ハイスクールD³   作:K/K

80 / 224
読み返して原作と矛盾している設定を見つけたので、最後にそれを補足するおまけという名の後付けを入れてみました。


継戦、勝敗(前編)

 四肢から力が抜け落ちていく。体の熱が消えていく。意識が黒く塗り潰されていく。聖なる気の一撃を受けた匙は今にも意識を手放してしまいそうであった。

 だが、ここで眠る訳にはいかない。ここで眼を閉じてしまったら、この戦いに二度と戻れなくなってしまう。

 匙は舌を歯で挟み、思い切り噛む。貫く様な痛みが脳内に響き、鉄の味が口内に広がる。二つの刺激で僅かではあるが暗かった意識に光が差す。

 ほんの少しだけ伸びた猶予。それを一秒たりとも無駄にしない為に、匙は行動に移る。

 アスカロンの斬撃を受けて機能しなくなった右手の『黒い龍脈』。龍の頭部を模した籠手の上顎を掴むと一気に広げた。

 上顎が真上に向かって開くと中には黒い宝玉が埋め込まれている。これが『黒い龍脈』の核であり、ヴリトラの魂の一部が封じ込まれている。

 匙はそれを籠手から外す。手の中で黒く輝く宝玉。一瞬、中が揺らいでいる様に見えた。

 『黒い龍脈』は、ヴリトラの力を基にして動いている。神器という道具を介しているからこそ、匙にも龍の力を使用することが出来る。同時に神器を介している為に、ヴリトラの力を一定に抑えられている。

 前にマダから『今以上に神器と心を通わせ、ヴリトラを味方にしろ』という助言を受けた。それに従いあれこれと心を通わせる方法を試してみたが、いまいち成果を感じられなかった。

 匙はある一つの方法を思い付く。

 仮に、神器を介せずにヴリトラの力を使用したのならば? 

 誰もその結果は分からない。ただ龍の魂に乗っ取られて暴走する。それだけならばまだいい。龍の魂を取り込んだせいで、龍でも無く悪魔でも無い怪物に成り下がる可能性があった。

 しかし、セタンタから受けた、『想いを絶やさない限り神器は自分の味方である』という言葉が匙の背を押す。

 魂と語らうなら、自分の魂も曝け出さなければならない。

 意を決し、匙は宝玉を己の口に運び、それを飲み下して自分の中へと入れる。

 匙は、この時知らなかったが、この行為の成否を分ける上で二つの重要なことが起こっていた。

 一つは、彼が日々自分の神器に行っていた様々なコミュニケーションである。全く反応が返って来ずに匙は失敗したと思っていたが、ほんの僅か、それこそ絹糸一本程度の繋がりが生まれていた。会話や意思の疎通が出来る程のものでは無かったが、確かに二人を結ぶ繋がりが出来ていたのだ。

 そして、もう一つはアスカロンによって『黒い龍脈』が斬られたことである。赤龍帝の力に影響を受け、龍殺しの力を更に増していたアスカロンの一撃は、強烈な刺激となってヴリトラの魂に影響を与え、所謂、気つけとなっていた。

 腹の奥に宝玉が落ちると同時に、匙の意識は何かに引き摺りこまれていった。

 日々の努力と偶然。どちらかが欠けていたら、この現象が起こることは無かったであろう。

 

 

 ◇

 

 

「う、あ?」

 

 目を開けると真っ暗な空間の中にいた。足場も天井も無い黒一色の空間。その中で自分が浮いていることに気付く。

 自分の身体を見てみると斬られた傷は無く、当然斬られた痛みも無い。今ある自分が意識だけの存在であることを認識する。そして、同時にここがヴリトラの魂の中であるとも認識した。

 

「おぉぉぉぉぉい!」

 

 暗闇の中呼び掛けてみる。声だけが反響し、闇の中に吸い込まれていった。

 

「いるんだろ! ヴリトラァァァァァ!」

 

 喉が裂けそうになる程の大声を出すが、やはり声は闇の中へ消えていくだけであった。

 

「ヴリトラァ! ヴリトラァァァァ! ヴ! リ! ト! ラァァァァァァァァ!」

 

 半ば自棄くそ気味にひたすら名を呼ぶ。ここまで来たのはいいが、ここから先何をすればいいのか正直思い付かなったのである。唯一思い付いたことが、ただひたすら名を叫ぶことであった。

 何十、何百と名を呼ぶ。手応えを感じなくても繰り返す。

 

「ヴリトラ……ヴリトラァァァ……うらぁぁぁぁぁぁ!」

 

 ――が、流石に変化が無さ過ぎたせいで遂に匙はキレ始める。心身共に余裕の無い状況もあったため、普段よりも気が短くなっていたせいもある。

 

「とっとと出てこい、この野郎ぉぉぉぉぉ! 姿見せろ! 返事しろ! 何でもいいからアクション起こせぇぇぇ!」

 

 ……相変わらず、騒々しい、奴だ……

 

 変化が起こった。途切れ途切れな上、掠れて聞き取りづらい声が聞こえたかと思えば、真っ暗な闇の中に二本の赤い線が奔り、それが開き眼と化す。

 目の前に広がる黒い闇、それこそがヴリトラだったのだ。

 

「お、お前がヴリトラなのか?」

 

