ハイスクールD³   作:K/K

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焦炎、焦土

「筋はいいですが、少し淡々とし過ぎですね。教えられたことをきちんと熟すのは結構ですが」

 

 鼻先が触れそうな程の距離から、リアスの母ヴェネラナが注意する。

 

「……慣れていないもので」

「言い訳は結構。イッセーさんは貴方程上手くはありませんでしたが、貴方よりもダンスで感情を表現していましたよ?」

 

 グレイフィアに連れられてヴェネラナの元へ案内されると、そこからは休む暇も無くダンスのレッスンであった。

 教えられたことを人並以上に熟していたシンであったが、それでも内心では慣れよりも苦手意識の方が募っていく。

 理由としてダンスという今まで碌に縁が無かったものをするのは勿論であるが、それと同じくらいに苦手意識を強めさせているのはヴェネラナの存在であった。

 現在シンの片手はヴェネラナの手を握り、もう片方の手はヴェネラナの腰に回され、その状態で体を密着させている。もう少し距離をとりたいのだが、そうすると逆にヴェネラナの方から体を密着させてくるのでどうしようも無い。

 リアスの母親と言っても見た目の年齢はリアスと殆ど変わらない。容姿も良く似ており、違いと言えば亜麻色の髪ぐらいである。

 知っている顔とこうして至近距離で顔を合わせると心臓の鼓動が早まるといったことは無いが、何とも言えない居心地の悪さがあった。

 ヴェネラナが一歩踏み込む。そのタイミングに合わせて本来ならシンは一歩下がるのだが、反応が少し遅れてしまう。結果、ヴェネラナの豊かな胸がシンの胸部へと押し当てられる形となる。

 

(あいつだったら喜びそうだ……)

 

 一誠ならば全神経を当たっている箇所に集中させる様なシチュエーションでも、シンは、柔らかく、温かみを持った弾力に対して特に反応することなく、全く別のことを考えていた。

 

「シンさん。反応が遅れていますよ?」

「すみません」

 

 ヴェネラナが上目遣いで鋭い視線をこちらに向けてくる。更に密着しているせいか喋る毎にヴェネラナの吐息が首元にかかりこそばゆい。

 ヴェネラナがシンから体を少し離す。

 

「もう一度最初からいきます」

「はい」

 

 最初の状態へと戻ると、ヴェネラナから教わった通りのステップを一から始めていく。

 滞りなく動く足運び。基本に従ったリード。教えられた内容を無難に熟していく。

 

「少しお聞きしてもよろしいかしら?」

「はい?」

 

 ダンスの最中にヴェネラナが話し掛けてくる。教えられたことをきちんと覚えていることもあって、ダンスに乱れは生じない。

 

「あなたの目から見て、イッセー君とリアスはどう見えますか?」

「仲は良いと思います」

「それは主従としてですか? それとも――」

「男女の関係という意味ですか? そうなるとどうでしょうね」

 

 互いに好意を持っているのは傍から見ても良く分かる。人目の無い所ではリアスもかなり大胆に一誠を可愛がっているのも、時折鼻の下を伸ばしだらしない顔をした一誠からそういった話を聞かされているので知っている。興味無いのでほぼ聞き流している状態だが。

 しかし、ここで一つ問題がある。リアスの行為は一誠を異性として意識しているからこそしており、一誠の方は同じくリアスを異性として強く意識しているが、行為については主として下僕を可愛がっているという認識が強い。

 変な話ではあるが、リアスは一誠をその気にさせているつもりなのに、当の本人は主には手を出してはいけないという自制心を働かせているせいで、生殺しを味わっている状態なのである。

 

「やはりと言うか、そういうことですか……」

「どちらかが告白すれば即くっつくとは思いますが、そうなるまではまだ大分時間は掛かりそうです」

「イッセー君は少し鈍そうですし、リアスの方も奥手な所がありますからね。はぁ……」

 

 悩みながら艶めかしい吐息を吐く。

 

「……こちらからも質問しますが、何故俺にそんなことを聞いたのですか? 木場やギャスパーに聞いても良かったのでは?」

「あの子たちと違って、あなたはどこか一歩引いた雰囲気があったからでしょうか。だからこそ公平に見ていると思ったので」

「そういう風に見えましたか?」

「ええ。でもあなたがリアスたちと馴染めていないという訳ではありませんよ? 悲観的に捉えないで下さいね」

 

 一歩引く。そんなことは意識したつもりは無い。つまり無意識のうちにやっていたのだろう。理由があるとすれば、リアスたちに自分が魔人であることを隠している後ろめたさからくるものなのかもしれない、とシンは考える。

 その時、思考の方に意識を傾け過ぎたせいでシンの足がヴェネラナの足に当たってしまった。丁度踵で足を払う様な形になってしまい、ヴェネラナが背中から倒れていく。

 シンは反射的にヴェネラナを抱き寄せると、そのまま素早く体を入れ替え、シンが背中から倒れる形となった。

 背中から地面に転倒。抱きしめているヴェネラナの体重がのしかかってくるが、耐え切れない衝撃では無い。

 シンは呻き声一つ上げないまま、ヴェネラナの安否を尋ねた。

 

「すみません。大丈夫でしたか?」

「ええ。大丈夫です。身を呈してくれたこと礼を言います」

「奥方様。そろそろ時間の方が――」

 

 絶好とも最悪とも呼べるタイミングで現れたのはセタンタであった。扉を閉めていない状態でレッスンを受けていたせいもあって、ノックなどの事前確認など無いまま部屋へと入って来る。

 

「……」

「……」

 

 下から見上げるシンの目線と上から見下ろすセタンタの視線が合ったまま互いに沈黙してしまう。

 それも無理は無いことである。傍から見れば年若い男女が床に寝そべって抱き合っている。そんな姿を見れば誰でも黙ってしまう。

 この状況をどう説明するべきかとシンは考える。

 

「セタンタ。これはですね――」

「申し訳ありませんが、少しお待ちください」

 

 ヴェネラナが説明しようとするが、セタンタはそれをやんわりと止めた後――

 

「状況からダンスのレッスン中に間薙様が誤って足を引っ掛けてしまい、その際に転倒。奥方様の方から倒れそうになったのを間薙様が身を呈して庇ったと推測しますが、合っているでしょうか?」

 

――誤解されかねない状況で至って冷静に場を分析し、ましてや見ていたのかと思う程完璧に当ててしまう。

 

「はい。その通りです」

「そうですか。当たっていて良かったです」

 

 膝を突いてヴェネラナに手を伸ばす。ヴェネラナがその手を取ると丁寧な動作で立ち上がるのを手伝う。

 

「奥方様を守って頂きありがとうございます」

「いえ。元は俺が原因なので」

 

 続いてシンに手を差し伸べ、倒れていた彼を引き起こした。

 

「見苦しい姿を見せましたね。ところでセタンタ、一体何用ですか?」

「そろそろ私との特訓の時間が迫っていましたので間薙様をお迎えに参りました」

 

