて悪かった! 俺はもう帰るよ。じゃあな!」
そのまま、シンに背を向け一誠は帰っていった。
去って行く一誠に何か言葉を掛けようするが、何を言えばいいか思いつかない。一誠が言い淀んだ話題にもっと踏み込んで聞くべきだったという思いもあったが、結局は無暗に相手の心に踏み込むべきではないという大人ぶった思考が勝り、ただ見送るしかなかった。
明日聞けばいい。
そういった考えが、いまのシンと一誠との関係を示すものであった。
◇
翌日、体調は完全に回復したので登校の準備をする。渡された新しい制服に袖を通すと、理由もないが気分が高揚してくる。
学園に着き、教室に入る。そこにはまだ一誠の姿が無かった。しばらく待ってみるが一向に姿を見せない。やがて担任の教師が教室へと入ってきてホームルームが始まった。
そのまま一限目が始まっても姿を見せず、二時限、三時限が終わっても来ない。四時限目が終わり、昼休憩の時間になるとシンは教室を出てある場所へと向かう。
「木場。ちょっといいか?」
「やあ、もう大丈夫みたいだね」
同じ階にある木場の教室。シンは確認の為に訪れた。
「少し聞きたいことがある。兵藤のことなんだが――」
「ああ。ちょっと場所を移そうか……」
昨日、一誠に会ったシンとしては今日休んだことに少々の疑問を持ち、自分の身に起こったことも考慮して木場に何か知っているか聞きに訪れたが、その判断はシンの杞憂ではなかったらしい。
誰が聞き耳を立てているか分からない為、わざわざ旧校舎の部室まで足を運ぶと、木場は昨日起こったことを手短に話し始めた。
昨晩、いつものように一誠が仕事で依頼者のもとに行くと、そこで『はぐれ悪魔祓い〈エクソシスト〉と遭遇。『はぐれ悪魔祓い』とは本人の危険性からヴァチカンから追放されたエクソシストが利害の一致から堕天使の加護を受けて、より凶悪性を増した存在だと木場は語る。昨晩会った『はぐれ悪魔祓い』はその典型例であったらしい。
「……何度も会いたいとは思わない神父だったよ」
木場はいつもの笑みが浮かべつつも、言葉と目に敵意を滲ませる。普段の木場を知っている者からしたら想像出来ない程の暗い感情。それは昨晩の『はぐれ悪魔祓い』にだけ向けられたものではなく、もっと別の何かに向けられたものに思えた。
木場とはそれなりの友好関係を築いてきたと思っていたシンであったが、まだ自分は一つの側面しか見ていなかったことを知る。
すぐに木場は何事も無かったかのように話の続きを喋り、シンも先程の変貌に何も言わず黙って聞く。
『はぐれ悪魔祓い』に傷を負わされた一誠であったが、すぐにリアスたちが魔法陣を使用し一誠を救助した。木場曰く、シンが堕天使に襲われた一件があった為、すぐに気付き救助が出来たという。そのとき受けた傷のことを考えリアスが一誠に休むように指示を出した為、今日は欠席となった。
話を聞き終え納得し、木場に礼を言うと教室へと戻る。木場の教室前で別れるとシンは自分の教室に向かう。
「――まだまだだな、俺も」
小さく呟いたのは、話の途中に見せた木場の知らなかった側面を思い出したからであった。疑問に思ったことを聞きにいったらまた新たな疑問を持つ結果となった。
あの場面で何故あれだけの敵意を露わにしたのか、理由を聞こうと思えば聞けた筈であるがシンは聞かなかった。
一歩踏み込むことを躊躇った理由はいくらでも思いつくが、その理由をずらずらと並べることこそ自分の未熟さだと実感する。
「……まだまだだ」
◇
旧校舎へと向かう途中に、校舎の外で使い魔の蝙蝠と戯れているピクシーを回収した。ドーナシークの一件からなるべく近くにいるようピクシーに言い聞かせていたが、一か所から動かずに居させるのは流石に酷だと思い、窓の外の見える範囲でピクシーと蝙蝠を遊ばせていた。おかげでシンは授業中、外で飛び回って遊んでいる姿から目を離すことが出来なかった。
ピクシーはいつもの様にシンの肩に乗り、蝙蝠の方はその習性からかシンの上着のポケットに入り込んだ。
シンが部室に入ると、既に一誠を除く全員が集まっていた。
「あら、もう体調は良いみたいね」
「はい。おかげさまで」
そう言いソファーへと座るシン。シンの前に朱乃が淹れた茶が置かれる。礼を言って一口飲む。
「そう言えば、まだあなたに言って無かったことがあるわね」
リアスがシンの居なかった間にあった出来事を語る。
リアスの話では昨日の夜、悪魔の大公からはぐれ悪魔の討伐依頼が届き、一誠も経験の為にリアスたちに同行したという。
はぐれ悪魔とは、稀に発生する爵位持ちの下僕の悪魔が何らかの理由で主を裏切り、逃亡あるいは主の殺害を起こして主無しとなった悪魔のことを指す。基本的に他者に対して害しか与えない為、三勢力からも危険視され、見つけたら即排除が基本のルールとなっているとリアスは説明する。
昨日、排除したバイサーというはぐれ悪魔も町外れの廃屋を住処とし、そこに人を誘い出しては食らっていたという。その話を聞いてシンは何故か既視感を覚える。はぐれ悪魔などという存在に出会った記憶はないにも関わらず。
そして、バイサーとの戦いで一誠はリアスたちの戦い方を目の当たりにしたらしい。本来ならシンも見物をさせ、実戦で悪魔の戦い方を説明したかったらしいが、シンの事情からそれが出来なかった為、この場で口頭での説明となった。
悪魔は三つ巴の大戦をした後、大きな変革があった。軍団などの戦力を持てなくなった悪魔は、代わりに少数精鋭の戦力を保持する形となった。そして悪魔たちはその精鋭たちに、以前から流行していたチェスの駒の名と特性を与えることで軍団の代わりに競わせるようになり、悪魔としての新しいステータスとしたらしい。
それを『悪魔の駒〈イーヴィル・ピース〉』と呼ぶ。
聞く相手によっては、不快感を覚える内容かもしれないと素直にシンは思った。文字通り悪魔の『手駒』になるという訳だから。
「案外悪魔も俗っぽい考え方をするんですね」
「否定はしないわ」
率直なシンの感想に、リアスは機嫌を害する様子も無く素直に肯定する。
「それで各駒の能力なんだけど――」
そのとき、部室の扉が突然開く。部室に居る全員の視線がそこに集まった。
立っていたのは今日休んでいた筈の一誠であった。だが、一誠のいつも纏う陽気な空気は無く、怒りや悲しみといった負の感情が混在したものを纏っていた。
「部長……」
一誠の口から出た声は泣き叫んだ後の様に枯れ。
「話があります」
その目は今まで見たことが無いほどの真剣さが込められていた。
シンは一誠のその姿に、次なる戦いの予兆を感じた。
あと二話ほどで原作一巻の話は終わりそうです。