 事前にヴリトラの姿について口頭で聞いていた匙は、てっきり東洋の龍の様な長く伸びた胴体を持つ姿を想像していた。だが、姿は無くともその威圧感は本物である。

 声が耳朶を震わす度に全身から汗が噴き出し、今すぐにでもこの場から逃げろと本能が警鐘を鳴らし続ける。生物としての格の違いをこれでもかと思い知らされている様な気分であった。

 

 期待に、沿えなくて、残念だが、この形の無い、姿こそ、今の、我の姿だ……

 

 匙が心の裡で思っていたことに応えられて驚くが、考えてみれば互いに魂で向き合っている状態である。思っている事が筒抜けなのも仕方の無いことであった。

 

「形や姿なんてこの際どうだっていい! あんたの力を俺に貸してくれ!」

 我の、力を借りて、何をする? 我が器よ

「勝つんだよ! ゼノヴィアさんに! そして兵藤にも!」

 

 一瞬の沈黙の後、空間内に笑い声が響く。

 

 く、くく、くく。聖剣使いと、赤龍帝に勝つと、ほざくか。無謀という言葉を知らぬ、愚か者だな

「笑うんじゃねぇよ! 俺は本気だ!」

 ああ、分かっている。本気、なのは。だからこそ、笑ってしまう。龍の魂の欠片、程度手にしたことで、勝てると思っている、その浅慮さに

 

 冷水でも浴びせる様なヴリトラの現実的な言葉。一縷の望みを懸けた存在から希望を断つ言葉が掛けられる。

 

「あんただって龍王と呼ばれたドラゴンだろ? そんな自虐的な……」

 自虐では、ない。事実を言っている、までだ。既に、聖剣使いならば、まあ、勝てるだろう。だが、ドライグたちは、禁手に、至っている。今のお前と、我の力を合わせても、禁手の力には――

「だからどうしたっていうんだよ!」

 

 赤龍帝の力がどんなものか計れない程、匙は鈍感ではない。このレーティングゲームまでの間に七十二の悪魔であるフェニックス、『神の子を見張る者』の幹部コカビエル、そして、二天龍の片割れである白龍皇ヴァーリを退けているのだ。匙が挑んだ所で一秒と持たず瞬殺されるだろう実力者たちである。無謀なのも無茶なのも分かっていた。分かっている上で今の選択をした。

 

 己の実力も、分からずに、天に向かって吼えるか。我も、運が無い。こんな、愚か者が、器だと、な

「吼えなきゃ見上げることすら出来ねぇだろうが。分部相応に地べたを見下ろしているのが賢い選択だって言うのかよ? ふざけんなっ!」

 

 負ける可能性が高かろうと、挑まなければ勝つことなど絶対に無い。

 

「五大龍王なんて呼ばれている癖にさっきから随分と御利口なことばっか言いやがって! それでも龍王なのか! ドラゴンなのか! 玉付いてんのかこの野郎!」

 

 闇が捩じれ、無数の束を作ったかと思えばそれらが黒い蛇の群れと化し、叫ぶ匙の身体に巻き付き、締め上げる。

 

「あぐ、ごあっ!」

 お前は、悪魔の癖に、随分要領と頭が、悪いようだ。ここは、我が魂の中、であろうことを、忘れたのか? お前如き、脆弱な魂など、喰らって、しまっても構わぬのだぞ?

 

 巻き付く黒い蛇が匙の眼前で鎌首をもたげ、黒い舌を挑発する様に震わす。

 

 今なら、許しを乞えば、見逃して、やっても良い。何千年もある、悪魔の生、たった一度の、意地でそれを落とすのは、浅はかというもの。せいぜい、次の機会にまで、力を蓄えておくのが、賢明だな。

 

 ヴリトラは匙に、長い目で物事を見ろと暗に言う。何も間違ってはいない正しい考え方である。匙もヴリトラの言っていることが分からない訳では無い。

 しかし――

 

「……ここで諦めるなんてしたら、俺はきっと一生後悔する! 何百年も! 何千年も! 会長の夢、俺の夢に後悔なんて残したくない! そして、赤龍帝に! 間薙にも負けたくないんだよ!」

 

 ほぼ同時期に『兵士』となり、その身に神滅具を宿した男、兵藤一誠。何処か自分と似た雰囲気を持つ一誠に、どうしても自分との差を意識してしまい、劣等感を覚えてしまう。更に、赤龍帝と同時期に悪魔の世界へと足を踏み入れた男、間薙シン。

 匙と性格が対極にある人物であり、その実力は匙を上回るし、生徒会に入って間もないというのにソーナからの信頼も厚い。本気の戦いはまだしたことが無いが、模擬戦だけで敵わないと悟ってしまう。

 自分と同年代にある者たちとの差。勿論その実力に敬意も持っているが、同時に消し去ることの出来ない嫉妬も覚えていた。

 だからこそ、このゲームに於いて匙は自らに別の目的を課した。それが赤龍帝に勝つこと。それこそが最もソーナに貢献することだと信じて。背中を見ていた者たちとようやく肩を並べられると信じて。

 

 俗な、理由だな。我が、器。愚か者を、通り越して、馬鹿者だ

「言ってろ。誰が何と言おうと、俺は俺のしたいことをするだけだ」

 今、この場で、喰われ、ようとしてもか?