 ヴェネラナが部屋に置いてある時計を見た。

 

「もうこんな時間でしたか。手を煩わせましたね」

「いえ。とんでもありません」

 

 恭しく礼をするセタンタ。彼の一挙手一投足全てからヴェネラナに対する敬意が見て取れる程であった。

 

「では一旦ここまでです。セタンタとの特訓が終わった後にまた再開しましょう」

「はい。ありがとうございました」

 

 踊ること自体気の進む様なことでは無いが、少しでも早く覚えればその分早く解放されると前向きに考えることにした。

 ヴェネラナに頭を下げ、歩いていくセタンタの後をついていく。

 その途中――

 

「あなたが冷静な人で助かりました」

「先程のことですか? 買い被りです。私は奥方様と間薙様の人柄を知っているからこそあのように冷静でいられただけです。御二人があのようなこと、万が一にもありません」

「……もし万が一の場合だったらどうしました?」

 

 セタンタは歩くの止め、後ろを振り返る。そして、目を弧状の形に細める。相変わらずマフラーで表情が分かり難いが、笑っているようであった。

 

「私はどんなことがあろうとも奥方様の――いえ、グレモリー家の味方であるとだけ言っておきましょう」

(……下手したら消されていたかもしれないな)

 

 穏やかな口調とは裏腹に言外から滲み出る寒々しいものを敏感に感じ取りながら、自分の命が日頃の行いや振る舞い方で救われたのを実感するのであった。

 

 

 

 

 翌日。シンは日が昇ると同時に目を覚ます。

 枕の側でピクシーが体を丸めて眠っているので起こさない様に静かにベッドを降り、素早く且つ音も無く運動着に着替える。

 そのまま物音を立てずに部屋から出ようとする。

 

「グルル……」

 

 唸り声。見るとベッドの側で寝ていた筈のケルベロスが片目を開けてこちらを見ていた。なるべく音を立てない様にしていたが、常に命が狙われる危険性がある弱肉強食の森の中で生きてきたケルベロスにとっては、起きるには十分な騒音であったらしい。

 獣ゆえにいまいち感情が読み取り難い表情であるが、少なくとも起こされて不機嫌という訳では無いらしい。

 シンがケルベロスに視線を向けたまま扉に一歩近付くと、ケルベロスが組んでいた前脚から顎を離す。

 ついてくるつもりらしい。

 それを見たシンは手を横に振り、ついて来なくていいと声を出さずに指示をする。

 シンの動きを見て、それに込められた意味を理解したのか、ケルベロスは離していた顎を再び前脚の上に乗せ、目を閉じる。

 あっさりと引くケルベロス。本当についてくる気があったのか、あるいは形だけのものであったのか、付き合いがまだ浅いので判断することは難しいが、こちらの望む動きをしてくれたのは、とりあえずは有り難かった。

 いつもの動作を何十倍にも引き延ばしたゆっくりとした動きでノブに手を掛け、回し、引き、開けて扉を潜るとまた同じ動作で今度は閉める。

 扉の前の通路を、足音を立てない様に意識しながらやや動きの固い歩きで数十メートル進んだ後、もう音が届かないと判断しようやくいつもの歩き方へと戻った。

 シンが朝早く起きた理由は、先日一誠たちに預けたジャックフロストを迎えに行く為である。しかし、迎えに行くには少々というよりもかなり早い時間であった。

 玄関へと向かうシン。その途中でグレモリー家の使用人と何人かとすれ違う。朝早くというのに既に仕事に入っているらしく、隣を通る度に頭を下げられたのでシンもその度に軽く会釈をする。

何故彼は早朝から動いているのか。それにはきちんとした理由がある。昨日セタンタとの会話で、明日ジャックフロストを迎えに行くと言う話になったとき――

 

『場所は何処ですか? ――なら自力で迎えに行けますね。頑張って下さい。ああ、午後からは奥方様とレッスンの予定が入っていますので午前中までには戻ってきて下さい。くれぐれも遅刻をなさらないようにお願いします』

 

 これにより、シンは自らの足で一誠たちが修業場としている山へと向かう羽目になった。それも時間制限付きで。

 遅れたら一体どのようなことが起こるか想像が付かないが、少なくとも生死の境目に立たされる様なことをされるのは、これまでの付き合いで容易に予想出来た。

 玄関に付き、大きな扉を潜って外に出る。晴天とは程遠い紫色の空がシンを迎えてくれる。早朝の息を吸い込む。人の世界であれば湿り気を帯びた冷たい空気で肺が満たされていくだろうが、冥界の空気には冷たさも暑さも無く、適温という言葉が相応しい空気が入ってきた。

 何気無いことでも人の世界と冥界との差を感じてしまう。尤もこの空気も別に悪いものではないとは思っている。

 

「行くか……」

 

 手足を軽くほぐした後、独り呟き気持ちを切り替える。手や腕、背に浮かび上がる紋様。魔人としての力を出し惜しみしなければ、指定された時間までに戻って来られる。

 膝から下に力を瞬時に込め、片足の裏がしっかりと地面を踏み締める。ふっ、と軽く息を吐くと同時に込めた力を解き放ち、足で体を前に押し出す。

 零が一に至るまでの間に加速は最高に達し、風の様な俊敏さでグレモリー邸の広い庭を駆け出す。

 グレモリー邸が誇る煌びやかな庭園。その中でも最も目立つ色とりどりの花々。それらの輝きを維持する為に水やりや手入れを細やかにするメイドたち。

 

「きゃっ!」

 

 花壇に水を与えていた使用人のメイドがいきなり側を通り抜けていく突風に短い悲鳴を上げながらスカートの裾を抑える。また、吹き抜けていく風の後を追う様にして花びらが空へと舞い上がっていく。突然の出来事にメイドたちは目を丸くしながら走っていく影の背中を見詰めていた。

 外とグレモリー邸との境界として囲う高い壁。外と繋ぐ出入り口を守る軽鎧を纏った守衛の兵士たちは、朝早くというのに直立不動のままその職務を真っ当していた。

 

「ん?」

 

 出口に向かって走って来る人影。目を凝らしてみれば、主であるリアスが招いた客人であった。

 速度を緩めずに全速力で走ってくるのを見て、兵士たちは何事かとざわつく。

 自分の行動に困惑する兵士たちシンは敢えて無視し、出口まで残り二十メートルの距離にまで来ていた。

 

「外に何か御用ですか?」

 

 兵士が声を張り上げて要件を尋ねるが、シンは答えない。距離は更に縮む。

 

「外に御用があるなら少々お待ちください! 開門致しますので!」

 

 丁寧に言うがシンは速度を緩めない。出口まで残す距離あと十メートル。

 

「お待ちください! すぐに開けますので!」

 