 

 眼前の蛇が大口を開ける。

 

「喰われるくらいなら――」

 

 匙もまた大きく口を開き、蛇が噛み付く前に蛇の頭部に噛み付く。そのままあらん限りの力を顎に込め、蛇の頭部を噛み砕くと、そのまま咀嚼して呑み込んでしまった。

 

「俺がお前を喰ってやる!」

 

 ただ喰われるだけだと思うなと、知らしめる様に吼える匙。匙の行動に、闇に沈黙が訪れる。

 

 ……くっ

 

 闇が一瞬震える。

 

 ふは、ははは。それぐらい、馬鹿者ならば、まあ良いか

 

 先程よりも幾分か声が柔らかくなったかと思えば、匙を拘束していた蛇たちが消え、体が自由となる。

 

「えーと……これは?」

 

 急展開に追い付けない匙は戸惑ってしまう。

 

 少し、試させて、もらった。仮にも、我が力を以て、二天龍に挑もうと、するのだ。途中で、折れる様な者に、力など、貸したくは、ないからな

 

 今までの言動はヴリトラからの試練の様なものだったらしい。それを知った途端、急速に恥ずかしさが湧いてくる。勢いとはいえ少々、では済まない暴言を言ってしまった。

 

「えー、ヴリトラ、さん。何か色々と失礼なことを――」

 今さら、下手に出て、どうする。それに、今より、我とお前は、対等だ

「……ちなみに、もし俺を試してダメだったらどうなっていた?」

 宣言通り、お前の、魂を、喰っていた

「……」

 さっきまでの、威勢は、どうした? お前の言う、タマはついているのか?

 

 言い返され何も言えなくなってしまうと共に、龍でも軽口を言うのだと感心を抱いてしまう。

 

 無駄口は、ここまでだ。そろそろ、行くぞ。覚悟は、いいな?

 

 問う声に匙は躊躇無く頷く。

 

 では、行くぞ。――意識を、保たせろ

 

 周囲の闇が匙の身体に纏わってきたかと思えば、匙の体の中へ吸い込まれていく。

 

「ぐ、あああああああああああ!」

 

 体の中に今まで感じた事の無い力で満たされていく。

 身体の細胞が無理矢理覚醒されていく様な。

 閉じていた感覚がこじ開けられていく様な。

 奥底に仕舞われていたものが力尽くで引き摺り出されていく様な。

 確かに言えることがあるとすれば、確実に身に余る力であった。

 

 感情を、昂らせろ。我が魂と、同調しろ。呑まれるな、我が器……いや

 

 全ての闇が匙の体へと納まったとき、真っ白な空間の中で声が響く。

 

 我が分身よ

 

 

 ◇

 

 

 咆哮を上げる匙に、ゼノヴィアは瞠目する。明らかに普通の状態では無い。更にその身からは切り伏せる前よりも膨大な魔力が放たれていた。

 匙は唸り声を出しながら、床や天井、製品などに突き刺していたラインを引き抜き、今度はゼノヴィアによってつけられた傷にラインを潜り込ませる。

 かすかに呻く匙。数本のラインが血管の様に数度脈打つと傷口から引き抜かれ、匙が右腕を振るうと突き刺されていたラインの先から大量の血が吐き出され床を真っ赤に染めた、かと思いきや、その血痕も瞬く間に消え去ってしまった。

 ゼノヴィアが見ている前で聖剣によって出来た傷口に肉が盛り上がり、傷口を塞いでしまうとそこに皮膚が張り、傷跡一つ無い状態になる。十秒にも満たない早回しの様な再生であった。

 それを見たゼノヴィアは、匙が何をしたのかを理解する。傷口に挿したラインで血液ごと流し込まれた聖なる気を取り除いたのだ。理屈は簡単だが、実際にするには至難の業であり、それを目の前で行った匙にますます警戒を強める。

 ドラゴンを彷彿とさせる咆哮。膨大な魔力。超絶的な技術に異常なまでの再生。

 何が起こったのかと考えたい所だったが、相手がそんな猶予を与える筈も無かった。

 匙が右腕を振るう。籠手ではなく右腕から直接生えだしている無数のラインが、それぞれ独立した動きをしながらゼノヴィアを襲う。

 

「くっ!」

 

 初撃を移動することで回避したが、避け切れたのはほんの数本。ゼノヴィアの移動に合わせ、残りのラインが一斉に方向転換し追いかけてくる。

 接触寸前まで迫るラインに、ゼノヴィアはアスカロンを振るう。一振りによって複数のラインの先端が斬り飛ばされた。龍殺しの力によってどれも手応え無く斬れる。

 それでもラインの数は一向に減らない。このまま戦っても不利だと思い、場所を変えようと片足に力を込め、それを一気に解放し距離を取ろうとした。

 

(――何だと?)