 全速力で門に向かっているシンを見て、流石におかしいと思い兵士は声を強くし、制止させようとするが、それでも止まらない。

 残り五メートルを切った時、シンは地面を蹴り付ける。その衝撃は、石で舗装された地面にくっきりとした靴跡を残し、離れていた兵士たちの足元に伝わるものであった。

 加速の最高点で跳び上がったシンは、そのまま十数メートル程の高さまで跳び上がり、まるで地面の様に垂直の壁に着地する。そこは壁の三分の二程の高さ付近であった。

 このままでは重力に従い地面に落下するだろうが、シンは落ちる前に壁に着けた両爪先で体を上に押し上げる。

 その状態から数メートル跳び上がる。頂上が見えるとそこに片手を伸ばし縁に指先を掛けると、一気に体を引き上げて壁の頂上に降り立った。

 頂上に立ったシンは、跳び上がってきた方に視線を落とす。壁の下では兵士たちがポカンとした様子でシンの方を見ていた。

 翼を持って飛べる悪魔ならばわざわざこんなことをしているのを見れば、奇行か変人にしか思えないであろう。シンとて普通に門から出たかった。しかし、セタンタからの事前の指示で、グレモリー家内にいる使用人や兵士などの手を借りることは禁止されていたのだ。

 ジャックフロストを迎えに行くまでの行動全てを修行に充てたいつもりらしい。

 人間に対して変な偏見を持たれないか心配しつつも、時間の猶予が余りないシンは躊躇なく壁の外に向かって飛び降りた。

 壁の向こうに消え去ったシンを見届けた後、兵士たちはこの様な会話をしていた。

 

「あんな出方する人、セタンタ様以外にも居たんだなー」

「えっ! セタンタ様ってあんな風に出ていくのか?」

「あの人落ち着いている様に見えて、かなりせっかちだぞ? あの人が門を普通に出ていった所なんて、俺は殆ど見たこと無いな」

 

 

 

 

 グレモリー邸を出て大分日が高くなってきた。

 舗装されていない荒れた道や斜面をひたすら走り続けるのはかなりの体力を必要としたが、それでも速度を落とすことは無く、その甲斐あって予定していた時間通りに指示された場所へと辿り着いた。

 事前にセタンタから向こうの方から迎えに来るということが知らされている。一誠たちが定まった場所で特訓をしていない為の配慮でもあった。

 周囲を確認するが人影は無い。しばらく休憩がてらに待とうかと考え、手頃な石に座った。

そのとき――

 

があああああああああああああ!

 

 天に響き渡る咆哮。空気が震い、周囲の木々の葉がざわめき様に擦れ合う。

 思わず立ち上がり、警戒するシン。一体何の咆哮かと思ったとき、爆音と共に地面が揺れ、直後横から殴られたかの様な衝撃がシンを襲う。

 

「ぐっ」

 

 近くの木に叩き付けられ、声が洩れる。

 衝撃で吹き飛ばされたとき、シンは頬を炙られた様な感覚があった。それを証明する様に木が焼けるきな臭いが鼻を突き、周りに漂っていた空気は明らかに先程よりも熱を感じる。

 大規模な爆発。それが離れた場所で起こった。何が原因かは考えなくても分かる。爆発が起こる前に聞いた、あの咆哮の主が起こしたものに間違いないであろう。

 ならば何故そんな爆発が起こったのか。

 それを考えるよりも先に二度目の爆風が起きる。

 凭れ掛かる木に更に押し付けられる。木の葉が一斉に散り、細い木の枝はへし折れる。

 爆風が静まると同時にシンは木から離れ、走り始めていた。

 どういう理由かは分からない。何故こんなことになったのか考えても分からない。

 ただ一つ確信して言えることは、爆発の音や風の強さからさっきよりも近くで起こっていた。つまりこの爆発を起こしている人物は、自分を狙っている可能性があるかもしれない。

 考え過ぎであることを願いながら、なるべく目につかない様に木の生い茂っている場所を走る。

 三度目の爆発。茂る木々によって爆風の方は軽減されたが、耳の奥で金属を鳴らされた様な不快な耳鳴りが鳴り響く。

 どれほどの規模の爆発が起きているのか把握出来ないが、相手が狙いなどを正確に定めず、手当たり次第に爆発を起こしていると感じ、爆発の状況を確認することにした。

 太い根が地面に張り巡らされ、色々な高さに木の枝が伸びている道を、シンは全速力で駆け抜ける。

 左眼を絶え間なく動かし、溶ける様に伸びていく映像を余すところなく目に映していく。

 視界に一瞬足元に伸びる太い根を映すと、それを跳躍して避け、跳んだ位置に丁度伸びた木の枝を見つけるとそれを両手で掴み、振り子の様に体を揺らし勢いがあるまま飛ぶ。

 飛んだ先にある別の木の枝を足場にし、そこから高く跳び更に別の木に飛び移った。

 前に移動しながらも周りを見渡される様に木の頂上を目指す。木の下を延々と走っていても木々が邪魔で遠くを見渡せない。

 数本目の木に飛び移ると、細い枝や木の葉を手で払いのけながら木の頂点から顔を出した。この高さならば木々に遮られることなく周りの状況を確認出来る。

 首を動かし周りを見る。

 いくつもの箇所で黒煙が上がっており、その黒煙を中心にして周囲の木が根こそぎ吹き飛ばされており、森の中に巨大な穴が広がっていた。

 一体どうやればこの様な穴が発生するのか。その疑問に答えるかの様に、視界の中へそれは飛び込んできた。

 朱の尾を紫の空に描く紅蓮の輝き。最初隕石でも降って来たのかと思えた。だが違う。シンの左眼が視て、それが何か本能に囁く様に伝えて来る。

 隕石だと思ったそれは、極限にまで圧縮された炎の塊である。それが大気を焼き、一切減衰することなく地表へと落ちていく。

 地上に触れたかと思った瞬間閃光と爆発が起こり、目を灼く様な暴力的な光量に反射的に目を閉じ掛ける。

 膨大な熱量によって空気は一瞬にして熱せられ、それが着弾の衝撃で乗せられて広がっていく。着弾場所から周囲の木々が燃え広がっていく光景は、ある種圧巻とも言えた。

 距離にすればまだかなりあるというのに爆発によって生じた熱波を浴び、急速に皮膚が乾いていくのを感じ、手を目の前に翳す。

 熱波が通り過ぎた後にシンが見たものは、空に向かって昇る巨大な炎であった。まるで天と地を繋げる柱の如く太く、長い炎の柱。

 神話を再現した様な非現実的な光景を、ただ呆けた様に見詰めてしまう。

 風を叩き付ける轟音。断続して聞こえてきたその音にシンの意識は引き戻される。

 音の方角へと目を向けると、小さくではあるが何かが見え、こちらに向かってきているのが分かる。

 まだ遠くにいるため輪郭がぼやけて詳細が分からない。目を細め、相手の正体を見極めようとする。

 大きく広げられた翼。長い口吻からは炎が零れている。頭部からは捩じれた黄金の角が左右対称に生えている。赤紫色の鱗を鎧の様に纏ったその姿、見間違いでなければ思い付く正体は一つしかない。