 

 床を蹴り付けた瞬間、足裏がすぐに床に着いた感触があった。『騎士』の俊足ならば一回蹴るだけで十数メートルの距離を移動することが可能である。だというのに、今のゼノヴィアは一メートルも移動していない。

 何が起こったのかと視線を下ろす。そこで彼女は見た。自分の足に巻き付く黒いライン。斬り飛ばした筈のラインの先端が生物の様に独立して動き、ゼノヴィアの足から力を吸い取っていたのだ。

 不覚と心の中で自分の失態と油断を自責するが、前情報も無くこれに対処しろというのは酷なものである。しかし、勝負に於いて一瞬の油断も敗北に繋がる。この場合、彼女は運が悪かったのである。

 彼女は、今の匙がどこまで出来るのか知らない。

 動きを阻害されたゼノヴィアに匙のラインが襲い掛かる。腕や脚に巻き付き締め上げる。

 

「なんの!」

 

 完全に拘束される前に巻き付いたラインを切断しようとし、アスカロンを振り上げようとし――

 

「あ、ぐぅ……!」

 

 その腕が止まる。

 突如として起こる脱力感。手足から力が抜けていく。体を支える筈の足は体の重みで震え出し、持ち上げる筈の腕は、ただそれだけの動きだというのに、重力が蜘蛛糸の様に絡みついてぎこちない動きとなる。特にアスカロンを握るのは苦行に等しいものとなり、今にも指が剥がれ落ちそうになる。

 

(こんなにも、剣を、重いと感じるとは……!)

 

 初めて剣を握った時よりも更に重く感じる。自分が何も出来ない幼子になったかと思える程の非力さが体を支配していく。

 それでも意地でアスカロンを手放さないゼノヴィア。

 匙が右腕を後方に向けて振るう。ゼノヴィアの体は抵抗する間も無く引っ張られた。

 

「ガアアアアアアアアアアッ!」

 

 人外の叫びを発しながら、匙は左手で拳を作る。その途端、骨の折れる音が数回鳴り、握り締めた指が歪な形に変形する。あろうことか、強く拳を握り締めたせいで自らの指を砕いてしまったのだ。明らかに自分の力を制御出来ていない。

 尤も、ゼノヴィアにはそれを見る余裕も聞く余裕も無い。ただ、引き寄せられた先にある自分に向けられて放たれようとしている拳にしか意識を向けられなかった。

 アスカロンを横に構え盾代わりにする。

 ラインに引っ張られたゼノヴィアが最接近した瞬間、匙は床が陥没する程踏み込み、その勢いに乗じて左拳を放っていた。

 拳がアスカロンの腹に命中。斬らずとも龍殺しの力を帯びたそれに触れると、匙の拳は裂け、龍殺しの力により血が蒸気の様に霧状に噴き出す。しかし、匙は構わず殴り抜ける。

 ラインによって力を吸い取られているゼノヴィアの腕力では、匙の全力を受け切ることは出来ず、アスカロンごと胸部を強打された。

 体の中に響き渡る骨の音。数本砕けたのを感じながらゼノヴィアは殴り飛ばされた。

 そのまま十数メートルの距離飛んで行く――かと思いきや、再び絡みつくラインに引っ張られ、ゼノヴィアは空中で急停止する。

 

「がはっ!」

 

 無理矢理停止させられたことによる負荷がゼノヴィアの体に苦痛として襲い掛かる。特に胸骨が折れた状態でのそれは表現のしようの無い激痛であった。

 再度引き寄せられるゼノヴィア。この時、彼女は二撃目を耐えることが出来ないと悟っていた。防ごうにも体が自由に動かず、今出来ることはせいぜいアスカロンを落とさずにしているだけである。

 自分の体を壊す様に拳を握る匙。その姿を見てゼノヴィアは覚悟を決めた。

 再度床を力強く踏む込む匙。

 そのとき、何かが外れる音と共に匙が倒れ込んでしまった。

 匙が転倒してしまったことでゼノヴィアはそのまま匙の頭上を通過。そのままラインが外され床に投げ捨てられる。

 床の上を転がった後、ゼノヴィアは四肢を着いて体を起こす。急には立てずその場で何度が咳き込んだ。咳き込む度に胸部に痛みが生じる。

 痛みに耐えながら、何が起こったのか確認する為に匙の方を見る。匙は唸り声を上げながら既に立ち上がっていたが、体の重心が片方に傾いている。見れば、先程踏み込んだ足の膝から下が横に出っ張っている。膝を脱臼していたのだ。そこで初めてゼノヴィアは変型した匙の左手に気付き、戦慄する。

 

「自分の力をコントロール出来ていないのかっ!」

 

 それに応じる様に咆哮を上げる匙。完全に理性を失っている様にしか見えなかった。

 匙は左足を引き摺った状態でゼノヴィアへと駆け出す。体が片側に大きく傾ける走り方で俊足と呼べる程の速度を出す。

 剣を突き立て無理矢理体を起こすゼノヴィア。体の内側では高熱の様な痛みが発し続けられているが、それに悶える時間は無い。

 駆けながら匙は右腕を振るう。不規則な軌道を描きながらラインもまた宙を駆ける。

 迫るラインの動きを一本一本把握しながら、ゼノヴィアは最小且つ最速の動きを以て、最も接近したラインを斬る。そしてすかさず手首を返して剣の軌道を変え、続けて迫るラインに斬り下ろしの一撃。骨と筋肉から生み出した力を、柄を握る手、柄頭に当てた掌に伝導させ、上から来るラインをまとめて数本切断する。

 軌道の変化の際、一切の淀みも無い滑らかな斬撃の連続。瞬きの間に描かれた銀の軌跡は十を超える。ラインの接触を許さず全て薙ぎ払われていく。

 一見順調に見えているが、振るう度にゼノヴィアの神経を痛みが焼き続ける。それにより無意識に起こる体の硬直が剣の鋭さを徐々に鈍らせ、蓄積したそれがやがて致命的な隙を作り出してしまう。

 ラインを切断し次を斬ろうとしたとき、斬撃よりも早くラインがアスカロンの柄に巻き付く。ラインの動きが早まったのではない。ゼノヴィアの剣の振りが遅くなったのだ。

 匙がラインを引っ張る。抵抗しようとしたゼノヴィアの指は呆気なく剥がれ、アスカロンは遠くへと投げ捨てられる。

 無手となってしまったゼノヴィアに、匙は咆哮を上げながら飛び掛かる。

 だが、それを迎えるゼノヴィアの表情に絶望は無い。何故ならばこの展開こそゼノヴィアが望んでいたものだからだ。

 

「来い! デュランダル!」

 

 ゼノヴィアの声に応じ、柱に突き刺さっていたデュランダルは空間の歪みの中に消え、同じくしてゼノヴィアの手の中に新たな空間の歪みが生じる。そこに手を入れ引き抜くと同時にデュランダルを引き摺り出し、飛び掛かってくる匙を迎え撃つ。

 匙もデュランダルのことなど眼中に無いのか、あるいは認識出来ない程本能的に動いているのか、デュランダルの聖なる輝きに臆さず右腕を振り上げる。

 聖剣の一撃と黒龍の一撃。どちらに勝敗が上がるのか。それとも引き分けとなるのか。その結果は誰にも予想出来ない。

 やがて二人の間合いが交わり、その疑問に答えが出ようとしたとき――

 

「ほぐあっ!」

 

 振り上げた右拳を何故か自分の頬に叩き込み、そのまま近くのショップに頭から突入していった。

 

「……なぜ?」

 

 意味の分からない行動にゼノヴィアは呆然としてしまう。

 一方、ショップの中に突っ込んでいった匙はというと――

 

「……ん?」

 

 体に載った品物を落としながら顔を上げる。獣染みた咆哮しか出さなかった口からようやく理性を感じさせる声が発せられ、それに伴い、赤く輝いていた両眼が、今は片目しかその輝きを放っていない。

 何故自分がこんな所で横たわっているのか分からず暫しの間呆けていたが、頬と体を駆け抜けていく激痛で一気に覚醒する。

 

「い、いでぇぇぇぇ!」

 

 思わずその場で悶え転がるが、それが更なる痛みを呼び悶絶する。片頬がジンジンと痛み、左手と足がいつの間にか変型する程負傷していた。

 

「い、一体何が!」

 それは自分でやったことだ。我が分身

 

 頭の中でヴリトラの声が響く。途切れ途切れではなく、はっきりとした喋り方をしている。

 

「お、俺が?」

 呑まれるなと忠告した筈なのにあっさりと魔力に溺れてしまうとは……意気込みだけは一人前だが、実力は半人前以下だな

 

 辛辣な評価と共に溜息を吐かれた様な気がした。

 

「暴走してたのか……? 俺?」

 見事なまでに畜生と化していたな。成るならばせめてドラゴンらしい振る舞いをしてほしかった所だ

 

 揶揄われているのは分かった。しかし、猛烈な羞恥に襲われている匙は何も言えず、痛みとは違う悶えに苦しむ。

 ただでさえソーナの望まない様なことをしているのに、そこに更なる心配を重ねる様な真似をしてしまった。ソーナだけでなく観客も見ていると思うと、恥ずかしさで消えてしまいたくなる。

 

 扱い切れ無かった魔力でお前の体を修復している。怪我をしていて良かったな

 

 皮肉なのか本気で言っているのか分からないが、ヴリトラの言う通り激痛がだんだんと薄れていく。

 

「まだ戦えるよな、俺?」

 ここから先は我も助力しよう。扱い切れ無い分の魔力はこちらで制御する。お前は、全力であの聖剣使いの小娘を倒せ

「本当か?」

 久々の現世の空気だ。もう少し味わっておきたいのでな

 

 ラインが伸び、ショップ内にある魔力で構成された物へと突き刺さると魔力に分解し吸収する。

 体の中に大量の魔力が入り熱くなってくるが、頭の中にまでその熱は届かず、逆に冴えてくる気すらした。

 

 畜生の時間は終わりだ。ここから先は、黒龍の戦いをあの小娘に見せてやれ

 

 言い終えると同時に、体中にあった痛みが完全に消える。折れた指も、脱臼していた膝も元の形へと戻っていた。

 品物を押し退けてショップの外に出る。するとショップの前にはゼノヴィアが立っており、慌てて身構える。ゼノヴィアもまたデュランダルを構えるものの、その目は戦う相手を見る目では無く、心配する様な不安気な眼差しであった。

 

「……どうかしたのか? ゼノヴィアさん」

「どうやら打ち所が良かったようだな。正気に戻って安心した」

 

 敵対しているというのに、本気の安堵の息を吐かれた。

 ヴリトラの宝玉を呑み込んだ直後からショップに突っ込んでいる状態になるまでの間の記憶が飛んでいる匙には何故こんなに心配されているのか知る術が無い為、その間自分がどんなことをしでかしたのかと不安を覚えてしまう。

 

「いきなり吼えたり唸ったりした挙句、自分で自分を殴り飛ばした時には流石に驚いた」

「そんなことしてたの!? 俺!?」

 