 

(ドラゴン……)

 

 強襲してきたモノは十中八九ドラゴンで間違いない。それもドライグやアルビオンの様な魂だけの存在ではなく、アーシアの使い魔である幼生のドラゴンとも違う。実体を持ち、成長した完全なドラゴン。

 それが一体どういう理由で自分を狙っているのか。

 その時、突き抜ける様な感覚を覚えた。以前にも浴びたことのある殺気。だがそれだけではない、コカビエルの時やマタドールとの戦いでも味わったことの無い感覚。相手の存在を強く否定し、一片残すことなく滅ぼそうという冷たくも熱く、そして黒いイメージを与える意思。

 浮かび上がるのは憎悪という言葉。だが、どうしてそんなものを向けられるのか考えている暇はない。

 この感覚を覚えたということは相手に見られたということ。つまりは先程の炎が、より正確にシンを狙うということを意味している。

 口から零れていた火の粉が溢れんばかりの炎と化すのが遠目からでも分かった。

 足で逃げても間に合わないことを瞬時に悟ると、シンは右手に魔力剣を創り出し、足場にしていた木に向かって手加減なく放つ。

 足場の無い場所で放ったことによる反動と、木に衝突して跳ね返ってきた魔力波によってシンの体は弾丸の様に宙を飛ぶ。

 その直後、ドラゴンが炎のブレスを吐き出したのが見えた。狙う先にあるのはシンが先程までいた木。間一髪直撃を避けることが出来たが、まだ着弾時の余波がある。

 吹き飛ばされている状況の中、新たな魔力剣を生み出した。

 熱で空気が歪み、それが木々の破片や土煙を巻き込んで迫ってくるのが分かる。

 シンはその歪みに向かって全力で魔力剣を振るった。

 

 

 

 

 タンニーンは着弾場所へと向かって全速力で飛翔する。

 魔人の気配を感じ取り、炙り出す為に数発の炎を放った。目論見通り様子を確かめる為に木の頂上から姿を見せる者がいた。

 視界に捉えたと同時に炎を放っていた。その人物に目を向けられた途端、かつての感覚が冷気となって背中を走り、自分の中の逆鱗が激しく怒り狂う。

 怒りが度を超えれば逆に冷静になるという言葉があるが、今のタンニーンは激昂と沈静が交互に繰り返されていた。どうやって追い詰めるかと思考していたかと思えば、内から溢れる程湧き立つ怒りに身を任せ、この一帯諸共魔人を葬りたい衝動に駆られる。

 狙った相手は間違いなく魔人である。確認も詳細も必要無い。寧ろ知りたくも無く。己の中に記憶として宿っているだけでも忌々しい。魔人のことを考えている今も怒りで血が煮え立つ。

 もし魔人に対し知りたいことがあるとすれば、せいぜいその死に様ぐらいである。

 炎が消え、代わりに黒煙が立ち昇る着弾場所を旋回する。例え死体と化していようと目に映った瞬間に即灰とする為に。

 僅かに流れる風が徐々に黒煙を払っていき、覆い隠すそれを薄れさせていく。

 消え去るのも時間の問題と思った――次の瞬間、黒煙を突き破り、橙色の光線が幾筋になってタンニーンへ向かってきた。

 高く、広く昇っていた黒煙によってギリギリまで形を隠されていた為、回避が遅れてしまったが、翼で空気を打つ様に羽ばたかせると空中で滑る様に移動し強襲を何とか避ける。

 だがそれでも数十ある光線の内、十数を避けたに過ぎない。残りの光線が移動したタンニーンを追尾し、その軌道を大きく変化させる。

 まさか避けた先にまで追ってくるとは思わず、避けきれないと判断したタンニーンは、直撃する直前に羽ばたかせていた右翼を胸前に持ってきて、盾代わりにして光線を受けた。

 翼の皮膜に突き刺さる光線。しかし、ドラゴン、それも最上位に位置する元龍王の鱗や皮膜を突き破るには力が足りず、当たった直後に霧散して消えていった。

 多少の痛みを覚えたものの、傷へと至るほどのものではない相手からの攻撃に拍子抜けすると同時に、潰すならば今だと考える。

 前に翳してした翼を戻そうとしたとき、異変に気付く。

 手足の様に扱える筈の翼に全く力が入らない。力は込めている筈なのにまるで空気が抜けていく様に込めた感触が戻ってこなかった。

 感覚を切り離された様に麻痺した右翼。片翼だけではタンニーンの体を飛ばす程の力を発することは出来ず、必然的にタンニーンの巨体は地面に向かって落下した。

 

「おおおおおおおおお!」

 

 着地する直前体勢を戻し、四肢から地面に着く様にする。

 大地が震える落下の衝撃。それによって舞う土煙も黒煙で一気に拡散されてしまう。

 両掌、両膝を地面に突き、四つん這いの格好となって着地した。

 すぐに立ち上がらねばと思った時、地を踏み締める音が聞こえる。周りはタンニーンの吐いたブレスによって燃え盛る大地と化し、木々が燃える音や湿った土が急速に乾いていく音が絶えず聞こえている状況だというのに、その微かな音は鮮明に聞こえてきた。

 顔を上げた視線の先に立つのは、燃え落ちた木の枝を踏み締めながら歩いてくる一人のヒト。

 かつて見た魔人と何一つ違う。肉の体を持ち、人間と殆ど変わらない姿をしている。だが、その身から放たれる蛍光の魔力からは、隠し切れない魔人と同じ死を連想させる冷たく、恐ろしさすら感じる気配が放たれている。

 姿形など関係無い。かつて同胞を私欲によって虐殺した魔人の同類がいる。それだけで滅ぼす理由となる。

 タンニーンは立ち上がり咆哮を上げる。これこそが、元竜王と魔人との殺し合いを告げる開戦の音であった。

 

 

 

 

「ヒホ……?」

 

 一誠が目を覚ましてから暫く経った後、ジャックフロストも目を覚まし、その黒く円らな瞳を緩慢に擦る。

 

「起きたか、フロすけ」

「……その呼び方は止めて欲しいって言ったホー」

 

 一誠が時折呼ぶあだ名にジャックフロストは寝起きながらも流さずに文句を言う。理由は単純にジャックフロスト本人がカッコ悪いと思っているからだ。

 ジャックフロストはフラフラとした足取りで川の方へと向かい、両手で川の水を掬う。そしてそのまま顔を洗う――のではなく手の中で掬った水を冷やし、シャーベット状にした後それを顔に擦りつけて洗顔した。

 

「フー! さっぱりだホ!」

「お前の顔の洗い方って独特だなー」

 

 シンとは違い日常生活を共に送っていない一誠は、ジャックフロストの行動に心底珍しいといった感想を洩らしながら、タオルを手渡す。

 完全に目を覚ましたジャックフロストは、顔についていた氷をタオルで拭い終えた後、キョロキョロと周囲を見回す。

 