 ヴリトラの言う通り、本当に畜生の様になっていたらしい。

 

「さて仕切り直しと――いこうかっ!」

 

 馴れ合うのはそこそこにして、ゼノヴィアはデュランダルを振り抜く。剣先から聖なる気を具現化した光の帯が、相手を惑わす様に不規則な軌道を描きながら舞う。

 触れれば即敗北に繋がるそれの動きを、瞬き一つすることなく目で追う。

 頭上まで移動してきた光の帯は突き立てる様に急降下してくる。

 横に跳び回避する匙。光の帯はそのまま床に突き立つ――ことはなく、跳ね返って横に逃げた匙の後を追って来た。

 

「うおっ!」

 

 慌てて身を屈めて避ける。背部に感じる聖なる気。その途端、全身に鳥肌が立ち理由も考えるよりも先に身を屈めたまま床を蹴り、転がっていく。先程まで匙が居た場所に光の帯の先端が下りてきた。

 転がりながらそれを見ていた匙。光の帯は匙に暇を与えることなく追い掛けてくる。

 

「このっ!」

 

 床を転がっている不安定な体勢から右腕のラインを伸ばす。複数のラインが光の帯に絡みつき締め上げる。

 ラインと光の帯を繋げ、このままデュランダルの力を吸収しようと考え、巻き付いていたラインから力を吸う。すると光の帯が溶ける様に薄まっていくが、同時にラインも崩れて消えていく。

 

「いいっ!」

 愚か者。今の我とお前の力では直接聖剣の、それもデュランダルの力を取り込められん。自滅するだけだ

 

 頭の中で叱咤するヴリトラの声が響く。ラインが消えたのはヴリトラの判断からであった。途中で消したことにより、デュランダルの力を取り込まずに済んだ。

 

 理性が飛んでいたときは本能的に避けていたが、取り戻した途端こうも下手を打つとはな

「分かった! 分かったよ! 悪かったな!」

 

 未熟さを指摘されながらも光の帯を一応だが避け切ってみせた匙。だが、そのせいで一時的とはいえ右腕の無数のラインが消えてしまっていた。その隙をゼノヴィアは容赦なく突いてくる。

 ラインを警戒し中距離から仕掛けていたゼノヴィアは、すぐさま近距離へと切り替え、デュランダルを振り上げながら匙との距離を一気に縮める。

 匙が反応したときには、既にゼノヴィアはデュランダルを振り払う体勢となっていた。

 

 左手を借りるぞ

「えっ? ――おい!」

 

 匙が了承する前に左手が勝手に動き出し、今まさに振るわれようとしているデュランダルの前に突き出される。

 斬られる、と匙が恐れで身を震わせるが、左手だけは別の物の様に微塵も動くことはなかった。

 振るわれた聖剣の軌道と、匙の左手が交差した直後――

 

「馬鹿な……」

 

 動揺した声がゼノヴィアから上げられる。

 

「マジかよ……」

 

 匙もまた似た様な声を出していた。

 デュランダルの刃が匙の左手によって止められていた。正確に書くならば、匙の左手の中で燃える黒い炎によって阻まれている。

 

 我が黒炎の結界は、たとえ聖剣であっても易々とは斬れん

 

 盾として使われている黒炎が、今度は矛として聖剣へと燃え広がろうとする。これ以上触れ続けることは不味いと判断し、ゼノヴィアは後方へ下がる。

 

「こんなことも出来るのか……!」

 

 ラインによる吸収だけでなく、新たに黒炎を生み出す力を使えたことに少し感動する。

 

 力を吸い取るなど我が力の一端に過ぎない。そして、この黒炎も然り

 

 本来ならば黒炎を操るのも、それを盾の様にして扱うのも、ヴリトラ由来の別の神器の能力である。封じられているヴリトラの魂から能力を引き出す目的に適した媒体、即ちそれがヴリトラの神器であった。しかし、今の匙は分割されたものとはいえヴリトラの魂、すなわち力を得ている状態にあった。神器ではなく自分の体を媒体にしたことにより直接ヴリトラの力を引き出せ、『黒い龍脈』以外の能力を扱うことが出来る様になった。

 だが、当然それにはデメリットも生じる。

 消えていた右腕のラインが突然伸び出し、近くにある床や商品に繋がり、それを魔力に変換し吸収し始める。

 

「どうしたんだよ? 突然――」

 こうやって魔力を吸収しなければ我が力どころか、我が意識すら保てん

 

 ヴリトラを覚醒させたことによるデメリット。それがこの魔力の燃費の悪さである。覚醒当初、周囲の物を吸収したのもこのせいであった。

 匙本人の魔力だけでは足りず、他で補うことで無理矢理力を行使しているのが現状である。そういった意味では今回のフィールドが選ばれたのは運が良い。もし周りに魔力を吸収出来るものが無ければ、三分も持たずに匙の魔力は枯渇し、指一本動かせない状態となっていただろう。

 重要且つ生命線に関わることをいきなり聞かされた匙は当然驚き、慌てる。

 

「ええっ! そうなのかよ! もっとこう、ドラゴン特有の魔力がたっぷりと蓄えられているとか――」

 ほんの数分前まで封じられていた我にそんな都合の良いものがあるわけなかろう

「さっきから何を独りブツブツと言っているんだ?」

 