「タンニーンは何処に行ったんだホ?」

「おっさんなら間薙を迎えに行ったぞ。あの二人、まだ会ったことがなかったからな」

「そうなのかホ。今日も色々と話をしたかったホ」

 

 残念そうに肩を落とすジャックフロスト。昨日タンニーンたちの帰りが遅くなった理由も二人で話し込んでいたのが理由である。それでも今朝になって話し足りなさそうにしているのは、途中でジャックフロストが眠気に負け、話を打ち切る形で終わってしまった為である。

 一晩の間に随分と仲が良くなっていた二人。一誠も寝る前にタンニーンとジャックフロストが喋っている姿を見たが、祖父にじゃれつく孫の姿を連想させる。タンニーンに言えば、そこまで老けてはいないと憤慨しそうであるが。

 

「タンニーンのおっさんと話すのがそんなに楽しかったのか? 二人でどんな話をしてたんだ?」

「オイラの王様の話とかホ! タンニーンと王様が仲良くなったきっかけの話だったり、喧嘩したときの話だったり、二人で一緒に戦ったときの話とかホ!」

 

 話しているうちにその時の興奮が蘇ってきたのか、瞳を輝かせ、口調が段々と強くなっていく。

 

「それとそれと――あっ」

 

 ジャックフロストがこのとき『あの言葉』を思い出したのは、全くの偶然であった。どんな話をしたのかを思い返していたときに掘り返された、記憶の中に混じっていた断片。特に気にしていた訳でも無かったが、一誠という特異な立場にある人物と話していたという現状が、気になっていなかった筈の『あの言葉』をジャックフロストの口から引き出させる。

 

「そういえば……イッセーって『竜狩り』って知っているかホ?」

「へ?」

 

 タンニーンが何気なく洩らした言葉。同じドラゴンであるドライグを宿す一誠ならば、この言葉の意味を知っているのではないかと思い尋ねてみた。

 

「『竜狩り』……? 初めて聞くな、それ。ドライグは知っているか?」

『俺も初めて聞く。……だが、あまり良い響きでは無いな』

 

 ドライグの知識の中にジャックフロストの問いの答えを指すものは無かった。だが、ドライグ個人としては言葉そのものに嫌悪を覚える。

 

「何か物騒な感じがするけど、何処でそんな言葉を覚えてきたんだ?」

「昨日、タンニーンが言ってたホ」

「――ちょっと待て」

 

 二人の会話に酒盛りをしていた筈のアザゼルが割って入ってくる。手に持っていた杯を放る様にして置くと立ち上がり、一誠たちの下に寄ってきた。心なしかその言動に焦燥を感じる。

 

「もう一度言ってくれ。誰が何を言ったんだ?」

 

 寄って来たアザゼルはジャックフロストに顔を近付け、先程までの会話をもう一度言う様に促す。詳細を知りたいというよりも、出来れば間違っていて欲しいという印象を受ける。

 詰め寄られたジャックフロストは、アザゼルの威圧にたじろぎながらも言われた通りにする。

 

「ヒ、ヒホ。タンニーンが、『竜狩り』って――」

「それだぁ!」

「ヒホッ!」

 

 聞き終える前にアザゼルが大声を上げ、その声量にジャックフロストは勿論、一誠も飛び上がる様に驚く。

 

「そうだ! それだったんだ! あいつに聞きたかったことは! 何であの時思い出さなかったんだ!」

 

 両手で髪を掻き毟りながら、自分の犯した失態を悟る。

 

「情報は調べ切った筈だ! あいつとの関わりも無かった! じゃあ意図的に隠したのか! いやいやいや! そんなことをしてサーゼクスに何の得がある! 魔王にも分からない様に隠蔽していたというのか!」

 

 冥界で修行する際、万が一のことを考えて周辺にアレとの関わりが無いか事前に調査していた。タンニーンとアレとの繋がりは、アザゼルが調べた段階では見つからなかった。

 故にアザゼルは安心しきっていたのかもしれない。本人に直接聞くということを失念してしまっていた。

 

「マダ! 今すぐタンニーンを追うぞ!」

「あいよ」

 

 文句一つ言わずにマダはアザゼルに従う。それだけで今が切迫している状況だというのが分かった。

 

「おっさんのことを追うって……べ、別にタンニーンのおっさんと間薙が会ったからっていきなり何か起きる訳じゃ……」

「何も起きないかも知れないが、何かが起きるとしたら確実に殺し合いだ」

 

 アザゼルのその言葉に、一誠は二人が殺し合う姿を想像し、鉛でも呑み込んだ様な不快感に襲われる。知り合い同士が殺し合う。一誠からしてみればそれはありえないし、あってはならないことであった。

 

「お前らは俺たちが戻るまでここで待っていろ」

「俺も行きます! そんなこと聞かされてじっとなんかしてられないっす!」

「オイラもだホ!」

「ダメだ。来るな。万が一巻き添えを喰らったとき、俺らなら何とかなるがお前らだと――死ぬぞ?」

 

 アザゼルはそう忠告すると、一誠たちの反論も聞かずに黒翼を広げて飛び立っていく。マダの方も気付けば姿を消していた。

 残された二人は暫くの間黙っていたが、やがて一誠の方から口を開く。

 

「なあ、お前だったら間薙の場所が分かるんじゃないか?」

 

 シンと仲魔という繋がりを持つジャックフロストにそう尋ねる。

 

「ヒホ。はっきりとした場所は分からないホ。でも、何となくなら何処にいるかは分かるホ」

「そうか。それで十分だ。なあ、悪いけど――」

「分かってるホ! オイラもイッセーと一緒に行くホ!」

 

 申し訳なさそうに言う一誠を遮り、自ら同行することを宣言する。

 

「ありがとよ。ドライグ、悪いけど俺たちも行く」

『お前の選んだことだ。好きにすればいい。だが前以って言っておく。アザゼルがお前に言った警告は脅しではなく事実だ。仮に禁手が使えたとしても恐らくタンニーンには勝てない』

「別におっさんと戦うつもりはない」

『お前にそのつもりが無くても向こうはどうだかな……雪精の小僧が言っていた『竜狩り』という言葉が言葉通りのものだとしたら、まず間違いなくタンニーンと話し合いなどできんぞ』

「どういう意味だよ?」

 

 一誠の中でタンニーンは冷静な大人というイメージであった。話し合うことが出来ないというのが想像出来ない。

 

『あれは龍王の中でも責任感の強いドラゴンだった。その同胞を手に掛けたんだ、タンニーンの怒りは計り知れない。それこそ逆鱗に触れていてもおかしくはない』

「逆鱗……」

『相棒。お前は本当に怒り狂うドラゴンの恐ろしさをまだ知らない』

 

 

 

 

 咆哮を上げる名も知らぬドラゴン――タンニーンを見上げながら、シンは先程の光線を放ったことで穴だらけになり、襤褸屑と化した上着を破り棄てる。

 何らかの誤解が生じているのは分かっている。だが、目の前のタンニーンのこの姿を一目見ただけで話し合いの余地は無いことを悟った。話し合いに持ち込むとしたら、それこそ相手を動けなくしなければならない。

 空を自由に飛べなくしたことで一方的に攻撃されることは無くなった。リアスたち悪魔や天使、堕天使の様に飛ぶ為の羽をシンは持っていない。空から延々と攻撃を繰り返されるだけで手も足も出なくなってしまう。

 大気どころか大地すらも揺さぶる咆哮が終わると同時に、タンニーンが拳を振り下ろす。

 握った拳は人一人隠れてしまいそうな程大きく、それが巨体から想像出来ない程の速さで繰り出された。

 動きの大きさから事前に見抜いていたシンは後方へ大きく下がる。シンが下がってから数秒後に拳が大地を叩き割る。その威力に大小様々な石礫が上に向かって飛び上がり、地面に断層が出来る程の亀裂が生じた。

 タンニーンは狙いを外したと分かると突き立てていた拳を開き、地面を抉りながら上から下へ掬い上げる。その手の先にも勿論シンが立っていた。

 土砂を巻き上げながら迫るタンニーンの爪。更に後ろへと下がって回避しようとしたが、背後に木々が生えていることに気付き、仕方なく横へ移動する。

 空振りしたタンニーンの爪は文字通り木々を根こそぎにし、そのまま宙に向かって飛ばしてしまった。

 重機を用いなければ運べないであろう大木が軽々と宙を舞う。

 避けたシンを狙い、大振りの拳が追撃してくる。後ろには先程と同じく木々が生い茂っており、下がることが出来ない。

 シンは右手に魔力剣を創り出し、迫る拳に向かって魔力波を放つ。

 拳の軌道を逸らすつもりで放った魔力波であるが、あろうことかタンニーンの拳はそれを真っ向から突き破りながら迫って来る。純粋な腕力だけでシンの技を捻じ伏せようとしてきた。

 すかさず左手にもう一本の魔力剣を創り出し、振るう。二発目の魔力波によって拳は狙いを外し、シンの足元へと突き刺さった。

 全力の熱波剣を二発打ち込んで辛うじて狙いを外すことが出来たが、改めて相手との実力差を思い知らされることになった。

 もしかしたら自分が戦っているドラゴンはかなり上位の存在かもしれない。そんな考えが頭を過ぎる。

 追撃の拳も外されたタンニーン。すると、突如シンに向かって背を向ける。その行動に一瞬虚を突かれたシンであったが、すぐに相手が何を狙っているかに気付き、背中に悪寒が走る。

 ほぼ対人経験しかない故に反応が遅れてしまった。相手がドラゴンならばこの攻撃が来るのは必然とも言える。

 繰り出されるのは高速でしなる尾による広範囲攻撃。

 先端は瞬時に最高速に到達し、音を超え、空気を裂き、回避不能の域へと達する。

 中部から末端は先端に比べれば遅いかもしれないが、幅と厚みが人を軽々と覆い隠す程大きく、これもまた回避困難。

 そして、シンが居る位置は丁度タンニーンの尾の先端辺りが通過する位置であった。後方に下がっても尾の範囲から逃れられない悪い意味で絶妙な位置。ましてや、さっきの様に横に移動して回避出来るものでもない。

 掠るだけでも四散しそうな程の威力を秘めているのが、左眼から伝わってくる。と同時に、最早移動するだけの余裕も無いことも伝わってきた。

 どうするべきかと無意識に後ずさりした時、がくんとシンの体が沈む。この期に及んで足も捕られるという不運も重なってしまったというのか。

 だが、この時のシンの心情は真逆であった。思いもよらない幸運に気付き、沈む体を踏ん張って支えるのではなく、抵抗することなく受け入れる。

 直後、大気そのものが爆発したのではないかと錯覚するほどの音を響かせながら、ドラゴンの尾が振り抜かれる。

 シンはそれを眼前で見ていた。顔の前を強風と共に巨大な尾が通り過ぎていき、空気の爆ぜる音で耳鳴りがするが彼は無事であった。

 彼の体は地面に出来た穴の中に収まった状態であり、それによって地面から低い位置にいたことでタンニーンの尾から逃れられたのだ。

 最初の攻撃の時にタンニーンが木々を地面ごと抜き取ったことで出来た穴。そこに偶然逃げ込むことで間一髪回避することが出来た。

 タンニーンは反転した体勢であり、シンの姿を視界に収めるまで僅かではあるが間がある。偶然によって得られたこの好機を逃さない。

 穴の縁に手を掛けると同時に大きく息を吸い込む。一息で肺が限界まで膨らむ程の空気を吸うと、穴から出ると同時にそれを全て冷気に変換。今度は肺を限界まで絞りながら『氷の息』を吐き出す。

 シンから吐かれた『氷の息』は瞬く間に広がっていく。見上げる程あるタンニーンの巨体を包み込むことは出来なかったが、それでも膝から下が全く見えない程の靄に覆われ、シンの姿を隠す。

 元の体勢に戻ったタンニーンは足元に広がる冷気を見て、不愉快そうに口を歪めると片翼を広げ、扇ぐ。

 翼の一羽ばたきで突風が起こり、漂っていた冷気は吹き飛ばされて大気の中で霧散していく。

 視界を遮っていたものが無くなり、見失った相手を探す。

 さっきまで居た場所には当然居ない。首や目を動かし視界を広げ、鼻を効かせ嗅覚で辿り、鱗にまで神経を張り巡らせ僅かな気配ですら逃さず、見失った敵の位置を探ろうとした。何処に逃げ、身を隠していても、必ず見つける強い意志を持って。

 相手の位置はすぐに見つかった。だが、それはある意味で予想外の場所であった。

 タンニーンは動かしていた首を下に傾ける。狙うべき相手はすぐ側、自分の足元の前に居た。

 身を隠す訳でも逃げる訳でもなく、あの冷気の中でシンはタンニーンに急接近していた。

 シンの存在に気付き、行動を起こそうとするが、それよりも先にシンが動く。

 シンが拳を限界まで握り締めながら振り上げると、タンニーンの足先にある親指に向け、一切加減無しに拳を叩き込んだ。

 刀剣の様に鋭い爪が割れ、その下の肉を貫き、更に奥にある骨を砕く。指先という最も神経が集中している部位を、人間でいうならば金槌で叩き潰している様なもの。

 足元から脳天まで稲妻の様に駆け抜けていった激痛。

 

「があっ!」

 

 堪らずタンニーンの口から声が洩れる。が、すぐに痛みを超える怒りによってそれは呑み込まれた。

 呻く声はすぐに咆哮へと変わり、たった今指先を砕かれたばかりの足でシンを蹴り付ける。振りの無い膝から下だけの力で繰り出された蹴りであったが、シンにとっては十分必殺の域であった。