 ヴリトラの声が聞こえないゼノヴィアには、匙が独り慌てふためきながら独り言を喋っている様にしか見えず、打ち所が良すぎたせいで頭のネジが外れてしまったのではないかと思い始めていた。

 そんな場違いなことを考えつつ、戦いの為の思考は次にどう攻めるかを必死に検討していた。

 変幻自在に動き、こちらの力を吸い、更に数もあるライン。デュランダルの一撃すらも防いでみせた得体の知れない黒い炎。奇行後から戦い難い厄介な相手へとなっていた。

 匙から意識を逸らさず視線だけを僅かに動かす。匙によって床に投げ捨てられたアスカロンを視界の端で捉える。

 距離にして五メートルも無い。『騎士』の速さを以てすれば瞬く間に取ることが出来る。

 アスカロンの龍殺しの力ならばあの黒い炎――恐らくヴリトラの力――も攻略出来るのではないかと考える。また、まだ試してはいないがアスカロンとデュランダル、二本の聖剣を同時に扱えばその相乗効果で、今まで以上の力を発することが可能であろう。

 匙に勝つ為にはアスカロンを手にする必要がある。

 

 ――などということを考えているのであろうな

 

 ヴリトラはこの後のゼノヴィアの動きを推測し、それを匙に伝える。

 

 聖剣二本と相手取るのも一興か

 

 頭の中にヴリトラの好戦的な感情が伝わり冷や汗が出てくる。ヴリトラには楽しいかもしれないが、匙からすれば自殺行為である。

 

(待て待て待て! 流石にそれは不味いだろ!)

 

 ゼノヴィアに動揺を悟られない為に匙は心の裡で叫ぶ。

 

 ……と完全に復活した我ならば真っ向から受けて立つ所なのだが、この不完全な状態ではそれは蛮勇か

 

 あっさりと自分の言ったことを撤回してしまう。相手への理解が浅い為か、いまいちヴリトラの考えが分からず、精神的な疲労を覚える。

 

 尤も完全でも少々手を焼くかもしれないがな

(だったら尚更止めないといけないだろうが!)

 落ち着け、我が分身。ここまで予想しておいて、我が何もしないとでも思っているのか?

「え?」

 

 意外な言葉に匙は思わず声を出してしまう。この瞬間、匙の意識は完全に内に居るヴリトラへと向けられた。

 自分への注意が外れたのを察したゼノヴィアが駆け出す。最速の動きでアスカロンに接近し、最小の動きでそれを取ろうとする。

 咄嗟にラインを伸ばしてそれを止めようとするが何故か伸びない。ヴリトラが止めているのを感じ非難する意思を飛ばすが、返ってきた答えは――

 

 もう既に決着はついた

 

 ――勝利の宣言。

 ゼノヴィアがアスカロンを掴み取った瞬間、ゼノヴィアの手が黒い炎に包まれ、そのまま腕、体と燃え広がっていく。

 

『なっ!』

 

 匙とゼノヴィアが揃って驚きの声を出す。

 

 その位置は我が炎の範囲内だ。火種を仕込ませてもらった

 

 黒い炎を何とかして消そうと払うが炎は消えずますます燃え移っていき、やがてゼノヴィアの全身を呑み込んでしまった。

 

「お、おい! やばいだろ! これ!」

 

 知人が容赦無く丸焼きにされていく光景に、流石に声を荒げてしまう。戦闘不能状態になればフィールド外へと転送されるが、炎の勢いを見てこのまま焼け死ぬのではないかと思ってしまった。

 

 慌てるな。我が黒炎は敵を焼き尽くす炎ではない。敵を奪い尽す炎だ。あの黒い炎は敵の力を糧にして燃え盛る

 

 ヴリトラの炎に焼かれた者は灰になることはない。しかし、一度その炎に焼かれれば、五体に流れる力は炎を燃え上がらせる薪として強制的にくべられ続け、一滴も一絞りも残さずに奪われる。

 黒い炎に焼かれたゼノヴィアの体が徐々に沈み始め、とうとう地面に伏せてしまう。

 

 じきに指一本動かすことも出来なくなる。あの小娘の戦いもここまでだ

 

 黒い炎に包まれたゼノヴィアが、今どんな表情をしているのか匙には見えない。だが、きっとあの炎の中で抗う為に、歯を食い縛り必死の形相を浮かべているのを幻視した。少し前の自分にも同じ様な表情が張り付いていたのだ。

 カツン、という硬い物を突いた音。倒れ伏せているゼノヴィアの両手の聖剣が床に突き立てられた音であった。

 二本の聖剣を支えにし、ゼノヴィアが体を起こそうとしていた。

 

 ほう……?