 胸部を貫かんばかりに迫るタンニーンの足爪。シンはその内最も長い爪が胸元を貫く前に両手で掴んだ。

 しかし、貫かれることは防げたが、タンニーンの巨体から出された蹴りまでは抑えることは出来ず、タンニーンの足先にしがみついたまま地上から十数メートルの高さまで持ち上げられた。

 タンニーンの足が上げられる限界の高さまでいき停止する。その反動で体が離れそうになるが、何とか持ち応えた。

 するとタンニーンは、片足を持ち上げたまま軸足を捻ると共に腰を回す。それは回し蹴りのときに行われる動作であった。

 足が今度は縦ではなく横に振るわれる。全身を使用しての蹴りの勢いは先程までの比では無く、空を切った瞬間シンの顔面に大気の壁が叩き付けられ、目を開けられず、呼吸も出来なくなる。

 それでも爪を立てる様にして離さなかったが、蹴りが最も威力を発揮する点に辿り着くと同時に、そのまま振り抜くのではなく急停止された。

 暴力の様な慣性がシンの体全体に圧し掛かる。加えてタンニーンの鱗には爪先すらかける箇所も無く、指先や腕だけでは限界であった。

 シンの手が引き剥がされ、空中を矢の如き勢いで疾走する。

 周りの光景全てが溶かされた絵の具の様に引き伸ばされていく。減速しようにも空中に掴まるものはなく、あるとすればそこらに生い茂っている木々だが、それもシンが飛ばされている位置から数メートル下にあり、手を伸ばすことが出来ない。

 数十メートルの距離をほぼ真っ直ぐに飛び、地面に向かって落下し始めたのは百メートル以上飛ばされた後である。

 この時になってようやく木に手が届く位置になり、シンはすれ違い様に木の先端を掴んだ。木の先端は一瞬しなった後、音を立てて折れる。止まることは出来なかったが、それでも減速させることは出来た。

 勢い失ったシンの体はそこから斜め下に向かって落ちていく。落下先に木を見つけると、その木の幹に腕を叩き付け無理矢理止まり、地面に降りる。

 シンは飛ばされてきた方向へすぐに振り返る。生い茂る木々によって視界が遮られている為、タンニーンの姿は見えない。

 しかし、次に何をしてくるのかは想像が出来る。先程まで近距離で戦っていたせいで自分を巻き込む危険があったせいで使わなかったのかもしれないが、今は十分過ぎる程の距離が確保出来ていた。

 その予想は的中していた。

 タンニーンは、シンが飛ばされていくと同時に大きく息を吸い込んでいた。その勢いは周囲の木々の木の葉を激しく揺さぶるほど。

 胸部が大きく膨らむ。取り込んだ大気に自身の魔力を合わせていく。

 そこに消えることの無い怒りを込め。そこに無惨に散っていった同胞の無念を込め。

 二度と同じ悲劇を繰り返さず、残る同胞たちをどんなことをしても守るという決意を込め。

 

「ガアアアアアアアアアッ!」

 

 タンニーンの口から全力のブレスが吐かれた。

 一方。タンニーンのブレスを警戒し、なるべく狙い定まらない様にジグザグに走っていたシン。

 

(ん?)

 

 遠く、木々の間から見える橙色の光に気付き、訝しむ。それが少なくとも右の視界の端から左の視界の端まで見える。

 そして、間もなくして、それが巨大な絶望であることに気付かされた。

 視界全てに映り込む橙色の光、全てが炎。

 シンが見た隕石を彷彿とさせる炎の塊とは違う。

 それは津波であった。それは怒涛であった。灼熱の波が全てを呑み込み、灰塵へと変えながら迫る。

 上にも横にも逃げ場が無い。逃れる時間も無い。絶対に相手を殺すという決意と殺意が混じり合った強い意志が感じ取れた。

 シンは深呼吸とも溜息ともとれる重く、長い息を吐き出す。そして、それを吐き終えるまでの間に決断した。

 地面に片膝を突きながらしゃがみ込み、左手を前に向かって突き出す。

 彼は炎から逃れるのではなく、この炎に耐えることを選択した。

 しゃがみ込んだのも出来るだけ炎が当たる面積を減らす為である。

 間もなく炎と接触する。どれだけ凌げるかなど分からない。フェニックスの炎を受け、ケルベロスの炎を逸らすことは出来たが、目の前の炎は明らかにそれらとは質量が違っていた。炎を使い始めて日が浅いシンには自殺行為に等しいものである。

 周りの空気が一気に熱を帯びていく。炎を見詰めていた目は渇き始め、口の中も乾いていくが、それが熱のせいか緊張のせいか分からない。

 額から汗が一筋流れる。だが、地面に落下するよりも先に汗は蒸発してしまっていた。

 シンは大きく息を吸い、そして呼吸を止める。これ以上空気が熱くなる前に吸っておかなければ肺や喉がやられてしまう。

 迫る炎の勢いは速い。だが圧倒的力を前にして待機しているシンには迫るまでの時間が長く感じられた。最初から耐えることを選択せずに逃げることに専念すれば逃れたのではないかと、僅かな後悔が頭の片隅で誘惑の様に囁いてくる。

 そんな自分にシンは逆に安心する。肉体は徐々に人から離れていっているが、恐くて逃げ出すという人間性は持ち合わせているらしい。

 炎が眼前へと迫る。生か死かの境目。耐え切らなければ死。例え耐え切れたとしてもまだタンニーンとの戦いが残っている。生死の天秤は死に傾いている。だが、結局のところこれに生き延びなければ先は無い。

 灼熱の死を前にし、無表情であったシンは口の端を僅かに歪める。それは理不尽な程の恐怖による諦観からの笑みか或いはそれ以外の感情からくるものか、その答えは彼にしか分からないものであった。

 その直後、大質量の炎がシンの体を呑み込む。

 五感全てを包み込む炎の抱擁。業火の地獄の中でシンは歯を食い縛りながら耐えていた。

 直撃する筈であった炎は、突き出された左手によって阻まれ後方へと流れていく。だが、燃え盛る左手の炎はドラゴンの炎によって蝕まれ続けており、また炎自体の圧力によって指は折れる寸前にまで曲がり、左手に絶えず激痛が起きていた。

 表皮が焼け、剥き出しとなった神経が炙られていく。なまじ左手に炎に対する抵抗があるせいで神経が焼き尽くされず、長い時間をかけて苦痛を生じさせていく。

 ごきり、という音が体内に響く。熱のせいで殆ど開けられない目を凝らすと、左小指が圧に負けて手の甲に背を付け、こちらに指の腹を見せている。折れた痛みは感じない。焼かれる痛みがそれを遥かに超えており、感覚が麻痺していた。

 再び音がして今度は薬指が折れる。このまま炎の威力に負け、左手で防ぎきれなくなるのも時間の問題であった。

 シンは即断し、右手を突き出す。

 右手からは左手の様に炎を出すことは出来ない。だが左手と同じ様に出来ることはある。

 突き出した右手が炎に触れる。その途端、灼熱の舌が右手の皮膚を舐め取っていく。

 奥歯を限界まで噛み締める。

 短く声が洩れる。両手から伝わる痛みで脳が白く焼けそうな気分であった。

 痛みという警鐘を抑え込みながら、シンは右手に意識を集中させる。すると右手を舐っていた炎が右手の中へと吸い込まれていく。

 実戦形式の練習ではまだ見せたことの無い、右手を使っての『吸魔』。魔力によって生じた炎ならば吸い取ることも不可能ではない。

 左手で炎を逸らし、押さえ切れない炎は右手によって吸い取る。

 一見すれば重厚な守りに見えるかもしれない。だが、タンニーンという竜王の肩書きを持つ実力者を前にすれば、シンの守りなど藁草の盾に等しいものであった。

 

「ぐっ」

 

 短い苦鳴が洩れる。その原因は炎を吸い取っていた右手の異変であった。

 皮膚を突き破り、内側から火が上がる。それも一カ所にではなく手から腕にかけて何カ所も。

 膨大な量の魔力を自分のものに変換出来ず、溢れた魔力が右腕から噴き出しているのだ。

事態はそれだけでは終わらない。

 取り込んだ膨大な熱はシンの体中を一気に駆け巡り、体温を一気に上昇させる。

 頭が割れてしまうかと思える程の頭痛。ぼやけ始めていく意識。炎を防いでいる両手が激しく震える。体温が異常であることは分かっているのに汗が全く流れない。

 あとどれくらいの時を耐えればこの灼熱の地獄は終わるのか。既に痛みすら感じ無い程に意識が曖昧になっている。

 

(このまま死ぬのか?……熱いな……熱い……熱……)

 

 身を守ることからも戦うことからも意識は離れ始め、シンは白昼夢を見るかの様な感覚で外の熱と内の熱に耐え続ける。

 

 

 

 

 ブレスを吐き終えたタンニーンは、目の前に広がる焦土を見る。

 炎を吐いた時間は数十秒。それだけで青々と生い茂っていた森は灰と炭だけの大地と化していた。

 タンニーンは、焼き払った大地を歩き始める。魔人の息の根が止まったかどうか確認する為に。本当なら飛んで行きたい所であったが、まだ翼の自由は戻っていなかった。

 魔人がいるであろう場所は、タンニーンの位置から約百メートル先。走らなくてもタンニーンの巨体ならば一分も掛からない。

 万が一逃げ延びている可能性も考慮し、周囲の僅かな変化も逃さない様に意識を張り巡らせながら、先へと進んでいく。

 それから間もなくしてタンニーンはあっさりと目的の人物を見つけた。

 焼け焦げた大地に座り、微動だにしていないシン。彼の背後だけは燃える前の状態が保たれており、何らかの方法で炎を防いでいたのが分かる。

 生きてはいるらしいが、だらりと垂れ下げられた両手は炎によって焼け爛れていた。特に左手は肘の辺りまで黒く炭化しており、使い物になる状態ではない。

 炎を防ぐことに尽力し精根尽き果てた姿。それがタンニーンの印象であったが、油断が生まれることは無い。逆に自分の炎を受けて生き延び、あまつさえ原型を留めているのを見て警戒を増す程であった。

 

(やはりこの手で確実に葬らなければならない!)

 

 巨岩の様な拳を強く握り締める。死に体だろうが関係無い。必要なのは確実なる死のみ。

 動かないシンに向け、拳を振り上げる。拳の影がかかろうともシンは動かない。

 タンニーンは、確実な止めを刺す為に全力で拳を振り下ろした。

 大地が震え、シンのいた場所を中心に亀裂が生じる。

 

「――何だと?」

 

 タンニーンから戸惑う声が出る。拳から伝わってきた手応えが想像していたものと違っていた。まるで固い杭を打ち込んだ様な抵抗のある感触。

 大地に打ち込まれる筈のタンニーンの拳は、地面に触れてはいなかった。

 拳の下、傷付いた両腕を交差し、額ごと押し当てて受け止めているシンによってそれが阻まれていた。

 タンニーンはそのまま拳に力を込めて潰そうとする。だが、それ以上先に進むことはなかった。それどころか、徐々に押し返され始めている。

 半死人とは思えない程の力にタンニーンは驚愕する。

 タンニーンは一つ思い違いをしていた。シンは決して瀕死の状態では無い。寧ろ今の彼の体内には、溢れんばかりの魔力によって満ちている。

 シンが炎の中でやった試み。それは決して失敗では無かった。確かに膨大な量の魔力を体内で変換しきれてはいなかったが、それはあくまで時間が足りなかったからである。炎を耐え切り、タンニーンと邂逅するまでの間に、シンは炎から得た魔力を自分のものへと変えていた。

 ただその莫大な量に飽和寸前となり思考が若干飛び掛かっていたので、タンニーンを前にして無防備を晒してしまっていたのだ。

 だがそれは、皮肉にもタンニーンが向けた強い殺意によって解消される。

 タンニーンの殺意がシンの意識を引き摺り出し、タンニーンの力が溢れる魔力の使い道を与える。

 巨大な拳の下で右腕と額を押し当てた状態でシンも自身の拳をつくる。折れて黒く焦げた手で無理矢理作り出した左の拳。タンニーンのそれと比べるとあまりにも小さい。だが、見る者がいればその拳に言い知れない恐れを抱くであろう。そんなものを抱かせる何かがその拳に込められていた。

 肘を曲げ、下から上に向けて振り上げると空を切る音よりも早くタンニーンの拳に叩き付ける。

 その衝撃でタンニーンの腕は跳ね上がり、その勢いでその場から数歩後退してしまう。

 タンニーンの拳から脱出したシンは緩慢な動きで首を軽く回す。受け止めたせいで額から流血し、顎にかけて二筋の血の道が出来ているが拭おうとはしなかった。

 

「……熱い」

 

 ぽつりと零した言葉と共に、口から火の粉も零れ落ちる。タンニーンの炎によってこの周辺の温度は上がっているが、シンの周囲では空気が揺らぎ、陽炎が出来ている。

 炎を吸収した影響で今のシンの体温は異常なまでに上昇。常人ならばまず生きてはいられない体温にまで達している。

 後退したタンニーンはすぐに体勢を戻し、シンを睨み付ける。シンもまたその殺意に満ちた目から逸らすことなく真っ向から受ける。

 竜と魔人。戦いは更にここから過熱する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 互いに意識を集中させる中、極々小さな音が鳴る。誰も気に留めない程の小さな音。その音の主であるシンですら気付かない非常に小さな音。音の源はシンの左手。先程の殴った衝撃で炭化している一部に亀裂が生じていた。だが亀裂の下から覗かせるのは肉でも骨でも血でも無い。淡く輝く蛍光。シンの右腕から放つのと同じ光であった。

 




パワーバランスをどうしようかあれこれと考えた結果、ご都合的な展開となってしまいました。
現在の主人公はメガテン4のドーピングがかかっている様な状態です。

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