 

 とっくに体力が底を突いていてもおかしくないというのに、それでも尚立ち上がろうとするゼノヴィアに、ヴリトラは少し感心した声を出した。

 

 まだ立とうとするか。大したものだ。だが――

 

 燃え上がる黒炎から無数の炎が伸び、それが床に突き刺さると今度は縮み、立ち上がろうとするゼノヴィアを地面に引き倒す。更にそこから炎が複数伸び床へと刺さる。まるで鎖の様にゼノヴィアを床に縛り付けてしまった。

 

「凄ぇ……」

 

 黒炎を浴びせられても抗おうとするゼノヴィアの執念と、それを上回る力を見せつけたヴリトラに対し、思っていたことが自然と口に出てしまった。

 しばらくの間黒炎の中でもがくゼノヴィアであったが、その動きも止まる。

 

「すまない……皆」

 

 そんな声が聞こえた直後、ゼノヴィアの姿が消える。

 

『リアス・グレモリー様の『騎士』一名、リタイヤ』

 

 アナウンスが聞こえ、ようやく一つの戦いが終わったことを実感したが、勝ったという高揚感を覚えることは無かった。所詮はヴリトラの力を借りての勝利である。そこに自分の実力がどれ程含まれているのか。更に言えばヴリトラが居なければ、ゼノヴィアの最初の一撃でリタイヤしていた筈である。

 

 その力を呼び出したのは紛れも無くお前自身だがな

「……何だよ。慰めてくれるのか?」

 

 ネガティブなことを考える匙にヴリトラが声を掛けた。

 

 こんな所で立ち止まっていては困るからな。――赤龍帝に勝つのが目的なのだろう?

 

 赤龍帝――兵藤一誠に勝つ。その言葉に体の中に熱が駆け巡る。

 

「そうだな。こんな所で突っ立って暇なんて無いよな」

 その通りだ。――ドライグの力を感じる。奴らは向こうに居るぞ

 

 ヴリトラの示した方向へ匙は全速力で駆け出した。

 

 

 

 

 

 Extra Story 黒龍と予言者

 

 

 匙元士郎にとって一つ忘れられない記憶がある。

 それは、彼がまだ小学生の頃の出来事であった。

 父と母、小学生の妹と母に抱かれる生まれたばかりの弟を連れ、近くのスーパーに買い物をして帰路に着いたときにそれは起こった。

 その時の匙は、妹と追いかけっこをしながら遊んでいた。父や母が転ぶから危ないと注意をしていたが、構うことなく笑いながら走り続ける。

 

「あはははは、あう!」

 

 前方に何かがあったらしく後ろを振り返っていた匙はそれに気付かず当たって尻餅をついてしまう。

 前を向くとそこには十代後半ぐらいの少年が匙を見下ろしていた。その目を見た瞬間、匙は震えた。その眼光は幼い匙から見ても普通のものではなく、野犬の様な獰猛さを秘めた目をしていた。

 それに気付かない両親は、すみませんと言いながら匙に近寄り起こす。そして、匙にも謝る様に促す。

 しかし、匙は口を閉じたままであった。目の前の少年が怖く口が動かないのだ。

 

「別にいい」

 

 初めて少年が口を開く。言葉に何故か喜色が混じっている様に聞こえた。

 少年は何気ない動作でズボンのポケットに手を伸ばす。そして、そこから掌の中に収まる楕円形状の物を取り出した。全員が見ている前でそれに指先を伸ばし、折り畳んでいたものを取り出す。

 現れる銀色に輝く刃。折り畳み式のナイフを気軽な動作で匙たちに突き付けた。

 

「代わりに俺にあんた達の財布くれない?」

 

 いきなりのことに匙たちは唖然とする。平和であった日常に起こる突然の凶行に言葉を失ってしまう。

 

「早くしてくれるか?」

 

 急かす様に少年はナイフを軽く振る。

 今起こっている現実に思考が追い付いたのか、匙の母が思わず悲鳴を上がようとした。

 

「うるさい」

 

 だが、まるで最初から分かっていた様に少年の手が匙の母の口に伸び、それを押さえてしまう。

 妻へのこの行為に固まっていた父は怒鳴りながら少年を押さえようとするが、それをあっさりと躱し、それどころか足を引っ掛けて転倒させる。

 

「邪魔だな……死ぬか?」

 

 匙に突き付けていたナイフを今度は父の方に向け、匙の母を押さえたまま近付いていく。

 両親が危ない。そう思ったとき、匙は叫んでいた。

 

「や、やめろぉぉぉ! 父さんに近付くな! 母さんを離せ!」

「元兄!」

 

 手を滅茶苦茶に振り回しながら少年へ突撃していくが、少年は迫って匙を躊躇なく蹴り飛ばした。

 

「うわっ!」

 

 地面に倒れ伏せる匙。だが、これにより少年の対象が両親から匙へと移る。

 少年は匙に近付くと、髪を掴んで顔を無理矢理上げさせた。

 

「父さんと、母さんに、近付くな!」

「へえ……」

 

 匙の顔を興味深そうに眺める少年。

 すると少年は顔を歪めて笑う。匙は人生で初めて狂気というものに触れた気がした。

 

「人間、一皮剥ければ血と肉の塊に成り下がる――かと思ったら、意外と中に面白いもんが入っているらしいな。くくくく」

 

 少年は匙の髪から手を放すと、もう興味は無いといった態度でさっさと立ち去ろうとする。

 だが、途中で足を止め、匙の両親に視線を向けた。

 

「あんたら、車には気をつけた方がいいな。可愛い家族を苦しめたくなかったら、な」

 

 意味の分からない言葉を残し、少年は笑いながら去っていった。

 

 この日から数か月後、匙の両親は交通事故に遭う。父は死に、母も日常生活は送れるものの働くのは無理な体になってしまった。

 匙は悪魔に転生してから時折あの日の出来事を思い返す。

 あの少年は未来を予知していたのではないか、と。

 




長くなったので分割しました。
今月中にもう一話投稿します。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。